フィールドノート0511

 

11.1(火)

 午後から大学へ。途中で床屋に寄って散髪。「メルシー」で遅めの昼食(チャーシューメン)をとる。それから研究室で雑用を少々。6時半から研究室は調査実習のインタビューで使われるので、その前に部屋を出る。生協文学部店で、薄田泣菫『茶話』(岩波文庫)を購入。大正5年4月から「大阪毎日」夕刊に連載されたコラム。店を出て、記念会堂の前をしばらく歩いて、振り返ると、夜の校舎がなんだか巨大な戦艦のように見えた。

 

11.2(水)

 午前、麻酔科でレクチャーを受けてから、入院の手続き。本当は手術の前日でよいのだが、明日が祝日で、祝日は病院が休みで入院の手続きができないため、前々日の入院となったのである。しかし、今日明日の丸二日間を病院で過ごすのは退屈なので、病院で出された昼食(みそ味のミートスパゲッティ)を食べ、麻酔科の医師および手術室担当の看護師との面談を終えてから、午後3時ごろ、外泊許可をもらって帰宅。のんびりしようと思っていたら、父の腰痛が悪化して寝床から起きられないというので、近所の内科医院に相談に行った。大先生(老院長)がその場で近所の整形外科医院のこちらも老院長に電話を入れて往診を頼んでくれ、本来の往診時間ではないのにすぐに往診に来てもらえることになった。整形外科医院に行って、院長と看護師を家まで案内する。診療の結果、座骨神経痛だろうということになり、とりあえず注射(針が長い!)を2本打って、薬を処方してもらった。明後日また往診してもらい、起きあがれるようになったらレントゲン等の検査をしましょうということになった。近所の開業医のありがたさを感じた。往診の依頼をしてくれた内科医院にビール券をもってお礼に行く。家に戻ると、勝手口のところに二匹の仔猫が来ている。最近、ちょくちょく母猫に連れられてきているという話は母から聞いていたが、実際に見たのは初めてである。白と薄茶のかわいい仔猫である。母が餌をやると、待ってましたとばかりによく食べる。母猫は自分は食べずに仔猫たちが食べるのを側で見ている。大したものだと思う。『蛍の墓』のあの兄妹も、母親が生きていたら、あんなことにならずにすんだのにと思ってしまう。

 

11.3(木)

 昨日届いた「清水幾太郎における戦中と戦後の間」(論文C)の初校の校正。5箇所ほど訂正して、返送する。病院に持っていく本を選ぶ。小沼丹『黒と白の猫』、加藤周一『日本その心と形』、新井敏記『人、旅に出る』の3冊。ギデンズ『社会学』は17章「宗教」の部分だけをコピーして持っていく。週刊誌は病院内の売店で買える。夕方、病院に戻る。

 

11.7(月)

 術後の感染症もなく、点滴も外れたので、本日退院。いい天気だったので、荷物は妻に自転車で運んでもらい、病院から自宅へ20分ほどかけて歩いて帰る。数日、自宅で静養して、木曜日(卒論指導と二文の基礎演習がある)から職場復帰しようと思うが、明日のカリキュラム委員会はどうしよう(明日ないし明後日の退院の予定でいたので、欠席の通知を出していた)。委員長の安藤先生に退院の報告のメールを出したら、議題山積でストレスからまた一日で結石ができるといけないから無理はしないでくれと返事があった。加えて、5日に封切りとなった『ALWAYS 三丁目の夕日』を私が入院中は「映画断ち」をしてまだ観に行っていないとも書いてあった。昭和30年代的友情の表現である。わかった。明日は大学までは出て行かず、途中の有楽町で下車して、彼の代わりに『ALWAYS 三丁目の夕日』を観ることにしよう。入院中は、雨の日曜日を除いて、ずっといい天気だった。これがHOSPITAL 2号館9階の夕日」である。留守中に届いていたメール(217通。ただし8割はウィルスがらみか出会い系のメール)のチェックをすませて、夕方、駅の方に散歩。栄松堂と熊沢書店で、朱川湊人『都市伝説セピア』(文藝春秋)、宮崎勇『証言 戦後日本経済』(岩波書店)、『12の現代俳人論』上下(角川書店)、草森紳一『随筆 本が崩れる』(文春新書)を購入。海老屋で鱈子の佃煮とふき豆を100グラムずつ購入。明日の朝食の楽しみとする。

 

11.8(火)

 昼から大学へ出る。退院翌日だから、本当は自宅で安静にしているべきところなのだが、カリキュラム委員会のことがやはり気になるのである。蒲田駅のホームで電車を待っていたら、手術したあたりに痛みを感じる。売店でポカリスエットを買って、鎮痛剤を二錠飲んだが、すぐには効いてこない。電車はけっこう混んでいて、坐る場所はない。「病み上がり」も優先席に座る資格のある人間として、イラストに加えてもらえないだろうか。幸い品川で目の前の席が空いたので、腰を下ろすことができ、ホッとする。研究室に着いても痛みがとれないので、このまま家に帰って寝た方がいいんじゃないかと思ったが、「五郎八」で昼食(天せいろ)を食べたら、急に痛みが小さくなった。これなら大丈夫と、午後3時からのカリキュラム委員会に出席。終わったのは6時近かったが、なんとかこなせた。夜、『ミリオンダラーベイビー』をビデオで観る。クリント・イーストウッドとモーガン・フリーマンが渋かった。ヒラリー・スワンクのボクシングはとてもさまになっていた。イーストウッド演じるボクシングのトレーナーが教会のミサに熱心に出席し、神父にあれこれ質問する姿を見ていたら、ギデンズが『社会学』の中で、米国は近代化が徹底的に進んだ国であると同時に、人びとの宗教的信念や宗教組織への加入も世界の最高レベルにある点に大きな特徴がある、と述べていたのを思い出した。

