フィールドノート0411

 

11.1(月)

 午前、母の入院に付き添って病院へ。持病の糖尿病の治療のためで、今年2度目。今回も3週間程度の予定。母の方は馴れたものなのだが(ウンザリはしてますけどね)、問題なのは父の方である。母に四六時中叱られながらも母に依存して生活している父は、ずいぶんと心細い気分になっているようである。近頃とみに記録力が衰え、毎食後、数種類の薬を服用することになっているのだが、それを飲んだのか飲んでいないのか、本人に聞いても判然としないことがしばしばある。これからは私の目の前で飲んでもらうことにしよう。子供たちにもおじいちゃんの話し相手になるように言っておく。

午後、散歩に出る。古書の代金を銀行で振り込む。今日から新札が市中に出回ることになり、両替機の前は長蛇の列である。きっと本屋の児童書のコーナーには和製の近代版「人生の物語」の聖典である野口英世の伝記が平積みされていることだろう。これで野口英世伝の寿命は少なくとも50年は延びるはずだ。サンカマタの無印良品で水性ペンを4本(黒、赤、青、緑)とペンケースを購入。合計493円也。安い。私は字が下手な上に筆圧が強いので、ボールペンよりも線が太く、肩に力を入れずに書ける水性ペンを好む(細字は字の下手さが際立つのである)。ただし、水性ペンはノートの紙質によっては滲んだり、字が裏面から見えてしまってノートの両面を使うには不向きなことがある。昨日購入したクレールフォンテーヌの方眼ノートに使われているベラム紙はそんな心配はまったくいらない(なにしろロディアの方眼紙よりも上質なのだ)。4色の水性ペンを使って、次に書く作品のプロットを書いていると、いいものが書けそうな気持ちになってくる。ビルの外に出ようとしたら、天気雨が降っていた。子供の頃から天気雨は好きである。ほんの少しの間だったが、シャワーのようにキラキラと降り注ぐ雨を眺めていた。夜、大学の広報課から依頼されている明々後日が締め切りの原稿を書く。

 

11.2(火)

 朝食後、昨日の夜に書き上げた原稿を、もう一度見直してから、担当者にメールで送信。午後、父と一緒に母の見舞いに行く。好い天気なので、父にはいい運動になると思い、20分ほどの道程を歩いて行く。病室に行くと、母は検査のために不在だったので、途中の道で買ってきた缶ジュースを飲みながらしばらくディールームで待つ。暖かな日射しの差し込むディールームには、私たちのほかには親子とおぼしき中年の女性と男児がいるだけで、男児はポケコンのゲームに夢中で、女性は黙って編み物をしている。男児の方が入院患者なのであろう。このフロアーは泌尿器系の患者が多いようなので、男児はネフローゼなのかもしれない。しばらくして看護婦と年配の男性の患者がやってきて、看護婦がパソコンを開いて男性の既往歴についての聞き取りを始めた。静かなディールームに既往歴を語る男性の声だけが響くので、聞こうと思わなくても聞こえてしまう。痔瘻で手術をしたときのことなんかを話している。廊下では別の看護婦が痩せた若い女性患者を体重計に乗せて数字をカルテに書き込んでいる。このフロアーには心療内科の患者も多いのだが、たぶん彼女は摂食障害なのだろう。みんな根気よくつきあっていかなくてはならない病気を抱えた人ばかりだ。待つこと1時間、母がようやく検査を終えて戻ってきた。

夜、大崎善生『別れの後の静かな午後』を読む。冒頭の一編「サッポロの光」は札幌オリンピックの頃に札幌の中学生だった主人公の「僕」が酒場でのちょっとしたやりとりから当時の同級生のことを思い出す話。東京オリンピック(1964年)が東京の街を一変させたように、札幌オリンピック(1972年)は札幌の街を一変させた(ということを私はこの作品を読んで理解した)。大崎は1957年札幌の生まれだから、この話は彼の体験に基づいているのだろう。笠谷、今野、青地の「日の丸飛行隊」が70メートル級純ジャンプで金・銀・銅を独占した日の興奮を彼の文章は見事に再現している。

 

僕はクラスメイトたちとその日、ゴミ掃除の命令を仰せつかって宮の森にいた。笠谷が北の大空を舞う瞬間を、真下で見た。

「行け、笠谷」と誰もが日の丸の小旗を振り大声を張り上げていた。

「飛べ笠谷!!」

とどまることのない叫びの中をまるでスローモーションの映像のように、笠谷は身をかがめ踏みきり台に向かって滑り出した。

笠谷は飛んだ。

一切の躊躇もなく、空に向かって飛びあがった。まるで札幌の誇りを背負うように、それを代弁するように、力強く空を舞った。

着地を決めたとき、時間は止まり場内は凍りついたように静まり返った。まるで一瞬、地球が自転を止めたかのようだった。

そのあとの地響きのような大歓声。大人たちの涙。叫び。誇り。歓び。手を取りあって抱き合う人々。そのときにその時代を生きた誰もがきっとこう感じていた。札幌だって世界に通用するのだ。ここはもう北海道の片隅の、世界から忘れ去られたような場所ではない。世界につながっている町なのだ。もうここは札幌ではなくサッポロなのだ。

晴れ渡った空には大きな三本の日の丸の旗が舞っていた。そのとき僕と沢田は間違いなく日の丸が作る影の中にいて、そしてそのことをどのくらい誇らしく感じていたことだろう。

 

 酒場で沢田のことを思い出した日から一ヶ月後、「僕」は沢田の死を知る。肝臓癌だった。

 

僕がこのカウンターに座り、ただ思うことは、三十年も音信不通だった沢田の最後の一ヶ月を知ったことに何の意味があるのだろうかということである。昨日の死を知ったことに。

それは偶然だったのか。

それとも必然だったのか。

ただ思うことは、札幌オリンピックの、北海道の大地に突然現れた光のあまりのまばゆさである。

ジャネット・リンは笑顔を振りまきながら尻もちをつき、笠谷は真っ青な空を舞った。

しかし、友よ、あのサッポロの光はあまりにも遠い。

変わりゆく世界に怯えながらも、しかし自分たちも変わってゆくことを要求されていたあの狂騒の日々。

   (中略)

友よ、憶えているだろうか。

あの日、僕たちは笠谷が飛んだ宮の森のシャンツェで寒さにこごえながら、手を取り合いそしてきつく抱きしめ合ったのだ。世界一になったジャンパーを誇り、金銀銅独占を誇り、そしてきっと僕たち自身も光り輝き誇りに満ちていた。

あのオリンピックを憶えているだろうか。

癌に苦しみ死の影に怯える君の脳裏にも、あの光と影は焼きついていたのだろうか。あの目がくらむほどの、白く果てしないサッポロの光を。

あの日、叫び合い抱き合っている僕たちは、三本の日の丸が作る大きな影の中にいた。

 

 『別れの後の静かな時間』の帯には「〈別れとはじまり〉を描いた待望の恋愛小説集」と書かれていた。そうじゃないだろう。恋愛小説なら馬に喰わせるほどある。本書に収められた他の作品のことは知らない。しかし少なくとも「サッポロの光」は恋愛ではなく友情を描いた小説だ。ケツメイシの「トモダチ」を聴きたくなった。

 

11.3(水)

 半日、書斎の本の整理。普段、新たに購入した本はジャンルに関係なくとりあえず書斎の一画(窓際のラックの上)に積んでおく。そして読んだ本は書斎ないし書庫のしかるべき場所に収められる。しかし、本を購入するペースが本を読むペースを上回っているため、とりあえず積み置かれる本の山がしだいに高くなる。その山が一定の高さに達すると(窓から入る光を遮断し、地震が来たら崩れる可能性が大きくなると)、大雑把にジャンル分けして(当面の講義や著述と直接関係する専門書、直接には関係しない専門書、文芸書の三分類)、書斎のしかるべき棚に配置する。この段階ではまだ書庫には運んではいけない。読まずに書庫に運んでしまうとその存在を忘れてしまうからだ。まあ、書庫はときどき巡回するので、「ああ、こんな本があったんだな」と確認はされるわけだが、書斎の本棚に並んでいた方が読まれる確率は大きい。しかし、書斎の容量(スチール製の6段の本棚が9本と木製の3段のラックが3本)の問題があるので、読んでいない本をいつまでも書斎に置いておくわけにはいかない。読んだ本でもくり返し参照する本は書庫ではなく書斎に置いておきたいので、未読の本のために割り当てておけるスペースはせいぜいスチール製の本棚3本分である。だから窓際のラックに積んであった本を本棚に移すときには、もともと本棚に配架されていた本たちを選別して書庫に運んでいかなくてはならない。要するに本の移動の作業というのは玉突き式の重労働なのである。というわけで、けっこう疲れました。

