フィレンツェだより番外篇 |
ドゥオーモ広場にて ミラノ |
§ミラノを歩く - その1
今回のミラノ行には, 1.前回のミラノ行で感銘を受けた,レオナルド「最後の晩餐」の食堂(チェナコロ・ヴィンチャーノ),サンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ教会,サンタンブロージョ聖堂,ブレラ絵画館,アンブロジアーナ絵画館,ポルディ・ペッツォーリ美術館の再訪 2.前回果たせなかったドゥオーモの堂内拝観,スフォルツァ城の絵画館見学をはじめ,未訪の教会,美術館,博物館をなるべく多く訪ね,ミラノの街を足で歩いて,その多様性を実感すること 3.前回,印象に残ったレオナルドの影響を受けた画家たち(ピットーリ・レオナルデスキ)の作品をできるだけたくさん鑑賞して,ミラノのルネサンスを考える端緒とすること 4.ミラノの教会や美術館に多く見られる,地元で活躍したマニエリスム,バロックの芸術家たちに関しての知見を得ること 5.ロンバルディア北方の小邑カスティリオーネ・オローナを訪ね,参事会教会洗礼堂のマゾリーノのフレスコ画を見ること と言う,明確な目的があった.詳しくは,それぞれに関して報告する際に述べることにする. 一昨年,イタリアに1年間滞在したが,フィレンツェ周辺で見るべきものの多さに圧倒されて,ミラノには僅かに1泊2日で日程で行き,3つの美術館,2つの教会,1つの旧修道院食堂を訪れることができただけだった.
昨年は,オペラ鑑賞のツァーに参加させてもらい,ペーザロとヴェローナで満足の行く滞在を果たし,ラヴェンナのモザイクも再度垣間見ることができた.「ツァー」と言っても総勢5人,快適な旅行だったし,自分としてはイタリアを少しでも理解できる契機になり,充実した体験をしたように思える. しかし,オペラ鑑賞との組み合わせでは,教会や美術館を訪ね,町を歩く時間が限られ,行動も制約されるので,その点ではどうしても不満足な点も残る. 今回は私たちにとっての最初のイタリア旅行である2006年秋にローマに行った時と同じ方法を採った.旅行代理店の「滞在型ツァー」は,空港からホテルまで車の送迎があって,一都市で同じホテルに最低4泊することになり,滞在中は基本的に自由行動となる.イタリアに関してはローマ,フィレンツェ,ヴェネツィアとミラノが対象都市となっている. 前回のローマの時は,初日にガイド付きの半日観光がついていて,その時だけは他の人たちと一緒で,送迎は行きは私たちだけ,帰りは他の1組お2人と一緒だったが,今回は全くの自由行動で,送迎の行き帰りとも私たちだけだった.ローマは4泊6日で行ったが,今回は2泊足して6泊8日にして,行き返りは乗り換え無しの直行便(ミラノ・マルペンサ空港−成田),宿は必ずドゥオーモの近くになるようにしてもらった. 直行便と宿の地域指定は正解だった.イタリア滞在中2回目のローマ2泊旅行をしたとき,トレヴィの泉の近くに宿を取ったとき,ほとんどの箇所に徒歩で行けて,歩いたおかげでローマの町の構造がある程度以上によく理解できたような気がした. ミラノは大都市で,周辺に大きく発展しており,ミラノ中央駅はドゥオーモから大分北に位置していて,フィレンツェの中央駅であるサンタ・マリーア・ノヴェッラ駅とは大きく事情が異なっている. もっともフィレンツェはミラノにくらべれば遥かに小さな町だが,ミラノよりさらに大都市であるローマですら,テルミニ駅は町の歴史地区からそう遠く離れてはいないし,そもそも駅前にも古代遺跡や考古学博物館,諸教会があって,さらに他の地区までも,それほど時間がかからずに歩いて行ける. ミラノの場合は,「中央駅」と言いながら,商用ならともかく,観光目的でこの周辺に宿をとると,古代・中世・ルネサンスの歴史地区には遠すぎて,時間のロスが大きいように思える.1泊した最初のミラノ行の時も,なるべくブレラ絵画館の近くということで宿をとったが,中央駅,宿,見学目的地を行き来するのに,地下鉄の使用は必須だった.
