フィレンツェだより番外篇
2011年5月6日



 




「美しき女庭師」
ラファエロ



§フランスの旅 - その11
  ルーブル3 − イタリア絵画(その2)



ルーヴルのイタリア絵画と言っても,ルネサンス以降の作品も多い.



 特に,ボローニャ周辺出身の16世紀以降の芸術家,カッラッチ一族,グイド・レーニ,ドメニキーノ,グェルチーノ,ランフランコの高水準の大作が多いことには驚いた.体力と気力が充実していないと,とても鑑賞しきれない.今回は気力も体力も十分ではなかったので,それはできなかった.

 勿体ないとは思ったが,何分大きな美術館の無数の作品を限られた時間で鑑賞しなければならない.3日通った,30年前の若くて体力があった自分ですら,「サモトラケのニケ」と「ホラティウス兄弟の誓い」しか覚えていないのだ.齢50を越した身で,一週間のツァーの最後にルーヴルを数時間で見るために,諦めなければならないことは一杯あった.

 それでもローマで活躍したボローニャ派の絵画は,順路の関係で,ほとんど一瞥はしている.一部のエジプト,ギリシアの彫刻,彩色陶器,すべてのエトルリア芸術,フランス絵画の三分の一は諦めた.いつもより遅い閉館の日だったので,最後に時間は余ったのだが,体力が残っていなかった.


ラファエロが活躍した時代
 ルーヴルにあるラファエロ作品は全て傑作だが,写真で見て憧れていた「大天使ミカエル」,「聖ゲオルギウス」がそれぞれ龍と戦う絵は,思ったより小さかった.「悪魔と戦う大天使ミカエル」は見ていない.どこに有ったのだろう.「バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像」は,古今に冠たる肖像画の王者と言えよう.

 コレッジョの作品も,ルーヴルで少なくとも4点見られる.「聖カタリナの神秘の結婚」も素晴らしいが,古典主題の裸体画にも実力を発揮することは,シュノンソーで確認済みだ.

 寓意画としては「悪徳の寓意」,「美徳の寓意」がある.マントヴァ公妃イザベッラ・デステの部屋を飾った作品なので,北イタリアのルネサンスを考える上では興味深いが,作品としての魅力は「ウェヌス,クピド,サテュロス」(ヴィーナスではなく,アンティオペとする考えもある.『NHKルーヴル美術館』IV,p.103)が圧倒的だ.

写真:
「ウェヌス,クピド,サテュロス」
コレッジョ


 世代的にはコレッジョ(1494-1534)より,アンドレア・デル・サルト(1486-1531)(以下,アンドレアは紛らわしいので,デル・サルトと略称)が上だ.さらに11歳年上のミケランジェロ(1475-1564)は,デル・サルト死後に30年以上の人生を生きた.

 ラファエロ(1483-1520)の死が1520年で,レオナルド(1452-1519)の死はその前年だから,長命で,未完成のもの含めて膨大な仕事をしたミケランジェロを除外して考えると,イタリアのルネサンス絵画を考える際に,1520年に一つの区切りを置くことは,妥当性があるように思える.

 ラファエロの遺作で,未完成部分が残っているとされる「キリストの変容」(1518-20年,ヴァティカン絵画館)を見ても,後世マニエリスムと言われる傾向は既に見られ,様々な意味で古典的な「ルネサンス」は過去のものになりつつあった.


デル・サルトの工房
 「ミケランジェロの弟子」を自認するヴァザーリもデル・サルトの工房にいたことがあるし,フィレンツェのマニエリスムを代表する3人の画家,


 ポントルモ(1494-1557)
 ロッソ・フィオレンティーノ(1494-1540)
 ブロンズィーノ(1503-1572)


のいずれもデル・サルトの弟子筋にあたる可能性がある.

 ブロンズィーノは,最初はラファエッリーノ・デル・ガルボに師事し,後にポントルモ門下と言うことで,直接にはデル・サルトの弟子ではないが,ポントルモを通じて,デル・サルトに連なる.

 最も,ポントルモもデル・サルト以前に,レオナルド,マリオット・アルベルティネッリ,ピエロ・ディ・コジモにも学んだようだし,デル・サルトのもとにいたのは長期ではないらしいので,あまりデル・サルトの系譜であることを強調すべきではないかも知れない.

 また,ヴァザーリの「ポントルモ伝」は,師匠が弟子の才能に嫉妬した可能性も示唆しているので,画人伝の作者にすると,ポントルモはデル・サルトの影響を受けた画家とは言えないのかも知れない.

