フィールドノート0308

8.1(金)

合宿の癖で昨日も今日も朝7時に目が覚める。健康的な、あまりに健康的な、一日の始まりである。いっそのことこれを機会に夜型から朝型へ(というほどの早起きではないが)ライフスタイルを変えてみようかと思ったりする。でも、昨日寝たのは午前3時だったから、就寝時刻はいつもの夜型で、起床時間だけが朝型になっているわけで、こういうのはやっぱり健康的とはいわないだろう。

 複雑な事情を抱えた家族があって、その家族のメンバー一人一人を主人公とする6篇の短編小説から構成される村山由佳『星々の舟』から冒頭の一篇「雪虫」を読む。泣かせる話という点では同じ直木賞作家の浅田次郎と通じるものがあるが、浅田ほど単刀直入ではなく、陰影に富んだ文章は伊集院静の『受け月』(平成4年直木賞作)を思わせる。

 つらい経験から再起する女性たちを主人公にした5篇のラブストーリーから構成されるよしもとばなな『デッドエンドの思い出』から表題作を読む。婚約者の男性からだんだん連絡が来なくなり、思い切って彼のアパートに行ってみたら、女の人がいて、彼女から「ごめんなさい。私たち結婚するんです。」と言われ、そこに彼氏が帰ってきて、「ごめん。もっと好きな人ができてしまったんだ。」と言われるという、絵に描いたようなつらい経験をした女性が、一人の奇跡的に素直な性格の青年によって癒されるという一種の御伽噺で、よしもとばななは基本的な部分でデビューの頃とまったく変っていないという印象を強くもった。30年くらい昔、『天国に一番近い島』という作品でデビューした森村桂という「万年少女」のような作家がいたが(いまは軽井沢で「アリスの丘」という喫茶店をやっている)、よしもとばななは第二の森村桂になるのだろうか。

 栄松堂で本を3冊購入。

 (1)松本建一『丸山真男 八・一五革命伝説』(河出書房新社)

 戦後日本の代表的知識人であった丸山真男が亡くなってこの8月15日で丸6年になる。同じく戦後日本の代表的知識人であった清水幾太郎と同じく、丸山もアカデミズムとジャーナリズムの接点に立っていたが、清水がアカデミックなジャーナリストであったとに対して、丸山はジャーナリスティックなアカデミストであった。

 (2)竹内洋『教養主義の没落』(中公新書)

 竹内によれば、教養主義は1970年前後までキャンパスの支配的文化であった。確かにそう思う。私が大学に入ったのは1973年であったが、文学部や本部の生協書店の書棚はメインカルチャーの本で占拠されていた。それは「名のある大学の学生ならば当然読むべき本」であった。たとえ実際には読んでいなくとも、「読んでいるフリをしなくてはならない本」であった。そうした教養主義は大正時代の旧制高校で発祥し、半世紀に渡って大学に君臨し、大学の大衆化の中で没落していった。教養主義の代理店は岩波書店である。清水幾太郎や丸山真男が立っていたアカデミズムとジャーナリズムの接点とは具体的には岩波書店のことであり、2人とも総合雑誌『世界』を活躍の舞台としていた。

 (3)スチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』(白水社)

 訳は柴田元幸。訳者の「Uブックス版によせて」には、「この翻訳を九二年に出して以来、何人もの読者が、あなたが訳した本の中でこれがいちばん好きだ、と言ってくださった。・・・・ほかの作家たちには悪いけれど、僕自身も、いままで訳した本のなかでいちばん好きな本を選ぶとしたら、この『シカゴ育ち』だと思う。」とある。これが帯では、「いままで自分が訳したなかで最高の一冊」となって使われている。「いちばん好きな本」と「最高の一冊」では意味が違うと思うのだけれど・・・・。

 東口のリサイクル書店「復活書房」に足をのばして、次の3冊を購入。

 (1)大崎善生『ドナウよ、静に流れよ』(文藝春秋)

 (2)最相葉月『あのころの未来 星新一の預言』(新潮社)

 (3)マイケル・リチャードソン『ダブル/ダブル』(白水社)

 ここでは新刊書が定価の半額で買える。昨日、栄松堂で買った『星々の舟』(1600円)もここでは850円の値札が付いていた。く、悔しい。でも、みんながこういう店を利用するようになると小さな新刊書店はたまったものではない。ほどほどに。ほどほどに。

 

8.2(土)

 夕方まで続くと思っていた会議が早めに終わり、浮いた時間を研究室の整理整頓にあてる。事務机や作業机の上に雑然と置かれていた書類や本がしかるべきところに収まると気分がスッキリする。何も載っていない作業机の上で、先日行なった試験の答案用紙を学籍番号順に並べ替える。採点の後、点数を成績簿に転記するためにはそうしておく必要がある。社会学基礎講義Aと社会学研究9、ともに170〜180枚あり、合わせて2時間近くかかった。びっしり書いてある答案もあればスカスカの答案もある。読みやすい字で書かれている答案もあれば、読みにくい字で書かれている答案もある。私は学生時代、答案を書くのが苦痛だった。普通に書いていると読みにくい字になるので、丁寧に書こうと努めるのだが、そうすると字を書くスピードが極端に遅くなり、いつも時間との戦いになった。そんなことを思い出していたら、解答の末尾に「悪筆失礼」と書いてある答案があり、なるほど読みにくい字でびっしりと書かれている。この学生も私同様苦労しているのだと同情した。余白に授業に対する感想や感謝の言葉が書かれてある答案が何枚かあった。解答以外のことを答案に書くことを嫌う教員も中にはいるだろうが、同じような答案を何枚も何枚も読む作業をしているときには、ちょっとした息抜きになって、私は悪い感じはしない。答案用紙の教員名を記入する欄が空白になっていると、この学生はきっと出席率がよくないのだろうなと思ってしまう。「大久保」ではなく「大久保孝治」とフルネームで書いてあると、印象がよい。ただし「孝治」の「孝」が「考」となっていてがっかりすることもある。・・・・念のために言っておくと、以上のようなことは、採点を左右するものではまったくありませんから、ご心配(あるいはお喜び)無用です。

 帰宅してメールをチェックすると、オックスフォード大学の大学院に留学しているT君からメールが届いていた。修士号を取得したとの知らせで、授与式当日のガウンと帽子姿の写真が添付されていた。実に初々しい。これからヨーロッパを旅行して、9月下旬に帰国するとのこと。私の卒論ゼミの出身で、外国の大学院に留学した者はT君を入れて3名で、ジョージ・ワシントン大学の大学院に留学したMさんは向こうの企業に就職し、この6月にフランス人と結婚した。ケンブリッジ大学の大学院で法律の勉強をしているNさんは、しばらく連絡がないが、彼女のことだ、きっと元気にやっているに違いない。

寝る前にシュチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』の冒頭の一篇「ファーウェル」を読む。わずか4頁の短編で、大学生の「僕」とロシア文学のゼミの先生バボビッチの一瞬の交流を鮮やかに描いた作品で、まるで川端康成の『掌(たなごころ)の小説』みたいだなと思ったら、後から「訳者あとがき」を読んだら、「一連のショート・ショートは、ダイベックが敬愛する川端康成の『掌の小説』に触発されてもいるという。」と書いてあったのでびっくりした。「ファーウェル」でとくに印象的だった箇所は、バボの部屋の机の上の壁に生まれ故郷のオデッサの市街図が画鋲でとめてあって、その市街図のいくつかの道路沿に赤インクでいくつかの丸が書き込んであるのに気づいた「僕」が、赤丸は何のしるしなのかと尋ねたときのバボの答えだった。「おいしいパン屋だよ」と彼は答えたのだ。「大学に契約を更新してもらえなかったとき、バボはあっさりよそへ移っていった。・・・・つぎはどこなのか見当もつかんよ、と彼は言っていた。でもね、ひとつの場所にとどまっていると、いずれ遅かれ早かれ、自分が属する場所がもうなくなってしまったことを思い出してしまうんだよ、と。」まるで『風の又三郎』の先生版みたいだなと思ったが、ダイベックが宮沢賢治も敬愛していたかどうかは、「訳者あとがき」には書いてなかった。

 

8.3(日)

 9月6日、7日に大阪市立大学で開かれる日本家族社会学会大会のための宿をインターネットサイト「旅の窓口」で探す。東京→(新幹線)→新大阪→(地下鉄御堂筋線)→天王寺→(JR阪和線)杉本町(徒歩)大阪市立大学、というルートで行くので、天王寺駅近くのホテルに決めた。実は、大阪は初めてである。奈良や京都や神戸には何度も行ったが、なぜか日本第二の都市大阪とはこれまでの人生で縁がなかった。だからとても楽しみである。大阪の街をあちこち歩き回りたい。学会で地方都市に行ったときは、地元の将棋道場で見知らぬ人と将棋を指すことをひとつの楽しみにしてきた。今回、残念なことは、通天閣の地下にある通天閣囲碁・将棋センターが先月23日で店仕舞いしてしまったことである。この道場には伝説の真剣師で元アマチュア名人の大田学さん(86歳)が1976年の開業以来ずっと師範代として君臨していた。いつか大阪にいったら、ここを尋ねて、大田さんに一局教えていただきたいとずっと思っていたのだが・・・・。

 旅というものは、その気にならないとなかなか行けないものである。しかし、いったん旅をしたいという気持ちになると、それを抑えることは難しい。「旅の窓口」を開いていたら、6月初めに行く予定にしていて原稿の遅れのためにキャンセルした石川県内灘町にどうしても行きたくなった。今年は内灘闘争50周年の年で、6月22日には内灘町役場の町民ホールで記念の講演・映画上映・シンポジウムなどが行われ、『証言「内灘闘争」運動に参加した人々の想い』という冊子も出版された。私は早稲田社会学会の機関紙『社会学年誌』の次の号に「清水幾太郎の内灘」(仮題)という論文を執筆することになっていて、この夏は内灘闘争関係の資料を読むことが日課の一部になっている。内灘には数年前に一度行っている。真冬の大雪のときで、列車が遅れに遅れ、内灘に着いたときはもう夕方で、誰もいない砂丘に立って雪の舞う暗い日本海をしばらく眺めていた。今度は明るい陽射しの中であのときと同じ場所に立ってみようと思った。9月12日に『社会学年誌』の特集についての会合が大学であるので、その日、そのまま金沢行きの夜行バスに乗れば、翌日の朝には内灘に着く。トワ・エ・モアの歌ではないが、誰もいない秋の海辺でしばらく時間をつぶして、10時になったら内灘文化会館の2階の町立図書館が開くので、『海辺のカフカ』の15歳の少年のようにずっと図書館にこもって、内灘闘争関連の資料を読もう。やはり現場で読むことが大切なのだ。宿は内灘町に適当なものがなかったので(食事付きの宿は避けたい)、金沢駅前のホテルを予約した。

 

8.4(月)

