フィレンツェだより番外篇
2011年9月29日



 





プエンテ・デ・オルビゴの町を出て
巡礼は再び野道を進む



§巡礼街道の旅 - その1(ルルド)

南フランスのトーゥールーズ(9月9日)から始まって,サンティアゴ・デ・コンポステーラ(9月16日)を目指す旅に行ってきた.


 といっても,時間と体力と気力に制限があるので,旅行会社の企画ツァーだ.それでも,立ち寄った先のあちこちで,期待していた何十倍かロマネスク芸術に触れることができたし,ご高齢にも関わらず,今なお活躍され,一語一語に含蓄のある芸術家ご夫妻ともご一緒できた.同行の皆さんの多様な関心と経験にも刺激されるところの多い旅であった.

 鋭角的な芸術感に基づいて斬新な作品を生み出し続けておられるKさんは,私が生まれた頃に芸大をご卒業され,7年間パリで学んで,その頃からフランス,スペインのロマネスク芸術をご自分の脚と目と感性を総動員して観ておられる方だ.

そのKさんもおっしゃっておられたが,「巡礼」や「ロマネスク」を体感するに際し,トゥールーズの重要性を忘れることはできない.


 前回の南仏行でも,そのことは朧気ながら察することができたが,前回は昼食を取りに立ち寄っただけだし,今回も空港に着いて,街から離れた宿に泊まっただけで,結局,何も見ていない.トゥールーズにはいつの日か,せめて一日以上の滞在をして,最低限には観光を果たしたい.

写真:
丘を越える巡礼の道


 「巡礼」は,東西に共通する宗教現象と言って良いだろう.けれども,私たちにとって,故人の菩提を弔うことが重要な要素であることがあるのに対し,キリスト教の場合は,あくまでの巡礼者本人の贖罪と救済に力点があるように思える.

 こう思うのは,私の早とちりによる誤解かも知れないが,だとしても,巡礼の持つ意味の東西比較もまた重要な問題であることは言を俟たない.もっとも,それは私には荷が重すぎるし,さしあたって,優先順位はそれほど高くない.

 両親,知人,友人の菩提を弔いたい気持ちはあるので,それも「巡礼の旅」の動機として全く関係がないわけではないが,とすれば,キリスト教の巡礼地はお宗旨違いだ.最大の動機は,古代とルネサンスの間に長期間にわたって横たわる「ヨーロッパ中世」というものの一端を垣間見て,写真を見ただけでも魅かれるロマネスク,ゴシックの芸術に数多く触れたいということにある.

 ロマネスク,ゴシックに関しては,ほとんど無知に近い.今回の旅は,その出発点として大変意義深かったが,肝心のトゥールーズは泊まっただけで,最初の訪問地がルルドであったのは,若干的外れの感があった.

 ルルドは企画の中に入っていたので,気が進まないまま行ったに過ぎない.それでも,思ったよりも興味を抱くことできた.それについては,本日の報告の後半で述べる.



 今回の旅で,次の書物を特に参考にした.事前に読むつもりで,机の周辺に置いていたが,例によって,本格的な参照は帰国後のこととなった.

 『地球の歩き方 スペイン '10〜'11』ダイヤモンド・ビッグ社,2011(以下,『地球の歩き方』)
 『ワールドガイド スペイン』JTBパブリッシング,2007(以下,『ワールドガイド』)
 イーヴ・ボティノー,小佐井伸二/入江和也(訳)『サンチャゴ巡礼の道』河出書房新社,1986(以下,ボティノー)
 矢野純一(文)/田沼武能(写真)『スペイン巡礼の旅』NTT出版,1977(以下,矢野/田沼)
 D.W.ローマックス,林邦夫(訳)『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』刀水書房,1996(以下,ローマックス)
 『スペイン ハンドブック』三省堂,1982
他に,
 『芸術新潮 特集 スペイン巡礼の旅』新潮社,1996
と,これを再編集,増補した
 『サンティアゴ巡礼の道』(とんぼの本)新潮社,2002
さらに,
 小谷明/粟津則雄『スペイン巡礼の道』(とんぼの本)新潮社,1985

を参照した.

