フィールドノート0305

5.1(木)

 7限の「社会・人間系基礎演習4」を今日は早めに切り上げて、金城庵でコンパ。参加者34名(37名中)。金城庵の2階はわれわれで貸切。コンパというと居酒屋が多く、周囲が騒がしいのだが、今日は落ち着いて話ができてよかったと思う。偶然なのだが、ここ金城庵の2階は、ちょうど30年前、私が第一文学部に入学して、最初のクラス・コンパをやった場所である。そのときの集合写真が一枚手元に残っていて、19歳の私が澄ました顔で写っている。アルコールを好まず、初対面に等しい人間に内面を吐露するという行為を好まず、「俺は将来小説家になって芥川賞をとる」などと臆面もなく宣言するクラスメートにやれやれと思い、目の前の料理は早々に平らげてしまい、後はコンパがお開きになるのを手持ち無沙汰にただ待っている、そういう顔である。私がコンパに参加したのはそれが最初で最後であったと思う。あきれるほど社交性のない学生であった。私が大学生活に求めたものは、本を読み、考える時間、したがって一人の時間だった。サークルには所属せず、積極的に友人を作ろうという気持ちもなかった。それで孤独の病に陥らずにいられたのは、大学の外部にいまで言う「居場所」をもっていたからである(週に数回、出身高校のバドミントン部のコーチに通っていた)。今日のコンパの最中、ときどき、30年前の私のような学生がいるだろうかと見渡してみたが、それらしい学生はいなかった。

 

5.2(金)

 目が覚めたら居間のテレビで「笑っていいとも」がかかっていた。昼食(池波正太郎風に言えば第一食)は、妻に断って、近所のラーメン屋「風屋」(かざや)に食べに行く。先日、初めて行った新規開店の店だ(「フィールドノート」4.28を参照)。そのときのチャーシューメンの評価はいまひとつだったので、店の名前は書かなかったが、今日の塩ラーメンは美味しかったので名前を載せることにした。前回との一番の違いは、チャーシューが冷たくなかったこと(したがてスープも熱々のままだった)。「風屋」は四つ角に位地する小さな店で、換気のため、入り口の引戸と勝手口のドアを開けたままにしてあるので、風が店内を吹き抜けていく。まさに「風屋」だ。

 蒲田から多摩川線(旧・目蒲線)で一つ目の矢口渡の駅前商店街の中にある古本屋「ドリーム書房」に初めて行ってみる。少し前に地元のミニコミ誌でこの古本屋のことが紹介されていて、頑張っている感じの古本屋という印象をもっていた(まるでやる気のない古本屋というものがこの世にはあるのだ)。実際、「ドリーム書房」は中年のご夫婦2人が元気に仲良く頑張っている店であった。コミックと文庫本が中心で、単行本は自己啓発本の類が多く、私の好みの本は少なかったが、岩波文庫がまとまって何冊かある中にディケンズの『オリヴァ・ツウィスト』を見つけて、冒頭の主人公が救貧院で生まれる場面を立ち読みしていたら、続きが読みたくなって購入。上下巻揃いで600円。ずっと昔、名子役と言われたマーク・レスター主演の映画『オリバー・ツイスト』を観たことを思い出した。

 夜、「社会学研究9」の2回目の講義記録を作成し、ホームページにアップロードした。明日は、人間の尊厳を保つために、午前中に起きなければ。

 

5.3(土)

 大学院時代からお世話になっているF先生のお母様(享年88歳)のお通夜に出席。そこで岩上真珠さん(聖心女子大学教授)に久しぶりでお会いする。岩上さんは大学院時代の私の先輩で、一緒に本を読んだり、フィールドワークをしたり、ボーリングをしたり、麻雀をした間柄である。しかし、それぞれに就職をしてからは、たまに学会で顔を合わせるだけになってしまった。献花をすませてから、同僚の嶋崎先生も誘って3人で、近くのファミリーレストランで食事をする。おのずと話題はこの2月に亡くなった大学院時代の仲間のH君のことになり、懐かしがったり、しんみりしたりした。

 

5.4(日)

 京都の同志社新島会館で行われたKさんの結婚式に出席。Kさんは同志社大学(神学部)の卒業生だが、2年生のとき、同志社大学と早稲田大学との交換留学生として私の演習で1年間勉強された。今日はそのときのクラスメートだったAさんとOさんも東京から駆けつけていた。お相手のU氏は若き(29歳)社会学者で、現在、北海道教育大学函館校で専任講師をしている。私も結婚は29歳のときだったが、まだ博士課程の4年生で、看護学校の非常勤講師をしていた。20代で専任講師というのは大したものである。結婚式の牧師さんはなかなか面白い人だったが、そのS氏が披露宴のとき私の隣に座っていたのにはびっくりした。実はこのS氏、同志社大学助教授で、Kさんの恩師なのであった。卒業生の結婚式の牧師をよく務めるのですかと質問したら、今回が初めてとのことだった。S氏は披露宴でも大活躍で、ステージでフォークギターを弾きながらスピッツの「青い車」を熱唱された。さて、藤圭子の歌に「京都から博多まで」というのがあるけれど、Kさんの場合は京都から函館に嫁ぐ。子供の頃にお父様を亡くされ、母ひとり子ひとりで育ってきたKさんにとって、お母様をひとり京都に残していくことは心配でもあるだろう。U氏も大阪の出身ということで、将来は2人して関西に戻って来ることを希望している。そのためにはU氏がすぐれた業績を上げることだと、U氏の恩師・友人がスピーチで盛んにU氏にハッパをかけていた。これはかなりのプレッシャーだと、私はU氏に同情してしまった。

 

5.5(月)

