フィレンツェだより番外篇
2012年4月23日



 




聖人のアトリビュート
アレクサンドリアの聖カタリナの王冠に棕櫚



§フィレンツェ再訪 - その14 ルネサンス(3)

古代も,ロマネスクも,ゴシックも,マニエリスムも,バロックも,もちろん近・現代も全てあるが,それでも,やはりルネサンスこそフィレンツェの華であろう.


ボッティチェリの美しさ 
 最近はボッティチェリの作品を見て感動することは少なくなったが,最初に自覚的に実物を観たルネサンス絵画は,ボッティチェリの「ケンタウロスを捕えるパラス」だった.そして人並みに,写真を見て「春」と「ヴィーナスの誕生」に憧れ続けた.今も,この3作は傑作だと思っていることに変わりはない.

 一方で,ボッティチェリの作品の中で,特に「聖母子」に佳品が多いことには,フィレンツェに住んで,幾つかの美術館を訪ねることで,気が付いた.捨て子養育院の「聖母子」は第一級の作品とは言えないかも知れないし,地味に見えるが,私は佳品だと思う.師匠フィリッポ・リッピの「聖母子と2人の天使」(ウフィッツィ美術館)に似ていると思われているようだ


写真:
ボッティチェリ
「聖母子」
捨て子養育院美術館


 ボッティチェリもしくはその工房の「聖母子」は,ウフィッツィ美術館,パラティーナ美術館,ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館,アンブロジアーナ絵画館,アヴィニョンのプティ・パレ美術館,ルーヴル美術館で見ている.私はパラティーナ美術館にある「聖母子と幼児の洗礼者ヨハネ」が好きだが,これがボッティチェリ単独の作品かどうかは議論があるようだ.

 ミケランジェロはヴァザーリと一緒にティツィアーノを訪ねて,その絵を見せてもらった時,本人の前では,ほめちぎったのに,辞去した後,「ティツィアーノの色彩も様式も私の気に入ったが,しかしヴェネツィアでは,まず最初にデッサンをよく学ぶということをしない.これは残念なことだ」と言ったと,ヴァザーリが伝えている(『ルネサンス画人伝』,平川祐弘訳,p.164).

 フィレンツェのルネサンス絵画は構築的で,造形感覚に優れ,ヴェネツィア派は色彩に秀でていると言われるような気がするが,どちらにも偉大な画家がたくさん出た以上,1人1人の芸術家に際立った個性があり,フィレンツェ周辺から出た画家の中にも,造形性よりも色彩が魅力的な者も少なくないだろう.

 レオナルドはボッティチェリの絵に批判的だったとされるし,ミケランジェロはペルジーノの作品を評価しなかった.大天才たちは小天才に厳しかったが,それでも小天才たちは世紀の傑作ではなくても,心魅かれる佳品を数多く生み出した.

 造形が個性的過ぎて,構築性に破綻があったとしても,ボッティチェリも,ペルジーノも美しい作品を描いた.たとえ,現存する作品の色彩に加筆や修復が見られるとしても,もともと美しい色の作品だったことは間違いないだろう.


マゾリーノの華麗さ
 ヴァザーリがマゾリーノの「彩色」を讃えていた(平川祐弘訳『続ルネサンス画人伝』,p.69)ことは,以前にも触れた.マザッチョの構成力と力強さに多くの人が魅せられるのは理解できるが,マゾリーノが担当したフレスコ画の魅力も代え難いものがある.国際ゴシックとルネサンスの幸福な遭遇に思える.

 ブランカッチ礼拝堂のフレスコ画を,マザッチョが1人で完成した方が良かったのか,マゾリーノと分担して,さらにそれが未完成だったので,フィリピーノ・リッピが完成させた方が,個性も時代も違う複数の作風が楽しめて良かったのかは,誰も答えがないだろう.多くの人がマザッチョの天才性を認めながらも,現状のブランカッチ礼拝堂の見事さと華やかな魅力を否定する気にはならないだろうからだ.

 力感と迫真性に満ちたマザッチョの絵と,繊細で華麗なマゾリーノ,手堅いが個性的なフィリピーノのそれぞれの,技量と画才を堪能できる.

