フィレンツェだより
2007年11月4日



 




アレッツォのドゥオーモ
今回は「日本晴れ」と言いたいくらいの快晴



§アレッツォ再訪

昨日(11月3日)は久しぶりに朝から爽快な晴天だったので,朝食をとりながら,勿体ないからどこかに遠足に行こうと相談が始まった.


 一番近いのはプラートだが,昼休みで閉まってしまうところが多いので,9時過ぎの出発は少し出遅れの感がある.アレッツォなら,少なくとも美術館とフランチェスコ教会は昼休みがない.

 午前中に教会を1つ,あわよくば2つ拝観して,昼休みの時間帯はピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画と中世・近代美術館を見て,夕方,どこかもう一つ教会を拝観して(もう夕方の遅い時間は絵はほとんど見えなくなっているが)帰ってこようと相談がまとまった.

 インターネットでトレニターリア(イタリア鉄道)の時刻表をチェックすると,中央駅から出るローカル線には丁度良いのがなかったが,10時32分カンポ・ディ・マルテ駅発のインターシティ(ユーロスターが超特急なら,特急のようなもの)なら,アレッツォに11時半にはつけることがわかった.急いで17番の路線バスに乗り込んで,カンポ・ディ・マルテ駅を目指した.



 バスに乗り込んでから,運転手さんに「カンポ・ディ・マルテ駅に行きたいので降りるバス停を教えてほしい」とお願いすると,「駅には停まらないので,近くになったら教える」と言われ,降りてからの道も簡単に教えてもらった.そのバス停で降ろしてもらい,交差点のところでまごまごしていたら,今度は一緒に降りた女性が,親切に「電車に乗るの?では,駅はあっち」と教えてくださった.

 こうして,運転手さんと一般乗客の方の親切で悠々間に合う時間に駅に着いたが,ミラノ中央駅発のインターシティは,長い路線にはトラブルも多いのであろう,指定券購入直後に30分遅れの表示が出た.次のフィレンツェ中央駅発のローカル線が追いついてしまう時間だ.

でも折角指定券を買ったし,皆さんの親切でカンポ・ディ・マルテまで来たのだからと,インターシティを待つことにしたが,まもなく55分遅れと表示が変わった.


 仕方なく時間をつぶすために外に出て(こちらは車内検札だけなので,ホームには自由に出入りできる),駅に向かう途中目に留まったキエーザ・ディ・セッテ・サンティ・フォンダトーリ(7人の聖創設者たちの教会)を拝観することにした.

 この教会は19世紀末の創建で,建物は新しく,内部の芸術作品もジュゼッペ・カッシオーリという20世紀の芸術家によるものだが,リュネットのフレスコ画と各礼拝堂の祭壇画はそれなりの風格を持った作品で,カトリックの宗教芸術の生命の発展的連続を感じることができた.



 駅に戻ると,遅れは60分になっており,さらに遅れそうな気配である.特急料金(差額は2人で6ユーロくらい)と指定席券代(2人で6ユーロ)がもったいないとは思ったが,インターシティはあきらめて,フィレンツェ中央駅から来たフォリーニョ行きのローカル線に乗った.

 ローカル線といっても,間に幾つもある駅を全て飛ばして,次の停車駅はアレッツォだったので,日本式だと「特別快速」くらいのイメージだろうか.おかげで12時前には到着したので,1時まで開いているサンタ・マリーア・デッレ・ピエーヴェ教会を目指した.


最大級の「アンティーク市」
 アレッツォでは毎月第1日曜日に大きな「アンティーク市」が開催される.『地球の歩き方 フィレンツェとトスカーナ2006〜2007』にも書いてあるので知ってはいたが,まだ土曜日なのに,どういう訳か市がたっていた.

 前回6月25日にアレッツォに来たときは,時々小雨に見舞われる曇天のせいもあってか,人もあまり歩いていなかったが,この日は凄かった.しかも,すごい規模で,私たちがこれまで見た中で最大級の市だった.

 イタリア通り(コルソ・イターリア)を北東方向に上っていくとサンタ・マリーア・デッレ・ピエーヴェ教会とその裏のグランデ広場に着く.道と広場を埋め尽くすように露店が並び,それに観光客や地元の人が群がっている.おもしろいものもたくさんあったが,良いと思ったものはそれなりの値段がする.

