フィールドノート0603

 

3.1(水)

 人を泣かせることと、人を笑わせることと、どちらが難しいかといえば、断然、後者である。今夜、『イロモネア3』というバラエティ番組を観て、改めてそう思った。

若手のお笑い芸人たちが、スタジオの一般客を相手に、5種類のジャンルのお笑い芸(ショートコント、一発ギャグ、サイレント、ものまね、ものぼけ)に挑む。観客の中からコンピューターでランダムに選ばれた5人の客のうち3人を笑わせることができれば、次のジャンルに進むことができ、5番目のジャンルで5人全員を笑わせることができたら賞金100万円がもらえる。指定された5人の客が誰であるかは、司会者とTVを観ている者にはわかるが、芸人とお客本人はわからないということろがミソである。5人のうち3人を笑わせることはできても、5人全員を笑わせることは難しい。実際、第5ステージまで進んだ芸人は何組があったが、100万円を獲得したのは「劇団ひとり」のみであった。

挑戦者の芸人が変わるたびに5人の客も変わるのであるが、5人のうち1人ないし2人、妙に無表情な客が混じっている。おそらくこれは「笑わない要員」としてあらかじめ仕込まれた客と思われる。「笑わない要員」を2割混ぜておけば、5人のうち1人は「笑わない要員」が選ばれる計算になる。ただし、私は5人の客を本当にコンピューターでランダムに選んでいるのか疑問に思う。なぜなら、5人の客が選ばれた瞬間に5台のカメラがその5人の客の顔をモニターに映し出すからである。もし本当に選ばれる瞬間まで5人の客が誰であるかがわからないのであれば、カメラがその5人の顔をとらえるまでにもっと時間がかかるはずだ(まさか100人の客に対して100台の固定カメラをスタンバイさせているわけではあるまい)。おそらく5人の客は調整室にいるディレクターが任意に選び、それをカメラマンにマイクで伝えているのに違いない。であれば、必ず5人の中に「笑わない要員」を含めることができる。この「笑わない要員」は番組収録中ずっとこれまでの人生で一番悲しかったことを考えている。ある者は死んだ仔猫を雨の降る日に庭に埋めたときのことを思い出している。ある者は自分と妹を捨てて家を出て行った母の後ろ姿を思い出している。そうした悲しい個人的体験のない者はアニメ『蛍の墓』でガリガリにやせ細った女の子がドロで作ったおはぎを食べる場面を必死に思い出している。「笑わない要員」のあの不自然な無表情はそうとしか考えられない。彼らの身体はスタジオの観客席にあるが、心はその場にはない。自分の周囲に一種のシールドを張り巡らしているこうした人間を笑わせることはまず不可能である。

しかし、番組的には、100万円獲得者がゼロでは盛り上がらない。そこで何組かは「笑わない要員」を含んでいない一般客5人が選ばれる。私の覚えている限りでは、タカ・アンド・トシと長州小力のときがそうであった。ガードの低い客ばかり5人が選ばれ、100万円獲得のチャンス大であった。しかし、両者とも最終ステージで緊張から自滅してしまった。これはディレクターも誤算であったろう。人を笑わせることは難しい(皮肉か?!ータカ・アンド・トシのツッコミの口調で)。

 

3.2(木)

 午前10時半から入試関連の会議。昼休みの時間に予定されていた社会学専修の会議は主任の長谷先生が風邪でダウンしたため中止となる。昼食は五郎八の天せいろ。海老天の尻尾を食べたら欠片が歯茎に刺さって痛かった。やっぱり海老天の尻尾は食べるものではない。午後1時から教授会。5時間近くかかる長い、長い会議だった。議案の1つに基本構想委員の選挙があったが、また選ばれてしまった。おかしい。学識豊かでもなく、人格者でもなく、政治的手腕に長けているわけでもない私がどうして選ばれるのか理由がわからない。どこかで何か人目に付くようなことをしたのだろうか。思うに、大小の会議にこまめに出席していて、そこでたいていは何かしら発言をしているので、そうした小さな自己顕示的行為の積分がこの結果を招いたのかもしれない。けだし口は禍の門である。教授会終了後、文カフェで入試の慰労会。にぎり寿司をぱくついていたら、ある先生から声をかけられ、ある役職を依頼される。まさか背中に「何でも引き受けます」と書かれた紙が貼られているのではないだろうな。帰路、あゆみブックスで関川夏央『おじさんはなぜ時代小説が好きなのか』(岩波書店)を購入。電車の中で読む。私は時代小説は好きではないが(一種の食わず嫌いである)、関川夏央の文章は好きである。

 

3.3(金)

 モバイル社会研究所主催のシンポジウム「未来体験と交響する英知」を見学に初台まで行く(於.東京オペラシティータワー内NTTコミュニケーション・センター)。お目当ては鈴木謙介氏(国際大学グルーバル・コミュニケーション・センター研究員)の報告「モバイル社会における身体・コミュニケーション・空間」である。期待通りの興味深い報告だった。当初の予定ではこれだけ聴いて帰るつもりでいたが、その後の、原田曜平氏(博報堂生活総合研究所研究員)の報告「ケータイ・アフター世代におけるコミュニケーション」、江渡浩一郎氏(産業技術総合研究所研究員)の報告「ネットワーク上の複数の自我について」もタイトルに惹かれて聴いてみて、大いに触発されるところがあった。東京オペラシティータワーには今日初めて来たが、エントランスホールの床の上に立像が台座なしで直接置かれているのは不思議な光景であった。

 夜、日本アカデミー賞の授賞式をTVで観る。『ALWAYS 三丁目の夕日』が全13部門中の12部門を独占した。例年、日本アカデミー賞は一つの作品に受賞が偏ることが多いが、いくらなんでも偏りすぎである。ちゃんと審査しているとはとても思えない。これでは他の作品の関係者は馬鹿馬鹿しくてやってられないのではないか。唯一、受賞を逃したのが主演女優賞であるが(『北の零年』で吉永小百合が4度目の受賞)、これはこれで小雪の立場がないではないか。

 深夜、フィールドノートの更新をしようと思ったら、ftpがホストコンピューターに接続しない。調べてみたら、ワセダネットのシステム変更の準備に伴って3日午前9時から10日午前9時までの間、教員用WWWコンテンツの更新ができなくなるということがわかった。早くに気づいていたら、昨日のフィールドノートでその旨を断っておいたのだが、すでに後の祭りである。何の断りもなく1週間も更新が途絶えるとなると、「あれ、どうしたのだろう?」と常連の読者の方々は思うに違いない。それでも現実世界で顔を合わせる人たちの場合はいいが(会ったときに説明できるから)、そうでない人たちの場合は憶測が憶測を呼んでとんでもないことになるかもしれない。

 

3.4(土)

 4年生のAさんが卒論のコピー(保管用)をもってきてくれたので、五郎八で一緒に昼食。私はいつものように天せいろ、彼女は鴨せいろ。天せいろの海老天が3本(普通は2本)だったので、思い切って女将さんに、「2本のときと3本のときがありますね・・・・」と尋ねたところ、「お馴染みのお客様にはサービスで3本なんです」とのこと。やっぱり。そうじゃないかなとは思っていた。ただし、今日のように少し時間が外れていて、他のお客さんがいない場合という条件が付くようだ。そりゃそうですよね。

 夕方から早稲田社会学会の理事会。学会でリーフレットを出版しようという企画が進んでいて、そのラインナップが示される。知らないうちに私が2冊書くことになっているので、びっくり。しかも、その2冊とも第一陣として来年4月までに刊行予定となっている。ということは、今年の夏休みに原稿を書かなくては間に合わないではないか。リーフレットなので1冊あたりの原稿枚数は400字詰原稿用紙換算で120枚〜150枚と卒論並だが、それでも2冊はきつい。それになにより今年の夏休みは『清水幾太郎と彼らの時代』の前半部分の執筆を予定しているのである。無理、絶対に無理ですから。

 夜、自宅に知り合いの大学の先生から電話。珍しい、何かあったのだろうかと思ったら、娘さんが早稲大学の第二文学部と人間科学部に合格して、どちらに行くべきか一家で悩んでいて、その相談の電話だった。ご当人たちにとってはハムレット的問題なのであろうが、なんだかほほえましかった。

 深夜、今日が締め切りの調査実習の報告書の原稿が次々とメールで送られてくる。0時3分前のFさんはギリギリセーフ。0時1分過ぎのWさんは残念、アウト・・・という無慈悲なことはしません。でも、これがもし「走れメロス」だったらメロスの親友の首は飛んでいたところだ。

 

3.5(日)