もちろん全ての観光ポイントがドゥオーモ地区に集中しているわけではない.例えばサンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ教会は東に,サン・シンプリチャーノ聖堂は北に,サンテウストルジョ教会は南に相当歩かなければならない.これらを回るのに地下鉄,バス,トラムを有効に使えば,もう少し時間が節約でき,体力を温存できたと思うが,全て足を使って時間をかけて歩いたことで,ミラノの歴史地区の構造がある程度理解できたと思う. 以下が,それぞれの日の午前と午後の訪問先だが,基本的にバジリカは聖堂,キエーザは教会,ムゼーオは博物館,ピナコテーカは絵画館とした.厳密ではない場合もある.ポルディ・ペッツォーリはムゼーオで,見られるのは実際に美術品だけではないが,「博物館」はピンと来ないので「美術館」とした.ドゥオーモ(カテドラーレ)は大聖堂とせず,一貫してドゥオーモとした.特に断らなければ,今回に限っては「ドゥオーモ」はミラノの大聖堂(司教座教会)を指すものとする.
拝観候補に挙げていながら果たせなかった教会として,サンタンジェロ教会,サンタ・マリーア・プレッソ・サン・チェルソ教会,サンタ・マリーア・デル・カルミネ教会があり,是非拝観したかったが場所が確認できなかったものとして,サン・カリメーロ教会,サン・クリストフォロ・スル・ナヴィリオ教会があるが,閉まっていて外観しか見られなかった教会を除いては,ほぼ最初の希望は満たすことができた. 特に古代末期の雰囲気を湛えるサン・ロレンツォ・マッジョーレ,盛期中世を感じさせるサン・シンプリチャーノ,サンテウストルジョは印象深いし,とりわけ,果たして本当に行けるかどうか最後まで自信がなかったカスティリオーネ・オローナに行けたのは,感動に打ち震える思いだった. 概ね,教会篇,美術館・博物館篇,レオナルドとその周辺の美術篇,ミラノの街角篇,カスティリオーネ・オローナ篇に分けて報告したいと思っているが,今日はミラノの中心教会であるドゥオーモの印象から述べたい. ドゥオーモ ミラノのドゥオーモの姿を仰ぎ見るのはこれで2度目なので,「何度見ても」という言い方は変なわけだが,思わず「何度見てもすばらしい」と言ってしまう.今回の宿はドゥオーモのすぐ裏手だったので,毎日の活動はドゥオーモを仰ぎ見ることから始まり,ドゥオーモのそばに帰ってくることで終わったが,見るたびに感銘を受けた. しかし,複数のガイドブックやウェブページを参照しても,ミラノのドゥオーモは,フィレンツェのドゥオーモ,ピサのドゥオーモに比して,超一級の芸術作品に満ちているとは言い難いように思えた.たとえば『地球の歩き方 ミラノ ヴェネツィアと湖水地方』改訂第9版(ダイヤモンド・ビッグ社,2007)に拠ると,見るべきものとして, 1.20世紀に造られた5枚のブロンズ製の扉 2.16世紀のペッレグリーニの意匠による高さ68mの円蓋 3.くるみの木で彫られた堂々たる合唱隊席 4.ミケランジェロの影響を受けた,アレッツォ出身のL.レオーニ作によるジャン・ジャコモ・メディチの墓 5.トリブルツィオの手になる13世紀のブロンズ製大燭台 6.身廊左側のふたつめの柱のあいだのヴェローナ産の大理石による12聖人の12世紀のレリーフ 7.中央祭壇の下の,聖カルロ・ボッロメーオの遺骨を祀った地下礼拝堂 8.その隣の宝物庫(銀製の聖具や象牙製品) 9.聖具室の扉をドォーモ最古の彫刻 10.正面入口近くの階段を下りた所にある,ドゥオーモの前身サンタ・テクラ教会の洗礼堂 が挙げられている(用語,用字などはほぼそのまま).このラインナップを見て,ドゥオーモの堂内を是非拝観したいと思う人は少ないだろう.私も正直ほとんど魅力を感じなかった.前回のミラノ行でドゥオーモはファサードを広場から見ただけでそそくさと通り過ぎ,優先すべきと思われた美術館や教会に急いだのは,その理由もある. 今回は前回よりもだいぶ余裕がある(と,少なくとも計画段階では)思われた日程だったので,ともかくイタリアを代表する大都市の有名な司教座教会の堂内を拝観するのを,今回のミラノ訪問の最初の活動に予定した.
