フィレンツェだより番外篇
2010年8月28日



 




夏の離宮
ヘネラリーフェ庭園で



§スペインの旅 - その6 - アルハンブラ宮殿

イベリア半島最後のイスラム王朝となったナスル朝の最後の王(スルタン)は,ボアブディル(モハメッド11世)であった.


 グラナダを明け渡して退去する際,落ちのびて行く王は山上からグラナダの沃野と美しい街並みを見て,涙を流したと言われている.

 そのイスラム王朝を滅ぼし,「再征服」を完成させたカスティーリャの女王イサベラも,その夫であるアラゴンの王フェルナンドも死後グラナダに眠っている.グラナダはそれほど美しい街だと言われ続けた.



 8月11日,バレンシアを発って,オレンジ,オリーヴ,葡萄の畑,イベリコ豚の餌になるというドングリを実らせる樫の木の群生が延々と続く風景の中を,バスは進んだ.

 コスタ・デル・アサアール(オレンジの花の海岸)から,コスタ・ブランカ(白い海岸)に沿った道を進み,やはり古代からの都市であるアリカンテで昼食をとった後,今度はムルシア州から山道を西進して,峨々たるシエラ・ネバダ山脈の北側をバスは走った.

雄大だが,荒涼とした眺めだ.イタリアで見たトスカーナの風景とは明らかに違う.


 コスタ・ブランカの海に流れ込む川は,夏の暑さで水が涸れていることが多かった.水無し川の川べりに咲き誇る夾竹桃は,私にとっては,一番と言っても良いほど印象に残るスペインの風景だ.ともかく,夏の南スペインの暑さは尋常ではない.

 しかし,冬には雪を頂くシエラ・ネバダ(シエラ=「山脈」/ネバダ=「雪で覆われた」)山脈の北に位置するグラナダ周辺の平野は,雨が降らない夏でも,水は比較的豊かに流れている.暑熱のアンダルシアにあって,決して暑さを免れてはいるわけではないが,グラナダは別天地のように思える.

写真:
ヘネラリーフェ庭園
糸杉のアーチの間から


 グラナダ周辺のような沃野をスペイン語でベガと言い,その複数形の定冠詞がついたのがラス・ベガス(スペイン語ではvをbと同じように発音する)で,アメリカのラス・ヴェガスはもともとスペイン語の「沃野」という意味であると,多くの日本人ガイド(「ガイドの通訳」)さんが説明されるようだ.

 長時間の走行の後,グラナダが見えると,その都市としての繁栄に驚く.近代的な産業に支えられた大きな街だ.生まれて初めて五つ星ホテルに泊まることになった.この宿は,受付の感じも良かった.

写真:
カルロス1世宮殿
外部壁面のレリーフ
イスラム教徒との戦い


 ホテルのレストランで夕食を採った後,アルバイシン地区の観光に出かけた.

 イスラム支配時代の旧市街で,小高いところにあり,イスラム王朝が滅びる時に,最後の抵抗をした人々の血で染まったと言われている.以前は,スペイン語ではヒターノと呼ばれるロマ,いわゆるジプシーの人たちが住んでいた地区だ.

 フラメンコを見せる酒場をタブラオというらしいが,その舞台として洞窟(クエバ)を模している店もある.私たちの行ったロス・タラントスというタブラオもそうした店のひとつで,ここでスペイン・ビール(セルベサ)を飲みながらフラメンコを見た.

 けっこう,はまった.初めて見たのに僭越だが,やはり踊りだけでなく,歌や手拍子,掛け声があってこそフラメンコなのであろうか.最後の決めのポーズが印象に残る.

 その後,現地ガイドさんの案内で,展望台のあるサン・ニコラス広場に移動し,向かいの丘の上のライトアップされたアルハンブラ宮殿と,人口25万弱の都市グラナダの夜景を見た.


アルハンブラ宮殿
 翌朝(8月12日),アルハンブラ宮殿を見学した.個人で観光する場合は予約必須で,夏のヴァカンスの季節には予約ができないこともあるようだ.

 若干しか出ない当日券を求めて,この日も券売所に長蛇の列ができていた.

 私たちは朝一番に入場したので,比較的空いている状態で見学できたが,それでもかなりの人で賑わっていた.最初に見たのが,神聖ローマ皇帝としてはカール5世,スペイン王としてはカルロス1世と呼ばれる人物が16世紀に建設した宮殿だ.

