フィレンツェだより番外篇
2013年9月16日



 




ホントホルスト作 「大工ヨセフと少年イエス」
エルミタージュ美術館



§ロシアの旅 - その6 カラヴァッジョと その影響

エルミタージュ美術館では,「グエルチーノからカラヴァッジョまで」という特別展を観ることができた.


 プーシキン美術館でも,ティツィアーノの小特別展,ラファエル前派の特別展が観られた.ティツィアーノの小特別展の出品作は全て,3月にローマの特別展で観たものと同じだったが,数は相当減っていた.

 ラファエル前派の特別展では,以前から観たいと思っていたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの「受胎告知」を観ることができた.


エルミタージュ特別展のカラヴァッジョ
 これらの特別展が開催されていることは事前に知らなかったので,嬉しい驚きだったが,何と言っても,エルミタージュの特別展は見応えがあった.そこで観ることができた最高傑作は間違いなく,カラヴァッジョの「リュートを弾く少年」であった.

 この作品は,エルミタージュの所蔵なので,通常であれば,常設展示として写真を撮ることもできるのだが,今回は特別展会場に展示されていたので,撮影は厳禁であった.

 特別展で観られたカラヴァッジョの作品は,

 「リュートを弾く少年」(エルミタージュ美術館)
 「瞑想のフランチェスコ」(クレモナ市立アラ・ポンツォーネ博物館)
 「イサクの犠牲」(ローレンスヴィル,ジョンソン・コレクション)
 「歯を抜く人」(フィレンツェ,パラティーナ美術館)
 「聖ヒエロニュモス」(ローマ,ボルゲーゼ美術館)
 「果物籠を持つ少年」(同)
 「洗礼者ヨハネ」(ローマ,コルシーニ宮殿)

 このうち,最初の4点は初めて観る作品だと思ったが,庭園美術館で開かれたカラヴァッジョとその影響を受けた画家たちの特別展の図録,

 宮下 規久朗(監修)『カラヴァッジョ 光と影の巨匠 バロック絵画の先駆者たち』朝日新聞社,2001

を参照すると(この図録は,大切な思い出として岩手の実家に置いていたが,参照のために北本の茅屋に持って来て,津波を免れた),実は「瞑想のフランチェスコ」は,その特別展で見ていたようだ.

 ボルゲーゼの2つの作品も,ブレラの「エマオの饗宴」とともにその時,日本に来ていた.しかし,「歯を抜く人」は7回も行ったパラティーナで一度も展示されているのを見たことがない.

 巨匠の作品であっても,この中で,何度でも観たいと思うのは「リュートを弾く少年」と「聖ヒエロニュモス」だけだ.「イサクの犠牲」と「歯を抜く人」は本当にカラヴァッジョが描いたのだろうか,と思ってしまう.

 とは言え,写真だけでは,思いが残るので,今回,観ることができて良かった.コルシーニ宮殿の「洗礼者ヨハネ」は,今年3月のローマ行で初めて見て,すぐの再会となったが,今回は随分近くで見られたので,少し,自分の中で評価が高まった.



 エルミタージュ所蔵のその他の傑作としては,グイド・レーニの「聖母の教育」,アンニーバレ・カッラッチの「キリストの墓前の3人のマリア」だろうか.プサンの作品が2点,レーニの「エウロパの誘拐」,ドメニキーノ「マグダラのマリアの被昇天」もエルミタージュ所蔵作品だ.

 エルミタージュ所蔵のグエルチーノの作品は少なくとも5点ある(聖母被昇天/聖カタリナの殉教/サモスのシビュラ/荒野のヒエロニュモス/聖クララの幻視)が,特別展で展示されていたグエルチーノ作品はボローニャ国立絵画館の3点(ゲッセマネの祈り/雀の聖母子/シビュラ)だけだったと記憶する.エルミタージュの常設の展示でもグエルチーノは観た記憶がない.エルミタージュHPの写真で見る限り,どれも傑作と思われるので,残念だ.