写真:
グランデ広場の露店


 本もあったが,古典文学の掘り出し物は見つけられなかった.「よくわかって実力がつく」小学生用の古い日本語参考書まで売っていた.店の人が私たちを見て勧めてくれたが,荷物になるので遠慮した.昭和20年代か30年代の本で,資料的価値は十分にあるだろう.縁があったかに思われた私たちにも買われず異国の地で消え去っていく運命にあるのかと思うと,少し寂しい気もするが,仕方がないだろう.


革新の時代に古い絵を描き続けた画家
 途中,前回拝観できなかったサン・ミケーレ教会に立ち寄り,ネーリ・ディ・ビッチの「玉座の聖母子と聖人たち」を拝観した.平凡だが丁寧に描かれた良い絵だと思う.フィレンツェ周辺には本当にネーリの作品が多いし,よく残っている.大傑作ではないが,教会や修道院では大切にされてきたのだろう.

写真:
ネーリ・ディ・ビッチ作
「玉座の聖母子と聖人たち」


 ネーリ・ディ・ビッチは1418年もしくは19年の生まれとされるので,時代的には20年頃生まれたピエロ・デッラ・フランチェスカ,ベノッツォ・ゴッツォリと同世代ということになる.ギルランダイオの師匠のバルドヴィネッティよりも6,7歳上なので,そういう意味では古い画家と言えるだろうが,マザッチョより十数歳若いという意味ではルネサンスの画家であろうに,1491年,もしくは92年に亡くなるまで,延々と中世風の祭壇画を描いていたことになる.

 92年はロレンツォ豪華王が亡くなり,メディチ家の最初の隆盛期が終わり,アメリカ大陸が「発見」された激動の時代だ.レオナルドは既に40歳の大家,ミケランジェロは17歳,そう考えるとネーリの人生にすごく興味を覚える.サンタ・トリニタ教会の「サン・ジョヴァンニ・グァルベルトとヴァッロンブローザの聖人,福者たち」のフレスコ画を見る限り,それなりに実力と野心を持っていた人なのではないかと思う.

 ロレンツォ・ディ・ビッチ,ビッチ・ディ・ロレンツォと続いた工房の三代目の親方として,多くの注文を受け,依頼者の要望に応えながらそれらを誠実にこなした.その結果がフィレンツェ周辺で多く見られる彼の名を冠した作品であろうと想像する.

 サンタ・フェリチタ教会の「聖フェリチタ」,サン・レオナルド・イン・アルチェーティ教会の「受胎告知,父なる神,天使たち,預言者たち」などまだ見ていない作品もあるが,随分たくさんの彼の作品を見てきた.正直に言って,どれも感銘を受ける作品とは言い難いが,アレッツォで見られる「聖母子と聖人たち」(サン・ミケーレ),「受胎告知」(サン・フランチェスコ),「慈悲の聖母と聖人たち」(中世・近代美術館)は手堅い出来だし,特に3番目のものは彼の作品の中では特に出来が良いのではないだろうか.

 『自伝』も書いているそうなので,是非いつか読んでみたい.


サンタ・マリーア・デッレ・ピエーヴェ教会,再訪
 サン・ミケーレ教会を辞去して,露店をひやかしながら,サンタ・マリーア・デッレ・ピエーヴェ教会(以下,ピエーヴェ教会)に着いた.

 前回は紹介しなかったが,ファサードの中央扉の上にある丸い天井の彫刻が可愛い.2003年に修復されて,昔の姿が蘇った13世紀の彩色彫刻で,当時の生活を12ヶ月の様子に分けて彫り上げている.リュネットの被昇天の聖母と天使たち,その下に一列になった聖母と,アレッツォ所縁の聖人である聖サテュロスと聖ドナトゥス,使徒たちもお地蔵さんのようで可愛い.このあたりの感性は日本人とイタリア人は共感しあえるように思う.

写真:
扉上部の13世紀の彫刻
ピエーヴェ教会


 この教会の堂内は簡素だが,中世の古い彫刻が一部残っていて興味深いし,後陣の祭壇が上部と下部に分れ,下部は地下祭室のようになっている.

