フィレンツェだより番外篇
2008年9月6日



 




ペーザロ
ロッシーニ劇場



§初体験,欧州の音楽祭

3月末に帰国したばかりだが,8月18日から一週間ほどイタリアに旅行したので,その報告を「フィレンツェだより番外篇」としてまとめてみる.


 そもそも友人たちへの報告として始めた「フィレンツェだより」だったが,一般に「長い!」と評判は芳しくない.それでもコメントしてくれたのはまだ良い方で,多くの人があまり関心を示してくれなかった.

 そういう状況なので,帰国後1年くらいしたら消してしまおうと思っていたが,ふとしたことから,読んで参照してくださる見知らぬ方もおられるということがわかり,データははどんどん古くなるし,落ち着いて調べてみると間違いも少なくないものの,残す意味もあるかもしれないと思い直した.

 もうフィレンツェに住んでいないし,当分行く予定もないので,番外篇とは言え「フィレンツェだより」と称するのは羊頭狗肉の感を免れないが,私たちのささやかなイタリア体験の出発点として「フィレンツェだより」のページを残して,今後イタリアに行くたびに「番外篇」として報告を加えていくことにしたい.



 帰国した時点では,今年は9月に一週間ほどヴェネツィアに行こうと思っていた.9月と思ったのは,8月の旅行は割高につくし,イタリアはまだ暑いと予想されたからだ.幸い大学の教師は9月にもまとまった休みをとることができる.一昨年,初めてイタリア(ローマ旅行)に行ったのも9月だった.

 ところが,そうもいかない事情が生じた.校務に関連して,夏休み中に飛び石で拘束される日が発生し,9月に一週間連続の休みを確保することが困難になった.2カ月近い休みがあるのは,自営業や会社勤務の方には考えられない恵まれた条件ではあるが,それでも休み中でなければできない仕事もある.休みが分断されるのは残念なことだった.

 おまけに,9月前半のヴェネツィアは,毎年,ヴェネツィア映画祭で混んでいることもわかり,次第に暗雲がたちこめ始めた.

 早く旅行の目途を立てねばと気は焦るものの,週10コマの授業だけでヘトヘトの毎日である.さらに学期末には700人分の成績をつけねばならず,8月1日からのオープンキャンパスに3日連続で召集されることになったときには,旅行を企画する気力は残っていなかった.帰国時の“これからは毎年,夏はイタリアだな”という確信は何処へやら,“今年はもう無理”という諦め気分が漂い始めた.

 こうして,なんとなく“旅行”という言葉がタブーになっていたある日,リビングでダイレクト・メールをチェックしていた妻が,突然声を出してチラシを読み始めた.「ペーザロのロッシーニ・フェスティヴァルとヴェローナのアレーナ音楽祭のオペラ鑑賞ツアー募集」.パソコンに向かって背中で聞いていた私に稲妻が走った.

 アドリア海に面した町,ペーザロには昨年の10月にウルビーノを訪ねた時に立ち寄っている.しかし,そこで電車からバスに乗り換え,帰りはその逆をやっただけだ.

写真:
海水浴客で賑わうペーザロの海辺.町の中心から海は近い.


 ペーザロの起源は,古代ローマの植民都市ピサウルムで,共和政期最後の悲劇詩人アッキウスはそこで生まれている.アッキウスは完全に現存する作品は一つもなく,作品名と引用断片が伝わるに過ぎないが,キケローが好んだ作家であり,文学史的には重要な人物だ.

 現在のペーザロにアッキウス所縁のものが残っているとは思えないが,それでも彼が生まれたとされる町を歩いて見たいと言う気持ちがあった.

 音楽祭の出し物も良かった.ペーザロのフェスティバルは,ロッシーニのオペラ「エルミオーネ」と宗教音楽「スターバト・マーテル」で,前者はその存在すらも知らなかったので私には珍しかった.あとで17世紀フランスの悲劇作家ジャン・ラシーヌの『アンドロマック』の翻案を台本とした作品ということを知ったが,もとをたどればエウリピデスのギリシア悲劇『アンドロマケ』に遡るので,私の勉強していることとも無関係ではない.後者は,リッカルド・ムーティ指揮のCDを聴いことがあるだけだが,好きな曲の1つだ.

 もともとロッシーニの音楽は好きで,今年11月のロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルの来日公演のチケットも入手済みだ.

 ヴェローナのアレーナ音楽祭の方は,今年上演される演目のうち,一番この音楽祭らしい「アイーダ」を鑑賞する予定になっていた.昨年ヴェローナを訪れて,ローマ時代の重要な遺跡であるアレーナ(円形闘技場)を見学したとき,ここで一度オペラを見てみたいと思ったことが実現する.

 ツアーの日程表を見ると,音楽鑑賞以外は自由時間もかなりあるようなので,それなりに観光もできそうだった.申し込みは即断即決だった.



 8月18日の朝,北本から高崎線で大宮に出て,成田エクスプレスで空港に向かった.そこからご一緒したのが,今回の添乗員のTzさんと,やはりツァーに参加されたTkさんご夫妻で,これはすばらしい出会いだった.

 アリタリア航空で,まずローマに向かったが,私たちのような小柄な者でも,長時間も狭い座席にいるのはいつもながら辛い.時差の関係と同日中にローマ到着.飛行機を乗り換えて,ボローニャに行き,そこから迎えの車で,高速道路を飛ばしてペーザロに向かった.ホテルに着いたときは,現地時間で午前2時近く,日本時間では午前9時なので,ともかく就寝した.