 マザッチョの「アダムとイヴの楽園追放」の真向いにある,マゾリーノの「アダムとイヴの誘惑」を水準の低い作品だと言い切る勇気のある人はいないのではないだろうか.ともかく,美しい絵だ.国際ゴシックの繊細さに,古代彫刻のような古典美を加味した絶妙のバランスがすばらしい.

写真:
マゾリーノ
「アダムとイヴの誘惑」
ブランカッチ礼拝堂



デル・サルトの鮮やかさ
 アンドレア・デル・サルトの油彩画の色彩の鮮やかさは,ある場合には,うるさすぎるように感じることもある.赤がきつ過ぎるように思う時もないではない.サン・サルヴィ修道院食堂のフレスコ画の「最後の晩餐」も修復を経ているのであろうが,あまりにも色彩が鮮やかで,見事なのだが,少しありがたみに欠けるような気もする.

 一方,同じフレスコ画でも,サンティッシマ・アヌンツィアータの奉納物の小開廊のデル・サルト作諸場面は,色落ち,くすみが多くてわかりにくい.デル・サルトの天才は疑わないが,その絵を見てどう感じるかに,絵の状態は大きく影響するように思える.


写真:
アンドレア・デル・サルト
フレスコ「袋の聖母」
サンティッシマ・アヌン
ツィアータ教会


 「袋の聖母」に関しては,写真を見て,さほど期待していたわけではないが,容易には見られないと思うと,余計に見たい気持ちは募っていた.ところが今回,事情をよく知っている方に回廊の入り方を教えていただいて,思いがけず簡単に見ることができた.

 本来の状態に近いかどうかもわからないが,色のバランスや,適度に色落ちが進んでいるように見える状態など,もともとの完成度と言い,あらゆる条件が,私にとって好ましい見え方になっているように感じた.今回のフィレンツェ再訪で,最も大きな成果の一つはアンドレア・デル・サルトの「袋の聖母」を観られたことだと言っても良いくらいだ.

 話は少し飛ぶが,今回,ツァーのプログラムで訪れたアカデミア美術館で,ガイドさんに連れられて,一度見れば十分と思っていたロレンツォ・バルトリーニの石膏型コレクションの部屋に再び足を踏み入れることになった.その結果,この部屋の意義を見直し,芸術が生きている以上,ルネサンスの有名な芸術家の作品でなくても,やはり謙虚な目で,それぞれの時代の味わいを鑑賞するべきではないかと思い至った.

 この部屋の出入り口の上部の内壁に,「袋の聖母」の見事な模写があった.作者の名前をメモした紙が見当たらず,今となっては思い出すこともできないが,世界史的に有名ではないにしても,後にプロの画家として活躍したであろう人が,若い頃,習作として模写した作品の水準が,そのまま,美術アカデミーが常に併設されているアカデミア美術館の性格を物語っていると思った.

 その時点で,まさか本物の「袋の聖母」が見られるとは思っていなかったので,本物が見られたときは,本当に感動した.


ポントルモの柔らかな色彩
 デル・サルトの弟子だったかも知れないポントルモの作品を,今回も,ウフィッツィ,パラティーナ以外で,サンティッシマ・アヌンツィアータの奉納物の小開廊(「エリザベト訪問」),サンタ・フェリチタ教会のカッポーニ礼拝堂(「受胎告知」と「キリスト降架」),サン・ミケリーノ・デイ・ヴィスドミニ教会(「聖母子と聖人たち」)で見ることができた.

写真:
ポントルモ
フレスコ「受胎告知」
サンタ・フェリチタ教会
カッポーニ礼拝堂


 初期マニエリスムの時代のフィレンツェを代表する天才の絵は,構図も見事だと思うが,やはり独特の色彩が印象深い.暖色系の色がやわらかで,一つ間違うとどぎつくなる直前の所で,美の領域に留まって,これ以上ない効果を発揮している.


写真:
ポントルモ
板絵「キリスト降架」
サンタ・フェリチタ教会
カッポーニ礼拝堂


 新しい時代(16世紀前半)に活躍した画家なのに,その作品を,やはり美術館よりも教会で観たい芸術家だ.


盛期ルネサンスの奇才
 ポントルモは1494年,デル・サルトは1486年の生まれなので,師弟関係があったとしても,その年の差は僅か8歳だ.その両者が影響を受け,場合によっては教えを受けた可能性もある画家がピエロ・ディ・コジモである.1462年に生まれ,1521年に亡くなったので,ミケランジェロやラファエロよりは年長だが,レオナルドより若い,盛期ルネサンスのフィレンツェの画家だ.

