食 堂 閑 話

−研究室だより・2000年秋−

 数年前のことになる。早稲田大学の診療所の一室。「真っ白ですね」と女医さんは超音波診断用器機の モニター画面を見ながら言った。「普通は肝臓内部の血管が見えるものなんです。でも、肝臓の周囲 に付いた脂肪でそれが見えません。」「肝脂肪ですか。いよいよ本格的にダイエットに取り組まなく てはならない段階に来たということですね」と私が問うと、女医さんは冷静な口調でこう答えた。 「いいえ、かなり前からそういう段階に入っています。」−というわけで、以来、食欲の秋が めぐってきても、あれも食べたいこれも食べたいというわけにはいかなくなったのであるが、 今回は、せめて食べ物の話(より正確には食べ物屋の話)でもしてみようと思う。

 早稲田大学の周辺には食堂が多い。喫茶店と雀荘は私が大学生だった頃と比べてずいぶんと 減ってしまったが、食堂は減っていない(もちろん新旧の交代はある)。しかし、食堂の数は多くても、 私が行く食堂、そしてそこで注文するものは限られている。

 @「ごんべえ」の釜揚げうどん、忍者うどん(油揚げ、揚げ玉、ゆで卵が入っている)、 カツ丼(うどんが付いてくる)。文学部のキャンパスから一番近い店(徒歩10秒)ということ もあって、一番よく利用する(今日も釜揚げうどんを食べた)。歩道に沿った半地下のガラス張り の店のため、食事をしているところを歩行者から見下ろされるのが難点で、私は必ず入口に 背を向けて座ることにしている。しかし、常連客の中には、うどんを食べながら歩道の女子学生を 見上げるのが好きな人もいるようだ。

 A「高橋」の刺身定食、焼き魚定食、生姜焼き定食。昔、文学部の門の正面に「まんぷく食堂」というの があり、そこで板前をしていた方が、「まんぷく食堂」の閉店を機に独立開業した店。そういう つながりで、文学部で開かれるお昼時や夕方からの会議にはたいていここから弁当を取る。 二段のお重(ご飯とおかず)で、おかずは懐石風に少しずついろいろな具が入っていて、 楽しく、美味しい弁当なのだが、最近、私は第二文学部の学生担当教務主任という役職に就いた ために、この弁当を食べる機会が急増し、いささか食傷気味になっている(なにしろ昼の会議と 夜の会議で1日に2度同じ弁当を食べることも珍しくないのだ)。

 B「メルシー」のチャーシューメン、チャーハン。学生の頃から通い続けている店で、雑誌のラーメン 特集にもよく取り上げられている。店主は二代目になったが、独特のスープの味は変わらない。 このスープをチャーハンにかけてリゾット風にして食べると非常に美味しい。ただし、これを やる場合は、店の人や他のお客(ほとんど学生)に気づかれないようにしなければならない。

 C「高田牧舎」の牡蠣フライ、ハヤシライス、ロースカツサンド。本部キャンパス南門の正面に あるレストラン。小綺麗な作りの店で、ちょと高そうに見えるためか(実際はそうでもない)、 学生客は少なく、落ち着いて食事ができる。ところが、私が教えている社会学専修の学生がここで ウェイトレスのアルバイトをしており、「大久保先生は牡蠣フライに、タルタルソースではなく、  ウースターソースをかけて食べる」「大久保先生はナイフを使わずフォークだけで食事をする」と いった噂(前者は事実で、後者は嘘)が学生の間に広まったりするので、油断はできない。

 D「すず金」の鰻重。昼頃、地下鉄早稲田駅の階段を上がって外に出ると、鰻を焼くいい匂いがする。 通常、昼飯代は500円から1000円の間というのが私の内なる規範なのであるが、たまにその禁を 破って「すず金」の暖簾をくぐる。カウンターの向こうで鰻を焼く店主は、もの静かな サラリーマンといった感じの人であるが、土用の丑の日はろくな鰻が手に入らないからと、 本日休業の札を出す一徹な人でもある。

