フィレンツェだより番外篇
2011年4月18日



 




ナイチンゲールの囀る夜明け
カルカソンヌ



岩手から,一時帰埼した(4月4日).明日(7日)の夜行バスでまた行ってくる.


 母の最後の言葉は,「ヒロちゃん,スリッパ履いでいがいん(履いていきなさい)」だったと,奇跡的に助かった店員のヒロコさんが教えてくれた.震度6の地震で,陶器店の品物は散乱し,母とヒロコさんは茫然としながら,店に散乱するかけらを片付けていた.

 防災放送で津波を警戒する避難勧告があり,町は緊張状態だったが,聴力が衰えていた母にはピンと来ていなかったかも知れない.避難を促すヒロコさんに,奥の自室で片付けをしている父の様子を見てくると言って,母はヒロコさんの視界から消えた.その時,少しでも高いところを目指して先に2階に行くから,ついて来るようにと言うヒロコさんに対して,割れた陶器のかけらを踏まないようにと気遣って,上の言葉を言ったのだと思う.これから,考えもしなかった大波が襲ってくるというのに,いかにも母らしい最期だったと思う.

 50年以上,2人で築き上げてきた宮城陶器店とともに,両親は逝った.

 ヒロコさんは隣町まで,母の遺体は,さらに隣の町の防波堤のところまで流された.詳述は避けるが,奇跡というべき巡り合わせで,ヒロコさんが助かってくれて本当に良かった.仙台で被災したご子息は無事だったが,彼女の夫君はまだ行方不明だ.

 24日,親族,友人,地域の皆さんのお力を借りて,母の遺体を確認した.

 叔父の助言で,28日に大船渡で火葬し,ご自身も被災者である皆さんが見守る中,菩提寺の墓所に埋葬した.遺体はもちろん傷んでいたが,火葬直前には,何らかの理由で腫れがひき,穏やかな表情の,ずっとそうであり続けた,商店の可愛いオバチャンの顔に戻っていた.父はまだ行方不明のままだ.



 書き出して,またしばらく時間が経ってしまった.7日の深夜バスで池袋から釜石まで行き,翌朝,大船渡在住の従弟に釜石まで迎えに来てもらい,毎日,叔父の自動車で遺体安置所をまわったが,父は相変わらず行方不明のまま,10日の深夜バスで再び帰京した.





§フランスの旅 - その6 (カルカソンヌ,ロカマドゥール)

ペトラルカがアヴィニョンを批判的に評価していたことは良く知られている.


 場合によっては悪罵ともとれるような,彼の言説が紹介される.それでも彼は,アヴィニョンでラウラに擬せられる女性に出会ったかも知れないし,現在アヴィニョン市を県庁所在地とするヴォークリューズ県の名のもととなっている地を愛した.

 以下の引用からもわかるように,ペトラルカの不満のかなり大きな要素として,ローマではなくアヴィニョンに教皇庁があったことがあげられるだろう.

 「現在はフランスの地が私を捉えています.西方のバビロンと凶暴なローヌの流れが.そしてローヌ河は煮え返るコキュトスや恐ろしいアケロンもかくやと思わせるほどです.じっさい,ローヌのほとりで漁師たちの相続人が治めていますが,かつては清貧の徒であったのに,いまは完全にそのことを忘れているからです.」(近藤恒一編訳『ペトラルカ ルネサンス書簡集』岩波文庫,1989)

 コキュトスやアケロンはギリシア神話で地獄を流れる河であり,「西方のバビロン」はアヴィニョンを指し,十二使徒たちの中心人物で,初代教皇とされるペテロたちがガリラヤ湖の漁師であったことが思い当たれば,アヴィニョンの教皇庁批判であることは容易に察することができる.


アヴィニョンの歴史
 教皇庁のローマ復帰を切望した「イタリア人」ペトラルカにしてみれば,あるいは古代から栄えたローマと同列に考えたくはなかったかも知れないが,その起源を辿ると,アヴィニョンのある地に人が住み始めたのは新石器時代に遡ることを考古学資料は示している.