 ロッソ・フィオレンティーノはデル・サルトの工房にいた,と諸方に書いてあるが,ヴァザーリの「デル・サルト伝」と「ロッソ伝」の邦訳を読んでも,それを確認することはできない.

 前者は,自身の名も入れた入念な弟子のリストがあり,自分も含めて弟子たちがデル・サルト工房にいる期間が短いのは,師匠よりも,その妻の尊大な態度に原因があるとしている.このリストの中にロッソの名前がなく,「ロッソ伝」には,彼の師匠に対する言及がない.

 様々なネガティヴな情報に関わらず,ヴァザーリのデル・サルトに対する評価は高い.しかし,工房に関係したと思われるロッソとポントルモを,画人伝をヒントにデル・サルトの系譜に位置づけることは難しい.



 3人の作品が一同に会している場所が,フィレンツェに3箇所ある.ウフィッツィ美術館,パラティーナ美術館,サンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂の奉納物の小開廊である.

 サンティッシマ・アヌンツイァータ聖堂の一連のフレスコ画は,アレッソ・バルドヴィネッティが「イエスの誕生」を描き,コジモ・ロッセッリが「聖フィリッポ・ベニーツィの物語」を1作だけ遺して,それをデル・サルトが引き継いだ.その後,「三王礼拝」,「聖母の誕生」をデル・サルトが,「聖母の婚約」をフランチャビージョが,「エリザベト訪問」をポントルモが,ロッソが「聖母被昇天」を描いた.それぞれ,独立した芸術家の風格を備えた作品であるが,もしかしたら,ここにポントルモや,ロッソがデル・サルトの工房にいた痕跡があるのかも知れない.


 エリザベッタ・マルケッティ・レッタ/ロベルト・パオロ・チャルディ,甲斐教行(訳)『ポントルモ ロッソ・フィオレンティーノ』(イタリア・ルネサンスの巨匠たち21)東京書籍,1996


には,「ある仮説によれば,ポントルモとロッソはともに1512年末から,1513年初めにかけて,アンドレア・デル・サルトの工房で活動していた」(p.6)とあり,序にも「実際,ポントルモはアンドレア・デル・サルトの下で徒弟修業をしたのは確実であるし,ロッソもおそらく同じ師の下で学んだのであろう」(p.3)とあるのを見ると,デル・サルトとロッソの師弟関係については,状況証拠による推定であって,有力な直接の文献的裏付けはないものと想像される.

 ただし,ブロンズィーノの言を根拠として「ロッソはポントルモとともにアンドレア・デル・サルトのもとで短い徒弟時代を過ごした」(p.7)とも言っているので,ロッソもデル・サルトの工房にいたと考えて,ほぼ間違いがないのであろう.この問題に関して,納得の行く結論を得ることは私の能力を超えているので,取り敢えず,ロッソもデル・サルトの工房にいて,何らかの意味ではその影響を受けていると考えることにする.

 (後述するベネシュ『北方ルネサンスの美術』は「ロッソの美術は,ミケランジェロとアンドレア・デル・サルトの二重の影響下にあった.手本としたふたりの作家の方式からロッソは,すべての調和的な釣り合いと正反対の,引き伸ばされた人像や烈しい対置や鋭い角度をもった著しく表出的で,きわめて誇張された様式を発展させていった」と述べた上で,私たちが感動した,ヴォルテッラの「十字架降架」に言及している.)


個性と共通性
 デル・サルト,ポントルモ,ロッソはそれぞれ個性的で,少なくともカンヴァス画に関しては,一瞥して,ほとんど間違いなく,それぞれの作品と察知できる.にも関わらず,この3人の絵には何らかの共通性がある.

 同年のポントルモとロッソと,デル・サルトの年齢差は僅か8歳,師弟というと真っ先に思いうかぶペルジーノ(1450-1523)とラファエロの年齢差は33歳であるから,それに比べれば,3人は同世代は言い過ぎとしても,年の近い同時代人と言っても良いのではないだろうか.

 専門家からはロッソとポントルモに最も影響した芸術家としてミケランジェロの名が挙げられる.2人と大芸術家との年齢差は19歳,レオナルドとラファエロの年齢差が21歳だから,年長者が時代をリードする天才であれば,後進が深い影響を受けるには,丁度良い年齢差であろう.

 ヴァザーリの「アンドレア・デル・サルト伝」は,現代の審美眼からは,あるいは褒め過ぎに思えるかもしれないが,情報豊富で読み応えがある.フィレンツェで見たフレスコ画,カンヴァス画のかなりの作品について触れられており,訳者注解と合わせて読むと,デル・サルトの現存作品のかなりに関してフォローすることができる.それだけ,かつて自分が属した工房の親方に対する,著者の複雑な思いが伝わってくるようで興味深い.