 

11.9(水)

 朝、5時半に目が覚める。なんでこんな時刻に目が覚めるのだろうと思ったら、手術したあたりがシクシク痛いことに気がついた。痛みで目が覚めたのだ。坐薬を使うと、30分ほどで痛みが消え、再び眠りに就く。次に目が覚めたのは、9時半。蒲田宝塚でALWAYS 三丁目の夕日』をやっているので、10時半からの回に間に合うべく家を出る。朝食をとっている時間がなかったので、途中の鈴木ベーカリーでハムカツパン、ウィインナーパン、チョコパン、缶の紅茶を買っていく。レディースデイということもあってか、場末の映画館の平日の初回にしては、そこそこの観客がいた。映画の冒頭の一連のシーンの中に蛾をヤモリがパクッと食べるCG映像があったが、これを観たとき、私は「ジュラシックパークだ」と思った。そう、この映画は一種の『ジュラシックパーク』なのだ。スピルバーグの『ジュラシックパーク』がジュラ紀の地球をCGを駆使して再現したものであるのに対して、『ALWAYS 三丁目の夕日』はセットとVFX技術を駆使して昭和33年の東京の下町を再現したものである。中心的な登場人物の一人である鈴木オートの主人(堤真一)が集団就職でやってきた女の子(堀北真希)と口論になって、激怒したときの様子は、明らかにゴジラ(昭和29年に初めて銀幕に登場)を意識したもので、「やっぱり、ジュラシックパークだ」と私は思った。映画は最初から最後まで懐かしい映像のオンパレードである。ただし、その懐かしさは、たとえば小津安二郎の『東京物語』を観るときに感じる懐かしさとは異質なものである。『東京物語』は現代劇として作られた。昭和28年の東京(と尾道と熱海)で展開される家族の物語を昭和28年に撮ったものである。当時の観客たちは『東京物語』に「東京的なもの」を感じても、「古き良き時代」を感じることはなかった(少なくとも私たちが感じるよう感じることはなかった)であろう。いくら巨匠小津といえども、50年後の観客が懐かしさを感じるであろうことを計算して撮っていたとは思えない。これに対して、『ALWAYS 三丁目の夕日』は時代劇である。それも「古き良き時代」という「時代」そのものが主役であるような時代劇である。そこには徹底した懐かしさの演出がある。懐かしさの演出は、第一に、ディテールへの徹底的なこだわりであり、第二に、商店街のセットに施されたセピア的汚れである。観客はセピア色の写真のそこかしこに配置された細々としたアイテム(そこには人びとの身体所作も含まれる)に懐かしさを発見しては(発見しやすいように置かれているのだ)、「ああ、そうだった」と懐かしがるゲームに参加しているようなものである。ここでは、映画のストーリーそのものはそれほど重要なものではない。ストーリーは懐かしさのアイテムをあちこちに配置するための通路のようなものである。誤解のないように言っておくが、ストーリーがつまらないと言いたいわけではない。独創的なストーリーではないが、大衆演劇の王道を行く、旅芸人の一座の芝居のような、人情味あふれたストーリーである。実際、私は何度か涙をこぼしそうになり、反射神経的にそれを堪えていたが、最後の最後、母親に捨てられた少年が駄菓子屋の主人(吉岡秀隆)の元から実父を名乗る男に引き取られていく場面では涙を堪えることができなかった。日本人の伝統的な涙腺のツボを心得たストーリーである。つまりストーリーそのものも懐かしさを演出するアイテムの1つなのである。映画が終わり、館内が明るくなると、そこには懐かしさを満喫した人びとの顔があった。本当は、当時の日本人があんなに人情味があって生き生きと生きていたわけではないことはみんな知っている。でも、これはドキュメンタリー映画ではない。現実の再現ではなくて、郷愁の構築である。それを承知の上で昭和版「ジュラシックパーク」を楽しんだのである。帰宅し、昼食をとってから、父親を車椅子に乗せて近所の整形外科医院に連れて行った。車椅子を押しながら、映画の中の時代からずいぶんと遠くまで来てしまったのだなと感じた。最後に、ディテールに関して苦言を一つだけ。原っぱの土管の上に「坐って」チャンバラ遊びをしている子供たちがいたが、チャンバラ遊びというのはあんなにナヨナヨしたものではない。子役の子供たちに怪我をさせてはいけないという配慮が働いたものと思われるが、当時の子供たちにとって、チャンバラ遊びは機動隊(鉄棒)と全学連(角材)の衝突のように命がけのものだった。だから弱虫な私はチャンバラ遊びにはめったに加わらず、女の子とママゴト遊びに興じていた。あっ、それから、最後の最後にもう一つだけ。昭和33年のクリスマス、東京に雪は降らなかった。東京のホワイトクリスマスって何十年に一度しかないのではなかろうか。