 ホテルを10時にチェックアウト。地下鉄東西線(京都にも東西線があるのだ)の東山駅で下車。小さな川に沿って歩いていたら平安神宮の前に出たので参拝することにした。平安神宮は初めて来たが、既視感があるのは映画『陰陽師』で安部晴明(野村萬斎)と名前を忘れてしまったが真田広之演じる悪い術師の闘いの場所がここだったからである。休憩所でサービスの新茶を飲みながら『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読む。今日のテーマは京都散策と『キャッチャー・イン・ザ・ライ』である。次に平安神宮のすぐ側の東山動物園に行く。動物園のよいところは日陰とベンチがたくさんあるところだ。シマウマの厩の裏のベンチで第3章を読み、北極グマの檻の横のベンチで第4章を読んだ。動物園を出て、近くにあるうどん屋「うどん村」で牛スジ肉の煮込みの入ったスタミナうどんというのを食べながら第5章を読む。続いて動物園と平安神宮の間にある京都市美術館でちょうと開館70周年の展覧会をやっていたので見物する。お土産に絵葉書を10枚購入。ずっと立ち通しで足が疲れたので観世会館の側の「和蘭豆」という喫茶店で休憩。第6章を読む。その後、東大路通を北にずっと歩いて京大まで行く。京大の付近には古本屋が何軒かあると聞いていたからだが、途中で一軒見かけた古本屋は閉まっていた。祝日は休みなのかもしれない。それで古本屋探しはやめにして吉田神社に参拝した。社務所横の休憩所のベンチは気持ちのいい風が吹いていたので、ここで第7章、第8章、第9章を読む。第7章の最後のところで、ようやく主人公のホールデン・コールフィールドがペンシー・プレップスクールの寮を飛び出し、にわかに物語が動き始めた。吉田神社のベンチには午後5時過ぎまでいた。京大前のバス停の学生たちの長い列にげんなりして、タクシーに乗って京都駅まで行くことにした。しかし、新幹線の発車時刻(18:43)まではまだ時間があったので、四条烏丸の交差点でタクシーを降り、安上がりな地下鉄に乗る。地下鉄京都駅のホームのベンチで第10章を読む。新幹線に乗る前に駅構内のパン屋で夕食用にカツサンドを買った。新幹線の車内で第11章から第16章までを読む(なぜこの小説のタイトルが『キャッチャー・イン・ザ・ライ』なのかがようやく第16章でわかった)。予定ではもう少し読み進むはずだったのだが、カツサンド(とても美味しいカツサンドだった)を食べてお腹がよくなったら眠くなり、30分ほど居眠りをしてしまった。21:00ちょうどに東京着。帰宅して、風呂に入り、第17章と第18章を読む。今日はここまで。残り(第26章まである)は明日のお楽しみだ。

 

5.6(火)

 午後、帝京大学講師の加藤彰彦氏の博士論文「家族変動の社会学的研究 現代日本家族の持続と変容」の公開審査会に審査員として出席。

 早稲田大学文学部社会学専修の卒業生(私が最初に調査実習を担当したときの学生)で、現在、厚生労働省のリサーチレジデンスとして桜美林大学に所属している原田謙君から、彼が最近書いた論文の載った雑誌(東京都立大学都市研究所『総合都市研究』78号)が送られてくる。論文のタイトルは「ネットワーク特性と家族意識 −伝統的規範と非通念的な結婚観に対する許容度に関連する要因」。背が高く、バンドをやっていたことが印象に残っているが、もう一人前の研究者である。

 Sさんから退院を知らせる葉書が届く。Sさんが体調を崩して入院されたのはもう3年近く前になるだろうか。私がお願いした仕事が一因であった。当初、短期間の入院と思われていたものが、半年、1年、そして2年を過ぎても退院の目途は立たなかった。いつもSさんのことを考えていたわけではないが、季節の移ろいの折々に、海辺の町の病院のベットに横になっているSさんのことを想った。お見舞いに伺うことはSさんが固辞されるので、葉書のやりとりで病状を知るほかはなかったが、いつも決まって「波はありますが、少しずつ調子は上向いています」と書かれており、しかし、「少しずつ」という言葉が何ごとにも慎重なSさんの口癖であることを知っている私は、退院の目途はまだ立っていないのだなと溜息をついていた。だから今日、帰宅して机上のSさんからの葉書を見たときも、また同じ文面を予想しており、「退院しました!」の文字が目に飛び込んできたときは驚いた。本当に長い入院生活でしたね。そして、本当によかった。

 夜、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読み終える。

 

5.7(水)

 夜、社会学演習VDのコンパ(高田馬場の「和民」にて)。6限の授業を休めないM君を除いて全員が参加。5限の授業のときグループ発表の班分けなどをしてだいぶ馴染んだ感じになってきた。私はアルコールはいけない口で、ビールをコップに2杯も飲んだら後はウーロン茶というのがお決まりのパターンなのだが、今日は、隣に座った女子学生に勧められてカシスソーダとオレンジカシスというのを一杯ずつ飲んでみた。どちらもジュースのような口当たりで、美味しく飲めた。しかし、やはりアルコールには違いなく、帰りの東西線の中でウトウトと居眠りをしてしまい、乗換えで降りるべき大手町を通り過ぎ、4つ先の木場まで行ってしまった。帰宅して明日が〆切の原稿を仕上げるつもりであったが、脳からアルコールが抜けず、断念する。はたして許してもらえるだろうか・・・・。

 

5.8(木)

 「社会・人間系基礎演習4」は今日からグループ報告が始まる。グループ報告は2つの意味において相互作用でなくてはならない。第一に、発表当日までにグループ内で十分なディスカッション(=相互作用)が行われなくてはならない。機械的に分担を決めて、各自が自分の担当箇所だけを調べて、相互の調整のないままに、それらをただつなぎ合わせただけの報告はグループ報告とはいわない。第二に、報告者たちと聞き手(他の学生たち)との間に活発な質疑応答(=相互作用)が展開されなくてはならない。グループ報告は報告者の話が終わった時点で終わるのではない。それは前半の終了であり、後半の開始である。前半は報告者がテキストを読んで考えたことを話す段階であり、後半は報告された内容をテキストにして報告者と聞き手とが討論する段階である。つまりグループ報告とは報告者と聞き手との間の共同制作物なのである。いくら報告内容がよくても、質疑応答が活発に行われなければ、グループ報告としては失敗である。報告者は聞き手の質問・意見を喚起するような報告をしなければならず、他方、聞き手は質問・意見が言えるような仕方で報告者の話に耳を傾けていなくてはならない。・・・・という話を教室でしたので、ここにも載せておきます。ちなみに、今回、報告した1班は、「最初にしては」という限定なしで、なかなかよい報告であったと思う。

 

5.9(金)

 「社会学研究9」の講義記録(3)を作成し、ホームページにアップロードする。現在、午前3時。明日は1限の「社会学基礎講義A」がある。なかなか土曜日の睡眠不足状態は解消されそうにない。

 

5.10(土)

 帰りがけに生協文学部店を覗いたら、社会学の本のコーナーにギデンズ『社会学』(而立書房)と『社会学小辞典』(有斐閣)のが突出してうずたかく平積みになっていた。2冊とも私が最近、社会学の授業(社会学基礎講義A、社会学研究9、社会・人間系基礎演習4)で学生に紹介した本である。熱心な学生が何人か生協で注文をして、「売れ筋」本ということでこうなったのであろうか。ギデンズの『社会学』は定評のあるハンドブックで、私は第一版と第二版をもっているが、目の前に詰まれている第三版は買っていなかったので、自宅用に購入。700頁の大著が3600円というのは割安感がある。

 「社会学基礎講義A」の講義記録(2)今日やった授業の分を作成し、ホームページにアップロードする。鉄は熱いうちに打て。講義の記憶が鮮明なその日のうちに講義記録を作ってしまうと、気が楽になる。さて、今夜も例によって午前3時。昨日は4時間しか寝ていないのだから、早く寝ればいいものを。

 

5.11(日)

 睡眠不足のつけが回って、昼まで寝ている。食事をとらずに散歩に出る。蒲田東急プラザ6階の栄松堂書店で文庫本を5冊購入。

 (1)谷崎潤一郎『痴人の愛』(新潮文庫)

