フィレンツェだより番外篇
2012年4月9日



 





左)サンタ・トリニタ教会 サッセッティ礼拝堂
右)サンタ・マリーア・デル・カルミネ教会 ブランカッチ礼拝堂



§フィレンツェ再訪 - その11 ルネサンス(2)

サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂には,ロマネスクの時代に描かれたものからルネサンス期のものまで多くのフレスコ画がある.しかし,聖具室にスピネッロ・アレティーノの連作フレスコ画があるものの,礼拝堂全体を装飾したフレスコ画はない.少なくとも現存しない.


 礼拝堂全体の壁面を飾るフレスコ画は数多くある.自分が見たものですぐに思い浮かぶのは,古くはパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂(ジョット),アッシジのサン・フランチェスコ聖堂の下部教会のサン・マルティーノ礼拝堂(シモーネ・マルティーニ),フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂の諸礼拝堂(ジョット,タッデーオ・ガッディ,マーゾ・ディ・バンコ,ジョヴァンニ・ダ・ミラーノ,アーニョロ・ガッディ,ゲラルド・スタルニーナ),サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂の「マントヴァのストロッツィ」礼拝堂(オルカーニャ兄弟),同聖堂の修道院「緑の回廊」の通称「スペイン人の礼拝堂」(アンドレア・ボナイウート)といったところだ.

 これらは14世紀半ば頃までの作品だが,スクロヴェーニ礼拝堂は,聖堂から独立した建物で,礼拝堂(カッペッラ)と言うより祈祷堂(オラトリオ)に近いように見える.

 祈祷堂のほとんどの壁面を飾ったものとしても,パドヴァのサン・ジョルジョ祈祷堂(アルティキエーロ)を見ているし,未見だがバーニョ・ア・リーポリのサンタ・カテリーナ・デッレ・ルオーテ祈祷堂もスピネッロ・アレティーノのフレスコ画で飾られていることを知識としては知っている.

 パドヴァ大聖堂の洗礼堂は,内部全体がジュスト・デ・メナブオイのフレスコ画で飾られている.メナブオイとグァリエントのフレスコ画は,同じくパドヴァのエレミターニ教会でも見ることができる.もちろん,ピサのカンポ・サントも忘れることはできないし,ピストイアのタウ礼拝堂も重要だろう.



 以上,自分が見たもので,古いと思われるものを幾つか挙げてみたが,ルネサンス期以降の作品もかなり見ている.

 フィレンツェでは,サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂の主祭壇のあるトルナブォーニ礼拝堂のギルランダイオの「聖母マリアと洗礼者ヨハネの物語」はイタリア・ルネサンスの花だと,少なくとも私は思う.同聖堂にはフィリピーノ・リッピがその実力を示したストロッツィ礼拝堂もある.

 サンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂の奉納物の小開廊には,バルドヴィネッティ,コジモ・ロッセッリ,アンドレア・デル・サルト,フランチャビージョ,ポントルモ,ロッソ・フィオレンティーノがそれぞれ力をふるった,15世紀から16世紀にかけてのフレスコ画がある.聖マリア下僕会の聖人フィリッポ・ベニーツィの生涯と聖母マリアの物語が主題だ.

 16世紀まで範囲を広げるなら,フィレンツェ以外でもローマでは,システィーナ礼拝堂のミケランジェロ,同じヴァティカンの「署名の間」のラファエロ工房の作品が知られる.システィーナには15世紀にフィレンツェ周辺のトスカーナの画家たちによるフレスコ画もある.

 ルネサンス期の北イタリアでは,パドヴァのエレミターニ聖堂にマンテーニャの「聖クリストフォロスの物語」,ミラノのサンテウストルジョ教会のポルティナーリ礼拝堂にヴィンチェンツォ・フォッパの「殉教者ペテロの物語」,1礼拝堂を越えて教会全体を装飾した例としベルナルディーノ・ルイーニが絵を描いたサン・マウリツィオ・アル・モナステーロ・マッジョーレ教会がある.

 15世紀では宗教施設だけでなく,例えばペルージャの商人組合にペルジーノ工房が描いたフレスコ画や,私邸であるメディチ・リッカルディ宮殿の礼拝堂を装飾したベノッツォ・ゴッツォリの「三王礼拝」,宗教色の薄いものではマントヴァの公爵宮殿のマンテーニャのフレスコ画もある.これが,16世紀のフィレンツェ,マントヴァ,ローマの邸宅,別荘のフレスコ画装飾につながる.