 「ご無沙汰しております」という件名のメールが届いて、差出人の名前を見ると、なんだか中学1年生のときの同級生の名前に似ている。(まさか・・・・)と思いながら、開いてみると、やっぱりそのH君だった。実に35年ぶりである。「ご無沙汰しております」どころではない。先日の金曜日の正午過ぎ、H君が「トム・ヤン・クン」で食事をしているときに、チェックのシャツを着て、買物袋をかかえて、店の前の通りを歩いている私らしき人物をみかけたのだが、あれは君だったのか、という内容のメールだった。うん、私だ。ただし、チェックのシャツではなく横縞のTシャツで、買物袋ではなく本屋がくれたビニールの手提げ袋だが。確か私はそのとき開店して日が浅い「トム・ヤン・クン」の店内を(ちゃんとお客は入っているかな)と心配しながらチラリと覗いた気がする。そしてそのときタイ人風の色黒で目の大きな男性と目が合った気がする。もしかしてあの男性がH君だったのか。H君はその後、気になって、検索エンジンで我らが母校「御園中学校」を調べたところ、私のホームページ(の自己紹介ページ)にヒットし、そこに書いてあるアドレスにメールを寄こしたというわけだ。メールの署名欄にはH君のホームページのURL(http://homepage2.nifty.com/blackcow/)が書かれていたので、さっそく訪問してみる。素敵な写真がたくさんあって、添えられている文章も味わいがある。私の記憶にあるH君は、トイレ掃除の当番のとき、デッキブラシをエレキギターに見立てて、ブルーコメッツの「マリアの泉」を歌っていた少年なのであるが、自己紹介欄に書かれた座右の銘が、"Never complain, never explain"(文句を言わず、言い訳を言わず)で、へぇ、高倉健のようではないかと思った。男子三日会わざれば活目して待つべし。いわんや35年ですからね。日記欄を読むと、「わけあって6月10日付けで25年間勤めた会社をやめた。奇しくもその日に3年ぶりのSteely Danの新しいCDが発売となった。」と書いてあった。「わけ」については一言も触れられてなくて、後はSteely Danの新曲の話になる。まさにnever explainだ。

 

8.5(火)

 住宅ローンの借り換えをする(いま金利が安いので)。銀行で死ぬほどたくさんの書類に署名と捺印をする。担当の女性は前回来たときと姓が変わっていて、新しい名刺をいただく。この3週間の間に結婚したのだ。「おめでとうございます」と言う。しかし、もしこれが離婚して姓が変わっていた場合は、何と言えばいいのだろう。「おや、まあ」は失礼だし、「頑張って下さい」も余計なお世話だし、結局、「そうですか」と言う以外に適当な言葉がないような気がする。今後、離婚率は上昇を続けるであろうから、そういう場面にときどき出くわすに違いない。「そうですか」という言葉をサラリと言えるように練習しとかなきゃ。男性の場合は結婚・離婚に伴う姓の不連続性はほとんどないわけで、あらためて現行の夫婦同姓制度は女性に不利な制度であると思う。しかし、夫婦別姓制度を導入したとしても問題は残る。子どもの姓はどちらかに決めなければならないからだ。仮に夫方の姓にした場合、夫婦が離婚して妻が子どもを引き取れば、子どもの姓は変わることになる(もちろんこの点は現行の夫婦同姓制度の場合も同じだ)。

実は私には画期的なアイデアがある。夫婦別姓制度を導入した上で、子どもの姓は新しく創出することにするのである。つまり、いまは子どもが生まれたら下の名前だけを命名しているわけだが、これからは姓名セットで命名するのである。こうすれば親が離婚しようが再婚しようが子どもの姓は一定である。さらに付け加えれば、子どもは成人するとき、親から与えられた姓名を継承するか、自分で新しく決めるかの選択の機会を与えられるようにする。それまで鈴木一郎と呼ばれていた男の子が、「今日から僕は花形満になります」と宣言できるのである。・・・とここまで革新的な思考を進めると、ではいっそのこと姓を廃止してしまってもいいのではないかという過激なアイデアも出てくるだろう。国民全員が、天皇家の人々のようになるのである。あるいは、ホステスやホストのようになるのである。ただし、姓がなくなるから、名前の識別能力は低下しますね。同姓同名ならぬ同名の人が増えちゃう。そこで名前の前に出身地を付けることにしたらどうかと。「清水の次郎長」とか「沓掛の時次郎」とか。出身地ではなくて渾名でもいい。「猿飛佐助」とか「左甚五郎」とか。要するに江戸時代の庶民のレベルに戻っちゃうわけだ。だめかな、やっぱり・・・・。うん、姓は残しましょう。夫婦別姓+子どもの姓の創出+成人になるときの改姓改名の機会。これです、これ。

ただし、もしこの制度が実現した場合、来年50歳になろうとしている私には改姓改名の楽しみがない。で、相談だが(誰にだ?)、還暦を迎えたときにもう一度改姓改名の機会が与えられるというのはどうだろう。たとえば、私なら姓は「晴耕」名は「雨読」、合わせて「晴耕雨読」という名前にしたいと思う。社会の一線を退き、悠々自適の老後を迎えるのに相応しい姓名だと思いませんか。・・・・夏休みに入り、翌日の講義の準備から解放されて、寝る前にこんなこと考えています。

 

8.6(水)

 ここ数日、だらだらと1日を過ごしている。「だらだら」は夏休みの1日の過ごし方の基本である。もちろん学期中もだらだらと1日を過ごすことはあるのだが、それは後ろめたい感じがする。しかし、夏休み中は、「いいや、夏休みなんだし」と自分に言い訳ができるところがよい。

 昨日、「Yahoo! JAPANサーファーチーム」から私のホームページを「Yahoo!カテゴリー」で紹介したい旨のメールが届いた。誰かが推薦してくれたのだろう。今朝、Yahoo! JAPANを開いてみると、確かに「社会科学」の中の「社会学」のページのサイトリストに新着情報として掲載されている。私のホームページは、一目瞭然、いたってシンプルなものである。凝るのが嫌いなのではなく、自分が凝り性であることを自覚しているので、凝るのが怖いのである。いかにだらだらと夏休みの日々を送っているように見えても、やりたいことや、やらなくてはならないことを、けっこうたくさんかかえているのである(ドーダ)。しかし、今回、ホームページが人目に触れる機会が増えるであろうことを考えて、内装にちょっと手を加えることにした。とはいっても、ホームページビルダーなどのソフトは使わず、もっぱらワードだけを使ってやるので、各コンテンツの目次を表形式で統一し、背景と表中をツートン・カラーで統一したという程度のことである。それでもだらだらとやっていたせいか、けっこう時間がかかってしまった。いいや、夏休みなんだし。内装に手を加えたついでに、「自己紹介」のページの「好きな料理」を「天せいろ」に変更(夏だから)。そうしたら、今夜の我が家の献立が天ぷらにざる蕎麦だった。これは偶然だろうか。私のホームページの存在は家族は誰も知らないはずなのだが・・・・。うん、きっと偶然に決まっている。

 

8.7(木)

 研究室に出る。インタビュー調査を終えてICレコーダーの返却や経費の清算に来る者や、インタビュー調査の準備作業で来る者とで、さほど広くない部屋がピーク時には12人の学生でごったがえす。あたかもサッカーの試合の控え室のようである。明後日、調査で九州に行くことになっているY君とI君が、まだ飛行機の予約をしていないことが判明し、一同びっくり。Y君は大慌てで本部キャンパスの生協に飛んでいって手続きをしたが、往きはもう適当な便がなく、結局、新幹線で福岡までいくことになった。家がお寺のK君は周囲から跡を継ぐことを求められているが、寺の住職的人生に積極的に足を踏み入れていくことができず、帰省するのが苦痛だとさかんにぼやいている。それを聞いたHさんは自分が男だったら跡を継ぐ、幼稚園も経営しちゃうと答えていた。クッキーとプリンを手土産に留学の挨拶に来たAさんは、リクライニング・チェアーに身を沈めて、私の書棚から引き抜いた小倉千加子『女の人生すごろく』(ちくま文庫)や風間研『大恋愛 人生の結晶作用』(講談社現代新書)を読んでいる。この2冊は餞別として進呈することになった。Kさんは研究室のドアを開けた途端にたくさんの仲間がいるの見て、「みんな家族みたい!」と喜んでいる。・・・・大学3年生の或る夏の日の情景を、彼ら彼女らはずっと後になってふと思い出すことがあるかもしれない。

 

8.8(金)

 散歩のついでに、一ヶ月先の東京⇔新大阪の新幹線の指定席券を購入しようと蒲田駅のみどりの窓口に行ってみると、長い列ができている。そうか、お盆で帰省する人たちだ。また別の日にしようと、有隣堂に足を向ける。こちらはさすがに平日の昼間だと空いている。文庫本の新刊を4冊購入。

 (1)山崎努『俳優のノート』(文春文庫)

 山崎努は存在感のある俳優である。高倉健のような身体所作から生じる存在感とは別の、台詞回しから生じる存在感である。私が彼のそうした存在感と出会ったのは、いまから20年前、山田太一脚本のTVドラマ『早春スケッチブック』を観たときである。あのドラマの中で山崎努が演じていた沢田竜彦という役は凄かった。いや、沢田竜彦を演じていた山崎努という俳優が凄かったのだ。たとえば、沢田は高校生の望月和彦(鶴見辰吾)に向かってこんなことを話す。

「いやあー自分をおさえるってことはいいことだ。そうやって、少しずつ何かを諦めたり、我慢したりする訓練は、しなきゃいけない。そういうことをしねえと、人間、魂に力がこもらねえ。しょっ中、自分を甘やかして、好きなようにしてるんじゃ、肝心な時に、精神にあんた、力が入らねえ。高校生だから酒をのみません、女房がいるから他の女とは寝ません、立小便はしません、満員電車で屁はたれません。そんことは、みんな、くだらないことだ。守る値打ちはねえ。しかしな、そういう、小っちゃなことで、自分をおさえる訓練をしておくことは、絶対に必要だ。そういう訓練をしなかった奴は、肝心な時にも自分をおさえることが出来ねえ。これだけは、いっちゃあいけねえなんてことも、しゃべっちまう。しゃべらないまでも、顔に出ちまう。そういう、安っぽい人間になっちまう。毎日、自分をおさえる訓練をしなきゃいけない。自分をおさえる。我慢をする。すると、魂に力が貯えられてくる。映画を見たい。一本我慢する。二本我慢する。三本我慢する。四本目に、これだけは見ようと思う。見る。そりゃあんた、見る力がちがう。見たい映画全部見た奴とは、集中力が違うんだ。そういう力を貯えなきゃあいけない。好きなように、やりたいようにしてちゃあ、そういう力は、なくなっちまう。しかしだ。それにはあんた限度ってェものがある。見たい映画を三本我慢し四本我慢し六本七本八本我慢しているうちに、別に見たくなくなっちまう。なにが見たいんだか分からなくなっちまう。欲望が消えちまう。それじゃああんた、力を貯えることになりゃあしねえ。力を、生命力を、むしろつぶしちまうことになる。我慢をしすぎて、力をつぶしちゃあいけねえ。自分の中の、生きる力をな。生きるってことは、自分の中の、死んでいくものを、くいとめるってこったよ。気を許しちゃあ、すぐ魂も死んで行く。筋肉もほろんで行く。脳髄もおとろえる。なにかを感じる力、人の不幸に涙を流す、なんてェ能力もおとろえちまう。それを、あの手この手をつかって、くいとめることよ。それが生きるってことよ。」