 何で今頃と私だって思うのだが、昨日、今週の大学院の演習の課題文献の1つである川本三郎「モダン都市の変貌の中で」(岩波書店『近代日本文化論』第5巻所収)を読んでいたら、モダニズム小説の例として漱石の『三四郎』と並んでこの小説が取り上げられていた。『三四郎』は昔読んだことがあるが、『痴人の愛』は未読である。それで「この機会に読んでみよう」と思ったのである。

 (2)長部日出雄『辻音楽師の唄 もう一つの太宰治伝』(文春文庫)。

 「もう一つの」とは、長部はすでに『桜桃とキリスト』で大佛次郎賞と和辻哲郎文化賞を受賞しているからである。辻音楽師の添田唖蝉坊の自伝を読んだばかりだったので、「辻音楽師」という言葉にひかれたということもあって購入。

 (3)サリンジャー『フラニーとゾーイ』(新潮文庫)

 もちろん『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んだ直後だから。

 (4)坂崎千春『回文の世界へようこそ』(中公文庫)

 子供の頃、回文というものに魅了された。「私、負けましたわ(わたしまけましたわ)」というのがことのほか気に入っていた。この本は著者のオリジナルの回文と絵本作家である著者のイラストがセットになっているところが趣向である。たとえば、桜の花の散る下で徳利をもったほろ酔い加減のイカが「また買っちゃった・・・・」と呟いているイラストには、「桜だ! イカ、今朝も酒買い、堕落さ」という回文が添えられている。なんか、しみじみ、おかしい。

 (5)アダム・スミス『道徳感情論』下(岩波文庫)

 すでに「上」を買ってあるので。

 5冊の文庫本を抱えて、4階の喫茶店「シビタス」に入る。ここは神田須田町の「万惣フルーツバーラー」の姉妹店で、ホットケーキが名物。ほとんどの客がホットケーキを食べている。私も「スタンダード」(450円)を注文する。ホットケーキという食べ物は、これは私の年代だけではないと思うが、幸福感と結びついている。こんがりきつね色に焼けた熱々のホットケーキにバターを塗り、メイプルシロップをかけて、ナイフとフォークを使って食べるという工程は、いかにもハイカラで、心躍るものがある。ところで、私の横のテーブルに座った常連客とおぼしき年配の紳士が、「いつものやつを」といってホットケーキとミルクティーを注文したのだが、そのホットケーキというのが2枚ではなく1枚なのである。通常、ホットケーキというのは2枚重ねである。しかし、ちょっとお茶受けに食べたいというときは、2枚は重いだろう。それで1枚を注文ということなのであろうが、いかにも常連さんならではの注文で、何回通ったらこういう注文に応じてもらえるようになるのだろう。ちなみに、私はこの人よりも先に店を出たので、ホットケーキ1枚のお代がいくらなのかはわからない。

 夜、小津安二郎の最初のトーキー作品『一人息子』(1931年)を観る。これも「モダン都市の変貌の中で」に出てくるのである。資料を調べる気分で、それほど期待しないで観始めたのだが、実に面白かった。東京の大学に進んだ息子の成功した姿を一目見ようと、信州の片田舎から上京してくる母親が東京で見たものは・・・・という話で、名作『東京物語』(1953年)と構図がよく似ている。母親が孫をあやしながら、「大きくなったら何になる?」と問いかける場面も共通で、これにはびっくりした。

 

5.12(月)

 『痴人の愛』の主人公、河合譲治は28歳の電気会社の技師。8年前、浅草のカフェの女給として働く、数え歳でやっと15歳の少女にひかれて同棲を始めたのだが、なぜその少女にひかれたのか、その理由(の1つ)が面白かった。

 「多分最初は、その児の名前が気に入ったからなのでしょう。彼女はみんなから「直ちゃん」と呼ばれていましたけれど、或るとき私が聞いて見ると、本名は奈緒美というのでした。この「奈緒美」という名前が、大変私の好奇心に投じました。「奈緒美」は素敵だ、NAOMIと書くとまるで西洋人のようだ、と、そう思ったのが始まりで、それから次第に彼女に注意し出したのです。不思議なもので名前がハイカラだとなると、顔だちなども何処か西洋人臭く、そうして大そう悧巧そうに見え、「こんなところの女給にして置くのは惜しいもんだ」と考えるようになったのです。実際ナオミの顔だちは、(断って置きますが、私はこれから彼女の名前を片仮名で書くことにします。どうもそうしないと感じがでないのです。)活動女優のメリー・ピクフォードに似たところがあって、確かに西洋人じみていました。」

 なるほどねぇ、『痴人の愛』の愛人の名前が「ナオミ」であることは、文学史的事実として、『痴人の愛』を読んでいない私も知っていたが、主人公がその名前にそんなにひかれたとは知らなかった。『痴人の愛』は関東大震災の直後の1924〜25年にかけて発表された作品である。明治生命のデータによれば、1924年生まれの女性の名前ベスト10は、文子、千代子、幸子、清子、久子、美千代、愛子、光子、静子、貞子、である。すべて「○○子」であり、「○○」の部分に入る文字はプラスの意味(そういう女性になって欲しいという親の願い)を帯びた文字である。そういう文脈で考えると、「奈緒美」という名前は確かに目新しい。「子」ではなく「美」で終わり、「美」の前の部分の文字「奈緒」は、万葉仮名のように音を表示して特別のプラスの意味は帯びてはいない。主人公が「奈緒美」と書かず「ナオミ」と書いたのは、漢字のもつ意味を消去して音のみを残したということである。「NAOMI」と書くと西洋人のようだといったのはもっとなことで、Naomiは聖書にも登場する女性の名前である。昔、世界歌謡祭というのがあったが、その初回のグランプリ曲がヘドバとダビデという男女2人組が歌った「ナオミの夢」だったことを覚えている。なお(洒落ではないが)、「ナオミ」がベスト10に初めて登場するのは東京オリンピックの翌年、1965年のことである。ただし、その表記は「奈緒美」ではなく「直美」であった。『痴人の愛』は巷にナオミズムという流行語を生んだが、世の親たちは自分たちの娘が自由奔放な女ではなく、素直な女に育つことを望んだのであろう。「直美」は1969〜71年まで3年連続でトップを占めたが、オイルショックのあった1973年にベスト10から消え、その後、再び浮上することはなかった。そして時は流れて、2002年生まれの女の子の名前ベスト10は、美咲、葵、七海、美羽、莉子、美優、萌、美月、愛、優花、である。もはや「奈緒美」は古風な女に見えてくる。

 社会学専修の卒業生で、東急電鉄の広報課長をしているY君から「ル・シネマ」で上映中の映画の切符をいただく。「北京ヴァイオリン」と「春の惑い」。ともに中国映画である。「ル・シネマ」は中国映画をよく上映する。「初恋の来た道」や「あの子を探して」。フランス映画だが中国を舞台に中国人の俳優を使った「小さな中国のお針子」。どれも心に残る作品だ。〆切を過ぎた原稿3本と〆切の迫った原稿1本、そして週5コマの授業の準備に追われる日々だが、忙中に閑あり、映画を観る時間くらいその気になればひねり出せるものである。

