フィレンツェだより番外篇
2012年3月26日



 




ナンニ・ディ・バンコ作 「聖エリギウス」
オルサンミケーレ教会の壁龕の模刻
(本物は2階の美術館にあるらしいが未見)



§フィレンツェ再訪 - その4

今回の旅行に関して,心密かに自分なりのテーマを決めたと述べた.


 1.滞在中に,修復その他の理由で観ることができなかった美術館,博物館,教会を訪ねること

 2.前回までに,それほど注目しなかった芸術家,特に彫刻家のナンニ・ディ・バンコと画家のマリオット・ディ・ナルドに関して,ある程度の知見を得ること

 3.ピエロ・デッラ・フランチェスカの魅力の背景となる地域性を考察すること


未見の美術館・博物館・教会
 1に関しては,ビガッロの開廊の博物館は行けなかったが,中世邸宅博物館,バルディーニ博物館に行くことができたし,不十分な鑑賞しかしていなくて,是非再訪を果たしたいと思っていた捨て子養育院美術館,サント・スピリト修道院旧食堂,旧フリーニョ修道院食堂を観ることができた.

 未拝観の教会としては,オルトラルノのサン・ニッコロ教会,サンタ・ルチーア・イン・オルトラルノ教会,滞在中は修復中で,修復が完了したとの情報があったサン・パオリーノ教会などを訪ね,拝観が不十分だったサン・バルナバ教会の堂内を丁寧に見たかったが,これらはどれも果たせなかった.

 サン・サルヴィ教会,サン・ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・カルツァ教会などは,地理的に難しいと最初からあきらめていた.まだまだ,フィレンツェには楽しみが残っている.


ナンニ・ディ・バンコ
 2に関しては,滞在中も修復していたドゥオーモ北壁の聖母被昇天の門が,まだ終わっていなかったので,ナンニ・ディ・バンコについては,もともと作品が少ないが,主要作品を見られなかったということで,今回は考察を控える.

 オビエドの美術館でペドロ・ベルゲーテの「聖母戴冠」を観た時から,マンドルラの中の聖母の図像に関心を抱くようになった.調べていく内にウェブ・ギャラリー・オブ・アートでナンニ・ディ・バンコの「聖母被昇天」の浮彫の写真を見つけたが,もともと気になっていた芸術家で,今回,アメリカ・アマゾンの古本屋で,

 Mary Bergstein, The Sculptures of Nanni di Banco, Princeton University Press, 2000

を入手できたし,ウェブ上から,

 三輪福松,「ナンニ・ディ・バンコ作、ポルタ・デッラ・マンドルラの《聖母の被昇天》 」,『群馬県立女子大学紀要』1(1981),pp. 3-31

という論文のPDFファイルが参照できる.

 ヴァザーリの『芸術家列伝』の「ナンニ・ディ・バンコ伝」の邦訳(『ルネサンス彫刻家建築家列伝』白水社,1989,pp.149-51)も森田義之によって為されている(森田は『NHK フィレンツェ・ルネサンス2』日本放送出版協会,1991,p.43に,「彫刻家の新風 ナンニ・ディ・バンコ」という文章を書いていて,「モニュメンタルな古典主義的様式を確立した」と評価している).

 イタリア彫刻に関して,多くの有益な情報に満ちている名著,

 石井元章『ルネサンスの彫刻 15・16世紀のイタリア』ブリュッケ,2001

にはたった1か所言及があるだけで,ルーカ・デッラ・ロッビアの聖歌隊席について述べた個所で,「それは,ルーカがナンニ・ディ・バンコから学んだ手法によって空間的広がりを獲得している」と述べられているのみだが,フィレンツェの初期ルネサンスを代表する大芸術家ルーカに影響を与えたと言われているので,評価の高い彫刻家と考えて良いだろう.



 ヴァザーリに言及されている彼の作品は,オルサンミケーレ教会の「聖ピリポ」,「四人の殉教聖人」,「聖エリギウス」,かつて大聖堂の外壁を飾り,今は大聖堂博物館にある「聖ルカ」(聖人名の言及はヴァザーリにはないが,訳注で説明されている)のみで,大聖堂北壁の「聖母被昇天」への言及はない.

 実際に,現在までナンニの作品として伝わっているのは,これだけと言って良く,これだけでは大芸術家とは言えないかも知れないが,「聖母被昇天」以外の全ての作品を見た感想としては,立派な芸術家であったとしか言いようがない.