 山田太一の脚本に特徴的な長台詞、それも日常生活の中ではめったに耳にすることのない芝居がかった長台詞である。こういう長台詞を生半可な俳優が喋るとクサイものになってしまう。ドラマがシラケテしまう。しかし、山崎努は脚本家の期待に見事に応えてくれる。芝居がかった長台詞に生命を吹き込んで口から吐き出す。だから、山田太一だけでなく、伊丹十三も(映画『マルサの女』)、野島伸司も(TVドラマ『世紀末の詩』)、宮藤官九郎も(映画『GO』)、脚本家はみんな山崎努のために「山崎努的台詞」を書きたくなるのだ。で、本書だが、彼が舞台で『リア王』をやることが決まってから千秋楽までの187日間の日記である。・・・・後の3冊は簡単に。

 (2)前田愛『近代文学の女たち』(岩波現代文庫)

 近代日本の小説の中から、樋口一葉『にごりえ』、尾崎紅葉『金色夜叉』、森鴎外『雁』、有島武郎『ある女』、谷崎潤一郎『痴人の愛』、大岡昇平『武蔵野夫人』の6作品をとりあげて、それぞれの女主人公の意識と心理(したがってその変遷)を中心に論じたもの。朝日カルチャーセンターでの講義録なので読みやすい。

 (3)小沢昭一・大倉徹也『小沢昭一的流行歌・昭和のこころ』(新潮文庫)

 昭和の語り部、小沢昭一が昭和の流行歌と歌手についてゴシップをとりまぜて(というかゴシップ中心に)語った本。

 (4)東海林さだお『某飲某食デパ地下絵日記』(文春文庫)

 東海さだおが毎月一点、小田急百貨店の食品売り場(デパ地下)で選んだ商品に漫画と文章をつけて毎日新聞に掲載した小田急百貨店の広告(5年半分)を本にしたもの。

 文具コーナーでボールペンとシャープペンが一緒になっているペン(350円)を購入。この種のペンではシャーボが有名だが、あれは高級品(1500円から3000円)。ペンというのは傘と同じでよくなくすので、気軽に使える安価なものの方がいい。しかし、たんなるシャープペンやボールペンはたくさんの種類が並んでいるのに、ボールペンとシャープペンの兼用タイプのものはあまり種類がない。需要が少ないためなのか、構造が複雑なので安く作れないためなのか。いまは三色ボールペンとか四色ボールペンが流行りだが、私は本に書き込みをするときはシャープペンを使う。コメントや傍線の意味を色で区別するのではなく、線や記号の種類で区別する。ボールペンで書き込みをすると消すことができないし(つねに適切な書き込みができるわけではないので)、印刷されている文字よりも書き込んだ線や文字の方が目立ってしまって、そのガツガツした感じが下品である。古本なども、鉛筆やシャープペンで書き込みがしてあるのは気にならないが、ボールペン(とくに赤のボールペン)で線が引いてあるものは、とても買う気がしない。

 昼食は「ジョナサン」で食べる。しかし、入って、席に着いて、メニューを見て、後悔した。それほど食欲をそそられるものがなく、しかも高いのである。子どもが小さいとき、つまり西船橋の方に住んでいたとき、ときどき近所のファミレスに食事に行った。一種の家庭サービスであり、レジャーでもあったから、値段のことはさほど気にならなかったが、たんなる日常的行為として昼飯を一人で食べようとすると、値段の高さ(内容と比較しての相対的な高さ)が気になる。結局、一番安い日替定食(680円)を注文する。日替定食なので中身はわからなかったが、わざわざ質問してみる気にはならなかった。「ご飯の量は大盛にしますか」と聞かれたので「普通でいいです」と答える。「ドリンクバーはどうされますか」とも聞かれたが、「けっこうです」と答える。ほどなくして運ばれてきたのは、鮪のフライのタルタルソース添えと、鶏肉の竜田揚のチリソース掛けで、それにレタスのサラダ(フレンチドレッシング)。量が少ないが、味はまずまず。ご飯はウェイトレスの勧めどおり大盛にすべきだった。「これが普通盛か?」と思うほどの量だった。きっと女性、それもダイエット中の女性にとっての普通盛に違いない。驚いたのは、カップスープをドリンクバーへ自分でとりにいかなくてはならないということ。2杯目以降はそれでもよいと思うが、最初は料理と一緒にテーブルに運ばれてきてしかるべきではないのだろうか。それに冷たい飲み物とは違うのだから、子どもとかが運んでいる途中でこぼしたりしたら危ないだろう。さっさと食べ終えて、店を出る。

 自宅に戻り、インターネット(えきねっと)で新幹線の指定席の予約をする。このシステムは初めて使ったが、簡単に予約ができた。購入した指定券はみどりの窓口が空いているときを見計らって受け取ればいい。

 夜、TUTAYAで借りてきた『猟奇的な彼女』を観る。さんざん笑わせて、最後の方で、ヒロインの猟奇性の原因が明らかになるあたりはしんみりさせる。よく出来た娯楽作品である。ところで主人公の男の子は私の調査実習ゼミのM君によく似ている。

 先日のH君に続いて、今日、御園中学の1年G組の同級生だったW君からメールが届く。やはり35年ぶりである。ホームページを運営していくことは苦労も多いが、こういうことがあるから、やっぱり続けていこうという気持ちになる。

 

8.9(土)

 台風10号が日本列島を縦断している。早朝、ものすごい雨の音で目が覚める。そして書斎の窓(西側)を閉め忘れていることに気づいて飛び起きる。案の定、窓から雨が吹き込んでいて、机上の手前に置いてあった書類や手帳や雑誌が濡れている。窓と机の間が70センチほど空いている(窓に背中を向けて椅子に座る配置になっている)のと、カーテンが引いてあったのが不幸中の幸いだった。もし机上のパソコンが雨でビショ濡れだったらと考えると、ぞっとする。

 この台風の中を調査実習ゼミのY君とI君は、インタビュー調査のために早朝の新幹線で福岡に向かっているはずだ。テレビを付けると新幹線にはほとんど影響が出ていないことがわかった。切符の手配が遅くなって、飛行機ではなく新幹線で行くことになったのは、これもまた不幸中の幸いだった(夜の8時頃、Y君から、最初の1件が無事終了したとの連絡があった。台風の過ぎ去った九州はよい天気だそうだ。2人は今夜のうちに熊本に移動し、明日、午前と午後、2件のインタビュー調査を行う)。

 窓を開けることができないので、この夏初めて書斎のクーラーの電源を入れる。気温だけでなく湿度も下がって快適。一度使うと使い続けることになるだろう。昔、クーラーのなかった時代、学者や学生は避暑地に行って本を読み、原稿を書いた。お金に余裕の或る人々は避暑地に別荘をもった。「田園調布の自宅」と「軽井沢の別荘」は成功のモニュメントであった。別荘はおろかマイホームさえ持てなかった庶民は、会社が福利厚生の一環として所有する避暑地の保養所で2泊3日のささやかなバカンスを楽しんだ。中には「脱サラ」をして避暑地でペンションの経営を始める人たちもいた。いまリメイク版が放送されているTVドラマ『高原へいらっしゃい』、そのオリジナル版(山田太一脚本)が放送されたのは1976年である。リメイク版には近所のペンションのオーナーが登場しているが、当時はまだペンションブームは到来していなかった。避暑という行為、避暑地という空間、それは近代日本の歩みの一面を的確に映し出している。

 7月分の携帯電話代の請求書が届く。いつもは無料通話の2000円分も使い切ることなく、基本料(3000円ちょっと)だけの請求なのだが、7月は調査実習の件で学生と頻繁に連絡をとったので、請求金額は8000円。何万円も使っている人も珍しくないのであろうが、私にとっては画期的な数字である。しかし、まぁ、これぐらい使えば、携帯電話をもった甲斐もあるというものだ。きっと8月もこれくらい使うだろう。いや、8月は地方にインタビュー調査に出かけている学生との連絡が増える分、1万円を越す可能性もある(私はよく知らないのだが、携帯電話というのは、普通の電話と同じく、距離が遠いほど通話料も高くなるんだよね? 違うの?)。いま、auのホームページで確認したら、10円で何秒話せるかは加入しているコースで決まるのであって、通話の距離とは関係みたいだ。誤解していた(というのは誤解じゃないよね?)。

 

8.10(日)

 台風一過の夏の青空が広がった、今夏、一番夏らしい一日。都立雪谷高校はPL学園に13−1の完敗を喫した。妻と娘はTVを見てるとドキドキするからと、居間から退散し、私一人だけがTV観戦をした。勝負は初回の攻防でほぼ決まったといっていい。あの大観衆の前で普段の野球をやるためには、何回か甲子園の土を踏む以外にはないだろう。

昼食の後、娘と自転車で「復活書房」に行く。娘はコミックのある1階へ、私は一般書のある2階へ。中島京子という新人作家の『FUTON』(講談社)という小説を購入(1600円900円)。帯に「高橋源一郎氏絶賛の大型新人登場」とあったので手に取る気になった。やはり帯(腰巻とも言う)って大切だ。『FUTON』は田山花袋『蒲団』のパロディ。いかにも高橋源一郎好みの作品である。娘が2階にサンダルの音を響かせてやって来る。お目当てのコミックを買うことができたらしい。この後、CDを買いに行くというので、その前にここの中古CDコーナーを見てみることを勧める。しかし、お目当てのアーティストの1つ前のアルバムはあったが、最新アルバムはなかった。一緒に蒲田パリオ5階の、娘はCDショップへ、私は熊沢書店へ。娘がすぐにお目当ての最新アルバムを買ってサンダルの音を響かせて書店の方にやってきたので、買物というのは目的のもの以外のものを見て回るのが楽しいんだと言ってやったら、素直にCDショップに戻っていった。河原敏明『昭和天皇とその時代』(文春文庫)とエックナット・イーシュワット『スローライフでいこう』(早川書房)を購入。しばらくして娘が戻ってきて、前作のアルバムを試聴したら気に入ったのでさっきの中古CDを買いに戻ると言い出した。ところが、戻ってみると、わずか2、30分の間にそのアルバムは売れてしまっていた。悔しがる娘に、チャンスの女神に後ろ髪はないのだと教えてやった。うん、今日は娘に人生の先輩としていろいろと教訓を垂れることができた。

 清水幾太郎の3冊目の自伝、『わが人生の断片』の中の「内灘へ」の章を改めて読み返す。清水は都合5回内灘へ足を運んでいる。いつ、誰と行き、どこで、誰と会い、何をしたのかを整理する。10月末〆切の原稿「清水幾太郎の内灘」(仮題)の準備にいよいよとりかかる。9月13・14・15日の内灘訪問までに草稿をまとめたい。コピーでしか持っていない清水らが編者の『基地の子』(光文社、1953年)という本をインターネット(日本の古本屋)で検索したら、8冊出てきたので、一番安かった「辰書房」に発注する(1000円)。ついでに『清水幾太郎著作集』を検索したら、「弘南堂書店」から12万円で出ていた。「田村書店」の13万円(まだ売れていない)よりも1万円安いが、右から左に買える額ではない。すでに書斎の書棚にあるものを、もうワンセット、研究室用として購入しようという贅沢な買物だけに、バブリーな気分で購入してはならない。10万円を切るかどうかが購入の目安だと思っている。

 夜、007シリーズ最新作『ダイ・アナザー・デイ』をDVDで観る。さすがにピアーズ・ブロズナンも老けた。彼だけでなく、ジュディ・デンチ(ボンドの上司M)も、サマンサ・ボンド(Mの秘書マネーペニー)も、ジョン・クリース(秘密兵器開発者Q)も、みんな老けた。そろそろ総入替の時期だろう。しかし、私より1つ年上の、つまり同世代のブロズナンがボンド役を降りるということには一抹の淋しさがある。もうひとふんばりしてほしいような気も・・・・。ちなみにショーン・コネリーが『ネバー・セイ・ネバー・アゲイン』で最後のボンド役に挑んだのは53歳のときだった。私はその映画を伊勢崎町の映画館で婚約したばかりの妻と観たのだが、いい作品だった。