 終日、調査実習の学生たちが書いた原稿のチェック。その合間に、種々雑多な用件のメールの処理。本当は自分の原稿の仕上げをしないとならないのだが、そちらの方まで手が回らない。この一週間は調査実習の報告書の編集作業のために2、3日時間を割かねばならない。学生たちに参加できる曜日をメールで尋ねたところ、時間をやりくりして参加しようという学生がきわめて少数であることに愕然とする。どうも編集は私の仕事で、自分たちの仕事はもう終わったと思っているようだ。報告書の作成というのは、原稿の執筆だけでなく、編集も含まれるわけで、当然、それは学生の仕事で、教員はそれを指導するのである。それがわかっていない。就活や受験勉強で忙しくてお手伝いできませんが頑張ってください、と私を励ますメールを送ってくる者までいた。これには呆れて、心得違いを正すメールを返そうと思ったが、やめておいた。こういうことは箸の使い方や鉛筆の持ち方と同じで、注意して簡単に治るものではない。その人の生き方の一部として身体化しているもの(ハビトゥス)なのだ。本人に悪気はなく、主観的には「私は頑張っている」と思っているのであろう。「頑張ることはよいことだ」という努力信仰は、近代日本の発展を支えてきたエートスである。しかし、努力というものには、他者のためにする努力と自分のためにする努力の二種類がある。現代の若者文化の中にも努力信仰は存続しているが(挨拶がわりの「がんばってね」「がんばります」)、その内実は、他者から感心されることはあっても感謝されることのない、自己完結的な努力なのである。

 昨夜、清水幾太郎の一人娘だった清水礼子氏(青山学院大学名誉教授)が亡くなった。享年70歳。彼女は『清水幾太郎著作集』(講談社)の編集責任者で、その第19巻所収の詳細な「目録」は感嘆するしかない仕事である。合掌。

 

3.6(月)

今日から『清水幾太郎と彼らの時代』の執筆メモとしてブログを始めることにした。きっかけは二冊の本。今日、くまざわ書店を覗いたら、ミネルヴァ書房の日本評伝選(というものがあるのを今日知った)の新刊『狩野芳崖・高橋由一』があったので、どんなラインナップなのだろうと後ろのページの見てみたら、竹内洋が『清水幾太郎』を書くことになっているのを知ってびっくりした。刊行の時期は記されていなかったが、清水生誕100年にあたる来年を目処にしていることは間違いないだろう。これはのんびりしてはいられないと思った。もう一冊は、くまざわ書店で購入した梅田望夫『ウェブ進化論−本当の大変化はこれか始まる』(ちくま書房)。購入してすぐルノアールで読んだのだが、その中で著者は「ブログこそが自分にとっての究極の『知的生産の道具』かもしれない」と書いている。たしかにそうかもしれない。考えたこと、文献の抜き書き、インターネットで収集したデータ、そうしたことがらを時系列的にメモしていって、それをあとから検索して(この機能が重要!)活用できるわけだ。いや、それ以前に、ブログであるから、「清水研究」を日々継続的に進めていくための推進装置として作動してくれるのではないか、そう考えたのである。いずれこのフィールドノートも専用のブログを開設してそちらに引っ越すかもしれない。バックナンバーが3年5ヵ月分ともなると、過去の記述を探そうとして、いつ頃書いたか思い出せないことがときどきあるのだ。

 

3.7(火)

 メーヤウで昼食(タイ風レッドカリー)をとって、午後1時からの新学部基礎演習ワーキンググループの会合に臨む。今日もいろいろとアイデアが出て、実現に向けての段取りを詰める。数ある会議体の中で一番小回りが利いて、かつ生産的に活動している会議体ではなかろうか。艦隊に喩えると、高速巡洋艦のようである。ほかの会議もみんなこんな風であったらと思う。

昨日、学生部副部長の松園先生(西洋史)からメールで学生部が出している雑誌『新鐘』の編集委員を依頼され、引き受けたのだが、今日さっそく担当の方が研究室に来て、この秋刊行予定の『新鐘』73号の内容(台割案)について説明を受ける。テーマは「働く」だそうだ。見ると、企画の中に私へのインタビューというのがあって、「人は何のために働くの?」という素朴な疑問に「人生の物語」の社会学の視点から答えるとなっている。そうか、答えなくちゃいけないんだ・・・・。でも、はたして「人は何のために働くの?」というのは素朴な疑問といえるのだろうか。むしろ高次な疑問ではないだろうか。三木清が『人生論ノート』の中で、胃が健康な人間は胃について考えない、胃について考えるのは胃の調子が悪い人間である、同様に、幸福な人間は幸福とは何かと考えたりしない、考えるのは不幸な人間である、というようなことを書いている。さまざまなことに「意味」を求めるのは一種の病である。近代人固有の病である。

 夜、高田馬場のお好み焼き屋で二文の基礎演習クラスのコンパ。花束とチョコレートとメッセージカードをいただく。「たかじclub」とは彼らが使っているメーリングリストのアドレスなのだそうだ。1年前は「たまごクラブ」だった彼らも、いまでは「ひよこクラブ」くらいにはなった。これから先、たくましく育っていってほしい。

 

3.8(水)

 とくに急ぎの仕事がないときは、「清水幾太郎と彼らの時代」のブログの更新を一日の最初の仕事とすること。外部の要請に基づく仕事を優先していると、それで一日が終わってしまう。社会関係の網の目の中に組み込まれて生活している以上、外部の要請には応えなくてはならないが、しかし、他者は私の「やらなくてはならないこと」の総量が一体どれくらいなのかなんてことに気を配りながら新たな要請をしてくるわけはないのである。という組織に属する他者は、私がAという組織の中でどのくらいの仕事を抱えているかは知っていても、BやCやDといった他の組織の中で私が抱えている仕事のことまでは知らない。塵も積もれば山となる。だから「やらなくてはならないこと」の山に埋もれて、「やりたいこと」が後回しにされ、その揚げ句に、それが本当に「やりたいこと」だったのかどうかも分からなくなってしまうという事態に陥らないためには、第一に、要請を断って他者の不興を買う覚悟が必要だし、第二に、「やらなくてはならないこと」を処理しながら「やりたいこと」をやる時間を確保する工夫が必要である。「やりたいこと」を一日の最初にある程度やってから、「やらなくてはならないこと」に取りかかるというのが私の方法論(というほど大袈裟なものではないが)である。

時間の使い方について説いた本には、たいてい、一日の最初に「やらなくてはならないこと」をやれと書いてある。母親が学校から帰ってきた子どもに「まず宿題をやりなさい。それから遊びなさい」と言うのに似ている。しかし、この方法が有効なのは、宿題が比較的短時間で終わらせることのできる場合に限られる。宿題が大量であれば、それを済ませたらもはや就寝の時刻で、遊ぶ時間なんてないのである。母親はきっと言うだろう、「平日は勉強をして、土日に遊びなさい」。しかし、週末には月曜日までにやっていかなくてはならない宿題が出るのである。母親はきっと言うだろう、「夏休みになったら思いきり遊びなさい」。しかし、夏休みには夏休みの宿題というものがあるのだ。過剰な宿題を抱えた人間(子どもであれ大人であれ)にとって、宿題を優先する生き方は、宿題以外の人生の領域を退ける生き方である。「定年後の第二の人生」という思想(言葉は思想である)もこうした生き方の延長線上にあるもののように私には思える。

 「まず宿題をやりなさい。それから遊びなさい」という方法が、大人にとって必ずしも有効でないと私が考える理由はもう一つある。宿題を済ませた後にやりたいことは遊びであるとは限らないということである。「仕事vs遊び」という図式は一つのものの見方にすぎない。たとえば、仕事よりも家族と過ごす時間を大切にしたいと考える人がいる。その人にとって、「家族と過ごす」ことは「遊び」ではないだろう。私にとって「清水幾太郎と彼らの時代」というプロジェクトは、「仕事」といってもよいが、外部の要請に基づいた仕事ではなく、内発的な欲求に基づいた仕事である。もしそれを怠っても誰も私に対して文句を言わないが、私自身は忸怩たるものがを感じる、そうした仕事である。大人の日々の生活は「仕事vs遊び」という図式で処理できてしまうほど単純なものではないのである。

 一日の始まりに「清水幾太郎と彼らの時代」のブログを更新し(「やりたいこと」を放置しない)、一日の終わりに「フィールドノート」を更新する(今日はこういう一日だったと人生のある一日に輪郭を与えてやる)。そしてその中間の時間帯は「やらなくてはならないこと」にきちんと取り組む。そういう大人に私はなりたい。

 

3.9(木)

