フィレンツェだより
2007年12月10日



 




フォロ・ロマーノの「元老院」跡
左はカンピドリオの丘のサンタ・マリーア・イン・アラチェリ教会



§地名が語りかける

ウフィッツィ美術館で,マザッチョとの共作以外にもマゾリーノの作品が見られるとは知らなかった.


 これまでも見ていたのだろうか?「謙譲の聖母」と題されているのは,多分マリアが地べたに座っているからだと思うが,実際には「授乳の聖母」に見える.この作品も良かったが,説明の添え書きを見て「あれっ」と思った.彼の出生地がパニカーレ・ヴァルダルノとあったからだ.

 であれば,先日オルヴィエートに行く途中にあったウンブリアのパニカーレとは別のパニカーレということになる.マザッチョについて解説した本に,マゾリーノが「故郷が近い先輩」のように書いてあるのを見たが,もしヴァルダルノにパニカーレという地名があって,マゾリーノはそこ出身ということであれば,この説明は納得が行く.

 しかし,英語版ウィキペディアで「マゾリーノ」を引くと,ヴァルダルとのパニカーレではなく,「ウンブリアのパニカーレ」が出身地になっている.「パニカーレ」の項にはマゾリーノの情報はない.

 イタリア語版ウィキペディアの「パニカーレ」の項目は英語版よりだいぶ詳しいが,マゾリーノの情報はない.「マゾリーノ」で引くと,こちらは英語版よりずっと乏しい情報しかなく,「サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ」が出生地になっている.では,彼の通称であるマゾリーノ・ダ・パニカーレはどこから来たのだろうか.



 オランダ語版の「マゾリーノ」には「パニカーレ・ヴァルダルノ」が出てくるが,「パニカーレ・ヴァルダルノ」は編集中項目,ドイツ語版は「パニカーレ・ディ・ヴァルダルノ」とあって,それをクリックすると「サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ」のページに飛ぶ.

 スペイン語版「マゾリーノ」には本文中に「パニカーレ・デ・ヴァルダルノ」という地名が生地として出てきて,そこはウンブリアとしいる.ただし,生没年のところには出生地は単に「パニカーレ」となっていて,他国語版では亡くなったところはフィレンツェになっているのに,スペイン語版は「サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ」になっている.

 フランス語版は単にパニカーレが生地,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノが死没地になっていて,その他北欧語などと思われる諸ページも同様で,詳しい情報はない.

後日: 帰国後,岩手の実家にあった,朝日新聞社編『朝日美術鑑賞講座1 15世紀ルネサンス絵画@』を見ていたら,マゾリーノが北イタリアのカスティリオーネ・オローナの洗礼堂に描いたフレスコ画「洗礼者ヨハネの物語」の中から「ヘロデの饗宴」が取り上げられていて(p.62以下),その解説に,画家が「アレッツォ県サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノのパニカーレ・ディ・レナッチに生まれる」とあった.

 なるほど,であれば,マザッチョと同郷というのも分かるように思える.


 マゾリーノの絵に特に注目しているわけではないが,常にマザッチョとセットにされているこの年上の友人の人生に興味がある.マザッチョの死後も,大傑作ではないかも知れないが,どこかでは仕事を依頼されて,業績を残している.そのうちどこかで彼の人生についての手がかりが得られないものか,と思う.


ヴェニス・バロック・アンサンブル
 先週の土曜日は恒例によってペルゴラ劇場に行った.先々週の土曜日(12月1日)は,テアトロ・コムナーレに「運命の力」を見に行ったので,2週間ぶりだ.ヴェニス・バロック・アンサンブルのコンサートだった.

 ヴェニス・バロック・アンサンブルと言えば,主催者はアンドレーア・マルコンで,かつて非常勤でラテン語を教えに行っていた東京芸大の授業に出てくれていた人が,少なくとも2人バーゼル・スコラ・カントールムの彼のもとで研鑽を積んでいる.私自身,この人が指揮する演奏会,ヴィヴァルディのコンサート形式のオペラ「救われたアンドロメダ」を東京で聴いたことがある.

 それで,これは聴かずばと思って勇んで行ったのだが,今回マルコンは出演しておらず,チェンバロを弾いたのはマッシミリアーノ・ラスキエッティという人だった.まとめ役はリュート奏者のイヴァーノ・ザネンギで,指揮者はいなかった.

 演目は,ヴィヴァルディの弦楽器と通奏低音のための協奏曲,2丁のヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ,テレマンのフラウト・トラヴェルソ協奏曲の他に,ソプラノのパオーラ・チーニャ,メゾソプラノのロミーナ・バッソを迎えて,ヴィヴァルディ,ヘンデル,ジャコメッリのオペラのアリアである.

 リュートのザネンギは「ヨッシャ,ヨッシャ」という感じの禿頭の大男だったが,これがまた繊細な音を出すリューティストで,統率力も十分の実に素晴らしい演奏家だった.

 メゾのバッソ(先祖も低音を出す人だったのだろうか)は,長身で舞台から聴衆にのしかかるように歌うので,見た目の迫力も十分だった.彼女の歌ったジャコメッリのオペラ「メロペ」から「あの小夜鳴鶯」,チーニャの歌ったヘンデル「ジュリオ・チェーザレ」の「もしあなたが,私に憐れみを感じないなら」は心を打つ熱唱だった.

 昨年,日本でヘンデルのオペラをいくつか聴く機会があったが,それぞれ良い演奏だった.特に,二期会と,バッハ・コレギウム・ジャパンの「ジュリオ・チェーザレ」の器楽は絶賛に値するものだったが,歌手についてはまだまだヨーロッパに一日以上の長があるかも知れない.

