近代日本における「人生の物語」の生成

 

 1. 「人生の物語」とは

 

「大きくなったら何になる?」
 小津安二郎の映画『東京物語』の中にこういう場面がある。
東京で医院を開業している長男を尋ねて、両親が尾道から出てくる。二人は東京が初めてである。 長男の家は東京の外れ(足立区の千住あたり)にあって、もっと賑やかな場所を想像していた両親は、 少しがっかりする。長男は日曜日に両親を東京見物に連れていこうとするが、急患が入って中止になる。 一緒に行くはずだった孫たちは「つまんねいやい」とふてくされる。祖母は小さい方の孫を誘って 荒川放水路の土手に散歩に出る。
 祖母は孫に尋ねる。
 「勇ちゃん、あんた、大きゅうなたら何になるん?」
 遊びに夢中の孫には祖母の質問は聞こえていない。それでも祖母は一人語りを続ける。
 「あんたもお父さんみたいにお医者さんか? あんたがのう、お医者さんになるこらあ、

 おばあちゃん、おるかのう・・・・」

 『東京物語』は一九五三年(昭和二八年)の作品である。そこに映し出される東京の風景も、 登場人物たちの動作や表情や話し方も、いまではすべて失われてしまった。しかし、小学校に 上がるか上がらないかの年齢の子供に「大きくなったら何になる?」と大人が質問する光景は、いまも 昔も変わらない。子供は大人たちから繰り返し同じ質問をされることで、「大きくなる」とはただ 身体が大きくなることではなく、「何かになる」ことなのだということを学習する。人生とは 「何かになる」過程であるということ、将来に実現すべき目標を設定し、その実現に向けて努力 する過程であるということを学習する。言い換えれば、子供は人生を「物語」として認識し始めるのである。

 

「物語」の意味

 「物語」とは何か。哲学者P.リクールは『時間と物語』において、「物語」の本質は「筋」の存在に あり、「筋」とは不調和なものを調和の中に組み込み、そのことによって不調和なものを理解可能 なものとし、感情の上でも受容できるようにするのだと論じている。すなわち「物語」とは「筋」に 沿って配列された出来事の連鎖にほかならない。

 個人が自分の人生を回想的に語るときのことを考えてみよう。第一に、私たちは人生において 経験したことのすべてを語ることはできなし、語ろうとも思わない。「語るに値すること」 「語ってもよいこと」「語るべきこと」といったフィルターを通過した出来事のみが語られる のである。回想とは模写ではなく、抽象である。第二に、私たちは人生において経験したこと をたんに時間の順序に従って語るわけではない。一見、そう見えるかもしれないが、実は、出来事 間の因果関係、起承転結というものがそこでは意識されている。語り手は、人生上の出来事を因果 の連鎖によって結びつけることによって、自分がかくかくしかじかの人生を歩み、別の人生を 歩まなかったのはなぜかということを説明しようとしているのである。第三に、私たちはそうした 因果関係の連鎖として語られる自分の人生に対して、「幸せな人生だった」とか「つらい人生だった」 とか―実際の評価はもっと複雑であろうが―何らかの評価を下している。このように個人が自分の 人生を回想的に語る(抽象し、説明し、評価する)とき、そこには「人生の物語」のパターンが 先行的に存在している。だからこそ私たちは、それほど苦労することなしに、自分の人生を 語ることができるのである。

 また、「人生の物語」のパターンは、人生を回想的に語る場合だけではなく、これからの人生を どのように生きていこうかと考える場合にも役に立つ。子供は「人生の物語」と出会うことによって、 「人生」に対して自覚的(目的論的)になる。日常生活を構成する諸々の活動が「人生」として 組織化されてゆくのだ。

 

「人生の物語」と社会

 どのような社会にも「人生の物語」のパターンが存在する。日常生活を構成する諸々の活動が 「人生」として組織化されることは、個人のためというよりも、むしろ社会の秩序と発展にとって 必要なことだからである。したがって「人生の物語」はその社会の構造的特質と適合するものでなくてはならない。