 初期ルネサンスの洗礼堂装飾としては,スイス国境近くのカスティリオーネ・オローナでマゾリーノのフレスコ画を見ることができた.

 修道院の中庭を囲む回廊もフレスコ画で装飾され,古いものがかなり良く残っている例としては,バディア・フィオレンティーナ教会の「オレンジの回廊」のジョヴァンニ・ディ・コンサルヴォ作と伝えられる「聖ベネティクトゥスの物語」を見ている.しかし,これは15世紀(1430年代)の作品で,14世紀のものは私は見ていない.

 サンタ・マリーア・ノヴェッラの「緑の回廊」のパオロ・ウッチェッロと協力者たちによる作品も有名だ.今回はウッチェッロの作品である「天地創造」と「ノアの洪水」は修復に入っていて,足場が組まれ,テープが暫定的に貼られたりして痛々しかった.

宮下孝晴『フレスコ画のルネサンス』日本放送出版協会,2001

は必読の名著だが,それに拠れば,最も古いイタリア式のフレスコ画は,ピストイアのサン・ドメニコ教会の「キリスト磔刑」(1275〜80年)とのことで,これは一日あたりの仕事量を決めるジョルナータ区分がはっきりし,漆喰が乾かないうちに描く「ブォン・フレスコ」の技法で描かれている.


ギルランダイオ
 こうした,フィレンツェ周辺を中心に見たフレスコ画装飾の歴史の中で,ギルランダイオの果たした役割は大きなものと思われる.

 彼はサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂ばかりでなく,サンタ・トリニタ聖堂のサッセッティ礼拝堂の「聖フランチェスコの物語」(トップの写真),サン・ジミニャーノの参事会教会の「聖フィアナの生涯」を描き,フィレンツェのヴェッキオ宮殿の「百合の間」の奥の壁面には,聖人や古代の有名人のフレスコ画を描いた.宗教画だけでなく,世俗的な主題の作品も描いたことになる.

 オンニサンティ教会の修道院の食堂には「最後の晩餐」があり,本堂には,アメリカ大陸の名のもとになったアメリゴ・ヴェスプッチの少年時代の姿が描き込まれているかも知れない「慈悲の聖母」があるが,その他に,「聖ヒエロニュモス」(サンクトクス・ヒエロニュムス/サン・ジローラモ)を描いた剥離フレスコ画がある.その向かい側の壁面には,この教会の近所で生まれ育ったボッティチェリの「聖アウグスティヌス」もある.

写真:
左)ギルランダイオ
聖ヒエロニュモス
右)ボッティチェリ
聖アウグスティヌス


 両方の作品とも,1991年に「フィレンツェ・ルネサンス 芸術と修復展」があった時,京都で見ている.この2つの絵に魅せられて,人にも見せようと絵葉書を数枚買ったが,ボッティチェリの作品の枚数の方が多かった.当時の私にとって,描いたボッティチェリも,描かれているアウグスティヌスも,ギルランダイオとヒエロニュモスよりもずっと有名な人物であり,素人目には絵も断然優れているように見えた.

 その後ボッティチェリよりギルランダイオを高く評価するようになった私だが,正直なところ,今見ても,ボッティチェリのアウグスティヌスの方が魅力的に見える.素人目にはこちらの方が圧倒的にわかりやすい.



 上記の特別展の図録解説に拠れば,ボッティチェリにはメディチ家との関係から人文主義の影響が強く,この作品には人文主義者たちの書斎の様子が描かれていて,書見台,渾天儀,ユークリッド(エウクレイデース)の幾何学原論の写本,時計などが印象に残るが,机の上の司教冠が,北アフリカのヒッポで聖職を務めた哲学者の立場を表している.

 一方,ヒエロニュモスに関しては,「際立った透視図法,鮮やかで輝く色彩,さまざまな対象物の入念な描写,これらすべてが,フランドル絵画の経験のフィレンツェ的解釈へと収斂している」(上記図録,p.94)との評言もあるくらい,その価値は玄人好みと言えよう.

 彼は,聖書を旧約はヘブライ語から,新約はギリシア語からラテン語に訳した人物であり,アウグスティヌスと並んで,4大教会博士の1人とされる.3つの房のついた赤い大きな縁のついた帽子が,枢機卿という高位の聖職者であることを示している.