 

11.4(木)

 7限の授業を終えて帰宅途中、東京駅のホームでふと携帯の画面を見ると妻からメールが入っている。開くと、「大変だ!」で始まっている。一瞬、家族の身に何かあったのかとドキッとした。しかし、その後にはこう書かれていた。「書庫に水漏れしました。今書庫の天井に穴を開けてます。」不思議とそれほど驚かなかった。むしろ、家族に何かあったわけではないのだという安堵感すらあった。で、一呼吸置いて、書庫の上は風呂場だから(一階にも二階にも風呂場がある)、風呂場の水が漏ったのだろうかと考えた。天井一面から水滴がポタポタと滴り落ちている情景が思い浮かんだ。とにかく家に電話を入れる。妻が出た。

「風呂場の水が漏ったの?」と尋ねたら、

「そうじゃなくて、台所の水らしいの」と言う。そういえば最近流しの排水管の通りが悪いと妻が言っていたのを思い出した。

「で、被害状況は?」

「書庫の床の上に2カ所水たまりができているけど、本は無事みたい」

「修理は終わったの?」

「まだ続いているわ。時間がかかりそう」

 30分後、帰宅すると、工事の人が帰るところだった。排水管のつまりは高圧洗浄しないと解消しないのだが、大きな音がするため、その作業は明日の午前中に来てやりますとのこと。妻によると、流しの排水管のつまりを解消しようと自分でパコパコやっていたのだが埒が明かず、業者に電話をしてから、階下に用事があって行ったら、たまたま書庫の戸が開いていて、ピチャピチャ水音が聞こえたので、電気を付けてみたら、天井から水漏れがしていたのだという。目の前の水漏れとさきほど自分がやったパコパコとの間の因果関係に思い至ったとき、「わぁ、怒られる!」と妻は思ったそうだ。「離縁されるとは思わなかった?」と尋ねたら、そこまでは思わなかったそうだ。楽観的な性格である。電話では本は無事だと聞いていたが、床の上の2カ所の水たまりのうちの1つは直接天井から水が床に滴って出来たものだが、もう1つの水たまりは天井から書架を伝ってできたもので、ちゃんと点検してみたら、その書架の本の一部(各段の一番端に置かれていた本)は水を含んでふやけていた。不幸中の幸いだったのは、被害にあったのが書庫の中では比較的価値の低い本が置かれた書架であったことだ(唯一の例外は、清水卓行『マロニエの花が言った』下巻である。岡鹿之助の点描画を装画に使った美しい装丁の本であった)。もし小林清親や井上安治の木版画が被害に遭っていたら、もし村上春樹や小沼丹らお気に入りの作家たちの単行本が並んでいる書架が被害に遭っていたら、もし高見順や伊藤整や加藤周一や吉田秀和らの全集が並んでいる書架が被害に遭っていたら、・・・・そのショックはいかばかりだったろうか。そうした最悪の事態を回避することができたのは、考えようによっては運がよかったのだ。本に付いた水滴を乾いたタオルで拭きながら、そう思った。そう思うことにした。

 

11.5(金)

 午前中から始まった排水管のつまりを解消するための作業に手間取る。高圧洗浄という方法で行うのだが、これを二階の流しの排水口の方からやったのでは水が逆流して再び溢れる危険があるので、庭にある排水溝の方から内視鏡のような管を入れて行うのだが、その管が排水管の問題箇所(おそらく2階の床下のどこか)までなかなか届かない。その原因は、業者によれば、1階の書庫の床下部分の排水管が図面どおりのストレートな配管になっておらず、途中で上下している箇所があり、そうした場合に通常は取り付けることになっている掃除口(あればそこから管を入れることができる)がないことにある。また、排水管のつまり自体はよくあることだが、排水管の中で停滞した水が流しのシンクに貯まるのではなく、流しから床へ下りる排水管の接合箇所から溢れた(その水が排水管と床の間を通って階下の書庫の天井に及んだ)原因は、その接合部分がパテやビニールテープでしっかりと接着されていなかったためである。私はこれは問題(施工ミスの疑いあり)だと思ったので、建築会社の「お客様相談窓口」に電話をして状況を説明した。その過程で、私の手元にある図面は「確定図」であって、「竣工図」(これが本当の最終の図面)ではないことが判明した。「竣工図」というのはもらっていない。これもまた問題である。相談窓口の担当者は配管工事を担当した下請け会社に連絡を入れ、ほどなくその下請け会社の担当者から私のところに電話が入った。相談の結果、すぐに誰かを派遣してもらうことになった。その間、私の方で依頼した業者の作業は続けてもらい、下請け会社の方から派遣された業者(下請けの下請け)が到着した時点で、まだ排水管のつまりが解消されていなければ、作業をバトンタッチしてもらうことにした。午前中から(昨夜からというべきか)作業を続けている業者は、なんとか自分の手で排水管のつまりを解消したかったようだが(そうでないと正規の金額を請求することができない)、夕方、下請け会社の方から派遣された業者が到着した時点で、まだ悪戦苦闘していた。新たに登場した業者は年齢は60歳前後、小柄で、いかにもこの道一筋でやってきたという感じの人物で、悪戦苦闘している若者から状況の説明を受けると、「ワイヤーでやってみよう」とひとこと言うと、車から機材を運び、作業を始めた。そしてわずか15分ほどで排水管のつまりを解消してしまった。私は気の毒で若者の顔をまともに見ることができなかった。彼は若者に流しの方から高圧洗浄をするように指示して、私を道路の排水溝のところへ連れて行き、そこに流れてくるドロドロした液体を示して、それがつまりの原因であることを指摘しながら、「高圧洗浄はマンションなんかのストレートな配管には有効だけれど、一般の住宅の曲折の多い配管には向いていないんです。流しの排水口からワイヤーブラシを入れていって、管の内側にこびり付いた油をこそぎ落とす昔ながらのやり方が有効です」と言った。野武士が槍よりも鎖鎌が優れていることを自慢しているようにも聞こえたが、彼の口調には若者への配慮が感じられた。彼が去った後、若者は「やられちゃいました」と私に言った。後片づけの終わった頃を見計らって、私が支払いの金額を尋ねると、しばらくして、車の座席で作成した請求書をもってきた。5万6千円という金額は、昨夜からの今日の夕方までの作業の対価としては過小なものであるが、本来の依頼事項である排水管のつまりの解消を自力では行えなかったのだからやむを得ないだろう。書庫の天井を開口して水漏れが天井部分の配管からのものではないことの確認、流しの下の排水管の水漏れ箇所の補強、排水管全体の洗浄、これらの作業に対する代金として私は請求されたとおりの金額を現金で支払った。ほどなくして下請け会社の担当者から電話があり、排水管のつまりは設計のミスが原因ではないようですので、今回の作業の代金として3万円ほど請求させていただくことになると思いますが、それでよろしいでしょうかと言ってきた。私は排水管のつまりを解消してくれたことに対するお礼を述べた上で、流しの下の排水管の接合部分から水漏れが生じた(そのために書庫の天井から水が漏れた)点については、やはり施工の仕方に問題があったのではないかと返答した。この問題については継続審議となった。・・・・そんなこんなで一日が暮れた。

 

11.6(土)