 

11.10(木)

 今日から本格的に職場復帰。5限と6限は卒論演習。通常は3人報告なのだが、期限も迫ってきているので、4人報告。余分な枝葉を刈り込んで、問題→考察→結論という筋道のスッキリしたものに仕上げることが肝心。ただし、考察はねばり強く。アッサリしていることとスッキリしていることとは違うので、勘違いしないように。ミルクホールでパンを一個買って、自動販売機の珈琲で胃に流し込んで、7限の社会人間系基礎演習に臨む。今週からグループ発表始まる。最初の報告は「宗教」がテーマ。ニヒリズムに陥った人びとを社会へと再適応させる機能をもった「トンネル型宗教」という概念をめぐって活発な質疑応答が行われた。授業時間を20分延長して9時半までやる。午後3時頃に飲んだ鎮痛剤の効果が薄れてきて、脇腹が少々痛むが、帰りの電車は東西線も京浜東北線も座ることができたので助かった。蒲田に着いてから、坂内食堂の喜多方ラーメンと半チャーハンを食べる。消化器系の病気ではないので、食事は普通にできるのが不幸中の幸いである。帰宅して、風呂を浴び、メールを何通か書き、疲れたのでフィールドノートの更新は明朝ということにして、就寝。

 

11.11(金)

 自宅で昼食(おでん)を食べてから大学へ。3限の大学院の演習では、I君が1950年代の日本の家族社会学の状況について報告した。5限の調査実習では、私がTVドラマ『あいのうた』と『野ブタ。をプロデュース』の比較分析を行ってみる。『あいのうた』が正統(玉置浩二)VS異端(菅野美穂)というはっきりした構図の下で展開する(正統の勝利に終わることが明々白々な)ドラマであるのに対して、『野ブタ。をプロデュース』では主役の3人の高校生(亀梨和也、山下智之、堀北真希)のいずれもが異端の位置にいる。現実への適応能力でいえば、亀梨が一番あるのだが、同級生らとの対人関係をすべて一種のゲームと考えており、「クールで面倒見のいい桐谷修二」を意識的に演じている(皮相な人間関係を生きている)点は正統とはいいがたい。現代社会では正統であることはむしろ生きにくさにつながる。なぜなら現実の社会ではある種の異端的イデオロギーが幅を効かせているからだ。したがって『野ブタ。をプロデュース』では、たんに二人の男子学生が一人の女子学生の生き方を変えていく(プロデュースする)というだけでなく、男子学生自身も自分のこれまでの生き方を反省して、正統に接近していく(生き方を変えていく)という展開になるはずである。

いま午後11時を少し回ったあたり。いつもなら午前2時を回るころに就寝というパターンが多いので、まだまだこれからという時間帯なのだが、今日はかなり眠くなっている。起床が午前5時半と早かったからだ。入院中のパターンが続いている感じである。夜が明ける頃に起きるというのは気分的には悪くない。ただし、結果として、夜が早く眠くなる。いまどき中学生だって午後11時には寝ないだろう。でも、その方が健康的かもしれない。うん、明日は2限から授業があることだし、眠気に逆らわず寝ることにしよう。

 

11.12(土)

 講義が3つ(2限、3限、6限)。4限と5限の時間帯に会議が1つ(社会学年誌編集委員会)と学生の面談が1つ。なかなかハードな一日である。講義は椅子に座って話そうかと考えていた。3分の2くらいの時間で切り上げてもいいかなとも考えていた。しかし、結局、いつもどおり、立ったまま、時間いっぱいまで話をした。教師の習性としかいいようがない。「五郎八」で夕食(天せいろ)をとって、帰宅。風呂を浴び、録画しておいた『野ブタ。をプロデュース』を観て、十二時前に就寝したが、夜中に鎮痛剤の効き目が切れ、目が覚める。左の腎臓から膀胱までの尿管に人工の管(ステント)が挿入されているせいで炎症が起こっているのである。この管が抜けるまでにはいましばらくかかる(尿管の狭くなっている箇所をレーザーメスで切開したので、その傷が修復される際に癒着を起こさないように)。それまでは痛みと血尿に付き合っていかなくてはならない。鎮痛剤は効き目が切れかかっているときに使うと効果がすぐに表れるが、完全に効き目が切れてからだと効果が表れるまでに少々時間がかかる。ひたすら蒲団の中でじっとしているしかない。パスカルは虫歯の痛みを紛らわすために数学の研究をしたと伝えられているが、嘘に決まっている、と思う。

 

11.13(日)

