フィレンツェだより番外篇
2010年8月22日



 




「黒い聖母」の礼拝室のモザイク
モンセラット



§スペインの旅 - その3

バルセロナに2泊した後,8月10日,南のタラゴナ,バレンシアに向かう前に,西北方の山中に分け入り,モンセラットベネディクト会修道院の聖堂を拝観した.


 奇岩,巨石が独特の形をしたモンセラットの風景を眺めて,サグラダ・ファミリアの外観のインスピレーションの源泉がここにあると思う人は少なくないだろう.

写真:
モンセラットの修道院と聖堂
左側の建物の地下は美術館


 観光バスを降りて,聖堂に向かう途中,「カラヴァッジョの絵を展示している」という美術館のバナーを見かけた.自由時間があると言われていたので,聖堂で「黒い聖母」を拝観した後の行動はその時点で決まった.

 もう心はカラヴァッジョに向いてしまい,頭は美術館に行くことで一杯になってしまったが,まず地元ガイド(バルセロナ在住のイタリア人)ロサナさんのガイドで,添乗員Yさんの卓越した通訳を聞きながら,聖堂を拝観した.


「黒い聖母」
 もともとはルネサンス様式だった聖堂は,1811年にナポレオン軍の略奪で破壊されたが,19世紀後半にネオ・ロマネスク様式で再建された.ファサードはネオ・プレテレスコ様式という手法で建造されている.「プレテレスコ様式」とは,「16世紀スペイン建築様式で,銀器類のような入念な装飾が特色」(plateresque:リーダーズ英和辞典)と説明される.

 ナポレオン軍の襲来にも無事だった「黒い聖母」(ラ・モレネータ:ムーア人のように黒い女性)は,ロマネスク時代(12世紀後半)の作と推定される木彫で,16世紀には,後にイエズス会を創設するイグナティウス・デ・ロヨラが訪ね,19世紀に教皇レオ13世のよってカタルーニャの守護聖人とされた由緒あるものだ.

 あくまでも信仰の助けであって,私たち異教徒が深く関わるべきものではないが,折角なので,順番に並んで拝顔の栄に浴した.

写真:
「黒い聖母」
玉を持つ聖母の右手に
触れながら祈りを捧げる


 この聖母の玉座のある礼拝堂への途中に,17世紀イタリアの画家カルロ・マラッタの「イエスの誕生」があり,目をひくが,堂内にある,それ以外の多くのモザイク,装飾,ステンドグラス,絵画は,ともに19世紀以降の芸術家の作品だ.

 聖堂の左側にはゴシック様式の回廊が一部残っている.後に教皇ユリウス2世となったジュリアーノ・デッラ・ローヴェレが,この修道院の院長であったこともあり,その回廊にはデッラ・ローヴェレ家の家紋があるらしい.

 家紋は確かめていないが,ペーザロで見た「オーク(ローヴェレ)」の絵柄に,ラテン語で「倒れても再び立つ」と書かれているものであろうか.


「モンセラット美術館」
 聖堂の拝観を終え,自由時間をもらって「モンセラット美術館」に行った.絵画,彫刻だけでなく,古代ギリシアの壺や,エジプトからの出土品もある,本格的な美術館だった.

 東方正教のイコンのコレクションや,モンセラットの「黒い聖母」を主題にした作品の収集もあって興味深かったが,時間が乏しかったので,もちろん一目散にカラヴァッジョのある部屋に急いだ.

 カラヴァッジョの作品は「聖ヒエロニュモス」であった.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにこの作品の写真があるが,ヒエロニュモス(Saint Jerome)で検索すると,他にもローマのボルゲーゼ美術館と,マルタ島のヴァレッタにも同主題の作品がある.髑髏を前に置いた老人が赤い布を身に巻いて,闇の中から浮かび上がってくる得意な題材であったことがわかる.庭園美術館のカラヴァッジョ展でも,ボルゲーゼ美術館でも見た作品が最も優れているように思われるが,モンセラットの作品も心打つものがあった.

 時間に追われていたことと,事前に予習していれば何の問題もなかったのだが,意外な所でカラヴァッジョの作品とされるものに出会って半信半疑だったこともあり,十分な鑑賞ができなかったが,今,画集やウェブ上の写真をじっくり見ながら反芻すると,ともかく出会えて良かったとつくづく思う.

 カラヴァッジェスキの作品もあった.日本のカポディモンテ美術館展にも作品が来ていたオランダ出身のマティアス・ストーメルの「牧人礼拝」,ナポリ派のアンドレーア・ヴァッカーロの「ゲッセマネの祈り」,カラッチョーロの「聖フランチェスコ」があり,それぞれに見応えがあったように思われる.