 ヴァザーリもその技量と芸術性を賞賛しているが,どちらかと言えば,財産家で育ちが良く,人柄に優れ,社会的地位が高かったことを評価しているように思われる.

 ヴァザーリはナンニをドナテッロの弟子としているが,周辺にいて影響を受けたのは間違いないが,現在は彼の工房で修業した「弟子」とは考えられていない(「ナンニ伝」訳注)ようだ.大芸術家として名前を遺したドナテッロの方が,優越性を自他ともに認めていたようなエピソードが紹介されているが,それでもナンニの高い能力と芸術性はしっかり評価されていると思う.

 いずれ,大聖堂北壁の「マンドルラの門」の「聖母被昇天」(「腰帯の聖母」タイプ)が未見である以上,今回はナンニに関しては,ペンディングとしたい.



 「聖母被昇天」を主題とする芸術作品はフィレンツェに数多くある.今回も,サンタ・クローチェ聖堂で,ジョット工房の祭壇画やタッデーオ・ガッディの連作フレスコ画「聖母の物語」がある右翼廊のバロンチェッリ礼拝堂の右奥にある,ギルランダイオ工房の重要な構成員で巨匠ドメニコの義弟となったバスティアーノ・マイナルディ・ダ・サンジミニャーノの大きなフレスコ画(「腰帯の聖母」タイプ)が印象に残った.


写真:
バスティアーノ・マイナルディ作
「聖母被昇天」(部分)
サンタ・クローチェ聖堂
バロンチェッリ礼拝堂


 ギルランダイオ工房の同主題作品がサンタ・マリーア・ノヴェッラ教会にある.ドメニコを中心とする工房の総力を結集したトルナブオーニ礼拝堂のフレスコ画「聖母マリアの物語」のうち,「聖母の死」の上部に「聖母被昇天」(非「腰帯の聖母」タイプ)が描かれている.

 また,フィレンツェから少し離れたプラート大聖堂のファサード裏には,リドルフォ(伊語版ウィキペディア「プラート大聖堂」ではダヴィデと共作)の「腰帯の聖母被昇天」がある.

 ロッビア工房の彩釉テラコッタにも,「聖母被昇天」が幾つかあるようだが,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの参事会教会の地階部分にあった「腰帯の聖母被昇天」,アレッツォ大聖堂にあるアンドレーア・デッラ・ロッビア工房の「聖母被昇天」(非「腰帯の聖母」型)を今までに見た.


マリオット・ディ・ナルド
 マリオット・ディ・ナルド(1394-1424)に関しては,2007年7月にピストイアの市立博物館で,ロッセッロ・ディ・ヤーコポ・フランキとの共作とされる「受胎告知」の三翼祭壇画を観たあたりから意識し始めた.

 しばらくの間は「・・ディ〜」(〜の息子・・)と表記される,数多くいるゴシック絵画の作者の一人として認識していたに過ぎなかったが,オルカーニャ工房が生んだ天才画家ナルド・ディ・チョーネの息子であると,伊語版ウィキペディアにあったのを見て,巨匠オルカーニャ(アンドレア・ディ・チョーネ)一族の第2世代としても十分に興味深く思った.

 しかし,伊語版ウィキペディアで,リンクされているナルド・ディ・チョーネの項目にその死の年が1366年とあり,マリオットの生年が1394年では,いかに何でも無理に思われる.

  私が探した限りでは,マリオット・ディ・ナルドの伝記はヴァザーリには見当たらない.それどころか,伊語版ウィキペディアが父とするナルド・ディ・チョーネの伝記もない.

 ただし,オルカーニャ伝(『ルネサンス彫刻家建築家列伝』に邦訳)には,ベルナルド,ヤコポという兄弟の協力者がいたことが言及されている.邦訳はベルナルドは「兄」となっているが,英訳では「彼の兄弟」とあるだけで,兄か弟かはわからない.私の認識では「弟」だったが,どうなのだろう.