 日曜日は当面の仕事と関係のない本を読むことが多い。今日は加藤周一『高原好日』(信濃毎日新聞社)を読んだ。彼の自伝『羊の歌』(岩波新書)を読んだのは大学生になって間もない頃だった。高校時代の友人(偶然だが「加藤」という名前だった)に勧められて読んだのだが、日本語で明晰にものを書くということの一つの見本のような文章で、かなりの影響を受けた。また、学問の専門分化という時代の趨勢に反して、私が「非専門分化の専門家」たらんことを志して人文専修へ進むことを決めたのも加藤の影響が大きかったと思う。『羊の歌』には加藤が少年の頃から夏をそこで過ごした信州浅間山麓の追分村のこと、そこで出会った人びとのことが書かれていた。堀辰雄、立原道造、中野好夫、福永武彦、中村真一郎・・・・、『羊の歌』が書かれた当時(1968年)、彼らの多くは存命中であった。しかし、いまは、そのほとんどが故人となっている。加藤自身も80歳代の半ばを迎えている。『高原好日』は『羊の歌』で取り上げた人びとを再び取り上げて綴られた回想録であるが、それは追悼集のようでもあり、「白鳥の歌」のようでもある。早稲田大学の軽井沢セミナーハウスは旧称を追分セミナーハウスといい、私は何度か訪れているので、加藤が描写している信濃追分の風景には親しみがある。『高原好日』の109頁にはアメリカ文学の研究者である橋本福夫が信濃追分の駅のホームに立っている写真(1970年ころ)が載っているが、そこに写っている木造の待合所のことは記憶に残っている。10年ほど前になるだろうか、合宿を終えて、東京に帰るときに、その待合所のベンチに鞄(ノートパソコンが入っていた)を置いたまま列車に乗ってしまい、途中でそれに気づき、あわてて、学生たちと別れてひとり信濃追分に引き返した。幸い、鞄は誰に持って行かれることもなく、待合所のベンチにあったが、列車の本数が少なかったので、私は長い時間そこで列車を待つことになった。誰もいない高原の小さな駅のホームの待合所で書いた何枚かの絵葉書のことをいまでも覚えている。

 

11.14(月)

 有隣堂と栄松堂を回って自宅で使う来年のカレンダーを購入。手帖コーナーにはたくさんの手帖が並んでいるが、2007年3月末までのスケジュールが記入できるものでないと、私のように年度単位で仕事をしている人間には使い勝手が悪い。しかし、ほとんどの手帖は200612月末までのスケジュールしか記入できず、検討対象外。結局、来年も大学から支給される手帖(早稲田大学仕様の能率手帖)を使うことになるだろう。父親がこのところ腰痛で半寝たきり状態なので、本当の寝たきりになるにならないように、起きているときに楽な椅子(食卓の椅子は長時間座っているには硬いし、掘り炬燵の座椅子は立ち上がるときに力がいる)をということで、無印良品のリクライニング・チェアを購入。買い物を済ませてから、金子務『アインシュタイン・ショックT 大正日本を揺るがせた四十三日間』(岩波現代文庫)をカフェ・ド・クリエで読む。アインシュタインは大正111118日に雑誌『改造』の招待で日本を訪れて、43日間滞在し、熱狂的な歓迎を受けた。その熱狂振りはおそらく大正4年9月5日の野口英世の凱旋帰国のときに匹敵するものであったろう。本書は数多のアインシュタイン伝では空白となっている日本滞在期間中のアインシュタインについて、未公開資料であった「訪日日記」を手がかりに、丹念に追跡したノンフィクションで、実に面白い。それにしてもどうしてわれわれはこんなにもアインシュタインが好きなのであろう。

 

11.15(火)

 会議の一日。社会学専修教室会議、社会人間系専修委員会、そして教授会。最初の会議が始まったのが午前11時で、最後の会議が終わったのが午後6時過ぎ(ただし、私は学生の面談があって6時に会議室を出た)。帰り道、あゆみブックスで『アインシュタイン・ショックU 日本の文化と思想への衝撃』(岩波現代文庫)を購入し、電車の中で読む。当時(大正後期)、アインシュタインはレーニンと並んで人気が高かった。ロシア革命が地上の革命で、相対性理論は天上の革命であったわけだ。アインシュタインの訪日を実現させたのは雑誌『改造』の主筆山本実彦であったが、大逆事件以後の「冬の時代」を乗り越えて、当時の日本は社会改革への気運にあふれていた。ここでは相対性理論の「相対性」という言葉が、新鮮な響きをもって、既存の社会体制の絶対性へのアンチテーゼであるかのように受け取られたのである(こういうことってしばしばある。たとえば、先行き不透明な時代にハイゼンベルクの不確定性原理が脚光を浴びるとか)。夜、喪中(1月に妻の父が亡くなった)の挨拶の葉書を妻がワープロで印刷。今年の年末は年賀状書きのない年末である。

 

11.16(水)

 午前、病院に鎮痛剤と保険会社に提出する診断書をもらいに行く。執刀医のK医師が体調不良で休診だったので、別の医師にお願いする。K医師は心臓に疾患が見つかり(本人は風邪だと思っていたらしい)、入院するかもしれないとのこと。そういえば、私の手術の開始前、額にだいぶ汗をかいて、息づかいが荒かったので、どうしたのだろう、別の場所からあわてて駆けつけたのだろうかと思ったが、直前まで点滴を打って横になっていたのだと後から知った。なかなかスリリングな状況だったわけだ。

午後、蒲田宝塚で再び『ALWAYS 三丁目の夕日』を観る。映画館で観た映画を、ビデオ・DVDが出たときに再び観ることはあるが、映画館で繰り返し観ることはめったにない。ストーリーを知らずに観るときと、一度観てストーリーが分かっていて観るときとでは、当然、映画の楽しみ方は違う。次の角を曲がるとどうなっているのだろうと思いながら観るのではなく、次の角を曲がるとこうなっているのだと確認しながら観るのである。そして、やっぱり同じシーンで涙がこぼれてしまう。いや、そのシーンの手前ですでに涙がこぼれてしまう。頭の中の映写機はそのシーンを先回りしてスクリーンに映し出してしまうのである。小さな子供の頃を別にして、人前で涙をこぼしたことのない私がである。

