フィレンツェだより
2007年9月30日



 




アッシジの丘
サン・フランチェスコ聖堂



§アッシジの旅(その2) - アッシジの聖フランチェスコ

FS線のアッシジ駅は丘の麓にあって,丘の上のアッシジの町とは離れている.


 駅を出て,線路沿いに左に進み,角を左に曲がってしばらく歩くと,大きな聖堂が見えてくる.サンタ・マリーア・デーリ・アンジェリ教会だ.最初に見えるのは後姿で,横を通り過ぎて前に回ると大きな広場があり,そこから見上げる聖堂のファサードは圧巻である.かなり遠くまでひかなければ,中央部にある丸屋根(クーポラ)も鐘楼も見えないほどだ.一番上には大きな聖母マリアの像が黄金に輝いている.

 この教会の創建は1569年と比較的新しい(それでも関が原の戦いの31年前)が,この地はアッシジの聖人フランチェスコ※が伝道を始めた時に庵を結んだ場所であり,後に別の場所に移ったが,その生涯を終えるときに病身を運ばせ,息を引き取った場所でもある.いわば一種の聖地に建てられた教会だ.

(※今まで慣例に従い聖フランシスと表記してきたが,今回はフランチェスコで通す)

写真:
アッシジの丘から
麓の町を見る



アッシジの聖フランチェスコ
 高校時代,ゼッフィレッリ監督が聖フランチェスコの生涯を描いた映画「ブラザー・サン,シスター・ムーン」が郷里の岩手県でも上映された.当時は何かの都合で見られなかったが,今はDVDで見られるので,購入して北本の茅屋に置いてある.しかし,実はまだ見ていない.昔テレビで宣伝していた予告編の映像と当時買っていた映画雑誌の写真で幾つかの場面を見ただけだ.

 創元文庫の翻訳で読んだ『ゼッフィレッリ自伝』には,この映画が当たりを取らなかったことへの不満が綴られていた.宗教的な題材の作品はあるいはカトリック以外の国では受けないのかも知れない.

 今も全く進歩が無いが,イタリア語を初めて勉強しようと思ったのは大学生の時で,生協で買った本が,

 西本晃二『新講 現代のイタリヤ語』三省堂,1977

だった.「イタリヤ語」とわざわざ表記するのはそれなりの思い入れがあってのことだと思う.

 この本は東大文学部のイタリア文学の先生がお書きになったので,人によっては文学に偏していると思うような内容かも知れないが,マンゾーニもカルドゥッチも知らなかったので,ためになったし,「リゴレット」のマントヴァ公爵のアリアを導入に使うなどかなり工夫された構成の本だった.

 後ろの方では詩も取り上げられていた.ロレンツォ・デ・メディチの「バッカスとアリアドネの凱旋行進」とともに紹介されていたのが,聖フランチェスコの「被造物の歌」だ.「ブラザー・サン,シスター・ムーン」のタイトルのもととなった「兄弟なる太陽」(フラーテ・ソーレ)と「姉妹なる月」(ソーラ・ルーナ)という語が,「被造物の歌」にあることも,この本によって知った.

 フラテッロやソレッラではなくフラーテ,ソーラになっているのは古風な用語なのだろう.ラテン語ではフラーテルとソロルである.



 アッシジの聖フランチェスコは,1182年にアッシジの富裕な商人の子として生まれた.野心も名誉欲もある普通の青年だったが,同じウンブリア地方の隣国ペルージャとの戦争で捕虜になり,それを契機に人生や宗教への深い考えを持つようになる.

 やがてフランチェスコは,世俗の恩愛と財産を捨て,神の教えに従い,清貧な生活を送る修道と伝道の生活に入る.彼の思想に共鳴する人も多く,ローマ教皇の支持を得て,後に大修道会となるフランチェスコ会の基礎が作られた.

 神への思いが深く,手足と脇腹に磔刑のキリストと同じ傷が出来たとされ,これが聖痕(スティグマ)と呼ばれて,フランチェスコを描く時の印となる.

 「被造物の歌」は1224年の作とされるので,『神曲』を書いたダンテが生まれる41年前のことである.その2年後の1226年に44歳で亡くなったフランチェスコは,後に列聖されて聖フランチェスコとして西ヨーロッパ全域で敬慕を集めることになる.

