◆英米文学理論の推奨書◆

入門書(批評理論全般)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本文(ほんもん)批評(Textual Criticism)

 

 

 

 

新批評(New Criticism)

 

 

 

 

 

 

 

精神分析批評(Psychoanalytic Criticism)

 

元型・神話批評(Archetypal Criticism)

 

 

現象学批評(Phenomenological Criticism)

 

 

 

ポスト構造主義批評(Poststructuralism)

 

·       キャサリン・ベルジー『ポスト構造主義』折島正司訳(岩波書店) Catherine Belsey, Poststructuralism: A Very Short Introduction (Oxford: Oxford UP., 2002) (特に、主体[subject]理論の解説が重要。非常に分かり易い。訳も折島氏だけに正確無比で、かつ自然な日本語になっている。)

 

·       フレドリック・ジェイムソン『政治的無意識』(大橋洋一訳、平凡社) (The Political Unconscious [1981]. マルクス主義的ポスト構造主義文学批評の金字塔。ジャック・ラカン[新フロイト派]の存在も大きい。原題はThe Marxist Freudianとも読める。第1章第1節は飛ばして読むべし。ここを理解できる人は世界に何人もいないでしょう。この本を理解するためには他に何冊も本も読まなければならない。しかし、それを含めてこの本自体の研究に丸ひと月をかけた者の得るものは絶大。思想的に一番重要なのはラカンの「現実界」[the Real]を「歴史」と同定していることだろう。これはきわめて意味深い。難解な本なので解説書がいくつも出ているが、Adam Roberts, Fredric Jameson [Routledge Critical Thinkers, 2000]が優れる)。

 

·       レイモンド・タリス『アンチ・ソシュール』(村山淳彦訳、未來社、1990年。原題Not Saussure”not so sure”に引っ掛けた洒落。フランス現代思想やアメリカのイェール学派によるソシュール受容を痛快に批判した名著。最初の三章だけ読んでも十分。ポスト構造主義の解説書としても読める。訳は村山氏だけに、きわめて正確で、かつ読み易い)

 

·       斎藤環『生き延びるためのラカン』(ちくま文庫、2012年)(日本一わかりやすいラカン入門)

 

·       上野千鶴子編『構築主義とは何か』(勁草書房、2001年)(Social Constructionismについての論集。ポスト構造主義の主体構築理論を理解する上で役立つ)

 

·       ヴィヴィアン・バー『社会的構築主義への招待』田中一彦訳(川島書店)Vivien Burr, An Introduction to Social Constructionism (Routledge, 1995)(構築主義の平易な入門書。ポスト構造主義の理解にも役立つ。文学系のポスト構造主義の紹介本(和書)には読みにくいものが多い一方で、社会学系の本は分かり易いですね。日本の文学者は見習わねば・・・)

 

·       小阪修平『そうだったのか現代批評:ニーチェからフーコーまで』(講談社+α文庫)(現代思想の入門書と称しながらまったく不親切な本も多い中で、この本は初心者にもよく分かります。それは元々初心者を対象とする講演だったからでしょう。まあ、話し言葉ゆえの曖昧さも残していますが。デカルトからヘーゲルまでの哲学とは異なる思想が、ニーチェから(あるいはそれ以前のキルケゴール、マルクスから)始まっていることが、よく分かります)

 

·       内田樹(たつる)『寝ながら学べる構造主義』(文春新書、2002年。その表題に偽りなし。構造主義をこれほど易しく説明してくれる本も珍しい。必読。構造主義とは「人間が社会構造を作り出すのではなく、社会構造が人間を作り出す」という前提に立って物事を眺める考え方である)。『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川書店、2003年。フリーター、核家族と家庭内暴力、女性の男性化、身体感覚の喪失、個性の絶対化など現代日本が抱える身近な問題を、言語学、経済学、構造人類学、レヴィナス、フーコー、フロイトなど現代思想をさりげなく使って考える)

 

·       難波江和英、内田樹『現代思想のパフォーマンス』(光文社新書、2004[初版の単行本は1999]。それぞれの章でソシュール、バルト、フーコー、レヴィ=ストロース、ラカン、サイードの思想を案内編、解説編、実践編に分けて明快に解説している。例えば、レヴィ=ストロースの章[内田担当]では、解説編でオイディプス神話の構造分析を手際よく紹介し、実践編では「贈与と返礼」の理論と同じものを、小津安二郎の『お早う』から見事な手際で取り出してみせる。バルトの章の実践編[内田担当]における"le sens obvie"[迎えに来る意味]"le sens obtus"[鈍い意味]の概念を用いた映画『エイリアン』の分析も秀逸)