§ペーザロ観光(その1)

 翌朝は快晴だった.ホテルのロビーには英語を話すイタリア人の現地ガイド,ルイージさんが待っていて,早速9時からペーザロの半日観光が始まった.添乗員のTzさん,ルイージさんを入れても総勢6人という,たいへん身動きの取りやすい人数だった.


カテドラーレ(大聖堂)
 ホテルのあるレプッブリカ大通り(ヴィアーレ)を西進すると,ヴィットーリア大通りとの交差点に出て,そこからロッシーニ通り(ヴィーア)と名前が変わる.最初の観光ポイントであるカテドラーレ(大聖堂)は,ここにあった.守護聖人サン・テレンツィオ(聖テレンティウス)の名を冠した教会で,ロマネスク様式の見事なファサードだが,バラ窓は僅かに名残を留めるに過ぎない.

 堂内の床の一部をガラス張りにして,その下の古代末期と中世の床モザイクが見られるようになっていた.場所によっては,古代末期のものと中世のものが階層になっているのが分かる部分もある.ガラスが反射して,うまく写真は撮れないが,幾何学模様,人魚,怪物,ラテン語の碑文など興味深い絵柄のモザイクが多く見られた.

写真:
ガラスの下の床モザイク
2つの尾を持つ人魚


 堂内にはローマの画家マルコ・ベネフィアル(1684−1764)の「聖母被昇天と聖人たち」の大きなカンヴァス画がある.この聖人たちのうち,一人は聖テレンティウスで,ローマ兵士の姿で描かれているが,もう一人の聖人は女性で,やはりペーザロの守護聖人となっているサンタ・ムスティオラとのことだ.

 聖テレンティウスは現在のハンガリーとクロアチアにまたがるパンノニアの出身で,250年頃の皇帝デキウスのキリスト教迫害を逃れて,アドリア海岸に退避したが,殉教して遺体は温泉近くの谷に投げ込まれたということだ.ムスティオラに関しては情報が得られない.

 中央祭壇の両脇の翼廊には,板絵の「受胎告知」,剥離フレスコ画「慈悲の聖母」,「天使に支えられるピエタのキリスト,聖母子と聖人たち」(聖人はペテロとヒエロニュモス)がある.

 3番目の作品(下の写真)は,ルイージさんに拠れば,ラファエロの父ジョヴァンニ・サンティの工房作品ということだった.ジョヴァンニ・サンティ工房の作品と聞いて興味を持ったし,聖母の顔に僅かにそのような雰囲気が感じられた.ルイージさんは,少年ラファエロの手が入っている可能性も想像されるが,証拠はないと言っておられた.

写真:
「天使に支えられるピエタの
キリスト,聖母子と聖人たち」


 カテドラーレを更に西進すると,通り名のもととなったロッシーニの生家のある建物がある.ここは外から眺めただけだった.

 1792年生まれのロッシーニは,8歳の年にはボローニャに移り住んで,音楽教育もそこで受けており,生家には彼の所縁のものはあまり無いとのことだ.フィレンツェ,ナポリでオペラを上演し,最盛期以後はパリでの活躍となり,フィレンツェ,ボローニャにも住んでいるが,パリで亡くなっているので,実生活の上で大人になってからはペーザロと縁が薄く,あくまでも生まれ故郷ということだ.

 しかし,ここでオペラ歌手のレナータ・テバルディが生まれ,マリオ・デル・モナコが墳墓の地とした.ペーザロにはロッシーニ音楽院,ロッシーニ劇場もあり,現在は1980年からロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルが行われている.

 この日は,ロッシーニ生家のさらに先にあるポポロ広場,市立美術館,パラッツォ・ドゥカーレ,ロッシーニ音楽院を見学した.パラッツォ・ドゥカーレ,ロッシーニ音楽院では,ルイージさんの交渉で,通常は予約が必要なところも見せてもらえた.


パラッツォ・ドゥカーレ
 パラッツォ・ドゥカーレ(公爵宮殿)は,1560年,当時のウルビーノ公爵デッラ・ローヴェレ家グイドバルド2世の時代に完成に至った.格子天井が見事な大広間と,柿の木が植えられていた中庭が印象に残る.「徳が常に中心にある」という寓意画も見られた.

 随所に,公爵家のオーク(ローヴェレ)家紋とラテン語の標語「(オークは)倒れても再び立つ」(インクリナータ・レスルギト)が見られた.

写真:
大広間の見事な格子天井



ロッシーニ音楽院
 ロッシーニ音楽院では,古雅なホール(ペドロッティ公会堂)を見学したほか,「ロッシーニ堂」(テンピエット・ロッシニアーノ)と称される部屋で,歌劇「エリザベッタ」や「アルミーダ」などの自筆譜を見せていただいた.

 この音楽院がある建物は,オリヴェーリ宮殿(邸宅)と言い,旧所有者とその時代の趣味を反映して,興味深い壁画,天井画が多数見られる.おおむねペーザロの歴史・故事や関係者の姿を描いたものだが,その中で,悲劇の仮面を傍らに置いて,桂冠をかぶった古代の人物がいたので,アッキウスであろうと推測して,可否を確認して写真に収めた.

写真:
装飾画の中の桂冠の人物
アッキウスか?


 ロッシーニの自筆譜のある部屋のすぐ前のチェンバロとピアノを置いた部屋の装飾画も興味深いものだった.これを描いた地元の画家の名前はこの後知ることとなった.

 一旦,ホテルに帰り,午後は休息をとった.オペラは8時半開演で,ロビー集合は7時半だった.夕方,もう一度町に出て,教会と教区博物館を見学したが,それについては,午前中に行った市立美術館とともに「明日に続く」としたい.




街中に残るローマ時代の遺跡
床モザイクも残っている