 夜、『あいのうた』(第6話)を観る。あいちゃんが片岡と一緒にいたいと、泣きながら、言った。ドラマの前半のハイライトシーンであろう。素直な言葉は人の胸を打つ。先週の調査実習の授業で、『あいのうた』と『野ブタ。をプロデュース』のそれぞれの初回の編集版を流して、どちらか一つを今後も観ていくとしたらどちらを観たいかと学生に尋ねたら、『野ブタ。をプロデュース』の方が圧倒的に多かった。予想通りであった。『あいのうた』は台詞がベタなのである。気恥ずかしくなるほどにベタなのである。でも、ベタというのは、素直ということである。無防備ということでもある。日頃、思い鎧を身につけて他者とかかわっている人間にとっては、その無防備さがまぶしかったりする。

 

11.17(木)

 父親用に購入した無印良品のリクライニング・チェアはなかなか好評である。腰痛のため床から起きるのが大変なのだが、いったん起きあがることができれば、痛みは緩和される。今日は昼頃に床から起きて、その後は夜までリクライニング・チェアに座ってテレビを観たり、新聞を読んだり、居眠りをしていたらしい。昼間から蒲団に寝ていると病人のようだが、リクライニング・チェアで昼寝をしていてもそれほど病人には見えない。

午後3時頃、家を出る。5限の卒論演習、予定されていた報告者3名のうち2名が来られなかった。残り実質3週間だというのに困ったものである。7限の授業の始まる前に「五郎八」で食事。寒いので、温かい汁もの(たとえばカレー南蛮うどん)にしようかとも思ったが、カウンターに座るとつい「天せいろ」を注文してしまう。天ぷらは、海老が二本、茄子、獅子唐、南瓜が各一個。そう品書きにも書いてある。ところが、たまに海老が三本のときがある。先週の土曜日の夜に食べたときがそうだった。代わりに他のネタがなくなっているのかというと、そういうことはない。純粋に海老が一本多いのである。その理由がわからない。サービスなのだと思うが、どのような条件下でそうしたサービスが発生するのかがわからない。調理人の気まぐれということはないはずである。アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言ったが、ある現象の背後には何らかの規則性があるはずである。7限の社会人間系基礎演習はグループ報告。抽象度の高い話をきちんと分かってもらおうと説明の仕方をあれこれ工夫している点がよい。それともう一つ、グループの中心的人物であるH君(発表の草稿は彼が書いたのであろう)と他のメンバーとの協調関係がよかった。ちゃんとグループ報告になっていた。

 

11.18(金)

 陽のあたる場所は暖かいが、日陰に入ると途端に寒くなる。ハーフコートがちょうどいい季節。3限の大学院のゼミはT君が1960年代の日本におけるジャズの流行について発表した。この時期は、ジャズの他にもロック、フォーク、グループサウンズ、青春歌謡など多用な音楽が群雄割拠する時代であったが、ジャズはその一筋縄ではいかない度合いにおいて、反体制のインテリ志向の青年たちの間で高い地位を占めていた。「ジャズが分かる」人間であるという自己呈示の技法(ジャズ喫茶でジャズを聴くときのポーズなど)も高度に洗練されたものだった。しかし、対抗文化としての青年文化の多くがそうであるように、ジャズ青年の多くは成人の仲間入りをしていく過程でジャズから離れていくか、反体制的な要素を薄めた「半体制的な」ジャズへと好みを変えていったのである。

夕方から、竹橋の如水会館で開かれる生命保険文化センター主催の全国中学生作文コンクールの表彰式に出席。審査委員を代表して講評を述べる。進行表に書かれている割当時間は10分なのだが、8人の受賞者ひとりひとりについて講評を述べていると、どうしたって倍近い時間がかかってしまう。毎年のことなのだから、進行表には15分と記してくれないだろうか。そうしてくれるとこちらの気分もだいぶ楽になるのだが。パーティーの後、いつものように主催者が手配してくれたタクシーで帰宅。地下鉄とJR(定期券あり)を使って帰るより10分ほど早いのだが、タクシーが苦手な私はいつも軽い乗り物酔いの状態になる。タクシーを降りるとき、チケットに6000円ほどの数字を記入する。私の軽い乗り物酔いで日本経済がその分活況を呈してくれるのであれば、それでよしとしなければなるまい。

 

11.19(土)