 昨日は上着が必要ないほどの暖かさだったが、今日はまた寒さが戻った。こうやって押したり引いたりを繰り返しながら季節が入れ替わっていくのだろう。昨日のフィールドノートに書いた通り、朝一番の仕事である「清水幾太郎と彼らの時代」のブログを更新しようとしたら、サーバーにアクセスできず、せっかく書いた記事がパーになった。あれれ、と思いながら、ココログからのお知らせの欄を読むと、3月2日に「メンテナンス内容変更」という記事が出ており、3月9日の10:00から15:00までの5時間、メンテナンスが行われ(これは知っていた)、予告されていたココログデザインのほかに記事の書き込みもできなくなると書いてあった。時計をみると10:20である。記事をアップするのが20分遅かった。けっこう長めの記事だっただけにショックである。途中で「下書き」保存をするのだった。まあ、しかたない、こういうこともあると自分に言い聞かせ15:00になるのを待って、再びログインしようとしたら、作業に時間がかかっているため作業の終了が15:00から18:00に延長と表示されているではないか。こういう段取りの悪さはウンザリする。ちゃんと仕事をしてくれと言いたくなる(思わずそうメールしようかと思ったくらいだ)。結局、17:30には復旧していたので、午前中に書いた記事とほぼ同じ記事を書いてアップロードしたが、朝一番の仕事が夕方の仕事になってしまった。

 夜、調査実習の報告書の修正原稿がメールでバタバタと送られてくる。今日が最終締め切りなのだ。その場で読んで、書式をチェックする。もはや内容についてあれこれ注文を付ける段階ではない。これが各自の、および各班の限界なのだと了解する。あとは編集係を買って出た学生たちに全部の原稿をもう一度丹念に読んでもらって、日本語としておかしなところがないかをチェックし、原稿の配列を決め、私が「はしがき」と若干の解説を書き、通しページを打ち、目次や表紙や奥付を作成したら、版下完成である。報告書のタイトルは、『ポピュラーカルチャーとライフストーリー』にしようと考えている。

 

3.10(金)

 *ただいま午前9時を少し回ったところ。1週間ぶりのフィールドノートの更新です。更新できなかった理由は、3.3(金)のところをお読み下さい。健康上の理由でも、家庭の事情でも、職場でなにか不祥事を起こしたわけでもありません。更新ができない間も、書いてはいたので、いま、1週間分をまとめてアップロードしました。

 

 成文堂書店で『文藝春秋』4月号を購入。村上春樹「ある編集者の生と死―安原顯氏のこと」を真っ先に読む。安原顯との確執のことを村上がとうとう文章にした。彼はこのことは自分の胸の中にしまって墓場まで持っていくつもりでいると私は思っていたが(実際、そういうことを村上はどこかで書いていた)、今回、彼が80年代に書いた自筆の原稿が安原によって市場に流出し高値で売買されていることが発覚したため、忍耐の限度を越えたのだ。ただ、村上の新人時代から彼の熱烈な支持者だった安原がなぜある時期から(具体的には『ねじまき鳥クロニクル』のあたりからか)激烈な批判者に転じたのかは村上自身にもわからないようで、生原稿流出事件の経緯よりも、そちらの問題に関心のあった私にはいまひとつもの足りない感じが残った。やはり村上には生臭い話を生臭く書くことは難しいのではないかと思った。

 夜、高田馬場の中華料理店「揚子江」で、正岡先生御夫妻と「正岡先生と35年を語る会」の世話人たちの会食。明治学院大学の渡辺雅子先生が私の顔を見るなり、「フィールドノートがこのところ更新されていないので、お父様の容態が悪くなって入院されて、大久保さんも病院に泊まり込んでいらっしゃるのかと心配していました」とおっしゃった。かなりリアルな憶測である。私の案じていた通り、予告なしで一週間も更新がないと、こういうことになるのである。それにしても渡辺先生がフィールドノートの熱心な読者であることを今日初めて知った。私の食生活や読書の傾向や学生指導のやり方について熟知されていて、いろいろと感想を述べていただいた。「お忙しくしていらっしゃるのに、散歩や映画や読書やジム通いなどもしてらして、どうしたらそういう余裕が生まれるんですか?」と質問され、私が「先生もブログを始めたら余裕のある生活ができるようになります」と答えたら、「?」という顔をされたので、「ブログを書くということは自分の生活を人目にさらすことですから、余裕のある生活を演じようという気になるものです」と説明をした。渡辺先生はこのたび社会学部長になられたとのことなので、「学部長日記」なんていかがですかと勧めておいた。

 帰宅してメールをチェックするといつもよりかなり少ない。もしかしてワセダネットのシステムが新しくなったことと関係があるのかと思い(私は自宅ではBIGLOBEのメールを使っており、ワセダネットのメールアドレスに届いたメールはBIGLOBEの方に転送されるよう設定している)、調べてみたら、案の定、システムの移行に伴って、旧システムのときの転送設定は無効になっていた。改めて転送設定をする。しかし、このことを理解していない学生は多いのではなかろうか。混乱が生じないか心配だ。

 

3.11(土)

 昼から大学へ。午後1時から研究室で調査実習の報告書の原稿の編集作業。本日の担当はO君、Mさん、Oさん、Kさんの4名。報告書のボリュームは、班の原稿が139頁分、個人の原稿が178頁分で、合計317頁。これに目次やら前書きやらが加わって合計330頁の予定である(印刷すれば500頁を越えるインタビュー記録はCDに収めて報告書に添付する)。まずは班の原稿の校正。5つの班の原稿をそれぞれ2人の人間が目を通し、日本語としておかしなところがないか、表記の不統一なところはないかをチェックし、修正箇所に付箋を貼っていく。私は最初にやり方を説明して、午後1時半からの会議(日本家族社会学会の全国家族調査委員会)に出かけ、4時頃に戻ってくる。班の原稿の校正は夕方には片が付き。続いて個人レポートの校正に入る。ただしこちらは全部の原稿(26本)を一回読んだ時点で8時を回ったので、本日の作業はここまでとして、二回目のチェックは14日の作業に引き継ぐ。

個人レポートの問題箇所は、予想に反して、インタビュー記録の引用部分に多かった。インタビュー記録からの引用はカットアンドペーストで行っているものと思っていたが、なかには直接キーボードで打ち込んだと思われる原稿もあり、そうするとそのときに打ち間違いが生じる。また、インタビュー記録そのものの校正が不十分でインタビュー記録のミスがカットアンドペーストでそのまま原稿に反映している場合もあった。インタビュー記録を引用する際の「中略」の仕方が不適切なために意味が通じにくいケースもあった。つまり、引用元のミスなのか、引用過程のミスなのか、一々インタビュー記録に戻って判断しなくてはならないので、やっかいである。引用元のミスであった場合には、修正は当該の原稿だけに留まらず、そのインタビュー記録を利用している他の原稿にも影響が及んでいる可能性があるため、要注意である。

 作業を終えて、ホドリ(焼き肉屋)で食事。全員腹ぺこであったが、そこは女子学生、そんなには食べられない。序盤はかなりのハイペースであったが、終盤、追加注文した肉は私の判断ミスであったかもしれない。店を出るとき、「明日はパンにしよう」と誰かが言っていた。

 

3.12(日)

 暖かだが、風の強い一日だった。川越から妹が父の見舞いにやってくる。風がなければ、母と三人で池上の梅園にでも出かけたいところだったのだが、月に叢雲、花に風である。

 『文藝春秋』4月号の、紀田順一郎と御厨貴と坪内祐三の鼎談「日記読み達人が選ぶ三十冊」を読む。作家が書いた日記の双璧は『断腸亭日乗』(永井荷風)と『高見順日記』だが、喜劇役者の古川ロッパの日記(『古川ロッパ昭和日記』)も面白さにおいてこれに引けを取らない。

 

 御厨 ロッパで面白いのは、楽屋に結構高価な食べ物を貰って、普段だったらみんなにくれてやるのを、ふっと持って帰ろうか思った自分が卑しい、とか書いてある(笑)。

 紀田 そういうことをあけすけに漏らすんです。

 坪内 戦前は人気絶頂だったロッパも、戦後になると、だんだん落ちぶれていくわけですよ。ちょうど今の天皇のご成婚のときに新宿のコマか何かの舞台で出てる。劇場の地下の寿司屋に行って家族で食べてて、その寿司が練りわさびだっていうんで、自分もずいぶん落ちぶれたと書いている。

 紀田 羽振りのよかった芸人が、そういう食べ物のちょっとした落差によって自分が落ち目だということを感じていく。その徐々に人生が下降していく様子がたまりません。どんな文学作品もかなわないですね。

 

 なるほどねえ・・・・。私のフィールドノートにも食べ物の話はよく出てくるが、後から読み返すとそこに人生の浮沈が見てとれるのだろうか。「報告書の編集作業を終えて腹ぺこの学生たちにコンビニで買ってきた握り飯を一人二個ずつ差し入れた」なんて記述がそのうち出現するかもしれない。あるいは反対に、「報告書の編集作業を終えた学生たちをタクシーに乗せて人形町の今半に連れて行き、すき焼きを腹一杯食べた」なんてことになるかもしれない。