 オルカーニャの生年は訳注では1344年となっているが,すぐそばに1368年以降に没したとあり,最短なら24歳の人生だったことになり,いくらなんでも「巨匠」の人生にはふさわしくない.訳注には1344年から,伊語版ウィキペディアには1343年からフィレンツェで活動記録があるとあり,生年はわからないが,1310年頃ということだろうか.日本語版ウィキペディアには1308年頃とあり,手元の

 Lawrence Gowing, ed., A Biographical Dictionary of Artists, London: Macmillan, 1983

には,1308?-c68,とされている.同書はナルド・ディ・チョーネはfl. 1343-65/6とあり,活動期を示して,「オルカーニャの兄弟」だけで,これでは兄か弟かはわからないが,彼の助手で協力者だとしているところからは,「弟」と言う認識かなと思う.ヴァザーリはベルナルドとしているが,リオナルド(レオナルド)が正しいことは英訳も邦訳も訳注を付している.

 ヴァザーリは,アンドレアの甥としてマリオット・ディ・ナルドの名前を挙げており,断言はしていないが,オルカーニャの兄弟ナルド・ディ・チョーネの息子と思っていた可能性があるが,訳注も言っているように,オルカーニャの兄弟とマリオット・ディ・ナルドの父は同名異人のナルド・ディ・チョーネと言うことになる.



 ピストイアの博物館で買った図録が津波で流されたので,アメリカ・アマゾンで古い白黒写真の図録を買ったが,それによればピストイアの市立博物館には,「玉座の聖母子」の単翼祭壇画(と言う言い方があるかどうかわからないが)もあったようだ.美しい絵に思えるが見た記憶がない.

 フィレンツェで観ることできたマリオットの作品としては,

 サンタ・マリーア・マッジョーレ教会の柱に残る聖人たちのフレスコ画
 サンタ・トリニタ教会の中央礼拝堂の三翼祭壇画
 サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂のリュネット型剥離フレスコ画「キリスト磔刑と聖人たち」と「栄光の聖母子と聖人たち」(後者はマンドルラの中の聖母に天使が戴冠しており,「天の女王マリア」とも称される)
 大聖堂博物館の教会博士たちのグローリア枠内のパネル画
 アカデミア美術館の三翼祭壇画
 サンタ・クローチェ聖堂の堂内左側壁(ガリレイの墓の周辺)のフレスコ画断片
 ダヴァンツァーティ宮殿中世邸宅博物館の板絵「祝福するキリスト」
 (帰属)サン・ミケーレ・ヴィスドミニ教会の礼拝堂のリブ・ヴォールトのフレスコ画断片
 (帰属)サンタ・マリーア・マッジョーレ教会の中央礼拝堂に飾られたシノピア
 
 フィレンツェ以外では,前述のピストイアの作品の他に,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノのサン・ロレンツォ教会のフレスコ画断片,その近くの聖堂付属美術館の板絵「聖母とマグダラのマリアに囲まれた聖三位一体と聖人たち」を見たし,修復中だったと記憶するが,ペルージャのサン・ドメニコ教会のステンド・グラスの下絵を描いたのがマリオットだとされる.

 グーグルの画像検索で,多くの絵がヒットするが,見た可能性があるのはペーザロの市立博物館の三翼祭壇画「玉座の聖母子と聖人たち」だが,これも観た記憶がない.また,フィエーゾレのサンティッシモ・クローチフィッソ・ディ・フォンテルチェンテ聖所(サントゥアリオ)に「腰帯の聖母と福音史家ヨハネ,ヒエロニュモス」の三翼祭壇画(1398)があることがウェブ・ページからも得られ,マザッチョに関する多少の知識を得るために読んだ,

 佐々木英也『マザッチオ ルネサンス絵画の創始者』東京大学出版会,2001

にも,この絵に関してマザッチョの「聖ヒエロニュモスと洗礼者ヨハネ」祭壇画パネルとの関係で言及がある(pp.62-63).しかし,これは生涯,見られるかどうかはわからない.

 他にフィレンツェで見られる作品としては,「ビガッロの開廊」博物館が「聖母子」のパネル画を所蔵しているようだが,これは見ていない.

 意外なところでは,東京の国立西洋美術館に,かつて「聖ステパノの三翼祭壇画」のプレデッラ(裾絵)であったであろう3場面のパネルがある.じっくり観られる上に,写真を撮ることでき,優秀な学芸員による丁寧な日本語の解説を読むこともできる.

 また,図録で見る限り,アヴィニョンのプティ・パレ美術館にも複数作品があるはずだが,観た記憶がないし,写真も撮っていない.伊語版ウィキペディアはスピネッロ・アレティーノ(c.1350-1410)とロレンツォ・モナコ(c.1370-c.1425)の影響を受けたとしているが,絵の中の登場人物の鼻の形を見ると,アーニョロ・ガッディ(c.1350-96)に似ているようにも思われる.