写真:
丘の中腹にあるサン・ダミアーノ
教会へ向かう坂の入口で



ポルツィウンコラ礼拝堂
 聖人の跡を訪ねる巡礼者は多い.アッシジで最初に拝観したサンタ・マリーア・デーリ・アンジェリ教会が大伽藍であるのも理由のあることと思われる.

 果たして,それがフランチェスコの気持ちにかなっているかどうかは別の問題だろうが,彼が修道の場としたポルツィウンコラ礼拝堂があった地に大きな教会が建てられ,小さな礼拝堂を包み込むようにして大聖堂が建っているのは,彼を慕う人々の気持ちの現れと今は考えておこう.

 ポルツィウンコラ礼拝堂は,サンタ・マリーア・デーリ・アンジェリ教会の中にある小さな庵のような礼拝堂で,その内外にフレスコ画が描かれている.

 外側のフレスコ画は19世紀にフリードリッヒ・オーヴァーベック(オーファーベック)によって描かれた新しいものだが,内部の祭壇にある「受胎告知」を中心とするフレスコ画が印象に残った.イラーリオ・ダ・ヴィテルボという初めて聞く画家が1393年に描いたものだそうなので,聖人の死後167年後の作品だが,それでも中世イギリス文学を代表する大詩人ジェフリー・チョーサーが死んだ1400年よりさらに昔だ.周辺にはフランチェスコの物語が細かく描かれているが,「受胎告知」が圧倒的に素晴らしい.


「神のお召しの礼拝堂」
 この礼拝堂の近くにやはり,建物の形をした「神のお召しの礼拝堂」がある.「神のお召し」は日本語版ガイドブックの訳語に従ったが,ラテン語ではトランシトゥス「死」(遷化)となっており,要するにフランチェスコが終焉を迎えた場所に建てられた礼拝堂である.これも聖堂の中にある.

 礼拝堂の外壁にはフランチェスコの死を描いたドメニコ・ブルスキのフレスコ画(19世紀)があり,内部にもフランチェスコの高弟たちを描いたジョヴァンニ・ディ・ピエトロ通称スパーニャのフレスコ画があるが,この礼拝堂で最も芸術性の高い作品はアンドレーア・デッラ・ロッビアのテラコッタのフランチェスコ像であろう.ここでもフィレンツェの芸術家に出会えた.

 祭壇に祀られた聖遺物は,フランチェスコの腰縄である.

 聖堂内部は,フランチェスコの遺志とは別に芸術作品に満ちている.ジャーコモ・ジョルジェッティ,チェーザレ・セルメイなど,後でアッシジの各地で出会うことになる17世紀のアッシジやペルージャ出身の地元ウンブリアの画家たちが描いたフレスコ画その他があり,天井には,16世紀後半のシエナの画家ヴェントゥーラ・サリンベーニによって「キリスト復活」が描かれている.彼の作品については,可愛い幼児の洗礼者ヨハネが子犬を抱いた「聖家族」がパラティーナ美術館で見られる.


付属博物館
 付属博物館ではジュンタ・ピザーノの「キリスト磔刑像」,14世紀の「授乳の聖母」の石像が見られる.この博物館にあったアンドレーア・デッラ・ロッビアの彩釉テラコッタの「聖母戴冠」が素晴らしかった.

写真:
白鳩のつがいが柱の上で
こちらを見つめていた


 聖堂から博物館に行く途中にはフランチェスコの伝説にまつわるバラ園があり,その横を通る回廊には2羽の白い鳩を抱いたフランチェスコの像がある.この回廊を歩いているとき,柱の上に生きている2羽の白い鳩が現れた.

 この後,サン・フランチェスコ教会に行ったのだが,書くことがあり過ぎるので,「明日に続く」とする.


<今日の活動>
 今日(9月30日)は昨日に引き続いて国立の美術館,博物館が入場無料なので,予定通りピッティ宮殿に行き,パラティーナ美術館と近代美術館を見た.

 前回,前々回ともに,よその美術展に出張中だったボッティチェルリの「美しきシモネッタ」とかつて言われていた「女性像」,ラファエッロの「エゼキエルの幻視」が戻ってきていた.特に後者は小さいが素晴らしい絵で,ラファエッロがミケランジェロを尊敬していたのがわかるような力強い絵だった.