坪内が紹介していた浮谷東次郎『オートバイと初恋と』という将来を嘱望されながら23歳の若さで練習中の事故で死んだレーサーの日記を読んでみたいと思い、「日本の古本屋」で検索したら、単行本が1500円、文庫本が1000円で出品されていた。文庫本の方が安いからではなく、解説が付いていて資料として役立つことが多いので、文庫本を注文することにした。その前に文庫本ならAmazonのマーケットプレイスにユースド商品が出品されているかもしれないと調べてみたら、なんと70円で数冊出品されていた。もちろんこちらを注文。どうしてこんなにも価格が違うのかというと、「日本の古本屋」に登録しているようなちゃんとした古本屋は、その文庫が現在は品切れや絶版になっているかどうかをちゃんと調べていて、『オートバイと初恋と』(ちくま文庫)は定価は588円であるけれども現在版元では品切れとなっているので、定価よりも高い価格設定にしているわけである。しかしリサイクル本屋の場合は、一々そんな面倒なリサーチはしておらず、薄利多売でやっているので、機械的に定価の何割引きかの価格を付け、一定期間のうちに売れなければどんどん価格を下げていくのである。清水幾太郎『わが人生の断片』上下(文春文庫)を「日本の古本屋」で検索したら高原書店からセットで2000円で出品されていたので、注文する。ちなみに、Amazonのマーケットプレイスでは上巻のみが700円で出品されていたが、上巻のみでは意味がない。古本屋とリサイクル本屋は似て非なるものである。両者の特性を心得て、両方とも活用することである。

 

3.13(月)

 昼食(トースト1枚とチョコレートパン1個)の後、ジムへ行く。軽めの負荷で筋トレを2セットと時速6キロのウォーキングを1時間(牛丼あるいは鰻丼一杯分のカロリーを消費)。有隣堂で「村上春樹翻訳ライブラリー」から3冊(レイモンド・カヴァー『頼むから静かにしてくれ』T・U、『月曜日は最悪だとみんなは言うけれど』)、枝川公一『バーのある人生』(中公新書)、速水俊彦『他人を見下す若者たち』(講談社現代新書)を購入。カフェ・ド・クリエで読む。

私はアルコール類を嗜まない。したがってバーへ行ったことはない。しかし小説やエッセーや映画やTVドラマを通し、バーという場所についてある程度は知っている。知識はあるが体験はないわけだ。『バーのある人生』の著者によると、そこは格別の場所であるらしい。

 

 お酒を飲みたいというだけだったら、酒屋へ行き、好きなものを買ってきて、自分の家で飲むのが手っ取り早い。あるいは居酒屋や小料理屋、あるいはカフェ、パブ、スナックなどなど、日本にはお酒を楽しむことのできる場所は無数にある。ありすぎるほどある。…(中略)…

 同じくお酒を飲むとして、バーとその他の酒の場との間には、大きなちがいがある。バーのドアを開けて入れば、外界とはまったく隔絶された空間がある。だから、バーの扉は厚く、内部がまるで見えないか、あるいはかなり見えにくいようになっている。店の内部は多くの場合、入り口から全体が見渡せる程度の小さなスペースである。カウンターでもテーブルでも、席を占めれば、とりあえずこの空間の住人として認められることになっている。他に客がいても、邪魔されることはない。安心していられる。それはひとりの場合でも、だれかと一緒であっても変わらない。…(中略)…

 バーにいる間、いまこのとき、という時間、過ぎていこうとしている、きょうという時間を思い切り楽しむ。記憶にとどめられた時間は、別なときに引き出してきて、反芻し、ふたたび味わう。もちろん、こうして時間を買えるのはバーだけではないであろう。しかし、外とは隔絶した、閉じられた空間であるだけに、珍しくも時間が純粋な形で過ぎていくのである。…(中略)…

 人は、バーの扉を開けて入れば、別の時間のなかに身を置く特権を獲得する。そのためにバーにやってくる。バーに知り合いとふたりでいて、いまはもうこの世にいないバーテンダーの話題が出たことがある。突然で虚を衝かれる思いがした。しかも相手は生前のバーテンダーが「ウチは風を売っている」と語ったと告げる。時間といい風といい、目に見えはしないけれど、その存在は強く感じられる。

 バーの時間に取り込まれ、そこに吹き抜ける風にもてあそばれる。それこそ至福の時間というものであろう。

 

 「閉じられた空間」と「純粋な時間」というのがバーという場所の本質であるらしい。私の生活空間の中では、大学の中央図書館3階の雑誌バックナンバー書庫や地下の研究書庫がこれに似ている。ただし、その空間は閉じられてはいるが決して小さくはない。バーテンダーに相当する人間もいない。無論、飲食やお喋りは禁止だ。喫茶店、たとえばカフェ・ゴトーはどうか。照明は暗めとはいえ、窓は大きく、外界と隔絶しているとはいえない。お客たちの交わす会話も世俗の話題を引きずっている。では、地下にある茜屋珈琲店ならどうか。外界との隔絶という点は申し分ないが、いかんせんマスターが喋りすぎる。シャノアールは雑然としすぎている(でも、本を読むにはいい)。最もバー的な喫茶店は、倉本聰のTVドラマ『優しい時間』に登場する富良野の喫茶店「森の時計」であろう。

 東急プラザの海老屋総本舗で佃煮(角煮とでんぶ)を購入。ユーハイムで家族への土産のケーキ、メリーチョコレートで妻への土産(ホワイトデーの贈物)のチョコレートの詰め合わせを買って帰る。

 

3.14(火)

 午前11時から研究室で調査実習の報告書の編集作業。本日の担当はHさん、Nさん、Uさん、Kさんの4名。個人レポートの校正作業。11日の編集作業のときにひとわたりチェックは済んでいるが、再度、改めて全部を読み直す。違う人間が読み直すと新たにミスが見つかるものである。それを修正してプリントアウトしたものを、念のために、さらにもう一度(都合三度)読んでもらうと、またまた新たにミスが見つかる。長らく風呂に入っていなかった人を垢擦りしてやっているような感じで、いくら擦っても垢が出る。岩波書店から出る本には誤字脱字の類がないという話を聞いたことがあるが、もしそれが本当だとすれば(神話のような気もするが)、戦慄を覚えますね。昼食は五郎八。作業は午後4時半まで続ける。個人レポートの読み直しは終わったが、付録のCDに収めるインタビュー記録の編集が残っている。16日ないし17日に編集作業を行うので、参加できる者は名乗りをあげてくれるようクラス全員にメーリングリストを使って連絡する。レスポンスが鈍いのは、ワセダネットが新システムへ移行したのを知らず、メールを見ていない学生が多いせいだろうか? 以下のメールが、今日、メディアネットワークセンターから届いた。

 

Wsededa-netメールにおいてメール転送設定をされていた方へ

メディアネットワークセンター

3月10日 9:00 a.m.を持ちまして、Waseda-netメールは新システムへ移行されました。

以前よりお知らせしていました通り、旧システムにて設定していたメール転送先については新システムには引継がれません。Waseda-netポータルログイン後の「重要なお知らせ」に記載している転送設定方法をご参照のうえ、新システムでの再設定をお願いいたします。

なお、システム変更後に配信されたメールについては、新Webメール内に保存されていますので、あわせてご確認ください。

 

しかし、このメールは新しいシステムの方の受信箱にしか届かないわけだから、システムが移行したことを知らない(当然、転送の再設定もしていない)学生や教員は読むことができない。読むことができるのは、きちんと転送の再設定をした学生や教員である。情報はそれを必要としている者のところへ届かなければ意味がない。

夕方、ファイナンス研究科をこの3月で卒業するHさんが研究室に顔を出したので、カフェ・ゴトーにお茶を飲みに行く。仕事(ドイツ証券)の傍らの勉強は大変であったろう。微分や積分の勉強には面食らったが、社会学専修の学生だった頃、ちんぷんかんぷんであった社会統計学の数式も、「いまなら理解できます」と言っていた。これからのことを尋ねたら、海外勤務(インドが有力)の可能性について語りながら、「仕事以外の可能性を語れないのが残念ですが」と言って笑っていた。

 夜、この4月から日本語・日本文化専攻のドクターに進むTさんと、来年、社会学専攻のドクター試験に再チェレンジするAさんが、研究室に顔を出したので、二人の案内で大隈講堂の裏手にあるアジアン・ダイニング・カフェという店に行く。私は普段こっちの方にはほとんど来ないので、こんな場所にこんな店があることを初めて知った。ベトナムやタイや中国の屋台料理中心のメニューだが、日本人の味覚に合うように工夫がされている(たとえば私が最後に食べた胡麻団子は和菓子に使うこし餡が使われていた)。値段は手頃で、店内は小綺麗で、女性の店員の穏やかな感じもいい。TさんやAさんは研究会(「乙女研」とか言っていた)の後、よくこの店を利用するのだという。ドクター的生活についてあれこれおしゃべり。

 帰りの地下鉄で、大学院の私の演習に顔を出していた日本語・日本文化専攻ドクター2年のUさんと一緒になる。この4月から人文専修の助手になるそうだ。それはおめでとう。院生→助手→非常勤講師→専任講師という階段を一つ上ったわけだ。私が人文専修の出身であることは知らなかったようで、それを言うと、びっくりした表情で、「えっ、そうなの?!」と周りの乗客に聞こえるような大きな声を上げたのでちょっと恥ずかしかった(おまけになぜかタメ口風だし)。

