フィレンツェだより番外篇
2013年9月6日



 




ラファエロ作
「コネスタービレの聖母子」
エルミタージュ美術館


§ロシアの旅 - その3 ラファエロとその周辺

メルツィの「フローラ」を観て,だいぶテイストの違う絵だが,ティツィアーノの「フローラ」(ウフィッツィ美術館)を思い出した.


 モデルの女性にとっては左側,私たちから見ると向かって右側の乳房を露出している点が共通している.制作年代もほぼ同じ頃(1515年から20年前後)のようだ.

 しかし,画風からいって,影響関係は考えにくく,前世紀後半のボッティチェリの「春」や「ヴィーナスの誕生」にも,西風の神と結婚してフローラに変容するクロリスの神話が取り上げられていることから,ルネサンス人文主義が共通の土台となっているくらいしか理由を思いつかない.「フローラ」という異教の女神を意識して画家が描いたかどうかもわからない.


「フローラ」
 「花の女神」は,神話というよりは,一種の寓意と考えれば,宗教的題材との摩擦も少ない.今回,エルミタージュで見ることができたフィレンツェの画家アレッサンドロ・アッローリの「キリスト教会の寓意」は幼児と若い女性の組み合わせだが,幼児が女性に花冠を被せようとしてしているところから,女性は「フローラ」として描かれていると考えることもできるようだ.

 寓意とは言え,一種の宗教画として描かれたのだとすれば,この女性が乳房を露出していないのは当然で,衣の赤と青の組み合わせが「聖母」を思わせ,幼児のキリストのようにも見えることから「キリスト教」の寓意と考えられるかも知れない.特に,魅力的な絵ではないが,鮮やかな色彩が,エルミタージュのマニエリスム絵画のコーナーでも目をひく.

 すでに1600年を過ぎ,マニエリスムは時代遅れになっていた,アッローリ晩年の作のようだ.息子のクリストファノはカラヴァッジェスキの1人として作品を残す.

 もう1点,エルミタージュで,レンブラントの「フローラの装いのサスキア」を見ることができた.まだ28歳の巨匠が,新婚の妻に花冠を被せ,手に花を持たせ,豪華な衣装を着せて描いたもので,たくさん所蔵されているエルミタージュのレンブラント作品の中でも傑作に入るという印象を持った.もちろん,乳房は露出してない.

写真:
エルミタージュ美術館
パブロ・ピカソ作
「扇子を持つ女」


 やはり,エルミタージュで,片方の乳房を露出した女性が描かれたピカソの絵を観ている.花は描かれておらず,扇子を持っている姿だった.しかし,近くに「ご訪問」を思わせる2人の女性の絵(「二人の姉妹」)があったので,キリスト教や人文主義主題の連続性を考えてしまったが,考え過ぎかも知れない.学芸員の方は,ヴィーナスをモティーフにしている可能性を示唆しておられた.

 実は,プーシキン美術館で,ティツィアーノの小特別展が開催されており,ティツィアーノの「フローラ」を,3月のローマのティツィアーノ展に続き,ロシアで見ることできた.今回は2つの美術館で大小3つの特別展を見たが,これについては別に報告する.


「コネスタービレの聖母子」
 ラファエロが描いた「聖母子」で,風景が覗き見える窓が描かれた作品はどのくらいあるだろうか.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートで見る限り,「アルドブランディーニの聖母子」(ロンドン,ナショナル・ギャラリー)と「聖家族」(エルミタージュ美術館)くらいだろうか.

 「ブリッジウォーターの聖母子」(エディンバラ,ナショナル・ギャラリー),「布張り窓の聖母子」(フィレンツェ,パラティーナ美術館)には,風景が覗き見えない窓が描かれている.

 彼の描く聖母子に関しては,背景が全て風景になっているものが多いように思われる.

