フィレンツェだより番外篇
2012年3月28日



 





聖母子の浮彫と磔刑像のある,豪華な天井の間
バルディーニ博物館



§フィレンツェ再訪 - その5 バルディーニ博物館

今まで見ていなかった美術館,博物館の中ではバルディーニ博物館が圧倒的に素晴しかった.


 今回,フィレンツェの各所で配布されていた観光パンフレットの表紙に使われていた,アントニオピエロのポッライオーロ兄弟による「悪龍と闘う大天使ミカエル」に出会えた.

 この作品は,記憶のどこかにはあったが,そもそもこの博物館にあることも知らなかったし,特に魅力的な絵だとも思わなかったが,展示されている部屋に入った瞬間から引き込まれた.


写真:
ポッライオーロ兄弟作
「悪龍と闘う大天使ミカエル」
バルディーニ博物館


 絵画作品に限ると,アントニオの作品としては,ウフィッツィ美術館の「水蛇と闘うヘラクレス」,「ヘラクレスとアンタイオス」,ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館が一押し作品にしている「女性の肖像」(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートはピエロの作品とする)を見ており,ピエロの作品としてはウフィッツィ美術館の「諸徳の寓意」を見ている.

 2人の共作とされる絵が,かつてサン・ミニアート・アル・モンテ聖堂の「ポルトガル人枢機卿の礼拝堂」にあった.現在はそこにはコピーが置かれ,本物はウフィッツィにある.その祭壇画「3人の聖人たち」も見ている.



 ピエロの作品とされるもので,未見のものに魅かれる絵が何点かあるが,実際に観ることができた作品群には,取り立てて魅力を感じてこなかった.

 ルネサンス絵画の特徴として,写実性が挙げられることがある.理想化を伴ってはいても,超自然的な要素を排して,現実に近い自然な姿を再現するのが,中世絵画に対するルネサンス芸術の特徴であると説明がなされることがあるように思う.

 しかし,ルネサンスを代表するボッティチェリの絵は写実的だろうか.技術的には最高度に達したレオナルドやミケランジェロですら,まさに「絵空事」と思われるような美しさを感じたり,美や理想を犠牲にしたかと思われるような強烈な個性を感じる人も少なくないのではなかろうか.

 後続する芸術家に比して,ポッライオーロ兄弟の芸術は写実性に乏しく,場合によっては古拙さを免れていないぎこちなさのようなものを感じていた.「美徳の寓意」の作品群の中で,ただ1作ボッティチェリの絵があり,最初はそれ故にこそ注目されているのかと思った.

 玄人筋のこの兄弟に対する評価は高い.「ルネサンス」も様々な局面があり,それぞれに評価のポイントがあるだろう.ギベルティは最初のコンクールで選ばれ,ブルネレスキはフィレンツェ大聖堂の丸屋根を完成させ,アルベルティは諸芸術の理論的支柱となり,ドナテッロは彫刻芸術に新時代を切り開いた,と言うのが通り相場だろうか.

 レオナルド以前のフィレンツェには,ほぼ同世代のボッティチェルリ,ギルランダイオを除いても,ルーカ・デッラ・ロッビア,パオロ・ウッチェッロ,アンドレア・デル・カスターニョ,デシデリオ・ダ・セッティニャーノ,ミーノ・ダ・フィエーゾレ,フィリッポ・リッピもおり,それぞれに一家をなした巨匠で,これらの芸術家たちの実作を見ているので,今の私たちには具体的なイメージがある.

 しかし,ポッライオーロ兄弟の具体的作品となると,なかなかイメージが浮かばない.ウフィッツィとポルディ・ペッツォーリで観た作品に関しては,比較的じっくり鑑賞しているが,それでも,彼らの偉大さを認識するには,かなり遠い所にいると言っても良いだろう.



 『NHK フィレンツェ・ルネサンス3』の望月一史「躍動美と兄弟工房の調和ポライウオーロ」(以下,望月)に拠れば,

 アントニオ・デル・ポッライオーロ(c.1431-98)
 ピエロ・デル・ポッライオーロ(1441-96)

が彼らの生没年とされる.伊語版ウィキペディアは全く同じではないが,ほぼ同じくらいの生没年としている.

 参考書としては,

 Alison Wright, The Pollaiuolo Brothers: The Arts of Florence and Rome, New Haven: Yale University Press, 2004(以下,ライト)

をインターネットの古書店で入手しているが,これに拠れば,アントニオの生年は父ヤコポの税金関係の資料から1431年頃と推定され,ピエロの生年も資産・課税関係の資料から1442年の時に1歳であったっことは,ほぼ間違いがないようである(ライト,p.10).