 ミケランジェロ工房にいたペドロ・マチューカ(トレド生まれのスペイン人)が,1527年に建設を始めたとされるが,未完成と言われている.円形回廊の中庭に屋根がないのがその印とされるが,その方が結果的に良かったのではないかと,少なくとも回廊に関しては思う.

写真:
カルロス1世(カール5世)宮殿


 カルロス1世(カール5世)は,カスティーリャ王国の王位継承者「狂女フアナ」と,神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子であるハプスブルク家のフィリップ(スペイン王,厳密にはカスティーリャ王としてはフェリペ1世)の間に,フランドルのヘントで生まれた.

 ファナはカトリック両王と称されたイサベルとフェルナンドの娘で,ビセンテ・アランダ監督の「女王フアナ」という2004年の映画が,日本で劇場公開され,DVDも出ている.

 カールはスペイン王となった後,ポルトガル王女イサベルとセビリアで結婚したが,酷熱のセビリアを避け,新婚の夫婦はグラナダに旅行し,アルハンブラ宮殿にも滞在した.

 この結婚から生まれたのが,スペインの最盛期を現出したフェリペ2世で,彼は,神聖ローマ皇帝にはならなかった(皇帝はカールの弟でスペインで生まれたフェルディナントの系統に引き継がれた)が,母の血筋によってポルトガルの王位も継承した.

 カールがスペイン王(カスティーリャ王)に即位したのは1516年,皇帝に推戴されたが1519年,ポルトガルのイサベルとの結婚は1526年,カール26歳,イサベル23歳の時だった.

 1527年は,ローマ教皇クレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ)の狡猾な戦略に業を煮やした神聖ローマ皇帝が「ローマ劫略」(サッコ・ディ・ローマ)を敢行した年だ.もちろん敢行した皇帝は,アルハンブラにルネサンス建築の宮殿を造営する新婚のスペイン王カルロス(カール)だ.

 「永遠の都」ローマを徹底的に略奪したのは,後にスペインに王国を築く西ゴート族のアラリックとヴァンダル族のガイセリック(5世紀)以来のことである.

 西ゴート族はスペインに王国を作り,ヴァンダル族はスペインから北アフリカに渡って王国を建設したが,「ヴァンダル族の地」がヴァンダリアになり,アル・アンダルスを経て,アンダルシアの名を残した.「スペイン」という土地とその住民に責任のあることではないが,ある時代から,ローマ,イタリアに影響力を及ぼす地勢的有力性を獲得したことを意味しているだろうと思われる.

写真:
メスアールの間のタイル装飾
「さらに先へ」
(プルース・ウルトラー)


 カルロスの祖父母がアルハンブラに滞在した痕跡も,メスアールの間(アルハンブラ宮殿の現存する最古の部分)のタイル装飾の「さらに先へ」(プルース・ウルトラー)というラテン語の標語に見られる.

 もちろんカトリック両王以後に付加された装飾で,「再征服」を完成した年に,カトリック両王の支援を受けたコロンブス(スペイン語ではコロン)の「新大陸発見」があり,海外への進展がすでに彼らの胸中にあったかのようである.

 アルハンブラ(スペイン語はhを発音しないのでアランブラのように発音するそうだ)宮殿は,イスラム支配末期の,グラナダ王国の諸王が居住した宮殿とはいえ,やはり,イスラム建築の重要な遺産であり,ほぼ完璧な姿で残っている貴重な作例であると言えよう.



 宮殿の見学は,このメスアールの間から始まった.ここで,床装飾,壁のタイル装飾,漆喰装飾を眺めながら,黄金の間に進み,そこから中庭に出て,コマレス宮殿のファサードに向かう.振り返ると黄金の間のファサードもまたイスラム風で美しい.

 コマレス宮殿に入り,そこからアラヤネス(天人花)の中庭に出る.ここには,長方形の幾何学的だが,美しい池があり,中庭に出たとき,左側にコマレスの塔があり,池にはその姿が映っている.

写真:
アルハンブラ宮殿
アラヤネスの中庭
正面はコマレスの塔


 コマレスの塔にはコマレスの間,もしくは外国の大使たちの謁見に使われたので「大使たちの間」と呼ばれる部屋がある.その部屋の前に「船の部屋」とよばれる場所もあり,ここの入口の漆喰装飾とそこに刻まれたアラビア文字が目を引く.

写真:
アルハンブラ宮殿
コマレス宮
(塔の中にある「大使たちの間」)


 コマレスの塔から,もう一度中庭に戻り,反対側の「北側の通廊」と呼ばれる所を通り,本来は,アルハンブラ観光の目玉である,ライオンの中庭に向かう.

