フィレンツェだより
2007年12月19日



 




フェッラーラのカテドラーレ広場で
右は市庁舎



§フェッラーラの旅(前篇)

またLPの話になるが,CDほどの枚数はないので,どんなものがあったかは比較的簡単に思い出せる.


 ところが,所持しているLPのデータをPCで確認していたら,「フェッラーラ公爵エルコレのミサ曲」について記憶違いをしていたことに気づいた.私はずっとオルランドゥス・ラッススの曲だと思っていたが,作曲者はジョスカン・デプレだった.

 よく考えると,1590年代に死んだラッススが,ちょうどその頃断絶したフェッラーラ公爵家の君主に仕えて,その名を冠した曲を書くというのも変な話である.LPの再生装置を持たなくなってしばらくになる.勘違いしたまま時間が経っていたわけだ.

 この輸入盤を買ったのは大学生の時だと思うが,いつどこで買ったのかも覚えていない.ハインリッヒ・シュッツの「宗教音楽集」を買った,高円寺の今もある中古レコード屋だったかも知れない.「ヴァルダルノのルネサンス」バスツアーでご一緒したフェッラーラのマルコさん,サラさんご夫妻には「オルランドゥス・ラッスス」と言ってしまったので,今さらながら冷汗三斗である.



 フェッラーラのエステ家は,9世紀のカール大帝の時代に遡ると言われる名門で,ドイツとイタリアの兄系と弟系に分かれ,兄系は後にイギリス国王になるハノーファー家まで連なることになるらしい.

 弟系の方も,フェッラーラ公国が教皇領に編入された後も,モデナとレッジョの公爵家が続き,現在のベルギー王室にも関係するヨーロッパ有数の貴族と言えよう.イタリアの外から来て,イタリアから出て行った形になる.

最も栄えた15世紀から16世紀には,エステ家はイタリア・ルネサンスの中心として,メディチ家,ウルビーノのモンテフェルトロ家,マントヴァのゴンザーガ家に並ぶ文化後援者だった.


 フェッラーラ出身の有名人としては15世紀にサヴォナローラ,16世紀にルッツァスコ・ルッツァスキ,その弟子で17世紀に活躍したジローラモ・フレスコバルディがいる.フェッラーラのルネサンスに関する私の知識は音楽と結びついたものだ.音楽に関しては,フランドルやブルゴーニュを中心とする北方の影響を受けているのは間違いないだろう.

 昨日(12月18日),そのフェッラーラにコスメ・トゥーラフランチェスコ・デル・コッサのモストラ(特別展)を見に行った.



 きっかけは9月のラヴェンナ旅行にあった.ボローニャまではユーロスターで行き,そこでラヴェンナ方面に向かうローカル線に乗り換えたのだが,乗り換え時間がかなりあったので,ふと,ボローニャの町を少し歩いてみる気になり,観光地図をもらいに駅構内のツーリスト・インフォメーションに行った.

 地図をもらう間,カウンターにあるパンフレットを手にとってみると,フェッラーラで9月23日から来年の1月6日まで開催される,「コスメ・トゥーラとフランチェスコ・デル・コッサ」というタイトルの特別展の案内だった.表紙に使われている作品はデル・コッサの「男の肖像」で,これはまずまず端整な絵だったが,中に紹介されているコスメ・トゥーラの「ピエタ」がすごかった.キリストは端整から程遠い姿で,もしかすると「下手」の一歩手前にも思える,とても美しいとは言えない,しかし,何ともインパクトのある絵で,まず,この特別展を見に行くことはないと思いながらも,奇妙に心に残った.

 ラヴェンナの市立美術館に,この2人の作品はなかったが,「フェッラーラの画家」という説明のついた絵はどれも顔が変に思えた.フェッラーラ派というのは,もしかしたら,顔を非常に個性的に描く一派なのかと,これも心に引っかかるものがあった.

概略図:
エミリア街道の主要
都市と,今回の旅の
きっかけとなった都市


 それから3ヶ月,その間にウルビーノに行くことによって,ピエロ・デッラ・フランチェスカと北方絵画の関係に思いが至るようになった時,ウルビーノとフェッラーラは何らかの意味で,この流れの結節点になっているよう思えた.

 フェッラーラ派と言っても,長い期間にたくさんの画家が出たようなので,一つの流派というよりも,何らかの共通性を備えた同じ地域出身の画家たちということだろう.とてもひとくくりにできるとは思えない.

 しかし,その中でもコスメ・トゥーラとフランチェスコ・デル・コッサは,1430年頃にフェッラーラに生まれた,ほぼ同世代の画家で,ピエロ・デッラ・フランチェスカや,同世代のマンテーニャの影響を受けながら,独自の画風を確立していった,地域を代表する画家であり,同地の宮廷の君主の庇護を受けてたくさんの仕事をしている.不明にして私たちは知らなかったが,地域を越える存在として,その作品は世界各地の美術館に収蔵されていることがわかった.

 エステ家という名門貴族が君臨し,その保護下にルネサンスの文化が開花したフェッラーラは,もちろん町それ自体にも興味がある.それでも今回は,「コスメ・トゥーラとフランチェスコ・デル・コッサ」の特別展を見に行ったと言って過言ではない.

写真:
エステンセ城


 フィレンツェからフェッラーラへは,ボローニャまでユーロスターで行き,ローカル線に乗り換えるのが一般的だが,本数は少ないものの,フェッラーラに停まるユーロスターもある.

