2004.5.12

 

社会学研究9「社会構造とライフコース」

講義記録(4)

 

●要点「近代社会と学校」

 近代日本の基本方針の表明といえる「五箇条の誓文」(慶応4年)には「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」と書かれている。すべての国民が目標(志)を将来に設定してその実現に向けて努力する社会ということである。そうした社会における生き方のモデル(人生の物語)となったのは、明治3年に出版された『西国立志編』(S.スマイルズ『自助論』の翻訳)であった。

 新しい「人生の物語」の普及のためには、それと適合的な社会制度が必要とされる。かくして社会移動の阻害要因である身分制度の撤廃と、社会移動のルートとしての学校制度の確立が急務とされた。日本における近代学校制度である「学制」(明治5年発布)の序文には、「学問ハ身ヲ立テルノ財本」であると、学校での勉強と立身出世との明確な関係について書かれている。また、小学唱歌「仰げば尊し」(明治17年)の中にも「身を立て名をあげやよ励めよ」と立身出世の思想が込められている。

大正時代、和製の近代版「人生の物語」の聖典ともいえる「野口英世」伝が誕生する。「野口英世は貧しい農家に生まれ(明治9年)、幼いとき、左手に大火傷をしたが、 不断の努力により、世界的な医学者になった」・・・・努力と成功がこの物語 の二大要素であり、出身階層の低さ(貧農)、身体的ハンディキャップ(左手の大火傷)、 職業的使命に殉じた最期(黄熱病で死亡)といった付加的要素がこの二大要素を際立たせる格好の条件となっている。

「努力して成功(立身出世)すること」の裏返しは、「怠惰の故に失敗(落伍)することである」。小学校の修身の教科書や中学受験の雑誌は、挿絵入りで、立身出世の願望だけでなく、同時に、堕落することの不安を煽った。優勝劣敗、適者生存の社会的ダーウィニズム(進化論の世俗版)は、西洋におけるプロテスタンティズム(の倫理)が社会の近代化に果たしたのと同じ役割(促進要因)を、日本において果たしたといえるかもしれない。

 ただし、学校の機能はたんに子供たちの立身出世の願望を煽る(ヒートアップ)だけでなく、それを適度に冷ます(クールダウン)ことにもある。日々の試験や入学試験、進路指導などによって、学校は子供たちをさまざまな職業に配分する装置として稼働してきたのである。

 

●質問

Q:立身出世のモデルは下級武士ではダメだったのですか。「伊藤博文は下級武士から総理大臣になり、安重根に暗殺されました」とか。

A:日本では政治家の伝記はあまり人気がありません。アメリカ大統領の回想録はよく売れますが、日本の総理大臣の自伝は後援会の人しか買わないでしょう。政治そのものに関心が薄い、あるいは政治を汚いものと考える風潮があるせいでしょうか。なお、維新の志士の中では、志半ばにして倒れた坂本竜馬に人気が集中していますが、彼は「政治家」とはいえないしね。

 

Q:野茂英雄の伝記は聖典になるでしょうか。

A:子供一般ではなく、スポーツ少年というサブ・グループの中でなら、そうなる可能性はあるでしょう(中田英寿やイチローや松井秀喜も同様)。ただし、もし野茂がワールドシリーズの最終戦で完全試合を成し遂げて、しかも最後の打者から三振を奪った瞬間に利き腕の筋肉が「ブチン」と断裂して、投手生命が終わったとしたら、彼の伝記は間違いなく聖典になるでしょう(『巨人の星』か)。

 

Q:私たちもサクセス・ストーリーを作れるのでしょうか。とくに貧しいわけでも身体的なハンディをもっているわけでもないので。

A:自分よりずっと上の階層の男性と結婚する「玉の輿」結婚は、女性の伝統的なサクセス・ストーリーです。ひとつ頑張ってみますか。

 