 それぞれの没年に関しても,ピエロ1496年,アントニオ1498年というの年が根拠を挙げて示されているので(ライト,p.21),望月が示した生没年は,ほぼ定説と言って良いのであろう.

 父ヤコポがポッロ(鶏肉)を扱う業者(ポッライオーロ)であったので,その様に通称され,姓としてはベンチと言うようだ.ヴァザーリに拠れば「それほど豊かでもない身分の低い父の子として生まれた」とあり,母トンマーザも亜麻布職人の家系(ライト,p.10)で,この兄弟は庶民の出身であり,才覚と努力によって富と名声を築いたヴァザーリ好みのタイプの,この時代のフィレンツェならではの芸術家であったようだ.

写真:
「悪龍と闘う大天使ミカエル」
(部分)


 この兄弟に関するヴァザーリの伝記にも邦訳(『続ルネサンス画人伝』に平川祐弘訳)があり,それを読むと,ヴァザーリは龍と闘う聖ミカエルの絵を,「彼(アントニオ)の手になる作品で見ることのできるもっとも美しい作品である」と賞賛している.アレッツォの同信会のために描いたとの情報がある.

 しかし,ライトの本を読むと,バルディーニの作品は,アレッツォで描かれた絵の写しと,少なくとも著者は考えているようだ.もし写しだとしても,16世紀には既に存在した古いもので,原作を比較的忠実に伝えた歴史的価値のあるものであれば,重要な作品だ.

 ウフィッツィの小さなヘラクレスの絵にしても,ヴァザーリにも言及のある,兄弟がメディチ家のために描いた作品の,アントニオによる写しであるとのことだ.古い作品が後世に伝わっていくのは難しいことだとの思いを新たにする.

 たとえ,原作そのものでないとしても,バルディーニ美術館の適度な光と,上品な空間な中で,「悪龍と闘う大天使ミカエル」は,とても魅力的な作品に思えた.少なくとも私は,この絵の前に何度でも立って,いつまでも見ていたいと思った.

 Antonella Nesi, ed., Museo Stefano Bardini, Firenze: Edizioni Polistampa, 2011(以下,ネーズィ)

は,フィレンツェ周辺の小さな美術館,博物館について紹介した叢書の1冊で,観光最優先ではない信頼に足る案内書だと思うが,この本の中の簡潔な説明の中に,作品の由来,形状,兄弟の共作とした理由などが要領良く説得的に述べられている.「写し」説への言及はない.

 「彼は,彼以前の他の画匠たちよりもはるかに近代的に裸体というものをよく理解しそれに通じていた.そして多くの人間の皮を剥ぎ,その解剖学的な下部の構造を見ようとした.筋肉が人物の内のどこにどんな順や位置で並び,どんな形をしているのか,その筋肉を探る方法最初に示した人は彼であった」とヴァザーリは述べている.

 平川訳の訳注も,1991年に日本で展示された,ピストイアのサン・ドメニコ修道院の「悔悟の聖ヒエロニムス」を挙げて,「その解剖学的知識に基づく頭,首筋,胸,石を握った指や手の甲に非常なる迫力が認められた」と絶賛している.特別展『フィレンツェ・ルネサンス 芸術と修復展』に平川が賞賛した作品が日本に来ていることは,図録で確認できる.

 私も京都でこの特別展を見ているが,ボッティチェリ「聖アウグスティヌス」とギルランダイオの「聖ヒエロニュモス」(オンニサンティ教会),アンドレア・デル・サルトの「希望」(スカルツォ修道院回廊)が印象に残り,これらに関してはよく覚えている.

 しかし,ジョット「羊飼いの頭部」(アカデミア美術館),マゾリーノ「聖イヴォと少女たち」(エンポリ,サンタゴスティーノ教会),フラ・アンジェリコ「巡礼のキリスト」(サン・マルコ修道院美術館),ドナテッロ「聖母子と天使たち」(バルディーニ美術館),フィリッポ・リッピ「聖母子と天使たち,聖人たち」(エンポリ,参事会教会博物館),デジデリオ・ダ・セッティニャーノ「マグダラのマリア」(サンタ・トリニタ聖堂),ボッティチェリ工房「若い女性の肖像,通称美しきシモネッタ」(パラティーナ美術館),ボッティチェリ「海の聖母」(アカデミア美術館),ロレンツォ・ディ・クレーディ「ヴィーナス」(ウフィッツィ美術館),フラ・バルトロメオ「マグダラのマリア」(サン・マルコ修道院美術館),ドッソ・ドッシ「ニンフとサテュロス」(パラティーナ美術館),ティツィアーノ「アレクサンドリアの聖カタリナ」と,イタリアで初めて出会ったと思っていた多くの作品に,この時,既に出会えていたことに愕然とする.