 11時40分フィレンツェ中央駅発で行き,午後7時50分フェッラーラ発のユーロスター帰ってくると,行きも帰りも乗り換えなしで,最も時間効率が良い.これなら特別展が開催されているディアマンティ宮殿,関連するフレスコ画があるスキファノイア宮殿を見て,さらにエステ家の居城だったエステンセ城,見事なファサードのカテドラーレとその付属博物館を回る余裕もあるだろうという見通しをたてた.

 まず気力,体力が十分なうちにディアマンティ宮に行って,特別展と宮殿内にある国立絵画館を見る計画だったが,ユーロスターのフェッラーラ到着が20分ほど遅れたので,戦略を変え,駅前からカヴール大通りという目抜き通りを真っ直ぐ行ったところにあるエステンセ城の見学から始めることにした.

 このあたりはイタリアのどこの都市でも同じで,昼休みと地理的位置関係を勘案して,常に柔軟に対応することが必要だ.


エステンセ城
 エステンセ城内には,天井や壁の装飾画が多く,それなりに楽しめる.見もののひとつは,有名なルクレツィア・ボルジアとアルフォンソ1世の間に生まれたエルコレ2世の公妃だった,フランス王ルイ12世の娘レナータ(ルネ)の礼拝堂らしい.

 カルヴァン派を信奉していたということで,礼拝堂と言っても,カトリックの礼拝堂のように聖人の絵などは描かれていないが,それでも天井には4人の福音史家の絵が描かれていた.福音史家は聖書の根拠がない聖人たちとは扱いが違うのであろう.

写真:
ルドヴィーコ・セッテヴェッキ作
「アリアドネの凱旋」


 近くの「バッカス祭の間」には世俗的な壁画があった.技術的なことはよくわからないが,油彩を用いた壁画ということで,保存が難しいらしく,何度も修復を経ているとのことだ.ミラノにあるレオナルドの「最後の晩餐」と似た事情なのだろうか.

 3つの場面(「アリアドネの凱旋」(上の写真),「葡萄の収穫」,「バッカスの凱旋」)は賑やかしい,いかにもルネサンス的な主題だが,絵は印象に残るというほどではない.

写真:
首が疲れないようにか,
鏡を使って天井画を鑑賞
できるようにしてある.


 天井画を鏡で見せてくれる部屋も幾つかあり,鑑賞にはそれなりに時間を要する.これらは明るくて,楽しい空間だ.

 それとは対照的に,地下牢が公開されている地下はかなり暗い.その中の「ジュリオの地下牢」には,兄アルフォンソ1世に対して陰謀をたくらんだジュリオが,50年間閉じ込められていたそうである.

 彼らの祖父ニッコロ3世は2度目の妃パリジーナ・マラテスタと不倫の関係に陥った庶子ウーゴをパリジーナともども斬首しているし,ヨーロッパの名門貴族はけっこう血腥い.

写真:
「ジュリオの地下牢」



スキファノイア宮殿
 ニッコロ3世の3人の息子,レオネッロ,ボルソ,エルコレ1世が順番に侯・公位(ボルソの時代に公爵)を継承し,レオネッロの肖像画をピザネッロが描いている(フィレンツェのバルジェッロ博物館に「メダル」もある)し,エルコレ1世にジョスカン・デプレが仕えている.彼らがフェッラーラのルネサンスを創出した.

 ボルソはスキファノイア宮殿に「12ヶ月の寓意」のフレスコ画を描かせた.企画を任されたのが,コスメ・トゥーラと人文主義者のペッレグリーノ・プリシャーニ(プリシャーノ)で,実際に絵を描いたのは,フランチェスコ・デル・コッサ,エルコレ・デ・ロベルティという当時のフェッラーラの画家たちであった.

写真:
スキファノイア宮殿
(左側の建物)


 その中にはボルソの兄弟バルダッサーレ・デステもいたらしいし,実名がわからず「八月の親方」とか「オッキ・スパランカーティ(見開かれた両目)の親方」と呼ばれる画家たちもいる.「八月の親方」はエルコレ・デ・ロベルティの師匠ゲラルド・ディ・アンドレア・ダ・ヴィチェンツァの可能性が高いそうだが.

 マントヴァのゴンザーガ家が,マンテーニャに「結婚の間」(新婚夫婦の間)のフレスコ画を描かせたことも影響しているらしい.人文主義的寓意,占星術,神話,政治的背景と様々な要素を持った作品が意図されたようである.

 現在,残っているのは三月四月五月六月七月八月九月の7ヶ月で,残り5ヶ月は残念ながら痕跡しか残っていない.三月,四月の部分には良く残っているが,上段がギリシア神話の神,中段が黄道十二宮,下段がボルソを中心とするフェッラーラの宮廷という構成になっていた.

この中で,誰の目にも共通してすばらしいのは,三月,四月で,この部分はコッサが中心になっている.


 四月の中段の「牡牛座」を表す部分の左側に描かれた「女性と子ども」など特に印象に残る.五月も上段部分で子どもが大勢集まっている部分は彼の作とされる.しかし,公爵から十分な報酬を得られなかった彼は1470年に新しい仕事を探してボローニャに去ってしまったそうだ.

 1471年にこのフレスコ画は完成するが,ボルソも同年逝去する.フェッラーラ絵画の新しい局面が始まり,コスメ・トゥーラを残して,他の主だった画家たちは,新たな仕事と報酬を求めて各地に散ってしまった.

 1471年から,フェッラーラは絵画のルネサンスから,エルコレ1世の主導の下,音楽のルネサンスに重心が移って行ったと考えて良いのだろうか.

 で,肝心の特別展の感想はどうだったか,それは「明日に続く」ということにしたい.





特別展のポスターのある
ディアマンティ宮殿入口で