 

3.15(水)

 お昼にヘルパーさんと一緒に父を風呂に入れる。「湯疲れ」という言葉があるが、寝たきりの老人にとって入浴はかなりの運動である。「ああ、疲れた」と言って夕方までぐっすり寝ていた。ベランダに出て、「お〜い」と呼ぶと、余所に遊びにいっていた猫たちが、何かもらえると思って、飛んで来る。仔猫の一匹が、私が椅子に腰を下ろしてハムを千切って与えようとするのを待ちきれずに、私の手からハムを奪い取ろうとして、私の指を爪で引っ掻いた。飼い猫と違って、野良猫は爪を隠すということができない。引っ掻かれた箇所から血が溢れた。絆創膏をしっかり貼って止血する。仔猫は自分がいけないことをしたという自覚がない。ハムを無我夢中で食べている。母猫は仔猫が不始末をしでかしたということがわかったらしく、恐縮したような顔をしている。

 高原書店から『植草甚一日記』(晶文社、1980)が届く。1945年の1月から8月までの日記と、1970年の1年間の日記が収められている。1970年の方を先に読む。あれこれの原稿の〆切に追われながら、本や雑誌を読み、映画や演奏会に出かける日々の記録で、話題が社会的出来事に及ぶことはほとんどない(3月31日のよど号乗っ取り事件と、1125日の三島由紀夫の事件くらいである)。原稿を書くのはたいてい夜中から明け方にかけてで、起きるのは午後になることが多い。「あさの十二時」なんて表現も出てくる。「ひるの十二時」ではなくて、「あさの十二時」である。植草甚一は下戸だったのだろうか、珈琲やお汁粉を飲んだことは書かれているが、お酒の話はめったに出てこない。36年前の今日の彼の日記を引いておこう。

 

三月十五日(日) 晴、夜雨になる

 きのうと同じように寒い。二時に起床。常態に復帰。下高井戸の靴屋へ行くが、注文してのがまだ来ていない。スシ屋でトロの刺身二人前一四〇〇円、帰るまで四軒の古本屋で三冊買い(二七〇〇円)ついでにヒヤシンスの芽の出かかったのを買って帰ったら、五時間ぶらついていた。食事したら九時半になっている。もう少し遊んでから仕事にかかろう。

 

 彼がこの日記を付けていた頃、私は中学校を卒業した。無論、植草甚一なんて名前は知らなかった。しかし当時の大学生の間では彼の雑学と散歩のスタイルが人気を集めつつあった。大学紛争の嵐が去って、カルチャーの季節がやってこようとしていた。

 

3.16(木)

 昼食の後、WBCの日本対韓国戦をTV観戦。スコアボードに0が並ぶ緊迫した試合だったが、結局、2−1で韓国が勝った。それにしても日本ベンチに終始漂っている悲壮感は観ていて辛かった。負けられない、負けるわけにはいかない、そうした重圧が監督や選手たちの顔を強ばらせていた。一体感と闘争心に溢れつつもどこかリラックスした感じの韓国ベンチとは好対照であった。そういえばアテネ五輪のときの日本野球チームにも同様の雰囲気があった。日の丸を背負って戦うということはそれほどまでに重苦しいものなのか。しかし国民の期待を背負って戦っているのはどの国の選手も同じであろう。日本の選手は精神的に弱いのか。先日のトリノ五輪に出場した日本選手達も、「楽しんでやれました」という言葉をまるで合い言葉のように唱えていたが、TVの画面を通して観た限りでは、みんな悲壮な表情をしていた。一番現代っ子らしく見えたスノーボードのハーフパイプの少年少女たちも、難度の高い技に挑んで失敗しては雪面に顔を埋めて泣いていた。あれほどの落胆ぶりは他の国の選手には見られないものだった。そしてインタビューのマイクに向かって、次の五輪での雪辱を早くも誓っていた。雪辱のために4年間頑張るのか。武士の仇討ちのようではないか。とにかく悲壮である。彼らが悲壮感を漂わせるのは、われわれが悲壮を好むからである。そしてわれわれの悲壮好みはメダル至上主義と表裏一体のものである。メダルを期待され、しかし力及ばず、あるいは不運にしてメダルに手が届かなかった選手は、メダルの代わりに悲壮感を手に入れるのである。

 夜、風雨いよいよ強まる。明日はこの風雨の中を大学に行かねばならない。調査実習の報告書の編集がまだ終わっていないのである。参加予定の学生は5名。同じような顔ぶれでやっている。悲壮というべきかもしれない。

 

3.17(金)

 午後1時から研究室で調査実習の報告書の編集作業。本日の担当はKさん、Hさん、O君、S君、F君の5人。インタビュー記録(52名分)の校正。元々が話し言葉であったものを文字にしたものであるから、主語と述語が対応していないとか、挿入句や反復が多くて読みづらいといったことはある程度しかたがないが、明らかなミスタッチや変換ミスは見逃せない。作業が終了したのは9時近く。それから先週と同じ焼き肉屋「ホドリ」に食事に行く。女将さんがわれわれを覚えていて(メンバーは同じではないのだが、女将さんには同じに見えたのであろう)、海老やら韓国海苔やらをサービスしてくれる。先週は土曜の夜に来て、今週は金曜の夜に来たわけだが、いずれもわれわれ以外に客は一組しかおらず、商売繁盛とはいえないようである。先週は終盤に肉を追加注文してやや持て余したので、今日は満腹の一歩手前で止めておいて、冷麺で締めることにした。焼肉と冷麺の組み合わせは、誰が思いついたのかは知らないが、いつも感心する。帰宅して、WBCのアメリカ対メキシコ戦の結果を知る。こんなこともあるのか。王監督の「神風が吹いた」というコメントにはちょっとドッキリ。編集作業でペンディングになっていた箇所を忘れないうちに片付けてから、風呂を浴び、就寝。

 

3.18(土)

 TVドラマ『愛と死をみつめて』の前編を観る。1964年に映画化およびTVドラマ化された作品で、当時、小学校4年生だった私は大空真弓と山本学の主演のTVドラマを観て感動した覚えがある。何しろ「愛と死」である。これ以上はない最強の組み合わせである。われわれの社会は愛情に至上の価値を置く愛情至上主義社会である。しかし、向かうところ敵なしの愛情にも弱点がある。それは持続性の問題である。愛情は移ろいやすい。結婚式のときに新郎新婦が「永遠の愛」を誓うという行為は、逆説的に、「永遠の愛」というものの不可能性の表明になっている。実際、結婚生活における夫婦間の愛情を重視する社会ほど、離婚率は高いのである。愛情の弱点である移ろいやすさを克服する唯一の方法は、時間を停止させること、「いま、この瞬間」の永久化である。写真にはそれに似た機能がある。しかしどれほど写真を撮ろうと、現実の時間を停止させることはできない。現実の時間を停止させることのできるものは死だけである。もちろんAさんが死んだ後も世界は存在し続けるわけだが、それはAさんの存在しなくなった世界であり、Aさんの存在する世界はAさんの死の瞬間に消滅するのである。だから愛し合う二人にとって二人の愛を永遠のものにする究極の方法は心中である。心中に比べると、『愛と死をみつめて』の二人の場合のように、愛し合う二人のどちらか一方が死ぬという方法ないし事態は、愛の永遠化において不完全である。なぜなら残された一人は現実の時間を生き続けなければならないからである。事実、大島みち子の死から5年後、河野実が『愛と死をみつめて』の読者であった綿引潤子と結婚したとき、マスコミは彼の不実を批判したのである。今回のリメイク版は河野実がそうしたバッシングに遭う場面から話が始まる。リメイク版ならではの効果的な演出といえよう。ドラマの主要な舞台は大阪だが、大ヒットした『ALWAYS三丁目の夕日』を意識したのであろう、当時の大阪の街並みが再現されていて(東京タワーではなく通天閣!)、ドラマの本筋とは別に楽しめた。ところで大島みち子は同志社大学の「社会学科」の学生だったことを今回初めて知った。四年制大学へ進む女性が少なかった時代に、それも社会学科とは、ずいぶんと先進的な女性であったわけだ。60年安保闘争の興奮いまだ冷めやらぬ時代の「新しい女」だったのかもしれない。ジャーナリスト志望だったそうだから、もしかしたら清水幾太郎の文章の読者だったかもしれない。

 

3.19(日)