 先日、父の小学校以来の友人であるTさんが亡くなり、今日、町屋斎場で通夜がある。父の付き添いで私も出かける。京浜東北線で西日暮里まで行き、千代田線に乗り換えて1つめが町屋である。同級生のFさんは1時間も前に来て、父が来るのを待っていた。読経、焼香、法話が終わり、お清めの席に移る。Fさんは浅草のアイスクリーム屋の息子として生まれた。アイスクリーム屋といっても当時の東京中の繁華街の映画館で売り子が「おせんに、キャラメル、アイスクリームはいりませんか」と売っていたアイスクリームを一手に仕切っていて、浅草でも有名な資産家であった。Fさん本人はシベリヤでの4年間の抑留生活の後に帰国してから、アメヤ横町で化粧品店を開業し、40年以上の長きに渡って商店会長を務めて「シベリヤさん」の愛称で親しまれていた。81歳の現在も社交的な性格は相変わらずで、お清めの後、3人で駅の近くの居酒屋に入ったときも、注文を取りに来た女の子に「いやぁ、ここでこんなきれいな方に会えるなんて!」と軽口を叩き、「ビールはある?」と尋ねて、「生ビールになりますが、よろしいですか」と答えた彼女に、「焼きビールがいいな」なんて言っていた。これ、中年男が言うとただの「おやじギャグ」だが、Fさんが言うとなんとも味わいのある「じじいギャク」に聞こえる。「オヒョイ」こと藤村俊二の雰囲気といえばわかってもらえるだろうか。数年ぶりに会った父はもちろんだが、私もFさんとの会話を大いに楽しんだ。それにしても不思議なのは、真面目で温厚なことだけが取り柄の父が、どうして70有余年もFさんの親友でいられたのかということだ。「タイちゃん(父のこと)とは腹を割って話せるから」とFさんは何度も言っていた。ちなみにFさんは私のことを「タカちゃん」と呼ぶ。

 

11.7(日)

 父の友人Tさんの告別式。昨日の通夜に続いて、父に付き添って町屋斎場へ行く。Fさんも参列。出棺前の最後のお別れのとき、父がTさんの頬に手を当てて、「こんなになって・・・・」と独り言をいうように語りかけた。骨あげのときは、当然のように父とFさんがペアになった。小学校以来の友人の骨を拾うというのはどんな気持ちなのだろう。お清めの後、千代田線の町屋駅近くの喫茶店で珈琲を飲んでから、都電荒川線に乗って帰るFさんと別れた。昨日も今日も穏やかな秋日和だった。

 

11.8(月)

 午前、検査の予約の入っている父について病院まで行き、それから大学へ出る。昼休みから始まった会合が長引いて、昼食をとれたのが午後3時半。ここの鍋焼きうどんの特徴は通常の鍋焼きうどんには入っている海老の天ぷらが入っていないことである。代わりに何か入っているのかとそういうこともなくて、純粋に海老の天ぷらが欠落しているのである。私の記憶では開店当初(もうだいぶ昔のことだ)は入っていたのだが、天ぷらを揚げるのが手間なので途中から入らなくなってしまったのである。それともう1つ、ここの鍋焼きうどんで面白いのは、品書きには950円と書いてあるのに、実際は850円であることだ。今日、支払いの時、意を決してその理由を尋ねたのだが、「ふつうの鍋焼きうどんには入っている具が入っていないものですから」との回答を得た。しかし、それは海老の天ぷらのことを言っているのではあるまい。まさか海老の天ぷらが100円相当ということはないだろう。では、100円の差額に相当する具とは何だろう。この問題は今後の検討課題としておこう。

 

11.9(火)

 午前、父と一緒に昨日の検査を聞きに行く。投薬の効果は出ているようであるが、デイサービスの利用などのことを考えて要介護認定の申請はしておいた方がよいとアドバイスを受ける。さっそく、病院からの帰り、大田区役所の福祉の窓口でパンフレットをもらい、夕方、最寄りの在宅介護支援センターに行って、申請の手続きをする。手続きはもっと面倒なのかと思っていたが、書類を一枚書くだけでよい。代行申請だが、私が息子であることを証明する必要はなく、印鑑も不要。介護保険証を忘れてきてしまって、その番号を記入できなかったのだが、なくても大丈夫とのこと。こんなに簡易でいいのだろうかと思うくらい簡易である(ただし認定結果が出るまでに30日ほどかかる)。

 

11.10(水)

 ミルクホールで昼食用の調理パンを選んでいたら、体育会系の男子学生がバナナクリームパン(新商品か?)をしげしげと眺めて、買おうか買うまいか思案していた。女性の店員さんに「これはどういう味がするのですか?」と尋ねている。彼と店員さんのやりとりが自然に耳に入ってくる。どうも彼はバナナクリームパンを「バナナの形をしたクリームパン」と理解していて(実際、バナナの形をしているのだが)、クリームは普通のクリームパンのようにカスタードクリームだと思っていたらしい。そうじゃないよね。バナナクリームパンは「バナナクリームの入ったパン」のことだよね(食べたことないけど)。自分の間違いに気づいた彼は、ますます買おうか買うまいか悩んでいる。見るに見かねた私は(ああ、じれったい)、彼に言った。「迷ったときはトライしなさい。それが若者だ。」彼はちょっと驚いたように「はい!」と言って、バナナクリームパンを袋に入れた。店員さんが笑っていた。

 3限の「社会学研究10」の授業でちょっと驚いた(というよりも呆れた)ことが2つあった。第一は、学生に自分の父親の年齢(出生年)を尋ねたところ知らない学生が多かったこと。家族の誕生日を祝う習慣がないのか、それとも誕生日プレゼントっていうのは、親が子にあげるもので、子が親にあげるものではないと思っておるのでしょうか。社会的紐帯というのは互酬性の原理によって維持されているんだけれどね。まさか他者に対する無関心が、家族にまで及んでいるってことはないよね。第二は、10月24日に放送されたNHKスペシャル「中国 豊かさへの模索」(データマップ63億人の地図 第8回)を見た人はいますかと尋ねたら、1人もいなかったこと(160人くらいの学生が教室にはいた)。このシリーズは大学生ならば、少なくとも社会学を勉強している大学生ならば、必見の番組だと思うのだが、1人も見ていないとはね。彼らの情報収集のアンテナはどっちの方向を向いているのだろうか。社会学を勉強するっていうことは、自分の身の回りの世界で起きていることと、その外側で起きていることの因果関係について考える能力(社会学的想像力)を鍛えるにほかならなんだけどね。

 吉田文・広田照幸編『職業と選抜の歴史社会学』(世織書房)が出版社から届いた。著者の一人である高瀬雅弘君(一橋大学・法政大学・日本大学非常勤講師)が送ってくれたもので、故郷を離れて都市へと向かったノンエリートの青少年の軌跡を分析した論文集である。農村から都市への人口移動という現象は、近代日本を考えるときにも、現代中国を考えるときにも、きわめて重要なものである。

 

11.11(木)

 午後、戸塚ロイヤルクリニック(リーガロイヤルホテルの中にある大学が契約しているクリニック)で人間ドックを受ける。2年前のデータと比べて体重が5キロも増えている(去年は受診しなかったのでデータがない)。もっとも2年前のいまごろというのは、二文の学生担当教務主任の務めが終わった直後で、ゲッソリとしていたときだったから、比べるのは間違いかもしれない。しかし、少なくとも3キロは減量せねばならない。3キロね・・・・、難しい数字ではない。間食を控え、昼飯は麺類にして、夕食のご飯のお代わりをやめれば、3キロなんてすぐである。しかし、飯田橋ギンレイホールで映画を観た後に「紀の善」でお汁粉を食べるという楽しみは捨てがたく、お昼に「すず金」の鰻重を食べるという贅沢もたまには必要だし、その晩のメインの料理で一杯目のご飯を食べた後にイカの塩辛で二杯目のご飯を食べるというのは、池波正太郎風に言うならば、「こたえられない」。そうすると、3キロの減量は簡単とはいえなくなってくる。まあ、12月末を目標に、ぼちぼちいきましょう。7限の授業を終えて、帰宅途中、もりそばを食べる。いつもなら天ぷら玉子うどんを注文しているところである。

 

11.12(金)