Q:僕は2年から教職の授業をとり、教育というものに非常に興味を持ちました。社会学において、教育学をうまく絡ませながら勉強をすることは可能ですか。

A:社会学というのは大抵のものと「絡ませる」ことができます。実際、教育という社会現象を研究対象とする社会学を教育社会学といいます。私も日本教育社会学会というものに入っております。

 

Q:最近の小学校で順位を明確にしない、たとえば運動会の徒競走の順位を付けないなどの現象がありますが、これは学校のクールダウン機能が弱まっていることを意味しますか。

A:徒競走に順位を付けないのは、戦後民主主義教育の理念の1つである「平等」と、「みんな頑張って走りました」という努力信仰が結びついたいびつな現象です。なぜなら、子供たちは大人たちの目の前で競走させられているのであり、誰が一番で誰がビリであるかは、誰の目にも明らかであるからです。もし順位を付けるのはよくないと本気で考えているなら、個人競技は全廃すべきです。

 

Q:小林秀雄だったか、西洋の技術は輸入できても西洋の精神までは輸入し切れないという様なことを書いていたように思いますが、どう思われますか。

A:マクルーハンは『メディア論』の中で「メディアはメッセージである」と言っています。たとえば携帯電話という新しいメディアの登場は人々のコミュニケーションのあり方に大きな変化を与え、長期的には精神(ものの見方や考え方)にも影響を与えるでしょう。私は小林とは逆に、技術だけを精神から切り離して輸入することはできないと思います。

 

Q:「遊民」とは「フリーター」のようなものなのでしょうか。

A:違います。「フリーター」はアルバイトであれ労働はしているわけですから。

 

Q:「学歴なんか関係ない」という風潮もあるように思いますが、それでもやはり私は学歴主義はなくならないと思います。先生はどう思いますか。

A:「学歴なんか関係ない」という主張が一定のインパクトを持つのは、学歴を重視する風潮が社会にあるからです。本当に関係ないのであれば、わざわざ声高に言う必要もないわけです。学歴と会社での地位や所得との関係を実証的に分析して学歴主義は神話であると述べている研究者もいますが、高い学歴(及びそれと結びついた職業)に対して人々が威信を感じていること自体は事実であり、神話の虚構性をいくら強調したところで神話が人々のものの見方に及ぼしている影響力を否定したことにはなりません。ちょうど『世界の中心で、愛をさけぶ』を読んで感動している人に向かって「それは作り話ですよ!」と叫んでも意味がないのと同じです。それからもう1つ、学歴主義という言葉は批判的に使われていますが、学歴は人を身分から解放したのですから、あまり悪者扱いしない方がよいと思います。悪いのは学歴ではなく、学歴の身分化です。

 

●感想

 「仰げば尊し」の「いまこそわかれめ」の「め」が係り結びの法則による「む」の已然形であることに80へぇ。★いまこそ教えめ。

 

 小学校から自分が受けてきた学校教育を思い起こしたとき、そこで私たちが教えられたのは、やはり頑張れば報われる(成功)という物語でした。しかし、それと同時に、自分の能力を悟らされる、競争社会における振るい落としみたいな作用によって、私たちが進路を決めてきたと思うと、なんだか驚きです。★80へぇ?

 

 私の母は、私が勉強することは喜びますが、TVを見てばかりいると明らかに不満そうです。母はまさに知識資本主義者です。★あなたのお母さんは知識資本主義者の中では旧タイプに属する活字信仰者です。知識は活字だけでなく映像や音声という形態もとることを学ぶ必要があります。ためしに「NHKスペシャル」なんかを一緒に見たらどうでしょう。TV番組=娯楽番組でないことが理解してもらえるはずです。

 

 私の母は「非凡な人生を送りたい」と小学校の文集に書いていました。そんな母は早稲田に通う私を見て「うらやましい」と言います。彼女は「非凡」という志に挫折したようです。最近母はパートを始めて充実しているようです。よかった。★昔、『平凡』というアイドル雑誌がありました。いま考えると、よくそんなミスマッチなタイトルでやっていたものです。

 