 大人が子供に「大きくなったら何になる?」と質問する光景はいまも昔も変わらないと述べたが、 その場合の「昔」には明治より前の時代は含まれない。前近代社会(封建社会)の子供たちは 「大きくなったら何になる?」と質問されることはなかった。なぜならこの質問は社会移動 すなわち社会階層間の移動の自由というものを前提としているからである。前近代社会にはそういう ものは存在しなかった。社会階層は職業と強く結びついているが、前近代社会における職業とは 基本的に家業のことであり、それは個人が自由に選択できるものではなく、親から子へと世襲 されるべきものであった。武士の子は立派な武士に、農民の子は働き者の農民に、職人の子は 腕のいい職人に、商人の子は才覚ある商人になることを期待されていた。ある階層に生まれた 子供はその階層の中で一生を送ったのである。こうした社会では「身分相応に生きる」こと、 そして自分の所属する集団の中で「一人前になる」ことが、「人生の物語」の基本的モチーフと なる。彼らにとって「大きくなったら何になる?」という質問は意味のないものであるばかりか、 社会の秩序にとっては危険なものだった。

 では、われわれが人生の途上で出会い、以後、われわれの人生を組織化することになる近代版 「人生の物語」は、日本において、いつ、どのようにして、生成し定着していったのであろうか。

 

2 「成功の物語」の誕生

 

『西国立志編』―輸入された近代版「人生の物語」

 前近代社会が社会移動を抑制する社会であったのに対して、近代社会はそれを認め、むしろ奨励する 社会である。一八六八年(慶応四年)三月十四日に発表された新政府の基本方針「五箇条の誓文」 には次のような一条が含まれていた。

 

  官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス。

 

 「志す」という行為は「積極的に何かしようという気持ちを持ち、その実現に努力する」 (新明解国語辞典)ことである。「官武一途庶民ニ至ル迄」つまり国民すべてが各々の「志」の実現 に向けて不断の努力を続けるような国家、それが新政府の思い描く近代国家日本のイメージであった。 個々人の人生における努力と成功がそのまま国家の繁栄につながると考えられたのである。 「立身出世」と「富国強兵」は表裏一体のものであった。

 では、「志」の実現に向けて不断の努力をする生き方とは具体的にどのようなものなのか。 近代国家としての船出の時期に、日本は西洋から国家の骨格をなす諸制度を輸入したが、そこには 「人生の物語」も含まれていた。西洋における近代版「人生の物語」の嚆矢は、「人生の幸福は 勤勉と自修とによってもたらされる」という信念を多くの科学者や発明家の伝記的エピソードを 引きながら説いた、サミュエル・スマイルズの『自助論(セルフ・ヘルプ)』(一八五九年)で ある。『自助論』はスマイルズの母国イギリスで評判になったばかりでなく、新興国アメリカでも 広く読まれ、ヨーロッパ各国の言葉にも訳された。イギリスですでに現実のものとなっていた 来るべき産業革命への心がまえの書として読まれたのである。

 この『自助論』が中村正直によって邦訳され『西国立志編』という書名で博文館から発行された のは原著の出版から十一年後の一八七一年(明治四年)である。西洋への関心はすでに 福沢諭吉の『西洋事情』(一八六六―七〇年)によって十分に加熱されていた。西洋志向 と立身出世志向が結びついた抜群のネーミングのせいもあって、『西国立志編』は空前のベスト セラーとなった(明治時代だけで百万冊は売れたという)。この本によって家業の枠内に抑圧 されていた人々の野心は解放され、強いられた勤勉性は自発的な勤勉性へと変換された。

 

「立身出世」の制度化―学校制度の導入

 新しい「人生の物語」が普及するためには、その物語と適合的な社会制度を必要とする。 かくして社会移動の障害となっている封建的身分制度の撤廃と、社会移動のルートとしての 近代学校制度の導入が―もちろん一朝一夕にというわけにはいかなかったが―進められていった。

 一八七二年(明治五年)八月、国民皆学を期して、フランスの学校制度をモデルとした近代的 教育制度法令「学制」が頒布された。そのとき本文に添えられた「学制序文」には学校設立の 目的が次のように書かれていた。

 人々自ラ其身ヲ立テ、其産ヲ治メ、其業ヲ昌ニシテ、以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ、 身ヲ修メ、智ヲ開キ、才芸ヲ長スルニヨルナリ。而テ其身ヲ修メ、智ヲ開キ、才芸ヲ長スルハ 学ニアラサレバ能ハス。是レ学校ノ設アル所以ニシテ・・・・サレハ学問ハ身ヲ立テルノ財本共云 ヘキ者ニシテ、人タルモノ誰カ学ハスシテ可ナランヤ。

 「学問ハ身ヲ立テルノ財本」―「財本」とは「資本」の意味である。ここに述べられているの は「知識資本主義」あるいは「学歴資本主義」とでもいうべきものである。日本の急速な近代化 の原因は、模倣すべき西洋列強諸国の存在にあったことはいうまでもないが、もう一つ忘れてならない のは、本来の意味での「資本」をもたない下層の出身者(それが国民の大部分であった)でも 学校というルートを辿って上昇的な社会移動を遂げられるシステムが早い時期から完備されたこと である。学校は「知識」を「資本」に、「学歴」を「社会的地位」に変換する装置であった。