 その他の本に関しては,言及する機会があれば,その都度紹介する.

写真:
巡礼姿のサンティアゴ(聖ヤコブ)
ミラ・フローレス修道院付属教会
祭壇衝立の像


 十二使徒の1人であるゼベダイの子ヤコブ(アルファイの子ヤコブと区別)の日本語呼称に関しては,サンチャゴという語感は捨て難く,日本語としては,これが一番響きが良いように思う.また,コンポステラではなくコンポステーラとするなら,サンティアーゴなどの表記も考えられるが,これまでサンティアゴで通してきたので,これを踏襲する.

 今回,撮ることができた写真を,これから順次確認していくが,ボティノー(pp.141-144)に拠れば,サンティアゴの図像には3種類あり,

 1.使徒ヤコブとしての姿(裸足,長衣,キリストの教えの巻物,棕櫚などの2本の木の間に位置)で,彼は最初のスペインの大司教であるので,大司教としての姿(横木が2重になった首座大司教の十字架,それによって斬首された剣)

 2.巡礼の姿の像(サンティアゴ・ペレグリノス)(1個または数個の貝のついた幅広の帽子,上体を支える巡礼杖,頭陀袋,瓢箪,時には数人の巡礼者を外套の下に保護)

 3.敵であるイスラム教徒に突撃する騎馬戦士の姿の像(サンティアゴ・マタモロス)

と分類される.

 この整理の仕方は大変分かり易いので,そのまま使わせてもらうが,1については,使徒の姿のヤコブは必ず,大司教の姿をしているのかどうか定かではない.使徒の姿のヤコブと大司教の姿のヤコブが併存するのに一括しているのか,あるいは使徒の姿のヤコブは必ず大司教の姿をしているのか不明だ.後者に関しては少なくともルネサンス以降の絵画に関しては必須とは思えないので,その点も,わかるなら少しずつ確認して行きたい.

 上の写真のサンティアゴは本を広げているが,貝のついた幅広帽子を被り,瓢箪を吊り下げた巡礼の杖を持ち,紐付きの袋(これにも帆立貝)を下げているので,大体2のタイプであろう.本も持っているのは珍しいように思うが,それを除けば,これが今回最も多く見られたタイプだと思う.土産物の人形も殆ど全てと言って良いほどこの姿であったように思う.

写真:
巡礼街道の町
サン・ジャン・ピエ・ド・ポール


 3月の南仏旅行で,ロカマドゥールに立ち寄った.黒い聖母と聖アマドゥールへの崇敬から巡礼者を集めた町だが,それだけでなく,サンティアゴ・デ・コンポステーラに至るフランスの道(レ・シュマン・ド・サン・ジャック)の一つの重要な中継地でもある.矢野/田沼もわざわざページを割いて(pp.96-100),街道筋の街と黒い聖母の写真を掲載している.

 「サンティアゴ(へ)の道」は,スペイン語ではカミーノ・デ・サンティアーゴと「道」が単数形なのに,フランス語ではレ・シュマン・ド・サン・ジャックと複数形になる.フランスにおける巡礼路は複数あって複雑だが,それが理由かどうかは全くわからない.

 ピレネー山脈を越えるに当たって,峠道はソンポルト峠,イバニェタ峠のほぼ2つに集約され,それがさらにプエンテ・ラ・レイナで一つになるが,スペインに入っても,必ずしも巡礼路は1つではないので,スペイン語で単数形になる理由ではないだろう.

 私たちの「サンティアゴの道」に関する観光は,イバニェタ峠を越える道の,フランス側のほぼ最後の拠点であるサン・ジャン・ピエ・ド・ポールから始まった.フランスにおけるバスク地方の,中世そのものではないにしろ,それを思わせる雰囲気十分の美しい町だった.