 

·       仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想:ポストモダンとは何だったのか』NHK BOOKS2006年)(1980年代の日本における「現代思想=ポスト構造主義」の登場と衰退を分かりやすく解説することを目的とした本であり、実際、ニュー・アカデミズムの旗手たち[浅田彰、中沢新一ら]の批評的実践を簡潔明快に総括しているが[3,4]、それに先立つ日本におけるマルクス主義の興隆と衰退を、これも明快に論じた第1部の方が読みごたえがある。戦後日本の思想の変遷・流れを知るには格好の入門書)

 

·       高田明典『世界をよくする現代思想入門』(ちくま新書、2006年。最新のアガンベン、ジャン=リュック・ナンシー、モランをも含む現代思想を、専門用語をできるだけ使わずに、分かりやすく[分かりやす過ぎるほどに]紹介している。巻末の、率直なコメント付きのブックリストも初心者には有用。ただし、この本では、不可解にも、マルクスについて一度も言及されない。ニーチェ、フロイトには触れているにもかかわらず。またレヴィ=ストロースを論じる際にも、「大きな物語」の消滅を語る際にも、一切マルクスの名前を出さない。あたかもマルクスなど初めから存在していなかったようである。「世界をよくする」と題しているが、経済学的なアプローチもほとんどない。この点で上記の仲正氏の著書とは対照的)

 

·       中沢新一『人類最古の哲学:カイエ・ソバージュI(中央大学総合政策学部時代の講義録。第3-7章は「シンデレラ」のフランス版、ドイツ版、ポルトガル版、中国版、北米インディアン版の神話構造の相違を、レヴィ=ストロースの構造主義とマルクス主義ともちろん神話的思考を武器にスリリングに読み解き、その神話の古層に迫る。暗黙裡にユングの普遍的無意識を全否定している。「元型」は人類の移動につれて伝播したのである)。『熊から王へ:カイエ・ソバージュII(アイヌ、ニヴフ、イヌイットなどの神話が語る、人が熊であり、熊が人であった「対称性の社会」が、王という権力の出現によっていかに崩れていったか。人間が動物を「モノ」のごとく殺戮し消費し、人と動物との関係が圧倒的に非対称的な現代社会への警告)。『愛と経済のロゴス:カイエ・ソバージュIII(このシリーズ中もっとも重要な巻だろう。純粋贈与概念の導入のために志賀直哉の「小僧の神様」を使っているところが心憎い。資本主義の秘密を贈与論によって解き明かす。ただし、カトリック的一神教と資本主義の親和性を論じる部分は、『緑の資本論』[集英社、2002]の方が分かり易いと思う)。『神の発明:カイエ・ソバージュIV(スピリットとグレート・スピリットからなる対称性の神話世界が、いかなる過程を経て高神と来訪神の世界へ、そして唯一神の世界へと移行したかをスリリングに跡づける。第1,2章における最新の脳科学、「内部視覚」論、認知考古学等の援用や、その他の章におけるメビウスルの帯やトーラス型といった幾何学の利用には抵抗を感じる。もっとも、その部分がオリジナリティーなのだろうが)。『対称性人類学:カイエ・ソバージュV(中沢的対称性人類学の集大成) 。

 