 大学院の演習と学生相談を一件終えて、夕方から竹橋の如水会館で開かれる全国中学生作文コンクール(生命保険文化センター主催)の表彰式に出席。昼食を食べ損ねてしまっていたので、表彰式の間、お腹が鳴らないか心配したが、大丈夫だった。今回、文部科学大臣奨励賞(最上位の賞)を受賞した宗谷郡猿払村立拓心中学校3年の佐藤元君は、3年前に同じ賞を受賞した佐藤麻美さんの弟である。きょうだいでの同賞受賞は42回の大会で初めての快挙である。私は憶えていなかったが、元君は3年前の授賞式に受賞者の家族として出席していて、お姉さんの晴れ姿を目に焼き付けていたのだ。表彰式後のパーティーのとき、私は彼に、「お姉さんのアシストはあったの?」と聞いてみた。「家族にも先生にも相談しないで、一人で書き上げて、自分で応募しました」という返事が返ってきた。姉さんと同じ聡明なまなざしをした少年である。姉の麻美さんは今回は受賞者の家族として出席していた。彼女はいま高校3年生。卒業後は専門学校に進んで税理士をめざすという。「東京に出てくるつもりはないの?」と尋ねたら、「それは考えていません」とのことだった。同じ質問を元君にもしてみたが同じ答えだった。「東京」を志向せず、北の大地でしっかりと生きていこうとしている姉と弟が私の目の前にいることが、清々しかった。

 帰宅すると、山田昌弘さんから新著『希望格差社会』(筑摩書房)が届いていた。「パラサイト・シングル、ひきこもり、フリーター、そして使い捨て労働者・・・・。経済格差だけが問題じゃない! やる気を失った敗者の群れがさらなる二極化を加速する!」と帯に書かれている。

 

11.13(土)

 島田紳助の最新エッセー集『いつも風を感じて』(KTC中央出版)を読む。前からこの時期に出版が決まっていた本である。読んで思ったことは、今回、彼が起こした事件は、「四十八歳の蹉跌」であったということだ。石川達三の小説『四十八歳の抵抗』と、同じく石川の小説で神代辰巳監督で映画化された『青春の蹉跌』を重ね合わせた言葉である。

島田紳助は15年間続けてきたテレビ朝日の「サンデープロジェクト」のサブ司会者を今年の3月末に降板した。降ろされたのではない。自分から降りたのである。ヤンキー上がりの漫才師からピンのタレントになった「何も知らない三十三歳の紳助」が時事問題について専門家に素朴な質問を投げかける、というのが彼のポジションだった。そこからスタートして、彼は猛勉強をした。

 

そうやって勉強して、今、四十八歳になっとき、わからないことはほぼなくなったような気がした。・・・(中略)・・・「わからないことがなくなる」ことは、あの番組においてぼくのポジションがなくなる、ということなのだ。見ている人も「アホなくせにここまでがんばてんな」という目で見始めていたに違いない。それは、四十代も後半にさしかかって、感じるようになってきた。かといって、自分がほんまに政治を語れるか、経済を語れるか、という能力もない。だからぼくは、ずっと、潮時を「五十歳」だとにらんでいた。

それが四十八歳で辞めることになった。二年、早まったのは、古館伊知郎さんが同じテレビ朝日で「ニュースステーション」をやることになったからだ。一歳年上の古館さんが、報道で勝負していこうと決められたときに、ぼくはメインでもないサブ司会者として「サンプロ」をやることに、意味を失った。ぼくは、自分の力不足を素直に認める。

「久米さんの後に、紳助さんが『ニュースステーション』をやってくれませんか」

そう声がかかるくらいに、力をつけておかなければならなかったのだという気がする。もし、声だけがかかったとしても、ぼくは自分でそれを断ったと思う。知識的にできない、と。ただ、今、あえて言うならば、ぼくには夢があった。もし、久米さんが「ニュースステーション」を降りたら、金曜一日だけ、やってみたい、と思っていたのだ。週一回なら、あとの六日間、それなりに勉強したらできたと思う。でも、毎日毎日は、とても無理だ。なぜなら、ぼくはそのくらいの、アホだからである。

 

 こうして報道番組のメインキャスターを務めるという長年の夢を彼は断念した。そして彼は心のバランスを失った。

 

 たとえば、バラエティが全部当たらなくなって、レギュラー番組が根こそぎなくなったとしても「ぼくは報道がしたいんです」という、大義名分があったのである。でもぼくはその大義名分になるものを、安全なロープを、自分で切ってしまった。だから、手をかける場所、足をかける場所がなくなった瞬間、真下へ真っさかさまに落ちていくという緊張感が、ある。今、バラエティのレギュラー番組は何もかも調子がいい。両手両足がうまくしがみつけているから、他人から見たら、絶対に落ちないと思うだろう。「エエなあ。絶好調やん」「絶対に落ちひんやん」しがみついているから落ちないけれど、上の岩が見えづらい。頭の上にある断崖絶壁のつかめる石を探る手がない。怖い。

 

 まるで今回の事件を予告するような文章である。今回の事件を「高視聴率タレントの慢心」が引き起こしたものと考えるのはことの一面しか見ていない見方である。慢心の背後には「高視聴率タレントの不安」がある。いまがピークであることを自覚する人間は、下降の不安に怯える人間である。私には今回の島田紳助の行為は一種の自殺未遂のように思える(ビートたけしが1986年に起こした「フライデー乱入事件」と似たものを感じる)。彼は、吉本興業やTV局の思惑を裏切るように、すべての決着がつくまで芸能活動を自粛すると言っているらしいが、彼はもしかしたら人気のピークであるこの時期に潔く引退したいのかもしれない(先輩の上岡竜太郎のように)。

 

 中学に入るくらいから、暑くなってきた。

 夏が近いな、って。

 高校一年生の夏休みとともに、人生の夏休みが始まった。

 そしてそれは、三十四歳くらいまで続いた。

 十八年くらい、夏休みがあったことになる。

 でも、終わっていたことには、気づいていなかった。

 四十八歳。

 夏休みは、とっくに終わっていたのだ。

 

 激しく夢をおいかけた夏は終わった。

 でも、次の一秒からが、秋なのではない。

 あいまいな時間が、流れて、気がつくと、秋になっているのだ。

 夏の残像だけが、今、胸にある。

 

 私は島田紳助のファンである。田代まさしのファンでもあった。田代まさしはもう戻っては来られないだろう。薬物が一人のコメディアンを殺した。彼には罪を償い養生をして市井の人として生きていってほしい。しかし、島田紳助には戻ってきてほしいと思う。失われた心のバランスを時間をかけて取り戻して、帰ってきてほしいと願う。

 

11.14(日)

M君

メール読みました。社会学専修に進みたかったけれど、その希望が叶わず、他の専修に進むことになったのだが、その専修での勉強に身が入らない。やはり社会学の勉強がしたいのだが、どうしたらよいかというご相談ですね。

最初に言っておきたいのは、好きなA子と結婚しないで、好きでもないB子と結婚しちゃたというのなら話は別だけど、専修選択の問題は人生全体から見るとそれほどの重大事ではないということです。他の大学に進みたかったけど早稲田大学に来ちゃったわけではないし、他の学部に入りたかったけど一文に来ちゃったわけでもない。同じ早稲田大学の、同じ一文の、その中にある専修間の違いというのは君が思っているほど大きなものではない。それを何か決定的なものと思いこんで悩んでしまっているところにむしろ問題があるように思う。

君は他専修の学生だけれども、私の社会学の授業を受けることができたし、社会学専修の教員である私といまこうしてメールのやりとりもしている。ある専修に進んだからといって、他の専修の授業に出られないわけでもないし(正規に履修できなければもぐったっていいのだ)、他の専修の教員と話ができないわけでもないし、まして他の学問領域の本を読んではいけないわけではない。勉強の基本は読書です。授業はきっかけを与えてくれるものに過ぎない。社会学の勉強がしたいならどんどんされたらいい。それだけの話です。周りの学生にやる気がない人が多い? だからなんですか? やる気のない学生なんてそこら中にいますよ。やる気のないサラリーマンや、やる気のない教師や、やる気のないティッシュ配りのアルバイトがそこら中にいるようにね。で、それと君が勉強に身が入らないのと何の関係があるわけですか?