写真:
エルミタージュ美術館
ラファエロ作
「コネスタービレの聖母子」

ガラスに自分の顔が映る


 聖母子以外で,風景が覗き見える窓が描かれている絵を探すと,「グィドバルド・ダ・モンテフェルトロの肖像」(ウフィッツィ美術館),「脚萎え男性の治癒」(ロンドン,ヴィクトリア&アルバート博物館),「男性の肖像」,「若者の肖像」(クラコフ,チャルトリスキー美術館),「受胎告知」(ヴァティカン絵画館)(ただし,窓ではなく開廊),「カール大帝の戴冠」(ヴァティカン宮殿,ボルゴの火災の間のフレスコ画),「神殿からのヘリオドロスの追放」(ヴァティカン宮殿,ヘリオドロスの間),「神殿奉献」(ヴァティカン絵画館)(窓ではなく開廊),くらいだろうか.

 窓ではなく開廊の絵も含めても,ラファエロの少なくない現存作品数を考えると,決して多くはないだろう.

 アンリ・フォション,原章二訳『ラファエッロ』平凡社ライブラリー,2001

を読んだ.名著だ.学問的にはフォションは,ラファエロ(ラファエッロは正確ではないので,日本語の慣用のラファエロで通す.ラッファエッロにしたらペダンティックだろう)の専門家ではないし,訳者はイタリア語の勉強をしたことはないようだが,原著者の文学性が活かされた達意の訳文は称賛に値する.一気に読むことができる.

 フォションは,「コネスタービレの聖母子」に言及している.フィレンツェにやって来た若者ラファエロの状況を推測して,

 そこでは探求がすべてであり,画家たちは知力と意志の巨人だった.大いなる自然の探求家であり,人文主義を造形的に構築することに熱中する人々の前で,軽やかな優しい魅力を湛え,敬虔なロマンティシズムと流露する心以外何もない若者の絵がいったい何の価値を持つだろう?ベルリンの聖母や≪コネスタービレの聖母≫(エルミタージュ)のような夢見る聖母の小像は,ウンブリアから到来したちょっと可愛い打ち明け話,という以外の何だろう.

と述べている.フォションの見解に拠れば,「コネスタービレの聖母子」は,ラファエロがフィレンツェの巨匠たちの洗礼を受けて,自身も大芸術家へと脱皮して行く以前の作品ということになる.

 嘉門安雄(解説)『世界美術全集 愛蔵普及版7 ラファエルロ』(「ル」は小さい)集英社,1978(以下,嘉門)

に拠れば,この作品は1504年に描かれ(下記の『エルミタージュ2』は1502年頃),作者の友人の伯父アルファーノ・ディ・ディアマンテの所蔵からペルージャのコネスタービレ(コンネスタービレ)伯爵の手を経て,「1871年ロシア女帝に譲渡された」とある.1871年のロシアの皇帝は,後にナロードニキに爆殺される,農奴解放で有名なアレクサンドル2世であり,「女帝」ではない.英語等の欧米語では「女帝」と「皇后」は同じ語(イタリア語ではインペラトリーチェ)なので,参考書からの直訳かも知れないと邪推してしまう.

 1871年という年代が正確なら,日本語の「女帝」は正確ではないし,百年前の1771年なら,有名なエカテリーナ(原語に近い表記はエカチェリーナになるらしいが,慣用のエカテリーナで通す)の治世だ.しかし,英語版ウィキペディアに拠れば,やはり1871年が正しく,皇帝アレクサンドル2世が入手し,皇后マリア・アレクサンドロヴナに贈ったとのことだ.

 いずれにせよ,この作品は,19世紀後半からロシアにあり,ずっとエルミタージュに展示されてきたことになる.



 「コネスタービレの聖母子」は「本を読む聖母子」(マドンナ・デル・リブロ)という愛称を持つが,板からカンヴァスに移された際に,オリジナルには本ではなく,受難の象徴であるザクロが描かれていたことがわかったとのことだ.エルミタージュ美術館のHPに英語による紹介もあるが,この情報はない.

 一応,本棚の重しになっている専門書も参照した.

 Korad Oberhuber, Maria Magrini / Marina Rotondo, trr., Raffaello, Milano: Electa, 1999(以下,オーバーフーバー)

 この作品は白黒写真しか掲載されていないが,「ウンブリア様式で描かれた」とあり,やはり製作年代は1504年になっている.どちらが先かわからないが,この年には有名な「大公の聖母子」(17世紀のフィレンツェの画家カルロ・ドルチが所蔵していて,彼からトスカーナ大公フェルディナンド3世の手に渡り,この通称がある)もこの年に描かれており,天才は21歳の時も天才だったことがわかる.