 ルーヴルの所蔵作品「聖家族」(左下の写真),「慈愛」と思われる作品も,フランス国王フランソワ1世との関係で登場する.フランスのルネサンスを構築しようとした王が,いかにデル・サルトのフランス滞在を渇望していたか,一時帰国と言って,結局2度と来仏しなかった画家に対していかに失望したか,たとえ話半分だとしても,おもしろく読める.

 ラファエロの「レオ10世の肖像画」を模写して,マントヴァ公と,そこで宮廷画家として召抱えられていた,ラファエロの一番弟子のジュリオ・ロマーノの目を欺いた話も興味深い.おかげで,本物は今ウフィッツィ美術館にあり,その模写自体も当時から価値あるものとされ,巡り巡って,現在までナポリのカポディモンテ美術館で大切にされていると言うのがすごい.





「聖家族」
アンドレア・デル・サルト

「聖家族」
ポントルモ



 全くの個人的感想だが,ラファエロとセバスティアーノ・デル・ピオンボ(1485-1547),デル・サルトには,優れた写実性と,余人が真似ることのできない個性が両立していると言う意味で共通性を感じていた.

 今回見られたピオンボの作品は「聖家族と聖カタリナ,聖セバスティアヌスと寄進者」と「エリザベト訪問」の2点で,前者は1507年と若い頃の作品である.どう見てもティツィアーノ工房にいた画家の作品に見えるが,顔はピオンボの特徴が既に出ている.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには,1518年から19年の作としている.そう言えば,すでに私たちのイメージするピオンボの絵のように思える.しかし,特に今回は彼の作品を見ることができて感銘を受けたと言う程ではない.

 ルーヴルのラファエロの「2人の男の肖像画」(向かって左側はラファエロ)には,ピオンボ作とする考え(『NHKルーヴル美術館』IV,p.91)もあるそうだ.2人が同時に描き込まれているので,二重肖像画というようだが,このタイプのラファエロ作品をローマのドーリア・パンフィーリ美術館で見て,感銘を受けているので,ラファエロの作品と言われて何の疑問も感じなかった.しかし,ピオンボの作品の可能性があると言われると,特に右側の人物(ラファエロの弟子ポリドーロ・ダ・カラヴァッジョか,文人ピエトロ・アレティーノとも言われている)はピオンボの絵のように見える.

 ラファエロとピオンボは,ミケランジェロと関係が深く,共同で仕事もしているライヴァルでもあったので,個性を越えて似ているところがあっても不思議はないが,ほぼ同世代とはいえ,デル・サルトまで含めて,似通った雰囲気を感じさせるとすれば,それはやはり,レオナルド,ミケランジェロといった先行する巨人たちの影響が深く染み込んでいるからであろうか.

 アペニン山脈を越えたマルケ州ウルビーノ生まれのラファエロ,ヴェネツィア派の中から出てきたピオンボは,ローマという大きな器の中で,フィレンツェ芸術の影響を自己の才能を表現する手段に活かして活躍し,フィレンツェ人,デル・サルトは,ラファエロ,ミケランジェロの直接の弟子ではないが,巨匠たちを育てたフィレンツェ絵画の伝統を引き継いだ.



 デル・サルトの最初の師匠は,ジャン・バリーレと言う無名の画家,もしくはその兄で,その後師事したのは,ヴァザーリに拠れば,ピエロ・ディ・コジモ,別の証言に拠れば,ラファエッリーノ・デル・ガルボということだ.どちらも私の好きな画家だが,デル・サルトの作風とは全く違う.

 ヴァザーリの伝記を読むと,師匠との関係よりも,フランチャビージョやヤコポ・サンソヴィーノとの交流がおもしろい.特に,スカルツォ修道院回廊,ポッジョ・ア・カイアーノのメディチ家別荘で競作したフランチャビージョとの関係が興味深い.

 フランチャビージョの描いた男性の肖像画がルーヴルに1点ある.特に優れた絵とは思えないが,好きな画家の作品なので,見られただけで嬉しい.

 いずれにせよ,デル・サルトは,フランス王に招かれ,フランスに行ったが,フィレンツェに帰り,二度とフランスには行かなかった.しかし,その弟子筋かも知れないロッソはフランスに行って,その地で死に,彼を中心とするイタリアの画家たちが,フランスにルネサンス芸術の種を蒔いて,後の芸術大国フランスの基礎を築いた.ルーヴルでは,その歴史を思わせる一連の作品群を見ることができた.

