2004.11.17配布

 

社会学研究10「社会変動とライフコース」

講義記録(6)

 

●要点「大学紛争の時代

戦後日本の「人生の物語」の変容を考える上で、194749年に生まれた第一次ベビーブーマー(団塊の世代)の存在は非常に大きいものがある。規模の大きなコーホートが出現すると、第一に、市場の購買力が高まる。彼らの成長につれて年齢段階に応じた商品・産業が活況を呈するようになる。彼ら(の親)は大きな購買力なのである。また、彼らが成人になれば、労働力として市場に出て行くことになる(ただし不況の時代には余剰労働力となる)。第二に、彼らの間で社会的競争が激しくなる。社会的資源は社会成員の増加に合わせて増加するわけではないので、社会的資源をめぐっての競争(たとえば受験戦争や出世競争)が激しくなる。第三に、彼らの社会的発言力が高まる。規模が大きいということはそれだけで民主主義社会では政治的な力なのである。

 今回の授業では、19689年に東京大学を舞台にして展開された学生運動、「東大紛争」を1995年の時点から振り返ったTV番組「東大全共闘 26年後の証言」を観た(NHKスペシャル『戦後50年 その時日本は』シリーズ:なお、このシリーズは全6巻の本となってNHK出版から出ており、番組では割愛されている多数の取材記録が載っている。また、東大全共闘委員長の山本義隆には『知性の叛乱』という著書がある)。

 1968年の世界の状況は、ベトナム戦争(1965年からアメリカが武力介入)、パリの「5月革命」(学生と警官隊が衝突し、ゼネストが全仏に拡大)、ソ連のチェコ侵攻(「プラハの春」の圧殺)、キング牧師やロバート・ケネディ上院議員の暗殺など、東西対立、南北対立、体制内での世代対立・階級対立・人種対立が激しさを増していた。他方、日本国内の状況は、高度経済成長の成果(世界第二位のGNP)を享受しつつ、そのひずみ(公害、受験戦争、働き過ぎなど)が顕在化し、社会体制へ向けての学生(若者)たちの「異議申立て」は先進諸国で同時多発的に、あるいは連鎖反応的に起こっていた。戦後の社会体制の中に生まれ、その中で育った世代が、学校経歴の終点である大学に入学したときに、そして職業経歴の開始に向けて動き始めたときに、自分たちを産み育てた社会体制に向かって「異議あり!」の声を上げたのである。

 

●質問

Q:先生は当時、学生運動に対してどのような立場だったのですか。

A:どのような立場もなにも、私は当時、中学2年生ですから。中学校は蒲田駅の近くにあって、佐藤首相の訪米を阻止するべく羽田に向かう新左翼のデモ隊の集合場所が蒲田駅前だったので、担任の先生から「いいわね、気をつけて帰るのよ」と注意されておりました。中学生の目には彼らは知能指数の高い暴力団のように見えましたね。

 

Q:当時の学生運動が反対していた構造は現在も残っていると思うのですが、その後、運動がまったく起きなくなってしまったのはなぜなのでしょうか。

A:第一に、その後に激化したセクト間の抗争(内ゲバ)や赤軍派による浅間山荘事件(1972年)などで新左翼の社会的イメージが著しく損なわれたこと。第二に、大学進学率がさらに上昇して大学生がエリートではなくなったこと。この2つが大きいと思います。

 

Q:現在、早大の文学部で活動している自治会=革丸派はビデオの大学紛争と関わっているのですか?

A:革丸派じゃなくて革マル派ね。マルはマルクスのマル。大丸とかの丸ではない。正式名称は日本共産主義的革命主義者同盟革命的マルクス主義派。日本共産党=旧左翼のソフト路線(選挙戦中心)を批判して生まれた武力闘争辞さずの新左翼の一派です。東大全共闘の応援に駆けつけて「革マル」の旗を掲げている映像がありましたね。でも彼らは機動隊との最終対決を前に東大全共闘を見捨てて引き上げていきました。組織の壊滅を恐れてね。

 

●感想

 30年以上前に私たちと同年代の学生がこんなにも団結して闘っていた事実に驚いた。単純に驚いた。★たとえば全共闘世代の作家である村上春樹のクールな文体(他者や社会から距離をとって生きる技法を身につけた主人公)はこうした高揚の時代をかいくぐった後に生まれたものなんだ。

 

 「東大生であることを拒否する」のだったら今なら一人で自主退学するでしょう。社会の個人化の契機のひとつは全共闘運動の挫折でしょうか。★一人で自主退学すると「元東大生」とか「東大中退」とかということになって、これはこれで一種のブランドである。ブランドそれ自体の価値の破壊を東大全共闘は目指したといえる。