 よく見ると,ヘブライ文字,ギリシア文字も見え,水の入ったフラスコ,立てかけられた鋏,衣の襞,掛け布のオリエント風の模様,備え付けられた鼻眼鏡など,確かに細かい描写が魅力的に思えるが,比較的間近に見られる堂内で何度も見ているはずなのに,そこまで注意は及んでいなかった.

 地元の有力者だったヴェスプッチ家が,内陣の仕切りに描くよう2人の芸術家に注文し,今は仕切りは取り払われ,作品も剥離フレスコとして身廊の左右の壁に掛けられている.1480年の作品とのことなので,ボッティチェリ35歳,ギルランダイオ31歳で,新進から中堅の画家として活躍し始め,評価が高まって来た頃であろうか.

 ボッティチェリの師匠はフィリッポ・リッピ,それほどはっきりとはしていないが,ギルランダイオの師匠はアレッソ・バルドヴィネッティだったであろう.

 しかし,2人とも若い頃にヴェロッキオの工房で修業したり,助手を務めたようだ.フィレンツェ出身ではないペルジーノを含めて,レオナルドの先輩たちは錚々たるメンバーであったことがわかる.


ロレンツォ・ディ・クレーディ
 上記の特別展には,ヴェロッキオに最も愛され,ヴェネツィアで客死した師匠の遺体をフィレンツェまで運んで,チョーニ家の菩提寺サンタンブロージョ教会の堂内に埋葬したロレンツォ・ディ・クレーディの作品「ヴィーナス」(ウフィッツィ美術館)も来ていた.

 ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」同様,古代以来の「羞恥のヴィーナス」(ウェヌス・プディカ)に近いポーズで,ウフィッツィのトリブーナに通常は飾ってある(今回は修復中で閉鎖されていた)「メディチのヴィーナス」の影響を受けたかも知れないとも言われている(上記図録,p.96).

 ロレンツォはギルランダイオより10歳若く,レオナルドより7歳若い.ヴァザーリが書いた短い伝記(エヴリマンズ・ライブラリー版第2巻pp.287-9を)によると,優れた金細工師だったクレーディ親方の子として生まれ,ヴェロッキオの門下で,レオナルドの影響を受け,フィレンツェ周辺で活躍して,サヴォナローラに感化された.ジョヴァンニ・アントニオ・ソリアーニとトンマーゾ・ディ・ステファノが弟子として知られていた.

 ウフィッツィの所蔵作品としては「ヴィーナス」の他に,「受胎告知」,「牧人礼拝」がある.「ペルジーノの肖像」は,ペルージャの商人組合にあるペルジーノの自画像に似ているので,彼を描いたことは間違いないだろうが,作者は若い頃のラファエロとされることもあり,ロレンツォの作とされることもあるようだ.

 その根拠はわからない(ヴァザーリの伝記には,ペルジーノとヴェロッキオの肖像がを描いたという記述がある)が,伊語版ウィキペディアをたどって行くと,ワシントン・ナショナル・ギャラリーにペルジーノ作の「ロレンツォ・ディ・クレーディの肖像」があるようなので,あるいは肖像画を描きあうような関係だったのかも知れない.

 ペルジーノとロレンツォの年齢差は10歳くらいと思われるので,あくまでも想像だが,ペルジーノはロレンツォにとって頼りになる先輩と言うことになるだろうか.



 ペルジーノ下絵の「最後の晩餐」のある旧フリーニョ修道院の博物館には,ペルジーノ周辺の画家の作品として,フランチャビージョの作品とロレンツォの作品が展示されている.

 今回,サン・マルコのブックショップで入手できた,伊英対訳の案内書

Rosanna Caterina Proto Pisani, Il Cenacolo di "Fuligno"a Firenze, Firenze: Sillabe, 2009

に拠れば,ロレンツォ作とされる4枚のパネル画(左右に「イエスとサマリア人の女」,「我に触れるな」,中央上部に「受胎告知」,下部に「聖母と福音史家ヨハネ」で,これらは全てサン・ガッジョ修道院にあったらしいが,詳細に関しては記録がなく,1818年にトスカーナ大公が購入したとのことだ.当然「キリスト磔刑」など他にも部分があったはずだが,今はどこにあるかわからない.佳品だと私は思う.

 もう1点美しい若い男の肖像があり,以前はロレンツォの自画像と考えられていたが,現在はロレンツォが描いた絵とも断定はされていないようだ.ドイツ軍が奪って,ドイツに持って行かれたが,1966年に取り戻すことができたとのことだ.あるいはナチス好みの美青年だからだろうか.