 ラテン語名アウェンニオーが,古典に出てくることは,ガフィオ『羅仏辞典』旧版で確認できる.後1世紀の地理学者ポンポニウス・メラと大プリニウスが出典となる.

 地名の語源が,ケルト語もしくはリグリア語で,「激しい風の町」もしくは「水の支配者」と言う意味(Roselyn Moreaux, Avignon, Editions PEC, 1998)と言われると,よく分らないけれども,それらしい諸説があるということかなと思う.

 いずれにせよ,ラテン語でカウァレス族という名の人々がその名を与えたとされ,マッシリア(マルセイユ)にいたギリシア人が開発し,後にローマ人が進出して,支配した.属州ガリア(ガリア・ナルボネンシス)の都市として栄えたが,ゲルマン人の侵入を受け(5世紀),イスラム教徒に侵略され(8世紀),737年フランク王国のカール・マルテルによってキリスト教圏に回復された.

 カール大帝の支配,神聖ローマ帝国領内の封建君主領,帝国自由都市(1129年)と,その地位には歴史的変遷があり,1226年にアルビジョワ十字軍を起こしたフランス王ルイ8世の進路を妨害し,占領され,城壁が破壊された.

 1305年,アナーニ事件による教皇憤死後,フランス王フィリップ4世美男王の影響下に,新教皇に選出されたボルドー大司教は,今で言えば「フランス人」であり,クレメンス5世としてリヨンで戴冠し,1309年からアヴィニョンを教皇庁の所在地とした.以来,7人の教皇がアヴィニョンに君臨し,全員が今風の言い方ではフランス人だが,最後のグレゴリウス11世は,在位中の1377年にローマに教皇庁を移し,「教皇のバビロン捕囚」は終わった.

 その後,対立教皇が立てられて,「大分裂」(シスマ)の時代が続き,1414年に統一教皇のマルティヌス5世が選出されるまで,その状態は続く.

 アヴィニョンに教皇庁があった時代の1348年に,プロヴァンス伯領の継承者であったナポリ王国の女王ジョヴァンナから,教皇庁がアヴィニョンを買取り,フランス革命(1789年)まで,アヴィニョンは教皇領であり続けた.

 そのフランス革命で,民衆の憎悪を買っていたのか,旧体制を支えていた教会や修道院は略奪を受け,多くの財産や芸術品を失った.アヴィニョンの旧教皇庁宮殿も例外ではない.

写真:
ポン・デュ・ガールを
渡りながら,遥かに
教皇庁を望む


 ローマ時代の水道橋,ポン・デュ・ガールは,「ガルドン川(もしくはガール川)にかかる橋」という意味のフランス語であろうから,もちろんローマ時代の名称ではない.

 近くのニームは,地元の泉の神に由来する有力都市ネマウスス(ラテン語名)であったが,前120年に共和制ローマに服属し,属州ガリアの要地として栄える.

 水道橋が建設されたのは,紀元前19年で,責任者はアウグストゥスの腹心で,パンテオンの祖型の建築責任者としても知られるマルクス・ウィプサニウス・アグリッパだったとされる.

 これほどの大きさの水道の遺構(英語版ウィキペディアに水道橋を含む「ローマ時代の橋」というリストがある)は,イタリアにも複数残っているし,ドイツ,北アフリカ,トルコ共和国にもあるが,タラゴナ近郊の「悪魔の橋」,セゴビアの水道橋,メリダの「奇跡の橋」などスペインのものが有名だ.タラゴナ近郊のものは,車窓から垣間見ただけだし,メリダは行っていないが,セゴビアの水道橋は,かなりじっくり見ることができた.

 偉大な古典学者で歴史家の村川堅太郎が「セゴビアの水道橋にも驚きましたが.やはりこの方がまた一格上」(※)と言っているにもかかわらず,建造物としては,ポン・デュ・ガールよりセゴビアの水道橋が圧倒的に美しいと言うのが私の印象だ.素材上の理由で,風化しているように見えるポン・デュ・ガールに比べると,セゴビアの水道橋はあくまでも堅牢で,地肌も滑らかに見え,気持ちが落ち着く.