 しかし,この教会で最も注目されるのは上部祭壇の祭壇画となっているピエトロ・ロレンゼッティの多翼祭壇画「聖母子と聖人たち」だ.これについては6月25日に一度言及しているし,教会も石造りの大きな空洞のような雰囲気なので,実はあまり気乗りしなかったのだが,妻のたっての希望で,まずこの教会を再訪した.彼女の卓見に脱帽する.この祭壇画は大傑作の名にふさわしい.さすがピエトロ,またシエナに行くのが楽しみだ.聖母と幼児のイエス,その上の「受胎告知」も良い.

写真:
祭壇画「聖母子と聖人たち」
ピエトロ・ロレンゼッティ作


 この教会は撮影厳禁だと思ったので,前回内部の写真は撮っていないが,よく見ると「フラッシュ禁止」とあったので,今回は堂内の彫刻などを撮らせてもらった.ただしロレンゼッティの祭壇画は正面での撮影は禁止されていたので,上はあくまでも遠くから撮った堂内の風景写真の一部である.


露店をひやかしながら
 ピエーヴェ教会を辞去して,ヴァザーリの開廊(ロッジャ),グランデ広場に所狭しと並ぶ露店をひやかして歩いたが,なんとも楽しい催しだ.このアンティーク市の企画が始まってということなのか,別の行事なのかはわからなかったが,40周年記念の大行事らしい.

 さらに坂を上ってペトラルカの生家とされる建物の回廊(キオストロ)でも市がたっていたので覗き,ペトラルカの立像のある公園を横目に見ながら,ドゥオーモに着いたが,ドゥオーモと付属博物館は昼休みだった.やはり露店で賑わう,県庁と市庁舎の間の広場から坂を下りてサン・フランチェスコ教会に向かった.

写真:
骨董市を楽しむ人たちで
賑わう
県庁と市庁舎の間の広場



サンフランチェスコ教会の陽の当たらない部分
 アレッツォ観光の最大の目玉であるこの教会には昼休みはなかったが,教会の外にある券売所に行ったら,ピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画拝観は本日は「SOLD OUT」だった.なるほどこれだけの人が出る季節であれば,要予約の狭い礼拝堂拝観は難しいだろう.

 それでも教会自体には入ることができて,ピエロのフレスコ画も遠目にはかなりしっかりと鑑賞することができるし,この教会の堂内は保存状態はよくないが,フレスコ画の宝庫でもある.

 今のところ,この教会の,ピエロのフレスコ画「聖十字架の物語」以外の作品に関する資料は,アレッツォのガイドブック(Giorgio Feri, Guide to Arezzo, Arezzo: Cartaria Aretina, 2007)の英訳版しかない.ピエロの作品については情報豊富だが,これについては啓蒙的な本もたくさん出ているので,むしろそれ以外の情報が貴重だ.この本のおかげで堂内のフレスコ画と注目すべき祭壇画の作者は大体知ることができるが,残念ながら作者名と絵柄がわかる程度でしかない.

 中央祭壇の位置の後ろにある(フランチェスコ教会なので,T字型だから明確な後陣ではない)バッチ礼拝堂の「聖十字架の物語」は,当初ネーリ・ディ・ビッチの父ビッチ・ディ・ロレンツォに依頼され,天井の福音史家,礼拝堂の前壁面上部の「最後の審判」とアーチ型の柱の聖人たちはビッチの作品だそうだが,剥落が激しく,観光資源としての扱いも寂しい.ここでも気の毒なビッチを見てしまった.実力者なのに.



 隣のタルラーティ礼拝堂は,ビッチの息子ネーリの「受胎告知」が祭壇画になっていて,左壁面にはルーカ・シニョレッリの剥離フレスコの「受胎告知」,右壁面にはスピネッロ・アレティーノの「キリストの磔刑」のフレスコ画がある.

 そう,この教会では私たちの好きなスピネッロの作品をある程度まとめて見られるのだ.バッチ礼拝堂の右隣のグァスコーニ礼拝堂の壁面を埋めるフレスコ画「聖ミカエルの物語」の作者もスピネッロだ.この礼拝堂には実力者ニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリーニの祭壇画もある.

 これらの見応えのあるタルラーティ,バッチ,グァスコーニの3つの礼拝堂に関しては,やはり予約して近くで見せてもらわないと十分な鑑賞は難しい.

 フランチェスコ派の単廊式教会なので,側廊はなく,身廊右側面ということになるが,グァスコーニ礼拝堂の外側にフレスコ画があり,作者はわからないが,スピネッロ風にも見える.さらにその前に幾つかの場面を描いたフレスコ画があり,このうち「受胎告知」は確実にスピネッロ,「キリストの洗礼」などその他の場面は彼に帰せられる作品ということになっている.