 オーバーフーバーには年譜は付されていないので,嘉門と,

若桑みどり『ラファエルロ』(「ル」は小さい)新潮美術文庫3,新潮社,1975(以下,若桑)

の年譜を参照するが,それらを見ても1504年にラファエロがどこにいたのかはわからない.フィレンツェの市政長官ソデリーニ(と言うことは,この時代の市政庁第二書記官はマキアヴァッリ)宛ての,ラファエロのフィレンツェ移住を推薦する手紙があるらしいが,真作性を疑う人もいるらしい.

 いずれにせよ,この頃,ペルジーノ工房から独立してフィレンツェで新たな展開を模索する時代に入ったと思われる.


「聖家族」
 嘉門では,この「聖家族」(エルミタージュの紹介ページ)は「髭の無い聖ヨセフのいる聖家族」という名称になっており,制作は1506年(『エルミタージュ2』は1505年頃)とされている.

 1506年に描かれたのであれば,この頃は主としてペルージャの教会のための仕事をしていたようだが,ローマに出るのが1508年と推察されているので,既にフィレンツェでレオナルドやミケランジェロの影響を受け,ペルジーノ風から脱皮して行く時代の作品だろうか.

写真:
エルミタージュ美術館
ラファエロ作
「聖家族」


 オーバーフーバーには,この作品の写真が掲載されているが,詳しい言及はなく,嘉門には写真と解説があるが,記述が散漫でよく分からない.若桑は全く取り上げていない.これほど有名な画家の作品が,大美術館に展示されている場合でも,作品の情報を得るのは,それほど容易なことではない.幸いにも,NHKで放映されたエルミタージュ美術館の特集と連動した,

 五木寛之/NHK取材班『エルミタージュ美術館2 ルネサンス・バロック・ロココ』日本放送出版協会,1989(以下,『エルミタージュ2』)

に,写真付きで簡潔な説明(pp.84-85)がある.

 この本の美術監修は千足伸行(当時,成城大学教授とあり,成城には実力ある美術研究者が集まるようだ)と記載されており,現在も現役で活躍されている美術史家の若い頃の仕事で,もしこの先生の目が全て通っているとすれば,信頼に足る情報だろう.

 この本ではヴァザーリの「ラファエロ伝」に言及し,「グィドバルド・ダ・モンテフェルトロのためにウルビーノで制作したと伝記作家ヴァザーリが述べている二点の聖家族の一つか,フィレンツェで画家タッデオ・タッデイのために描いたとしている二点の作品の一つか,明らかではない」と説明している.

 グィドバルドのために描いたとする説明はウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにもあったので,一応,ヴァザーリの邦訳を確認すると,「聖母の絵を二枚描いた.それは彼の第二の様式で描いたもので,小さいが非常に美し絵で,いまはウルビーノ公グイドバルドの所有となっている」(『ルネサンス画人伝』白水社,1982,p.169.以下,『画人伝』)とあって,「聖家族」とは言っていない.

 タッデオ・タッデイに言及した箇所は重要だと思われた.フィレンツェで受けた歓待について述べながら,こう記している.

 とくにタッデオ・タッデイは才能のある人を愛する人であったから,いつもラファエルロ(「ル」は小さい文字)を自宅に招いてご馳走した.ラファエルロも非常に礼儀正しい人であったので,相手の好意に報いるために,彼のために絵を二枚描いたが,それはペルジーノから学んだ初期の様式と,彼が後に学んで身につけたさらに秀れた様式の両者にまたがるものであった.その第二の様式については後でまたふれる.これらの絵はいまなおタッデオの子孫の家にある.(『画人伝』,pp.168-169)

 フィレンツェのカヴール通りに面したメディチ・リッカルディ宮殿の正面に向かって左側の通りを入って,サン・ロレンツォ聖堂の方に向かうと,すぐにジノーリ通りに交差する.それを北上したところの邸宅の壁に,ラファエロがそこで歓待されたことを示すプレートがあったようだ.伊語版ウィキペディアの説明では,これがどうもタッデオ・タッデイの家であったらしい.

