佐藤正志『政治思想のパラダイム―政治概念の持続と変容 』
シリーズ 政治思想の現在〈1〉
新評論、1996年。


序章から

 一九八九年の東欧の民主化革命、そしてそれに続くベルリンの壁の崩壊、ソ連の解体の後で、政治思想はなおどのような意味をもちうるのであろうか。もしF・フクヤマ (Francis Fukuyama) の言うように、共産主義体制の崩壊は、ただ戦後の冷戦構造の終わりと自由主義の勝利を意味するだけでなく、イデオロギー的対立の弁証法を通じた発展という、ヘーゲル的〈歴史の終焉〉を意味し、人類のイデオロギー的進化の過程の終着点にわれわれが到達したことを意味するのだとしたならば。
 われわれは三年前に、そうした問いをきっかけとして、『現代の政治思想』(東海大学出版会)と題する論文集を編み、現代のイデオロギー状況の中での政治の意味を再検討しようとした。もちろん現代の政治思想に対して突きつけられた直接的な問題は、社会主義とは一体なんであったのか、またこれからいかなる意味をもちうるのかということであった。同書の中で星野智氏は、初期社会主義者、およびマルクス=エンゲルスの思想の再検討を通じて、「自由なアソシアシオン」の理念を抽出するとともに、国家主義的な「現存した社会主義」の批判的評価を通じて、グローバルな社会主義、民主主義的な社会主義、リバータリアンな社会主義、エコ社会主義という、オルタナティヴな社会主義への展望を示した。また東欧革命とソ連の解体は、各地で民族的対立を爆発させていったが、このことは、ナショナリズムとは何かについて、また近代的な国民国家の枠組それ自体についての考察を要求した。これについても、同書で押村高氏がとくにナショナリズムの歴史的形成に焦点を合わせて論じた。さらに、社会主義のイデオロギーとしての後退は、サッチャー、レーガン以後の「新保守主義」を中心とするイデオロギーとしての保守主義の相対的な比重の増大をまねいた。同書では、添谷育志氏がその政策、教義、哲学にわたって、現代の保守主義を解剖した。
 しかし、政治思想史を学んでいるわれわれの気分を落ち着かなくさせたのは、なによりも、社会主義の終焉に伴う、自由主義の勝利という論調であった。例えば先にあげたフクヤマは、冷戦以後を、人類のイデオロギー的進化の過程の終着点であり、リベラル・デモクラシーが究極の統治形態であることが明らかとなった段階であるとしたのである。しかし、自由主義の理念や政策こそが、近年の政治思想において最も問われてきた当のものであり、その論議を通じて、自由主義の内部には原理的な対立をはらんでいることが明らかとされてきたのである。このことへの留保なしに自由主義一般を正当化することはできないはずである。上記のわれわれの書物では、斎藤純一氏が、今日の自由主義の内部における論争を、いずれも個人の権利を基礎としながら、これに平等の原理を加味したり、あるいは平等の価値からそれを基礎づけなおそうとする平等主義的立場と、個人の自由の権利をいっそう徹底して主張する「リバータリアン」 (libertarian) の立場との対立として分析している。そのような自由主義をめぐる論議は、J・ロールズ (John Rawls) の『正義の理論』 (A Theory of Justice, 1971) 出版以後の政治思想で展開されてきたものである。この点については、本書の終章でも論じることになるが、やはり同書では飯島昇藏氏が、ロールズ正義論の功利主義的道徳理論に対する批判の意義と同時に、その平等主義的性格が今日の自由主義の政治思想に与えたインパクトを明らかにしている。
 こうした今日の自由主義のイデオロギーをさらに分節化するためには、われわれはさらに、「自由」と「平等」の概念に遡らなければならないであろう。右の『現代の政治思想』では「自由」の概念をめぐって、金田耕一氏が、I・バーリン (Isaiah Berlin) のかの二つの自由概念、消極的自由概念と積極的自由概念の対抗をベースに今日の自由概念の布置を明らかにするとともに、〈国家からの自由〉対〈国家による自由〉という対抗が、どのように右に見た自由主義における自由と平等の関係の問題に関わっているかを明らかにしている。同時に、氏はその対抗を〈政治からの自由〉対〈政治への自由〉へと置き換えながら、政治的自由と政治的公共性とを結合してゆくことを今日の課題として提起している。さらに、宮島泉氏も、「平等」を、公共課題への等しい参加として捉えなおし、それを通じた市民間「コミュニカシオン」 (communication) の活性化を課題として提起している。そのような政治的公共性が、「コミュニタリアン」 (commnunitarian) による批判によって際だたせられた、今日の自由主義の難点を克服する道であることは、同書の中で斎藤純一氏が、「親密圏」を基盤とした「政治的公共性」への展望として示しているところである。
 ところで「公共性」の概念が現代の政治思想において論じられるようになったきっかけは、同書で谷喬夫氏が指摘しているように、J・ハーバーマス (Jügen Habermas) が、『公共性の構造転換』 (Stracturwandel der Öfentlichkeit, 1974) において、近代における市民的公共性の成立とその解体の契機を論じて、この概念を近代の社会思想の主題として示したことにある。その市民的公共性と一体をなす対話的理性の問題を、本章でものちに検討することになが、かれは、近代において理性がもった解放の力をつねに想起しつつ、今日における理性の一面化を批判する。そのかぎりで、かれは「近代」の擁護者である。
 それに対して、最近の英米圏における、リベラリズムに対するコミュニタリアンの批判は、大陸における、マルクス主義に対するポストモダン論者の批判と同様に、近代のプロジェクトに対する批判である。ポストモダニストが、絶対精神とかプロレタリアートの歴史、また自由とか持続的な人間解放の歴史を語る、歴史の「大きな物語」 は存在しないと主張するのと同じ脈絡で コミュニタリアンは、歴史の進歩についてのリベラルな概念は人を欺くものであり、歴史は、共同体の緊密な感覚とか、共有された社会的宇宙の一部をなす道徳的語彙といった、取り返しのつかない喪失を伴っていると主張する。ここでわれわれは、改めて、近代的なるものへの態度を軸としたイデオロギーの布置を押えておかなければならない。
 ハーバーマスの図式を利用するなら、近代に対する批判的イデオロギーとして、第一に、それを全体として否定する「老年保守派」が存在するが、古典的な政治哲学の伝統に立つレオ・シュトラウス (Leo Strauss, 1899-1973) や、新アリストテレス主義に立つコミュニタリアンはこれに含まれるであろう。後者の代表的思想家とされるA・マッキンタイア (Alasdair MacIntyre) は、道徳的判断の普遍的根拠を確立することのできなかった啓蒙的理性の失敗を明らかにするとともに、徳としての正義に関して合意を欠いた社会は政治的共同体に必要な基礎を欠いているとするアリストテレスの警告が、まさしくわれわれの社会にあてはまることを指摘する。第二に、資本主義や官僚制国家などの社会的近代化を受け入れる一方で、文化的近代や倫理の普遍化要求を受け入れない「新保守主義」が存在する。そのようにして文化的領域と政治的・経済的領域を切り離す限りにおいて、われわれにとってのモダン−ポストモダン問題に対してはそれほど有意性をもたないであろう。第三に、近代の啓蒙的理性の要求一般に対する不信を表明する「ポストモダン」の立場があるが、これは、理性が意味を基礎づけ、進歩を正当化し、歴史に一貫した解釈を与えることを退け、人間の解放という近代のプロジェクトを否定するのである。この立場をハーバーマスは「青年保守派」と呼ぶ。
 われわれは本書で、われわれの仕方で近代に対する批判を遂行してゆきたい。アリストテレス的な伝統に立つ政治の概念を活性化しつつ、近代的な政治の概念を批判し、あるいは、近代的なエピステモロジーにもとづく近代的な政治思想の批判を企てるであろう。その過程では、ハーバーマスの批判する「老年保守派」や「青年保守派」の近代批判を真剣に受け止めるであろう。同時にわれわれは、ハーバーマスが、未完のプロジェクトとしての啓蒙の理念の実現としてめざしているもの、すなわち、そこで倫理的、政治的問題の討議が行われ、規範の問題が民主主義的で理性的な選択の問題となるような、実践的合理性の空間を開くこと、この課題を真剣に受け止めたいと思う。
 もちろんこのハーバーマスの立場は、理性の進歩への楽観的信仰としてポストモダンから批判の的となっているものである。さきの『現代の政治思想』の中で栗栖聡氏が論じているように、M・フーコー (Michel Foucault, 1926-1984) の「権力」論は、近代の自律的な市民の公共性自体が、自由主義的な統治権力と規律権力の働きであることを示すことによって、そのような展望に対する最も根本的な批判となるであろう。そのような批判の後で、なお市民的公共性への展望をどのようにしてもち得るのであろうか。このことを重い課題として受け止めつつ、近代批判と未完の近代との両者のネクサスを見出しうるような政治思想の新たなパラダイムを探究してゆきたいと思う。本書では、その胚子を見出すために、〈政治〉の概念の近代における変容と、この近代的パラダイムに沈澱している根源的意味を明らかにすることから始めたい。