 最後の作品はどこかで見たような気がするが,ウェブ上にも情報はない.後述する案内書にもこの絵に関しては言及も写真もないので,だんだん絵柄が思い出せなくなって来て残念だ.カラヴァッジェスキはやはり,私にとっては魅力的だ.

 他に,ここで見た作品では,エル・グレコの「悔悟するマグダラのマリア」が良かった.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにはこの作品はなく,複数ある同主題の作品ではブダペストの美術館にある作品が構図的に最も似ているが,モンセラットの作品の方が,表情が柔らかで私にとっては遥かに良く思える.

 グーグルの画像検索でも容易に見つからなかったが,スペイン語によるグレコの紹介ページにまずまずの写真が見つかった(もう一つあったのはポルトガル語のブログだった)ので,リンクしておいた.このページがずっとあるかどうかわからないが,暫くは見られるだろう.

 この作品が,スペインにおける,私のグレコ開眼の契機になった.何かしらイタリア的な明るさを感じさせるところが,私がこの作品に魅かれた理由だと思う.

 他にも,上質な絵画ではないかも知れないが15世紀のペルージャの画家ベネデット・ボンフィーリの祭壇画の部分を始め,ルネサンスからバロック,ティエポロ(「オーストリアのフランツ1世の誕生の寓意」)に至るまでのイタリア絵画が見られた.



 一方,スペイン絵画については,13世紀の作品とされる無名氏による古拙な「戦士たち」の他にも,古いカタルーニャ絵画も数点あったらしいが,既に思い出せない.ただ,カスティーリャ地方の画家,

 ベドロ・ベルゲーテ(c.1450-1504)

の作品が2点あったのは,エル・グレコ以前のスペイン絵画を知る上で,学習項目と考えたい.

 英語版ウィキペディアによれば,ベルゲーテは現在のカスティーリャ・イ・レオン州パレンシア県パラデス・デ・ナーヴァの生まれで,1480年にウルビーノの宮廷に行っている.そういえば,ウルビーノの国立マルケ美術館で,彼が描いたウルビーノ公フェデリコ・ダ・モンテフェルトロの肖像を見ている.

 フェデリコ公の肖像はウフィッツィ美術館にピエロ・デッラ・フランチェスカが描いたものがあり,それに比べるのが気の毒なほど,マルケ美術館では優れた作品とは思えなかった.

神吉敬三『巨匠たちのスペイン』毎日新聞社,1997

は卓見に満ちた名著だと思うが,その中で「ルネサンスがなかったスペイン絵画」という小見出しのついた一節がある.彼はイタリア的な意味でのルネサンスはスペイン絵画にはなかった(「と思っている」という留保つきではあるが)と断じている.

 専門家が言うのだから,まずその通りだとは思うが,それでも,ベルゲーテがウルビーノの宮廷で開明君主の肖像画を描き,メロッツォ・ダ・フォルリの作品を数点見た(ウルビーノが生んだ天才ラファエロの父ジョヴァンニ・サンティはメロッツォの助手を務めたとされる)可能性があり,1482年にスペインに帰り,セビリア,トレド,アビラで活躍し,息子のアロンソ(c.1488-1561)はルネサンス期のスペインを代表する画家,彫刻家,建築家になったと聞くと,やはり細々ながら,芸術におけるルネサンス精神をイタリアから取り入れようとする動きはあったのだと思う.

 アロンソもまた父と同じ小さな村で生まれ,父のもとで修行した後,イタリアに行き,彫刻はミケランジェロ,絵画はポントルモ,ロッソ・フィオレンティーノの影響を受けたということだ.マニエリスムの作風に染まる時代を彼は生きていたのだ.

 英語版ウィキペディアは,ペドロの様式はゴシックからルネサンスへの移行期にあるとしているが,だとすれば,レオナルド・ダ・ヴィンチとほぼ同世代の画家に,まだゴシックの痕跡があったことになる.イタリアでもロンバルディアの画家ヴィンチェンツォ・フォッパの絵には,ルネサンス的洗練だけではなく,ゴシック的な力強さも感じられるので,ものすごく時代遅れというわけではないだろう.

 この美術館で見たペドロ・ベルゲーテ「聖母の誕生」(板絵)は,今,案内書の写真を見ながら思い出しても,フィレンツェのサンタ・マリーア・ノヴェッラ教会のトルナブォーニ礼拝堂にギルランダイオが描いた一連のフレスコ画の中の「聖母の誕生」に北方絵画のテイストを加えて,若干下手にした絵のようだった.