スピネッロの「受胎告知」は,私が知る限りアレッツォで4つ見ることができ,そのうちのサン・ドメニコ教会のものは6月25日に写真を紹介しているが,多分このサン・フランチェスコの「受胎告知」が一番素晴らしいと思う.


 前回,この教会はバッチ礼拝堂だけが撮影禁止だと思ったのだが,今回教会全体が撮影禁止だったので,写真は撮っていないし,絵葉書も売っておらず,ガイドブックにも載っていない.実物を見に行くしかないが,この「受胎告知」は立派だ.

 残念なことにスピネッロは,観光資源としてはピエロに格段に落ちる扱いになっていて,彼の作品を写真で鑑賞することも難しいし,保存もあまり良いとは言えない.時代的には,マザッチョ,ピエロによって「克服」されてしまうジョット派の画風を持った最後の世代の人になるだろうから,様々な見地からピエロほどには価値がないとされるのは,ある程度はやむを得ないかも知れないが,それにしてもこの冷遇には憤りを覚える.

 堂内には「カナの婚礼」など息子のパッリ・ディ・スピネッロの作品も見られ,こちらもなかなかのものだと思うので,もう少し,この親子には光があたってほしい.


サン・ドメニコ教会
 スピネッロ・アレティーノの作品をまとまった数見られるもう一つの教会がサン・ドメニコ教会で,ここにチマブーエの立派な「キリスト磔刑像」があることは6月25日にも報告した.

 前回,十分以上に鑑賞をさせてもらっているが,再びチマブーエとスピネッロに会いたくて,日の明るいうちにと思って坂を上り,この教会を訪ねた.

 入口前の広場に辿り着いたら,葬儀社の車から花輪を載せた柩が運び込まるところだった.お葬式に遭遇したのだ.外で葬儀が終わるのを待つツーリストの姿も少なくなかったが,私たちは前回見ていないところもあるので,次の所に急いだ.

 前回もファサードの一部に修復のために足場が組まれていたが,今回は内部にも足場が組まれているようだった.今はシートに覆われていて見ることが難しいが,前回写真を撮らせてもらっている(ここはチマブーエの十字架以外は写真OK)スピネッロの「聖ピリポと聖ヤコブの物語」を紹介する.1400年くらいの作品ということなので,ジョッテスキの最後の光芒に思えるが,どうだろうか.

写真:
「聖ピリポと聖ヤコブの物語」
スピネッロ・アレティーノ
サン・ドメニコ教会



サンティッシマ・アヌンツィアータ教会
 前回拝観し損ねた教会は,結局今回も殆ど回れなかったが,サンティッシマ・アヌンツィアータ教会だけは昼休みの時間帯にも関わらず,拝観できた.

 この教会のファサードの右外側に壁龕があり,ここにスピネッロのフレスコ画「受胎告知」がある.前回見られなかったものなので,これを見られただけでも,今回アレッツォに来た甲斐があった.修復もされているので,大切にされているのは間違いないようだが,風雨に曝される状態で保存は大丈夫なのだろうか.

写真:
「受胎告知」
スピネッロ・アレティーノ作
サンティッシマ・アヌンツィアータ教会
前面に保護の金網


 サンティッシマ・アヌンツィアータ教会の堂内は,明るくて簡素な美しい空間だった.奥の礼拝堂の一つにマッテーオ・ロッセッリの「受胎告知」があったが,プラートのサン・ドメニコ教会で見た彼の「受胎告知」とあまりにもよく似ているので驚いた.ただ,作品自体は良いものだと思う.

 この教会が見せたいと思っているもう一つの作品としてニッコロ・ソッジの「幼児キリストの礼拝」がある.

 私はこの作品には注目していなかったが,立派なカメラを持ったツーリストが一目散にこの絵の前に来て,写真を何枚も撮っていた.私たちは気づかなかったが,明かりがつけられることもこの人は知っていた.ロッセッリやヴァザーリの絵のある他の礼拝堂や祭壇には明かりはつかないので,特別扱いだと思う.