 

8.11(月)

 終日、内灘闘争関連の資料を読む。途中で、今年の5月に内灘闘争50周年を記念して刊行された『証言 内灘闘争運動に参加した人々の想』を入手できないかと、インターネットで「内灘闘争」を検索していたら、莇昭三という人が金沢の中村さんという人に依頼してネット上に流した「内灘闘争50周年記念への参加のお誘い」という文書をみつけ、そこには莇さんのメールアドレスが載っていたので、問い合せのメールを送った。メールを送った後で、「莇」は何と読むのだろうと考えながら、文書の中の「医療・福祉問題研究会、城北病院の莇です」という箇所を見ていて、私は「あっ!」と叫んでしまった。莇さんは医師のようである。内灘闘争、医師、・・・・もしや、あの医師ではないのか。私はあわてて清水幾太郎の『わが人生の断片』を書棚から取り出して、昨日読んでいた箇所をめくった。・・・・やっぱり、そうだ。そこには1957年2月15日の清水の日記からの引用が載っている。

「二月十五日(金) 宿の支払いを済ませ、内灘村へ行く。出島権二に合ひ、いろいろと話を聞く。次いで、診療所に莇医師を訪ふ。呆れ果て、疲れ果てて、金沢へ戻る。午後は八時二十分の汽車にて帰京。」

「莇」には「あざみ」と振り仮名が振ってある。自分の記憶力の悪さに呆れながら、「莇医師」の文字をシャープペンで丸く囲む。最低限の注釈を加えておくと、内灘村の内外の反対運動にもかかわらず、米軍の砲弾試射場が内灘村の浜辺に設置され、村議会と政府との間で試射場の無期限使用が決まったのが、1953年9月14日。それからおそよ3年半後、清水にとっては5度目の内灘行である。その2週間前、1957年1月31日をもって試射場はその役目を終え、内灘村に返還された。しかし、村民は諸手をあげてこれを祝うことができない。試射場の返還は補助金の停止や試射場で働いていた村民の失業を意味するからだ。3年半の間に試射場は村にとっての異物から村の一部になっていたのだ。村民は米軍の正式通告の前に「試射場を維持してくれ」との陳情を行った。UPはこれを「歴史上珍しい恥知らずな方向転換」と題して本国に打診し、日本のジャーナリズムもその尻馬に乗って村民を批判し、さらにかつて村民を反対運動に駆り立てた革新政党や進歩的文化人(もちろん清水はその一人、いや、代表である)を批判した。清水の5度目の内灘行はそういう時期のものだった。日記に出てくる「出島権二(ごんじ)」は反対運動のリーダーだった人で、村の豆腐屋さん。清水は出島を一角の人物として信用している。それに対して、清水は莇医師に対しては「呆れ果て」ている。それはなぜなのか。5度目の内灘行から18年後に書かれた自伝で、そのときのことは次のように語られている。

「私たちは診療所を訪れた。村の人たちによると、この医師は共産党員であるという。彼は、三年半前に終わった基地反対闘争を回顧しながら、あれは全く私たちの誤謬でした、と言い始めた。あれは極左冒険主義でした。私たちは謙虚な態度で村民に奉仕すべきで、あの闘争についていは、心から村民に詫びるべきです・・・・。『私たち』の中には、明らかに、この私も含まれているらしい。詫びたいのなら、大いに詫びたらよいが、私は詫びたいとは思わない。『誤謬』や『極左冒険主義』を認めたい人間は、大いに認めたらよいが、私はそんなものを認める義理はない。・・・・内灘村が三年半前の内灘村でないように、共産党員も、三年半前の共産党員ではない。有名な六全協(昭和三十年七月)で、彼らは謂わゆる極左冒険主義を捨て、ソフトなニコニコ戦術に転じ、それからは、以前の自分たちの行動を、まるで敵の行動であるかのように非難している。自己反省や自己批判は大変に結構である。しかし、反省や批判の度が過ぎたのか、間もなく、彼らは自分たちの過去を忘れたような顔をして、自分たちの指導部の決定した戦術―ニコニコ戦術―より少しでも強い戦術に出る集団や組織に出会うと、見境もなく、これを極左冒険主義やトロキストと罵って、これを本当の敵以上の敵として扱うようになった。私たちが昭和三十五年の安保闘争で見たのは、そこから生まれるグロテスクな光景であった。」

私がメールを出したのは、その莇医師だったのだ。いま、莇さんはおいくつなのであろう。当時、すでに医師であったわけだから、若くても30歳前後であったろう。ということは、いまは80歳前後になられている計算になる。「城北病院」をインターネットで検索したら、驚いたことに現役の内科医で、週に3日(月・火・水)外来を担当されていることがわかった。1989年に刊行された『内灘闘争資料集』を見返したら、その呼びかけ人の中に莇さんの名前があり、しかも、「内灘試射場反対運動の覚え書き」という文章まで寄稿されていた。さっそくその文章を読む。闘争時の内灘村の内部の権力構造が明晰に分析されていて、参考になった。

夜、莇さんから返信のメールが届く。貴方の内灘闘争との関わりはわかりませんが、本がご入用ならお送りします。送付先を教えてください、ところで、貴方は以前、中国の杭州への旅行でご一緒した方ですか、とあった。私は身が縮む思いで、このようなことで莇様のお手を煩わせて申し訳ありません、私は内灘闘争の翌年に生まれた人間で、内灘闘争のことはずっと後になって本で知りました、早稲田大学の文学部で社会学を講じており、戦後の平和運動や社会運動や知識人論に関心があります、莇様とは面識はございません、とメールを返した。「清水幾太郎論」と書こうとして、やめて、「知識人論」とぼやかした。彼の名前は出さない方がよいだろうと判断したのである。清水はあの時の莇さんに呆れ果てたわけだが、莇さんは莇さんでその後の清水に呆れ果てたであろうから。

 

8.12(火)

 研究室に内灘町の図書館の方から電話がかかって来る。少し前に、こちらから図書館に内灘闘争関連の資料の存在を確認するメールを出し、あるとの返事を得たので、9月13日(土)と14日(日)に伺わせていただきますのでよろしくお願いしますと再びメールを出しておいたのだが、実は、内灘闘争関連の資料は保管庫に入っていて、もちろん学芸員に申し出てもらえればお見せできるのだが、あいにくとその両日は一人しかいない学芸員の休みの日で、せっかく来ていただいても資料をお見せできないという電話だった(ちなみに電話をよこされたのはその学芸員の方で、資料目録をコピーして送って下さることになった)。あれ、まあ、しかたない、内灘行はまた別の日(平日)にしよう。ホテルと帰りの飛行機の予約をキャンセルする(往きは、夜行バスか夜行列車か迷っていて、まだ予約はしていなかった)。

 

8.13(水)

 天気予報では今日からまた天気が崩れることになっていたが、しのぎやすい一日。遅めの昼食の後、長い昼寝をして、夕方、散歩に出る。駅前の商店街を抜けて、御園中学校の隣の公園でしばらくたたずむ。公演の横を東急多摩川線・池上線の線路が走っていて、蒲田駅周辺の活気はあるがゴミゴミした空間を抜けて来ると、ここでポッカリと空が広がる。帰りに南天堂で古本3冊を購入。

 (1)北野武『孤独』(ロッキング・オン、2002年)*500円

 帯に「出生の秘密から、離婚の危機、青春時代、そして愛人や酒と暴力にまつわる数々のエピソードまでー北野武、55年目の告白」とある。最初の「家族を語る」の章を立ち読みして予想以上に真面目に語っていることに驚いた。

 (2)別冊宝島226『職がない! 変転する雇用のゆくえ』(宝島社、1995年)*100円

 バブル崩壊後の「大失業時代」の初期に出た本。テーマの1つが、バブル期に新卒で大企業に入ったいわゆる「バブリーくん」であったので購入。バブル崩壊がライフコースに与えた影響は、調査実習で行っているインタビュー調査の重要なテーマである。

 (3)石黒敬章『ビックリ東京変遷案内』(平凡社、2003年)*900円

 銀座4丁目、新宿、新橋停車場、両国橋、・・・・といった東京のさまざまなスポットの現在の写真と昔の写真・絵葉書を並べただけの本だが、それで十分に面白い。高層の建物がなかったから、昔の東京は空が広々としている。

 深夜、雨になる。

 

8.14(木)

 冷たい雨の降る一日。郵便をポストに投函しに出たついでに駅まで足を延ばし「有隣堂」をのぞく。武市三郎『武市流力戦筋違い角の極意』(毎日コミュニケーションズ)を買って、さっそく同じフロアーの喫茶店で読む。将棋に「筋違い角」という破天荒な戦法があって、武市六段はその使い手として有名である。1年ほど前、大平武洋新4段の昇段記念パーティーでお会いしたとき(そのときの私は大平4段の後援会長ということになっていた)、「私は武市さんの将棋のファンです」と告白しておいた。

 今月の『文藝春秋』に「証言『日本の黄金時代196474』という特集が載っている。東京オリンピックから田中内閣総辞職までの高度成長後半期(爛熟期)で一番印象に残っている出来事は何かを各界の著名人1000人にアンケート調査(有効回答332)した結果、ベスト10は以下の通り。

 第1位 三島由紀夫割腹自殺(1970.11.25)

 第2位 東大安田講堂陥落(1969.1.18)

 第3位 東京オリンピック(1964.10.10)

  〃   アポロ11号月面着陸(1969.7.20)

  〃   連合赤軍あさま山荘事件(1972.2.19)

 第6位 大阪万博(1970.3.14)

 第7位 東海道新幹線開通(1964.10.1)

 第8位 ドル・ショック(1971.8.16)

 第9位 田中角栄内閣発足(1972.7.6)

  〃   石油ショック(1973.11.2)

 三島由紀夫割腹自殺が第1位というのは私には意外だったが、著名人の大部分は私よりも年長の世代で、しかもインテリが多いせいだろう。当時、私は高校1年生で、漢文の時間に先生が息せき切って教室に入ってきて、「いま、三島由紀夫が市谷の自衛隊本部に立てこもって、バルコニーから演説をしている!」と興奮した様子で話していたのを覚えている。しかし、私は三島の小説は読んだことがなかった(読んでみたいとも思わなかった)ので、目立ちたがり屋の作家がおかしなことをやらかしたという感想しかもたなかった。私が好きだった作家は、三島とは対極にある(と私には思えた)志賀直哉だった。その志賀が88歳で亡くなったのは三島の死の翌年、1971年10月21日のことだった。その日、校舎の屋上でぼんやりしている私に級友のYが「どうしたんだ?」と聞いたので、「志賀直哉が死んだんだ」と答えた。そのときYがどんな顔をしたかは覚えていない。ベスト10にあげられている出来事の中で、私が一番印象に残っているのはアポロ11号である。ただし、月面に着陸した瞬間ではなく、月に向かって地球の軌道を離れた瞬間が一番感動した。もうこれで後戻りはできない、もし月の軌道にうまく乗ることができなかったら、彼らは暗黒の宇宙の彼方に消えてしまうのだ、そう思うとひどく悲壮な気分になったことを覚えている。あれから30年以上が経って、すでに21世紀に入っているのに、月以外の天体に人類が到達できていないなんて、そのときは思ってもみなかった。

