フィレンツェだより番外篇
2010年8月21日



 




グエル公園ベンチのタイル
バルセロナ



§スペインの旅 - その2

今回の旅程は,少しでも立ち寄った都市ないし地点をつないでいくと,次のようになる.
バルセロナ → モンセラット → タラゴナ → バレンシア → アリカンテ → グラナダ → ネルハ →ミハス→ セビリア → コルドバ → プエルト・ラピセ → コンスエグラ → トレド → マドリッド → セゴビア → マドリッド


 地図で確認するとよくわかるが,スペイン国内を8泊9日で大移動する旅行だ.州の名前を挙げるだけでも,カタルーニャ,バレンシア,アンダルシア,カスティーリャ・ラ・マンチャ,カスティーリャ・イ・レオン,マドリッドに跨る.

 国家のもとに,(自治)州があり,その下に県(プロビンシア)があって,日本の市町村にあたる自治体がある構造はイタリアと一見似ている.今回,政治制度や地方自治に関しては,何も勉強していないので,あくまでも「一見」と言っておくに留める.

 地名の表記だが,音引使用の有無も含めて,参照した本に概ね従いながら,慣用と思われる表記をする.セビージャもしくはセビーリャではなくセビリア,マドリーではなくマドリッド,などである.



 最初に申し込もうとしたのは春のツァーだったが,これは電話した時点ですでに定員に達していた.

 一応キャンセル待ちのリストに載せてもらうことにしたが,人数が多いから順番が回ってくるのは期待薄と言われて,暫くして,キャンセルが多く出て順番が回ってきたと連絡があった時には,もう別の予定を入れてしまっていた.

 キャンセル待ちが期待薄の状況をみて,並行して夏のコースにも申し込んでおいたが,こちらは一旦「催行決定」になったにもかかわらず,キャンセルが相次いで成立しなくなったという連絡がきた.旅行会社は代わりに別のコースを提案してきたが,これが盆休み期間にかかる,料金が少し割高なコースだった.逡巡したが,催行を保証するということなので,結局,8月8日に出発して,8月17日に帰国するこのプログラムに落ち着いた.

 結果,サンティアゴ・デ・コンポステーラなど,ガリシア地方は全く予定に組み込むことはできなかった.

 しかし,このコースには古代ローマ時代の属州ヒスパーニア・キテリオル(ローマに近いスペイン)の首邑だったタッラコー(この町の名前に拠って,時代によっては属州名をヒスパーニア・タッラコーネーンシスとも言う)の後身であるタラゴナ,私が研究テーマの一つにしている後1世紀に活躍した哲学者セネカの出身地コルドバが入っていて,まずまず満足の行く旅程に思えた.



 1月くらいに,予習用に

『地球の歩き方 スペイン '10〜'11』ダイヤモンド・ビッグ社,2010(以下,『地球の歩き方』)
『ワールドガイド スペイン』JTBパブリッシング,2007(以下,『ワールドガイド』)

を買い込んだが,学期中は授業,校務,休みに入っても(休めるだけ大変恵まれているとは思うが),採点,原稿,合宿の手続き,役職上の仕事などで何もできず,結局,詳しく読んで,特に後者が有益な本であることを知ったのは,帰国の飛行機の中というような体たらくだった.

 というわけで,ほとんど何の予備知識もなしにスペインに行くことになったのは,最初にイタリアに行った時と全く同じ状況だった.

 それでも,私は,古代ローマに関わることを多少とも勉強しているし,ラテン語の教師だから,スペイン語も100パーセントわからないというほどでもないので,自分の先入観や思い込みも,もしかしたらそれほど外れないのではないかと思わないでもなかった.

しかし,それは滑稽なほどの誤解だった.見るもの,見るもの,全て新鮮で,いかに自分が物を知らないか,とことん思い知った.だからこそ,人生はおもしろいと言えるだろう.


 バルセロナの空港についたとき,行き先その他を指示する表示がすべて3つの言語で書かれていた.2つ目は英語,3つ目がスペイン語で,最上段は常にカタルーニャ語で,よく考えると驚くことではないのだろうが,ともかく興味深かった.