 もし,これらの情報を総合して,エルミタージュの聖家族がグイドバルド・ダ・モンテフェルトロのために描かれたのだとしたら,やはりヴァザーリの言う「第二の様式」,すなわちペルジーノの影響を脱して,フィレンツェ芸術から刺激を受けた後の作品ということになるだろうか.

 『エルミタージュ2』では,さらに,「聖母子のタイプはルーヴル美術館の『美しき女庭師』に近く,フィレンツェ時代の作品と思われる.濃密で微妙な明暗法にはレオナルド・ダ・ヴィンチの影響がうかがえる」とあるが,他の箇所で言及している「ピラミッド形構図」(p.90)も,「美しき女庭師」と共通するレオナルドの影響であろうか.

 レオナルドがミラノからいったん戻り,フィレンツェを拠点にしていた時期と,ラファエロのフィレンツェ滞在は重なっているので,影響を受けたのは間違いないだろう.レオナルドがミラノに行く前にフィレンツェで作成し始め,未完のまま残された,「ピラミッド形構図」で有名な「三王礼拝」は,今でこそウフィッツィ美術館の至宝とされるが,当時はどのような形で見ることができたのだろうか.

 また,「聖家族」というと,やはりウフィッツィにあるミケランジェロの「ドーニ家のトンド」が思い浮かぶが,制作年が1506年であれば,ラファエロの聖家族とどちらが先が微妙なので,影響関係はないと考えて良いのだろうか.

 ミケランジェロの作品は,聖家族のまとまりで考えると,三角形というようりは,楕円のようにも見えるが,三角形を形成する聖母子の傍らにヨセフいると言う風にみると,ヨセフのいる位置の右左は違うが,ラファエロの「聖母子」に似ていないこともない.

 ただ,ラファエロの作品だけを見ても,三角形のピラミッド形構図の見られる「聖母子」,「聖家族」は相当数見られるように思え,中にはフィレンツェ到来以前のペルジーノ風の作品も複数あるように思われ,単純にヴァザーリの言う「第二の様式」が目安になるのかどうかはわからない.

 一般的な印象としては,フィレンツェ滞在以後の「聖母子」が完成度も高く,ピラミッド形構図がうまく活かされいるように思う(「鶸の聖母子」ウフィッツィ美術館,「ベルヴェデーレの聖母子」ウィーン美術史美術館など).

 今回エルミタージュで見られたラファエロの2作に関して,「コネスタービレの聖母子」が1504年,「聖家族」(髭の無いヨセフのいる聖母子)が1506年の制作とすれば,ちょうどペルジーノ風を脱して,フィレンツェの芸術の影響を受けながら,新天地ローマに大きく羽ばたいていく天才の成長過程を見られる作品であったということになる.


ラファエロの魅力の評価
 ラファエロの影響は一般的過ぎて,ロシアに特化した話題を探すことは難しい.上記の2つの作品とも,ロシアに来たのそれぞれ19世紀と18世紀で,これが,ロシアの文化にどういう意味があったかはわからない.

 下の写真のフレスコ画は,ミケランジェロ作とされる彫刻「うずくまる少年」のある部屋を飾っているフレスコ画の1つだ.この部屋は新エルミタージュにあるが,新エルミタージュは,ニコライ1世によって,もともと美術館にする意図で,ミュンヘンでもアルテピナコテークなどを設計しているバイエルンの彫刻家レオ・フォン・クレンツェ(日本語ウィキペディア「レオ・フォン・クレンツェ」も詳しい)に委嘱された建物である.1839年のことだ.

 この時点で,「コネスタービレの聖母子」はまだイタリアにあった.

 新エルミタージュの完成は1852年,当初,カメオを置く部屋として企画されたこの部屋は「皇后の間」と呼ばれ,ウクライナのケルチで発掘された古代の金製品などが展示されていた.そこに,ローマのパラティーノの丘のとある別荘を飾っていたラファエロの弟子たちの作品とされるフレスコ画が1861年に購入され,壁面装飾とされた(美術館の中の説明プレートの英訳を参照した).