 

5.13(火)

 社会学演習VDの合宿を7月の最後の週に予定していて、場所は7月にオープンする鴨川セミナーハウスを希望している。大学のホームページからセミナーハウスの申込用紙をダウンロードしようとしたら、鴨川セミナーハウスの欄のない古い申込用紙のままだった。文学部事務所にもやはり古い申込用紙しか置いていなかった。しかたがないので、学生会館の学生部のカウンターに直接申込用紙を取りに行く。セミナーハウスの利用は抽選なので、抽選に落ちたときのために、追分セミナーハウスを第二希望、本庄セミナーハウスを第三希望にしたい旨を告げると、では、申込用紙を3枚書いて提出して下さいと言われる。なるほど、申込用紙には第一希望から第三希望までの欄があるのだが、それは特定のセミナーハウスを指定した上で、利用期間を第三希望まで書けるようになっているもので、今回のわれわれのように期間の方が決まっていてセミナーハウスを第三希望まで指定したい場合には、申込用紙そのものを3枚書いて、それぞれの用紙の欄外に第何希望であるかを明記し、セットで提出しないとならないと言われた。しかし、セミナーハウスをゼミで利用する場合(セミナーハウスとはそもそもそういうものだと思うが)、まず期間の方が先に決まって(全員が参加できる期間を設定するのは大変だ)、次に、ではどこのセミナーハウスを利用するかという順番で物事が進んでいくのではなかろうか。まず、利用したいセミナーハウスがあって、期間がその次に来る(第一希望の期間がとれなければ第二希望の期間で)という発想は、サークルなどの合宿、それもレクリエーションの色彩の強い合宿の発想ではなかろうか。いまの申込用紙のフォームを廃せとは言わないけれど、馬券に枠番と馬番があるように(?)、セミナーハウスの利用申込用紙にもセミナーハウス優先用と期間優先用の2通りがあってもよいのではなかろうか。また、抽選にあたって、ゼミでの利用とサークルでの利用を同等に扱うというのも、「セミナーハウス」という名称に照らして、私には理解しがたいことである。

 

5.14(水)

 梅雨入りが近づいているらしい。この時期、教員の心は弾まない。ゴールデンウィークはすでに終わり、しかし、夏休みはまだ地平線上に姿を現していない。周囲は一面の砂漠である。こういうときこそ講義は元気にやらねばならないと、沈む心に鞭打って、3限の「社会学研究9」の教室に入ってみると、いつもより学生の数が少ない。時計を見ると、まだ開始時間の数分前である。いけない、開始時間前に教室に入るなんて、新米教師みたいじゃないか。教壇の椅子に座ってうなだれていると、学生たちがぼちぼち教室に入ってくる。しかし、前の方の席が埋まらない。私はこの空虚なスペースが苦手である。草も生えない空き地の前に立っているような殺伐とした気分になる。講義中も川の向こう側にいる学生たちに向かって話をしているような感じがする。私は一方向的な講義というのが嫌いで、授業中にときどき学生に質問をして、その回答を素材にして授業を進めるというやり方を好む。しかし、前の方に座る学生がいないとこれがやりにくい。それでもやるのであるが、どうも調子がでない。しまいに話すことだけさっさと話して帰りたくなってしまう。「メーヤウ」でいつもより★印の多いカリーを食べ、「カフェ・ゴトー」で温かなココアを飲みたくなってしまう。そして研究室に戻って『痴人の愛』の続きをデカダンスな気分に浸りながら読みたくなってしまう。・・・・これ、すべて梅雨入りが近づいているせいである。(受講生でこれを読まれた方は、次回、前の方に座って下さい)。

 

5.15(木)

 今日は給料日。砂漠にオアシスである。帰宅して妻と小遣いの値上げの交渉をする。給与は全額本人が管理し、毎月一定の生活費を妻に渡している人もいるが、私の場合は、給与は全額妻が管理している銀行口座に振り込まれ、私は妻から毎月一定の小遣いを受け取っている。どちらの形式がよいのかは考え方によるだろう。私の父親は自分で管理する人だった。専業主婦である母親はそのことを不満に思っていて、その不満をよく聞かされていた私は、父親とは違う形式を無意識のうちに選んだのかもしれない。家計は全部妻に任せているので、その意味では楽であるが、小遣いという形で自分の稼いだ金(の一部)を受け取るのは、それが大した額ではないこともあって、情けない気分のときもある。私は酒を飲まず、煙草を吸わず、賭事もせず、女遊びもしない(ということになっている)。しかし、本の購入にお金がかかる。早稲田大学の教員は助手も教授も一律年間40万円の研究費をいただいているが、夏休みの終わる頃には本代であらかた消えてしまう。私は結婚を後悔したことはただの一度もないが、月に一度、給料日だけは、「もしも私が独身であったら・・・・」と仮定法過去で考えてしまうのである。

 夜半、「社会学研究9」の講義記録(4)を作成し、アップロードする。

 

5.16(金)

 明日の「社会学基礎講義A」の受講生の1人から「100キロハイク」に参加するので授業を欠席しますとのメールが届く。演習や卒論指導の学生から欠席のメールが届くことはよくあるが、大人数(「社会学基礎講義A」の受講生は180人)の授業では初めての経験である(もちろん私はその学生を知らない)。なんだか新鮮な感動を覚えましたね。しかし、もしこれが新しいスタンダードになったら、大教室での授業の前日のメールは大変なことになるだろう。

 

5.17(土)

 朝、駅に向かう途中、Kさんの奥さんと立ち話をする。彼女は私の小・中学校時代の同級生である。やはり同級生でKさんと仲のよかったTさんの娘さんが今年早稲田の文学部に入ったのよ、という話を聞かされる。へぇ、そうなんだ。実は、やはり同級生で私の親友だったY君の姪ごさんが去年文学部に入って、今年私の授業をとっているんだと話すと、Kさん目を丸くして驚いていた。いや、世間は狭いです。そして、同級生の子供が大学生になるということは、われわれもそういう歳になってしまったということだ。ところで、Kさんとの会話中、私がいささか落ち着かなかったのは、Kさんが私のことを「孝治君」と呼ぶためだった。私、来年50歳になるんですけど・・・・。いや、それでもね、小・中学校時代、私がKさんに「孝治君」と呼ばれていたなら、そのときの呼び方が時間と空間を超えて蘇ったのだと一応の説明はつきますけども、当時、私は「大久保君」と呼ばれていたはずで、「孝治君」なんて同級生の女の子から呼ばれた覚えはないんです。それがなんでいまになって「孝治君」なのかと。今日はたまたま「社会学基礎講義A」で「名前と規範」について話をすることになっていたので、この朝のエピソードをさっそく授業で使わせてもらいました。