 金細工師の子として生まれ,コジモ・ロッセッリの工房で修業した.師の名(コジモ)を自分の名乗りに貰い(ピエロ・ディ・ロレンツォとも言うようなので,父の名はロレンツォであったろう),師がシスティーナ礼拝堂の「最後の晩餐」などの仕事をしたとき,「キリストの説教」(1481年)を手伝った(風景部分を担当したとヴァザーリは言っているが,不確かだと訳注にはある).従って,フレスコ画を描いた経験もあることになる.

 ピエロの作品を,今までどれほど見ているだろうか.

 「無原罪の御宿りと聖人たち」(ウフィッツィ美術館)
 「無原罪の御宿りと聖人たち」(フィエーゾレ,サン・フランチェスコ教会)
 「アンドロメダを救うペルセウス」(ウフィッツィ美術館)
 「女性の肖像」(パラティーナ美術館)
 「瞑想の聖ヒエロニュモス」(ホーン美術館)
 「ピエタ」(ペルージャ,ウンブリア国立絵画館)
 「嬰児イエスの礼拝」(ローマ,ボルゲーゼ美術館)
 「マグダラのマリア」(ローマ,バルベリーニ宮殿古典絵画館)
 「鳩の聖母子」(パリ,ルーヴル美術館)
 「キリストの受難」(ヴェッキオ宮殿,ロウザー・コレクション)

 最後の作品は,本当にピエロ・ディ・コジモの作品かどうかわからないが,こうして列挙して見てもたくさん見ているわけではない.古い本だがおそらく,作品をほぼ網羅していると思われる,

 Mina Bacci, Piero di Cosimo, Milano: Bramante Editrice, 1966

を神田の源喜堂で買っていたので,これで確かめても,もともと多くない現存作品のかなりのものがアメリカの美術館にあることがわかる.



 私たちのピエロ・ディ・コジモ体験は,フィレンツェ滞在初期,到着間もない3月に寓居の近くの捨て子養育院の美術館で,「聖母子と聖人たち」(下の写真)を見たことから始まった.その日のページに,この絵が「立派だった」と感想を述べている.

 初めて聞く名前だったが,「コジモの子ピエロ」と言う名前は,15世紀のメディチ家の当主老コジモの息子で,ロレンツォ豪華王の父ピエロを思い起こさせ,覚えやすかった.すぐ後にサント・スピリト広場の蚤の市で,この名が題名となった古書を見つけて,ほしいと思ったので,それだけ強く印象に残ったのだろう.結局,その本は荷物になるので買わなかったが,自分が初めて聞く画家のモノグラフィーが蚤の市の投げ売りの段ボール箱の中にあったのが印象に残った.

写真:
ピエロ・ディ・コジモ
「聖母子と聖人たち」(部分)
捨て子養育院美術館


 この絵は,ピエロ・ディ・コジモの有力な注文主の1人であった,ピエロ・デル・プリエーゼによって,当時,養育院に存在したサンタ・マリーア・デリ・インノチェンティ教会のプリエーゼ礼拝堂の祭壇画として発注されたとヴァザーリが報告している.

 幸いにもヴァザーリ『芸術家列伝』の「ピエロ・ディ・コジモ伝」には邦訳がある(『続ルネサンス画人伝』,小谷年司訳「ピエーロ・ディ・コージモ」).エクセントリックな「破滅型天才」の生涯として描かれたこの伝記は必読だろう.達意の邦訳も立派だ.

 「こんな風な生き方しかできない男で,芸術に恋したかのごとく自身の安逸は一切追わなかった.食べるものはいつもゆで卵で,火を節約するために,画材に使うのりと一緒にゆでていた.七つか八つといった数ではなく,五十近くもゆで卵を作り,籠に入れて取っておき,少しずつ食べていた」(邦訳,p.216)

と言う風に,奇矯さが目に浮かぶような描写だが,一方で「会話になると,話題は豊富で多岐にわたり,面白いこと言っては相手の腹をかかえさせたことも多かった」と言っており,一見不器用に生き,はた目からは孤独で不幸に死んだ老人に見える,天才芸術家への愛に満ちた伝記だ.