 ただ,セゴビアの水道橋が中堅都市の市街地を通っているのに対し,ポン・デュ・ガールは美しい自然の中にあり,この風景が素晴らしい.

 たとえ古代の水道橋がなくても,ここに来て,長い時間佇んでいたいと思うほど美しい川が流れ,冬の時期であっても巨木も含めた木々が林立して,そこに様々な鳥が集っている.春や夏はもっと素晴らしいかも知れないが,人があまりいない,冬が終わり,春が来ようとするこの時期に来ることができて,良かったと思わせるような,そんな一時を過ごすことができた.

※ 『地中海からの手紙』 この本の中公文庫版を持っていたが,実家に置いてあり,この度の津波で亡失したので,引用は牟田口義郎『南フランス紀行 プロヴァンスの町々を訪ねて』ジャルパックセンター,1985,p. 93から.



 4日目の夕方,アヴィニョンからカルカソンヌに到着し,翌2月28日はカルカソンヌを観光後,ロカマドゥールに行き,リモージュ近郊の宿に泊まった.

 カルカソンヌに到着したとき,小雨が時々ふり,風も吹いていたが,まだ明るかったので,宿に荷物を置いて,城壁の内外を散策した.

 城壁内では,後述する1801年までカテドラール(大聖堂)だったサン・ナゼール聖堂を拝観し,入場した門とは反対側のオード門から城壁の外に出て,アーモンドの花の咲く美しい風景を楽しんだ.

 夕食後,添乗員さんの案内で城外の橋のところからライトアップされた城壁の夜景を鑑賞した.

写真:
カルカソンヌの城壁
雨上がりの空が眩しい


 翌朝は雨だったが,日本人現地ガイドの女性の案内で,城壁沿いに歩きながら観光した.ローマ時代から城壁の部分もあるようだが,多くは中世以降のものである.

 カルカソンヌの城門(ナルヴォンヌ門)の前の,濠にかかる橋のところには,日本のおかめひょっとこの「おかめ」か「お多福」のような女性像があった.

 この像はイスラム支配の時代の女性領主カルカスのものとされ,彼女がカール大帝との戦争の際に,鐘を鳴らし,「カルカスが鐘を鳴らす(鳴らしている)」(カルカス・ソンヌ,英語版ウィキペディアのカルカス・ソナはオック語であろうか)がこの町の名の由来であると言うのは人口に膾炙した伝説らしい.日本語版ウィキペディアにもあった.

 しかし,これがいわゆる民間語源説であろうことは,カルカソというラテン語名が,すでにカエサルの『ガリア戦記』(3巻20章)にあり,カルカスムという別形が大プリニウスにあることからも察せられる.カール大帝から7,8百年前のことであり,イスラム教がまだ存在しない頃の話だ.


サン・ナゼール聖堂
 その後,前日も拝観したサン・ナゼール聖堂に行った.正式にはバジリック・サン・ナゼール・エ・サン・セルス・ド・カルカソンヌと言うようだ.

 ナゼールとセルスは,イタリア語ではナザーロとチェルソ,ラテン語ではナザリウスとケルススという2人の殉教聖人で,ミラノにもこの聖人たちの名をそれぞれ冠した教会があり,ボローニャ出身で,ミラノで活躍した画家一族の一人カミッロ・プロカッチーニに「聖ナザリウスとケルススの殉教」と言う絵がある(Paolo Biscottini, ed., Museo Diocesano di Milano, Milano: Touring Club Italiano, 2005, p. 178).

写真:
サン・ナゼール聖堂


 カルカソンヌのサン・ナザールはゴシック様式の見事な教会で,内部ではステンドグラスが美しい.バラ窓だけでなく,「ノアの方舟」,「生命の樹」など聖書やキリスト教思想に基づく絵柄も見事だった.

 ロマネスク風に見える「三位一体」の小さな彫刻(14世紀の作なので,実際にはゴシックの時代のもの)や,「聖水盤」(12世紀)も印象に残った.