 

8.15(金)

 大雨の一日。しかし、卒論の相談と調査実習の作業で大学へ出かける。電車の車内広告を眺めていたら、「永谷園の冷し茶漬け」とか「涼しさ倍増横浜シーワールド」とか、寒々しいものが目立つ。一体、今年の冷夏の経済的損失はどのくらいになるのだろう。

4年生のKさんは「テレビのバラエティー番組における笑いの変遷」をテーマにしていて、文献を読んだり、横浜にある放送ライブラリーで昔のお笑い番組のビデオを見たりしているのだが、それだけでは物足りず、永六輔、大橋巨泉、前田武彦、青島幸雄、萩本欽一、いかりや長介、ビートたけし、明石家さんま、松本人志、・・・・といったバラエティー番組のエポックメーカーたちにインタビューをしたいと言い出した。やめときなさいとは言えないよね、若者がやる気でいるわけですから。で、彼女が考えてきた依頼状の文案を見せてもらって、あれこれ意見を述べる。とは言っても、私自身、こういう方たちにインタビューの依頼などしたことがないから、どれだけ有効なアドバイスになっているかどうか、はなはだ自信がない。いや、ずっと昔、大学院生だった頃、ある研究所の依頼で、各界のオピニオンリーダーたちに親子関係についてのインタビュー調査を何人かのスタッフと行ったことがある。私が担当したのは、岸田秀さん(心理学者)、羽仁進さん(映画監督)、渡部昇一さん(英文学者)、中山千夏さん(参議院議員)、・・・・といった方たちで、よくインタビューに応じてくださったものだが、依頼状に研究所の顧問をされていた扇谷正造氏(当時のマスコミ界の長老)の名前を使わせていただけたことが大きかった。無論、断られた方も多く、当時、人気の絶頂にあった向田邦子さん(作家)もその一人で、絶対に無理だろうなと思いながら、おそるおそるご自宅に電話したら、いきなり本人が出られたのでややうろたえながら説明を始めたところ、「私、そういうことは、よくわかりませんので」とやんわりと断られ、通常であれば、「先生、そこを何とか」と粘るところを、「すみませんでした」とあっさりと引き下がってしまった。これは私が彼女の大ファンで、彼女の創作の邪魔をしてはいけないと、自らにブレーキをかけたのである。それからほどなくして向田さんは飛行機事故で亡くなった。事故のニュースを聞いたとき、私の耳には受話器を通して聞いた彼女の声がありありと蘇った。

 新型のコンピューターウィルスが猛威を振るっている。今日、研究室に来た調査実習の学生8名のうちの2名がそのウィルスの被害者だった。今回のウィルスはメールの添付ファイルを開くと感染するタイプのものではなく、ネットに接続していると知らないうちに感染するというやっかいな代物。12日に発見されて、昨日、加入しているプロバイダーと大学のメディアネットワークセンターから緊急連絡のメールが届いて、感染のチェック、感染の予防、ウィルスの駆除などの方法が説明されていたので、すぐに対処した。しかし、被害にあった2名の学生は、そうしたメールが届く以前に感染してしまったらしい。インターネットへの接続もできないようで、そうするとウィルス駆除のワクチンをしかるべきホームページからダウンロードできないわけで、復旧は大変そうだ。インタビュー調査の対象者との日時の打合せはPCメールでやっているケースが多いので、ゼミのBBSを通じて、今後、対象者とのやりとりはPCメールではなく電話ないし携帯メールで行うよう指示を出す。それにしても緊急連絡メールを読まずに削除している学生が多いのには驚いた。被害が増加の一途をたどっているはずである。

 

8.16(土)

 今日も朝から雨が降っている。一昨日と同じく、郵便を出しに出たついで駅まで足を延ばし「有隣堂」をのぞく。一昨日よりも店内が混んでいるのは、雨降りだけれど土曜日のせいだろう。杉山直『宇宙その始まりから終わりへ』(朝日選書)を購入。レジで1500円を出したら(代金は消費税を含めて1260円)、「よろしいですか」と聞かれた。1万円札や5千円札で払おうとしているわけではない。千円札2枚でもない。千円札と500円硬貨を出しているのである。「よろしいですか」はないと思うのだが。おそらくこの店員は金額がいくらであれ、おつりを渡す必要があるときは、ひとまず「よろしいですか」と客に尋ねるように指導されているのであろう。もちろん1260円の品物に客が1500円を出しても「よろしいですか」と聞いた方がよい場合がある。それは1500円を出した後で、客が「百円玉2枚と10円玉6枚ないかな」と財布の中を探している場合である。しかし、私の場合は、1500円を出して直立不動の姿勢で待っているのである。財布の中に260円がないことを、そのポーズによって決然と示しているのである。「よろしいですか」と詰問された私は、憮然として「はい」と答えた。消費税というものが導入されてから、こうした経験をすることが増えたように思う。いっそ早いところ消費税10%になってくれた方が計算が楽だし、一円単位の支払いをしなくて済むからいいように思う。ところで支払いを済ませた後で気になったのが「よろしいですか」の閾値である。たとえば1499円の支払いに1500円を出したとしても、さきほどの店員は「よろしいですか」と聞いただろうか。まさかそれはあるまい。では、1498円の支払いならどうか。さらに1497円の支払いならどうか。・・・・と1円単位で支払い額を下げていったときにどの段階で「よろしいですか」の一言が発せられるのであろう。予想するに1491円のときに「よろしいですか」(=1円玉はありませんか)が発せられる可能性が高い。もしそこで発せられなければ、1481円、1471円、1461円は通過し、1451円で再び可能性が高まるであろう。もしそこでも発せられなければ・・・・と思考実験は続いた。『宇宙その始まりから終わりへ』が扱っている時間のスケールから見たら、まったくどうでもいいような話である。

TUTATA」でチャン・イーモウ監督『活きる』(1994年の作品だが日本公開は2002年)のDVDを借りて帰る。原題は『活着』。「着」は動作の持続を表す接尾語として使われる場合はzheと発音し、動作の結果を表す補語として使われる場合はzhaoと発音する。私は学部時代の第二外国語が現代中国語であったので、かろうじてその程度の知識は頭の隅に残っている。しかし、『活着』の「着」がどちらなのかがわからない。映画は、1940年代の国共内戦、1950年代の共産党の勝利、1960年代の文化大革命(=走資派批判)といった激動の時代を生き抜いてきたつつましい家族の物語。生き抜いてきたことに力点を置けば「着」はzhaoであり、まだ家族の物語は終わっていないことに力点を置けば「着」はzheである。黒沢明の名作を連想させる『活きる』という邦題からすると、後者が正解なのであろうが、あの夫婦にはカーテンコールの賞賛とねぎらいの言葉をかけてあげたい気がする。

 

8.17(日)

 インターネットサイト「日本の古本屋」で入手した本多顯彰(あきら)『大学教授 知識人の地獄極楽』(カッパブックス、1956年)を読む。本多は法政大学教授(英文学)で評論家、前年に同じカッパブックスから『指導者 この人々を見よ』を出して、戦後の進歩的文化人の戦中の言動を暴露して話題になった。本書はその続編というべきもの。ゴシップ満載で興味尽きない。たとえば、本多が東大の学生だったとき、医学部の片山国嘉主任教授に講演の依頼に行ったところ、「行ってあげたいが、日本の法医学は、私と一緒に一進一退してるんでね。私が、一日遊べば、一日だけ日本の法医学がおくれることになる」と答えたそうだ。凄い自信!

衛星放送WOWOWのドラマ『交渉人』を観た。主演は三上博と鶴田真由。贔屓の女優が出ているから言うわけじゃないが(多少それもあるかもしれないが)、実に面白かった。劇場公開してもいけるんじゃないだろうか。路線が違うから単純な比較はできないが、ストーリーとしてはいま公開中の『踊る大捜査線』よりも絶対に面白いと思う。これ一本観ただけでWOWOWに毎月支払っている2000円の元が取れたような気がする。ちなみに鶴田真由さんのホームページの6月の日記には撮影の裏話がいっぱい書かれている。

しかし、『交渉人』を観たために、私の(日本のではなく)清水幾太郎研究が2時間遅れてしまった。これから、その遅れを取り戻すべく、やはり「日本の古本屋」で入手した清水幾太郎『日本が私をつくる ドレイ根性からの解放』(カッパブックス、1955年)を読むことにする。内灘闘争の翌年(1954年)、6月半ばから9月下旬まで、清水は初めての海外旅行に出かけた。旅行の前半は日本文化人会議の代表としてストックホルムで開かれていた「国際的緊張を緩和するための集会」に参加し、ソヴィエト・アカデミーの招待でソヴィエト国内を見学し、中国人民保衛世界和平委員会の招待で北京を視察した。後半は、代表団を離れて一人で西欧に戻り、フランス、イタリア、ドイツ、イギリスを見物してから帰国した。清水47歳のときのことである。本書は旅行中の日記と帰国後お世話になった彼の地の人たちに書いた手紙13通から構成されている。それは要するに清水が自らの外国体験を浄化して、経験として意味づけたものである。『清水幾太郎著作集』(全19巻)には収められておらず、以前から気になっていた本なので、読むのが楽しみである。

 

8.18(月)

 雨は上がったけれど、太陽は見えない。しかし、気温と湿度は上昇し、昨日までの感覚で長袖シャツにジャケットで外出したら汗をかいた。大学で報告書の発送作業や領収書の整理をする。実習のインタビュー調査の対象者からOKの返信が3通あって、これでちょうど100名になった。昼食はひさしぶりに「秀英」で。この店で一番のお気に入りは油淋鶏(鶏の唐揚の葱ソース掛け)なのだが、数日前の我が家の夕食が油淋鶏だったので、二番目に好きな回鍋肉(豚肉とキャベツの味噌炒め)にした。ご飯が進む。研究室に戻る途中で「成文堂」で片岡義男『文房具を買いに』(東京書籍)を購入。私は彼の小説はほとんど読まないが、彼のフォト&エッセイは大好きだ。今回は外国製の文房具(ノート、鉛筆、ボールペン、ホチキス、消しゴム・・・・)が満載。写真を見ているだけでも楽しいが、それと彼の思い入れたっぷりの、しかしあくまでもクールな文章との組み合わせは絶妙だ。研究室のリクライニング・チェアーで少し昼寝をして、頭をスッキリさせてから、前期試験の採点。ときどきユニークな答案があって飽きない。午後6時になったところで、研究室を出る。「あゆみブックス」で荒川洋治の新らしいエッセイ集『忘れられる過去』(みすず書房)を購入。帰りの電車の中で読む。『夜のある街で』のときと同じ萱慶子の絵が表紙を飾っている。言葉に敏感な人の文章というものは読んでいて気持ちがいい。たとえば、柳田國男の「美しき村」という文章を取り上げて、「境田というあたりの」「たしか才田といった」という言い方にひかれると荒川は言う。そう書かれると境田も才田も「ぼんやりした輪郭で現れるので、興味を刺激する」と言う。なるほど、そう言われるとそんな気がする。また、「秋田県鹿角の小豆沢湯瀬から、二戸郡にはいっていく」は、二戸郡の前に「岩手県の」を付けたいところであるが、柳田はそれを控える。「いまはこういうことはしない。ぼんやりとしたことは嫌われる。闇を含むものは好まれはしない。だがひところまで文章はこのくらいの『明るさ』のなかに立って、知るべきものを照らしていた。」なるほど、やはり、そう言われるとそんな気がする。詩人の言葉は説得力がある。