ヴィットゲンシュタインという哲学者は『論理哲学論考』という後世に残る著作を第一次世界大戦の前線の塹壕の中で書いた。君もよく知っている村上春樹は、デビュー作(群像新人賞受賞)となった『風の歌を聴け』を当時彼がマスターをやっていたジャズバーのテーブルで仕事が終わってから深夜にコツコツと書いた。本当に書きたいことがある人間は、どんな場所に身を置いていても、書かずにはいられないし、実際に書くのです。

「やはり自分は社会学専修で社会学の勉強がしたかった。」君はそう書いている。「社会学専修で」という条件はそんなに重要なことなんでしょうか? 君が考えている「社会学の勉強」というのはその条件が叶わないとできないものなんですか? そういうものが世の中に存在するとは私にはどうしても思えないのですが。「社会学の勉強」がしたいのなら、それを困難にしている条件を数え上げていないで、その分の時間とエネルギーを「社会学の勉強」に振り向ければいいのにと私は思います。その方がずっと生産的です。それができないとしたら、それは君が他専修にいるためではなく、君が社会学の勉強をしたいと本気で思ってはいないからです。

「先生の率直なご意見をお聞かせ願います。」君はそう書いています。だから率直に書かせてもらいました。口調が厳しいですか? でも、いまパソコンに向かっている私はそんなに怖い顔はしていません。人生全体を視野に入れながら、専修所属の問題を冷静に考えることは君たちの年齢では(その問題の渦中にいるときには)難しいでしょう。私のようにその時点から遠く離れて、当時を振り返って、はじめて冷静に語れるようになるのでしょう。悩むことは必要です。しかし、それは逆戻りするために、あるいはいつまでも立ち止まっているために必要なことなのではなく、前に進むために必要なことなのです。悩んでいる間も大切な時間は過ぎていきます。悩むのは止めてとは言いません。悩みながらも、前へ進んで行って下さい。気が向いたら、どうぞ私の研究室のドアをノックしてみて下さい。

 

11.15(月)

 昨日も今日も一歩も外に出なかった。冷たい雨の降る街へは出かける気がしない。髭も剃っていなので、なおさら外出がおっくうである。本とTV(一昨日と昨日、『Dr.コトー診療所』をみた)があるから退屈はしない。夕方近くになって、雨が上がった。買物で外に出ている妻から電話があり、洗濯物をベランダに干すようにとのことである。言われたとおりにしていると、飼い猫のはるもベランダに出て、スリットから身を乗り出して外の様子をうかがっている。この姿は道を歩いている人から見ると、ちょっと可笑しくもあり、可愛らしくもあり、ベランダを見上げながらニッコリする人が多い。はるはいったんベランダに出るとなかなか室内に入ろうとせず、無理に連れ戻そうとすると、スリットから身投げをするような素振りをして抵抗する。しかたがないので、サッシを閉めて、知らんぷりをしていると、だんだん心細くなってくるのか、ガラスの向こう側からこっちをみつめて、「もう入りたいんですけど」というような顔をする。そのくせサッシを開けると、再びスリットのところに行く。こんなことを何度か繰り返した末に、体もいい加減冷えてくるのであろう、「今日はこのくらいにしておくか」という感じでスッと室内に入ってくるのである。

 

11.16(火)

 午前11時から午後7時頃までずっと会議。来年度の自分の担当授業がだいだい決まる。これまで二文では1年生の基礎演習だけを担当してきたのだが、来年はそれ以外にもう1つ、半期の講義科目を担当することになりそうだ。これで2年生以上の二文生を教室で(研究室での自発的な勉強会や卒論指導以外に)教える機会ができたわけだ。基礎演習を修了した学生たちから、「先生の授業はもうないわけですか?」と聞かれて、「一文の講義科目を他学部聴講で履修することはできる。後は先の話だけど卒論指導だね」と答えてきたのだが、せっかく1年間社会学の演習をやってきたのだから、それをフォローアップするような授業を二文で担当せねばなるまいとずっと思っていた。諸般の事情でなかなか実現できずにいたが、ようやく実現に漕ぎ着けた。さて、どんな授業にしようか。会議の途中で家に電話を入れる用があり、教員ロビーに行ったら、学文社の田中社長さんがいらしており、石焼き芋をご馳走になる。文学部の門のところに車を止めて売っている石焼き芋屋をよく見かけるが、そこで買われたらしい。石焼き芋を食べるのは何年ぶりだろうか。ホクホクして美味しかった。夜、明日の社会学研究10の授業の教材(60年代の若者ソングの変遷を説明するためのMD)を編集していたら午前3時になってしまった。あわてて就寝。

 

11.17(水)

 社会学専修への進級を希望する1年生が研究室に相談に来た。専修進級希望届の第一次集計の結果が発表されたのだが、社会学を希望する学生が168名(定員75名)の高倍率なのだそうだ。例年、定員の3割増の98名を受け入れているのだが、それでもまだ70名ほどオーバーである。かなり厳しい数字といえよう。1年生はこの第一次集計の結果を見て、もう一度、専修希望届(これが最終)を出すことになる。ここが悩ましいところである。たぶん第二次集計では倍率は下がるであろう(成績に自信のない学生がもっと倍率の低い専修に希望を変更するであろうから)。しかし、その下げ幅がどの程度であるかの予測が難しい。かなり下がると読んで希望を変更せずに頑張るか、そう考えている学生が多い(あまり下がらない)と読んで倍率の低い専修へ希望を変更するか。ただし、倍率の低い専修といっても、その倍率はあくまでも第一次集計の数値であるから、第二次集計では上がるものと考えねばならない。その上げ幅はどの程度になるか・・・・。一種の心理戦であり、博打である。もちろん自分の成績に絶対の自信があれば、あれこれ迷う必要はないのであるが、いまの時点で学生にわかっているのは前期の一部の科目の成績だけなのである。いわば自分の手札の一部しか知らない状態でポーカーをやっているようなものである。フルハウスかもしれないし、ワンペアーかもしれない。突っ張るか、降りるか。学生の間では、「一文は2回入試がある」と言われているそうだが、確かにそうかもしれない。相談に来た学生には、3日前のフィールドノートに書いたようなこと(どの専修に進級するかで必要以上に悩むことはないということ)を話した。

 

11.18(木)

 大学に行く途中、丸善に寄って、来年のカレンダーを購入。書斎の卓上用と壁掛け用、研究室の卓上用と壁掛け用、全部で4点。書斎の卓上用カレンダーは正しくは卓上用ではなく、どこにでも貼れる12枚のステッカー(3.5センチ四方)で、私は机上のプリンターの前面に当月と来月の2枚にステッカーを貼って使っている。いわゆる卓上用カレンダーはどんなに小型サイズのものであっても邪魔になりやすいので、このステッカータイプのカレンダーは重宝している。店内はオープン当初の混雑も収まり、落ち着いて見て歩ける雰囲気になっていた。カフェも並ばずに入れるみたいだ。昼飯は「五郎八」で京にしん蕎麦。女将さんからお久しぶりですねと言われる。昼休みの時間帯は混んでいるし、3限の授業(午後1時から2時半)が終わってから来ると、「準備中」(午後3時から夕方まで)になっていることが多い。でも、3キロの減量作戦を展開中なのでここに蕎麦を食べるに来る機会は増えるだろう。