 学制頒布の同年に刊行された福沢諭吉の『学問のすすめ』(初編)は、本来平等であるべき人間の 現実の不平等の原因を「資本」としての「知識」の有無に求めている。

 

 天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり。・・・・されども今広く此人間世界を見渡すに、 かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、 其有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。其次第甚だ明なり。実語教に、人学ばざれば智なし、 智なき者は愚人なりとあり、されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり。

 

 こうして官製の「知識資本主義」は民間の代表的イデオローグによって支持され、大いに広められた。

 もっとも学制が発布され、『学問のすすめ』が刊行されても、国民の多くは自分たちの子供をすぐ には小学校へ通わせなかった。当初、小学校の就学率は三〇パーセント程度、通学率に至っては 二〇パーセント程度であった。当時の日本の人口の大部分は農民であり、彼らには学校での 勉強が農民として生きていくために必要不可欠なものとは思えなかったし、教育費の自己負担額も 大きく、学校焼き討ち事件が起こったりした。しかし学校は徐々に農村にも定着していった。 明治の中頃には小学校の就学率は五〇パーセント(通学率は三〇パーセント)を越え、明治の末頃 には一〇〇パーセント(通学率は九〇パーセント)近くに達した。日本中の子供たちが先生の オルガンに合わせて大きな声で「身をたて、名をあげ、やよ、はげめよ」(小学唱歌「仰げば尊し」) と歌うようになったのである。それは日本が産業化していく過程であり、農村に生まれた子供たち が都市へ出て、農業以外の仕事に就くチャンスが増えていく過程であった。学校は共同体と 市場とのつなぐルートとして定着し、若者たちを各種の職業へ振り分ける装置として機能するようになった。

 

「野口英世」伝―和製「成功の物語」の聖典

 『西国立志編』の登場人物は、ベンジャミン・フランクリン、ジェームズ・ワット、ジョージ・ スチーブンソンなど当然のことならが西洋人ばかりであった。『西国立志編』の大成功に刺激されて 日本人を主人公とした多くの類似本が出されたが、それは二宮尊徳に代表されるように、「努力」 や「勤勉」の体現者ではあったものの、前近代社会を生きた日本人であった。

 しかしやがて『西国立志編』を読んで育った世代の日本人を主人公とした「成功の物語」が書かれる ようになっていった。子供のために書かれた日本人の伝記で一番多いのは野口英世のものである。 彼は一八七六年(明治九年)に福島県猪苗代湖畔の翁島村で生まれ、一九二八年(昭和三年)に イギリス領西アフリカ(現在のガーナ)の首都アクラで死んだ。彼の「成功の物語」は次のように 要約することができる。「野口英世は貧しい農家に生まれ、幼いとき、左手に大火傷をしたが、 不断の努力により、世界的な医学者になった。」―努力(勤勉)と上昇(立身出世)がこの物語 の二大要素であり、出身階層の低さ(貧農)、身体的ハンディキャップ(左手の大火傷)、 職業的使命に殉じた最期(黄熱病で死亡)といった付加的要素がこの二大要素を際立たせるため の格好の条件となっている。彼についての最初の伝記は彼の生前一九二一年(大正十年)に出版 された渡辺善助著『発見王野口英世』で、以来八十年、百を優に越える伝記が刊行され、日本全国 の書店の書棚にはいまでも彼の伝記が並んでいる。「野口英世」伝は近代日本における「成功の物語」 の聖典ともいうべきものである(野口の実人生を彩った酒や女や借金の話はそこではきれいに削除されている)。

 

上京―個人化する「人生の物語」

 野口英世の伝記を読んで「僕(私)も医者になろう」と思った子供はたくさんいたに違いない。 たくさんの子供が医者になることを夢みて、努力し、一部の子供はその夢を実現し、残りの多く の子供はその夢を諦めた。『東京物語』の長男、平山幸一は夢を実現した子供の一人であった。 映画の中での彼の年齢は四七歳。一九五三年に四七歳ということは、彼は一九〇六年(明治三九年) 生まれで、野口英世が十五年振りに帰国して「世界的学者 野口英世博士帰る」と日本中の新聞が 写真入りで報じた一九一五年(大正四年)には、九歳(尋常小学校三年生)だったことになる。 彼は典型的な「野口英世」世代なのだ。父親の平山周吉は地方公務員であり、子供に継がせるべき 家業をもたない人だった。父と子の間で「おまえ、大きくなったら何になる?」「(野口英世のような) お医者さんになる」という会話が交わされたであろうことは想像に難くない。