·       ルネ・ジラール『欲望の現象学』(古田幸男訳、法政大学出版局、1971年)(1章「《三角形的》欲望」――自発的、自律的欲望: 「チーズの塊やブドー酒の革袋をながめて湧きおこる欲望といった類いは自発的なものだ」[3]。媒介された欲望、三角形的欲望: 「ドン・キホーテもサンチョ・パンサも自分たちの欲望を他者[ドン・キホーテの場合は騎士物語から、サンチョ・パンサの場合はドン・キホーテから]から借用している」[3]。この場合の他者をギラールは「媒体」と呼ぶ。「媒体の影響力が強くあらわれるやいなや、現実感覚は失われ、判断力が麻痺する」[3]。「エンマ・ボヴァリーは、彼女の想像力を満たすロマンティークなヒロイン[媒体]たちを通じて欲望する」[4]。「虚栄心の強い男[ジュリヤン・ソレル]は、自分の欲望を、自分自身の心の奥底から引き出してくることができない。彼はそれを他人から借用してくるのだ」[5]。「買い手が支払おうと覚悟している値段は、刻一刻つりあがるが、それは、かれが競争相手に自ら想像を逞しくして賦与する架空の欲望に応じて高騰するのだ。ここには架空の想像された欲望の模倣、きわめて小心翼々たる模倣さえ見られる」[6]。「虚栄心を持った男がある対象を欲望するためには、その対象が、彼に影響力をもつ第三者によってすでに欲望されているということを。その男に知らせるだけで十分である。」[7]。「その対象物が主体の目に無限に好ましく望ましいものと見えるように仕向けるのは、それが現実に存在するものであれ推測されたものであれ、まさしくこうした媒体の欲望そのものなのである。」[8]。「嫉妬する人間は、自分の欲望が自発的なものである、つまり欲望が対象に、その対象物そのものだけに根ざしているのだと、きわめて安易に思い込んでいる[しかし実は嫉妬の対象であるライバルの欲望を模倣しているに過ぎない]。」[13]。「欲望というものの持つ模倣的性格は......現代においては知覚することが困難である。なぜなら、最も熱烈な模倣が最もきびしく否定されているからである。ドン・キホーテは自分がアマディースの弟子であることを公言してはばからなかった。彼の時代の作家たちは古代の人々の弟子であるとみずから公言してはばからなかった。ロマンティークな虚栄心を持つ者はもはや自分が誰かの弟子であるなどということを望みはしない。彼は自分が無限に独自なものであると信じている。十九世紀においてはいかなる分野でも、自発性が模倣というものを玉座から引きずりおろして、みずからドグマとなる。」[16]。「ロマンティークで虚栄心の強い人は、自分の欲望が事物の本性に根ざしている、あるいはまた、結局は同じことだが、それが澄みきった主観性の発露であり、ほとんど神の如き自我の無からの(ex nihilo)創造であるといつも信じたがっているのだ。」[17]。「虚栄心に依存する欲望はつねに他者の欲望である。」「21」。 プルーストからの引用: 「恋愛においては、幸運に恵まれたライバル、それはわれわれの敵といっても過言ではないが、彼はわれわれの恩人である。われわれのうちに無意味な肉体的欲望しか挑発しないような存在にたいして、ライバルはたちどころに無限の価値をつけ加える。われわれはその女性とその価値を混同するのだ。もしわれわれにライバルというものがなかったならどうだろう。いや、もしわれわれにライバルがあると思わなかったら......なぜなら、ライバルが実際に存在することは必要ではないからだ。」[25]。「プルーストの欲望は常に借用された欲望なのだ。」[37]。「媒体が[主体に]接近すればするほど、その役割は増大し、対象の役割は減少する。」[49]2章「『赤』と『黒』」[スタンダール論]――)

 

·       ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』(西谷修、安原伸一郎訳、以文社、2001年)(親切きわまりない訳注と西谷修の「あとがきに代えて」がきわめて分かりやすい。「私は死ぬことはできない。......死んだ人は、フィクションでもなければ、「私は死んだ」とは言えない。〈死〉は〈私〉の可能性に属していない。.....では〈死〉は誰のものか。.....[ナンシーは]〈死〉そのものが、すでに独りでは起こらない〈共同の〉出来事だと言うのだ」[pp. 284-85]

 

·       モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』(西谷修訳、ちくま学芸文庫、1997年)(これも訳注が親切きわまりない。西谷修の「あとがき」がすごい。「さてこの本は、バタイユの一九三〇年代の歩みと、[マグリット・]デュラスの『死の病い』とを考察の直接の対象としているが、全体としては、ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』に呼応して書かれたものだということができる」[p. 174]。ナンシーの著書の適確な要約 [pp. 176-81] を含む。)

 

·       酒井健『バタイユ入門』(ちくま新書、1996年)(優れた入門書。不定形の共同体――「私としては、形態が人の望みうる限り緩い共同体、不定形ですらある共同体を想像することができる。この共同体の唯一の成立条件は、道徳的自由の体験が、個人の自由という凡庸な意味――自由の意味それ自体の自己無化、自己否定に他ならない意味――に還元されずに、共有化されること、これだけである」[「ニーチェ覚書」1945]......この体験[神秘体験]においては内部の力[フォルス]が噴出して個人の一体性が破られる。この個人の破綻を言うためにバタイユは、「亀裂」、「裂傷」、「開口部」なる言葉を用いた。.....こうした個人の否定においてしか、「裂傷」を通してしか、人間間の真のつながり、彼の言うところの「交流」(=communication)はないと考えていた。「不定形の共同体」とは、「裂傷」を自らに穿った者同士の「交流」のことである」 [pp.132-33])。