夕方、卒業生のT君が研究室に顔を出す。事務所に証明書類を取りに来て、そのついでに寄ってくれたのだ。いくつかの大学で非常勤講師をしていて、今夜はこの後、H大学で夜間のクラスがあるそうだ。しばし雑談。授業中の私語が話題になる。多くの大学の教師が授業中の私語には悩まされているらしいが、正直に言うと、私はこの問題でそれほど苦労したことはない。早稲田大学で教鞭をとっていることの幸福の一つは、授業中の私語が少ないことである。これは他大学から早稲田大学に教えに来ている先生が異口同音に言うことで、何も私の授業が面白いから私語が少ないということではない(授業が面白くなければ、私語ではなく、居眠りをする)。仮に授業中に私語をしている学生がいれば私は注意するであろう。そして注意された学生は私語を止めるだろう。当然、そうなるはずである。ところがT君によると彼の教えているある大学では、注意しても駄目なのだそうだ。怒鳴ったり、私語はなぜいけないかを書いたプリントを配布して説教までしても、駄目なのだそうだ。薬石効無く、T君はいつも私語の溢れる大教室で講義をしている。他の先生方に相談しても、「そういうものですよ」と皆諦めているらしい。「死後の世界」ならぬ「私語の世界」。その世界の中心で(周辺か?)社会学を語る。悲惨である。苦行である。現在、高校卒業者の50%が大学(短大を含む)に進学している。にもかかわらず多くの大学では定員割れが生じており、どこでもいいということであれば、誰でも大学へ入学できる時代である。ここしばらく私は他大学での非常勤講師の仕事をしていないが、日本の大学の現状を知るために1つくらいは引き受けることにしようかしら。

 

11.19(金)

 3限の大学院の演習は報告者のUさんが風邪で欠席のため(夕べ連絡があった)、私が戦争体験と人生の転機の関連についての話をした。4限は空き時間で、文カフェで遅い昼食(きのこの天ぷら蕎麦とお稲荷さん二ヶ)をとってから研究室に戻ると、二文3年生の0さんが連休中に行った欧州旅行のお土産(クッキーとチョコレート)をもってきてくれた。5限の卒論演習は本日が最終回。これから先は自宅に引きこもって、執筆に没頭してください。ただし、今日から10日間は申し出てくれれば個人指導をいたします。それから先はもう「指導」という段階ではありません。誤字脱字にだけ気をつけて下さい。誤字脱字が10箇所を越えたら、その時点で、私は読むのを止めますから。夜、私の卒論演習の一期生(96年卒)で、いまは国際協力事業のNGOで働いているIさんが研究室にやってくる。大学院(博士課程)への進学の件で相談。Iさんの手土産もクッキーだった。私が甘党であることは周知の事実なのであろうか。本題の方が一応片付いてから、「ホドリ」で食事。減量作戦中に焼肉というのは御法度なのだが、なにしろ接客ですからと自分に弁明をしつつ、カルビやタン塩を頬張る。宇宙の運行というものは私の意思でどうにかなるものではないのだ。いま、このフィールドノートを書きながら、ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」を聴いている。

 

11.20(土)

 久しぶりの晴天のような気がする。先日、娘から「イエモンはどう思う?」と聞かれ、宮沢りえがCMをしている「伊右衛門」という名のお茶のことかと思って、「まあまあだと思う」と答えたら、「ザ・イエローモンキー」という名のロック・バンドのことだった。今日、娘から借りた「イエモン」のCD3枚をiPodに転送する。聴いてみると、前衛的なものではなく、きわめてわかりやすいメロディーラインの曲が多く、歌謡曲的というか、60年代後半のグループサウンズが現代的衣装を身にまとって蘇ったようなサウンドだと感じた。

夕方、散歩に出る。栄松堂と有隣堂を回って、新刊を4冊購入。

(1)       瀬尾まいこ『幸福な食卓』(講談社)

彼女の4冊目の単行本が出たことを不覚にも知らなかった。村上春樹の『アフターダーク』のときのようにとは言わないまでも、「いま最注目の作家が放つ、心にふわりと響く長編小説!」と帯に書いてあるのだから、もっと大々的に宣伝してくれてもいいんじゃないですか、講談社さん。

 (2)東海林さだお『パンの耳の丸かじり』(朝日新聞社)

 「丸かじり」シリーズの第22巻である。かつての『週刊新潮』が山口瞳の「男性自身」でもっていたように、いまの『週刊朝日』は東海林さだおの「あれも食いたいこれも食いたい」でもっている。私は週刊誌を購入することはめったにないが、歯科医院の待合室とかに『週刊朝日』があれば必ず手にとって「あれも食いたいこれも食べたい」を読む。たまに休載だったりすると、非常にがっかりする。

 (3)先崎学『最強の駒落ち』(講談社現代新書)

 将棋の棋士で文章が一番上手いのが先崎学である。島朗も上手いが、先崎と並べて双璧と呼ぶには書いている分量が劣る。先崎の師匠の米長邦雄も文章は達者だが、彼の場合はそれ以上に話術の巧みさが際立っている。米長の話術と先崎の文才。師弟合わせて口八丁手八丁である。それにしても将棋の定跡書を入れるとは、カバーのデザインを変えてからの講談社現代新書は路線の方もずいぶんと変わったものだ。

 (4)冨田恭彦『観念論ってなに? オックスフォードより愛をこめて』(講談社現代新書)

 前作『哲学の最前線 ハーバードより愛をこめて』同様、対話編の文体が哲学の敷居を低いものにしてくれている。

 

11.21(日)

 朝起きると快晴である。散歩に出たい。しかし、瀬尾まいこの新作『幸福な食卓』も読みたい。寺山修司は「書を捨てよ、町に出よう」と言ったが、私は「書を持って、町に出よう」と思った。昼食後、自転車に乗って池上本門寺へ行く。正面の階段からではなく、裏手の弁天池の畔に自転車を止め、本門寺公園の中を歩いて本堂のある山の上まで行く。お参りをすませてから、本堂の横の日当たりのいい階段に座って『幸福な食卓』の第2章「バイブル」を読む(第1章「幸福な朝食」は夕べ読んだ)。

物語の主人公は中学生の女の子。父親が5年前に風呂場で自殺未遂を起こし、最近、「父さんは今日で父さんを辞めようと思う」と宣言して、中学の教師を辞めて大学の薬学部を受けるために勉強を始めた。母親は夫の自殺未遂がきっかけで心身のバランスを崩し、家を出て近所のアパートで暮らしている。成績優秀だった兄は「真剣さ」を捨てて(そうしないといつか父親と同じように死を選ぶようになるという危惧から)、大学へは進まずに農業の仕事をしている。こう書くと悲惨な家族のようだが、決してそんなことはなくて、各人が制度的に期待される役割の鎧を脱いで、ふわりとした関係を保ちながら生活しているところは、なんだか素敵だ。そう感じるのは、やはり私が(われわれが)家族というものを頑張って、多少の無理をして、日々演じているためであろう。無論、瀬尾まいこはポスト近代家族論者なんかではない。主人公一家のふわりとした関係を魅力的に描きながらも、やっぱりこういうのってどこか変なんじゃないか、という余地を残す。そして家族の修復へ向けて物語が動き出す仕掛けを用意している。それは第一に兄の新しい恋人の登場であり、第二に主人公の初めての恋人の登場である。家族を変えるものは家族の外部からやってくる。

第2章を読み終わったところで、自転車に乗って島忠家具センター大田千鳥店に行きプリンター用紙(A4用紙1000枚、B5用紙500枚)を購入してから、家に帰る。午後4時を少し回ったところだが、3階のベランダに出ると夕日が街並みに沈もうとしていた。本当に日が暮れるのが早くなった。第3章「救世主」を読む。話の本筋とは関係ないが、瀬尾まいこは食べ物をおいしそうに描くのが上手だ。本人が食いしん坊だからに違いない。妻に今日の夕食の献立を尋ねたら、「ヒレカツよ」とのことだった。第3章を読んでいる途中で、風呂にお湯を入れ始め、読み終わったところで風呂に入る。第4章が最終章なので、一気に読み終わってしまうのがもったいない気がしたのだ。面白い小説というのはたいていそういうものだ。

 風呂から上がって、第4章「プレゼントの効用」を読む。「えっ」という展開が待っていた(ここでそれを書くわけにはいかない)。あと残り4ページというところで夕食の膳がととのった。妻、娘、息子、父はすでに席に着いている(母は今週前半に退院の予定)。「お父さん」と娘が咎めるような口調で私を呼んだ。しかたない。本を閉じて食卓に着く。ヒレカツは柔らかくて美味しかった。おしむらくは付け合わせのキャベツの千切りが不足気味だった。『幸福な食卓』の一家は呆れるほどたくさん野菜を食べるのだ。食事を終えて、デザートは断って(減量中だから)、最後の4ページを読む。切なく、そして暖かなエンディングだ。瀬尾まいこの世界を堪能した。ご馳走様でした。