 第一線の画家であっても,15世紀後半のスペイン絵画は新しいものを生み出す力を蓄える混沌の時代であったように思われる.ま,たった1人の1枚の絵(実際には「聖母の永眠」と合わせて2枚見たのだが)見ただけで,そう言い切ってしまうのは乱暴すぎる話なので,当分ペンディングとしたい.

 マドリッドの美術館にペドロの自画像が所蔵されているようだ.英語版ウィキペディアにも掲載されている.これを見るとやはり,イタリアのルネサンス絵画をやや田舎くさくしたような印象を受けるが,決して下手ではない.彼の50数年の人生の中に葛藤と進歩があったことが想像される.いずれにしても,この美術館を偶然見たことによって,グレコ以前の,「芸術」を感じさせる画家の作品とスペインで初めて出会ったことになる.

 ペドロの作品をウルビーノで,息子のアロンソの作品もフィレンツェのヴェッキオ宮殿のロウザー・コレクションで「聖母子」を見ているので,厳密には初対面ではないが,ルネサンスという現象に関心のある身からすると,専門家が「ない」と断じ,おそらくその通りであろうと思いながら,細々とはあったスペインのイタリア・ルネサンス風絵画を想起させる画家に早い段階で出会えたのは僥倖だった.

写真:
アロンソ・ベルゲーテ
「聖母子と幼児の洗礼者ヨハネ」
ロウザー・コレクション
ヴェッキオ宮殿,フィレンツェ


 スペインに携行していったプラド美術館の小型図録日本語版で,ルネサンス期のスペインの画家としてベルゲーテという人物がいることは知識としては知っていたが,モンセラットの美術館で最初に見たとき,中世の画家かと思ったくらい古くさく思えたので,少し考えさせられた.

 美術館で取ったメモを見ると,その近くにあった,ジャウマ・カブレラという15世紀前半の画家の「キリスト磔刑」にも注目していた.タラゴナ出身のカタルーニャ・ゴシック様式を代表する画家とのことだが,今,それ以上の情報は得られていない.今後,勉強すれば,あるいはおもしろい題材になるかも知れない.ただし絵柄は全く思い出せない.

 この絵の写真はないが,たまたま神田の源喜堂で,買っていた本,

 Joan Ainaud de Lasarte, Catalan Painting:: From Gothic Splendor to the Baroque, New York: Rizzoli International Publications, 1991

にジャウマに関する情報(pp.66-69)があり,絵の写真も2点ある.1394年から1432年に活躍したことはわかるらしいが,同時代のイタリア絵画に比べるとやはり古くさく感じる.それでも写真で見る限り,バルセロナ北部のジローナ美術館にある「キリストの遺体の傍らにいる3人のマリアとニコデモと天使たち」の部分写真には,美しいと思えるところもある.

写真:
モンセラット美術館のバナー


 この美術館で最も関心をかきたてられたのは,19世紀の一連のカタルーニャ絵画だ.

 イタリアでもマッキアイオーリ派と出会うことにより,19世紀以降の芸術にも興味が深まった.ともかく時間があまりなかったので,きちんと鑑賞することができなかったが,マリアー・フォルトゥニーサンティアゴ・ルシニョールラモン・カサスなどの作品は印象に残った.

 自然主義,バルビゾン派,印象派などという用語を想起させるのは,マッキアイオーリの場合と似ている.考えるには材料が足りないが,やはり,カタルーニャのモデルニスモの流れと関係が深いのだろうか.

 美術の歴史の大きな流れから言えば,いわゆるローカル・ペインターたちというべき存在かも知れないが,ある程度の数を見て,多少とも体系的に比較検討してみると,個性の差を越えて,時代的,地域的共通性が浮かび上がり,モンタネール,ガウディから,ミロ,ダリ,そしてアンダルシアのマラガからカタルーニャのバルセロナに移り住んできたピカソ(父の仕事の関係で,バルセロナの前にガリシア地方のコルーニャにも住んだらしいし,バルセロナのからマドリッドの美術学校にも一時在籍)への流れを考えるミッシング・リンクになるだろうか.

 この美術館にはダリの大作もあるが,必見の作品としてはピカソが14歳の時,故郷のマラガで描いた「老いた漁師」,15歳の時,バルセロナの美術学校で描いたとされる「ミサ答えの少年」があった.いずれもおなじみのピカソ風ではなく写実的な作品だ.後者は日本の特別展にも来ているので,私たちも見たことがあるのだが,まさか,モンセラットで再会できるとは思っていなかった.