 自宅のベランダに毎日来ている二匹の仔猫、なつ(メス)とあき(オス)のうち、なつが首の所に怪我をしているので、つかまえて獣医に診せに行くついでに避妊手術もしてもらうことにした。手術は明日なのだが、手術の前は胃が空っぽでないとならないので、前日に捕まえて連れてくるように言われている。朝、餌をやるときに捕まえようとしたがうまくいかない。何やらいつもと違う気配を感じているのだろうか、手の届くところまで寄って来ない。昼に再びトライして、今度は捕まえる。それほど暴れることもなく、ネットに入れるとおとなしくなった。頭を撫でると、小さな声でニャーと泣くので、可哀想な気がしたが、野良猫と人間が共生していくためにはこうするのが最善なのだ(と自分に言って聞かせる)。そのままキャリーケースに入れて、妻が獣医のところへ連れて行った。

 昼食の後、妻と鶯谷にある大久保家の菩提寺に墓参りに行く。家を出るとき、WBCの準決勝、日本対韓国戦は2回の表裏を終えて0対0であった。経過が気になる。野球の試合の経過がこれほど気になるのは久しぶりである。2時間後、墓参りから帰ってくると、玄関の附近で犬の散歩をさせていて隣の家の奥さんが、私たちの顔を見るなり、「日本が勝ったわよ」と言った。それでもう試合は終わったものと思って、TVを付けたら、8回表の日本の攻撃の途中で雨のため試合は中断していた。得点は6対0で日本のリード。隣の奥さんは「日本の勝利は確実よ」と言うべきだったのだ。ほどなくして試合は再開され、韓国の8回裏と9回裏の攻撃をピシャリと封じて、日本の勝利が確定した。九死に一生を得た人間は強いということの見本のような試合であった。それにしても送りバンド失敗で嫌な流れになりそうなときに出た代打福留のホームランは値千金の一発だった。

 夜、『愛と死をみつめて』の後編を観る。みち子が同室の患者の依頼でウェディングドレスの仮縫いのモデルになるなんて話は原作にあっただろうか。リメイク版の創作だとすれば、ずいぶんとあざといエピソードを添えたものである。泣かせればいいという話ではないだろう。泣けたけど。「私に健康な日を三日下さい」というみち子の最後の日記はやはり胸を打つ。一日目は家族と過ごし、二日目は恋人と過ごす。ここまでは誰でも思いつく。三日目、一人になって思い出と遊ぶ。人生の最後の一日を一人で過ごすというのは本当に死を覚悟した人にしか思いつかない発想だと、42年前、小学生だった私は思ったが、その感想はいまでも変わらない。

 

3.20(月)

 気が付くと3月も下旬である。今年度中に片付けるべきいくつかの仕事を抱えながら、新年度の授業のことを頭の片隅で考えている。授業が木・金・土にあることは今年度と同じだが、3年連続で担当した調査実習を他の先生と交代したこと(代わりに2年生の演習Uを担当)、後期の土曜6限にやっていた「社会と文化」を前期の金曜6限に移したこと、「現代人の精神構造」という新しい科目を後期の金曜6限に開講すること、大きな異同はこの3点である。調査実習は一番時間とエネルギーを投入する科目なので、それがなくなるのは、正直、ホッとする。土曜日に講義3つは身体的につらかったので、それが2つになったのは、これもホッとする。「現代人の精神構造」は山田真茂留先生(社会学)、藤野京子先生(心理学)、御子柴善之先生(倫理学)とのジョイント・レクチャーで(チーム名は4人の頭文字を採ってMOFY)、私がコーディネーターを務めるのだが、ジョイント・レクチャーはひさしぶりなので、はたしてうまくいくかどうか(4人の話が有機的にリンクしてジョイント・レクチャーならではの効果が生まれるかどうか)、ちょっと心配である。かくして安堵2つに心配1つ。トータルでは今年度より授業はいくらか楽になるはずだが、問題は会議である。現在、引っ張り込まれている学内の会議体は、教授会は別として、12、3ある。今日も午後4時から6時半まで学生部発行の『新鐘』の編集打合せ会議があったが、もしもすべての会議が毎週1回開かれたとすれば、“会議毒”は簡単に致死量を超え、労災として認定されるであろう。

 

3.21(火)

 書斎のTVでWBCの決勝戦、日本対キューバを観戦。途中から息子もやってきたので、「アナウンサーは例の誤審の審判のネタを引っ張りすぎだよな」とか、「韓国政府は選手の兵役免除を発表するのが一試合早すぎたね」とか、あれこれしゃべりながら観戦。母によると息子は私と声がそっくりなので、もし母が書斎の外にいたら、私が独り言をいっているように聞こえたかもしれない。ああ、あの子も勉強のしすぎでとうとうおかしくなったか・・・・と。母はどんな本であれ私が本を読んでいれば勉強をしていると思い、メールであれブログであれ私がパソコンの画面に向かって何か打っていると学術論文を書いていると思っているのである。そうじゃないんですよ、お母さん、と一々訂正はしない。息子が大学教授になったことは母の自慢なのである。誤解は誤解のままでいいではないか。試合は10対6で日本の勝利。なんと優勝である。選手たちは一生分の親孝行をしたに違いない。

 昨日の夜、卒論ゼミのメンバーに初回のゼミの日時、場所についてメールで連絡した。しかし、ワセダネットのシステムの移行(3月10日午前9時以降、それまでの転送設定は無効になること、メールはすべて新システムの方の受信箱に届き旧システムの受信箱には届かないこと)を知らない学生もいると思われるので、「業務連絡」としてここにも書いておこう。

 

 第1回卒論ゼミ

 日時 4月13日(木)5限・6限

 場所 第4会議室(39号館4階)

 *すでに決めてある順番に従って、最初の3名が報告。1人あたりの報告時間は30分程度。レジュメを自分の分を含めて21部用意。第1ラウンドの課題は自分が取り組もうとしているテーマに関連した既存の文献のレビュー。12月の仮指導のときとテーマが変わっていることは構わない。

 

 ところで、これはメールには書かなかったが、実は、第4会議室には椅子が18脚しかない。しかるに演習メンバーは私を含めて21名である。したがって最後に来た3名は立っていてもらわないとならない(というのは嘘で、3階の私の研究室から椅子をもってきますから、ご安心を。でも、遅刻はしないように)。

 

3.22(水)

 午前、妻が動物病院から「なつ」を連れて帰ってくる。20日に避妊手術を受け、2泊してきたのだ。帰ってくる途中はキャリーケースの中でおとなしくしていたが、自転車が玄関先で止まり、見慣れた風景だと気付いたとたんにミャーミャーと鳴き始めた。その声を聞きつけて、きょうだいの「あき」がどこからか姿を現し、呼応するようにミャーミャー鳴き出した。「あき」は、この2日間、突然姿の見えなくなった「なつ」を探すように近所をミャーミャー鳴きながらうろついていたのである。気持ちとしてはきょうだいを早く対面させてやりたいところだが、獣医のアドバイスに従って、「なつ」は家でもう1泊させ(今夜は雨も降りそうなので)、明日、戸外に放つことにする。「なつ」はキャリーケースから出たがってしばらく鳴いていたが、しだいに落ち着き、私が水の入った皿を差し入れると、全部飲んだ。柵の間から私が指を入れると、引っ掻こうとしたりせずに、鼻の頭をすり寄せてきて、ゴロゴロと喉を鳴らした。ここは自分にとって安全な場所なのだということを理解したようである。

 午後から大学へ。社会学教室の会議の前に五郎八で腹ごしらえ。カウンター席について注文をしようとしたら、私が注文を言う前に、「天せいろでよろしいですか」と聞かれる。しかたなく「はい」と答えたが、自分の口から「天せいろ」と言いたかった。私は常連客のように振る舞うことも、常連客のように扱われることも、好きではない。「いつものやつを」なんていう注文の仕方はしたことがない。そういうのは羞恥心の欠如した下品な行為だと私は思っている。最後の天ぷら(たいてい南瓜が最後)を食べ終えて、蕎麦湯を飲んでいるとき、女将さんから25日の卒業式の時間について聞かれた。おそらくそれに合わせて開店時間を調節するのだろう。3回行うことは知っているが、時間までは知らなかったので、文学部の事務所にケータイで問い合わせる。1回目が9時半、2回目が12時半(一文・二文はこの回)、3回目が15時半とのこと。メモをして女将さんに渡す。教室会議では戸山図書館運営委員を4月から別の先生にやっていただけることになった。よかった、よかった。

 夕方から大隈会館の教職員レストラン楠亭で社会学の教員懇親会。正岡先生は研究室の片付けでお疲れになったようでご欠席。非常勤で来ていただいている先生方の出席も少なく、いつも顔を合わせている面々といつもしているような話をする。

 

3.23(木)