 現在は,エルミタージュで唯一のミケランジェロ作とされる彫刻が中央にあって注目を集めているが,この額装された元フレスコ画も良く目立つ.9枚とも,おそらくギリシア神話を題材にしている.

写真:
新エルミタージュの
「皇后の間」の壁面を飾る,
ラファエロの弟子たちが描いた
9枚の剥離フレスコ画の1枚
「ヴィーナスとキューピッド」


上の写真は裸体の女性の隣に,弓を持った子供がいるので,「ヴィーナスとキューピッド」であろう.別の1枚では,木陰から女性を覗き見しているのは,一つ目の怪物ポリュペモスで,女性はガラテイアであろうか.であれば,ファルネジーナ荘に「ガラテイアの勝利」というフレスコ画を描いたラファエロと多少関連するところはあるかも知れない.

 新エルミタージュの玄関は,天を支える巨人アトラスの複数の彫刻で装飾され,その両側に古代ギリシア人風から,近代ヨーロッパ人風の姿が,3体ずつ並んでいるが,向かって右端は,近代における古代ギリシア美術研究の創始者ヴィンケルマンであった.

 彼の思想はヨーロッパに新古典主義の流行を齎したが,ラファエロへの志向は新古典主義と連動するであろう.



 故・若桑みどりの講演を学生時代に聞いたことがあり,感銘を受けた.TVを持っていなかったので,ラジオで若桑の出る対談番組を毎週聞いていた時期もある.著作もかなりの冊数を読んでいる.今は,自分にとっては自明の存在で,特に普段,若桑の著作を参照することはあまりない.

 しかし,上記の本に掲載された若桑の一文「神のごとき剽窃家」はなかなかショッキングであった.

 いまでは,誰がラファエルロ(「ル」は小さい)に目をとめるであろうか.十六世紀から十九世紀まで,人がもし良い趣味をもっていると言われたければラファエルロを賞めなければならなかったのに,いまではそれが逆になった.かつて私がラファエルロを好きだと言ったとき,人々は私を,「満月とばら(この2文字の上に「、」を打って強調)とラファエルロの好きな」あまり上等ではない好みの人間,ときめてしまった.(若桑,p.73)

 私は,ラファエロの絵を見て魅かれなかったことはない.ただ,一般向けには,レオナルド,ミケランジェロと並んで,ルネサンスの「三大巨匠」として理解されているラファエロが,他の2人に比べて,ある世代のインテリたちからは,数段低い評価を受けていることにおぼろげながら気づいていた.

 2007年のフィレンツェ滞在に先立って,前年にローマ旅行を敢行し,初めてイタリアの地を踏んだ.その際に,ユーロスターに乗って1日だけフィレンツェを訪ね,ピッティ宮殿のパラティーナ美術館に行った.そこでは見たラファエロの作品は全て,心を打つものであった.

ただ,心のどこかには,「(小)椅子の聖母子」に魅かれる自分の審美眼は前近代的で,通俗的であって,真に芸術を理解していないのではないかという気持ちがあったよう思う.

 今は,「真に」芸術を理解できなくても,自分が好きなら良いと開き直っているので,そんなことは思わないが,あまり,たくさんの美術作品に関心を持って接したことのない当時は,「芸術」は「高級」で「難解」なはずだと言う強迫観念があり,単純にラファエロに魅かれる自分に引け目のような感情を抱いたのもまた事実だった.

 若桑は,次のように締めくくっている.

 美術史家は現在,ルネッサンスが終わり,マニエリズモが始まる年を,およそ1520年ときめている.それはラファエルロが三七歳で死んだ,その年である.人々は,双生児のそれのように,この二つの死を結びつけてきた.だが私は思う―ラファエルロが幸運に生きのびたとしても,ルネッサンスは死んだであろう,そして彼はなおもマニエリズモの谷間を過ぎ,バロックの大河に流れていっただろう,と.(若桑,pp.86-87)

 2006年にローマに行ったときには,まだ美術作品にはそれほど関心がなかった.罰当たりなことに,ヴァティカンで最晩年の傑作「キリストの変容」その他の作品,「署名の間」の「アテネの学堂」その他のフレスコ画を見ているはずなのに,それほどの感銘は受けなかった.