 

·       ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の課題」(山口裕之編訳『ベンヤミン・アンソロジー』(河出文庫)。ポール・ド・マンが取り上げたことでも知られる難解極まるエッセイ。著名な英訳者、仏語訳訳者も誤訳するほど。全体として難解でも、個々の文句には興味深いものがある。「芸術作品の「生」(Leben)」そして「死後の生(Fortleben)という考え方は、メタファーとしてではなく、完全に事実そのものに即して理解しなければならない」(89)。「作品の死後の生は、被造物の死後の生などより、比べものにならないほど認識しやすい......」(90頁)。「原作の死後の生がもし生けるものの変容と刷新でないとすれば、死後の生という言葉でそれを呼ぶべきでないわけだが、原作はまさにそういった死後の生のなかで変化していくからだ。書き留められた言葉にも追熟というものがある。作家の時代には、場合によっては彼の詩的言語の傾向であったものが、後の時代には用済みにのものとなってしまうこともありうるし、内在的傾向が形成物としての作品から新たに浮かび上がることもありうる。当時若々しかったものが、後の時代には使い古された響きとなることもあるし、当時一般的だっな言葉が古めかしい響きになることもある」(93頁)。「「イロニー的」という言葉から、ロマン主義者たちの思考のあり方を思い起こしておくのも無駄なことではなかろう。彼らは他の誰にもまして作品の生というものを洞察していた......」(98頁)。「異質な言語のうちに呪縛された純粋言語を、自分自身の翻訳の言語のなかで救済すること、作品のうちにとらわれた言語を作品の改作[翻訳]において解放すること、それが翻訳者の課題なのである」(106頁)。)

 

フェミニズム批評(Feminist Criticism)

·       エレイン・ショーウォーター編『新フェミニズム批評:女性・文学・理論』青山誠子訳(岩波書店、1990年。名著の名訳) Elaine Showalter ed., The New Feminist Criticism: Essays on Women, Literature, and Theory (New York: Pantheon Books, 1985)(ショーウォーター自身の「荒野のフェミニズム批評」[Feminist Criticism in the Wilderness]が重要)

 

· 竹村和子『フェミニズム』思考のフロンティアシリーズ(岩波書店、2000年)(日本の文学系フェミニズム研究の第一人者)

 

· ナンシー・チョドロウ『母親業の再生産』(新曜社、1981年。The Reproduction of Mothering: Psychoanalysis and the Sociology of Gender (Berkeley: University of California Press, 1978)80年代以降のフェミニズムに大きな影響を与えた。前エディプス期の男女の幼児の母親[対象]との関係を、精神分析学から派生した対象関係理論[object-relations theory]を用いて解明。以下その概要――前エディプス期には、男女とも母子融合的な状況を経験する。母親は娘を自分自身の「延長」と見なすので、母親は娘を別個の人格として扱うことが少ない。母娘関係は、「同一化関係」となる。一方、母親は息子を異性(自分とは異なる性的他者)として扱い、その関係は「性愛的な関係」に近い。女性が女性らしくなるのは、女性(母)が自分と同じものとして女性(娘)を育てるように仕向けられるからである。男性が男性らしくなるのは、女性(母)が自分と異なるものとして息子を育てるからである。)

 

·       Maggie Humm, The Dictionary of Feminist Theory (New York: Harvester Wheatsheaf, 1989)

 

·       斎藤美奈子『モダンガール論』(文春文庫)(日本の近代化とともに生まれた理想の女性像としての良妻賢母。従来のフェミニズムによって目の敵にされてきたこの思想が、当時は中上流の女性たちに歓迎された新しい理想像であったことを、独自の「欲望史観」に基づき、かつ丹念に資料に当たりながら、明らかにする。その一方で、女中や女工の悲しい歴史の再検討をも忘れない。内容は博士論文級の立派な学術論文だが、堅苦しさは微塵もなく、他の斎藤作品同様、その絶妙な文体で、愉快に楽しく読ませてくれる)

 

マルクス主義批評(Marxist Criticism)