 午前、「なつ」を戸外に放つ。最初、キャリーケースの扉を開けてもすぐには外に出てこなかった。行儀よく座ったまま、あるいはゴロンと横になったまま、喉をゴロゴロ鳴らしている。しかし、しばらくすると、やや警戒しながら扉の外に出て来て、ダイニングキッチンのあちらこちらを好奇心一杯で探索し始めた。そして、ベランダに面した隣の和室にやってきて、硝子戸の外にいる「あき」に気づき、硝子戸を開けてやると、スイッと出て行った。夕方、床屋に行く。先客は一人しかおらず、数人の店員が手持ち無沙汰に立っていた。散髪を終えて帰ってくると、玄関先に「なつ」と「あき」がいた。私が腰を下ろすと寄ってきたので、「なつ」の頭を撫でてやろうとしたら、指先を爪で引っ掻かれた。もうすっかりいつもの野良猫に戻っている。

 夜、研究ノート「清水幾太郎と彼らの時代」の24日付けの記事をアップロードする。普段なら、当日の朝飯前の(ときに朝飯を食べながらの)仕事なのだが、明日の午前中は急ぎの仕事に取りかからねばならないので、就寝前に済ませたのである。それにしても一日一記事でけっこう続くものである。卒論に取り組む学生たちにも「卒論ブログ」を勧めたい。文献からの抜き書きや、思いついたアイデアをコツコツ記録しておけば、それほど苦労することなしに卒論が仕上がるのではないだろうか。すでにブログをやっている人もいるであろうが、「卒論ブログ」はそれとは別に、卒論に特化したものとして、作った方がいい。その方が使いやすいと思う。普通のブログの中に卒論関連の記事を混ぜると、その記事のキーワードは「卒論」となるであろうが、これではせっかくのキーワード検索の機能を十分に生かすことにならない。「卒論ブログ」として独立させれば、個々の記事のキーワードは卒論の章節立てや、サブテーマに対応したものになるであろう。記事のストックがある程度の分量になってきたときに、キーワード検索でグルーピングを行えば、「卒論ブログ」の全体がどのように分化し、かつ統合されているかが把握しやすいであろう。その結果、この部分が手薄だからもっと力を注いで行こうとか、この部分はかなり肥大してしまっているから、削ろうとか、二つの章に分割しようとか、そういう戦略が立てやすくなるであろう。それよりも何よりも、「卒論ブログ」の一番の効果は、卒論が前に進むということである。思いついたときにやろう、そのうちやろう、と思って放置しておくと、「その時」はいつまでたってもやってこない。

 

3.24(金)

 父は今年で83歳になるのだが、最近は、小さな子供のようである。ほぼ一日ベッドに寝ていて、「だるいよ〜」「さびしいよ〜」と周囲の人間にアピールしている。人が視野の外にいってしまうと、一層大きな声で、あるいは手をポンポンと叩いて、誰かがやってきてくれるまで止めない。叱っても、なだめても、駄目なのである。こちらの対処としては、ベッドサイドで話相手になるか、徹底無視を決め込んで何かほかのことをやるか、しかし、前者はこちらの仕事が滞る。後者はストレスが溜まる(無視しても声や音は聞こえてくるのだから)。結局、一番妥当な方法は、家族が入れ替わり立ち替わり父の話相手になり、かといって間断なくというわけではなく、ある程度放ってもおくというものである。今日、私がベッドサイドにいたときは、昔の流行歌をデュエットした。「白い花の咲く頃」(岡本敦郎)、「りんご村から」(三橋美智也)、「夢淡き東京」(藤山一郎)、「別れの一本杉」(春日八郎)・・・・などなど。「よく知ってるねぇ」と父が感心する。それもそのはずで、流行歌は私の商売道具の一つなのである。しかし、真夜中に目が覚めた父の相手をするときは、こうした孝行息子を絵に描いたような対処は無理である。「いま何時だと思ってるんですか」とつい口調が厳しくなる。いまが何時かなんていう配慮ができなくなっていることがまさに父の病気の核心であるわけで、そういう反省の求め方はナンセンスなのである。この点は頭では十分わかっているのだが、実践において不十分なのである。介護は修行である。

 

3.25(土)

 午前11時から現代人間論系運営準備委員会。実習費のことなどを話し合う。社会学専修では調査実習はメインの科目で、実習費とゼミとは切っても切れない関係にあるのだが、しかし、文学部全体を見渡した場合、実習費というものがある専修の方が少数派である。そういうものがなぜ必要なのかと思っている先生方の方が多いのである。現代人間論系は単一の学問分野の教員から構成されているわけではないので、こうした合意形成には意外と時間がかかる。一つ一つきちんと話し合って決めていくほかはない。午後2時半から36号館AV教室で社会学専修の学位記授与式。学位記授与が終わって、乾杯をして、それから文カフェで行われている二文の卒業パーティにちょっと顔を出してから、帰宅する。家族の事情により、社会学専修の謝恩会は失礼する(幹事の方、ごめんなさい)。

 一昨日のフィールドノートで「卒論ブログ」の勧めを書いたが、さっそく調査実習クラスのO君が「卒論ブログ」を始めた。とても素直な青年である。将来、悪い女に引っかからないか心配だ。

 

3.26(日)

 原稿書きの合間に父の介護。あるいは、父の介護の合間に原稿書き。夕方、父が突然高熱を出す。体温計のデジタル表示が39.9度になったときはさすがに焦った。しかし、解熱剤と脇の下など4箇所にあてがったアイスノンが効いて、ほどなくして大量の汗をかき、微熱程度まで下がる。汗で濡れた下着や寝間着を取り替え、しばらく様子を見たが、体温の再上昇は見られないので、一安心。ただいま午前0時をちょっと回ったところ。これからまた原稿書き。20年ほど前、赤ん坊の世話をしながら原稿を書いていたときのことを思い出す。

 

3.27(月)

 今日は妹が父の介護に来てくれたので、昼間は原稿書きに専念できた。ようやく目処が立つ。昨日今日と丸二日家の外に出ていない。4月になったら花見に行きたい。そうそう、TSUTAYAの会員証の更新にも行かなければ。夜、大学院への進学を決意した学生からメール。研究テーマのことで相談があるという。3月、4月は決意の季節である。

 

3.28(火)

 調査実習の報告書『ポピュラーカルチャーとライフストーリー』の版下が完成する。A4判332頁(プラスCD一枚。これには52名のインタビュー記録が収録されていて、印字すればA4で500頁ほどになる)。明日、印刷会社の人に渡すのだが、「はじめに」、「目次」、「編集後記」等のファイルを数人の学生にメールで送って、最後の校正をしてもらう。メールを送信した後で、妻に読んでもらって、数カ所のミスを発見する。原稿が書き上がるとまず妻に読んでもらうという習慣は、村上春樹と同じである。ただし、村上のように作品の感想を求めているわけではなく、純粋に校正をお願いしているのである。自分で書いた文章のミスというのは、なかなか自分では気付かないのである(このフィールドノートにしてからがそうだろう)。夜、校正を依頼した学生たちから返信のメールが次々に届く。学生の名前が間違っている箇所があった(ギャッ!)。音楽班のレポートのサブタイトルが間違っていた(ギャッ!)。「編集後記」(これはKさんに書いてもらった) の中に何回も出てくる「がけっぷち」という言葉が一箇所だけ「がけぷっち」になっていた。これは愛嬌のある小さな(プチ)ミスである。面白かったのは、すべてのミスを一人で全部指摘できた学生はいなかったことだ。三人寄れば文殊の知恵というが、やはり校正作業は複数の人間でやらないと駄目だということが改めてわかった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

 

3.29(水)

 昼から大学へ。印刷会社のN氏が研究室に報告書の版下を受け取りに来る。色見本から表紙の色は浅葱色に決める(去年は萌葱色だった)。完全版下だが、ノンブル(頁数)と背表紙の校正を一度やって、11日に完成の予定。これが報告書の目次である。

N氏が帰った後、昼飯を食べに出る。花冷えである。部屋を出る前から、今日はメルシーのチャーシュー麺と決めていた。漠然と腹が減っているときは五郎八の天せいろが定番だが、具体的に「今日は○○が食べたい」と一途なまでに思うときがたまにあって、今日がそういう日だった。途中のあゆみブックスで『論座』1月号を購入し、加藤周一のインタビュー記事「新世代へ 価値を内面化し良心に従う『自由な個人』となれ」をメルシーおよびその後のシャノアールで読む。

 

 学生運動を担った50代後半の人々が今後大量に定年を迎え、現役を退き始めます。これは、実証的データを集めれば研究対象となるでしょうが、私の漠然とした感じでは、彼ら68年世代の「しるし」が、日本では弱いと思います。アメリカでは、68年世代がベトナム反戦運動とヒッピー・ムーブメントの二つに分かれました。ベトナム反戦はきわめて政治的だったのに対して、ヒッピーは風俗的な運動だった。それが重なったり離れたりしながら、互いに影響しあって、中産階級的価値観に対する強力なアンチテーゼとなりました。

 ところが日本では、東京の山の手に住む中産階級の輪郭、横顔が終始はっきりせず、アメリカほどの戦いがいがある相手とはなりませんでした。そのため、日本に長髪、ジーンズ、マリファナ、貧乏暮らしといったピッピー文化が根付かなかった。ですから、私は68年世代には期待感もありますが、彼らはそれほどアクティブな存在にはならないと思います。