夜、「社会学基礎講義A」の講義記録(第3回)を作成し、アップロードする。

 

5.18(日)

 終日、原稿書き。

 

5.19(月)

 今日も、終日、原稿書き。・・・・と2日続けてこれで済ますのは「フィールドノート」の読者(といってもどれほどの方に読まれているのか私には全然わからないのですが)に対して申し訳ないので、ちょっとだけ書きます。原稿書きで机の前に座りきりというのは精神衛生上よくないので、こういうときは、昼食を外に食べにいくことにしている。このとき2つの関門がある。第一の関門は妻であり、第二の関門は同居している母である。妻は私が家にいるので、私のために昼食を作るつもりでいる。したがって、いかに妻の機嫌を損ねないで昼食を食べに出かけるかという問題が生じる。「はい、はい。どうせ私は料理が下手ですよ。」などと拗ねられたりしたら最悪である(世の常として妻は家事をいかに手抜くかを始終考えているくせに夫に手抜きを指摘されると憤慨するのである)。一方、母は嫁がいるのになんで息子は昼食を食べに出かけるのかをいぶかしく思うに違いない。したがって、昼食に出かけるのではなく、ただの散歩に出かけるフリをしなくてはならない。「ウチの嫁は息子に食事も作ってやらない。なんてひどい嫁だこと。」などと誤解されたりしたら最悪である(世の常として姑は嫁の欠点を見つけて吹聴することを生きがいとしている)。2つの関門のうち、妻に関しては、最近になってようやく私の行動様式というかライフスタイルを理解させることに成功したので(長い歳月であった)、「いま、原稿に追われていてね・・・・」というだけで話が通じるが、問題は母である。嫁が作らないなら自分が作ると言い出す人である(それも嬉々として)。であるからして、「ちょっと散歩に出てくる」というだけでは不十分で、食事を済ませてすぐに帰宅しては散歩でないことがばれてしまう。したがって、今日は、近所のラーメン専門店「青葉」で特製中華そばを食べてから、原稿書きで一分一秒が惜しいにもかかわらず、古本屋を1軒と新刊本屋を1軒回ってから帰宅した。数日前の「フィールドノート」で、給料日は独身者が羨ましいというようなことを書いたが、今日のような日も独身者を羨ましく思う。

 

5.20(火)

 芥川龍之介に「子供の病気」という短編がある。2歳になる次男の多加志が急に具合が悪くなって入院したときのことを書いた彼にしては珍しい身辺雑記である。それを読んでいて、次の箇所に目がとまった。「その日は客に会ふ日だつた。客は朝から四人ばかりであつた。自分は客と話しながら、入院の支度を急いでゐる妻や伯母を意識してゐた。」やはり芥川も「面会日」というものを設けていたんだ、と私は思った。その日、たまたま客があったのではない。週の決まった曜日を「面会日」として設定し、面会を希望する人は「面会日」に来てもらうとい方式は、戦前の売文業者(作家や評論家)にとって一般的なものだった。そうしないと集中して仕事ができなかったからであろう。

で、ここからが、今日の本題(?)なのだが、大学の教員にも面会日あるいは面会時間を設定している人がいる。これはアメリカの大学では「オフィスアワー」といって一般的な方式である。私も一度この方式を試みたことがあるのだが、あまり効率的な方式ではないと感じたので、すぐにやめた。第一に、授業の関係でこちらが設定した「オフィスアワー」に来られない学生がいること。第二に、複数の学生が面会に来た場合、一人が終わるまで、他の学生には廊下で待っていてもらわねばならないこと。第三に、「オフィスアワー」として公表している以上、その時間は学生が来ようと来まいと研究室にいないとならないこと。というわけで、現在は、固定した「オフィスアワー」というものは設定せず、面会を希望する学生はメールで申し込んでもらい、日時を相談の上、研究室に来てもらっている(メール上で用件が済んでしまう場合も多い)。しかし、「飛び込みの面会お断り」というこの方法を窮屈なもの、敷居の高いものと感じる学生はいるようで、先日もある学生から、事前の申し込みなしでは面会してもらえない理由は次のうちどれですか、「1.研究室にいるからといって時間が取れるとは限らない」、「2.忙しくても断りにくい」、「3.学生はそんなに簡単に教授に面会できるものではない」・・・・、とメールで質問されて苦笑した。社会学者の清水幾太郎が、若い頃、「面会日」を設定したら「大家ぶりやがって」という風評が立ったという話を自伝の中で書いていたのを思い出した。

 

5.21(水)

 演習の学生たちと話をしていたら、一人の男子学生が盛んに「アツイ」という言葉を使う。たとえば、私が彼らの求めているようなデータの載っている本を紹介すると、「あっ、それ、アツイです」と言う。「いやそんなに厚い本ではないよ」というと、「あっ、先生、うまい」と言われた。どうやら「アツイ」は「熱い」で、「ベリー・グッド」の意味らしい。私も「アツイ」という言葉は使うことがあるが、それはたとえば、将棋を指していてライバルに連敗したときなどに、「アツイ」と言う。つまり、「頭に血がのぼる」という意味である。昔、「煮詰まる」という表現を「そろそろ結論を出す段階に来た」という意味ではなく、「行き詰って膠着状態になる」という意味で使う人がいることを知ったとき以来の驚きであった。

夜、「社会学研究9」の講義記録(第5回)を作成し、アップロードする。

 

5.22(木)

 いま23日の午前6時になるところ。徹夜でどうにか原稿を1本書き上げる。ふぅ、やれやれ。・・・・でも、まだ3本原稿残っている。今日は午後から大学院の演習と、アドバイザーをしている二文の学生との面談があって、夜は私の調査実習ゼミの一期生たち(そろそろ30歳になろうとしている)との飲み会がある。とりあえず、少し寝ます。ああ、そうそう、昨日の二文の基礎演習では面白いことがあった。対人関係をテーマにしたグループ発表だったのだが、質疑応答のとき、一人の男子学生が「僕は実は32歳で・・・・」と一種のカミングアウトを行ったのだ。彼は現役か一浪といっても十分通用する容貌の持ち主で、私も、他の学生たちもそうだと思い込んでいたので、教室全体が「エッー!」という感じで驚いた。彼は新歓コンパに出たとき、20歳の「先輩」から「大学の4年間なんてあっと言う間だから、しっかり勉強しろよ」と説教されたそうで、そのときのなんとも言えない気持ちを切々と語るのだが、それがなんとも可笑しくて、教室中に何度も爆笑が起こった。しかし、彼の場合ほど極端ではないにしろ、年齢と学年の「ねじれ」という現象は二文では日常茶飯で、コミュニケーション場面で年齢の上下を優先するか、学年の上下を優先するか(具体的には相手を何と呼ぶか)でけっこうみんな苦労している。私は放送大学で教師をしていたから、自分より年齢が上の学生なんて珍しくもなんともないので、そこでは私は学生のことは全員「さん」付けで呼んでいましたね。・・・・さあ、本当にもう寝よう。