 バルセロナに2泊して,同じカタルーニャ州のモンセラット,タラゴナにも行ったわけだが,ホテルその他で,カタルーニャ語とスペイン語が併記されているものはなるべく集めるようにした.カタルーニャ語については,まったく勉強したことがないが,日本語による学習書や辞書も複数出版されているようなので,その骨格と概要だけでも学んでみたい.

 いずれにせよ,バルセロナを中心とするカタルーニャがスペイン王国という立憲君主制の統一主権国家の中で,文化的にも政治的にも特異な位置にあることは,日本にいても様々な観点から予備知識が得られる.昔,豊中市石橋の大阪大学に非常勤講師に行ってギリシア語の授業をしていた時,よく行った古本屋で,

田澤 耕『カタルーニャ50のQ&A』新潮選書,1992

を買って読んだ.

 研究室の大先輩である大阪市立大学名誉教授の小林標(こずえ)先生(中公新書の『ローマ喜劇 知られざる笑いの源泉』などの著者)が,京都産業大学在職中に在外研究先にバルセロナ大学を選び,カタルーニャ語とその文化を調査・研究なさり,バルセロナには31音節で詩作するタンカという文学形式があることなどを教えて下さっていたので,多少とも興味があった.

 小林先生もそうだが,大体,カタルーニャ語に関心を持つ人は,もともとスペイン語に堪能で,そちらから知見を広げて行くようだ.

 上記の本の著者も,銀行員としてマドリッド支店に勤務していたことから,スペインとスペイン語に関心を持ち,退職して大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)イスパニア語(=スペイン語)科の大学院修士課程に入学した.もともと一橋大学の社会学部で学んだこともあって,スペイン語の恩師の助言で,国内にバスク語やカタルーニャ語などスペイン語以外の有力言語が存在し,なおかつそれが禁止されていた時代があるスペイン社会を言語の面から研究する方向を目指し,もともと会社から研修に派遣されてスペイン語を学んだのがバルセロナであったという縁から,カタルーニャ語の研究に向かっていったそうである.

 ここには,スペインという国の歴史が持っている複雑な背景が浮かび上がってくる.後にカタルーニャ語を学ぶことになる人であっても,「まずスペイン語から」という道筋は,前述したように,カタルーニャ語がバスク語と並んで,公の場での使用や学習を禁止されていた時代があることと無関係ではないだろう.

 フランシスコ・フランコという軍人政治家がいた.色々なことを端折るが,1931年に無血革命によってスペインで王制が倒れ,「第二共和政」と言われる共和国政府が誕生した.その時,カタルーニャに自治政府ができ,マドリッドの共和国政府もそれを承認したが,自治政府が中央政府に対して武装蜂起し,自治政府の大統領は逮捕された.

 中央の共和国政府も不安定で,1935年に成立した人民戦線内閣には左翼勢力も含まれていて,それに対して保守派が反撥し,1936年に当時スペイン領だったモロッコで軍部が叛乱を起こし,それが「スペイン内戦」の引き金になった.

 この中で軍部の指導者として台頭して来たのがフランコで,彼はナチス・ドイツの協力も得ながら,内戦を勝利し,1939年にスペインの最高権力者となり,1975年に死亡するまでスペイン全土の独裁的支配者であり続けた.

 バルセロナの自治派は徹底的に弾圧され,パリに亡命していたカタルーニャ自治政府の元大統領は,パリを占領したナチスによってフランコに引き渡され,銃殺された(川成 洋『図説 スペインの歴史』河出書房新社,1994,参照).

 フランコはナチスや,イタリアのファシストにシンパシーを持ち,その協力を得ながらも,第2次世界大戦は中立を保ったことにより,戦後も長期に渡って,独裁者として安定した政権を運営した.フランコ時代は,「スペインの奇跡」とも言われる経済発展もあった以上,否定的な側面ばかりではなかっただろうが,共和派の人々を多く処刑するなど,西側先進国としては特異な暗い過去だと言えるだろう.