 しかし,それについては次回とし,まずその前に行ったルルド(9月10日)から,私たちの報告は始まる.



 ルルドで,貧しい粉引き職人の娘ベルナデットの前に聖母が現れたと言う噂が広まり,巡礼の地となるのは19世紀半ばのことである.(ルルドについては,ウィキペディア英語版仏語版.奇蹟と巡礼に関しては,日本語版ウィキペディア「ルルド」から相当の情報が得られる.)

 ルルドの町自体の歴史は古い.地方領主のミラがカール大帝と争い,予兆によって降伏しキリスト教に改宗したという伝説があり,百年戦争(1337-1453),ユグノー戦争(1562-98)でも,係争の舞台の一つとなった.最終的にフランス王国に編入されたのは1607年のことだ.

 町から見上げる丘の上にある城砦(シャトー・フォール・ド・ルルド)はその名残を思わせ,奇蹟によって巡礼の地となり,その経過の中で建設された豪奢な大聖堂よりも古い由緒を持つ.778年にカール大帝の攻城を受けたとすれば,その頃には原型は存在していたことになる.

 11世紀から12世紀はビゴール伯爵の居城となって,13世紀にはシャンパーニュ伯爵(同時にナヴァール王でもあった)の手に渡り,1360年,百年戦争の間にブレテニー条約でイングランドに譲渡され,15世紀初頭までその所有が続く.

 城砦は13世紀から14世紀に大改築が施され,その際に,現在も町から見上げて最初に目に入る城塔も建設されたが,もちろんその後,何度も増改築がなされているであろう.ルイ14世もナポレオンも牢獄として使ったとのことなので,近代になっても単なる歴史的遺物の廃墟だったわけではなさそうだ.

 現在はピレネー博物館となっていて,興味深い展示が行われているようだが,今回はもちろん行っていない.
 
写真:
泉の傍を流れるポー川
ルルド


 ルルドはミディ・ピネレー地域圏,オート=ピネレー県に属していて,オート(高い)と言うからにはピレネー山脈の麓でも標高の高い側の地域にあり,フランス共和国全体の地図を確認すると,本当にもう少しでスペインという場所にある.

 高い山が見え,丘の麓にあり,美しい川が流れているが,なにせ,サンティアゴ巡礼とは別に,現代屈指の巡礼の地となっているので,天候の良い9月には,交通量が多く,街路は渋滞し,巡礼者と観光客に溢れていた.大きなホテルも林立しており,行く前に抱いていた「寒村」というイメージは雲散霧消する.

写真:
聖堂の前で,ベルギーの
ナミュールから来た団体が
記念撮影をしていた.


 ルルドのロザリオの聖母の聖堂は壮麗で,美しい姿形だが,新しい(19世紀末の建設で,1901年に聖別)ものであることを知識として知っていると,どうしても建物に関する興味は薄れてしまう.

 19世紀まではなかった聖堂ができたのには背景があって,現在は年間約500万人の巡礼者を迎えるキリスト教世界最大の巡礼地である.もちろん私たちのような観光客も大勢行く.

 で聖母の幻視を見たとされる貧しい少女は,後に修道女となり,35歳で亡くなる(1879年)が,その遺体は腐敗の進行が遅く,他の諸点とともに聖人の条件を満たしたので列聖(1933年)された.彼女自身はその泉の水で病を癒されたわけではなさそうだが,いつしかルルドの泉の水には奇蹟の効能があり,不治の病が治った例もあるとされて,多くの巡礼者を集めるようになった.

 これに異教徒の私が感想を挟むのは控えよう.それだけ病に苦しむ人がいて,多くの人が治癒を願って一縷の望みを巡礼と奇蹟に託している.多くの人がヴォランティアで医療や看護,介護を行い,慈善が行われている.人々の善意や献身を引き出す契機として,重要な意味を持ち続けているのは間違いない.