 ヴァザーリは,現在ベルリンにある「ヴィーナス,マルス,キューピッド」を自分の家に所蔵していた(邦訳,p.215)し,フランチェスコ・ダ・サンガッロが描いた,老年期のピエロ・ディ・コジモの肖像画を作者本人からもらって持っていたと言っている(邦訳,p.218).

 さらに,多くの弟子の中でアンドレア・デル・サルトの名を挙げている.ヴァザーリはデル・サルトの工房にいたので,ピエロ・ディ・コジモの孫弟子という認識を持っていたことになる.



 フランチェスコ・ダ・サンガッロは,ピエロ・ディ・コジモが描いたフランチェスコの父ジュリアーノ・ダ・サンガッロと祖父フランチェスコ・ジャンベルティの肖像画を所有し,前者はロンドンのナショナル・ギャラリーに現存しているものかも知れない.

 さらに,「首に毒蛇が巻きついて非常に美しい顔をしたクレオパトラの肖像」も持っていたとしているが,これは,訳注に拠れば,パリ郊外シャンティのコンデ公美術館にある,通称「美しきシモネッタ」(伊語版ウィキペディア)と呼ばれる絵を指しているようだ.

 この絵を,澁澤龍彦が『幻想の肖像』(河出文庫,1986,もとは「婦人公論」に1975年から連載)の巻頭に取り上げ,論じている.彼はそこでピエロ・ディ・コジモ(澁澤は「コシモ」)を「ルネサンス期イタリア随一の異色画家」と評している.

一方で,澁澤も「北方のフランドル絵画の汎神論ふうな写実主義の影響」に言及しており,ヴァザーリも結果的には全く異なる画風になったがレオナルドの技法を研究したことに触れていて,ピエロ・ディ・コジモはただの変わり者で,唯我独尊の破滅型天才だけの人ではないことは容易に想像がつく.

 アンドレア・デル・サルトをはじめとする多くの画家に影響を与え,シモネッタが嫁いでいたヴェスプッチ家,彼女の愛人とされるジュリアーノがいたメディチ家などの注文も受け,多くの仕事をこなし,オウィディウス『変身物語』に基づく人文主義的な異教主題の絵も描いたピエロ・ディ・コジモは,まさにフィレンツェが生んだルネサンスの芸術家だろう.

 ヴァザーリは,「祝祭都市」としてのフィレンツェの催し物の演出にもピエロ・ディ・コジモの天才が貢献したこと示唆している(邦訳,pp.212-3).

 ピエロ・ディ・コジモの師匠がコジモ・ロッセッリで,コジモ・ロッセッリは,ネーリ・ディ・ビッチの工房にいて,後にアレッソ・バルドヴィネッティを師と仰いだので,ピエロ・ディ・コジモもこうしたフィレンツェの職人たちが作った芸術家山脈にしっかりと連なる人物であることが確認できる.



 ヴァザーリは現在,捨て子養育院の美術館のある絵に触れて,あるエピソードを紹介している.それは,養育院の院長に「完成するまで絵を見せろと強要しない」という条件をつけ,院長は自分が画家の友人でもあり,毎日の経費も負担している立場として,最後の支払いの段階になって,完成前に絵を見せなければ金を払わないと言ったが,払わないなら見せる前に絵を破棄すると脅かされて,結局院長が屈したと言うものである.

 才能に溢れた芸術家が,注文主に対して強い立場に立つようになりつつあった時代背景が見え,ヴァザーリ好みの逸話ではあろうが,そんなことはどうでも良いと思うほど,この絵は立派だ.

 玉座の聖母子に両脇からかしずいている女性聖人は,向かって左が,ヴィテルボの聖ロサ(サンタ・ローザ),右がアレクサンドリアの聖カタリナ(サンタ・カテリーナ),両端の男性聖人は左が聖ペテロ(サン・ピエトロ),右が福音史家ヨハネ(サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ)とされる.カタリナの足元には,彼女の拷問に使われた棘付き車輪の破片と,彼女が王族出身であり,その地位を重んじなかった印の王冠が置かれている.王冠(トップの写真)の描写が精緻だ.