 

 熱いなあと思いました。東大生だからかもしれないけれど、やけに小難しいことを言っているように思います。でもうちの父は「休みになってラッキー」くらいにしか思ってなかったとか言ってました。★東大全共闘の学生で当時の東大生を代表させてはならないし、まして当時の大学生や若者全般を代表させるのはとんでもない勘違いです。しかし、彼らをまったく特殊な人々と見るのも同じように間違っている。

 

 私の父は当時大学闘争に参加していなかった半数の東大生の一人です。そういうものに興味がなくて「授業がなくてラッキー」と思い、遊び歩いていたらいつの間にか大学が始まってて留年したそうです。大学闘争についてどう思っていたのか今度詳しく聞いてみたいと思いました。★「ラッキー」な父親の子がこの教室には多いのだろうか。獄中何年なんて人の子はいませんか?

 

 ビデオを見て「昔はよかった」的な感想を持った。東大生であることを拒否しつつも彼らには橋爪さんが言っていたように「自分たちが動くことで大学や国が変わるという感覚」つまり国家にとって自分が重要な人間だというある種の自信があったからできた運動だと思う。今の若者は社会に不満を持ちながら自分の生活には満足している。これは「自分が叫んでも社会は変わらないから日々楽しく」という考え方の表れに思える。★「自分が叫んでも社会は変わらないから日々楽しく」と考えているのかな? たんに「日々楽しく」なのでは?

 

 僕は予備校時代、山本義隆さんに物理を一年間教えてもらっていました。高度すぎてついていけなかったのを覚えています。生徒の間で、あの人はすごく頭が良いのに昔学生運動をしてたから予備校講師にとどまっているという話がありました。あんなことしてたんだ・・・・。★テキストは『新・物理学入門 駿台受験シリーズ』でしたか。なお、授業で言及した彼の著作は『磁力と重力の発見』全三巻(みすず書房)です。

 

 大隈講堂を占拠したくなりました。★してもいいけど、警察の取調室で、この授業で見たビデオに触発されてなんて言っちゃ駄目だよ。

 

 運動を当時行っていた人たちに話を聞きたい。★来年、私の調査実習の授業をとって、ライフストーリー・インタビューに行ったらどうですか。

 

 学生運動を僕もしてみたいです。何を求めていいか分かりません。★そういう心情は当時の大学生にもあったかもしれない。

 

 全共闘の話が大好きな友だちがいて困っています。★今年私のところで全共闘をテーマに卒論を書いている学生がいます(私は困ってはいませんが)。

 

 ボクの心のバリケードを誰か破って下さい。★尾崎豊のアルバム『十七歳の地図』でも聴いてみますか。

 

1968年といえば思潮社の「現代詩文庫」シリーズが出始めた年ですね。今、初めの頃のを読んでいるのですが、「近代」とか「革命」とかいう言葉がたくさん出てきたびっくりします。★もしかして「吉本隆明詩集」とか読んでます?

 

 この前『69』という映画を見ました。今日のVTRを見てから映画館に行っていればもっと楽しめたはずと思います。★映画の舞台は1969年の佐世保の高校だよね。主人公たちは女の子にもてようとして「全共闘ごっこ」をしていたわけだけれど、全共闘も考えようによっては「革命ごっこ」をしていたわけだから、いい勝負かもしれない。

 

 すごい情熱だと思った。今の自分はどうだろうか、と思った。今将来何をしたいのかわからず悩んでいたけど、ますます自分が中途半端に生きているかもと落ち込みました。★思うに「大学生」というポジションがそもそも中途半端=過渡的なものなのではなかろうか。とすれば、しっかりと中途半端な存在で頑張ってみたらいいのでは。どうせ数年間のことなんだから。

 

私にとって早稲田で授業を受けることは完全に自分の内面と切り離されています。予備校やファストフード店のような感覚しか持てません。それがとても苦痛になることはありますが、それが学園紛争後の「されどわれらが日々」の現実だと思います。★なるほどね。私の授業なんかはフィレオフィッシュあたりだろうか(主流商品ではないが、一部にファンがいる)。ちなみに柴田翔『されどわれらが日々』(1964年度の芥川賞作品)は学園紛争ではなくて60年安保闘争後の日々を描いた小説。

 

 たまにはプリントに載るオモシロネタを書いてみたい。★無理におもしろく書こうとしなくてもいいんだよ(夜回り先生の口調で)。

 

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