 チーニャもバッソもバロック・オペラ専門の歌手というわけではないようなのに,やはりヘンデルはヘンデルらしく(というのも,一種の先入観かも知れないが)歌っていたように思えた.

 ヴィヴァルディの愉悦に満ちた音楽を聴いていると,音楽においてもイタリアの持つ多様性を感じさせられる.良い演奏会だった.


知らぬうちに越えたルビコン川
 ところで,ヘンデルの「ジュリオ・チェーザレ(イン・エジット)」は,ローマ史に取材したオペラだが,完全に史実を反映したものではない.

 粗筋はこうだ.戦いに敗れたポンペイウス(ポンペーオ)を追って,カエサル(チェーザレ)がエジプトに来ると,ポンペイウスは既にプトレマイオス(トロメーオ)王によって殺された後だった.カエサルは腹黒いエジプト王を倒し,ポンペイウスの妻と息子に敵討ちを果たさせ,自らもクレオパトラと結ばれて,彼女をエジプトの女王にする.

 全く史実に反しているわけではないが,歴史をもとにしたハッピー・エンディングの物語で,たとえばシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」とは大いに印象が異なる作品だ.

 歴史の上でも,ポンペイウスはパルサロス(ファルサロス)の決戦(前48年)でカエサルに敗れ,エジプトに亡命し,そこで暗殺された.カエサルがポンペイウスとの決戦を不可避のものとして,決断を下した時の状況は,伝記作家スエトニウス『ローマ皇帝伝』の「神君ユリウス伝」に描かれている.

それに拠れば,紀元前49年にカエサルは「賽は投げられた」と言って川を越えた.ルビコン川である.


 ウルビーノを通ってアドリア海に出る川の古代名がメタウルス,その北にペーザロ(ピサウルム),リミニ(アルミニウム)があり,リミニの傍を流れる川の古代名がルビコーである.ルビコン(現ルビコーネ)川として知られる.この川が,古代ではイタリアとガリア・キサルピナ(現在の北イタリア)を分けていた.

 北方の属州からローマに帰任する総督は,ここで武装を解いてから川を越えなければ,国家に対する反逆と見なされた.カエサルは元老院派の支持を得たライヴァルのポンペイウスに対抗するために,敢て武装解除せずに渡河した.

 先日ウルビーノに行った際に,気づかないまま,私もこの川を越えていた.電車の中だったし,もちろん軍団を率いてはいなかった.



 ローマ時代のウルビーノに関しては,購入したガイドブック等からは今ひとつはっきりした情報が得られないが,ガフィオにウルビヌム(ウルビーヌム)という地名が登録されていて,「ウンブリアの町で,現在のウルビーノ」とあり,出典としてタキトゥスの『歴史』3巻62章が挙げられている.

 この形容詞形ウルビナス(ウルビーナース)は,キケロがアントニウスを弾劾した『ピリッピカ』に出てくる.その複数形ウルビナテス(ウルビーナーテース)は「ウルビーノ人」を意味するが,これはプリニウスの『博物誌』に出てくるようだ.

 マルケ州の州名は,英語のマークィス,イタリア語のマルケーゼが意味する「侯爵」から来ており,神聖ローマ帝国の初期にヨーロッパに広く設置された「侯国」に由来するらしい.古代に遡れば,ローマ時代には北はウンブリア,南はピケヌム(ピケーヌム)に属していた.

 ピケヌムにはバルカン半島北部のイリュリア地方から移住してきたと思われるピケネス族が住んでいた.そこに,南からギリシア人,北からケルト人,西からウンブリー族が入ってきて,ローマ人が征服して入植者を送り込み,さらにローマ帝国崩壊に伴ってゲルマン人が来襲して,現在のマルケ州の基層ができた.

 地名に残るケルト人の痕跡として,セニガッリアがある.ピエロ・デッラ・フランチェスカの「セニガッリアの聖母」と,ジョヴァンニ・サンティの「受胎告知」があった,マルケ州の海沿いの小さな町だ.ローマ時代の地名はセナガッリカで,「ガリア人のセナ」を意味しており,セナはガリア人=ケルト人のセノネス(セノネース)族にちなむ.

写真:
古代彫刻「瀕死のガリア人」
カピトリーニ美術館


 シエナの古名もセナ(セーナ)で,一説にはセノネス族と関係があるとされることもあるようだ.

 ガフィオの『羅仏辞典』で「セナ」を引くと,「ウンブリアの町」と出てくる.シエナはトスカーナだから,ウンブリアではなくエトルリアではないのかと一瞬思ったが,ここで言う「セナ」は現在のシエナではなく,セニガッリアだったことになる.

 それにしても,現在のマルケ州の地名が「ウンブリアの町」と説明されるのは奇異な感じがする.当時はウンブリアという行政区分に入っていたが,現在はウンブリア州ではなくマルケ州に属しているということなのだ.プラウトゥスの故郷サルジーナも,現在はエミリア・ロマーニャ州だが,古代のサルシナ(もしくはサッシナ)は「ウンブリアの町」だった.

 色々なことが未整理,未学習のままだが,現代イタリアの多様性には歴史的根拠があることが,少しずつわかって行く.

 今日はサン・サルヴィの旧修道院食堂の美術館を再訪したが,その報告は日を改めてにしたい.昨日,3月に帰国するための航空券を入手した.様々なことが1年間の集大成へ向かって,ゆっくりと大きな渦を巻いていく.





ブランドショップが軒を連ねる
トルナブオーニ通り