 庭の中心部には,アルハンブラ宮殿のイメージとしてよく紹介されている12頭のライオンの彫刻に囲まれた円形噴水(「水時計」とガイドブック等にはある)があるが,現在は修復中で覆いが掛けられている.12体のライオン像だけは最近修復が終わって,別室で公開されていたが,撮影厳禁だったので写真はない.

 しかし,中庭を取り囲む,柱廊には相変わらず目を奪われる.

写真:
中庭の柱廊
左手が「ライオンの中庭」


 「ライオンの中庭」の南には「アベンセラーヘスの間」と言われる空間がある.王位をめぐる陰謀を巡って,有力な一族の36人の男たちがここで殺され,その血がライオンの中庭まで流れたとされる.最後のスルタンの父親の代の話ともされるなので,「伝説」とするには新し過ぎるが,真相や殺された人数に関しては,はっきりしない.私たちはあくまでも史実を反映している可能性の高い伝説と受け取っておこう.

写真:
二姉妹の間


 ライオンの中庭の北にある,「二姉妹の間」も「アベンセラーヘスの間」同様,天井装飾が見ものと言えよう.前者は八角形型,後者は八菱星(というのは日本語として成立しているかどうか)型でそれぞれ特徴がある.採光や通風に配慮した構造になっていて,暑い地域の宮殿建築としての工夫に満ちているのであろう.

 「二姉妹の間」から「浴室」を見学して,アメリカの作家ワシントン・アーヴィングが『アルハンブラ物語』(邦訳は岩波文庫,講談社文庫など)を書いたとされる部屋を最後に,宮殿を辞去して,サンタ・マリア教会,パラドール・グラナダの横を通り,坂を上って,夏の別荘であるヘネラリーフェに向かった.

アルハンブラ宮殿
鍾乳石風の天井
わずかに青い彩色が残る

サグラダ・ファミリア教会
天井
植物をモチーフにしている



ヘネラリーフェ庭園
 「ヘネラリーフェ庭園」と通称されるヘネラリーフェ宮殿(パラシオ・デ・ヘネラリーフェ)は,やはり,私も宮殿の印象があまりなく,庭園ばかりが記憶に残った.

 ヘネラリーフェのスペイン語綴りはGeneralifeで,一瞬,英語でgeneral lifeと書いてあるのか思ってしまうが,英語版ウィキペディアに拠れば,ヘネラリーフェは「建築家の庭」(ジェンナト・アル・アリーフ)という意味のアラビア語を語源としているようだ.『ワールド・ガイド』には「すべてをみつくす者の楽園」という意味だとある.『地球の歩き方』には語源の説明はない.

 英語版ガイドブックに拠れば,多くの学者がアラビア語のジェンナトは「庭園,楽園,果樹園」の意味で,アル・アリーフは「建築家,棟梁」の意味なので,ヘネラリーフェとは「建築家の庭」であると説明している一方で,宮殿と同時代のアラブやキリスト教徒の著述に「主たる果樹園」もしくは「全ての果樹園の中で,最も高貴で最も価値ある果樹園」と解釈されていた証拠があると主張する人たちもいる,としている.

 『ワールド・ガイド』の説明は魅力的だが,今のところ根拠は確認できていない.スペイン語版ウィキペディアには,英語版ガイドブックと同じ説明(フエルタ・デル・アルキテクトもしくはハルディン・デル・アルキテクトとエル・マス・エスセルソ・ハルディン)があった.

 アラビア語のような,メジャー言語が語源なのに,諸説あるのは不思議な感じがするが,私もアラビア語を勉強したことがないので,これに関しては,「そう言われている」と上記のように整理しておく.



 数年前に開設された文化構想学部という学部で,複合文化論系というコースの担当教員として,日本語で言う「ゼミ」というクラスを持っている.現在,4年生が18人,3年生が16人いるが,3年生に1人,「庭園の歴史」を文化的背景から研究したいという熱心な学生がいて,学部の必修外国語とは別に,アラビア語やラテン語も勉強するほど向学心に溢れている.ラテン語については多分,私に一日の長があると思うが,アラビア語とイスラムの知識に関しては,学生さんに刺激されながら,少しずつ勉強していこう.

 もちろん「庭園の歴史」に関しても,私の能力を遥かに超えたテーマだが,イタリアでヨーロッパの「庭園」というものを実見し,その文化的,思想的背景に関しても,従来の関心と関連付けながら知見が得られたので,何かを一緒に考えることはできると思っている.