 もっと衝撃的なのは,フィレンツェのサンティ・アポストリ教会の薄暗い堂内で,画家として評価できないと思っていたヴァザーリの真の実力を「発見」したと思い込んでいた,「無原罪の御宿り」にこの時,もう出会っていたようだ.

 平川が挙げるポッライオーロ作とされていたフレスコ画断片が印象に残ったのは,おぼろげながら今思い起こすことができるが,残念ながら,今の今まで全く忘れていた.図録にも兄アントニオの作品と推定する解説もついている.ただし,当時最新のモノグラフィーを書いたエットリンガーと言う研究者が,この絵もその本に収録しているが,真作性に関しては留保している旨も付記されている.

 さらに,サン・ジミニャーノのサンタゴスティーノ聖堂の祭壇画「聖母戴冠と聖人たち」の左側に描かれた聖ヒエロニュモスと比較して,制作年代推定の根拠の一つとしている.この作品は,ライトの大冊にも取り上げられ(pp.313-21),特に319-21で,大きな写真も挙げてヒエロニュモスの図像を分析しているが,ピストイアのフレスコ画断片への言及は,私が見た限りではライトにはない.しかもライトはこのサンジミニャーノの祭壇画はピエロの作品とし,アンドレア・デル・カスターニョの影響を指摘している.

 安直な比定は避けなければいけないが,ウェブページにはピストイアのフレスコ画断片の写真があり,そこではヴェロッキオ作とされている.

 ヴァザーリは,兄アントニオは金細工師として職人の経歴を始め,絵画の技法は弟のピエロに指導を受け,ピエロの師匠はカスターニョとしている.様々不確定な要素を含みながら,ポッライオーロ兄弟の革新性の中に,解剖学的知見に基づく筋肉表現があり,それを絵画として表す際に,カスターニョの影響があったことは共通の認識として良いのではなかろうか.

 バルディーニ博物館で観た聖ミカエルは筋骨隆々の裸体ではないが,あるいはそこに見られる躍動感のようなもの背景には,諸家がポッライオーロ兄弟の革新性と考える要素があるのかも知れない.



 ルネサンス以降の絵画作品としては,グエルチーノの「天空を支えるアトラス」,マッティーア・プレーティの「バッカスの饗宴」,ルーカ・ジョルダーノの「アポロに皮を剥がれるマルシュアス」など古典を題材とする作品があった.

 ヴェネチア派の作品としては,ティントレット「聖クリスティナの殉教」,ヴェロネーゼ「聖ヘレナ」もあった.ヴェロネーゼの作品は心魅かれたが,これは古い時代に描かれた(と言っても,原作がヴェロネーゼだから16世紀以降だろう)コピーだそうだ(ネーズィ,p.110).

 グエルチーノの作品は,素描のコレクションがある小さな部屋(ネーズィには「グエルチーノの部屋」とある)の奥に飾られていたが,プレーティ,ジョルダーノ,ティントレットのあった大きな部屋に,ベルナルド・ダッディの大きな板絵の彩色磔刑像があり,これには圧倒された.

 今回,アカデミア美術館でダッディ(オフナーに拠れば「ダッディの助手」),サンタ・マリーア・ノヴェッラのジョット,サン・フェリーチェ・イン・ピアッツァ教会のジョット派,サンタ・クローチェ聖堂でフィリーネの親方とチマブーエの磔刑像に再会しているし,もともとこのタイプの作品には興味を持っている.

 十字架型の磔刑像の「勝利のキリスト」(クリストゥス・トリウンパンス)と,「受難のキリスト」(クリストゥス・パティエンス)があるのは以前から知っていた.後者はさらにジュンタ・ピザーノからチマブーエまでの生きているキリストが苦痛に身をよじっているいるものと,ジョット以来の死後の凄惨な様をリアルに描いたものに分かれると言うのは,今回サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂でジョットの磔刑像を案内して下さったヴェテラン日本人ガイドのKさんが示唆して下さった.研究書,解説書の類では確認していないが,言われればなるほどと思う.