 

5.23(金)

 本日の大学院の演習(近現代日本における「人生の物語」の生成)は小津安二郎の「一人息子」の鑑賞会。私が所有しているビデオテープを社会学演習室のテレビで観る。映画を観るときは、お煎(餅)にキャラメル、あるいはコーラとポテトチップと昔から決まっている。大学に来る途中、コンビニで草加煎餅、森永のミルクキャラメル、カルビーのポテトチップス(塩味)、ペプシコーラ(新発売のレモンツイスト)、ウーロン茶を購入。それらを演習室に持参する。映画は難しい顔をして観るものではない。

 夜、高田馬場の「土風炉」で、「大久保ゼミ」(社会学専修では3年次の調査実習のクラスを「○○ゼミ」と呼ぶ慣習がある)一期生である卒業生6人と会食。研究者が2名、地方公務員が2名、NGO・NPOの職員が2名で、いわゆる普通の会社勤めをしている人が今日は一人もいない。全員、30歳前後という人生の時期にあるが、直面している人生の局面はさまざまである。I市役所に勤めるS君は、独身で、ずっと同じ部署で働いている。K市役所に勤めるK君は、すでに一児の父親で、いまの職場は4つ目で、さならる転職を模索中である。N大学で非常勤講師をしているT君は大学院の指導教官との関係がうまくいっていない。J女子大学で非常勤講師をしているH君は女子学生の魅力に屈することなくクールに授業を進めている。ホロコースト教育関連のNPOで働いているNさんは去年父親を亡し、今年結婚したが、大学の助手をしている夫の就職問題が心配だ。環境問題のNGOで働いているIさんは組織の中での自分の役割について思案することが多い。一次会の後、「ルノアール」で閉店の11時までお喋りを続けた。そして、東西線、西武新宿線、山手線内回り、山手線外回り、それぞれの電車に乗って各自の場所に帰っていった。

 

5.24(土)

 歳を取ると、運動をした筋肉の痛みが翌日、翌々日と遅れてやってくる。それと同じことだろうか、一昨日の徹夜の疲れが今日になって出た。1限の「社会学基礎講義A」は歩きながら喋り、喋りながら板書をする授業なのでウトウトしている余裕はないが、その後の卒論ゼミでは学生の報告を聴きながら眠気と闘った。午後2時からの博士論文研究会は、予定されていた報告者が都合で2人から1人に変更になったこともあって、早めに終わったからよかったものの、夕方まで続いていたら絶対に途中で居眠りをしていたであろう。

 「ヤマノヰ本店」で古本を2冊、文学部生協店で新刊本を5冊購入。

 (1)本田喜代治『コント研究』(芝書店)

 昭和10年の出版。清水幾太郎が東大文学部社会学科の卒論(昭和6年)のテーマにオーギュスト・コントを選んだときのことを振り返って、自分だけが時代に見捨てられたコントの著作を研究するのだということが、一種の高揚感を彼に与えていたと自伝の中で述べている。しかし、実は、コントを研究していたのは清水だけではなかった。田辺寿利は『フランス社会学史研究』(昭和6年)の中でコントを論じていたし、新明正道も『オーギュスト・コント』(昭和10年)を、本田喜代治も本書を出版していた。清水はマルクス主義の言語でコントの学説を切って捨てたが、本田はコントの「人と思想」を丁寧に扱っている。後年(昭和53年)、清水が『オーギュスト・コント』(岩波新書)でコントの「人と思想」を共感をもって論じたのには、コントを大根でもスッパリ切るように扱ってしまったことへの悔恨のせいに違いない。

 (2)宝月誠『逸脱論の研究』(恒星社厚生閣)

「社会学基礎講義A」で何回か先に逸脱論について話す予定なので、その参考資料として。

 (3)『村上春樹全作品1990〜2000 4 ねじまき鳥クロニクル1』(講談社)

 例によって著者自身による「解題」を読むために購入。彼は「総合小説」(たとえば『カラマーゾフの兄弟』みたいな)を書くことを作家としての人生の最終的な目標としているらしい。そのために初期のクールな都会小説的作品を自己模倣することを、この作品の頃から意識的に避けて、彼自身の限界を外に押しやる努力をし始めたのである。

 (4)伊藤氏貴『告白の文学』(鳥影社)

 著者は第一文学部の文芸専修の出身で、現在35歳。日大芸術学部の講師。昨年度の『群像』新人文学賞(評論部門)を受賞している。この作品は5年前の彼の博士論文で、森鴎外『舞姫』から三島由紀夫『仮面の告白』までを、近代の行為である「告白」という視点から論じたもの。「あとがき」に指導教授の名をあげて感謝している箇所があるが、なんとその名前に誤植があったようで、上から修正の紙が張られているのがご愛嬌である。誤植を発見したときはさぞかし飛び上がったことであろう。

 (5)西川祐子『借家と持ち家の文学史』(三省堂)

 「近代日本文学の歴史とは、自分の身の置き場所を求めて、引っ越しや移築をたえずくりかえす物語だった」というユニークな視点から、島崎藤村『家』から小島信夫『うるわしき日々』までの日本文学を論じたもの。確かに市井の人々の人生の課題の1つは自宅をどうするかですよね。まぁ、私自身は2年前に自宅を新築して、さしあたりこの課題はクリアーしたつもりですけどね。

 (6)佐藤泉『漱石 片付かない〈近代〉』(NHKライブラリー)

 いま電車の中で夏目房之介『漱石の孫』(実業之日本社)を読んでいるのだが、超有名人の子供や孫って大変だよね。ああ、よかった、大久保利通のひ孫じゃなくて。

 (7)『岩波講座 文学3 物語から小説へ』

 こういう講座ものは岩波書店と東大出版会の得意とする商売である。しかし、いいなりになって機械的に全巻購入するつもりはもちろんありませんからね。

 

5.25(日)

 正午まで寝ている。次回の大学院の演習の課題文献である、御厨貴「軽井沢はハイカルチャーか」と園田英弘「近代日本の文化と中産階級」に目を通す(『近代日本文化論』の3巻と5巻に所収)。

「軽井沢で避暑」は長く庶民の憧れのライフスタイルであったし、いまもそうかもしれない(その意味で、最近、早稲田大学が「追分セミナーハウス」を「軽井沢セミナーハウス」と改称したのは、早稲田大学の庶民性を如実に示した行為であるといえよう)。御厨のエッセーは、その「軽井沢で避暑」を実践していた5人の人物、馬場恒吾(ジャーナリスト)、鳩山一郎(政治家)、朝吹登水子(翻訳家)、白州次郎(カントリー・ジェントルマン)、玉村豊男(エッセイスト)を取り上げて、彼らが軽井沢に見出したハイカルチャーは、彼らが自分の思い(人生)を軽井沢という場所に託したという意味において、バーチャルカルチャーでもあったことを論じたもの。ところで、庶民の軽井沢への憧れを加熱したものとして必ず言及されるのは、皇太子明仁と正田美智子の「テニスコートの恋」(昭和33年)であるが、もう一つ忘れてはならないのは、堀辰雄の小説『風たちぬ』(昭和12年)である。今週の通勤電車の読書はこれに決定。