謎のオリジナル
 今回の宿,ホテル・グランド・バリオーニは,以前フィレンツェに住んでいた時に何度となく通ったウニタ・イタリア広場に面してある.中央市場に買い出しに行く時には,必ずこのホテルの前を通った.5つ星ではないものの,駅前のこんなに立派なホテルに泊まれる人はどんな人なのか,想像もつかなかった.

 今回ツァーで旅行会社が手配してくれたおかげで,随分立派な宿に泊まれたことになる.季節によっては団体客には大幅なディスカウントがあるのだろうと想像する.

 食事の手配のない日は,添乗員Isさんが有志を募ってレストランに連れて行って下さったが,そのひとつが,滞在中に何度も前を通って,おしゃれな店だと思いながら,一度も入ったことがなかったところだった.観光客として訪れたフィレンツェで,滞在した前回とは違う世界を垣間見ることができた.

 バリオーニはさすがに立派なホテルで,多くの点で満足だった.重厚な雰囲気で,調度品も古風なものが多かったが,ロビーを出たところの廊下の壁にかけてあった金地板絵の祭壇画「三王礼拝」(下の写真)が気になった.

 フロントの方に「これはオリジナルか」と聞いた所,胸をはって「オリジナルだ」とおっしゃった.続いて作者の名前を訪ねると「それは私は知らない」とのご返事だった.「シエナ派か」と言う問いには,「多分そうだろう」とおっしゃった.

しかし,この絵をどこかで見たことがある,と言う確信が私にはあった.


 帰国後,シエナ派であろうとの予想から,持っているシエナ派に関する参考書やウェブページを見たが,類似する絵を見つけることができずにいたが,ふと,フィレンツェ周辺の小さな美術館,博物館を紹介した叢書の1冊,

 Caterina Caneva, ed., Museo d' Arte Sacra della Collegiata di Santa Maria a Figline Valdarno, Firenze: Edizioni Polistampa, 2007

の表紙を見て驚いた.ホテル・バリオーニにあった祭壇画の聖母と同じ顔がそこにあった.



 フィレンツェから鉄道で30分ほどの距離にあるフィリーネ・ヴァルダルノの参事会教会の宗教博物館に,滞在中に2度行ったことがあった.1度目は特別企画「ヴァルダルノのルネサンス」のバス・ツァーで,2度目は同企画の最終日が迫った時に,個人でサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノとフィリーネ・ヴァルダルノを訪れた際のことだ.

 この宗教博物館で,1枚の枠の中に3翼部分を組み込み,プレデッラも3場面ある金地板絵の祭壇画を見たが,この3翼部分の中央が,ホテル・バリオーニにある祭壇画とまったく同じ絵だった.

 上掲書に拠れば,作者はアンドレーア・ディ・ジュスト・マンツィーニと言うフィレンツェに1420年から50年まで活動記録のある画家で,「シエナ派」という素人判断は全く誤りだったことになる.

 ビッチ・ディ・ロレンツォの工房にいた画家で,ピサでマザッチョの祭壇画に関わった可能性もあるらしい.上掲書に拠れば,フラ・アンジェリコ,マザッチョ,マゾリーノの影響が見られるとのことだ.

 博物館の祭壇画は,もとはフィリーネのサンタンドレーア・ディ・リパルタ教会にあったもので,伊語版ウィキペディアをたどると,画質は悪いが,この祭壇画の写真が掲載されている.比べると容易にわかるように,中央のパネルとバリオーニの祭壇画は瓜二つである.もちろん,状態は違っていて,絵具の剥落があるものの,バリオーニの絵の方がずっと状態が良く見えるだけに,「オリジナル」というフロントの方の力強い声には疑問符がつく.

 一方で,この祭壇画を部分的に取り出して,複製をつくることにどれだけの意味があったのか,またそもそも「複製」だとして,いつ作られた複製なのか,疑問は尽きない.

 この絵に言及して,「フィレンツェだより」番外編「フィレンツェ再訪」を終えようと思っていたが,未練がましいようだけれども,少なくとももう1回,言及を予告していたサンティ・アポストリ,サン・フェリーチェ,サンタンブロージョ,サンタ・マリーア・マッジョーレなど,今回再訪できた比較的小規模な教会について報告をまとめて最終回としたい.






謎のオリジナル
ホテルのエレベーター前の廊下で
ためつすがめつ