 フラ・アンジェリコの生年に関しては,諸説あるようだが,1395年頃と言うことであれば,マリオットは初期ルネサンスの花フラ・アンジェリコと同世代ということになる.マザッチョ(1401年生まれ)よりは年長だが,やはりルネサンスの芸術家ブルネレスキは1377年,ギベルティは1378年,マゾリーノが1383年頃の生まれで,彼らはマリオットよりも年長と言うことになる.

 ロレンツォ・モナコとともにフィレンツェの国際ゴシックを代表するビッチ・ディ・ロレンツォは,長命で1452年まで生きたが,1373年の生まれであり,マリオットは世代的には国際ゴシックがルネサンスに移り変わっていく時代を生きた.

 今回は,「ナルド・ディ・チョーネの息子」と言う説明に魅かれたこともあり,また,以前から気になる作品の作者にも擬せられているので,マリオット・ディ・ナルドに興味を持ったが,若干勇み足か空振りの感は免れない.

 それでも,今までに見た複数の気になるフレスコ壁画やテンペラ祭壇画の作者として,今後もとも可能な限り,フォローして行こうと思う.

 今の所,特に心揺さぶられるような作品には出会っていないが,サンタ・マリーア・マッジョーレ教会の柱に残る,聖人たちのフレスコ画が蒼古感があって有り難い感じがする,サンタ・クローチェ聖堂のガリレオの墓周辺のフレスコ画断片が,流行に取り残された作品の運命を垣間見せてくれて,これからも時々は見たいと言う気持ちになる.

写真:
マリオット・ディ・ナルド作
サンタ・トリニタ聖堂
中央礼拝堂の三翼祭壇画


 サンタ・トリニタ聖堂の中央礼拝堂にはかつて,今はウフィッツィの宝であるチマブーエの「荘厳の聖母」があったそうだ.マリオットの三翼祭壇画は,それに代わって何百年もそこに置かれていることになる.

 その修復された金ピカな姿が,薄暗い堂内で,ステンドグラスを通した逆光の中に浮かび上がっている姿を眺めていて,聖堂のバロック建築のファサードの裏にへばりつくように残っているロマネスク時代の内壁,ゴシックを思わせるリブ・ヴォールト天井と一緒に,形を変えながら生き残るカトリック教会のしぶとさを物語っているように感じた.天才ではない画家にも,それなりに果たすべき役割と,時を経た歴史性があるのだと言う思いを新たにした.

 三翼の中央が父なる神,聖霊を表す鳩,磔刑のキリストによる「聖三位一体」(サンタ・トリニタ),向かって右側の板が,右から聖ユリアヌス,聖フランチェスコ,左側の板が右から大天使ミカエル,聖ジョヴァンニ・グァルベルトで,最後の聖人が,この教会がヴァッロンブローザの山中にある修道会のフィレンツェの拠点であったことを,物語っている.板の上部は中央が熾天使,左が受胎を告知する大天使ガブリエル,右が告知を受けるマリアになっている.



 ジョヴァンニ・デル・ビオンドの作品を幾つか観ることができたので,次回の心密かなテーマは,ジョヴァンニ・デル・ビオンド(1356年から98年まで活動記録)かなと思っている.彼は血縁こそないが,伊語版ウィキペディアに拠れば,オルカーニャ工房で,サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂ストロッツィ礼拝堂のナルド・ディ・チョーネのフレスコ画を手伝ったらしい.しかし,彼に対する興味が続くかどうかはわからない.

 サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノのサン・ロレンツォ教会の後陣に彼の「聖母戴冠」の多翼祭壇画がある.観たときは感動もし,紹介もしたが,古い教会の薄暗い礼拝堂でこそ,美しく見え,心魅かれる作品も多いだろうと今は思う.研究者が調査的に熟視するのでなければ,金地板絵の真価は,本来の場所にあってこそ理解できるように思う.

 今回,アカデミア美術館の「受胎告知」の祭壇画の他に,サンタ・クローチェ聖堂の博物館で彼の祭壇画に再会したばかりでなく,捨て子養育院で「玉座の聖母子と聖人たち」の三翼祭壇画を観ることできた.やはり,美術館の明るい光の中では,相当に不満が残る.






捨て子養育院の中庭コルティーレ・デリ・ウォーミニにて
美術館の入り口がある