 戦後日本の民主主義社会がある程度実現できたのは、「自由」と「平等」の「平等」の方です。本当の意味での自由はまだ実現していません。日本は自由のない平等社会なのです。自由な個人が責任をもって自分の信じることに向かって進むことのみが本当の自由です。ですから、若い人たちには、「自由な個人になれ」と言いたい。

 

 加藤は1919年(大正8年)生まれ。今年で87歳になる。(現役の)最高齢の知識人といっていいだろう。研究室に戻って、リクライニングチェアで昼寝。このところ寝不足気味だったので、版下を渡して、溜まっていた疲れが出た感じ。こういうときは風邪を引きやすいので注意しなければ。雑用をいくつか片付けてから、生協文学部店で本を数冊購入し、帰宅。

 

3.30(木)

 午前、メールとファックスで用件を2つ済ませてから、研究ノート「清水幾太郎と彼らの時代」の更新(いままでで一番長い記事を書く)。昼食の後、革のハーフコートを着て、散歩に出る。シャノアールで『論座』1月号の座談会「社会学は進化しつづける」(宮台真司、佐藤俊樹、北田暁大、鈴木謙介)を読む。全体として同人雑誌の合評会のような印象。

 

 鈴木: 北田さんと同じで、私もアカデミズム回帰をしないといけないと思っています。その際、二つのものから距離を置いた方がいい。一つは「いま」に寄り添った時代感覚です。そのへんは後続世代が、自分よりももっとうまく語ってくれると思うのです、自分は軽佻浮薄な議論に囚われたくない。もう一つはインターネットから退却しなきゃいけないと思っています。

 宮台: ほう。鈴木君がそれを言うのか。インパクトがあるな、それ。(笑)

 鈴木: ネットを使った検索精度が上がると、そこから独自の世界観が生み出されてしまう。「ネット的リアリティ」しか分からない、少数の人たちの世界観に資するような言説に巻き込まれていくのはまずい。最近は学者のブログも増えましたしね。(笑)

 

 夕食の後、いつか早稲田青空古本市で購入した『伝統と現代』1978年5月号(特集:現代大衆論)に載っている川本三郎「大衆なんて知らないよ」を読む。

 

 「大衆論」を書くのは苦痛である。かつて社会学者はしばしば「大衆社会」について論を書いた。「大衆社会における知識人」について語った。だがそれがどうしたのだというのか。

 「大衆論」というのは少なくともその論者が、自分は大衆ではないという自負を持っているところに成立している。自分はいつも大衆をながめ、観察し、分析することができるという、自分自身の能力・社会的位置をいささかも疑っていないというところではじめて「大衆論」は成立する。いわば、「大衆論」というのは、知識人が自身の高みから大衆を見下すことによって成立する。…(中略)…

 「生活者」とか「庶民」という言葉もいまや迫力・衝撃力を失いつつある。それは以前は知識人が自己否定的に援用した言葉ではあった。知識人の中の知識人嫌い(オレこそが本当の知識人で、お前らは体制的知識人だという思いあがり)が、他の知識人を批判する場合しばしば“助っ人”として動員されたのがこの「生活者」であり「庶民」である。要するに、インテリが、もうひとりのインテリの無気力・ひとりよがり・自意識過剰をせせら笑う時に必ず武器にするのがこの「生活者」なのであり「庶民」なのである。

 

 「大衆vs知識人」というもはや錆び付いた図式の下で「大衆」を論じることの恥ずかしさが語られている。それから四半世紀が経った。いまは「大衆」の代わりに盛んに論じられているのは「若者」である。「大衆」を論じるときと違って、年輩の学者が「若者」を論じていれば、「お前だって若者だろう」とヤジられる心配がないからかもしれない。しかし、若手の学者はそういうわけにはいかない。昨日の読売新聞の夕刊のコラムに北田暁大がこんなことを書いていた。

 

 ニートだけではない。キレる子ども、希薄な友人関係、現実と虚構の混同…。私たちの社会はどういうわけか、若者を得たいの知れない存在として理解することに慣れてしまっている。…(中略)…なぜ若者たちは否定的なまなざしを向けられ続けているのだろうか。

 一つには社会学者の浅野智彦が指摘するように(『検証・若者の変貌』)、若者が物言えぬ社会的弱者である、という現実がある。実態を誇張し、一方的な批判を投げかけても、マスメディアや公の場で発言の機会のない若者たちから反論が返ってくることはない。いわば若者批判は勝ちを約束されたゲームなのだ。また、大人でも子どもでもない若者の独特の立ち位置も、若者批判の増殖と深い関係があるのだろう。まっさらな白紙としての子どもでも、自我を確立した大人でもなく、ほどほどの改良可能性とほどほどの社会的責任を持つ若者には、つねに安んじて「未熟である」という批判を投げかけることができる。批判のフォーマットが定式化しているわけだ。

 大学で教えていると、多くの若者が俗流若者論に苛立っていることが分かる。彼らはあまり口には出しはしないが、自分たちの人間関係が希薄だとか貧困だとか言われることに静かな怒りを感じている。

 

 「多くの若者」の中には北田自身も含まれているのであろう。私の実感からすれば、俗流若者論に苛立っているのは「多くの若者」ではなく、「一部の若者」である。「多くの若者」はまだ俗流若者論に安住している。演習の発表などで、学生が「いまの若者の特徴は・・・・」と大人が書いた本の紹介をして、ただ紹介するだけで、批判的なコメントを付加するわけでもないときなどに、私が、「で、君は自分たちが著者からそういうふうに見られていること、分析されていることに何か反論はないわけですか。君もそういう若者の一人ということでいいわけですか」と水を向けても、「苛立ち」が表明されることは少ない。「大人vs若者」という図式はまだ当分使い回されることであろう。

 

3.31(金)

 午前、研究ノートの更新。昼食をとり、妻がジムから帰るのを待って、ひさしぶりのジムに出かける。筋トレを2セット、時速6キロのウォーキングを1時間。シャノアールで『伝統と現代』(1978.5)掲載の吉本隆明のインタビュー「大衆・知識・思想 戦後大衆の感性的変化をめぐって」を読む。副題に示されているように、このインタビューの主題は戦後(30数年が経過)における大衆の変化である。

 

 その変化というのは、名前をつけることはまずできない。市民主義者は、これを市民民主主義が定着して証拠だというかもしれないし、それから進歩派はまた、進歩的な人権思想が浸透した成果だというでしょうし、革命的な人というのは、自分らの先駆的な活動というものが、こういうふうな変化をきたせしめたんだと、それぞれが我が田に水を引くかもしれないけれど、ぼくはそんなものは全部信じないのです。…(中略)…だけど、あきらかに大衆のなかに感性的に起こってしまった変化というものはあって、そのことをつかむことは、戦後ということの全体をつかむことにつながる重要な問題だと思います。しかし、それをつかむことは、たぶんまだできないんじゃないかなと思うんです。つまり、どうしても対象的にならないで、どっかで、何か、分離して対象にしきれないところがあるから、うまくそれをつかむことは、ほんとうは、まだ完全にはできない。ただ、あきらかにおこってしまった変化、不可避的におこってしまった変化といったらいいようなものなんですが、それはだれでも認められるんではないか。イデオロギーを全部抜かしても、そいつは認められる変化なんじゃないかなと思える。それが何なのかをつかまえることは、まだむつかしいような気がしますが、だけど、ぼくはそういう問題なんだと思いますね。…(中略)…たとえば敗戦以降のアメリカ文化の影響っていうのは、どれだけ強烈だったかとか、あるいはそうではないとか。微視的に言うなら、大衆の感性を変えてしまった要因というのはたくさん言える。けれど、それは数えあげていって数えられるものであるように思います。いちばん数えがたいのは、そこの経済社会過程の構造みたいなところで、何か質的な変化がおこっている。それは全世界史的におこっている。経済制度の問題とは混交してはならないある変化がおこっている。そこのところがよくわからないということがいたばん重要な問題じゃないかなとぼくは思いますね。

 

 吉本隆明にはファンが多い。私は彼のファンではないが、彼の語り口には、「よくはわからないが、何か重要なことが語られている」という雰囲気が漂っているということはわかる。性急な言語化(名前をつけること)を控えるという態度も知的な誠実さを感じさせる。だが、その一方で、何だか思わせぶりな語り(文章)だなと呆れる気持ちもある。「微視的に言うなら、大衆の感性を変えてしまった要因というのはたくさん言える。けれど、それは数えあげていって数えられるものであるように思います」と言っているけれども、具体的にあげているのはアメリカ文化の影響ひとつだけではないか、もっとたくさんあげてみてほしいな、と言ってみたくなる。『踊るさんま御殿』のMC、明石家さんまなら、即座に「たとえば?」とツッコミを入れるところだ。

 

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