 

11.22(月)

 今日も小春日和のいいお天気。午後、郵便局で古本の代金を振り込んでから、病院に母を見舞いに行く。明日が退院なので、荷物の一部を先に持って帰る。深夜、「ニュース23」の後、そのままTVを消さずにおいたら、「月曜組曲」という番組で、小田和正が70年代の懐かしい曲をたくさん歌っていた。ゲストの財津和夫とのトークが絶妙で、楽しかった。明後日の「社会学研究10」では70年代の若者ソングを取り上げる予定なのだが、この番組を録画しておけばよかったなぁと思う。それにしても60年代後半のフォークソングと比べて、70年代に登場したニューミュージック系の歌手たちは音楽の水準がずいぶんと高かったと改めて感じた。誰もが歌い手になれた時代はその頃終わったのだった。

 

11.23(火)

 母が退院し家に戻ってくる。帰宅の途中で近所の花屋に寄ってシクラメンの鉢を5つほど買ったらしく、花屋の主人が届けに来た。玄関の脇に飾る。我が家には庭らしい庭がないのだが、それでも、あるいはそれゆえに、母はちょっとしたスペースを見つけては草木を植えたり、植木鉢を置いたりしている。夜、明日の「社会学研究10」の教材(1970年代前半の若者ソングのMD)を作っていたら、午前3時になっていた。いつものことだ。地上には花を、唇には歌を。

 

11.24(水)

 3限の「社会学研究10」で1970年代前半(大学紛争後の時代)の若者ソングを流す。ジローズ「戦争を知らない子どもたち」(1970年)から中島みゆき「時代」(1975年)まで。一曲一曲に解説を付けながら、ベビーブーマーたちが学校を卒業し、社会(会社と家庭)に組み込まれていく過程で若者ソングがどう変容していったかを論じた。昔、黛俊郎が司会をしていた「題名のない音楽会」というTV番組があったが、あのイメージで授業を進めた。70年代前半の若者ソングは去年も扱ったのだが、MDは新しく編集し直して、去年は扱わなかったアイドル系の歌手の歌も今年は組み入れた。南沙織「17歳」、山口百恵「ひと夏の経験」、キャンディーズ「年下の男の子」の3曲。数多あるアイドル歌手の中からこの3人を選んだのは、当時の人気の大きさをバロメーターにしてはいるが、私の個人的好みも多分に混じっている。南沙織の健康的な可憐さ、山口百恵の影のある気品、キャンディーズ(とくにミキ)の健気な明るさ、どれも魅力的だった。山口百恵がブレイクした1974年、私は学部の2年生だった。仁戸田六三郎教授の宗教学概論を181番教室(当時の文学部最大の教室でいまはない)で聴いていたとき、雑談の中で(といっても先生の講義は全体として雑談的だったのだが)、「山口百恵っていうのはいいねぇ」と唐突に言われたものだから、学生たちはドッと笑った。私も笑った学生の一人であったが、そのとき私が使っていた下敷きは山口百恵の写真が印刷されたいわゆるアイドルグッズだった。どうです、このエピソードだけからも、当時の山口百恵の国民的人気のほどがわかるでしょ。ついでのことだから書いてしまうと、私の妻は山口百恵に似ています。

 

11.25(木)

 午前、大学の広報課から自宅に電話がかかってきた。TV局から取材の申し込みが来ているとのこと。何の取材かと思ったら、今日の夕方の報道番組でペ・ヨンジュン(ヨン様)の再来日のニュースを流すのだが、そこに韓国ドラマの流行という社会現象についてのコメントが欲しいのだという。「生憎と私は『冬のソナタ』も他の韓国ドラマも見ていないので、コメントできるようなことは何もありません。」そう言って断ると、広報の方は取材を申し込んできた人は社会学専修の卒業生のHさんという方なのですがと私の知っている名前をあげた。そういうことか。それで事情は飲み込めた。私が断れば彼女は困るだろう(なにしろ今日の夕方に流すニュースなのだ)。おそらく私がコメントを述べる映像は数十秒程度、いや十数秒程度のものだろう。であれば、何かもっともらしいことを言うのはできなくはない。いや、たとえありきたりのコメントであっても、新橋駅前でインタビューしたサラリーマンが言うのと、大学の研究室でインタビューした社会学者が言うのとでは、もっともらしさが違ってくるのだ。ちょうど台風接近のニュースのときに、アナウンサーがスタジオで原稿を読むよりも、雨合羽を着て外に出て風雨にさらされながら中継した方が、臨場感が出るのに似ている。空港に降り立ったぺ・ヨンジュンを一目見ようと集まったもの凄い数の女性たちの映像。そしてその何人かへのインタビュー。最低これだけあればニュースとしては成り立つが、そこに「社会学者」のコメントを付け加えてもっともらしく仕上げようということだろう。・・・・というようなことを0.5秒ほどの間に考えた後、「やはりお断りします」と答えた。電話を切った後、パソコンを立ち上げると、思ったとおりHさんから依頼のメールが届いていたので、断りのメールを返しておいた。

 

11.26(金)

 2週間前に受けた人間ドックの結果が郵送されてきた。封筒を開けるときはちょっと緊張する。で、結果はというと、「心筋障害疑」、「胆嚢壁内結石」、「胆嚢ポリープ」、「脂肪肝」などの指摘があるにもかかわらず、判定医のコメントは、「検査結果は良好ですが、肥満傾向です。前回くらいになるとよろしいと思います」である。この歳になると、あちこち調べれば何かあるのがあたりまえで、この程度は「良好」の範囲内のようである(ちなみに上記の指摘に関しては、経過観察ということで、とくに再検査とか治療の必要はない)。当面の課題は減量だ。2週間前から始めた減量作戦で体重は0.5キロ減った。この調子、この調子。今日の昼食も「シャノアール」のタマゴトーストと珈琲ですませた。昼食を腹一杯食べないことのよいところは、(1)食費が倹約できる(その分を本代に回せる)こと、(2)食事の後にすぐに仕事にかかれる(睡魔に襲われない)こと、(3)夕食が美味しいことである。ちなみに今日の我が家の夕食の献立は、豚肉の味噌漬けを焼いて水菜をのせたもの、茶碗蒸し、味噌汁、ご飯、デザートにリンゴであった。

 

11.27(土)

 今日もいいお天気。午後、散歩がてら銀座の「伊東屋」に買物に行く。クレールフォンテーヌ社のインデックスノートが欲しかったのだが置いてなかった。12のインデックスの付いた美しいデザインのノートで、これを来年度の卒論指導記録のノートにしようと思っていたのだが(学生の人数がちょうど12名なので)、「伊東屋」で入手できないとなると、インターネットで注文するしかないか。お目当てのインデックスノートはなかったが、同社のメモパッドで美しいデザインのものがあったので、A5判とA6判のものを1冊ずつ購入。ロディアと形態は同じだが、用紙がロディアより上質で(坪量という1平方メートル当たりの紙の重さでいうと、ロディアは80グラムでクレールフォンテーヌは90グラム)、その分価格も高い(A5判で比較すると、ロディアは450円でクレールフォンテーヌは500円)。とはいっても、ロディアからクレールフォンテーヌへ乗り換えようと思っているわけではない。私の中では、手帳はモールスキン、メモパッドはロディア、ノートはクレールフォンテーヌという棲み分けができている。ただ、そうした基本方針とは別に、美しく機能的なデザインの文房具には心ひかれるものがあるということだ。低予算で楽しめる道楽といえよう。