 それでも,フィレンツェで見たラファエロの諸作品には心魅かれた.おそらく予備知識の必要な大作よりも,美しい聖母と可愛い幼児が描かれた「聖母子」が分かり易かったのだと思う.


親方ラファエロ
 この時,ローマでは古典絵画館(バルベリーニ宮殿)にも行ったが,ラファエロが恋人を描いたとされる,若い女性の肖像,通称「ラ・フォルナリーナ」とはあまり相性が良くないように思えた.

 嘉門は,この作品にはマニエリスム的特質が顕著なので,ジュリオ・ロマーノ作とする説もあるが,ラファエロ自身の息吹を感じさせる,と言っているので,多分,真作説なのだろう.嘉門の説明に拠れば,イタリアの諸家の所有を経て,バルベリーニ家の所有となり(1642年),近年,ボルゲーゼ美術館に入ったとあるが,バルベリーニ家の所有だったなら,現在それがある古典絵画館にあり続けた方が良いように思うが,ボルゲーゼにあったこともあるのだろうか.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには,この作品には多くのコピーがあり,最も有名なものがボルゲーゼにあると書かれている.

 嘉門は,この作品を「ラファエロの愛人とされるフォルナリーナを描いたものと言い伝えられる」としながら.「一方また,ローマのパン屋の娘でシエナ生まれのマルゲリータ・ルーティとみる人もある」と述べている.固有名詞は,全て正しくても,事実関係の確認を怠り,接続を間違うと,全く違ったことを語ってしまう恐れがある.私の知る限りでは,フォルナリーナとマルゲリータ・ルーティは同じ人物とされている(ブルーノ・サンティ,石原宏訳『ラファエロ』東京書籍,1995,p.74,およびウェブ・ギャラリー・オヴ.アート)ように思えるが,どうだろうか.

 サンティは「重苦しい明暗法」は,ラファエロ晩年の自筆の作品に見られるような,色彩と色調が「溶け合う」ものではないように見える,としながらも,腕輪に「ウルビーノのラファエロ」とラテン語(ラファエル・ウルビナス)と書かれていることも指摘しているので,真作ではないとは言っていない.

 写真で見ると思ったよりも,悪くない絵だが,私はラファエロの作品とは思いたくない.



 プーシキン美術館で,場合によってはバルベリーニの「ラ・フォルナリーナ」の作者,もしくは補筆者にも擬せられるジュリオ・ロマーノこと,ジュリオ・ピッピがフォルナリーナを描いたかも知れない絵を見た.

 ラファエロ晩年の作品の中には,マニエリスム的で,弟子のジュリオの作品なのか,ラファエロの作品なのか,観ている方がとまどうような作品があるように思える.逆に言えば,ジュリオの作品とされるものでも,ラファエロと見まごうような作品も少なくないということではないだろうか.

 ルーヴルで見たジュリオ作とされる諸作品を今,ウェブ上の写真を冷静に見ると,上手だし,師の影響は濃いが,やはりラファエロのような華やかさに欠けるように思えるけれど,現場ではやはりラファエロの作品と区別がつきにくいように思えた.

 マントヴァは行ったが,中心部から遠い所にあるパラッツォ・テには行っておらず,ここにあるジュリオの代表作とされるフレスコ画は見ていない.しかし,大天才ではないが,ある時代に芸術の歴史を支えた能才であることは間違いがないので,下の写真の絵はジュリオの作品とは思いたくない.

写真:
プーシキン美術館
ジュリオ・ロマーノ作
身繕い中の女性

一時,着せられていた
青いドレスの跡が肌に残る


 顔が下品だ.裸体が美しくない.しかし,それは現実を反映したものかも知れないので,画家が下手な証拠にはならないし,画面向かって右上の古代建築風の建物その他がよく描けているように思われる.腕輪には「ウルビーノのラファエロ」とは書いていないので.あくまでも,ラファエロ作とされるフォルナリーナのように見えるということであろうか.