 1年生の専修進級希望の最終集計結果が本日発表された。社会学は136名である。第一次集計では142名だったが、高倍率ということで、6名が他専修へ希望を変更したわけだ。社会学専修の一学年あたりの定員は75名だが、昨年は101名を受け入れた(希望者は146名だった)。今年の受入数はまだ決まっていないが、希望者全員を受け入れることはできないから、社会学を希望した学生たちは選考結果が出る3月3日までは落ち着かない日々となることだろう。今日の2限の社会学基礎講義Bの出席カードの裏に、ぜひ社会学専修へ進みたいと書いてあるものが何枚かあり、季節外れの七夕の短冊のようだった。昼食はコンビニのお握り3個を研究室で。暖かいものを食べたいのだが、外出している時間はない(できないことはないが、とてもあわただしい)。土曜日はいつもこうなる。3限の社会学研究101960年代末の大学紛争がテーマ。たかだか35年ほど前のことだが、いまの大学生たちには別世界の出来事のように思えたことであろう。6限までの時間は電気ストーブに当たりながら研究室で過ごす。スチームがまだ入らないこの時期の研究室は底冷えがする。エアコンで温風は出るのかもしれないが、それは頭がボーッとするので私はほとんど使ったことがない。電気ストーブに当たりながら本を読んでいると、頭寒足熱というやつで、集中力が高まるような気がする。9時ちょっと過ぎに帰宅。風呂を浴びてから、遅めの夕食(もつ鍋)をとる。冷えた身体が温まる。

 

11.20(日)

 日曜日なのでだらだらと過ごす。土曜日が一週間のうちで一番過酷な日なので、その翌日はとにかくだらだらと過ごして、精神と神経と筋肉を弛緩させる必要がある。間違っても学問をしようなんてスケベ心を起こしてはならない。昼飯(サンドイッチ)をとってから散歩に出る。師走の手前、そろそろ師走だなと感じながら街を歩く気分は悪くない。熊沢書店で、熊田一雄『男らしさという病? ポップ・カルチャーの新・男性学』(風媒社)、デイ多佳子『大きい女の存在証明 もしシンデレラの足が大きかったら』(彩流社)、重松清『その日のまえに』(文藝春秋)を購入。レジで一万円を出したら、店員が「一万円入ります」と言った。この「一万円入ります」というのはよく聞く言葉だが、一体、どういう意味があるのだろう。一度、店員に聞いてみたいのだが、今日も聞けなかった。この種の質問を「へんなオヤジ」という印象を与えずにするのはなかなか難しいのである。有隣堂で、辻由美『街のサンドイッチマン』(筑摩書房)、片岡義男『白いプラスティックのフォーク』(NHK出版)を購入。『街のサンドイッチマン』は、昭和28年、鶴田浩二が歌って大ヒットした「街のサンドイッチマン」の作詞家宮川哲夫の評伝である。

 

ロイド眼鏡に 燕尾服

泣いたら燕が 笑うだろう

涙出た時ゃ 空を見る

サンドイッチマン サンドイッチマン

俺らは 街の お道化者

呆け笑顔で 今日もゆく

 

 子供の頃、街には歌が溢れていたが、その中で、この歌に漂う都会的哀愁に私は惹かれていた。それにしても、「街のサンドイッチマン」の作詞家の評伝を読もうなんて、『三丁目の夕日』効果に違いない。

 夜、来年度の卒論指導を担当する20名の学生に12月6日の仮指導の件でメールを出す。今年度の卒論指導が佳境を迎えているときに、来年度の収穫のための仕込みが始まるのだ。

 

11.21(月)

 諸々の雑用を片付ける。雑用とはいってもなかには気の重い用件もあり、しかし、片付けないことにはいつまでも気が重いので、とにかく片付ける。雑用の合間に『街のサンドイッチマン』を読む。海軍大将だった高橋三吉の息子に高橋健二という人物がいて、彼が戦後サンドイッチマンに身を落としたことが新聞で話題になったことがあった。宮川はこのエピソードから「街のサンドイッチマン」の着想を得たらしい。宮川自身、戦時中は国民学校の教師をしていて、元来はリベラルな精神の持ち主だったが、軍国主義教育に一役買ってしまったことで戦後も引き続いて教師を続けていくことに自信をなくし、作詞家として食べていく決意をしたのだという。彼らのように敗戦によって人生が大きく変わった人はたくさんいたに違いない。私が生まれたのは敗戦の9年後だから、私自身の人生は敗戦によって不連続性を付与されてはいないが、私の身の回りには不連続な人生を生きていた大人たちがいたはずである。しかし、そういう話を子どもの私にする大人は一人もいなかった。不思議といえば不思議であり、立派といえば立派である。そして、なんだか切ない。「街のサンドイッチマン」を聴く。二番はこんな歌詞だ。

 

 嘆きは誰でも 知っている

 この世は悲哀の 海だもの

 泣いちゃいけない 男だよ

 サンドイッチマン サンドイッチマン

 俺らは街の お道化者

 今日もプラカード 抱いてゆく

 

11.22(火)