写真:
サン・ナゼール聖堂の堂内


 右翼廊に浮彫り彫刻のある石棺の蓋が壁に掛けられているのを見つけた.堂内で喜捨により頂いた案内には「シモン・ド・モンフォールの石棺の蓋」とあった.

 シモン・ド・モンフォールは高校の世界史で習った名前だ.しかし,世界史に出てくるシモンは5世で,ノルマンディーで生まれ,イングランドの貴族レスター伯爵(6代目)になり,国王ヘンリー3世に叛旗を翻し,彼が勝利して王権を制限をして,貴族,聖職者,都市市民の権利を認めさせて,イギリスの議会政治の元を築いたとされる.いわゆる「シモン・ド・モンフォールの乱」(1265年)である.

 カルカソンヌのサン・ナゼールに埋葬されていたのは,同じシモンでも父親の4世(レスター伯としては5代目)である.

 4世はパリ近郊のモンフォール・ラモリーの領主(男爵)シモン3世と,第3代レスター伯爵ロベール・ド・ボーモン(ロバート・ボーモント)の娘アミシアとの間に生まれた.後にレスター伯爵となるのは母からの継承権に拠る.1202年からの第4回十字軍に従軍し,南仏の異端カタリ派を討伐するための「アルビジョワ十字軍」(1209-29年)の指揮官としても知られる.

 アルビジョワ十字軍の戦争は,王権の伸張を図るフランス国王を中心とする北フランスの勢力と,トゥールーズ伯を中心とする南仏諸侯の領土をめぐる争いに宗教上の対立がからんだ事件と考えることができるかも知れない.

 シモン4世は,個人的な信仰心や信念もあったであろうが,その軍事的才能をいかんなく発揮して,カタリ派支持のカルカソンヌを占領し,トゥールーズ伯との戦争も有利に進め,伯爵父子の亡命後に彼自身がトゥールーズ伯となる.

 その後,帰国して民衆の支持を得たレーモン6世が,トゥールーズ伯に返り咲くと,シモンはトゥールーズを攻撃して包囲した.しかし,1218年攻撃中に投石機から発せられた石に頭を砕かれて戦死し,サン・ナゼール聖堂に葬られた.

写真:
攻城の場面を描いた浮彫
(カルカソンヌの攻城,もしくは
シモンが指揮して,戦死した
トゥールーズ攻めの可能性が
あるとされる)


  私たちが考える「国」や「領土」とは違い,例えばシモンも,モンフォールの男爵とイングランドのレスター伯爵を兼ね,一時はトゥールーズ伯,プロヴァンス侯も兼ねたが,彼と対立したトゥールーズ伯レーモン6世は,同時にプロヴァンス侯爵であり,その子レーモン7世はさらにナルボンヌ公爵を兼ねた.

 シモンがカルカソンヌの領主になったときの爵位は子爵(現代英語ではviscountヴァイカウント,現代仏語ではvicomteヴィコント,イタリア語ではvisconteヴィスコンテ)だった.同じ人物が,シモン4世に関しては,男爵,子爵,伯爵,侯爵の爵位をある時期,同時に持っていたことになる.

 爵位や地位は世襲領地と不可分で,イングランド王が同時に,ノルマンディー公爵で,フランスではフランス国王の臣下になるという,私たちにはわかりにくい制度,慣習と同じだ.似ていると言われることもある西欧と日本の封建制度も根本的に違うものであることが,表面に見えてくるこの程度の事象からも察せられる.


コンタル城
 カルカソンヌは,子爵領であり,その領地の支配拠点がカルカソンヌの城壁内の旧市街である.その中にある「城」(英語版ガイドブックに英語のキャスルと仏語のシャトーの両方の表記)は,領主である子爵の居城だ.

 カルカソンヌに人が住み始めたのは紀元前3500年くらいまで遡れる(英語版ウィキペディア)とのことだが,その地名の語源は上述の民間語源説とは別に,ケルト語であったかも知れない.前100年にローマの植民都市となり,5世紀に西ゴートの支配下に入り,サン・ナゼール教会も創建された.