 夜、大学院の私の演習に出ている(モグリで)M君から借りた「月曜組曲」(小田和正の番組)のビデオを観た。この秋スタートした番組で、私はたまたま先日の回を初めて観て、22日のフィールドノートにその感想を書いたのだが、それを読んだM君が初回からビデオに録っておいたものを貸してくれたのだ。どの回も面白かったが、「赤い鳥」の山本潤子をゲストに呼んだ回と、「フォーク・クルセダーズ」の北山修からの手紙を紹介した回が、とりわけ興味深かった。小田は山本のことを「稀代のボーカリスト」と何度も紹介していたが、本当にその通りで、彼女の歌唱力は数多のフォークソング・グループの中で群を抜いていた(当時のアマチュア・バンドの全国大会に優勝して解散するつもりで臨んだ「オフコース」を抑えてフォーク部門で優勝したのが「赤い鳥」だった)。いま、九州大学の教授(教育学部心理学教室)になっている北山修は、「フォーク・クルセダーズ」解散後もしばらく作詞家として活躍していたが、彼の作る詞は星菫派的な美しい言葉を連ねたラブソングで(「あの素晴らしい愛をもう一度」や「白い色は恋人の色」など)、フォークソングの主流というか本家であったプロテストソングの系譜を支持する人々からは「軟弱」「日和見」と非難されていた。同じことは「オフコース」にもあてはまったであろう。小田は北山をスタジオに呼んで、当時の話をしたかったらしいのだが、北山は出演依頼については断り、代わりに小田宛の私信を小田がスタジオで読み上げることは了承した。北山は自分の作る詞は「女々しい」ものであったが、「男らしさ」がまだ幅をきかせていた時代にあてって、その「女々しさ」=「男の本音」が若者の共感を得たのではないかと書いていた。確かに、70年代半ば以後、「グレープ」のさだまさしに代表されるような「女々しい」歌、別の言い方をすれば、「やさしい」歌が時代の主流になっていく。「男らしい」歌は尾崎豊や長渕剛の私秘化したプロテストソングの中に継承されながらも、しだいに若者ソングの主流からは外れていった。コクヨの大学ノートを使っていた高校生が、クレールフォンテーヌのノートを使うようになっていったように。

 

11.28(日)

 妻の誕生日。3日前の25日が娘の誕生日だったが、私は二文の授業で帰りが遅く、そもそも娘自身が演劇サークルの12月の公演の稽古で帰りが遅かったため、二人分をまとめて今日祝うことになった。祝うといっても夕食をレストランで食べ、帰りにケーキを買って家で食べるという程度のことなんですけどね。プレゼントは、妻は例によって自分で買うからということで、また、娘は現金で受け取ることを希望したので、「はい、誕生日プレゼント」、「わぁ、何かな? 開けてもいい?」、「どうぞ」というやりとりはなし。でも、家族の誕生日を家族全員がそろって祝えるということが何よりのことなのである。帰宅したわれわれを玄関のドアに飾られた妻お手製のクリスマスリースが迎えてくれた。

 

11.29(月)

 神吉拓郎の短篇小説に「洋食セーヌ軒」というのがある。20年くらい前の作品だ。毎年、秋になると、つまり牡蠣フライが食べられる季節になると、この小説を思い出す。いや、春や夏にこの小説を思い出して、早く牡蠣フライが食べられる季節にならないかな、と思うことさえある。主人公の男が昔住んでいた町の「セーヌ軒」という名前の洋食屋を10年ぶりに訪れて好物の牡蠣フライを注文する話だ。

 

 二杯目のビールをゆっくりと飲んでいるうちに、牡蠣フライが運ばれてきた。レモンとタルタルソースが添えてある。キャベツの上に小さなビーツが色どりに付いている。それにパセリ。

 「ソース、使いますか」

 と、女の子が聴いた。

 「ウースター・ソースあるかい」

 女の子は頷いて、ソースの入った昔風の角形の硝子壜を持って来た。

  (中略)

 牡蠣フライは、揚げ立てでもあり、揚げ具合も頃合いに出来ていた。

 かりっとした熱い衣の下から甘い汁がたっぷりとあふれ出て来る。それがレモンの香気や、刺激的なウィースター・ソースの味と渾然として、口いっぱいにひろがる。思わず、目が細くなるようだ。

 それが十年前の味と同じなのかどうか、よく分からないが、確かに鎌田好みの牡蠣フライの味であった。ラードの匂いが高く香ばしい。金茶色の、少し濃すぎる位の揚げ色は、もう数秒で揚げすぎという位の、きわどい手前で、上々の仕上がりになっている。それでいて、なかの牡蠣の粒は、まだ生命を残して、磯の香をいっぱいに湛えている。

 うまいな、と、鎌田は、心のなかで呟き続ける。

 次々と牡蠣フライが、のどを過ぎ、胸を下りて行く。胃のあたりがすっかり温もって、まるで春の日差しを浴びているような気がする。

 

 牡蠣は人によって好き嫌いのある食材だ。だから牡蠣が嫌いな人がこの小説を読んでも何も感じないだろう(そもそも読もうと思わないだろう)。私は牡蠣が好きだ。生牡蠣も旨いし、土手鍋も旨い。しかし、何と言っても牡蠣フライが一番旨い。だからこの小説を読んで冷静ではいられない。実は、昨夜、私は牡蠣フライが食べたかった。しかし、妻と娘はスパゲッティーを食べたいと言った。妻と娘の誕生日であるから、私が異見を差し挟む余地はなかった。それで今日は昼にひとりで東急プラザの「とん清」に牡蠣フライを食べに行った。減量作戦を展開中ではあるが、中年男子の減量作戦はボクサーのようにがむしゃらなものでも、おんなこどものように乱暴なものでもない。水前寺清子の歌のように「三歩進んで二歩下がる」ものである。ゆとりのあるものである。牡蠣フライ定食(1,300円)は、大きな牡蠣フライが5個、タルタルソースとレモン、たっぷりのキャベツの千切りが添えられ、豚汁風の味噌汁、野沢菜と柴漬け、そしてご飯。美味しかった。白玉の歯にしみわたる小春日の牡蠣はフライで食うべかりけり。「至福」という言葉をひさしぶりに使う気分になった。もしこれが私の人生における「最後の晩餐」であったとしたら、「悪くない人生だった」と私は爪楊枝を使いながら呟くに違いない。

 

11.30(火)

 午後、大学へ。文学部のスロープ横のメタセコイアは茶色くなり、記念会堂前の広場には落ち葉がいっぱいだ。今日で11月も終わる。明日からは師走。本当に一年なんてあっという間だ。夕方からの会議で文学部の将来の話をする。

夜、TSUTAYAで借りた『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(原恵一監督、2001年)のビデオを観る。大人たちを洗脳して日本を高度成長期の頃に、つまり戦後日本の青春期に戻そうと企む「イエスタディー・ワンス・モア」なる秘密組織と闘う真之介たちの話。洗脳された大人たちは高度成長期の頃の街並みを再現した人工の街で暮らしているのだが、そこはいつも夕暮れ時で、商店街は活気に溢れ、住宅街には夕餉の支度をする家々の台所からカレーライスや焼き魚の匂いがする。アルバックスという社会学者が唱えた「集合的記憶」という概念があるが、「イエスタディー・ワンス・モア」が大人たちの「集合的記憶」に働きかける最大の武器は「当時の街の匂い」である。目には目を。そして匂いには匂いを。真之介が自分の父親を覚醒させるために使ったのは、父親の靴に染みこんだ父親の足の裏の臭い(!)であった。その臭いをかがされた父親が、覚醒する過程で、自分の子どもの頃から現在までを走馬燈のように回想し、過ぎ去った時代を惜しみながらも、家族とともに生きていく未来を決然として選択する場面は、この映画のハイライトシーンであろう。実は、私がこのビデオを観ることになったのは、演劇映像専修の武田潔先生に勧められたからである。武田先生はいま特別研究期間でパリにいらっしゃる。そこでときどき私の「フィールドノート」をご覧になっていて、私が授業で高度成長期の頃の若者ソングを流していることを知って、今朝、メールでこの映画のことを教えて下さったのである。「恥ずかしながら、私はこの作品を涙なしに見ることができません」とメールには書かれていた。ちょっと大袈裟なんじゃないかと私はそれを読んで思ったが、作品を観終わったいまは、武田先生の気持ちがよくわかる。ちなみに武田先生は私と同じ1954年の生まれである。(なお、武田先生はこの映画をDVDで観ることを推奨しておられる。過去の情景のディテールの迫力が違うのだそうだ。でも、TSUTAYAサンカマタ店にはビデオしか置いていなかった。残念!)

 

 

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