 午前中、カリキュラム委員会。午後、現代人間論系運営準備委員会と戸山リサーチセンター拡大プロジェクト研究所長会議。三番目の会議は数日前に事務所のSさんからメールで参加を促されて、これも浮世の義理かと思いつつ、気軽な気分で出席したら、あやうく新規プロジェクト研究所の所長に任命されそうになって、あわてて固持する。会議が終わり、部屋を出ようとすると、教務のY先生に呼び止められ、ある委員会への参加を依頼される。話を伺うと、関わらざるを得ない内容のものであり、「2、3回で終わる会議ですから」というので、承諾すると、「12月中に最初の会議を開きたいと思います。3、4回で終わる会議ですから」と言われた。えっ、さっき「2、3回」って言ったじゃないですか。承諾した途端に「3、4回」にレベルアップしてますから。ちょっと油断をしていると、どんどん仕事が増えていく。静かに暮らしたい、と心から思う。生協文学部店で澤井敦『死と死別の社会学』(青弓社)と長谷川眞理子『クジャクの雄はなぜ美しい?』(紀伊国屋書店)、あゆみブックスで柴田元幸『アメリカン・ナルシス』(東大出版)を購入し、シャノアールで読み、帰りの電車でも読む。蒲田に着いて、有隣堂でマイク・モラスキー『戦後日本のジャズ文化』(青土社)、平岡正明『昭和ジャズ喫茶伝説』(平凡社)、ノエル・F・ブッシュ『正午二分前 外国人記者の見た関東大震災』(早川書房)、川本三郎『旅先でビール』(潮出版)を購入。風呂を浴び、夕食(刺身と豚汁)をとり、『旅先でビール』を読む。

 

11.23(水)

 一日かけて来年度の特定課題研究助成費の申請書類を書き上げる。昨日が事務所提出の締め切りだったのだが、科学研究費補助金の申請をすでに出していることもあり、また諸々の雑用を片付けるのに忙しかったこともあり、昨日事務所に行って、担当のKさんに「特定課題の方は間に合いませんでしたので見送ろうと思います」と言ったら、「先生、もう少しお待ちしますから・・・・」と言われてしまい、なんだか白衣の天使に励まされる入院患者のような気持ちになり、うん、頑張ってみようかなと思い直し、頑張ってしまったわけである。元々が素直な性格なのだ。ただいまの時刻、24日の午前3時半になろうとするところ。もう寝なくちゃ。

 

11.24(木)

 午前、両親と私と三人で病院へ。それぞれ違う理由で同じ泌尿器科にお世話になっていて、今日はたまたま三人の診察日が重なったのである。天気がよかったので、父親を車椅子に座らせて押していく。20分ほどの道程。道路というのはたいてい両側に排水溝があり、道路の中央をピークにしてアーチ状をしている。だから道の端を車椅子で行くときは傾斜にハンドルを取られそうになり、けっこう力が入る。何かコツがあるのだろうか。今日は体内に残っている人工管(ステント)を抜いてもらったが、痛かった。だいぶ出血もあった。化膿予防の注射を一本と、抗生物質や止血剤など5種類も飲み薬が出た。午後、普通は休講だよなと思いつつ、大学へ出る。卒論演習(5・6限)と二文の基礎演習(7限)。どちらも報告のスケジュールが詰まっているので安易に休講にはできないのである。それと昨日書き上げた特定課題研究助成費の申請書類を事務所に提出せねばならない。夕食は、6限と7限の間に、研究室でカップヌードル(シーフード)で済ます。食事をとらないと薬が飲めないからしかたがない。7限の授業を終えて帰るとき、同じく二文の基礎演習を終えて帰られる坂田先生と一緒になり、地下鉄の中で疾病談義で盛り上がる。そういう歳なのである。

 

11.25(金)

 昼から大学。昼食はコンビニで買ったおにぎり三個(鮭、鱈子、昆布)。3限の大学院のゼミはUさんが1970年に出版された塩月弥生子『冠婚葬祭入門』(カッパブックス)を取り上げて、それがベストセラーとなった社会的背景について報告した。4限は研究室で卒論指導。5限は調査実習のグループ報告を二つ(ブログ班と小説班)。時間を延長して9時頃まで行う。途中の休憩時間にミルクホールで買ったカレーパンと中華マン(あん)を食す。10時半、帰宅。近所のコンビニで娘への土産に雪見だいふくを購入。今日は娘の二十歳の誕生日なのである。

 

11.26(土)

 今朝は2つミスをした。その1。授業のある日は往きの電車の中で講義のシミュレーションをする(もちろん頭の中で)。何を、どういう順序で、どういう時間配分で話すのかを考える。今日もそれをやっていたら、早稲田を乗り越して高田馬場までいってしまった。10分ほどのロスである。幸い早めに家を出ていたので、授業に遅刻することはなかったが。その2。家を出るとき、TVドラマ『野ブタ。をプロデュース』をHDに予約録画の設定をしたはずなのだが、帰宅して観ようとしたら録れてなかった。ショック・・・・。いまこのフィールドノートを見ている学生で、今夜の『野ブタ。をプロディース』をビデオ録画している人がいたら、見せてもらえないでしょうか。あゆみブックスで、竹内洋『丸山真男の時代 大学・知識人・ジャーナリズム』(中公新書)、島泰三『安田講堂 1968-1969』(中公新書)を購入。どちらもいますぐ読みたい内容の本。日曜、月曜は原稿書きの予定だったのだが、困ったな。

 

11.27(日)

 かれこれ10年近く着用してきたバーバリーのコートだが、さすがに袖口や襟が擦れてきたので、新しいコートを買いに妻と五反田でやっているバーゲンに出かける。アクアスキュータムのコートを購入。これですぐに帰ればよかったのだが、同じくアクアスキュータムのジャケットでいい感じのものがあり、袖を通してみたら気に入ってしまい、これも購入。帰り際にダーバンのレザーのハーフコートも気づいたら購入していた。ものはついでと(私は普段は本以外の買い物をほとんどしないので)、蒲田に戻ってから、東急プラザのミナカイで茶色の皮靴を一足購入。本日の支払い、20数万円。妻の半ば呆れ顔、プライスレス。夜、娘と妻の誕生日を祝ってサンカマタの銀座アスターで食事。私も妻も頭の片隅で冬のボーナスのことを考えている。