 西ゴート王国と言うと,最初にスペインを統一した王国のイメージがあるが,その前にはトロサ(現在のトゥールーズ)を首都として,南フランスにも大きな勢力を持っていた.後に中世の歴史に反映するように,ピレネー山脈を挟んでいるとは言え,スペイン北部と南フランスには深いつながりがあったことが察せられる.

 8世紀にイスラム教徒の侵略を受けたが,同世紀後半にはフランク王国のピピン短躯王がこれを駆逐して,キリスト教圏に戻った.

 伯爵領の時代から,1067年に,レーモン・ベルナール・トランカヴェルの領地となった.トランカヴェル家は,アルビの子爵で,婚姻によってカルカソンヌを手中にしたようだ.英語版ウィキペディアの一覧表に拠れば,6代目まではアルビのみの子爵だが,7代目のレーモン・ベルナールからは,ベズィエ,カルカソンヌ,ニームの子爵の称号が加わる.彼から最後のレーモン2世までの間に,カルカソンヌの子爵の称号も持つ人物が7人で,全てアルビの子爵を兼ねている.

 現在まで続く「城」を建造したのは,このトランカヴェル家の領主たちであった.家名の由来はオック語の「胡桃割り」が祖先のあだ名となったことに由来するようだ.

 この「城」をコンタル城(シャトー・コンタル)と称するが,コンタルは「伯爵の」というフランス語の形容詞であるから,子爵領以前のカルカソンヌが8世紀から11世紀まで,十数代に渡る伯爵領(英語ではカウント,仏語ではコント,イタリア語ではコンテで,いずれもラテン語のコメス「友,仲間」に由来する.英語ではイングランドの伯爵はアールと言うが,その場合も伯爵夫人はカウンテスとカウントの女性形)であったことに由来するのだろう.

写真:
コンタル城
少し離れたところに
サン・ナゼール聖堂


 アルビジョワ十字軍の戦争に際して,上述のシモン・ド・モンフォール4世は,カルカソンヌの子爵レーモン・ロジェール・ド・トランカヴェル(英語版仏語版ウィキペディア)を捕え,獄死せしめたが,子爵の称号は自身が引き継いだ.

 この時から,カルカソンヌはスペインのアラゴン王国との最前線となり,フランス王権支配下の重要な城砦都市となったが,17世紀に国境線が南に下がり,国防の前線基地の意味合いは薄れ,その後は毛織物産業の中心地として栄え,今に至っている.

 現在のカルカソンヌの大聖堂(司教座聖堂)は,サン・ミシェル教会というかつての教区教会のようで,この教会もラングドック・ゴシックという古い様式の由緒ある聖堂のようだが,観光地図には出ておらず,城壁内の旧市街(シテ)から丘を降りて,オード川のほとりにできた町(ヴィユ・バス)にあるので,全く見ていない.

 着いた日の夕方,城壁を出て,丘の下におりたときに外観だけ見ることができた一見古風な教会は,サン・ジメール教会と言うようだ.仏語版ウィキペディア「カルカソンヌ」に情報があるが,教会は19世紀に建築家ユジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクによって建てられ,そこには17世紀に建立されたサン・ジメール礼拝堂があり,もともとは10世紀の当地の司教ジメールの生家のあった場所とされる.この地方のローカル・セイントを記念した教会と言える.

 建築家ヴィオレ=ル=デュクの名は,カルカソンヌのあちこちに見られる.城壁,コンタル城などの修復を指揮監督したのも,19世紀フランスのゴシック・リヴァイヴァルを代表するこの建築家であり,その資料などは,コンタル城内の考古学博物館の一角にも展示されている.

写真:
コンタル城内の博物館
12世紀の水盤


 この考古学博物館は,前日,旧市街の土産物屋で買った,

 Lily Deveze, The Golden Book: Carcassonne and the Cathar Castles, Firenze: Bonechi, 2010

にも写真があり,是非見たいと思っていたが,自由時間になったとき,日本人ガイドさんが有志を募って団体割引料金で入れるようにしてくださったコンタル城内見学の際に見ることができた.