堂内の解説板では「考古学エリア」とされている洗礼堂は,入場料が必要だった.入口のところに「ブックショップで入場券を買うように」との指示が貼られていたので,朝9時に開いたばかりのブックショップを訪ねたが,「修復(レスタウロ)のために閉まっている(キウーゾ)」とのことだった.残念. 気を取り直して,ブックショップで英訳版の案内書, Ernesto Brivio, The Duomo: Art-Faith-History of the Cathedral of Milan, Milano: Veneranda Fabbrica del Duomo di Milano, 2003(以下,ブリヴィオ本) を20ユーロで買った.他にも『ドゥオーモの彫刻』,『ドゥオーモの絵画』といった魅力的に思える本があったが,ブリヴィオ本も258ページの中々の大冊で,この後に行く教会や美術館で関連書籍を何冊も買うことが予想されたのであきらめた. 購入した本は,いわば公式ガイドブックに準ずるような位置づけであろうから,多分正確であろうと思われる新しい知見が得られる. たとえば,『地球の歩き方』で4番目に挙げられている墓碑(右翼廊)は,素人目にもドゥオーモ堂内の彫刻で最も見事なものに思われ,フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂のメディチ家礼拝堂新聖具室にあるウルビーノ公とヌムール公の墓を連想させる作品だが,ブリヴィオ本には次のような情報があった. ミケランジェロまたはヴァザーリの作品だと巷間言い伝えられていたこともあったが,実際には教皇ピウス4世がロンバルディア人レオーネ・レオーニに委嘱したものである.
ピウス4世は,対抗宗教改革の旗手であり,ミラノの宗教界の英雄で,死後列聖されたカルロ・ボッロメーオの叔父(伯父)にあたり,フィレンツェのメディチ家とは別の家系であるミラノ周辺のメディチ家出身で,墓の主ジャン・ジャコモ・メディチは彼の兄とのことであった. レオーネ・レオーニはロンバルディア州メナッジョで1509年に生まれ,1590年ミラノで亡くなった彫刻家のようである.父がアレッツォ市民だったので,本人もアレティーノと称していて,墓碑にもその呼称を刻んでいる. ヴァザーリの『芸術家列伝』にも彼の伝記(エヴリマンズ・ライブラリーの英訳版第4巻,pp. 236-244)があり,ヴァザーリは自身がアレッツォ出身だけに,彼も「アレッツォ人」としている.そこではリオーネ・リオーニとなっている(ヴァザーリの伝記ではレオナルドもリオナルドとされている). 英語版ウィキペディア「イタリアの彫刻家たち」に拠れば,彼はプラド美術館にある皇帝カール5世のブロンズ製の上半身像(息子のポンペーオと共作)を制作したほど国際的に活躍した彫刻家であるようだ. 彼の最初の記録は1533年ヴェネツィアで暮らしていたことで,アレッツォ出身の作家ピエトロ・アレティーノに保護され,その紹介により,ティツィアーノとも親交があった.当時,ベンヴェヌート・チェッリーニが入獄していたことも有利に働いて,フェッラーラにあった教皇領貨幣鋳造所に図案担当者の職を得たことが,いわば出世の糸口らしい.ヴァザーリに拠れば,もともと金細工師の修業を積んで,メダルの肖像に実力を発揮していたらしい. ヴァザーリは,ドゥオーモの墓碑は,レオーニが担当した5体のブロンズ像以外のカッラーラ産大理石による部分はミケランジェロの意匠が用いられているとしているが,レオーネへのミケランジェロの影響については言及がない.あるいは自明のことかも知れない.いずれにしてもフィレンツェ出身のチェッリーニ,フィレンツェで活躍したジャンボローニャと並ぶ,16世紀を代表する彫刻家と言って良いだろう. ドゥオーモ広場からガレリアを抜け,スカラ広場に出て,さらに右方向に行くと,レオーネ・レオーニが設計して居住したとされる通称「オメノーニの家」がある.
「巨人たち」を意味するオメノーニの彫刻は,アントニオ・アボンディオという彼の影響を受けた別の彫刻家によるものらしいが,大変印象深く,一見に値するものである. 『地球の歩き方』にはあげられていない「聖バルトロマイ像」(右翼廊)も印象に残る.皮を剥がれて殉教したとされるこの使徒聖人の図像はどこでみてもあまり目に心地よいものではなく,あまり好きではないが,ドゥオーモの作品は暗いところにある石像である分,解剖図のような冷静な客観性を感じさせ,目をそむけずに見ることができた. しかし,良く見ると,髪の毛や髭がついたままの顔の皮が,肩から後ろに頭陀袋のように下がっていてなかなか不気味だ.