 

11.28(月)

 午前、天気がよいので、父親を車椅子に座らせて散歩に出る。天気予報によると、小春日和もそろそろお仕舞いらしい。1時間ほどで帰宅して、昼食(おでん)と昼寝の後は、竹内洋『丸山眞男の時代 大学・知識人・ジャーナリズ』をひたすら読む。娯楽としての読書ではなく、職業としての読書である。深夜、読了。実に有益な読書だった。竹内とは波長が合うのだろう、『立身出世 近代日本のロマンと欲望』(NHK出版)を読んだときもそうだったが、今回もたくさんの付箋が消費された。付箋を貼った箇所は再読のときの道標である。立ち止まって、あるいは腰を下ろして、そこで考えたことを文章化して明晰なものにしていかなくてはならない。これからしばらくの間、鞄の中にはいつも本書が入っていることだろう。

 

11.29(火)

 午後、大学。会議が二つ。しかし、体調が芳しくなく、二つ目の会議の途中で失礼させていただく。帰りの電車の中で紀要論文の校正(再校)をする。帰宅して、すぐに病院へ。病院へ行く途中、校正を済ませた原稿をポストに入れる。これで万一再入院ということになっても気がかりなことが一つ減った。夜間救急の窓口で受診の申し込みをして、ベンチでしばらく待つ。名前が呼ばれて診察室に入ると、入院していたときの主治医だったT医師が診てくれた。そのまま再入院ということにはならず、とりあえず一日分の薬を処方してもらい、明日の午前中に改めて外来で受診ということになった。自宅に戻り、夕食をとり、薬を服用。即効性のある薬のようで、仕事のメールを打っている間に、症状は改善される。たぶん効果は一時のものだが、症状が収まっている間にフィールドノートの更新と授業の下準備。われながら涙ぐましい。

 

11.30(水)

 午前、病院へ。K医師に診てもらう。2、3日の短期入院から投薬による治療までいくつかの対処法を示され、相談の結果、投薬による治療(一番安価で、時間的拘束がなく、しかも痛くない)を選択。ただし、安静を保つこと、水分を十分に摂ること、何かあったらすぐに病院に来ることが条件。帰宅して、昼食(牛丼)をとり、1時間半ほど昼寝。散歩はやめておく。大熊信行『文学的回想』(第三文明社、1977)を読む。大熊は、戦時中、読売新聞論説委員をしていた清水幾太郎が最も恐れた人物で、翼賛的な社説の中にこっそりと含ませた時局批判を、大熊はすべてお見通しであるように清水には思われたからである。大熊は元来が経済学者であるが、人生論、社会論、家庭論、国家論、世界社会論など執筆内容は多岐にわたり、戦時中は国家主義者として体制のイデオローグとなり、戦後、その反省を記録した『告白』という文章を発表して話題を呼んだ。『文学的回想』はいわば彼の文学限定版「告白」である。冒頭の「三行歌のこと」は石川啄木の三行歌との出会いについて書いたもの。

 

 啄木の三行歌を知ったのは、明治四十四年の三月である。その月の『早稲田文学』に「机の位置」と題する十二首がのった。わたしはそれを読むとびっくりし、すぐさま母のところへ持っていった。母は鏡台にむかい、髪の元結いをくわえながら、わたしが読みあげるのを聞いていたが、格別の反応を示さない。私の胸のときめきは、おさまらなかった。

 そんな短歌がありうるということが、驚異であった。気取りも、かざりけもない、人間のありのままの日常的な言葉が、そのまま歌になるということが、いわば一つの発見であった。語調としての形式において破調であるだけでなく、短歌としての本質において、いわば破調であった。殻がやぶれた感じで、同時に皮肉とユーモアが感じられた。私は当時それを、こっけい味だと解し、それ以上いいあらわす言葉を知らなかった。(中略)なぜかわからないが、私は三行歌という形式そのものには、無性に引きつけられた。

 

 文章の呼吸とでもいうべきものが感じられるいい文章である。尾崎放哉の自由律俳句と出会ったとき、私もこれに近いことを感じたのを思い出した。著者の回想が読者の回想を引き出すのは生きた文章が持つ力である。大熊には『文学と経済学』(1929)や『文学のための経済学』(1933)といった心惹かれるタイトルの本がある。「日本の古本屋」で検索したら、前者は21000円、後者は12000円で出ていた。けっこうな値段である。いくら冬のボーナスが近いとはいえ、そうそう気軽に「カゴ」の中に入れてクリックしていたら大変なことになる。

 夜、TVドラマ『あいのうた』を観る。またリーガロイヤルホテル東京(旧リーガロイヤルホテル早稲田)のラウンジがロケに使われていた(「また」といったのは春のTVドラマ『恋におちたら』でも二度使われていたからである)。いまの季節、大きなガラス越しに見る大隈庭園の木々の紅葉が美しいのではないだろうか。近々、行ってみよう。

 

 

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