 深夜、NHK衛星放送第二で、バート・ランカスター主演の映画『泳ぐ人』(1968年)を観た。ランカスターは大好きな俳優で、サーカスの軽業師(『空中ブランコ』、1956年)から孤高の大学教授(『家族の肖像』、1974年)までどんな役をやっても様になってしまう人だった。最後に彼を観たとき、彼は『フィールド・オブ・ドリーム』(1989年)で老いた町医者を演じていた。その存在感は主演のケビン・コスナーを凌駕しており、ランカスターが出演したことであの映画は決定的に名作になったといっても過言ではない。『泳ぐ人』は、私が中学2年生のときの作品だが、テレビで宣伝されるのを観ただけだった。他人の家のプールを渡り歩く(泳ぐ)男の話ということだけ頭に残っていて、いつか観てみたいと思い続けてきたのだが(ビデオにはなっていない)、今日、やっとその願いがかなった。不思議な映画だった。郊外の丘陵地帯にある高級住宅地。ある家のプールに海水パンツ一枚のランカスターが突然現れる。住人夫婦とは旧知の間柄のようだが、ランカスターの妙に元気な言動が場違いな感じを与える。そしてランカスターは眼下の風景を眺めながら、これから知人の家のプールを渡り泳ぎながら自宅まで帰るというプランを思いつき、それを実行に移す。最初の数軒は比較的順調だった。彼は「やあ、やあ」という感じで迎え入れてもらえた。しかし、知人たちが彼に話しかける言葉の端々から、どうも彼は仕事に失敗し、家庭もうまくいっていないことが察せられる。新しい仕事を紹介したいという知人の話に手を振って、家で妻や娘が待っているからと次のプールへと向かうのだが、それは幻想に違いないことが誰の目にも明らかになる。事態はだんだん惨めさの度合いを増して行って、最後のプール(自宅の崖下の市民プール)では、馴染みにしていたハンバーガー屋の夫婦から、ツケの催促をされた上に、娘さんたちが店に来て父親のことをさんざん馬鹿にしていたことまで告げられる。ボロボロになりながら、彼が自宅にたどり着くと、借金の抵当にとられたのであろう、誰も住まなくなって久しい広い敷地の住宅は門にも玄関のドアにも鍵がかかっていて、降り出した雨に打たれながら、彼がいくらドアを叩いても、空っぽの室内からは返事はない。・・・・そういう映画だった。シュールだが、わかりやすい(中流階級の不安!)、そして暗い映画だ。しかし、この暗さには惹かれるものがある。憂いを帯びた音楽も胸に沁みた。

ところで、『泳ぐ人』の原作者はジョン・チーヴァーなのだが、三浦雅士『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』の中の三浦と柴田の対談の中にこういうやりとりがある。

 三浦「いま、ジョン・チーヴァーの評価はどうなっているんですか?」

 柴田「チーヴァーは全短編集がベストセラーになったのが二十年くらい前ですね。あれでもう完結しちゃったという感じです。ある程度お金も地位もあっても人は不安なんだってことをすごく雄弁に書いてますけどね。でも、学生には受けないですね。『泳ぐ人』ってすごく印象的なものを授業で読んでいても、なんでこんな先が見える話を書くんだっていう反応です」

 三浦「郊外生活者が隣のプール、隣のプールと泳いでいたら月日がものすごい速度で経っていたって短編でしょう。O.ヘンリーほどの意外性もないと?」

 柴田「O.ヘンリーは一応どんでん返しがありますからね」

 映画を観た後で、いま、この箇所を読み返して、「あれっ?」と思った。三浦の記憶違いでないとすれば、『泳ぐ人』は原作と映画では時間の設定が違うのだ。原作では、プールを渡り泳いでいる間に、主人公は成功=幸福の時代から失敗=不幸の時代へと滑り落ちていくらしい。個々のプールが人生の異なる時期を象徴しているのだ。しかし、映画では、そうではなくて、すでに失敗=不幸の時期にある(しかし精神に異常をきたし始めていて過去の成功=幸福の時期に生きていると思い込んでいる)主人公が、プールを渡り泳ぎながら、知人たちから冷たくあしらわれることで、しだいに虚飾が剥がれ、ついには悲惨な現実を直視せざるをえなくなる。設定されている時間はあくまでも「現在」で、「過去」は主人公の頭の中にだけ「現在」として存在するのだ。両者を比べれば、原作の方がよりシュールである。しかし、それをそのまま映画化してしまうとSF映画のようになってしまうだろう。やはりリアリティは大切だ。原作を読んでいないから断定はできないが、たぶん映画の方が原作よりもいいのではないだろうか。

3階の自室で受験勉強をしている娘が私の書斎にやってきて「里腹三日」の読み方と意味を尋ねた。「さとばらみっか」と読み、「嫁に行った女が実家に帰ってきて、三日は空腹を感じないくらい、腹いっぱい飯を食べること」(それだけ婚家では遠慮して生活している)という意味だと教える。しかし、いまや完全に死語となったこんな言葉を入試に出す大学なんてあるのだろうか。

 

8.19(火)

 昼過ぎに自宅を出て大学へ行く。地下鉄の駅から上がって、「五郎八」(いろは)で昼食(揚げ餅そば)。私以外に客のいない時間帯で、女将さんとあれこれ話をする。大学はいつまで休みなのかと聞かれ、9月の下旬までと答えると、女将さん、ふぅと溜息をついた。やはり大学が夏休みの間は客が減るらしい。ふだんから学生はあまり来ないが、教職員に常連さんが多いらしい。話の合間に女将さんは外を歩いている人にどうぞいらっしゃいませと声を掛けていた。

 今週はインタビュー調査自体が少なく、研究室にやってきたのはH君とS君の2人だけ。待機している人数(私、I君、Y君)の方が多い。手持ち無沙汰な感じで、おしゃべりをしたり、本を読んだりしていたら、夕方になっていた。

 東西線の大手町駅からJRの東京駅へは地下の通路を歩いていくのだが、改札口の前の広場ではときどき古本とか昔の東京の地図とかCDとかを売っている。今日は古本が売れられていたので、ちょっと足を止める。尾形明子『田山花袋というカオス』(沖積舎)と『梶井基次郎小説全集』(沖積舎)を購入。価格は前者が3000円1000円。後者が2800円1100円。どちらも同じ出版社の本だが、もしかしたら倒産した出版社の特価(自由価格)本なのかもしれない。さきごろ倒産した社会思想社の現代教養文庫もたくさん並んでいたし・・・・。

 深夜、清水幾太郎『日本が私をつくる』(光文社、1955年)を読み終える。実に面白かった。傍線と付箋だらけになった。どうして清水礼子さん(幾太郎の一人娘で『清水幾太郎著作集』の編者)は本書を『著作集』に入れなかったのだろう。察するに、この時期の清水は平和運動(とりわけ米軍基地反対運動)にのめり込んでいて、文章も勢い党派的な内容のものが多く、後世に残す価値のあるものは少ないと判断されたためであろう。確かに本書の中にも、「長期的に見れば、誰が何と言っても、歴史は資本主義から社会主義へ向かって流れているのです。」(38頁)といった調子の左翼の公式的見解は散見される。しかし、同時に、運動への懐疑や教条主義的マルクス主義への批判など、安保闘争後の清水の「転向」を予感させる見解も散見されるのである。1つだけ例をあげておこう。1955年2月の第27回総選挙で革新派(=憲法擁護派)の応援のため地方を飛びまわって帰ってきた直後に書かれた文章の一節である。

 「今の僕は勉強したい一心だ。十日間も地方を飛びまわっていると、たまらなく書斎が懐かしくなってくる。懐かしくなってくるというとのんきだが、じつは、大切な研究を放擲しているという罪悪感に悩まされるのだ。特に、旅行の終わりごろになると、もう苦しくなってくる。書斎一筋、研究室一本槍でやっている友人が羨ましくなる。自分は何という愚かな人間なのであろう。それで家に帰りつくと、疲れた体で勉強を始める。ところが、そのうち、ある基地でこういう問題が起こっている、ぜひ、来てもらいたい、というような手紙が舞いこんで来る。それをことわって、勉強を続けるには、他人にたいしてよりも、自分自身にたいして弁明が要る。しかし、こうした手紙がある程度までふえてくると、今度は新しい罪悪感が頭をもたげてくる。こんな時代に机にかじりついていることが許されるであろうか。この苦しさが昂じてくると、仕事を投げ出して、飛んで行ってしまう。思えば、時計の振子のような動作を何べん繰返して来たことであろう。振子といえば、右にあげたのが二つの極端とすれば、その間に教師の仕事があり、また評論家という仕事が控えていて、この二つのものも明らかに僕の関心とエネルギーとを吸いつけている。だから疲れが深くなると、ああ、面倒だ、どれか一つにならぬものか、と考えはするが、しかし、ズルズルベッタリ、今日まで一種の甘辛食堂のようなものを経営して来ているのは、現在の日本として止むを得ない必要があるかもしれないし、かたわら、僕自身にしても、一方、飛びまわることによって、ただ書斎にいたのでは目に入らぬものを見る機会に恵まれることもあり、他方、書斎にいるおかげで、ただ飛びまわっていたのでは気づかぬものに、気づくということがあるのだろう。しかし、万事メデタシメデタシにはいかぬ。のんきに構えていれば、次第に両方が半人前になってしまうだろう。その危険が気になり始めると、居ても立ってもいられなくなる。けれども、この危険が何とか回避されたら、というより、これを何とか回避することを通じて、新しい学問の可能性の一つが確保されるのではないか。当分は、そのつもりで、この重すぎる負担に堪えて行くよりほかはないと思う。」(118-9頁)。

 

8.20(水)

 日中、薄日らしきものが微かに差す。でも地面にはっきりとした影はできない。猪俣浩三・木村禧八郎・清水幾太郎編『基地日本 うしなわれていく祖国のすがた』(和光社、1953年)という本を、電車の中、研究室、「すず金」、「カフェ・ゴトー」でひたすら読む。この時期の米軍基地反対運動は「パンパン」(米軍兵士相手の売春婦)と「子ども」がキーワードである。前者が米軍基地に寄生する不純なもの、後者は米軍基地によって損なわれる純粋なもの、そうしたワンセットの象徴として使われている。単独講和反対や再軍備反対と違って、米軍基地反対にはやっかいなところがある。基地は地元に経済的利益をもたらすからだ。だから経済的利益を犠牲にしても死守しなければならないものがないと基地反対運動は盛り上がらない。選ばれたものは「女子の貞操」と「子どもの純性」だった。本書に収められた神崎清「街娼論」と菅忠道「基地の教育問題」を読むとその辺の事情がよくわかる。

 帰宅途中、昨日と同じJR東京駅地下の古本販売コーナーで、ドナルド・リチー『小津安二郎の美学 映画の中の日本』(社会思想社、1993年)を購入。定価1200円のものが300円で買えた。驚いたことに現代教養文庫は定価と関係なく一律300円で売られていた。本書は1978年に出版された同名の本(映画専門の古本屋には必ず置いてある)を文庫化したもので、450頁もある上に、活字が小さく、写真が多い。これが300円とはお得な買物である。