ブリヴィオ本に拠ると,1562年マルコ・ダグラーテの作品とされるが,詳細はわからない.目で見ても確かめられるが,「私を彫り上げたのはプラクシテレスではなくマルクス・アグラーティスである」とラテン語で刻まれていて,古代ギリシアの偉大な彫刻家に自分を比しているのは自信家なのか冗談なのかわからないが,堂内の暗い雰囲気の中では十分に鑑賞に耐える作品だ. 近くにある「聖母マリアの神殿奉献の祭壇」の彫刻もスケールが大きい.全体としては1543年アゴスティーノ・ブスティ,通称バンバーヤの作品とされるが,右側の「アレクサンドリアの聖カタリナ像」のみはクリストフォロ・ロンバルドと助手たちの作品とされる.ロンバルドはロンバルディア人という意味であろうが,これが姓のように使われているとすれば,ヴェネツィアの諸教会にみられた壮大な墓碑を彫刻したピエトロ・ロンバルドを始めとするロンバルド一族が思い起こされる. ピエトロの父マルティーノが15世紀にロンバルディアからヴェネツィアに移住して始まるこの家系は,ピエトロの息子トゥッリオが1559年に死ぬまで彫刻家,建築家を輩出したので,ミラノのドゥオーモの「聖カタリナ像」が祭壇全体と同じ1543年の作品であれば,少なくともヴェネツィアのトゥッリオ・ロンバルドと同時代人ということになるが,それ以上は今のところわからない.クリストフォロの作品としてはドゥオーモにもう1点,「枢機卿マリーノ・カラッチョーロの墓碑」の彫刻(救世主イエス,ペテロ,パウロ,ヒエロニュモス,アンブロシウス)がある.見事なものだが,芸術的に価値が高いかどうかまではわからない. クリストフォロの作品の最後に挙げた聖人アンブロシウスは,4世紀のキリスト教思想家(教父)で,ミラノの第11代大司教である. ドゥオーモの身廊前方右側壁に,人名をたくさん刻んだ碑文がある.歴代のミラノの大司教たちの名前が並んでいる.細部まで覚えていないが,幸いなことにブリヴィオ本の巻末にやはり歴代ミラノ大司教のリストがついている.初代から43代までは数名を除いて殆どが聖人である.第43代の聖ナターレは,在任が746年から747年までなので,8世紀前半の人物である.
次の聖人が83代のガルディーノで,1166年から1176年まで在任しているが,最初に枢機卿になった大司教のようだ.その後何人かの大司教が枢機卿になっているが,119代目のカルロ・ボッロメーオも枢機卿となり,死後列聖された. このカルロ・ボッロメーオの在任期間は1560年から1584年までで,前任者はピウス4世となった叔父(伯父)ジョヴァンニ・アンジェロ・メディチであった.対抗宗教改革の旗手である彼は枢機卿となり,ピウス4世の死(1565年)後も枢機卿としてローマで活躍しながら,その死までミラノ大司教であり続けた.1576年にミラノが疫病(腺ペスト)に襲われたとき,献身的に病者の治癒と死者の埋葬に努めた.列聖されたのは死後26年後の1610年である.教会の内外に敵も多かったようだが,彼に対する敬慕の根深さはイタリアの各地で体感出来る. フィレンツェでも彼の名を冠したサン・カルロ・デイ・ロンバルディ教会にはマッテーオ・ロッセッリの「聖カルロ・ボッロメーオの栄光」などの絵画作品があるし,トスカナ大公家の教区教会であったサンタ・フェリチタ教会にはポントルモの傑作フレスコ画「受胎告知」があるが,その天使と聖母の間に輝石細工のように見えるカルロの肖像がある.彼が活躍したローマでも,その名を冠した教会があるが,何と言ってもミラノには,サン・カルロ・アル・コルソ教会があるだけでなく,諸方の教会や美術館に彼を題材にした作品が満ちている. ミラノの宗教画には他地域よりも司教聖人が多く現れるように思われるが,その中でも特に多いのが聖アンブロシウスとカルロ・ボッロメーオであるように思われる. ちなみに彼以降のミラノ大司教のかなりの人物が枢機卿となっている.2002年時点での現大司教,第143代ディオニージ・テッタマンツィも枢機卿を兼務しているようだ.ミラノのドゥオーモの司式者は高格の聖職者なのである. ブリツィオ本の表にはないが,堂内の碑文には,各大司教の出身地情報が併記されていた.時には外国人もいるが圧倒的にミラノ人(ミラネーゼ)が多い.アンブロシウスはローマ人(ロマーノ)と記されており,カルロ・ボッロメーオはミラネーゼとされている.彼は,現ピエモンテ州ナヴァーラ県のアローナの生まれだが,ボッロメーオ家はミラノの有力家系で,アローナはマッジョーレ湖の近傍で,この湖には現在「ボッロメーオ諸島」と称されている5つの島があり,高級保養地として有名なようだが,ボッロメーオ家の所領だった. 