 ルーヴルにある「受胎告知」はウフィッツィ所蔵のレオナルドの「受胎告知」との関係で注目される作品だ.多分,ピストイアの大聖堂のためにヴェロッキオが請け負った祭壇画のプレデッラであっただろうと考えられている.なるほどレオナルドの作品とよく似ているが,なにぶん小さいので,佳品だとは思うが,傑作感は乏しい.美術史的には大事な作品だろうが,素人目には同じルーヴルの作品なら,「聖ユリアヌスと聖ニコラスの間の玉座の聖母子」(背景や人体,衣服はよく描かれているが,登場人物,特に幼児イエスの顔が少し不満)が見応えがあるように,その場では思った.



 ルーヴル所蔵の素描を紹介した一般向けの叢書Louvre Drawing Galleryがあり,

 Gigatta Dalli Regoli, ed., Verocchio, Lorenzo di Credi, Francesco di Simone Ferrucci, Milano: 5 Continents Edition, 2003

をパラパラめくって見ると,やはりプロの画家というのはすごいなと思う.決してレオナルドの引き立て役に終わらないロレンツォの画力に思いを致さざるを得ない.

 主として油彩,時にテンペラのパネル画が多く,フレスコ画は少なくとも現存していないように思える.

 ヴァザーリの記述に拠れば,オルサンミケーレ教会の張り出し柱に聖バルトロマイを描いたとされるが,これがフレスコ画なのかどうかもわからない.

 レオナルドもフレスコ画を好まなかったが,ヴェロッキオ工房にいたボッティチェリ,ペルジーノ,ギルランダイオはいずれもフレスコ画を描き,彼ら以降の人でもミケランジェロもラファエロもフレスコ画を描いたのだから,工房の伝統でも,時代の流行でもなく,たまたまレオナルドとロレンツォがそれを性格的に好まなかったと言うことかも知れない.

 天才肌のレオナルドならともかく,職人肌のロレンツォでもそれを許されたのは,やはり時代のなせるわざなのだろうか.

 フィレンツェの教会の礼拝堂に,ギルランダイオ以後,注目に値するフレスコ画が描かれたのか,それは現存しているのか,少なくとも私は知らないが,サンティッシマ・アヌンツィアータの小開廊や,諸方の修道院の回廊,フィレンツェ大聖堂の丸屋根天井,貴族や高位聖職者の邸宅,別荘などにはギルランダイオ以後もフレスコ画が描かれ続けているので,一概には言えないかも知れない.

 自家の墓所となる礼拝堂にフレスコ画を注文する有力家系がフィレンツェにいなくなっていったからかも知れない.「礼拝堂のフレスコ画」と言って思いつくのは,ローマのシスティーナ礼拝堂のミケランジェロ作品くらいだろうか.


マザッチョ
 絵画に深い興味を持ち,実際に創作活動を行っている人でも,場合によってはギルランダイオが礼拝堂に描いた連作フレスコ画を見て,「キリスト教主題の洪水」のように思えて,うんざりすることもあるようだ.

 しかし,どのような立場の人であっても,たとえ心の中で思ったとしても,「うんざりした」と言えない15世紀の「礼拝堂のフレスコ画」が2つある.

 フィレンツェのオルトラルノ地区にあるサンタ・マリーア・デル・カルミネ教会ブランカッチ礼拝堂のマザッチョのフレスコ画「聖ペテロの物語」とアレッツォのサン・フランチェスコ教会バッチ礼拝堂にピエロ・デッラ・フランチェスカが描いた「真の十字架の物語」(聖十字架の物語)だ.

 マザッチョのフレスコ画を,今回もサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂(「三位一体」)とサンタ・マリーア・デル・カルミネ聖堂ブランカッチ礼拝堂で,再び見ることができた.今回は初めてではないので,前者に関しては以前よりも感動は薄いが,後者に関しては深い感動を新たにした.


写真:
マザッチョ
「司教座で祈る聖ペテロ」
(部分)
ブランカッチ礼拝堂


 ヴァザーリの「マザッチョ伝」は,「ピエロ・デッラ・フランチェスカ伝」よりは遥かにおもしろいが,それでも,

 「フィレンツェでは,カルミネ寺のブランカッチ礼拝堂の壁画を手がけいていたマゾリーノ・ダ・パニカーレが途中で死んでしまったので,マザッチョの手に完成がゆだねられた」(小谷年司訳)

と言う記述を見ると,ずっと年上で,かつては師匠に擬せられたこともある(ヴァザーリは「師匠」と言っている)マゾリーノが,マザッチョの死後もずっと生きて,多くの仕事を成し遂げたことをヴァザーリが知らなかったことに驚く.