 「トリビアの泉」という番組がずいぶんと高い視聴率をあげているらしい。今夜、どんなものかと見てみたが、一種の雑学番組で、それほど面白いとは思わなかった。というのも、私自身が雑学的な人間であるために、番組で紹介される雑学的知識が旧知のものである場合が多かったからだ。たとえば、童謡『春の小川』のモデルとなった小川は渋谷にあるとか、江戸時代の武士がスフィンクスの前で記念写真を撮ったことがあるとか、そういうことはすでに知っていることなので「へぇ」とならないのである。回答者の一人に作家の荒俣宏が出ていたが、彼は博物学の大家だから、この種の歴史的・社会史的雑学は彼にとっては常識に属するはずで、久本雅美やびびる大木やMEGUMIたちが盛んに驚いて見せている横で困っている姿が印象的だった。おそらくタモリもそうなのではなかろうか。タモリといえば、「ボキャブラ天国」は面白い番組だった。あれ、またやってくれないかな。

 

8.21(木)

 ひさしぶりの夏の陽射し。梅屋敷通り商店街をぶらぶら歩きながら、「三島書店」でチャールズ・ブコウスキー『パルプ』(新潮文庫)を買って、「琵琶湖」という名前の喫茶店に入り、荒挽きソーセージとトマトのピザと珈琲を注文する(「荒挽き」という言葉に弱いのだ)。『パルプ』はブコウスキーの遺作で探偵もの。訳は柴田元幸。最初に読んだブコウスキーの作品は『ポスト・オフィス』(坂口緑訳、幻冬舎アウトロー文庫)で、これが実に面白かった。しかし、2冊目に読んだ『町でいちばんの美女』(青野聰訳、新潮文庫)や3番目に読んだ『詩人と女たち』(中川五郎訳、河出文庫)はいまひとつだった。思うに、『ポスト・オフィス』では「俺」となっていた一人称が、『町でいちばんの美女』と『詩人と女たち』では「わたし」となっていたのがいけないのだ。「わたし」は上品すぎる。柴田はもちろん「俺」と訳している。

 「俺は途中で話を忘れて、女の脚に見とれてしまった。俺はいつだって女の脚に目がないのだ。生まれてまず見たのも女の脚だった。まああのときは、そこから出ようとしてたわけだけど。それ以来ずっと、入ろうとしてきたが、たいていはひどくツキがなかった。」

 この引用文中の「俺」を「わたし」に置き換えたとしたら、インテリ崩れの助平な探偵になってしまうが、主人公はそういうキャラではない。「こっちはオックスフォードの奨学金をもらう頭なんてありゃしない。生物の時間はいつも寝ていたし、数学も苦手だった。でもとにかく今日まで生きてはきた。たぶん。」・・・・こういうキャラなのである。もし『パルプ』を日本を舞台にしてTVドラマ化するとすれば、主人公の探偵は、「俺」の場合は岩城晃一、「わたし」の場合は佐野史郎だろう。もちろん、当たるのは前者だ。

 

8.22(金)

 この時期、大学院受験の相談をよく受ける。今日も他大学の学生が研究室を訪ねてきた。ウチは自専修の学生と他専修、他学部、他大学の学生を差別しない。筆記試験と面接試験の成績が良ければ受かり、悪ければ落ちる。単純明快である。修士課程の入試は9月23日。4年生の場合、卒論と受験勉強の両立は大変だと思うが、あと1ヶ月、集中力を持続して頑張ってほしい。

 夜、名古屋での調査から戻ったM君、Hさんと、これから北海道での調査へ向かうKさんと、焼肉屋「ホドリ」で食事。焼肉というのは、肉を食べる時間よりも肉が焼けるのを待っている時間の方が長い。普段、私は飯を食うのが早いのだが、肉が焼けるのを待っている間は、中休みである。食べる、休む、食べる、休む、食べる、休む・・・・この反復である。だからステーキやトンカツを食べるときよりも食べ終わるのに時間がかかる。今日も正味1時間はかかったであろう。だから焼肉を食べ終えると一仕事終えたときのような充実感がある。よく食べ、よく喋った。話題の1つにそれぞれの家族における父親の地位というものがあった。日本の家族は母子中心である。母子という連星から数光年離れた場所に父という6等星がポツンと浮かんでいる。彼らの父親は私と同年代である。だから彼らの語ることは他人事ではない。明日はわが身、いや、すでに今日のわが身なのかもしれない。

 

8.23(土)

 この夏一番の暑さ。海やプールは大変な人出だったようだ。みんなこんな夏の一日を待っていたのだ。陽が西に傾く頃、2階のベランダにリクライニング・チェアーを持ち出して、気持ちのいい風に吹かれながら、雲をながめていた。

 

8.24(日)

 遅れてきた真夏の日々。蒸し暑いがクーラーは使わない。蒸し暑さを満喫する。♪短い夏が始まっていく・・・・、という浜崎あゆみの歌の不思議な日本語の歌詞が妙にぴったりな感じだ。暑いときには熱いものが食べたくなる。昼食は散歩の途中で「喜多方ラーメン」に入って葱ラーメンを食べる。澄んだスープと柔らかいチャーシューと白髪葱の組み合わせが絶妙。癖になる味だ。「誠竜書林」に寄って200円均一の棚から4冊購入。

 (1)渡部昇一・林望『知的生活・楽しみのヒント』(PHP、1998年)

 (2)東海林さだお『東京ブチブチ日記』(文藝春秋、1987年)

 (3)丸谷才一編『遊びなのか学問か』(新潮社、1985年)

 (4)『日本詩人全集32 明治・大正詩集』(新潮社、1969年)

 渡部昇一にとって昼寝は生活に不可欠な要素で、一仕事終えて次の仕事までの間、ホテルで昼寝をするのだそうだ。「私の個人支出で、本代以外にもっとも多額なものの一つはホテル代です」と言っている。昼寝をするためにホテルを使う! 私は研究室で昼寝をするときのためにリクライリング・チェアーを2万円で購入したが、慎ましい話である。

 散歩から帰る途中、自動販売機でドクター・ペッパーを買う。ドクター・ペッパーを飲むのは30年ぶりくらいかもしれない。初めて飲んだときは「何だこりゃあ?」と思った。こんなものすぐに消えてなくなるだろうと思った。しかし一部の好事家の根強い支持を受けて、今日に至るまで、しぶとく生き残っている。だから最近出たバニラ・コークという言語道断な飲み物も存外生き延びるかもしれない。ひさしぶりに飲んだドクター・ペッパーはずいぶんと味がマイルドになった感じがした。時代に迎合しながら生き延びてきたのだと思うと、いじらしい気がしないでもない。

 

8.25(月)

 世界陸上を見ていて寝るのが遅くなり(例のフライング問題のせいだ)、目が覚めたのが午前10時。窓の外の空は青く、高い。海はきっと水平線まで見渡せるだろう。鎌倉の由比ガ浜に行ってみようと思い立つ。蒲田から鎌倉までは電車で1時間。鎌倉駅から由比ガ浜までは徒歩20分(途中、木陰のベンチで、コンビニで買ったおにぎりを食べた)。海辺はウィンドサーフィンにはもってこいの風が吹いていた。滑川(なめりがわ)が海へ注ぐ右側を由比ガ浜海岸、左側を材木座海岸と呼ぶ。海の家がたくさんあって賑やかなのは由比ガ浜海岸の方だが、私はいつも材木座海岸の方に降りる。子供の頃、父の勤務先である千代田区役所の保養所が材木座海岸の側にあったせいで、材木座海岸から見る風景が私の鎌倉の海の原風景なのである。陽射しは強く、海はキラキラと輝いているが、水平線の彼方に夏の海の象徴である入道雲はない。受け入れがたいことだが、あと数日で8月が終わるという噂はやっぱり本当なのだ。しばらく浜辺を散策し、客もまばらな海の家で一休みしてから、若宮大路を駅まで戻る。ちょっと疲れたが、午後4時を過ぎ、小町通は日陰になっていたので、少し歩いてみる気になる。「木犀堂」という古書店があった。文士の町の古書店だけあって棚の大部分を文学作品が占めている。志賀直哉『枇杷の花』(新潮社、1969年)を手に取る。700頁近い分厚い本だ。帯に「志賀直哉自選作品集・限定版」とある。何部の限定なのかと奥付を見ると1500部とある(ただし版画のようにシリアルナンバーが記されているわけではない)。売値は9000円。結構な値段だ。「あとがき」を読む。

 「私は自分の事ばかり書いている小説家のように思われているが、必ずしもそうばかりではない。/今度、私は自分で目次を決め、最後のつもりでこの本を作った。/なかには『予定日』のように極端な私小説もあるが、又『いたずら』のような、ひとから聴いた話を想い切り潤色した作品もある。/私は作り話にもある愛着があって、そういものをなるべく竝べた。/これがこの本の一方の意図、もう一つは五十四年間一緒に暮らした老妻との関係、―『くもり日』という淡々とした小品に始まり、『老廃の身』に到る、生涯の友達を読者に読みとってもらいたい意図で目次を作って見た。/この本は高田瑞穂、紅野敏郎、そして新潮社の山高登の三氏のお世話で出来たもので、謝意をあらわす。/著者/昭和四十三年十月十七日」

 事実、『枇杷の花』は志賀の最後の本になった。この「あとがき」を書いてから2年と4日後、志賀は亡くなった。大学生のときに購入した志賀の全集が自宅の書庫にあるので、どうしようか少し迷ったが、ひさしぶりで鎌倉を訪れた記念に購入することにした。帰りの電車の中で「くもり日」を読む。

 「薄ら寒い、今にも時雨れて来そうな陰気臭い午前だ。普通ならこんな日は外出するのでは利口ではないと俊吉は思った。部屋に炭火を入れ、こういう日らしい気持ちで読書でもするのが、相応しいのだが今日はそうして彼はいられなかった。」

 志賀の作品は冒頭でその日の天候と主人公の気分について触れるものが多い。『枇杷の花』に収められた作品の中から拾ってみる。

 「伊豆半島の年の暮れだ。日が入って風物総てが青味を帯びて見られる頃だ。十二三になる男の児が小さい弟の手を引いて、物思わし気な顔付をして、深い海を見下ろす海岸の高い道を歩いている。弟は疲れ切っていた。」(真鶴)

 「朝から冷たい時雨が時々来るような日だった。私はしめつけられるような頭痛で甚く元気がなかった。手足が冷え、額ばかりが熱く、総てが受け身な気持で何をするのもいやだった。」(黒犬)

 「薄曇りのした寒い日だった。彼は寒さから軽い頭痛を感じながら、甚く沈んだ気分で書斎に閉じこもって居た。時々むこうの山の見えなくなる程雪が降って来た。」(痴情)

 「その日は朝から雨だった。午からずっと二階の自分の部屋で妻も一緒に、画家のSさん、宿の主のKさん達とトランプをして遊んでいた。部屋の中には煙草の煙が籠って、皆も少し疲れて来た。トランプにも厭きたし、菓子も食い過ぎた。三時頃だ。」(焚火)

 志賀にとって、自我というものは気分と表裏一体のものだった。そして気分はしばしば天候に左右される。雨や薄曇りの寒い日の話が志賀の作品に多いのは、偶然ではない。志賀の文学は「不快な気分」をその根底にもっている。