目次

はしがき

序 章 〈政治〉の意味への問い

1 政治思想の現在
2 〈政治〉と言語
3 解釈学的転回
4 政治概念の変容

第一章 理論と実践
――〈政治〉の根源的意味を喚起して

1 アリストテレスと生き方への問い
2 理想としての理論的生活
3 実践と政治的生活
4 実践的知識としての政治学
5 近代的意味への変容

第二章 科学と哲学
――二元論を超克しうる視座を求めて

1 科学としての政治学という思想
2 パラダイム論の射程
3 メルロ=ポンティと人間の条件の探究
4 現象学と社会認識の転換
5 哲学者と政治

第三章 主体と客体
――〈政治〉の両義性をめぐって

1 プラトンにおける哲学と政治
2 メルロ=ポンティと共存の主題への問い
3 理性の政治と悟性の政治
4 素描された歴史的選択の現象学
5 制度化する主体

第四章 政治と権力
――〈協働〉としての政治に向けて

1 国家の概念と権力の理論
2 フリードリヒのアリストテレス的考察
3 共同体の制度化と立憲主義
4 権威と共同体の現前化
5 〈権力政治〉を超えて

終 章 政治哲学の復権と自由主義の再検討

1 「歴史の終焉」とリベラル・デモクラシー
2 政治哲学への呼びかけ
3 政治的自由主義の政治哲学
4 コミュニタリアニズムとシヴィイク・ヒューマニズム
5 デモクラシーの代替理論のために

補 論 ホッブズの政治哲学と近代

あとがき

索引