 ラファエロ工房の俊秀としては,ジュリオの他に,ジョヴァンニ・ダ・ウーディネラファエッリーノ・デル・コッレジョヴァン・フランチェスコ・ペンニペリン・デル・ヴァーガなどの名前が挙げられる.この中では圧倒的にジュリオのみが名を成したと言っても良いだろうが,現在は無名でも,それぞれ一家を為した工房の助手たちがいなければ,教皇宮殿の幾つかの部屋も,ヴァティカンの開廊も,ファルネジーナ荘もフレスコ画や装飾画で彩られることはなかった.

 これらの能才たちを統率し,後世に残る大作を仕上げた,ラファエロの「親方」としての力量は,やはり評価されるべきであろう.



 フォションは,「古典的で偉大なイタリアは,カヴァッリーニからジョット,ジョットからマザッチョ,マザッチョからラファエッロへと,調和の道が続いている」(フォション,p.17)と巨視的な見解を示した後に,

 ミケランジェロとダ・ヴィンチという,巨人かつ魔術師と並べられて,ラファエッロは長い間,無邪気な魅力を湛えた若者と見なされていた.しかし,ヴァティカン宮殿の壁に,彼はそれとは違う証拠を残している.そこにおいて,ラファエッロの幸福で優美な才は,賛嘆すべき荘厳さを獲得している.この田舎出の若者は,実験室の惑乱と騒擾を超えて,静謐なフォルムと穏やかな夢のひろがりを,モニュメンタルな壁面に定着した.ラファエッロはそこにおいて,ローマ教皇の普遍主義思想の代弁者として,キリスト教徒の真情の発露と異教徒の野放図な悦びを,同じ一つの像の中に描き出した.画家としての彼の形成期は,ウンブリア地方の心地好いクァットロチェントの中で過ごされた.ウルビーノの爽やかな空気は,フィレンツェの煮えたぎる坩堝の熱気からラファエッロを守った.ラファエッロの輝く青春は,ジョットかとマザッチョの道筋を,時代を越えて引き継いで完成し,その二人の血統を,さらに三世紀彼方にの未来へ結びつけている.(フォション,pp.25-26)

と述べている.絶賛と言って良いだろう.ヴァティカンで彼のフレスコ画を見ながら,その真価に思い至らなかった私としては,是非,ヴァティカンを再訪し,写真で見ても今は傑作に思える「キリスト変容」とともに,しっかりと見て来たい.ラファエロは,思った以上に偉大な芸術家と言えよう.


「ウンブリア」に生まれて
 フォションは「ウンブリア」という地名を,現在の行政区より広い範囲に使っているようだ.

 ウルビーノは現在はマルケ州に属し,ピエロ・デッラ・フランチェスカの故郷サン・セポルクロはトスカーナ州に属しているが,ペルジーノの故郷チッタ・デル・カステッロ,また彼が工房を持ち,ラファエロがそこに入門したペルージャと同じく「ウンブリア」と言っている.

 これは,古代の「ウンブリア」という語の適用範囲を考えるとさして違和感はない.高等師範学校で古典を学び,ラファエロ芸術の深い根を考察するフォションにしてみれば,これらは森深いウンブリアの地と思われたのであろう.

写真:
エルミタージュ美術館
ペルジーノ作
「青年の肖像」


 若桑も「二一歳でフィレンツェに来るまでに,彼がウルビーノで得たものが,ピエロ・デッラ・フランチェスカとその弟子ピエトロ・ペルジーノの芸術だったということはすでにある運命的なものが感じられる」(若桑,p.78)と言っているが,どんな天才であっても,出生の地と両親は選ぶことができない.

 開明君主,フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロが作り上げたルネサンス都市ウルビーノの宮廷画家で詩人でもあったジョヴァンニ・サンティを父として,ラファエロは生まれた.

 ジョヴァンニ・サンティについて,ヴァザーリは「大した画家ではなかったが,知性の秀れた人」と言っているが,フォションは「クァットロチェント末期の地方画家としてはなかなかのものだった」と評価し,「彼には気品と教養があり,そしてデリケートな優しさが備わっていた」と称賛している.