 蒲田駅に着いて、有隣堂の文房具コーナーを覗いたら、先日買った片岡義男『文房具を買いに』の冒頭で紹介されていたモールスキンの手帳(罫線・方眼・白紙の3種)があったので、白紙のものを購入。1500円。

 「表紙で測って横幅が九十三ミリ、そして縦の幅は百四十二ミリだ。本体と表紙とのあいだに、サイズの差がほとんどない様子が、ぜんたいの雰囲気を引き締めている。手帳としてこの縦横のプロポーションを越えるものはあり得ない、と僕は思っている。さほど凝ってはいないけれど、必要にして十分な作りは手のなかによくなじむ。モグラの皮によく似ているところからモールスキンと呼ばれた服地があり、モールスキン手帳の表紙にはこの服地が使われていた。モールスキンという通称はそこに由来しているという。現在のモールスキン手帳はこの服地を模した紙だが、感触は悪くないし、視覚的にも好ましい。表紙を含めてぜんたいが角(かど)丸で、糸を織った紐の栞がついている。裏表紙の内側にはポケットまで用意されている。」

 この文章からだけではわからないが、表紙と裏表紙はしっかりとした厚紙で作られていて、手帳が鞄の中で開くのを防止するバンド(日本製の手帳ではお目にかからない)が付いている。職人が作った手帳だ。

 

8.26(火)

 一文の文芸専修を卒業して4年目のSさんから近況報告のメールが届く。彼女は日本テレビの記者をしている。例のスーパーフリー事件のときは、同じ大学の出身ということもあったのだろうか、取材を担当していて、「バンキシャ!」という報道番組がこの事件の特集を組んだときには、彼女が番記者として出演していた。番組の中で彼女は「やりサークル」というちょっとドキッとする言葉を使ったのだが、これは局内でちょっと物議をかもしたらしく、上司からは「出世と引き換えてによく頑張った」と誉められた(?)そうだ。実は、私は彼女が卒業制作で書いた小説のアドバイザーであった。もちろん正式の指導教員ではない。3年生のときに私の講義をとっていた彼女が、ある日、自分の書いた小説をもってきて、これが読んでみるとなかなかの出来栄えで、また何か書いたら読ませて下さいと言ったら、今度は卒業制作で取り組む小説の最初の章にあたる原稿をもってきて、私が感想を述べると、翌週、書き直し原稿をもってきて・・・・ということが、結局、卒論の締切の直前まで続いたのである。祖母、母、娘三代に渡る家族の物語で、題名を「枇杷の花」といった。昨日、鎌倉の木犀堂で志賀直哉の最後の作品集『枇杷の花』を購入し、帰りの横須賀線の車内で読んでいたとき、不意にそのことを思い出し、符号の一致を面白いと思った(ちなみに『枇杷の花』は作品集のタイトルで、志賀に「枇杷の花」という作品はない)。そんなことがあった翌日のSさんからのメールである。人生にはこうしたシンクロナイゼーションがときどき生じる。

 

8.27(水)

 自転車を漕いで多摩川に行く。多摩川大橋と六郷橋の間で川は逆S字型に蛇行している。道塚商店街の途中で右に折れると、その最初のカーブの辺りに出る。そこから土手下のサイクリングロードを下流に向けて走る。広々とした空間、明るい陽射し、心地よい風。私の自転車はママチャリで、スピードは出ないが、全然かまわない。JRと京浜急行の鉄橋の下をくぐり、六郷橋の手前で引き返す。多摩川緑地公園(野球場が何面もある)の管理事務所の水道場で顔を洗う。事務所の2階は「多摩川」という名前の公営の食堂で、入口に「ビールのつまみいろいろあります」と書いてある。きっと週末は草野球を楽しんだ後の人たちでにぎわうのだろうが、今日は、おじさんが1人、新聞を読みながらビールを飲んでいる。今度、昼飯を食べずに来たときに入ってみよう。カレーとカツ丼とラーメンぐらいはあるような気がする。

帰りは来たときより少し上流のところで土手を越えたが、多摩川2丁目という不案内な地区で、とにかく川と直角の方向に自転車を漕いでいたら、環状8号線の安方神社のところに出た。そうか、ここに出るのか。懐かしい場所だった。学部の3年、4年の頃、この辺りにあったF塾という小中学生相手の小さな塾で講師をしていた。苗字の頭文字からFと呼ばれていた塾長はカリスマ的な人物で、ときどき塾の運営をめぐって講師と意見の対立することはあったが、私にとっては総じて楽しい2年間であった(ちなみに担当科目は国語だった)。あれから27年、最寄り駅の目蒲線(現在の多摩川線)矢口の渡駅のホームにあった塾の看板もいつしか消え、風の便りにFが脳梗塞で倒れたという話も耳にした。いま、F塾のあった場所はどうなっているのだろうと、近くまで行ってみた。当時でも古かった木造の平屋の住宅(まさに寺子屋という感じだった)はもちろんのことすでになく、一般の住宅が建っていた。ちょうどその家の玄関から年配の女性と、小さな男の子の手を引いた30代くらいの女性が出てきた。あれっ、と思った。似ているのだ。年配の女性はFの奥さんに。そして、男の子の母親はFの娘さんに。当時、Fには小学生の女の子と就学前の男の子がいた。私は塾の講師をしながら、女の子の家庭教師もしていた。目の大きな利発な子だった。子どもの頃、目の大きな子は、大人になっても目が大きい。だからわかる。私は声をかけるべきか迷った。他人の空似ということもある。それに汗の滲んだTシャツ姿でママチャリに乗っている私の格好は、27年ぶりの再会の場面に相応しくないように思えた。もし彼女が私の知っている彼女であれば、いずれまた会うこともあるだろう。年配の女性が玄関の中に消え、男の子を連れた女性が駅の方向へ向かった後、私は表札の名前を確認するためその家の前に行った。表札は見当たらなかったが、玄関の壁に「エフ塾」と張り紙がしてあった。

 

8.28(木)

 2週間前のフィールドノートで、4年生のKさんが卒論のためのリサーチで、バラエティー界の大物たちにインタビューの依頼をすることになったという話を書いた。ダメもとで依頼をしたにもかかわらず、まず、元フジテレビの横沢プロデューサーからOKの返事をいただき、続いて、志村けんさん、伊東四郎さん、鶴瓶さんからOKの返事をいただいた。今日、吉本興業東京本社で横沢さんにインタビューし、横沢さんから「また来れば」と言われたKさんは大喜びで私に報告のメールを寄越した。彼らがいい人であるのはもちろんだが、Kさんの依頼の手紙が相手を動かしたということもあろう。結局、人を動かすものは熱意と誠意なのである(+私のアドバイスの効果ということも忘れてはなるまい。今回も、返信のメールで、伊東四郎さんに会ったら、指導教授がベンジャミン伊東のファンであることを忘れずに伝えるようアドバイスした)。

 

8.29(金)

 いよいよ8月も終わる。大学は8月と9月の2ヶ月間が夏期休暇なので、8月の終わりは夏期休暇の中間地点に過ぎないのだが、気分的には休暇から日常への段階的復帰の始まりである。

 昼過ぎ、地下鉄の駅を出て、大学へ向かう途中、「五郎八」の前で何気なく店の中を覗いたら、中から通りを見ていた女将さんと目が合ってしまい、途端に引き戸が開いて店の中に引っ張り込まれる。吉原の客みたいだ。カウンター席に座って、前から気になっていた「揚げ茄子のしぐれおろし」(960円)というのを注文する。揚げた茄子、拍子木に切って揚げた餅、小エビの天ぷら、梅干、大根おろし、花鰹、海苔、山葵など、いろいろな具と薬味が賑やかに載った蕎麦に冷たい汁を掛けて食べる。とっても美味。ペロリと平らげて、お稲荷さん(80円)を1つ注文する。辛い蕎麦汁の後には甘く煮た油揚げが合う。

 調査実習の対象者からの新たな返信はこの2週間ほど1枚もない。調査への依頼状を出したのが6月の下旬だったから、もう打ち止めだろう。インタビューに応じると返事をくれた方、ちょうど100人。うち99人は担当の学生が決まっている。しかし、最後の1人(石川県在住の男性)だけまだ担当が決まっていない。担当者募集のお知らせをゼミのBBSに書き込んであるのだが、なかなか手があがらない。9月中に内灘に行く計画が私にはあるのだが、そのついでに私がインタビューをするというわけにもいかない。相手の方は学生がやってくるという前提でインタビューに応じて下さっているわけだから。メインの調査員が決まっていないケースは1件だけだが、サブの調査員が決まっていないケースはもっとある。旅行中の学生が多いことと、調査疲れ(テープ起こし疲れ?)が理由であろう。サブの調査員の募集はメインの調査員がBBS上で行うのだが、放置されたままになっていて、インタビューが明日、明後日に迫ったケースについては、頼めばサブを引き受けてくれそうな学生に私が電話してなんとかする。置屋の女将みたいだ。

 

8.30(土)

 TBSのドラマ『高原へいらっしゃい』(木曜10時)が、本来全11話のところを、10話に短縮されて来週が最終回となった。もちろん理由は視聴率の低迷。同じ時間帯で今期のドラマの中では視聴率トップの『Dr.コトー診療所』(フジテレビ)とぶつかったのが痛かった。私は『Dr.コトー診療所』を妻と一緒にリアルタイムで観て、『高原へいらっしゃい』はビデオ録画しておいて後から1人で観る。思うに『Dr.コトー診療所』のファンと『高原へいらっしゃい』のファンはかなり重なっていて、私のように両方観ている者が少なくないはずだ。しかし視聴率にはビデオで観たものは反映されない。なぜならビデオではCMは早送りで飛ばされてしまうから、スポンサーにとっては意味がないのである。『高原へいらっしゃい』のホームページのBBSはいまブーイングの嵐である。『高原へいらっしゃい』にはホテルを売り払おうとする社長が出てくるが、私にはその悪役の社長が番組のスポンサーと重なって見える。私は抗議の不買運動をするつもりだ。ジャックスカードは使わない。ホンダの新車は買わない。UFJつばさ証券とは取引をしない。カネボウの化粧品は使わない。モッズヘアーのリンスも使わない。キューピーマヨネーズは買わない。・・・・しかし、もともと私は、カードはJCB早稲田カードを使っており、自動車免許はもっておらず、証券に手を出したことはなく、化粧の趣味もないし、リンスもしないし、マヨネーズは味の素だから、不買運動といってもいままでと何ら変わるところはないのであるが。

 

8.31(日)

 今週末に大阪市立大学で開催される日本家族社会学会大会での発表用(当日配布用)のレジュメ作り。私が参加するのはテーマセッション「戦後日本の家族変動―『戦後日本の家族の歩み調査』(NFRJ-S01)から」で、発表題目は「NFRJ-S01の方法論的問題」(・・・・地味なタイトルだなぁ。でも、聴衆はみんな玄人だからね)。一人当たりの発表時間は30分なので、ポイントを3つに絞り(サンプルを女性に限定したことの問題、回想法で収集したデータの信頼性の問題、出生コーホートを結婚コーホートに組み替えることの問題)、B4判2枚(A4判2枚をB4判1枚に縮小したもの2枚)にまとめる。9月3日までに学会事務局に添付ファイルで送れば、あちらで100部コピーして下さるとのこと。ありがたい。

 

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