2003.5.21配布

 

社会学研究9「社会構造とライフコース」

講義記録(4)

 

●要点「近代社会と家族」

民法では「親族」の範囲は6親等以内の血族と3親等以内の姻族と定められている。が、「家族」の範囲についてを法律は定めていない。けれど「あなたの家族は誰ですか?」と質問すれば、たいていの人は「父と母と・・・・」とスラスラと答えることが出来る。だが、よく聞いてみると、父方の祖父母は家族だが母方の祖父母はそうでないと答える人や、その逆の答えをする人もいる。未婚のきょうだいは家族だが既婚のきょうだいはそうではないと答える人や、きょうだいはいつまでも家族だと答える人もいる。

実は家族というのは主観的なものなのだ。「あなたが家族と認知している人があなたの家族」なのである。では、家族の認知の規準(ある人が自分の家族であるか否かを判別する規範)は何であろうか。主要なものは次の3つであろう。@同居している。A血のつながりがある。Bその人に対して特別な感情(≒愛情)をもっている。しかし、この3つの規準をすべて満たしていなければ家族でないというわけではない。たとえば夫婦には血のつながりがないのが普通であるし、単身赴任中の父親も家族であろう。愛情を至高の価値とする近代社会では、家族を判別する規範としてBが重視されている。一緒に暮らしていても、互いに愛情のなくなってしまった夫婦(家庭内離婚と呼ばれる現象)は「本当の家族」ではないと当人たちも世間もみなすのである。

近代家族の特徴は、第1に、規模が小さいこと。これは核家族化と少子化の結果である。第2に、機能が減少したこと。これはかつて家族内で行なわれてきた無償の労働の多くが市場化された結果である。第3に、周囲の社会に対して閉鎖的であること。これは地域移動の激しい社会では親密な近隣関係が形成されにくいからである。第4に、家族が愛情の場、「暖かな家庭」としてイメージされる(期待される)ようになったこと。「愛情の絆で堅く結ばれた家族」というのは一種の規範、すなわち実現することを期待されている近代家族のイメージである。かつて多くの機能を有していた家族(あるいは親族)は、親族ネットワークの地理的拡散と市場経済の発達の中で、その機能を1つ、また1つと、外部化してきた。こうして最後に残ったのが愛情機能(やすらぎを与えること)である。他の機能は市場で購入できても、近代社会の至高価値である愛情だけはお金と交換できないのである。家族機能の外部化の過程は、同時に、家族の愛情機能の純化(期待過剰)の過程だったのである。「冷たい社会(世間)」と「暖かな家族」という図式がこうして生まれたのである。

 

●質問

Q:「愛情の絆」って愛することですか、愛されることですか、両方ですか。

A:小沢健二も歌っているように「愛し愛され生きるのさ」です。

 

Q:近代家族の特色の1つである「家族の閉鎖性」の例として、家にいてもドアに鍵をかける都市の家族と、外出中も鍵をかけない農村の家族をあげておられましたが、都市の家族=近代家族ということですか。

A:はい。近代家族と前近代家族という歴史的(時間的)変化は、都市の家族と農村の家族という地域的(空間的)差異とパラレルな関係にあります。

 

Q:都市の家族が外部に対して閉鎖的になるのは犯罪が増えてきたということにも関係があるのでは。

A:はい。家族の外部は「冷たい」だけでなく「危ない」のです。家内安全。

 

Q:近代家族の崩壊が問題になっているのは、女性の社会進出が加速されて、専業主婦が減ったことも関係しているのでしょうか。

A:はい。近代家族というものは、@恋愛結婚、A核家族、B性別分業の3要素で成り立っていますから、女性の社会進出はBの要素を危うくします。

 

Q:サザエさん、曲がいまと違うんですね。ところで、ノリスケさんはサザエさんの何なのでしょうか。いとこ? 先生、知ってたら教えてください。イクラちゃんとタラちゃんは親族ではないのでしょうか。

A:ノリスケは波平の甥です(波野家に嫁いだ波平の妹の子)。したがってサザエさんとはいとこ同士で、イクラちゃんとタラちゃんははとこ同士です。

 

Q:「サザエさん」は前近代社会の家族ですか。

A:三世代同居家族である点は近代家族とはいえませんが、フネもサザエも専業主婦である点、および「愛情にあふれた家庭」を強調している点で近代家族であるといえます。

 

●感想

 「愛情」について社会学的に考えるのははじめてなので、よい経験でした。ふだんはミスチルやスピッツとかの歌でした考えないので(それは「愛情」といっても「恋愛」のニュアンスにおいてですが)。★この講義記録はスピッツのベスト版アルバム「リサイクル」を聴きながら作成しています。

 