 上昇志向は中央志向とタテーヨコの関係にある。日本の中心は東京であり、世界の中心は欧米であった。 したがって「立身出世」という社会移動は「上京」や「洋行」という地理的移動としばしば連動した。 たとえば野口英世の場合も、十九歳で上京し済生学舎に学び、二三歳でペンシルベニア大学の フレキスナー博士を頼って渡米している。「洋行」についてはひとまずおく。「こころざしをはたして、 いつの日にか帰らん。山はあおき故郷。水は清き故郷」(「故郷」大正三年)。東京に出て成功し 「故郷に錦を飾る」ことは「成功の物語(地方出身者編)」の典型的な筋書きであった。 その意味で「成功の物語」はしばしば「東京の物語」でもあった。

 『東京物語』の平山周吉・とみ夫婦には四人の子供がいる。長男幸一は東京で開業医をしている。 長女志げも東京で美容院を開いている。次男昌二は戦死したが、次男の嫁紀子は籍を抜かずに、 東京で会社勤めをしている。三男敬三は大阪で国鉄の職員をしている。ただひとり次女京子だけ が親元に残って小学校の教師をしている。子供たちは(伝統的家族の規範に逆らって長男さえもが) それぞれの職業的達成を求めて親元を遠く離れ、両親は子供たち(とくに長男)の職業的成功を見届ける ことを楽しみに上京をする。子供たちは両親を歓迎するが、次男の嫁を除いてそれはどこが儀礼的で、 そのことを敏感に感じ取った両親は早々に尾道に引き上げる。帰路、母親は体調を崩し、危篤に陥る。 子供たち全員が実家に集まるが、母親は間もなく亡くなり、長男も長女も三男も葬式を済ませた その晩に急行で帰っていく。残った次男の嫁に次女が愚痴をこぼすと、彼女は静かに答える。

 「でも子供って、大きくなると、だんだん親から離れていくもんじゃないかしら。お姉さまぐらい になると、もうお父さまやお母さまとは別の、お姉さまだけの生活ってもんがあるのよ。・・・・誰だって みんな自分の生活が一番大事になってくるのよ。」

 小津は「親と子の成長をとおして日本の家族制度がどう崩壊するかを描いてみた」と『東京物語』 のテーマについて語っている。「崩壊」とは「人生の物語」が「家族の物語」から解き放されて 個人化(あるいは核家族化)していく過程にほかならない。「崩壊」とは言っても、ガラガラと 音を立てるようなものではなく、今日のわれわれから見れば「きしみ」のようなものである。 気づかない振りをしようと思えばできないことはなく、事実、『東京物語』の登場人物たちは みなそうしていた。だからこそ観客はそこに一種の切なさを感じるのである。

 

「人生の物語」の四類型

 努力と上昇を二大要素とする「成功の物語」の台頭は、必然的に、「幸運の物語」「挫折の物語」 「堕落の物語」という三つの物語を生む。「幸運の物語」とは「努力せずに上昇する(棚からぼた餅)」 物語であり、「挫折の物語」とは「努力はしたが上昇できなかった」物語であり、「堕落の物語」 とは「努力せずに下降していく」物語である。

 「成功の物語」こそが近代社会における「人生の物語」の正本であり、他は正本の正統性を際立たせる ための異本である。とくに「堕落の物語」は反面教師として修身の教科書に「成功の物語」と ワンセットで取り上げられることが多かった(ちょうど『イソップ物語』の中の「アリとキリギリス」 の話のように)。

 

社会移動の上方硬直化

 しかし、明治末期、自然主義の作家たちは「人生の真実」を求めて、「堕落の物語」や「挫折の物語」 を好んで書いた。たとえば田山花袋は、『蒲団』(明治四〇年)で、文学で身を立てることを夢みて 上京したものの書生との恋に堕ちたがために郷里に帰される女学生を描き、『田舎教師』(明治四二年) で、東京に出て文学で身を立てることを夢見ながら田舎の小学校の教師として埋もれて死んでいった 青年を描いた。花袋が彼らを描いたのは、当時において、彼らが特異な存在だったからではなく、 ありふれた存在だったからである。「成功の物語」は多くの人々を成功(立身出世)へと駆り立てた が、実際に成功を勝ち得る人はその一部に過ぎなかった。