 ・・・・まあ、こんなところである。哲学者のウィリアム・ジェイムズは「人間は習慣の束」であると言った。 至言である。昼食ひとつをとってみても、私はたくさんある食堂の、それぞれにたくさんあるメニュー の中から、特定の食堂の特定の品ばかりを注文して、毎日を送っているのである。人生には無限の 可能性があるが、可能性の大部分は可能性のままで終わるのであろう。

 私は昼食はたいてい一人で食べる。昼休みの混雑する時間を外して、少し遅めの昼食をとることが多いので、 余計そういうことになる。よく「食事は一人で食べるより、みんなでわいわいやりながら食べた方が 美味しい」というが、俗説である(楽しくはあると思うが)。一人で黙々と食べた方が料理の味は よくわかると思う。

 女性には一人で食堂に入れない人が多い。「食堂で一人で食事をする淋しい女」という目で見られたくない のであろう。とくに牛丼の吉野屋のようなカウンター形式の、外から店内が丸見えというような店が ダメのようである。不自由なことだ。

 しかし、私にも一人では入れない店がある。甘味処である。私は甘党で、お汁粉、あんみつ、 クリームソーダの類が大好きなのであるが、ここには男一人では入りにくい。男同士でも入りにくい。 やはり女性か子供が一緒でないといけない。自分は本当はこんなところには来たくはなかったのだが、 連れがどうしても来たいというので、しかたなく来たのだ−そういう顔をして入っていきたい。 できれば連れは竹久夢二の絵のモデルのようなタイプの女性がいい。京都の言葉を話す人で あれば一層いい。・・・・と妄想ははてしなく続く。

 「すず金」の鰻重には「上」と「並」との区別がある。前者は1500円で後者は1200円である。 私はいつも「上」を注文する。鰻重というのは私の感覚では「ご馳走」の部類に属している。 贅沢な昼食なのだ。だからこそ、ここは「上」でなくてはならない。「今日は鰻重だ」という 昂揚した気分に水をさしてはいけない。とにかく「上」と「並」がある場合は、迷わず「上」を 注文する−これ、私の人生哲学である。

 問題は「上」の上にさらに「特上」というものが存在する場合である。ここで迷わず「特上」 を注文することができれば、私も相当の男なのだが、悲しいかな、一瞬考えてしまう。そして意を 決して「特上!」と注文するときに、かすかに声がうわづってしまったりする。「上」のときには ない緊張感が店内を走る(ような気がする)。店員や客たちが一斉にこちらを見る(ような気がする)。 しかし「特上」という言葉にはどこか下品な感じがしないでもない。成金趣味というか、 「そこまでしなくても・・・・」という雰囲気が漂っている。というわけで、私は「上」をもって よしとすることにしている。

 私は食事中に水を飲む習慣がある。誰でもカレーライスなどを食べるときはそうであろうが、 私の場合は、何を食べる場合もそうなのである。そうしないと胸焼けがするのだ。以前、胃の レントゲンをとったときに胃の一部が食道の方に入っている(一種のヘルニア)と指摘された ことがあるが、そのせいかもしれない。

 食堂に入ってテーブルに着くと、お茶やお冷やが出されるが、その一杯だけでは不足で、食事中、 何度かお代わりをすることになる。しかし、混んでくると、店員は注文取りやあとかたづけに 忙しく、お冷やのお代わりで声をかけることがはばかられる。そうなると、砂漠で残り少なく なった水筒の水を飲むように、ペース配分を考えて、ちびちびと飲まざるをえなくなる。非常に切ない。

 私にとって一番ありがたいのは、テーブルの上に水差しが置いてあって、自分で勝手に水を注げる という状況だ。「ごんべえ」はこの方式だ。どの店もこの方式を採用してほしい。店の一角に冷水器 が置いてあって「どうぞご自由にお飲み下さい」という貼り紙がしてある店もあるが、ああいう 駅の立ち食い蕎麦のやり方を普通の食堂が真似てはいけない。食事中に席を立つのは行儀が悪い (だから私は「バイキング」というのが嫌いで、「立食パーティー」はもっと嫌いだ)。