 ヴィオレ=ル=デュクのコレクションによる,旧大聖堂の遺物,ローマ時代や西ゴート時代の石棺,中世の武勲詩『ローランの歌』に取材した可能性のある,キリスト教徒の騎士とイスラム教徒の一騎打ちを描いた12世紀のフレスコ画,やはり12世紀の,浄めの儀式に用いられた水盤,周囲の前面に,「見よ,この人なり」の場面,裏側に「受胎告知」の彫刻を配したキリスト磔刑の彫刻,14世紀の石像の聖母子,など枚挙に暇がないほど見るべきものに満ちていた.


ロカマドゥール
 カルカソンヌは,トゥールーズを中心とするラングドック地方に属しており,カタリ派が栄え,アルビジョワ十字軍の歴史からも察せられるように,まだ南フランスであった.

 しかし,そこから向かった巡礼の地ロカマドゥールは,植生や風景からも「南仏」と言うイメージが薄れていく.

写真:
ロカマドゥール


 ロカマドゥールに関しては,事前に予習する資料がほとんどなかったが,現在は,ロンリー・プラネット『フランス』の他に,

 Suzanne Boireaux-Tartarat et al., Eyewitness Travel: Dordogne & Southwest France, New Yok: DK Publishing Company, 2006
 P. Clement Nastrorg, tr., Oliver Todd, Rocamadour, Editions du Signe, 2006(アクサン記号省略)

がある.英語版仏語版のウィキペディアもそれぞれ詳しい情報を提供してくれる.探した限りでは,日本語版ウィキペディアは現在のところ「ロカマドゥール」では立項していないようだ.

 ロカマドゥールは,4世紀後半から5世紀初頭の司教聖人アマドゥール(聖アマートル)の名を冠した聖地とされている.「アマドゥールの(聖遺物がある)岩場」という意味に受け取られていると考えて良いのだろうか.英語のロックと同じ語源のフランス語ロシュは岩と言う意味だし,イタリア語ではロッカは大体「山頂の城砦」という意味で使われるが,古語には「岩」の意味があり,同語源のロッチャは「岩」の意味で使われる.英語の辞書には古仏語が語源で,そのもとはラテン語の可能性があると言っているが,ロッカという語は古典のラテン語では使わないので,民衆ラテン語の中から出てきたのだろうか.

 しかし,そもそもこの地名も「ロク・アマドゥール」ではなく,「ロカ・マヨル(マジョル)」(英語に直訳するとmajor rock)がもとで「大きな(重要な)岩(の避難所)」と言う意味だったのではないかという考えもある(仏語版ウィキペディア)ようだ.その場合は,特定の聖人の名を冠した由来は,後世の創作と言うことになる.

写真:
岩を壁に司教館や
修道院が建っている


 いずれにせよ,聖人の墓が12世紀以来あるとされ,南仏,スペインで崇敬を集める「黒い聖母」像がある聖地として巡礼者を集めてきた.

 高名な宗教者では,ケルン司教エンゲルベルト,聖ドメニコ,パドヴァの聖アントニウスなどが13世紀に,20世紀には後に教皇ヨハネス23世となるアンジェロ・ロンカッリが教皇特使として訪れている.

 王侯では,12世紀にイングランド王ヘンリー2世が後に殉教聖人となるトーマス・ベケットを連れて訪れ,フランス国王も聖王ルイ9世シャルル4世ルイ11世,王妃ではルイ8世の妻カスティリアのブランシュ,ルイ7世と後に離婚するアキテーヌのアリエノールなどが巡礼者リストに挙げられる.

 20世紀フランスを代表する作曲家のフランシス・プーランクが,ここに巡礼して,カトリックの信仰に目覚め,多くの宗教曲を作曲した.「ロカマドゥールの黒い聖母への連祷」は1936年の作で,私も高校時代にその一部を歌ったことがある「スターバト・マーテル」が1950年,「テネブレのための7つの応唱」が書かれたのが,死の前年の1962年であるから,覚醒以後は生涯宗教音楽を書き続けたことになる.

