フィレンツェだより
2008年1月16日



 




ショーウィンドに
サルディの文字が躍る



§サルディのシーズン

ボローニャの報告が思ったより長くなってしまったが,フィレンツェは,6日の公現祭が終わってからバーゲン(サルディ)の季節に突入している.


 高級ブランドショップや土産物店など,バーゲンをしないところも少なくないが,それでも街中にディスカウント(スコント)の文字が躍っていると,それを見ているだけで楽しくなる.良いものは早くに売れてしまうだろうと思って,8日の夕方,街に出てみた.

 当たり前だが,良いものはディスカウントになっていても結構な値段がする.あれこれ品定めはしてみるものの,躊躇しているうちに時間は過ぎていった.

 折角外出したのに,買い物の方は成果が揚げられそうにないので,ブランド街をちょっと脇に入ったところにあるサンティ・アポストリ教会に行ってみることにした.


サンティ・アポストリ教会
 もう暗くて堂内の芸術作品は殆ど見えなかったが,プレゼピオがある一角には明かりがついていた.この後に行ったボローニャでもいくつかのプレゼピオを見たし,公現祭が終わっても,すぐに片付けるわけではないようだ.でも,どこでもそうなのかどうかはわからない.

写真:
プレゼピオ
サンティ・アポストリ教会


 喜捨によって特定の礼拝堂に明かりがつく仕組みはおなじみだが,ここは1ユーロの喜捨で堂内全体に明かりがつく. おかげでアンドレーア・デッラ・ロッビアの彩釉テラコッタによるタベルナコロの見事さが再確認できた.

 しかし,中央祭壇にあるヤコポ・ディ・チョーネとニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリーニの多翼祭壇画「聖母子と聖人たち」は明かりがついてもなお暗く,いまだに十分な鑑賞はできていない.

写真:
(左)彩釉テラコッタの
タベルナコロ
(右)多翼祭壇画
「聖母子と聖人たち」


 何点か大きな板絵もあるが,ヴァザーリの「無原罪の御宿り」が群を抜いている.故郷アレッツォにも同じ絵柄の絵があり,ウフッツィにはこれを小さくした絵が展示されている.本人も自信作だったのだろう.傑作の森の中にあると目立たない画家だが,周囲の絵の水準がそれほどでもないと,その実力を改めて認識させられる.

写真:
「無原罪の御宿り」
ヴァザーリ作
サンティ・アポストリ教会


 この日は,サンティ・アポストリ教会を辞したあと,川向こうの,とある衣料品店で,いくつかの品をサルディ価格で購入することができた.



 12日の土曜日は,ペルゴラ劇場で今年最初のコンサートに行く予定で,2つの弦楽四重奏団が,シューマンとベートーヴェンの四重奏曲とメンデルスゾーンの八重奏曲を聴かせてくれるということだったので,楽しみにしていたが,激しい雨が降ってきたので,外出を控えた.

 当日券で行く予定をたてていると,こういうときは臨機応変の対応が可能だ.19日は是非行きたいが,最近雨が多いのでどうだろうか.

 14日(月曜日は)の夕方,再びサルディの巷に出てみたが,ディスカウントになっていない品物をお土産に1つ買うに留まった.

 以前は,大型の書店はレプッブリカ広場の近くにあるエジソンしか行っていなかったが,福山さんに薦められて,ディスカウント・コーナーもあるメル・ブック・ストアに時々行く.この日も,以前欲しいと思った本を買いに立ち寄ろうとしたが,休みなのか,あるいはすでに閉店したのか閉まっていたので,その近くの大型店で,中部以北の諸都市には必ず見られたフェルトリネッリ書店に初めて入った.

 さすがに大型店らしく,探していた本が買えた.廉価版のクラウディアヌスの物語詩『プロセルピナの誘拐』の羅伊対訳注解本だ.他にもプルタルコス『ストア派の矛盾』の希伊対訳詳注本,シエナのドゥオーモ博物館の英訳版ガイドブックを購入した.合計27.33ユーロ.


オペラ「蝶々夫人」
 15日の夜はテアトロ・コムナーレでプッチーニのオペラ「蝶々夫人」を見た.単純なストーリーも,怪しげなオリエンタリズムもすべて,美しい音楽によって包み込まれているので,それを楽しめばよいのだが,幸か不幸か私が日本人なので,様々なことを考えてしまう.