 堕落や挫折の原因は、第一に、当人の意志の弱さや、才能の乏しさや、運のなさといった個人的要因 である。しかし、それだけではない。就学率や進学率の上昇によって、学歴のインフレが進んだ結果、 社会移動のパスポートとしての学歴の機能が低下しはじめていたのである。石川啄木は「時代閉塞の現状」 (明治四三年)で次のように指摘している。

 

 今日我々の父兄は、大体において一般学生の気風が着実になったと言って喜んでいる。しかもその着実とは 単に今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなったという事ではないか。 そうしてそう着実になっているに拘らず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて 下宿にごろごろしているではないか。しかも彼等はまだまだ幸福な方である。前にも言った如く、彼等 に何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。 中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼等は実にその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ 三十円以上の月給を取る事が許されないのである。無論彼等はそれに満足するはずがない。かくて日本には 今「遊民」という不思議な階級が漸次その数を増しつつある。今やどんな僻村へ行っても三人か五人の 中学校卒業者がいる。そうして彼等の事業は、実に、父兄の財産を食い減らす事と無駄話をする事だけである。

 

 ここで啄木が指摘しているのは社会移動の上方硬直化という現象にほかならない。

 

3 「幸福の物語」の誕生

 

反転する「人生の物語」

 「努力して上昇する」という「成功の物語」は、近代社会の理想の物語であって、必ずしも現実の物語 ではない。現実の物語の多くは「挫折の物語」である。それは人生を「ありのまま」に描こうとする 自然主義文学が好んで取り上げる題材ではあったが、庶民の多くは「惨めな現実」を直視することを好ま なかった。彼らが必要としたのは「成功は必ずしも幸福にあらず」をテーマとする「幸福の物語」だった。

 「幸福の物語」は「成功の物語」の陰画である。「努力して上昇する」ことをよしとする「成功の物語」 の視点から見れば、成功、幸運、挫折、堕落と映る人生が、実は、そうではなかったという物語である。 「幸福の物語」の視点から見れば、成功とは人間として大切なものの喪失であり、挫折とはそうならずに すんだということであり、堕落とは人間性の回復であり、幸運とは不幸の始まりである。「成功の物語」 が支配的なものとなり、かつ神話(夢物語)化されるにつれて、その対抗文化としての「幸福の物語」 が求められるようになったのである。

 

「諦めの文学」の登場

 社会学者のミルズは『ホワイト・カラー』(一九五一年)の中で次のように述べている。

 最近二十年間に、アメリカでは新しい型の欲求を題材とする新しい型の文学が現れてきた。 ・・・・それは一種の諦めの文学であって、欲望のレベルを引き下げることによって、誰にでも手軽に 満足と平和を楽しませようとする。

 そのためには、まず、最初の段階として、従来の型の成功や満足は実際には幸福をもたらさないことを 消極的に示そうとする。たとえば、『セールスマンの死』のごとく、外見的には成功しているように 見える者が、内面的には不幸で罪の意識にさいなまれ、自我との戦いにみじめに敗北する様子を描く。 ・・・・さて、次には、人間の内的な平和、物質的には貧しい者にも容易に与えられる精神的な平和こそが、 真の幸福をもたらすものであることを積極的に説く。それは緊張しきった生産的活動よりも、ゆったり とくつろいだ消極的生活や休息と調和するものであり、具体的には『リーダース・ダイジェスト』や 『心の平和』などに示される人生哲学である。それは節倹や勤勉のごとき旧式な地味な徳でもなく、 また長い教育によって培われる熟練でもない。それは諦めの徳であり、野心のレベルを下げることに よって、無用の焦りを避けて緊張した精神を鎮静させようとするものである。

 

「田舎」へのまなざし

 ミルズがここで「諦めの文学」という言葉で呼んでいるものは、「幸福の物語」にほかならない。 ミルズによればアメリカ文学に「諦めの文学」が登場してくるのは一九三〇年前後ということになるが、 日本文学においては、それよりも早く、一九二〇年前後(大正時代)に「諦めの文学」が登場してくる。

 広津和郎の小説「神経病時代」は一九一七年(大正六年)に『中央公論』十月号に発表された彼のデビュー作 である。小説は次のように始まる。

 

 若い新聞記者の鈴木定吉は近頃憂鬱に苦しめられ始めた。その憂鬱が彼にはいろいろの方面から一時に 押し寄せて来るように思われた。彼には周囲の何もかもがつまらなくて、淋しくて、味気なくて、苦しかった。

 