写真:
プーシキン美術館
ジョヴァンニ・サンティ作
「聖母子と2人の天使」


 上の絵は,フォションが「なかなかの画家」と評価したジョヴァンニ・サンティのものとしては,平凡な作品と言うしかないが,トスカーナでネーリ・ディ・ビッチの作品を見た時と同じように,時代,地域に固有の安定した画風を想像させ,安心感が得られるように思う.

 「芸術」がほめ過ぎとすれば,単に「絵画」と言い換えても良いが,あらゆる芸術は天才だけが活躍するわけではなく,能才や,並才にも一定の役割がある.

 なまじ息子が世紀の天才であるだけに,本人の与り知らぬ所で毀誉褒貶を蒙るが,ジョヴァンニの柔和な画風は,間違いなくラファエロの作風に影響しており,父もペルジーノの影響を受けていたからこそ,息子がそれを超えて,大芸術を創り出していく素地となっているのではないかと思ってしまう.

 あくまでも結果を知っているから,後付けで言っているに過ぎないわけだが,上の写真はそれを思わせる.ヨース・ファン・ゲント,ピエロ・デッラ・フランチェスカを通して,北方絵画の影響を受け,風景もしっかり描き込まれている.「佳品」と断ずるのは躊躇されるが,私は好きだ.

 新エルミタージュの中に,ヴァティカンのラファエロ工房が装飾した開廊を模した通路がある.これは見事なものだ.やはり,18世紀のロシアには,ラファエロを好む志向が見られたということであろう.

 「ラファエロの開廊」の建設(イタリア人建築家ジャコモ・カレンギ・・原音に近い読みはジャーコモ・クァレンギかと思うが参考書の表記を尊重)とヴァティカンの壁画の模写(オーストリアの画家ウンターバーガー)を命じたのはエカテリーナ2世ということ(郡司良夫/藤野幸雄『エルミタージュ 波乱と激動の歴史』勉誠出版,2001,pp.37-38)なので,エルミタージュの形成に関わった人々は,早い時期からラファエロに関心があったようだ.

 参考書にあった「ウンターバーガー」は「オーストリアの画家」とあるが,リンクした英語版ウィキペディアに拠れば,「新古典主義期のイタリアの画家」とある.生まれたティロル地方には,当時,オーストリア支配下の地方国家」があり,現在は南北に分割されて,北部はオーストリア,南部はイタリアの属し,ラファエロの壁画を模したクリストファー・ウンターバーガーが生まれたカヴァレーゼは現在イタリア共和国のトレンティーノ・アルト・アーディジェ州に属している.

 伯父(叔父)のフランツ・ウンターバーガーに画業の手ほどきを受け,ウィーンに出て,親族関係は情報がないが,同姓でやはりカヴァレーゼ生まれのミケランジェロ・ウンターバーガーが重要な地位にあったウィーン芸術学院で学んだ.姓から言ってもドイツ系だし,画家としての教育はウィーンで受けているので,その意味では「オーストリアの画家」と言っても良いであろう.

 その後,ヴェネツィアとヴェローナに行き,後者で地元の画家ジャンベッティーノ・チニャローリに学び,さらドイツ生まれだが,ローマで活躍していたアントン・ラファエル・メンクスのもとで修業をした.その際に,ピエトロ・ダ・コルトーナの模写をし,ヴァティカン図書館の部屋の装飾を任された.その時点で相当の画力があったのだろう.

 彼がヴァティカンの開廊の壁画を模写を開始したのが1780年で,それ以後もイタリアの諸方で仕事をし,ローマで亡くなった.「イタリアの画家」と言っても良いだろう.ただ,兄弟のイグナーツも画家で,そちらはウィーンで活躍したとのことだ.

 いずれにせよ,参考書に「オーストリアの画家」と断じられていても,この時代にはまだまだ絵画,建築においては,イタリアの影響力が大きかったことがわかる.ラファエロは言って見れば,その象徴のようなものであろうか.






エルミタージュ美術館
ラファエロの開廊
ヴァティカンの本物は未見