 (『NHKフィレンツェ・ルネサンス1 夜明け』日本放送出版協会,1999,第3章「フィレンツェ絵画の曙光」は,日本を代表するイタリア美術の研究者である石鍋真澄が担当し,p.63にジョットの磔刑像に対する解説がある.そこには,「チマブーエまでの磔刑図は,死の苦しみに顔をしかめ,体を弓形にのけぞらせるというパセティックな形で描かれていたが,この作品でジョットは,まったく新しいタイプの磔刑図を創造した」とある)

 ジョッテスキの第1世代であるダッディの作品は,もちろん死後のキリストだ.今,図録の写真で比べながら,観た記憶を思い起こすと,バルディーニ博物館の磔刑像より,アカデミアの作品の方がより立派に思えるが,現場で観たときは,あることを知らなかったサプライズ感もあって,その大きくて立派な姿に感動した.

 ネーズィにも,出所の説明はない.アカデミアの作品よりも形がサンタ・マリーア・ノヴェッラのジョットのものに似ているが,頭上部分にペリカンがいて,背後に聖人たちの姿が描かれているのがジョット作品と異なっている.こうした細かい違いも比べれば面白いと思うが,今はその準備がない.

 同じ壁面にシエナ派のベンヴェヌート・ディ・ジョヴァンニの「5人の天使と2人の聖人に囲まれた栄光の聖ベネディクトゥス」を含む点の金地板絵があり,雰囲気を醸し出しているが,いずれも15世紀半ば以降の作品で,ゴシック絵画ではない.


写真:
古代・中世の彫刻が並ぶ
地上階の展示室


 しかし,バルディーニ博物館のコレクションの見ものは,古代末期から中世の彫刻作品であろう.ルネサンスの作品もある.ドナテッロの彩色テラコッタの丸彫り胸像「聖母子」の他に,様々の材料による浮彫の聖母子像の作者として,ドナテッロ,ミケロッツォ,デジデリオ・ダ・セッティニャーノ,(伝)ルーカ・デッラ・ロッビアが挙げられている.

 中世の彫刻としては,やはりティーノ・ディ・カマイーノ(英語版伊語版ウィキペディア)が圧倒的だ.両の乳房を嬰児に吸わせている女性像「慈愛」(カリタ)が博物館一押しの作品のようだ.確かに,素晴らしい.

 『NHK フィレンツェ・ルネサンス1』日本放送出版協会,1991

の第2章「都市を飾る彫刻」(上村清雄)で,アルノルフォ・ディ・カンビオ,アンドレア・ピザーノ,オルカーニャが取り上げられているが,大きな写真(「聖母子」,バルジェッロ博物館)を含めて,1ページ半ほどがティーノに割かれている.

 建築家カマイーノ・ディ・クレシェンティーノの息子としてシエナで生まれたのが1280年頃で,ジョヴァンニ・ピザーノのもとで彫刻の修行をした.フィレンツェで活躍し,1337年頃ナポリで死んだ.この時代にシエナ,ピサ,フィレンツェ,ナポリで仕事があったと言うことは,評価の高い職人であったということになる.

写真:
「慈愛」(カリタ)
ティーノ・ディ・カマイーノ作


 バルディーニ博物館には,アルノルフォ・ディ・カンビオ(英語版伊語版ウィキペディア)工房の作品である「フィレンツェ大司教ヤコポ・ディ・ラヌッチョ・カステルブォーノの墓碑」の浮彫側面板がある.

 アルノルフォは,フィレンツェ大聖堂の設計者としても知られる,ゴシックのフィレンツェを代表する芸術家だが,トスカーナの小邑コッレ・ディ・ヴァルデルサで1240年頃に生まれ,ニコラ・ピザーノの工房で修行し,助手としてボローニャのサン・ドメニコ教会で聖ドメニコの聖櫃,シエナ大聖堂の説教壇の仕事をした.ゴシック彫刻の世界的傑作に関わったことになる.

 アルノルフォは,14世紀になった頃にフィレンツェで亡くなったようだが,ローマでも大きな仕事を幾つかしており,ローカルを超えた大芸術家である.

 しかし,ニコラ,ジョヴァンニの作品が,古代彫刻を範として,芸術のルネサンスをはるか以前に先取りしている作品に思われるのに対して,アルノルフォとティーノの作品はゴシック感に満ちており,逆に魅力的だ.

 アルノルフォの作品は決して古拙ではないが,40年ほど後進のティーノの作品は一見するとプロの彫刻家の作品とは思えない程個性的で,中世の味わいに満ちている.

 ティーノの魅力に初めて出会わせてくれたのが,サント・スピリト聖堂の脇にある,旧・修道院食堂の博物館だ.次回は,その報告から始めたい.






ベルナルド・ダッディの磔刑像の下で
バルディーニ博物館