 一方、園田の論文は、村上泰亮が『新中間大衆の時代』(1984年)において、高度経済成長以降に中流階級が「溶解」し、「新中間大衆」が出現したと指摘したとき、戦前期には「山の手階級」のような確固とした中流階級が存在していたことを疑っていなかったことを問題にし、「新中間大衆」の歴史的前身は中流階級というより、階級としての構造化の弱かった上流・中流エリートであり、日本がいち早く「大衆化」に向かう素地は戦前期の中流階級の「階級的弱さ」にあったことを論じたもの。とりわけ『華族家庭録』(1936年)という資料を使って華族がいかに有閑階級ではなかったかを証明し、上流階級が確固として存在していない社会的条件の下では中流階級全体の望ましさの規範を代表する「アッパー・ミドルクラス」(上層の中流階級)が成立しにくいことを論じた下りは興味深かった。

 頭を使う読書の後には、お気に入りの作家の文章を読むのがいい。嵐山光三郎編『山口瞳「男性自身」傑作選熟年編』(新潮文庫)の中の数編を、飼い猫と一緒に寝転びながら読む。山口瞳が死んでから今年で8年目になる。

 

5.26(月)

 今日も正午まで(正確には12時半まで)寝ている。とくに外出する用事のない日曜と月曜は髭を剃らないことが多い。洗面所の鏡を見ると、かなりむさ苦しい顔になっている。私の顔はいわゆる「醤油顔」ではない。色も黒い(地が黒いのではなく、日焼けしやすいのである。夏の海水浴と冬のスキー、そして日々の散歩で、日焼けの引く間がないのである)。視力は良好でメガネは掛けていない。ただでさえインテリには見えないが、今日のように無精髭を生やしていると、路上の生活保護の必要な人のように見える。夕方、無精髭のまま、ちょっと散歩に出る。本屋で万引きを疑われるといけないので、よく磨いた靴を履き、マリオヴァレンチノのシャツを着て出る。「書林大黒」の100円本のコーナーで神吉拓郎の短編小説集『私生活』(1983年下半期の直木賞受賞作)を購入し、「シャノアール」に入って冒頭の数編を読む。ウェイトレスに珈琲を注文するときの口調や、読書の姿勢が紳士らしくあるように気をつける。無精髭も楽じゃない。自宅に戻って、書斎のパソコンの前に座っていたら、ちょっと大き目の、しかも長く揺れる地震があった。最近、地震が多いような気がする。

 夜、「社会学基礎講義A」の講義記録(第4回)を作成し、アップロードする。

 

5.27(火)

今日は授業も会議もない日なのだが、二文の基礎演習のグループ発表の相談の予約が入っているので大学へ出る。午後1時から3時までびっしりとやる。その後、遅い昼飯をとりに高田牧舎に行く。一昨日、『山口瞳「男性自身」傑作選熟年編』の嵐山光三郎の「解説」を読んでいたら、山口瞳はオムライスが好きで、「地方旅行をしていて、どこかの食堂で昼食というときに注文する」と書いてあった。実は私もオムライスが好きで、これを読んだときから、オムライスが食べたくなっていたのである(私はたいてい家を出るときからその日の昼食を決めている)。高田牧舎のオムライスはケチャップがかかったオムライスで、私はデミグラスソースのかかったものよりも、どちらかというとこの方が好みである。デミグラスソース自体は好きなのだが、その濃い味にケチャップライスの味が負けてしまうのである。

帰りの電車の中で、堀辰雄の「美しい村」を読む。「風立ちぬ」を読むつもりだったのだが、持参した文庫本(新潮文庫)にこの2編が入っていて、文庫本のタイトルが『風立ちぬ・美しい村』だったので、その順番どおり最初に「風立ちぬ」が置かれているものと勘違いして、読み始めてしばらくしてから「美しい村」であることに気がついた。でも、どちらも軽井沢を舞台にした小説であることに変わりはないので、まあ、いいか、と読むことにした。文庫本の奥付には「昭和四十六年六月十日五十一刷」とある(定価は100円)。昭和46年は1971年である。当時、私は高校2年生で、この本を買ったのはたぶん蒲田駅東口の商店街の中ほどにあった「大和書房」である。まだ堀辰雄は文学少年・少女によく読まれていて、新潮文庫には7冊が入っていた(『風立ちぬ・美しい村』のカバーにそう記されている)。どの文庫本も表紙は難波淳郎という人の明るい風景画であった。おそらく17歳の私は、リリカルなタイトルと表紙に惹かれてこの文庫本を買ったのだと思う。しかし、インターネット(bk1)で調べてみたら、いま新潮文庫で入手できる堀辰雄のものは、『風立ちぬ・美しい村』、『菜穂子・楡の木』、『大和路・信濃路』の3冊だけで、『燃ゆる頬・聖家族』、『かげろう日記・曠野』、『幼年時代・晩夏』、『妻への手紙』の4冊は絶版ないし品切れになっている。関口夏央は『本よみの虫干し』(岩波新書)の中でこう書いている。「一九四〇年代半ばから一九七〇年代半ばに至る堀辰雄の人気は(いまも形骸化して「広告業界」には残るが)、「進歩」への不安を動機とした成長への拒絶感、その無意識の表現ではなかったか、と私はにらんでいる。」なるほどね。とすると、現代の拒食症の少女たちは堀辰雄ファンの文学少女の末裔ということになるかもしれない。老いることも太ることも醜悪なことなのである。

 

5.28(水)

水曜日の昼食は、たいてい3限の「社会学研究9」が終わった後、文学部横の「メーヤウ」でカリーを食べることが多い。今日もそうだった。しかし、今日はいつものタイ風レッドカリー(辛さを表示する★印2.5個)ではなく、1つ上のインド風ポークカリー(印3個)を注文してみた。日常生活はマンネリズムとの闘いである。で、そのインド風ポークカリーだが、実に美味しく、そして実に辛い。ライスを普通盛にしたことをすぐに後悔した。辛いのでルーの減るスピードよりご飯が減るスピードの方が速く、最後はルーだけが残ってしまい、その辛いルーをルーだけ飲むことになってしまった。食事中、私はずっと水を飲み続けていた。いつものタイ風レッドカリーの場合は、水を飲めば口の中から辛さは消えるのだが、今日のインド風ポークカリーの場合は、水を飲んでも飲んでも喉のヒリヒリ感が消えないのである。私はそのヒリヒリ感を抱えたまま、研究室に戻って演習のグループ発表の相談に臨んだが、相談を始める前に、学生に断ってキャラメルを一粒舐めた。それでなんとか辛さを中和することができた。