 フォルトゥニーは1838年生まれで,モンタネール,ガウディよりもだいぶ年長だが,ルシニョールは1861年,カサスは1868年の生まれで,ガウディたちより,10歳前後の後進ということになる.ピカソは1881年,ミロは1893年,ダリは1904年の生まれなので,まあ,そういう流れも想像できるかも知れない.

 ピカソ,ミロ,ダリのような現実を超越した天才的芸術と,カタルーニャ派のモダンだが,堅実な画風に共通性があるかどうかは当たるも八卦,当たらぬも八卦だが,19世紀後半からのカタルーニャが経済的にも発展し,伝統を踏まえながら独創的な新しい文化を創出していったことを私たちは認識しても良いであろう.

 その流れに大きく影を落としたのが,スペイン内戦であり,フランコ独裁であったかも知れない.

 もちろん,フランコ政権のネガティヴな面ばかりでなく,どうしてスペイン全土に対して長期の安定政権を維持できたのか,ポジティヴな側面も考えてみる必要があるだろう.ともかく,何冊かの入門書を眺め見ただけでも,スペイン内戦前後の陰惨な歴史について知ることは辛い.しかし,これは単に遠い外国の話ではなく,多くの19世紀以降の近代国家が共通して抱えた問題でもあったのだと思う.

 話が重たくなって,どう収拾して良いかわからなくなったので,この後行ったタラゴナについて,簡単に言及して,翌日(8月11日)のバレンシアに関しては「続く」とする.


タラゴナ
 現在は州都バルセロナを戴くカタルーニャ州の中規模の一都市に過ぎないが,よく知られているように,タラゴナはローマ時代には属州ヒスパニア・キテリオルと,その後身であるヒスパニア・タラコネンシス(以下,音引省略)の中心地だった.

 今回のツァーを選んだ理由の一つには,この町が観光コースに入っていることがあった.実際には,小高い展望台から海に面した古代の円形闘技場を眺め,写真を撮って,町の食堂でお昼の食事をするだけだったが,それでも町の坂道を自分の足で歩くこともできたので,まずまず今回は満足だ.

写真:
ローマ時代の円形闘技場
タラゴナ


 スペイン語でフォルン・プロビンシアル(ラテン語ならフォルム・プロウィンキアーレになるだろう)と称される「属州の広場」という地区があり,古代には総督公邸だったらしい建物があり,それも一応写真に収めることができたが,見学はしておらず,後日の楽しみとした.

 ローマ時代に都市に飲料水を供給した水道橋(すいどうきょう)も観光できることを期待していたが,修復中ということで,僅かにバスの車窓から,それと思われるものを垣間見ただけだった.

 古代末期,中世と現在を結びつけるものとしては,「聖テクラ祭」があり,これは現在でも盛大に祝われる祭りのようだ.ウィキペディアに紹介の写真もある.ミラノのドゥオーモの「考古学エリア」に聖テクラ教会の遺構が残っているが,アンブロシウスやアウグスティヌスが活躍した5世紀には,ミラノの中心教会だった.今は,あまりなじみがないが,古代末期にはキリスト教でも重要な聖人(パウロによる布教活動の随伴者)で,この女性が守護聖人であることはローマ時代に栄えた古代都市の後身であるタラゴナらしい.

 いつの日か,チャンスがあれば,ロマネスク,ゴシックの特徴を兼ね備える由緒あるカテドラルとその宝物館,ローマ時代の貴重な出土品から中世の遺物を展示しているという考古学博物館を是非訪ねてみたい.



 モンセラットの美術館で絵画鑑賞を終えた後,ブックショップで図録を探したが見つからなかった.受付にいた青年に尋ねたところ,美術館の図録はないと言われ,かわりに英語訳のモンセラット全体のガイドブックに数点の絵の写真が出ているものを紹介された.折角親切に教えてくれたので,その本を買ったが,よく探すと1冊だけ,何と日本語の

 ジュゼップ・ラプラナ&テレサ・マシアー著,本澤健太郎訳『モンセラット 美術博物館 見学の手引き』バルセロナ,モンセラット修道院出版社,出版年不明

という本があった.翻訳であるからには,カタルーニャ語版が原著で,スペイン語訳,英語訳などがあることは容易に想像されるが,日本語版がたった1冊あっただけだった.4ユーロだし,もちろんこれも喜んで買った.

 モンセラットの案内書も同じ訳者によって,上記の英語版とは別のものが日本語訳で出ていた.こちらは8.5ユーロだったが,カタルーニャ語から翻訳することができる訳者がいるということに敬意を表して,これも購入した.





遺跡と一緒に地中海も写る
タラゴナ