 私は食事のスピードが速い。一人で食べているときは気がつかないが、たまに人と一緒に食事を するとそれが明らかになる。自分は普通のペースで食べているつもりなのだが、たいてい相手の 2倍から3倍のスピードで食べている。したがって私が食べ終わってから相手が食べ終わるまでの 時間がけっこう長い。「はやくしろよ」とプレッシャーをかけているようで申し訳ない。 「どうぞごゆっくり」と言ってはみるものの、それがますますプレッシャーを与える結果になってしまう。

 食事のスピードが速いということは、@一回に口に入れる量が多い、A噛む回数が少ない、B食事中にしゃべらない等のことを意味するのだろう。昔から「早飯、早糞は武士のたしなみ」 というが、食事というのは「うまい、うまい」と一心不乱に食べるのが本当なのではない だろうか。飼い猫が餌を食べる様子を見ていると、そう思えてくる。

 私の息子(小学校6年生)は私とは反対に食事のスピードが非常に遅い。@好き嫌いが多く、 嫌いな食べ物になかなか箸がいかない(しかし残してはいけないと親から言われている)、 A猫舌で汁物がすぐには飲めない、Bテレビを見ながら食べている等の理由による。 そのくせ好物(餃子、鶏の唐揚げ、焼売など)が一緒盛りの皿で出されて「早い者勝ち!」 というようなときは、鬼のような勢いで食べる。わが子ながら情けない。もう一つ、息子の食事に 関して問題な(と私が感じる)ことは、先におかずを食べてしまって、後からご飯をふりかけで 食べることだ。聞くところによると、こういう子どもが増えているらしい。一体、何なので あろう。割烹料理屋なんかでは、料理の最後にご飯と味噌汁とお新香が出るが、あの感覚なのであろうか。

 人と一緒に食事をしたときは食事代は食事に誘った方が払うものだと思っている。社交としての 食事はそういうものだと思っている。しかし、これはどうも古い考え方のようで、割り勘でないと いやだと心底思っている人もいる。そういうところで主従関係のようなものが表現されるのが イヤなのだろう。で、食事を誰かと一緒にしたときには、食事が終わりにさしかかるあたりで、 ここは私が払っていいものかどうか(相手は「割り勘主義者」であるかどうか)という問題で苦悩する。

 私の大学時代の恩師で、いまは同僚であるM先生は学生と一緒に食事をしたときは必ず全額を支払った。 それも学生が1人や2人ではなく、10人、20人のときもそうするのである。M先生は地方の大地主の 長男で、大学からもらう給料は小遣い銭みたいな感覚の方である。私はそういうM先生の姿を 尊敬と羨望のまなざしで見ていたが、その一方で、将来自分が教壇に立ったときには同じように しなくてはならないのだろうかと、一抹の不安を感じてもいた。

 では、現在、私が学生たちと食事をするときはどうしているかというと、私が1万円を出し、それで足りればよし、足りない場合は、不足分を学生たちが割り勘で払うという方式をとっている。 M先生方式はとても無理だが、それを一つの理想像と感じている私には、この「定額方式」 には内心忸怩たるものがある。

 支払いと言えば、私は千円以下の代金を1万円札で支払うことができない。妻曰く「こっちは お客なんだし、向こうにしても品物を買って貰えるんだからいいじゃない」。う〜ん、 妻と私との間には人生観の違いがいつくかあるが、これはその一つである。私は財布の中に 千円札がなくならないようにいつも気をつけていて、千円札が乏しくなってくると、銀行で 1万円札を千円札に両替する。しかし、たまに食堂に入ってから財布に千円札がないことに気づく ことがある。そのときは千円以上のものを注文するようにしている(その場合でも「大きくて 申し訳ない」とレジで謝る)。こんな私は駅の売店でチューインガムを買って1万円札を出すこと など一生できないと思う。

 ・・・・と、とりとめのないことを思いつくままに書いてきたが、食堂という社会的空間は、私の専門 の1つである「日常生活の社会学」の格好のフィールドであるということに改めて思い至った。 そこには大小さまざまな、しかも人によって微妙に異なる「暗黙の規範」が支配する場所で、 われわれは無意識のうちにそれに従って食事をしているのである。なまじ社会学者である私は、 そのことに気づいてしまい、無邪気に食事を楽しむことができないのである。 これって、やっぱり、一種の職業病ですかね。

研究室だよりに戻る


前のページに戻る


次のページを見る