 この小説は、広津の言葉で言えば「性格破産」、現代の言葉に翻訳すれば「アイデンティティの危機」 の物語である。定吉は会社からの帰り、尾張町(現在の銀座四丁目)の停留所に佇んで、電車を 幾台も幾台もやり過ごしながら、「ああ、田舎に行きたいな。何処か静かな田舎に。そして本を読もう。」 と心の中でつぶやく。「田舎に帰りたい」ではなく、「田舎に行きたい」である。地方から上京して きた人間のつぶやきではなく、東京で生まれて東京で育った人間のつぶやきである。「田舎」は 「故郷」ではなく、脱「東京」志向によって美化された「田園」である。

 

 彼は東京で生まれて東京で育った。実際のところ、彼は田舎には三日か四日しか行った事はなかった。 だから、彼の云う田舎がどこに行ったらあるのか見当はつかなかった。けれども、彼の想像した田舎 は美しかった・・・・そこには小川が流れていた。彼はそこで釣糸を垂れる事が出来た。そこには森があった。 彼はそこで小鳥を撃つ事が出来た。そこには広い畑があった。彼はそこを散歩することが出来た。 そして人情が醇朴で、みんなが彼を尊敬した。そうだ、彼はいつの間にかそこで小学校の教師になって いるのであった。彼は子供たちにトルストイのお伽噺をはなして聞かせるのである。すると子供たち は、嬉々として彼になづく。子供達の祖父や祖母である爺さん婆さんが、大根だの胡瓜だのを、彼の家 の縁側に持って来ては置いて行って呉れる。・・・・定吉は夢のような気持ちになって来た・・・・が、彼は急 にそんな事を話したら、妻がどんなに怒るだろう、と云う事を思った。

 

 『神経病時代』の主人公は『田舎教師』の主人公林清三とは反対の方角を向いている。後者が上京して 文学で身を立てることを夢みていたのに対し、前者は田舎へ行って小学校の教師になることを夢みる のである。明治以来の東京志向は大正に至って脱東京志向という反作用を生んだ。脱東京志向の台頭の 背景には都市生活者としてのサラリーマンの増加がある。「東京俸給生活者同盟会」が結成されたの は『神経病時代』発表の二年後、一九一九年(大正八年)のことである。「会社勤めをする」ことが、 農作業や、商店や工場での労働に代わって、「働く」ことの代名詞になろうとしていた。脱東京志向 は、したがって、脱会社・脱組織志向でもあったのである。

 しかし『神経病時代』は「成功の物語」からの逃避(願望)の物語であって、いまだ積極的に 「幸福の物語」を語ってはいない。それは「成功の物語」から「幸福の物語」への橋渡し (「諦めの文学」の最初の段階)として位置付けられるべき作品である。

 

『青い鳥』―「幸福の物語」の原典

 「成功の物語」の原典がスマイルズの『自助論』であったように、「幸福の物語」の原典もヨーロッパ から輸入された。モーリス・メーテルリンクの戯曲『青い鳥』(一九〇八年にモスクワ芸術座で初演 され、翌年に出版)がそれである。おそらく彼のノーベル文学賞受賞(一九一一年)が契機となった のであろうが、『青い鳥』が若月紫蘭によって邦訳されたのは一九一三年(大正二年)のことである (大正九年に有楽座で初演)。『青い鳥』はチルチルとミチルの兄妹が幸福の象徴である「青い鳥」を 求めて旅をする物語である。野口英世の伝記の場合と同じく、いまでも全国の書店の児童書の棚には 『青い鳥』が(読みやすいように散文の形式に翻案されて)並んでいる。

 『青い鳥』の第四幕第九場「幸福の花園」のテーマは幸福の類型論で、四つのタイプの幸福が登場する。

 第一は、「太った幸福たち」で、具体的には、「金持ちの幸福」「地主の幸福」「虚栄に満ち足りた幸福」 「酒を飲む幸福」「ひもじくないのに食べる幸福」「なにも知らない幸福」「もののわからない幸福」 「なにもしない幸福」「眠りすぎる幸福」などである。彼らが大宴会をくりひろげる部屋に「光」が 射し込むと、互いに顔を見合わせて、自分たちの本当の姿、裸で、哀れで、見にくい姿に、恥ずかしさ のあまり悲鳴をあげて「不幸」の洞穴へと逃げ込んでいく。

 第二は、「子供である幸福」で、歌ったり、踊ったり、笑ったりはするが、まだ話をすることはできず、 貧富の区別はなく、この世でも天国でもいつも一番美しいも衣装を着ているが、彼らはすぐにいなく なる。子供の時代はごく短いのである。