このところ地震が多いせいか、私の研究室に来る学生たちは異口同音に「いま地震が来たら危ないですね」と言って壁を見上げる。書架の本のことを言っているのである。どの教員も同じだろうが、私もとにかく本の置き場所には苦慮していて、備え付けの書架の上に近所の家具屋で買ってきたベニヤ合板のラックを置いて、天井まで本を積み上げている。当然、そこにある本には手が届かないので、研究室には折り畳み式の梯子が置いてあって、それを使って必要な本を取っている。ラックは固定されているわけでないので、大きな地震が来ると落ちてくる可能性はある(ただし一昨日の地震では1冊の本も落ちなかった)。だから、研究室のテーブルで学生と話をするときには、「そこの席は一番危ないよ」とまず注意を促してから本題に入ることにしている。そうすると学生はあまり長っ尻をしないで、帰っていく。

夜、本日の「社会学研究9」の講義記録を作成し、アップロードする。

 

5.29(木)

 私は前期、講義を2つと、演習を4つもっている。講義の準備は時間がかかる。1週間前から頭の中で次回の授業の組み立てをあれこれ考え、授業の前日、3時間ほどかけて講義ノートと講義資料を準備し、話が授業時間内に終わるよう、時間配分を考えつつ頭の中で講義のシュミレーションをする(このシュミレーションは当日の朝の電車の中まで続く)。そして授業の後は、できるだけその日のうちに、講義記録を作成してホームページにアップロードする。講義記録の作成に要する時間は3〜4時間である。したがって1週間に担当可能な講義は3つが上限である(3科目×2日=6日)。また2つでも、同じ日に2つは無理で、2日続けてというのも難しい(1つの講義記録の作成ともう1つの講義の準備を同じ日にしなくてはならないから)。実際の私の講義の担当日は水曜と土曜なのでこの点は問題ない。一方、演習は基本的に学生の発表を軸に展開し、教師は聴き手とコメンテーター(および準備段階における助言者)を演じればよいので、楽といえば楽である。しかし、授業運営という点では演習の方がずっと難しい。講義は一から十まで自分の独断でできるが、演習は教師と学生との共同制作である。笛吹けど踊らずと教師が歯ぎしりすることもあれば、逆に学生のやる気に教師が水を注してしまうこともある。昨日は一文の社会学調査実習があり、今日は二文の基礎演習があった。明日は大学院の演習があり、明後日は一文の卒論演習がある(二文の卒論指導は月に1度)。どの演習もまずまずではあるが、どれもまだ軌道に乗ったとはいえない。一文の社会学調査実習は先にいくほど作業が大変になることが目に見えているので、この時期は少し抑え目のテンションでちょうどよいのだが、与えられた課題を無難にこなしているだけでは調査員にはなれても研究員にはなれない。25人の中から何人の研究員が生まれるだろうか(育てることができるだろうか)。二文の基礎演習は出席状況が良好なのは感心だが、発表する学生の頑張りに比べると、聴き手の学生がいまひとつ消極的である(聴き方にも積極的と消極的があるのだ)。せっかく出席しているのだから臆せず発言してほしい。大学院の演習は和気藹々なのはよろしいが、プロの研究者をめざす人はもっと研究というものを楽しまなくてはいけない。手間隙かけて楽しんでほしい。一文の卒論演習は「就活」を発表の準備不足の言い訳にすることを恥じていない人が多いのが気になる。そういう言い訳を聞かされていると、二文と同じように卒論は選択にした方がいいのではないかと思ってしまう。それでも、本気で取り組んでいる人が何人かはいるので、いずれ他の人に影響が及ぶはずであると経験上楽観的に構えてはいますけどね。

 今日もメーヤウで昨日と同じインド風ポークカリーを食べた(ただし今日は夕食)。実に美味しい。しかし、驚いたことに、早くも私の体はその辛さに適応しているのである。昨日は辛さと戦いながら食べたような感じだったが、今日は辛さと友だちになれた気がした。この調子で進化していったら、そのうちスーパーサイヤ人にだってなれそうな気がする。

 

5.30(金)

 コピーを取りに近所のコンビニに行ったら、ちょうど買物に来ていたクリーニング屋さんのおばさん(といっても息子さんが私の小学校の同級生だから80歳近い)に「あら、孝治ちゃん、今日はお休み?」と声をかけられた。先日、ご近所の奥さん(小学校時代の同級生)に「孝治君」と声をかけられたばかりで、ようやくその「孝治君」ショックから立ち直りかけていた矢先に、今度は「孝治ちゃん」である。思わずいまの一言を誰かに聞かれやしなかったかと周囲を見回してしまった。いくらなんでも「孝治ちゃん」はないでしょう。どうやら私の住む地域社会の時計は40年前に止まってしまったらしい。

 今日の大学院の演習のテーマの1つは「軽井沢」というハイカルチャーだったが、私は自宅の書庫から高校2年生のときに買った『立原道造詩集』(角川文庫)を持参した(裏表紙の隅に「17才秋」と記してある)。堀辰雄が「高原の小説家」とすれば、立原道造は「高原の詩人」である。高校生だった私は彼の詩のいくつかを諳んじていた。詩を諳んじるという行為は当時の文学少年・少女の間では一般的な行為であったが、演習の学生に尋ねたところ、いまではそれはもう死滅した行為らしいことがわかった。教育とは文化の伝達である。私は『立原道造詩集』の中から「黄昏に」という一篇を朗読して聴かせた。

 

 すべては 徒労だった と

 告げる光の中で 私は また

 おまへの名を 言はねばならない

 たそがれに

 

 信じられたものは 美しかつた

 だが傷ついた いくつかの

 風景 それらは すでに

 とほくに のこされるばかりだらう

 

 私は 身を 木の幹にもたせてゐる

 おまへは だまつて 背を向けてゐる

 夕陽のなかに 鳩が 飛んでいる

 

 私らは 別れよう・・・・別れることが

 私らの めぐりあいであつた あの日のやうに

 いまも また雲が空の高くを ながれてゐる

 

 高校生だった私は、下校途中の目蒲線の車内で、窓に映る夕陽を見つめながら、「すべては徒労だった・・・・」で始まるこの詩を小さな声で諳んじた。もちろんそのときの私には別れを考えるべき相手などいなかった。文学少年とは恋愛をする前に失恋の詩を読んでしまう人間である。

 

5.31(土)

 今日で定年退職される一文の柏原事務長の送別会に出席。柏原さんが事務長を勤められた4年間は、私が二文の学生担当教務主任をしていた2年間と重なっている。面と向かっては「柏原さん」「事務長」と呼んでいたが、心の中では「おやじさん」であった。映画『冬の華』で加納秀二(高倉健)が坂田良吉(藤田進)を「おやじさん」と呼ぶ、あの「おやじさん」である。18歳で職員になって、以来42年間、早稲田大学一筋のたたき上げの職業人であった。お世話になりました。いつかまたどこかでお会いできる日まで、お元気で。

 本日の「社会学基礎講義A」の講義記録(第5回)を作成し、アップロードする。

 

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