 ヴァザーリは確かに,ブランカッチの作品を描写し,分析し,賞賛しているが,多分,彼のマザッチョのフレスコ画に対する最大の貢献は,

 「要するに,画学生はすべてこの礼拝堂につめかけて,マザッチョの描いた人物から,美しい表現を得るための法則を学び取ろうとしたのである」(小谷訳)

として,その前に,フィレンツェ周辺出身の二十数人の画家の名前を挙げていることだろう.その中には,レオナルド,ミケランジェロ,ラファエロをはじめ,フラ・アンジェリコ,バルドヴィネッティ,カスターニョ,ヴェロッキオ,ボッティチェリ,ペルジーノ,ギルランダイオ父子,フィリッポ・リッピ父子,ロレンツォ・ディ・クレーディ,デル・サルト,フランチャビージョ,ロッソ,ポントルモ,彫刻家のバンディネッリが含まれている.

 マザッチョの偉大さは彼に続く,多くのフィレンツェの巨匠たちに認識され,ヴァザーリがそれを確認したことになる.私は,やはりこの礼拝堂で見られるマゾリーノの担当箇所を評価したいが,マザッチョの偉大さに異論がない.


ネーリ・ディ・ビッチ
 ネーリ・ディ・ビッチの絵を見て,「フィレンツェのルネサンス」を感じる人は皆無かも知れない.しかし,彼の作品はトスカーナのあちこちで見ることができ,しかも,彼はルネサンス期のフィレンツェで生まれ,その長い人生をフィレンツェで終えたルネサンス人だ.

写真:
ネーリ・ディ・ビッチ
「聖母戴冠」
捨て子養育院美術館


 今回の旅行でも,上の捨て子養育院の作品の他に,中世邸宅博物館(ダヴァンツァーティ宮殿)で1点,サンタポロニアで2点,アカデミアで1点,サンタ・トリニタで3点,サンタ・マリーア・ノヴェッラの聖堂で1点,サンタ・クローチェの博物館で1点,サント・スピリトで1点,サン・フェリーチェ・イン・ピアッツァで1点,サン・サルヴァトーレ・アル・モンテで2点,アレッツォのサン・フランチェスコ教会で1点見ている.

 全部把握しているわけではないが,少なくともフィレンツェとアレッツォで,他にどこで少なくない彼の作品が見られるか,列挙することができるつもりだ.

 フィレンツェ周辺をちょっと歩いただけで,これだけの作品が見られる画家が,フィレンツェのルネサンスの一面を物語る芸術家でなくて,一体何と言えば良いのだろうか.

 観光初日の現地ガイドは,フィレンツェ県とピサ県で公認ガイドの資格を持っておられる日本人のItさん(彼女からデル・サルトの「袋の聖母」が見られることを教えていただいた)だったがサンタポロニアでネーリ・ディ・ビッチの絵を解説して,この画家の作品がフィレンツェ周辺でたくさん見られることに言及したうえで,「時代的に流行遅れで,古くさく思える作品にも需要があって,たくさんの注文を受けた」とおっしゃっておられた.まさにその通りであろう.

 翌日からご担当であった,在伊40年と仰っておられたヴェテランの日本人ガイドKtさんが,アレッツォ県はまた別の免許が必要だからであろうか,サンセポルクロでイタリア人ガイドのエレオノーラさんの通訳をしながら,ピエロ・デッラ・フランチェスカの祭壇画が金地板絵であることに関して,やはり作者の考えに反するかも知れない「注文主の要望」について触れておられた.

 後に,美術史上の天才と讃えられる人であっても,当時は社会的地位としては,決して高いとは言えない職人の一人であって,自分の力量を発揮するためにも,まず注文を受けなければ,作品を産み出し続けることもままならない.

 その意味で,天才,大家に伍して,最盛期のルネサンス数十年も注文の多い工房を経営し続けたネーリの才覚と勤勉さには敬意を表さずにはいられない.