今回のミラノ行で,ある程度体感できたことのひとつは,貴族という,現在から見ると特殊な階級のいる社会である.ボッロメーオ家がその「貴族」の中でも極めつけの存在であったことは,今後何度か言及するであろう.確かに聖カルロは識見,人格ともに懸絶した人物であったであろうが,貴族の家に生まれるという懸絶した出発点も持っていた.教皇になった叔父(伯父)の引きで,ミラノ大司教兼枢機卿という高位聖職者に若くしてなったのである. 現代にも成功した企業家という貴種がいるのは,ある程度理解できるし,イタリアだけでなく,日本にも階級社会のようなものが今なお厳然としてあることは漠然と想像できるが,今回,美術館,博物館になっている貴族の邸宅を見ることによって,19世紀にもイタリアには超弩級の貴族がいたことを体感し,20世紀の映画監督ルキーノ・ヴィスコンティはそうした家柄から出た人物であることが,「ある程度」という限定はつくが,理解できた(ような気がする). ルキーノはミラノ生まれで,父がモドゥローネとカルラ・エルバの公爵,本人はロナーテ・ポッツォロの伯爵というのはイタリア語版ウィキペディアからも知ることができるが,20世紀に一体誰が,そうした世襲爵位を決め,その相続を承認したのだろうか.残念ながら,今のところその情報は得ていない.知っている人にとっては常識なのだろうが,私は知らない.「ヴィスコンティ」という家名に関しても,機会を見て少し整理してみたいが,その前に話題をドゥオーモに戻そう. 『地球の歩き方』には殆ど全く絵画情報はないが,実はドゥオーモの堂内には結構絵画もある.漠然とロンバルディアは絵画よりも彫刻という先入観があり,ドゥオーモの外観に見られる林立する尖塔と彫刻を見ているとむべなるかなという思いがあった.実際に堂内に入ってみると,確かに絵画よりも彫刻が魅力的に思われた. しかし,身廊左側壁の聖アンブロシウスの祭壇に掲げられた絵を見て,アレッと思った.私たちの少ない経験でも,見るからにフェデリコ・バロッチの特徴を備えていた.これを見た時点ではバロッチの絵に関する情報はなかったし,ドゥオーモに傑作絵画はないという先入観があった上に,その絵もバロッチの作品にしては特にすぐれたものと思われなかったので,バロッチの流れを組む無名の画家の作品だろうと思って通り過ぎた. しかし,その後ブリヴィオ本で確認すると,それはまさにバロッチの作品で,画題は「大聖堂の扉に皇帝テオドシウスを迎える聖アンブロシウス」と記してあった.画題もまたミラノのドゥオーモにふさわしいものであった.ミラノで勅令を出してキリスト教を公認したコンスタンティヌスの死後,キリスト教を国教化したスペイン出身の皇帝だ.ミラノはキリスト教がヨーロッパで体制化する端緒となった町なのだ. 特に,自分で注目したわけではなくブリヴィオ本から得た情報なので,名前の列挙にとどめるが,ドゥオーモには古風なフレスコ画から,カミッロ・プロカッチーニ,ジュゼッペ・メーダ,ジョヴァンニ=バッティスタ・クレスピ(イル・チェラーノ)などミラノのマニエリスムからバロックの芸術を支えた画家たちの作品まで見られる.これらに関しては,次回,ミラノのドゥオーモを訪れるときに,是非しっかりと鑑賞してみたいが,広くて暗い堂内では今後何度行っても難しいかもしれない. そんな中で,堂内で最も心に残る風景はステンド・グラスである.古いのは15世紀のものもあるようだが,細かい鑑賞は別にして,堂外の林立する尖塔と彫刻とともに,ミラノのドゥオーモの最も心に残る見ものはステンドグラスだと思うに至った. しかし,そう言い切ってしまったところで,未練がましいようだが,高い天井を支える巨大な石柱もまたすばらしい.さすがに,イタリアで有数のゴシック教会である.
ミラノのドゥオーモは着工が1386年,一般に最終的に完成したとされるのが,19世紀もう終わろうかという頃で,20世紀になっても,さらに装飾が加えられ,修復は現在も行なわれているわけで,厳密にゴシック教会とは言えないかもしれない.しかし,美しさ,大きさ,厳かさのどれをとっても,イタリアを代表する都市ミラノのドゥオーモにふさわしい.その魅力と存在感は,見る人を魅了してやまないフィレンツェのドゥオーモに決して劣らない. 感動がまだ冷め切っていないので,うまくまとまらず,まだまだ言い足りないが,明日以降に「続く」として,次回はドゥオーモの補足から初めて,ミラノの「教会篇」第1回としたい. |
メルカンティ通りにて 突き当たりにドゥオーモの姿 |
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