 前王アルフォンソ13世の孫フアン・カルロスは,フランコの死後,長い間空位だったスペイン王位を継ぎ,立憲君主制による民主主義国家を築いて,現在に至っている.

 フランコ独裁政権のもとで,カタルーニャ語は,公式の場での使用,学習を禁じられていたが,フアン・カルロス1世即位後,その禁が解かれ,カタルーニャは自治州の地位を得た.カタルーニャ語は,現在もカタルーニャ州,バレンシア州,バレアレス諸島などで有力な言語であり,小国ながられっきとした独立国であるピレネー山中のアンドラでは,ずっと公用語であり続けている(田澤,上掲書).

 『カタルーニャ50のQ&A』は好著だが,1992年の著書だから既に情報が古い可能性は否定できない.同じ著者による,

『物語 カタルーニャの歴史 知られざる地中海帝国の興亡』中公新書,2000

という本もあるようだ.少しだけでも情報が新しくなっているであろうから参照するつもりだ.



 田澤氏には共著だが,『ガウディ建築入門』(新潮社とんぼの本,1992)という著書もある.高名な建築家アントニオ・ガウディ(原語ではアントニになるそうだが,通例に従って,アントニオとする)は,カタルーニャ人(タラゴナ県の村が出生地)でバルセロナで活躍した.「カタルーニャ主義者」と言って良いほどカタルーニャ語とカタルーニャ文化を愛したとのことである(岩根圀和『物語 スペインの歴史 人物篇』中公新書,2004の最終章「建築家ガウディの物語」).1852年の生まれで,路面電車に轢かれて亡くなったのが1926年だから,「スペイン内戦」以前の人だ.

 ガウディばかりでなく,19世紀から20世紀のカタルーニャは高名な芸術家を輩出した.チェリストのカザルス(パブロ・カサルスがカスティーリャ語=スペイン語風,パウ・カザルスがカタルーニャ語風の発音とのこと),ジョアン・ミロ,サルバドル・ダリなど綺羅,星の如くだ.ピカソが生まれたのはアンダルシアの南海岸の大都市マラガだが,青春時代をバルセロナで過ごした.

 カタルーニャの諸都市だけでなく,スペイン中のあちこちの美術館でミロ,ダリ,ピカソの作品が見られるが,今回はそれに関しては数点しか見ていない.この3人の絵は日本でも特別展や,西洋美術館などの常設展示で見る機会があり,カザルスが演奏したり,指揮したりした音楽はCDで相当聴いている.しかし,当たり前だが,ガウディの建築の実物を見たのは,今回が初めてだ.

 グエル公園と園内のガウディ博物館
 カサ・バトリョ(1877)
 カサ・ミラ(1905-12)
 サンタ・テレサ学院
 サグラダ・ファミリア(聖家族)教会(建設継続中)

だ.このうち博物館の建物は協力者のフランセスク・ベレンゲール・イ・メストレスの作品だが,ガウディが購入して住んでおり,現在は所縁の品が展示されていて,それなりに興味深い.カサ・バトリョ,カサ・ミラ,サンタ・テレサ学院はバスの中から外観を見ただけだったので,実際にはグエル公園とサグラダ・ファミリア教会しか見ていないと言っても良いだろう.

 ただ,ガウディの同時代の先人(2歳年長)でライヴァルとも称されるリュイス・ドメネク・イ・モンタネール(以下,モンタネール)が設計した,

 サン・パウ病院(1901-30)(死の7年後完成)
 カタルーニャ音楽堂(1905-08)

をそれぞれ外観だけだが見ることができた.前者はバスの車窓から,後者は徒歩で周囲をまわって見たので,音楽堂の方がゆっくり見られたわけだが,病院の巨大さと派手な外観にはたまげた.

写真:
サン・パウ病院
(バスの車窓から)


 モンタネールの建築家としての登録は1870年で,ガウディがパリ万博に出品された革手袋店のショーケースのデザインによって,スポンサーとなる実業家のエウセビオ・グエルに見出されるのが1878年で,彼が建築家として本格的歩みだすのはそれ以降なので,多分モンタネールのキャリアが先行していたのだろう.