写真:
「幼児キリストの礼拝」
ニッコロ・ソッジ作
サンティッシマ・アヌンツィアータ教会


 良い絵なのかどうかは私には判断はつかないが,色の綺麗な保存の良い作品で好感が持てる.ヴァザーリの「キリスト降架」などは,いくら何でも修復が必要だろうと思われるほど破損していたのに比べ,ソッジ(1480-1555年)の方が時代的に早い(ヴァザーリは1511-1574年)ことを考えると,大切にされてきたのだろうと想像する.


「地元の画家」
 前回のアレッツォ行で,「地元の画家」として注目した何人かの中に,ソッジとドメニコ・ペコリがある.この後再訪した中世・近代美術館で,数は少ないがソッジとペコリの実力を見せる大きな絵を見ることができた.

 再訪した中世・近代美術館では,前回はピエロ・デッラ・フランチェスカの特別展の影響で展示されていなかったルーカ・シニョレッリの大きな2枚の「栄光の聖母子」,バルトロメオ・デッラ・ガッタの2枚の「聖ロッコ」(うち1枚は前回も展示されていた)と彼の剥離フレスコ画を見ることができたのが最大の収穫だった.

 トスカーナ南部からウンブリアの美術に大きな影響を与えたこの2人の立派な作品を所蔵しているのはこの美術館の誇りだろう.

 ネーリ・ディ・ビッチの「慈悲の聖母」も良かったし,ヴァザーリの実力を再認識した.聖ロッコの絵が2枚あるのはガッタと共通しているが,「無原罪の御宿り」は良い作品だと思った.ただし,フィレンツェのサンティ・アポストリ教会で見ることができる同名の作品とほとんど同じではないかと思える絵柄(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに「ウフッツィ収蔵」としてやはり類似の絵の写真があるが,こちらはサンティ・アポストリの絵の小さなコピーとのことなので,展示はしていないのかも知れない)だった.

 今回は「ヴァザーリの家」にも行くことができた.ヴァザーリの天井画とフラ・パオリーノの「聖母子」が良かった他は,有名な画家の作品もそれほどとは思わなかったが,ともかく一回行けたので,胸のつかえがおりた.


多くの思いを残して
 まだ未拝観の教会でパッリ・ディ・スピネッロのフレスコ画が見られるようだし,今回時間切れで回れなかったドゥオーモと付属美術館を見るためにも,是非もう一度アレッツォに行きたい.ドゥオーモ美術館には絵葉書とガイドブックでしか見ていないスピネッロのもう1枚の「受胎告知」もあるし,ガッタの「聖ヒエロニュモス」もある.

 もちろん,ピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画の予約鑑賞にももう一度挑戦したいし,中世・近代美術館でグァリエントの「天使」,ジョヴァンニ・ダーニョロ・ディ・バルドゥッチョの何点かの剥離フレスコ(「慈悲の聖母」が良い)も見たい.でも,一番見たいのは,スピネッロの「ピエタ」と「三位一体」だ.スピネッロ・アレティーノは大芸術家だと,少なくとも私は思う.



 5時28分アレッツォ発,フィレンツェ中央駅行きのローカル線に乗ってフィレンツェに戻った.今度は本当のローカル線の各駅停車で,今まで何度も乗った線なのに,初めて停まる駅が多かった.

インチーザという駅名も見えた.フランチェスコ・ペトラルカの父祖の地だ.彼の父ペトラッコがフィレンツェに出て,成功を収め,政治に参加するまでになったが,政争に巻き込まれて,亡命.詩人は亡命先のアレッツォで生まれた.


 ペトラッコは有能な人だったので,当時教皇庁があったアヴィニョンに招かれ職を得た.そのおかげでイタリアの各地で称揚される大詩人も南仏で青春を過ごし,最初に学んだ大学も確かモンペリエで,その後ボローニャ大学で学問を修め,最終的にパドヴァ近郊に落ち着き,そこで亡くなった.1367年のことなので,イタリア人文主義の教祖で,ルネサンスの時代を開いた文人は,中世英文学の代表的詩人ジェフリー・チョーサーより33年前に亡くなったことになる.日本では吉田兼好が1352年以降まで生きたそうなので,同時代人と言えるだろうか.

 コスモポリタンのように生き,当時としては壮大な統一イタリアの夢を見た彼の根っこが,この小さな町だとは感慨深かった.フィレンツェとアレッツォの中間にある絶妙の位置だと思った.



秋のアレッツォ 落葉の中で