 今回の最大の収穫は,ラファエッロの「椅子の聖母」を初めとする幾つかの「聖母子」を再び見ることができたことともに,彼の師匠ペルジーノの実力を再認識できたことだ.「キリスト哀悼」(ピエタ)と跪いて祈るジョヴァンニーノが描き込まれた「袋の聖母」は素晴らしかった.

 ロッソ・フィオレンティーノの「玉座の聖母子と聖人たち」は見る回数を重ねるごとに魅力を増してくるように思える.

 サルヴァトール・ローザの絵は全て他の美術展に出張中だったが,その代わりに普段は展示されていないヤコポ・リゴッツィの宗教画4点とチーゴリの「キリスト復活」を見ることができた.

 リゴッツィの絵は他にもパラティーナにはあるし,フィレンツェの教会でも何点かの作品が見られるので,フィレンツェでは特に目立たない画家だが,ヴェローナ生まれの彼の作品(「4人の殉教者」)をラヴェンナの市立美術館で見たときに,その際立った画力に目を見張った.ラヴェンナの市立美術館では,後日述べるように興味深い多くの画家に出会えたが,そこで見た画家たちに比べると,やはりリゴッツィはローカルを越えた存在に思えた.また今回は,チーゴリの作品も数点見られたので,じっくりと鑑賞した.

 マッテーオ・ロッセッリの「ダヴィデの凱旋」も良い絵だったし,フランチェスコ・クッラーディの宗教画ではない「泉のほとりのナルキッソス」もじっくり鑑賞できた.

 アンドレア・デル・サルトも,3点の「受胎告知」を始め何枚も見ることができた.彼の「栄光の聖母と聖人たち」に描かれたヒエロニュモスの衣にも「受胎告知」が描かれていた.

 サンティ・ディ・ティート,クリストファノ・アッローリの絵も数点見ることができたが,アレッサンドロ・アッローリの「聖母子」が見られる部屋は今日も公開されていなかった.チーゴリの「聖ステパノの殉教」もペルジーノの「マグダラのマリア」も見られなかった.

 サルヴィアーティ,グェルチーノ,アルベルティネッリ,ルーカ・シニョレッリ,ベッカフーミなど,他の美術館であれば目玉となる画家たちの作品がさりげなく展示してあって,この美術館は本当にすごい.ヤコポ・デル・セッラーイオの「聖母子と幼児の洗礼者ヨハネ」も見ることができたし,傑作とは言えないかもしれないがフランチャビージョの寓意画「アペレスの誹謗」,ルッカのサン・フレディアーノ教会の礼拝堂でフレスコ画を見たボローニャの画家アミーコ・アスペルティーニの作品とされる「三王礼拝」の存在に気づいてじっくり鑑賞できたのも幸運だった.

 ポントルモの「三王礼拝」は以前から鑑賞しているが,「一万人の殉教」はウェブページで情報を得て,今日初めてじっくり見たが,思ったより小さな絵で少し失望した.

 ヴェロネーゼの「キリストの洗礼」は傑作だった.ヴェロネーゼだけでなくティツィアーノ,ティントレットなどヴェネツィア派の画家の絵もかなりの数が見られ,ルーベンス,ムリーリョ,ファン・ダイクなど外国の大画家の作品も複数見られるこの美術館はフィレンツェという一地方を越えた美術館と言えるだろう.

 パラティーナは何度行っても素晴らしい.通算4回目の入館だが,今度は入場料を払って,これからも何度も訪れたい.もちろんフィレンツェ滞在を終えて,観光客としてイタリアに来る時にも必ず寄りたい.



 ピッティ宮殿に行く途中,サント・スピリト広場を通ったが,フィレンツェ滞在半年目で初めてサント・スピリト教会の扉が開いているのを見た.中に入れてもらったが,日曜の礼拝と説教が行われており,お祈りする信者のための時間のようだったので,今日は拝観を遠慮した.

 しかし,この教会が修復中でないことはわかったので,次回は平日の午前中に行って是非拝観させてもらおう.





ピッティ宮殿の中庭と
ボーボリ庭園