 彼らのアール・ヌーヴォー風の「モデルニスモ」(カタルーニャ語ではモデルニスム)は確かに目を引く.多分,ミロや,ダリや,マラガから移って来たピカソに影響を与えたのではないかという予想は十分にできる.もちろん,カタルーニャ,バルセロナばかりではない,西ヨーロッパの流行とも不可分であろうから,モンタネールやガウディの独創性だけを論ずることはできないだろう.

 しかし,サン・パウ病院にはムデハル様式の影響が見られると言われると,確かにイベリア半島に固有の芸術性を反映しているのであろうと思うし,サグラダ・ファミリアを見た翌日,モンセラットの修道院を訪ね,その周囲の岩山の風景を眺めると,なるほど,ガウディもこの風土の中からこそ出てきたのだと思わせられる.

写真:
サグラダ・ファミリア(聖家族)教会
生誕の門の側から


 グエル公園は観光客に溢れていて,見た目が派手なので,決して心休まる空間ではない.しかし,西欧でモダニズムがもてはやされる時代であったとは言え,19世紀末にこれほど,カラフルで冒険心に満ちた空間を創出したガウディにも,それを育てたバルセロナの精神,カタルーニャの風土に興味を持たずにはいられない.

写真:
グエル公園


 今回,じっくり見られた作品が少ないし,もともと古いものが好きなので,ガウディの芸術に開眼することは全くできなかったが,少なくとも興味を持つことはできた.

 個人的には最もじっくり見ることができ,地下の博物館も丁寧に見て,多少は学ぶことができたサグラダ・ファミリアよりも,外からしか見ることができなかったカタルーニャ音楽堂が気に入った.

 モンタネールの選択かどうかはわからないが,ファサード上部に胸像が掲げられている偉大な3人の作曲家がパレストリーナ,大バッハ,ベートーヴェンであった.ここにパレストリーナを入れてくれたのが嬉しい.ベートーヴェンの代わりにモンテヴェルディだったらもっと良かったのに.

写真:
カタルーニャ音楽堂


 バルセロナの街には,思わず写真を撮りたくなる,モデルニスモの流れであろう建築物が多数ある.イタリアで見た諸都市にくらべて,遥かに大きな近代的都会だし,古代はもちろん,中世もあまり感じさせない.しかし,ローマに支配される以前にフェニキア人が建設したと言われる古代都市に起源を持っているし,中世にはイスラム教徒と戦いながら,西隣のアラゴン王国と合体して一時は地中海に君臨したカタルーニャ王国(厳密には,隣のアラゴン王国との同君連合であるバルセロナ伯領)の首邑でもあったのだ.

 「ゴシック地区」と称される旧市街には,ピカソ美術館,近代美術館,バルセロナ現代美術館などの新しい要素とともに大聖堂(カテドラル)が中世建築の威容を誇っている.傍らには古代ローマ時代の城壁の跡もある.

 カテドラルは修復中の外観を広場から見ただけだし,14世紀の創建でカタルーニャ・ゴシック様式を代表するといわれるサンタ・マリア・ダル・マル教会サンタ・マリア・ダル・ピ教会はまったく見ていない.残念だが,またいつの日か,バルセロナを訪れる機会があれば,これらのゴシック教会と,カタルーニャ北方の小さな村々に見られるらしいロマネスクの諸教会(『芸術新潮』2004年8月号「全一冊スペインの喜び」の中の「カタルーニャ地方 ロマネスクの山寺めぐり」参照)を,幾つかでも是非訪ねてみたい.

 また,1992年のバルセロナ・オリンピックのマラソンで有名になったモンジュイックの丘の麓にある,1929年の万国博覧会の際に政府館として建てられたという宮殿風の巨大な建物の中には,カタルーニャのロマネスクやゴシックの芸術を集めたカタルーニャ美術館がある.これも今回は外観を眺めただけなので,次回行くことがあれば,是非見学を果たしたい.





まるで砂浜
グエル公園の広場にて