 舞台セットは美しい庭園付きの日本家屋で,私たちにもさほど違和感は無かった.これだけ情報豊富な時代だ.ある程度時代背景を考えながら,日本的雰囲気を出すのは,それほど難しくはないだろう.それにしてもなかなかのものに思えた.

 しかし,登場するアメリカ人だけでなく,日本人も庭と座敷は同じ履物,いわゆる土足だ.ピンカートンやシャープレスが革靴のまま,庭と同じように座敷を闊歩している.舞台セットが良くできているだけに,もしこれが日本文化を忠実に再現したつもりというなら非常に抵抗を感じる.丈の高い障子もそうだ.あれだけ立派な障子は大名屋敷や門跡寺院でもないのではなかろうか.まるで天井の高いイタリアのお屋敷の扉のようだ.

イタリアで暮らしていて,初めからわかっていることだが,中と外の履物が同じことに強い抵抗感がある.この点で自分は日本人だなと思う.


 中と外で履物が変わる,もしくは座敷では履物を脱ぐ,これは相当に根深い日本文化で,東アジアの国の中でも,日本的な特徴と言えるのではないだろうか.

 女性たちの服装も随分当時とは異なるように思うが,それでも日本の着物を研究して,西洋人が舞台で着こなすための改変だと思えば,それほどの違和感はない.しかし男性たちは,まるで中国の人たちのように思えた.

 そこでハタと考えた.私はたまたま日本人だから,「これは日本文化ではない」と思うが,それでも日本も歴史は長いし,領域も広い.幕末から明治初期の長崎の風土について詳しいわけではないので,もしかしたらその時代の長崎では,ああいう格好をした人がいたかもしれないし,そもそも中国こそ歴史が長く,国土が広いのだから,私たちが「中国」をイメージするものが的を射ているかどうかはわからない.

 だから,あれは「ナガサキ」という,実際の長崎をモデルにした虚構の土地で起こった架空の物語であり,日本の神仏の名前や,女性の自害の仕方など細かいことを言えばきりがないが,それでもこれだけのことを調べ,それらしいイメージを作り上げた方に感心するべきかも知れない.

 英語原作に基づいて,イタリア人の台本作家が物語を構築し,そこにプッチーニという大芸術家が曲をつける.これはこれで,一つの異文化理解から生じた新しい文化の創造なのだと思えば,良いのだと思う.

 変な理屈をこねてしまったが,上演は楽しめた.指揮者には,ほんの僅かブーイングが出ていたが,指揮者のブリニョーリをはじめみんな拍手をもらっていた.

 主役はパトリシア・ラセット(と読むのだろうか.アメリカ人のようだ).英語版ウィキペディアによるとスカラ座やサイトウ・キネン・フェスティヴァルでも歌い,1994年にはマリアン・アンダーソン賞を受賞した人のようだ.高校時代に英語の副教材でマリアン・アンダーソンの自伝を読まされたので,懐かしい感じがした.もちろんマリアンはコントラルトだから賞以外の関係はないが.

 立派な蝶々さんだったと思う.昔LDでカラヤン指揮の映像を見たとき,大歌手のミレッラ・フレーニが大写しになって,「15歳」というのに抵抗を感じたが,実演の良いところの一つは,そういうアップがなくて,純粋に歌と音楽を楽しめることだ.

 テンショウダイ(天照大神),サルンダジコ(猿田彦)など日本の神々の名を列挙して歌う場面があるスズキを演じたフランチェスカ・フランチも良かった.やはりキャリアのある立派な歌手のようだ.ちなみにカラヤン指揮のLDでスズキはクリスタ・ルートヴィヒだった.大物がやる役なのだ.実際に役者としても歌手としてもポイントになる役どころだと思う.

 イタリアで見るオペラもあと一回を残すのみとなった.次は2月下旬にリヒャルト・シュトラウスの「エレクトラ」だ.指揮は小澤征爾だから,あまりイタリア的ではないが.





ヴィーニャ・ヌオーヴァ通りの古書店
サルディはない,残念!