 第三は、「あなたの家の幸福たち」で、具体的には、「健康である幸福」「清い空気の幸福」「青空の幸福」 「森の幸福」「昼間の幸福」「春の幸福」「夕日の幸福」「星の光り出すのを見る幸福」「雨の日の幸福」 「冬の火の幸福」「霧の中を素足で駆ける幸福」などである。家のドアが破れそうなくらい、家の中に いっぱいいるのだが、誰もそのことに気づかない。

 第四は、「大きな喜びたち」で、具体的には、「正義である喜び」「善良である喜び」「仕事を仕上げた喜び」 「ものを考える喜び」「もののわかる喜び」「ものを愛する喜び」「母の愛の喜び」などである。 きらきらと光った衣装を着て、背の高い、美しい天使のような姿をしている。「幸福」という名前は付いて おらず、他の「幸福」たちのように笑ってはいないが、人が一番幸福なのは笑っているときではない。

 ・・・・と紹介すれば、メーテルリンクの考える「真の幸福」が「大きな喜びたち」であることは誰にでもわかる であろう。彼は「太った幸福たち」を唾棄すべきものとして見る一方で、人々が「あなたの家の幸福たち」 に埋没してしまうこと(私生活中心主義)も懸念していたのである。しかし多くの読者はそうは読まなかった。 いや、読者だけではない。ときには翻訳者さえもがそうは読まなかった。たとえば堀口大学 (新潮文庫版『青い鳥』の翻訳者)は「万人のあこがれる幸福は、遠いところをさがしても無駄、 むしろそれはてんでの日常生活の中にこそさがすべきだというのがこの芝居の教訓になっているわけです」 と「あとがき」の中で述べている。探し求めた幸福の「青い鳥」は結局自分の家の中にいた(ただし 最後の最後にそれはまた逃げ出してしまうのだが)―皮肉なことに、『青い鳥』は、読者の多くがこの 物語の結末部分を「あなたの家の幸福たち」こそが「真の幸福」であると誤読することによって、 「幸福の物語」の原典としての地位を獲得したのである。

 「あなたの家の幸福たち」は「成功の物語」の中で語られてきた「追い求める幸福」の対抗文化としての 「気づく幸福」である。しかし「あなたの家の幸福たち」は人がその存在に改めて気づく以前にそこに あったのではない。「田舎暮らし」を美化したのが都市生活者であったように、「あなたの家の幸福たち」 は「冷たい世間」(都市生活)を経験した人間が「家庭生活」を美化する(「暖かな家庭」というイメージ) ことによって、「発明」したものである。「あたなの家の幸福たち」は伝統的な幸福観の再評価では なくて、「成功の物語」の台頭の中で新しく生まれた幸福観である。

 

『赤い鳥』―「家庭」と「子供」へのまなざし

 「成功の物語」の対抗文化として誕生した「幸福の物語」は「家庭」というものの地位を高めた。 「成功の物語」を生きるべく悪戦苦闘する男たちにとって、「家庭」は扶養すべき者たちのいる場所 であると同時に、やすらぎの場所となった。一方、「成功の物語」に生きる男たちと結婚した女たち にとって、「家庭」は世話すべき者たちのいる場所であると同時に、生きがいの場所となった。 会社勤めをする男たちの不平不満を緩和し、「良妻賢母」という役割を女たちに担ってもらうためには、 社会は「幸福の場所」としての「家庭」のイメージを必要としたのである。

 「家庭」と一口に言っても、新婚夫婦の「家庭」から老夫婦の「家庭」まで、「家庭」の風景はライフ サイクルの中でさまざまに変化する。しかし、幸福の場所としての「家庭」がイメージされるとき、 そこには「小さな子供たち」がいることが常である。「子供」は「あなたの家の幸福たち」の中心にいる。 『青い鳥』の誤読はここにおいて二重である。一つは、すでに述べたように「あなたの家の幸福たち」 を「真の幸福」と解釈したこと。そしていま一つは、「子供である幸福」を「子供がいる幸福」と すり替えたこと。「子供である幸福」は子供本人の幸福であり、幸福の四つの類型の一つであるが、 「子供がいる幸福」は親の幸福であり、したがって「あなたの家の幸福たち」に帰属する。 このすり替えによって「あなたの家の幸福たち」はますます豊かなものになった。しかも「子供がいる幸福」 はメーテルリンクが「真の幸福」と考えた「大きな喜びたち」の一つである「母の愛の喜び」とも 結びついている。愛情至上主義社会である近代社会において、疑わざるべき至高の価値とされる 「母性愛」と結びつくことで、幸福の場所としての「家庭」の地位は確立された。