 ネーリの作品で心魅かれるのは,いつも言うように,サンタ・トリニタ聖堂のフレスコ画「ヴァッロンブローザ会の聖人,福者たち」だけと言っても良いが,この人の作品は見ることができると嬉しい.間違いなくフィレンツェのルネサンスの一面を体現している.

 この画家に関して,

岩倉翔子「画家のRicordanze考 : Neri di Bicciの場合」『イタリア学会誌』36(1989),pp.62-79

と言う論文がPDFの形式でウェブページから参照できる.

また,

 Elizabrth Darrow / Nicholsa Dorman, Neri di Bicci and Devotional Painting in Italy, Seattle Art Museum, 2004

という本が出ていて,アメリカ・アマゾンで入手できた.以前,『自伝』だと思っていたのは,『覚書』だったようだ.興味はあるので,少しずつ勉強していくつもりだ.



 伊語版ウィキペディアを参考に,3代の工房主を整理してみる.

 ロレンツォ・ディ・ビッチ(c.1350-1427)
 ビッチ・ディ・ロレンツォ(1373-1452)
 ネーリ・ディ・ビッチ(1418-1492)

 ネーリの死の100年前,祖父ロレンツォは40歳くらいだとすれば,既に工房を経営していたことは十分考えられるので,この3代の工房は100年以上続いたと推察される.ロレンツォは時代遅れのジョッテスキ,ビッチは時代遅れの国際ゴシックの画家で,ネーリは時代の潮流に乗り遅れて,いつまでもゴシック風絵画を描いたルネサンスの画家と言えようか.

 ヴァザーリの『芸術家列伝』に「ロレンツォ・ディ・ビッチ伝」があり,ある程度の分量の伝記(エヴリマンズ・ライブラリーの英訳版で丁度5ページくらい)だ.この伝記でヴァザーリは,ロレンツォを表題にしていながら,事実上,息子のビッチ・ディ・ロレンツォと混同している.その上で,ロレンツォにビッチとネーリと言う息子がいたとしている.これで行くと,ネーリ・ディ・ビッチは,ネーリ・ディ・ロレンツォになってしまう(伊語版ウィキペディアに拠れば実際にそう言う名前の息子もいたようだ).いずれにせよ,この伝記は極端に正確さを欠いている.

 それでも,おぼろげながら,ヴァザーリの記述の中にビッチやネーリの現存する仕事を読み取ることができる.「サンタ・トリニタ教会のネーリ・コンパーニ礼拝堂に聖ジョヴァンニ・グァルベルトの生涯をフレスコで描いた」とあるのは,ネーリの作品とされている上記の「ヴァッロンブローザ会の聖人,福者たち」のことであろうか.

 また,ネーリと言うロレンツォの息子が,サン・フェリーチェ教会とアレッツォのサン・ミケーレ教会のために祭壇画を描いたとしており,本当に同じ作品かどうかはわからないが,それぞれの教会にネーリ・ディ・ビッチ作とされる作品が現存しているのは自分の眼で確認している.

 さらに,あくまでもロレンツォの業績としているが,アレッツォのサン・フランチェスコ教会のバッチ礼拝堂にフランチェスコ・デ・バッチから依頼され,取りかかったが,少し手を付けた(ヴォールト天井とタンパン)のみで,修道院の回廊に「聖ベネディクトゥスの物語」のフレスコ画を描くことをも依頼されていたが,それを弟子のマルコ・ダ・モンテプルチャーノに託してフィレンツェに帰ったとしている.

 ヴァザーリの「ピエロ・デッラ・フランチェスカ伝」には,

「ピエーロはロレートからアレッツォに移り,地元の人であるルイージ・バッチのために,サン・フランチェスコ寺の主祭壇にあるバッチ家の礼拝堂に壁画を描いた.礼拝堂の天井はすでにロレンツォ・ディ・ビッチが手がけていた.この作品の主題は木の十字架の物語である」(小谷年司訳)

とある.ここでも,ビッチではなく,ロレンツォの名前になっているが,いずれにせよ,巨匠ピエロ・デッラ・フランチェスカの世紀の傑作「真の十字架の物語」は,当初フィレンツェ周辺で多くの注文を受けていた3代続く工房の2代目に注文されていたことになる.

 次回は,1回,フィレンツェのルネサンスは休憩して,ピエロ・デッラ・フランチェスカへの感想をまとめたい.






ブランカッチ礼拝堂
15分を超えてゆっくり鑑賞
(天井装飾画はヴィンチェンツォ・メウッチ)