·       岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』(ちくま学芸文庫、1992年。マルクス経済学の極めて平易な入門書として読める。貨幣と資本の違いは?利潤はいかに生み出されるのか?商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業資本主義とは何か?これらのことが、『ヴェニスの商人』の分析やキャベツ人形ブームの謎解きを通して、自然に理解できる)。『貨幣論』(ちくま学芸文庫、1998年。第5[危機論」は、資本主義の真の危機をもたらすものがマルクスの言うような恐慌ではなく、ハイパーインフレーションであることを論じる。貨幣は「無限のかなたの未来に住む人間から今ここに住む人間へと送られてきた、気前のよい贈りものにほかならない。」[197]、「貨幣ははじめから貨幣であるのではない。貨幣は貨幣になるのである」[201])。『資本主義を語る』(講談社、1994年。第1章「差異と人間」は剰余価値を生み出すものが人間ではなく差異であることを論じ、古典派、マルクス主義、新古典派の人間主義を批判する。第3章「「法人」と日本資本主義」は、ヒトでもありモノでもある法人の概念から、日本独特の資本主義を論じる。第4章は網野善彦との対談)

 

·       Gayatri C. Spivak. "Can the Subaltern Speak?" in Cary Nelson and Lawrence Grossberg eds. Marxism and the Interpretation of Culture (1988) 。ガヤトリ・C・スピヴァック『サバルタンは語ることができるか』上村忠男訳(みすず書房、1998年)(第4セクションの寡婦殉死[sati]をめぐる論考を読まれたい。これほどイデオロギーとは何かをよく教えてくれる論文も少ない。ヒンドゥー・イデオロギーの中にある寡婦は、自らの意志で夫の遺体の置かれた薪の上に登り、生きたまま火に焼かれて死ぬこともできる。会葬者(男も女も)それを至上の美徳の行為として眺めることができる。であれば、今日の我々は、生死に関わらぬ諸々の些事に至るまで、意志に基づく行為と自らは思いながらも、実はイデオロギーに強いられて行なっているのかもしれない。Spivakの文章は難解で知られるが、それでも上村氏の訳は不親切に過ぎる。理論の上級者にしか読めない。特殊な訳語も多い。もっと親切な訳にできる余地が多々ある。難解な部分を分かり易く解説する注釈を、なぜ付けられないのか。「サバルタンはこの訳を理解できるか」)

 

ポストコロニアル批評(Postcolonial Criticism)

·       アーニャ・ルーンバ『ポストコロニアル理論入門』吉原ゆかり訳(松柏社、2001年) Ania Loomba, Colonialism/Postcolonialism (London: Routledge, 1998)

 

·       カン・サンジュ編『ポストコロニアリズム』(作品社、2001年)(日本のポストコロニアル批評の論集。用語解説、主要文献一覧もあり便利)

 

·       小森陽一『ポストコロニアル』思考のフロンティア(岩波書店、2001年)(日本文学にポストコロニアル批評は無縁のように見えて、実はそうではないということを、『坊ちゃん』の見事な分析で示す)

 

·       斎藤一著『帝国日本の英文学』(人文書院、2006年)(4章「日本の『闇の奥』」は、西洋人による西洋植民地主義批判であるジッドの『コンゴ紀行』の邦訳(1938年)と『闇の奥』の邦訳(中野好夫、1940年)が、いかに日本の南方進出の正当化を準備したかを論じている。理論(ポストコロニアルとディコンストラクション)の使い方は教科書的で、論旨もきわめて単純だが、英文学研究者としての自分の立ち位置を誠実に再確認した好著)

 

·       正木恒夫『植民地幻想--イギリス文学と非ヨーロッパ』(みすず書房、1995年。イギリス文学における食人種言説の優れた研究。第2章「ポカホンタスと食人種」と第3章「スー族とコロンブス」は、食人種言説がいかに先住民の殺戮と征服に利用されるに至ったかを論じる。第6章「ロビンソン・パラドックス」は、『ロビンソン・クルーソー』にける食人種言説を論じると同時に、この小説が、その後一般に浸透したイメージを越えて、いかに複雑な小説であるかを示す。第7章「クックと南海の「楽園」」)

 

物語論(Narratology)、読者反応論(Reader-Response Theory)

·       デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』柴田元幸・斎藤兆史訳、白水社(これを読めば、少なくとも、作者の「思い」、「メッセージ」、「言いたいこと」などを云々するナイーブなレポート・論文は書けなくなる。文学作品は作者がどういう人間かを知るたんなる手掛かりではない)