 最近のヒット曲に「愛」が大変よく歌われるのは人々の心の拠り所が愛情で、それをみんなが求めているからなのかなぁと思った。★恋愛が数少ない非日常的な「わくわくする」経験だってこともあると思います。

 

家族はやはり愛情で結ばれていると思います。私は今の家族で十分で、自ら新しい家族を築こうとは思いません。★でも、いつか一人になるけど・・・・。

 

 今日の話を聞いて、家族っていいもんだなぁとあらためて思いました。自分は自宅生ですが、4月に父が10年間の単身赴任から戻ってきて、いつも父が家にいます。とても違和感があります。もしや父は家族ではない?!ってことはないですが、やはり、いつもいてくれると安心ですね。自分もそんな父親になりたいです。★この感想、父の日に届けたいね。

 

 近代家族は愛情の場として認識され・・・・、なんだか色々と考えさせられました。最近、家族が食卓にそろうことがまったくなくて、コミュニケーションが不足気味なのです。私の両親は恋愛結婚でしたが、お見合い結婚の家庭の生活というのが気になります。どこから愛情の結びつきになっていくのかなぁと。★いまは恋愛結婚と見合い結婚は8:2の割合です。

 

 もちろん家族の判定基準の中で「愛情」が重要だということは納得です。でも、もしかしたら、最近、それが崩れてきているところもあるのではないか・・・・と思います。★「愛情の絆で結ばれた家族」というのは理念ですから、いつでも現実とはズレているわけで、それは最近になって始まったことではないでしょう。家庭をかえりみない夫とか、子どもに愛情をもてない母親とか、親不孝の子どもとか、そういう人は昔からいて、大正時代の新聞の人生相談の欄にしばしば登場しています。人々はそれを近代家族の理念に照らして、「けしからん」と認識してきたわけです。

 

 ホームステイをする留学生にとってのホストファミリーを本当の家族のように慕うというのは、たとえ血のつながりがなくても、同居と愛情から来るものなんでしょうね。★日本テレビ「世界ウルルン滞在記」で、最後の別れの場面では、視聴者は涙の別れを期待していて、実際、ほとんどのケースではそうなるのですが(まるで「ウルウル滞在記」)、たまにそうでないケースもあって、そういうときは肩すかしを食ったような気分になり、きっと今回は心の交流がいまひとつだったんだろうなって勝手に思ってしまうわけです。

 

先生の話を聞いているとますます結婚したくなくなります。★私の授業をとった女学生は結婚が遅れるという噂がありますが、あくまでも噂に過ぎません。先日、卒業生の結婚式にいってきました。彼女、卒業後3年で結婚しました。ちなみに私の妻は卒業後2年で結婚しています。

 

 去年、嶋崎先生の「家族論」をとっていたので、家族についていろいろ勉強しましたが、本当に家族を定義することは難しいと思いました。個人によってこんなに違うのだなと、今日、改めて思いました。★嶋崎先生はたしか6人きょうだいではなかったかしら。「きょうだい」というものの経験の仕方もみなさんとだいぶ違うでしょうね。

 

 祖父母を家族と認識しない人は祖父母との愛情が薄いということになるんでしょうね。逆に、ペットが家族であったりして、不思議ですね。★「ペットは家族か」をめぐって家族社会学者の間で熱い論争がくりひろげられたことがあります。上の世代の学者は「ノー」、下の世代の学者は「イエス」でしたが、すべての世代論争がそうであるように、時間の経過とともに下の世代が勝利をおさめました。家族は主観的なものであり、当人が「ペットも家族」と言えば少なくともその人にとっては「ペットは家族」なのです。

 

 小さな頃に「外は怖い」と思わせるような話を親や祖母からくりかえし聞かされて、家の外ではすべてに対して怖いから疑うという習慣がつきました。私の「冷たい社会」という認識は大分周りの人によって作られた気がします。

★私も子どもの頃(昭和30年代)、暗くなるまで外で遊んでいると「人さらいにさらわれるよ」と脅かされました。それにしても、通りすがりの子どものランドセルに火をつけた男がいましたが、あの子の「社会」認識はどういうことになってしまうんだろうと暗い気持ちにならざるをえません。

 

先生は小津安二郎がお好きなんですね。今年は生誕100年と没後40年です。今日の授業は家族についてでしたが、彼ほど家族を素晴らしく撮った人は他にいません。でも、その彼が生涯独身で母と2人暮らしであったことも興味深いですね。★親子関係は彼の得意のテーマでしたが、彼は決して理想的な家族を撮ったわけではありません。彼の最初のトーキー作品『一人息子』(1936年)の冒頭には、「人間の悲劇の第一幕は親子になったことに始まる」という『侏儒の言葉』(芥川龍之介)の中の一節がかかげられています。