ようやく,今回,念願かなって「イスラム庭園」と考えられているであろうものを一つ見ることができた.


 当たり前だが,今回だけでは「イスラム庭園」とルネサンス以降のヨーロッパの庭園の本質的違いを意識するには至らなかった.あるいは,それだけ前者が後者に影響しているからか知れないが,それも含めて,少しずつ考えてみたい.

 このイスラム庭園の独創性は,イスラム教徒がスペインにもたらした水利技術の応用にあるかも知れない.小高い丘の上の避暑宮殿に地上の楽園を現出するためには,シエラ・ネバダ山脈の雪解け水によって比較的潤沢な水量が期待できる土地とは言え,かなりの技術が必要なはずだ.あるいは,古代オリエントの伝説の空中庭園を想像させるであろうか.

写真:
水の演出によって
涼を呼ぶ

ヘネラリーフェ庭園


 アルハンブラはアンダルシアのイスラム文化の遺産としては,かなり新しい方に属する.

 イスラム教徒がイベリア半島に来て以来,文学,思想,医学,建築,その他様々な文化が栄えたが,その最大の恩恵は,灌漑技術と,それによって盛んになった農業であったことは容易に想像される.アルハンブラとヘネラリーフェは,訪れる者たちに様々なことを考えさせる.



 ヘネラリーフェ庭園に向かう途中の通りの壁に,タイルのプレート(下の写真)があった.多分「彼は沈黙と時間を求めてグラナダにやって来て,グラナダは彼にハーモニーと永遠を与えた」という内容の,ノーベル賞詩人フアン・ラモン・ヒメネスの句が書かれている.

 バレエ音楽「恋は魔術師」,「三角帽子」,オペラ「はかなき人生」などで有名な作曲家マヌエル・デ・ファリャがグラナダにいたことを記念するプレートのようだ.

写真:
柘榴の絵が描かれた
グラナダ焼きのタイル


 『地球の歩き方』のグラナダの地図に記載されている,「ファリャが1921年から1939年まで住んだ」家で,現在は彼を記念する博物館の位置は,確かにアルハンブラ宮殿周辺ではあるが,ヘネラリーフェとは違う方角なので,どうしてここにプレートがあるのかは,今後確認が必要だ.定住以前に,一時的な滞在地がここにあったのだと想像する.

 ヒメネスはカディス近傍のウエルバ県モグエルの出身,ファリャはカディス出身の,ともに20世紀のアンダルシアを代表する文化人だ.

 特にファリャがマドリッドの音楽学校で学んだ教師フェリペ・ペドレル(カタルーニャ人)は,広義のスペイン・ルネサンス最高の作曲家で,対抗宗教改革の時代に活躍したトマス・ルイス・デ・ビクトリアの全集を校訂・出版し,ファリャにスペイン民族音楽の重要性を示唆した(日本語ウィキペディアでファリャの項目参照.ペドレルに関しても英語版より日本語版が詳細))ということだから,20世紀の偉大な作曲家ファリャには,スペインの文化が凝縮されていると言えよう.

 グラナダにはマヌエル・デ・ファリャ音楽堂があり,グラナダ管弦楽団の本拠地になっているようだ.ファリャがマドリードで学び,パリでフランス音楽やストラヴィンスキーの影響を受けながら,グラナダを長い居住地に選んだことは本人にとっても,グラナダにとっても重要な意味があったのだ.

 彼は,グラナダに住んだ最も有名な詩人,劇作家のフェデリコ・ガルシア・ロルカの友人でもあった.スペイン内戦でロルカは殺され,ファリャはアルゼンチンに,ヒメネスはキューバからアメリカに去った.ファリャはアルゼンチンのコルドバで,ヒメネスはプエルトリコで亡くなった.

 グラナダに向かうバスが,高速道路を走っているとき,何度か「ロルカ」という地名の標識を見た.このムルシア州の小さな町に関しては日本語版ウィキペディアの「ロルカ」からもかなりの情報が得られるが,詩人はグラナダ郊外のフエンテ・バケロスという小さな村の生まれのようなので,直接の関係はないかもしれない.

 しかし,詩人が南スペインの出身ということはおぼろげながら知っていたので,バスの中で少し気分の高揚があった.38歳で死を強いられたが,不朽の名を遺した.アンダルシアの文化は,幸福も不幸も綯いまぜにして紡がれて行った.





テラスからグラナダの街を見る
アルハンブラ宮殿