 幸福の場所としての「家庭」の地位の確立は、しがたって、「子供」を「純粋無垢な存在」として見る ロマン主義的な子供観の確立と時期を同じくしている。日本においてそうした子供観が確立した時期は、 鈴木三重吉によって雑誌『赤い鳥』が創刊された一九一八年(大正七年)頃と考えられる。『赤い鳥』 創刊号に掲載された「『赤い鳥』の標榜語(モットー)」にはこう書かれている。「『赤い鳥』は 世俗的な下卑た子供の読みものを排除して、子供の純性を保全開発するために、現代一流の芸術家の 真摯なる努力を集め、かねて、若き子供のための創作家の出現を迎ふる、一大区画的運動の先駆である。」 ここでは「子供の純性」は「保全開発」すべきものと考えられている。それは「現代一流の芸術家」 だけの仕事ではなく、教師や母親の仕事でもあるだろう。『赤い鳥』創刊号は一万部印刷で九千部が売れた そうだが、買い手は子供ではなく、教師や母親たちであった。『赤い鳥』は子供自身が自分の小遣いで 買って読む雑誌ではなく、教師や母親が買って子供に与えるための雑誌、子供に読んで聞かせるための 雑誌であった(その証拠に「御園白粉」や「三越呉服店」の広告が掲載されている)。

 自宅の居間で母親が「純真無垢な」子供に『赤い鳥』を読んで聞かせてやる姿は、幸福な場所としての 「家庭」の風景である。もちろんそれは庶民一般の「家庭」の風景ではなく、勃興しつつあった 「中流家庭」の風景ではあったが、にもかかわらずではなく、まさにその故に、幸福な場所としての 「家庭」の風景たりえたのであった。『赤い鳥』という誌名と『青い鳥』との関連は定かではない。 三重吉の盟友小川未明は『赤い橇(そり)』という誌名を三重吉に提案したというし、その未明には 「赤い舟」という童話(明治四三年)がすでにあった。「赤」は血と愛情のシンボルであり、 「暖かな家庭」を連想させる色である。メーテルリンクの『青い鳥』は最後に再び「青い空」へと 逃げていってしまったが、三重吉の『赤い鳥』は「暖かな家庭」の母と子の側を離れなかった。

 

 こうして大正中期に「成功の物語」と「幸福の物語」という近代日本における「人生の物語」の両輪がそろった。 その後、二つの物語は、一時期(昭和戦前・戦中期)、「国家(お国のため)の物語」に吸収されるが、 戦後、すぐに復活し、ベビーブーム世代の成長と歩調を合わせながら展開していった。すなわち 「成功の物語」は「受験戦争」や「モーレツ社員」や「キャリア・ウーマン」といった言葉で語られ、 「幸福の物語」は「マイホーム主義」や「ニューファミリー」や「脱サラ」といった言葉で語られた (その裏返しとして「挫折の物語」や「堕落の物語」が「自殺」や「蒸発」といった言葉で語られ、 「不幸の物語」が「家庭内暴力」や「家庭内離婚」といった言葉で語られた)。「成功の物語」は 依然として学校や会社と結びつき、「幸福の物語」は依然として家族と結びついていた。しかし、 高度経済成長が終わり(オイルショック)、さらに低成長も終わり(バブル崩壊)、失業率の上昇や 未婚者の増大が続く中で、「成功の物語」の会社離れと「幸福の物語」の家族離れーすなわち 「人生の物語」が個人化し「自分探しの物語」へと変容するという現象が起こりつつあるように 思われる。ただし、それは本稿の範囲を超えた「また別の話」である。

 

引用・参考文献
 リクール『時間と物語』(新曜社、一九八七年)
 星新一『明治の人物誌』(新潮社、一九七八年)
 竹内洋『立身出世主義』(NHK出版、一九九七年)
 河原和枝『子ども観の近代』(中央公論社、一九九八年)
 野地潤家編『「野口英世」伝の研究』(明治図書、一九七二年)
 滑川道夫『野口英世』(講談社火の鳥伝記文庫、一九八一年)
 メーテルリンク『青い鳥』(保永貞夫訳、講談社青い鳥文庫、一九九三年)
 広津和郎『神経病時代・若き日』(岩波文庫、一九五一年)
 福沢諭吉『学問のすすめ』(岩波文庫、一九七八年)
 石川啄木『時代閉塞の現状・食うべき詩』(岩波文庫、一九七八年)
 柄谷行人『日本近代文学の起源』(講談社、一九八〇年)


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