 ただ,敢えて,別の視点から感想を述べさせてもらえば,こうしたことには信仰とは別の要素もあるのは間違いないだろう.中世以来,最大の巡礼地のひとつでありながら,戦争や宗教改革の余波で栄枯盛衰を経験したサンティアゴ巡礼にしてもそうだ.もちろん敬虔な信仰にも支えられていることは言を俟たないとしても,ツーリスト的な関心からサンティアゴに心魅かれる多くの人がいて,実際に巡礼を行う場合でも,信仰とは別の要素も含まれていることも多いだろう.

 サンティアゴの大聖堂で隅の方でミサに参列した.私は異教徒だが,宗教儀式に対してはなるべく敬意を表したいし,敬虔な信者の心を傷つけることはことはできればしたくない.ミサの最中に写真を撮るのは厳禁だと言われれば,厳守する.しかし,儀式の最後に,内陣に下がっていた有名な大香炉が左右の翼廊を大きく揺れ動くクライマックスでは,それまで司式者の言葉に応え,敬虔に起立,着席を繰り返し,聖歌を口ずさんでいた人の多くが,カメラを取り出し,撮影が許されている場合でも禁止されているフラッシュを焚いた.

 これは,こうした関心によって,教会が支えられていることを思えば,目くじらを立てるほどのことではないだろうし,もともと異教徒の私は傷つきもしないが,信仰の形は,やはり時代によって変わるのだと言う思いを禁じ得ない.

 サンティアゴに代表されるようなカトリックの古い伝統や権威に対して,閉塞感があって,ルルド,ファティマなどの新しい奇蹟が喧伝され,人々が救済を求めて,新たな巡礼地に参集する.ルルドですら,奇蹟の巡礼地として人が集まれば,観光的関心も高まり,そこからまた栄枯盛衰を経験するであろう.

写真:
ロザリオの聖母の大聖堂の
後部に泉の洞窟が見える


 矛盾した行動ではあるが,そうした思いを抱きながら,現在の最大の巡礼地であるルルドに対して,現地に行ったからには,観光的関心を抑えきれず,遠くからではあるが,奇蹟の泉を拝観し,泉に行列をつくりはしなかったが,混雑緩和のために設けられた泉の水の出る蛇口のひとつから,土産物屋で買った聖母の飾りのついたガラスの小瓶に水を汲んで,自家と友人たちへの土産とした.

 泉を覆うように作られた大聖堂の土台には,多くの言語で一つの言葉が書かれていた.日本語もあった.「行って泉の水を飲み/あなた自身を清めなさい」とある.おそらく中国語でも,韓国・朝鮮語でも同じことが書かれているのであろう.ささやかながら,アジア,アフリカも含めた国際的な空間と言えるだろう.

 その影響力は,ローマ・カトリックの巡礼地としては遥かに古いサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂の礼拝堂の1つにも,ルルドの聖母とベルナデットの像が置かれていたことでもわかる.

 そのすぐ近くの礼拝堂にサンティアゴ・マタモロスの騎馬像が置かれていたが,テロを刺激しないように,馬蹄に踏みつけられたイスラム教徒の兵士たちは花で隠されていた.歴史的,文化的観点からは,サンティアゴ・デ・コンポステーラの方に圧倒的に関心を持つが,キリスト教徒でない人間にとっては,ルルドの方がずっと好ましい聖地と言えるだろう.

 大聖堂の外観と,奇蹟の泉の遠景の外には,教皇ピウス10世の名を冠した近代的な地下聖堂がある.ウルトラ・モダンにも見えたが,完成が1958年と聞くと,まもなく53歳になろうとしている私が生まれた年なのですごく新しいわけでもない.ベルナデットが幻視を見た1858年から丁度百年目の完成ということになる.ここを拝観した後に,土産物を物色し,昼食をとってルルドを後にした.






泉の湧くマサビエルの洞窟
ルルド