 なお,参考文献などはないようでいて,


 アントニオ・ナターリ/アレッサンドロ・チェッキ,宮田克人(訳)『アンドレア・デル・サルト』(カンティーニ美術叢書4)京都書院,1994
 セレーナ・パドヴァーニョ,甲斐教行(訳)『アンドレア・デル・サルト』(イタリア・ルネサンスの巨匠たち4)東京書籍,1996


があり,どちらも一般書ではあるが,私たちには十分を遥かに超えた水準の書物で,大変勉強になる.

 たまたま読んだ,

 オットー・ベネシュ,前川誠郎/勝国興/下村耕史(訳)『北方ルネサンスの美術』美術出版社,1971

の,第七章「フランスの美術と文学に見る古代とゴシックの復興」は,名著とされるこの本の中でも特にすぐれた章に思われ,イタリアの影響を受けながらも,ゴシック的志向をその独自性の要素とするフランス固有のルネサンスを考えさせたが,ロッソ・フィオレンティーノを引き継いだ,フランチェスコ・プリマティッチョ,ニッコロ・デッラバーテというボローニャ出身のマニエリストたちの業績もきちんと整理した上で,金細工師で銅版画師のジャン・ディヴェについて触れ,

 「彼の作品は,当時の人びとの心底に強く共感を惹きおこしたにちがいない.内面の表出を切望するゴシック的形傾向は,北方美術にかき消し難く生きつづけている.それはイル・ロッソの死の直前,エクーアンの城館のために描いた陰鬱で悲惨な「ピエタ」のごとき外国の作家の作品にすら現れる.」(p.156)

とロッソにも言及している.ここにこそ,イタリアの影響で育まれたフォンテーヌブローのルネサンスが,フランスの芸術になっていく胎動が読み取れるように思う.


その他の16,17世紀イタリア絵画
 カラヴァッジョの作品は3点見られたが,注文主の教会が受け取りを拒否して,ルーベンスを介してマントヴァのゴンザーガ家が入手,イングランド王チャールズ1世,フランス王ルイ14世と所有者が移りかわった「聖母の死」が興味深い.今回はそれほど深い感銘は受けなかったが,ともかく見ることはできた.

写真:
「聖母の死」
カラヴァッジョ


 グイド・レーニなどボローニャ周辺出身の,16世紀のカッラッチ一族,17世紀のローマで活躍した画家たちの作品は,上述したように,充実したコレクションが見られたが,今回は特に,じっくり鑑賞はしていない.後日を期す.

 レーニに関しては,ウフィッツィ美術館にも同主題の作品がある「ゴリアテの首を持つダヴィデ」,「エッケ・ホモ」などの聖書主題の作品も良かったが,今回は「ヘレネ略奪」,「ケンタウロスにさらわれるデイアネイラ」など神話画に少しだけ注目した.

 ルネサンス,バロック,古典主義,新古典主義の画家たちの神話画,歴史画に注目したので,その関連である.ギリシア神話や古典文学にフォーカスした報告は,機会があればまとめてみたい.

写真:
「ヘレネ略奪」
グイド・レーニ


 ボローニャの画家で,同地の国立絵画館でその作品を見て以来,注目しているジュゼッペ・マリーア・クレスピ(1665-1747)の作品も1点見ることができた.宗教画,神話画,歴史画ではない風俗画の傑作は,この時代には珍しくなくなってくるかも知れないが,印象に残る作品だ.サルヴァスタイルに解説がある.

写真:
「のみをとる女」
ジュゼッペ・マリーア・クレスピ



ローマで活躍したフランス人
 新古典主義の前がロココで,ロココの前に,古典主義として,イタリアのバロックと対比されるように,同時代のフランスの画家たちを,この用語のもとに一括することもあるようだ.ニコラ・プッサンとクロード・ロランは,フランス人だが,ローマで活躍し,ローマで死んだ.

 これらの画家たちの作品は,日本の特別展などでも,見られる限り見て,画集なども参照して,憧憬の念を持っていたが,傑作が無数にあるルーヴルで,今回は特に彼らの作品にのみ感銘を受けるということはなかった.

 しかし,牧歌世界における「死」の存在感を描いた,「アルカディアの牧人」はじっくり鑑賞した.

写真:
「アルカディアの牧人」
ニコラ・プッサン


 「アルカディアにも,我有り」とラテン語の碑銘が刻まれているが,「我」は「死」を指すとされている.ローマのボルゲーゼ美術館で,グエルチーノの「アルカディアにも,我有り」(1618-22年)を見ている.





「ピエタ」
ロッソ・フィオレンティーノ