 私たち異教徒には理解しがたいが,フランス・カトリックの重要な聖地であることは間違いない.イタリアと違って,フランスではプロテスタントの勢力が台頭したことがあり,17世紀の宗教対立(ユグノー戦争など)の中,聖アマドゥールの遺体が略奪にあったこともあるそうだ.

 見どころは,聖人の墓所とされる聖アマドゥールの地下祭室(クリプト),黒い聖母子が祀られているノートルダム礼拝堂(シャペル),外壁に12世紀のフレスコ画が残るサン・ミシェル礼拝堂,サンタンヌ礼拝堂,サン・ジャン・バティスト礼拝堂,サン・ソヴール聖堂,巡礼者が膝行して登った「大階段」(グランデスカリエ)がある.

 ノートルダム礼拝堂の外壁にも未完成でなおかつ剥落が激しい骸骨のような人物の絵があり,黒死病の時代の「死の舞踏」(ダンス・マカーブル)のように思われたが,「3人の死者と3人の生者」の物語に基づく絵と推定され,やはり黒死病とは関係があり,14世紀の絵とのことだ.

 他にも聖クリストフォロスと思われる,剥落の激しいフレスコ画が「受胎告知」の下方にあった.サン・ミシェル礼拝堂の堂内には半穹窿天井に描かれた「荘厳のキリスト」のフレスコ画があり,写真が紹介されている本もあるが,実際には見ていない.

写真:
壁面に残るフレスコ画
「受胎告知」
「エリザベト訪問」
(12世紀)


 聖遺物や「黒い聖母」を目指してロカマドゥールを訪れる巡礼者も少なくなかっただろうし,サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の途上の巡礼教会としての役割も果たしていた.アルズー川の渓谷にある,深山幽谷のようでありながら,集落が形成され,現在ではそこから見上げる断崖の上に砦や城もあって,さらに周辺には一定の人口を擁する村もある.

 ロカマドゥールがある,旧州名で言うとケルシー地方は,現在はトゥールーズを中心とするミディ・ピレネー地域に属しているが,古くは,ボルドーを首邑とするアキテーヌと称される領域だったと考えて良いかも知れない.プロヴァンスやコート・ダジュール,ラングドックのような「南仏」のイメージとは異なるだろうし,ローマ時代にもアキテーヌは『ガリア戦記』においてアクィーターニー人の住む地域として,現在のプロヴァンスにあたる属州ガリアとは区別されていた.

 大西洋が近いボルドーとも違う,内陸部のロカマドゥールを見ることで,フランスの多様性を感じることができた.

 南仏や,北仏で見た,広い農地が果てしなく広がる大地とは全く印象の異なる山間の地もまた紛れもなく,現在は「フランス」なのであり,「南仏」から北上して行く際に,ロカマドゥールを見ることができたのは,大きな変化を目の当たりする心の準備としても意味があったし,独力では行くことが難しい巡礼の聖地に行くことができて,知見を広げることができたと思う.



 今回の津波で,多くの親族,友人が死亡したか,行方不明のままだ.母の遺体確認に大きな力を貸してくれた同級生の一郎ちゃんは,奥様が死亡,お母さんとご次男の奥様が行方不明とのことだった.一緒に母の遺体を見つけてくれた方は弟夫婦の同級生で,そのご夫君の畳屋さんは,私のサッカー部の先輩だった.お二人とも幸いご無事だ.(後日:6月19日に故郷の菩提寺で合同葬儀が行われ,サッカー部の先輩ジュンさんに会った.ご令息が亡くなったとのことで,必死で悲しみに耐えておられた.ご令息の逝去を悼み,一緒に泣くことしか私にはできない.)

 弟夫婦の同級生の一人も,最初にTVで紹介された津波の映像に映っていた「酔仙酒造」にお勤めだったが,職場近くで遺体で発見された.