 学ばないと愚人になるという(福沢諭吉の)言葉がグサッときました。今日の2限の授業、寝坊して出られなかったので。★嶋ア先生の「社会調査法T」ですね。必修科目だから社会人になる(卒業する)ためには必要です。

 

 修身の教科書や受験雑誌の挿絵を見て、かなり露骨に立身出世を念頭に置いて子供たちを教育していたんだなと思いました。★露骨ということでいえば、「偏差値」の方がもっと露骨なのではないかと。

 

 『ボウリング・フォー・コロンバイン』という映画の中で、アメリカ人は常に何かを恐れていて、だからみんな銃を持つのだとありました。消費社会においては人々の恐怖心を煽ることも戦略とありましたが、最近、日本でもニュースは怖いものばかり採り上げられていて、アメリカにどんどん近づいているようで怖くなりました。★リスキーな社会では安心が商品になる。だから保険会社のCFをTVや新聞で見ない日はない。ところが、その保険会社自身がリスキーな状態(破綻の不安)になっているのだから、洒落にならない。

 

 石川啄木の「時代閉塞の状況」とミスチルの「everybody goes」は似ていると思いました。明治時代にも勝ち組、負け組、how to success など今と変わらないものがたくさんあって面白かったです。ただし、啄木とミスチルが決定的に違うのは、啄木が極貧で桜井和寿がめちゃくちゃ金持ちというところだろうと思います。★両者の決定的な違いはもう1つあります。啄木の歌は短くて、ミスチルの歌は長いことです。

 

 野口英世のようないわゆる「成功者」が世間で騒がれるのは、彼のように成功する人がまれだからだと思います。それなのに、それを成功のモデルとして自分たちも努力しようとしてしまう人間とは切ない生き物ですね。しかも成功することで必ずしも幸せにはなれないとわかっていながら、成功することを望む人間の何と欲深きことか!(だから学校のクールダウン機能は必要だと思います)★「成功することで必ずしも幸せにはなれない」とわかっているー確かにそうなのだけれども、幸せになれるかなれないかは、結局、成功した後でないとわからないから、人はとりあえず成功を目指すのではなかろうか。もしこれが、「成功すると必ず不幸になる」ということであれば、最初から成功なんて目指さないでしょう。

 

 成績の序列による職業の配分という考えは今の時代にある程度必要だと思う。職業選択が学歴から個性重視に変わりつつあるが、個性ほどわかりにくく曖昧なものはない。個性を探求しているから就けず、フリーターなるものが増えているのだと思う。★「個性的であらねばならない」というのも、近代社会に固有の要請である。しかし、それが具体的にどういうことであるのかは、明確ではない。そのためにモデルとなるべき「個性的な人生の物語」=「個性的な人」列伝が必要とされる。それは一種の成功譚である(世間から「あの人は個性的である」という評価を勝ち取った人々)。成功譚である以上、個性的であることは簡単なことではない。そこで、「個性的であること」を「自分らしくあること」に読み替える動きが生まれた。「自分らしくあること」なら誰にでもできるだろうと。個性の大衆化である。しかし、今度は、「自分らしい」とはどういうことかがわからなくなった。「自分探し」というものがブームになった。自分がどんな人間であるのかを、人に尋ねるようになった。旅はまだ終わらない・・・・。

 

 確かに日常生活の中で「がんがれよ」って言葉はよく掛けられし、自分でもよく言ってしまっているなあと思います。本当に「がんばれ」って思っているわけではないので、いつもしっくりこないなと思っているのですが、努力信仰が自然と染み付いてしまっているためなのでしょうね。★何にがんばるのよくかわからないままに「がんばれ」という言葉は使われる。たぶん、がんばることにがんばるのだろう。

 

 システムの裏側を見せられたような感じがしました。そして、なんだか今までだまされていたように感じました。★社会学者ミルズは『社会学的想像力』という本の冒頭で、「人はときどき自分たちの私的な生活には一種の罠がしかけられていると感じることがある」と述べている。そして、彼のいう「社会学的想像力」とはその「罠」の正体、仕掛けを見破るためのものなのである。

 

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