 大学も同窓だった利夫は,理工学部で機械工学を学び,関東で東工大の教授だった伯父さんの養子になるはずだったが,お兄さんが東京で弁護士になったので,両親と祖母に説得され,帰郷して家業である呉服屋とガソリン・スタンドを継いだ.栃木の呉服屋で修行していた時に知り合った奥様とともに亡くなった.郵便局員だった同級生の丹野は,奥様の勝子さんも中学の同級生だったが,介護していたお母様とともに2人とも津波に飲まれた.彼もお兄さんが他郷で仕事を得たので,帰郷して根をおろしていた.

 同級生に2人,お寺の住職がいた.東京の大学で学んだが,帰郷して実家の寺を継いでいた.一方は小高い所にある寺だったが,床上まで波が来て被災した.こちらは住職は無事だったが,もう一方のお寺は,さらに海から遠いところにあったけれども,住職は娘さんを車で送っていく最中に津波に襲われた.特に親しかったわけではないので,何十年も会っていないが,中学で一緒に過ごした時,大学時代に東京で再会した時のことを昨日のことように思い起こす.

 甥が,もう1人の住職が経営する地元の高田幼稚園に数ヶ月在籍したとき,やはりお子さんが幼稚園に通っていたKさんは,その十数年後に同窓会で会ったとき,甥が,同じ幼稚園に通っていた頃の私にそっくりだったと言っていた.甥は可愛かったので,私も少し誇らしい気がした.そのKさんも母がいたのと同じ安置所に横たわっていた.面識はないのだが,地元では有名なスポーツマンだった夫君とおぼしき方とご家族が,声もなく彼女のご遺体を引き取って行かれた.

 K姓は,全国的にはめずらしいが,近所にも同級生にも複数いた.しかし,陸前高田市内にこれほどK姓の人が多かったことには,避難者,死亡者,行方不明者のリストを見ていて驚いた.地元選出の国会議員もK姓だが,この方を婿養子に迎えた奥様は伯母の嫁ぎ先の親戚で,小学生の頃,ずっと年長の従兄が結婚するときに,花婿花嫁の杯に酒を注ぐ役を一緒にやった.その奥様も含めて,K議員のご家族は行方不明のままだ.ただ一人発見されたご子息の死亡届けを,壊滅した市役所の仮庁舎に並んで出したとのことだ.

 実家の向いの麹屋さんもK姓だ.東京で弁護士をしている麹屋の長男は,大学の後輩にあたるが,厳父とお姉さんが行方不明とインターネットに書いた上で,被災者のご家族の役に立ちたいと訴えていた.土台しか残っていなかった実家を見に行ったとき,K弁護士のお姉さんの夫と2人の娘が,彼女の行方を探していた.

 K議員と政治的立場を異にする新市長の奥様も行方不明のままだったが,震災後一ヶ月になろうとするところでご遺体が確認された.新市長と前市長を支えた市議であったYさんは,近所の床屋さんで,帰省すると必ず彼の店で散髪してもらったが,今回の津波で亡くなった.母とは別の遺体安置所で,彼の棺を見て,言葉も無かった.

 前述の年長の従兄である孝義さんは,地元に両親を残している私たちにとっては頼りになる親戚の中心的存在だったが,彼も遺体で発見され,奥様の静子さんと次男の康信君が行方不明のままだ.子どもを育てている最中の従妹も仕事中に被災し,やはり行方不明だ.

(後日:DNA鑑定で従兄の妻子の遺骨が判明し,東京で働いている子供たちが地元で葬儀と納骨を行った.市内の漁業の町の大工さんに嫁いでいた従妹の由香も,遺体が発見され,葬儀も行われた.地元出身の俳優が,母校の広田小学校を訪ねたTV番組に,由香の子供が映り,子供の頃の由香そっくりで親族の涙を誘った.)

 この大惨事の跡に立って,天道是か非かなどと言っても何の意味もない.自然の力は大きく,それに比べれば,人間の存在ははかないものにすぎないと思うだけだ.だからこそ,今生きている自分の命をいとおしく思いたい.





城壁の下 満開のアーモンドの花
カルカソンヌ