 エルミタージュ以外の美術館からは,カラヴァッジョ以外の作品では,ウフィッツィから1点(レーニ「瞑想のコルシーニ」),ボローニャ国立絵画館から8点(ベネデット・ジェンナーリ2世「グエルチーノの肖像」,レーニ「アリアドネ」/「シビュラ」,ドメニキーノ「舟のある風景」/「シビュラ」),グエルチーノの上記3点)が出品されていた.

 2008年1月にボローニャに行った時の写真を確認すると,今回の特別展に来ていたレーニの「アリアドネ」,グエルチーノの「雀の聖母子」,「シビュラ」,ドメニキーノの「舟のある風景」は,その時既に観ている.

写真:
グエルチーノ作
「雀の聖母子」
ボローニャ国立絵画館
(マホンのコレクションから)


 他に,エルミタージュ所蔵の「カラヴァッジョ周辺の画家」の作品として,「バッカス」と「聖ペテロの殉教」が見られたが,エルミタージュHPでも確認できないし,よく覚えていない.

 カラヴァッジョの影響を受けた画家たち,カラヴァッジェスキの中でも実力者である,ジョヴァンニ=バッティスタ・カラッチョーロ,通称イル・バッティステッロの作品も2点観られた.「ゴリアテの首を持つダヴィデ」(ボルゲーゼ美術館)と「キリストとカヤパ」(エルミタージュ美術館)だ.

 前者は2001年の庭園美術館の特別展と,2010年の西洋美術館のボルゲーゼ美術館展で日本に来ている.私たちは,ボルゲーゼ美術館に行った時も含め,4度目の出会いとなる.後者はフォン・ブリュール・コレクションから入手されたので,エカテリーナ2世の時代のことだ.後者の方が良い絵に思える.

 庭園美術館の特別展を観た時は,カラヴァッジョの作品は,カラヴァッジェスキの作品とは格段の違いの水準に思われた.図録を見ると,確かに,その時来ていたカラヴァッジェスキの作品は,それほどのレヴェルのものとは思えない.

 それでも,ジョヴァンニ・バリオーネが3点,オラツィオ・ジェンティレスキが1点,カルロ・サラチェーニが2点,オラツィオ・ボルジャンニが2点,イル・バッティステッロが2点,バルトロメオ・マンフレーディが2点,シモン・ブーエが1点,ニコラ・トゥルニエが1点と,今なら目を皿にして観るであろう(その上で失望するかも知れないが)画家の作品が来ていた.

 カラヴァッジョの真作とされる作品でも,相性の悪い絵も少なくない一方,カラヴァッジェスキに分類される画家や,一時的にでもカラヴァッジョの影響を受けた画家たちには,相当な実力者が大勢いて,その中には,巨匠よりも比較的長く生きて,カラヴァッジョの影響を脱し,独自の画風を確立して,美術史に燦然と輝くか,もしくは,知る人ぞ知る渋い光を放ち続ける芸術家も確実にいる.

写真:
ルーカ・ジョルダーノ
「ピエタ」(キリスト哀悼)
エルミタージュ美術館


 ルーカ・ジョルダーノの代表作を複数観て,彼がカラヴァッジョ風の絵を描いたことを想像するのは難しい.しかし,ナポリで1634年に生まれたこの画家が,フセペ(ホセ)・デ・リベーラのもとで画家の修業を始めたとすれば,カラヴァッジョの画風の影響を受けたとしても不思議はない.

 しかし,エルミタージュのHPの解説に拠れば,この作品は1670年代に描かれたもので,カラヴァッジョの死後60年が経ち,ルーカも30代後半から40歳になろうとする頃である.

 ルーカと言えば想い起こす装飾的で華やかな絵は,1680年代以後であることを考えると,あるいは師匠筋のリベーラの影響を脱して行く過程にある作品だろうか.聖母の衣の青と赤,マグダラのマリアの金髪が鮮やかに見え,やはりカラヴァッジョ風の絵とは一線を画していると思われる.


「グエルチーノからカラヴァッジョまで」
 エルミタージュの特別展のタイトルは「グエルチーノからカラヴァッジョまで」だったが,そこに名前の出てくるジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ,通称イル・グエルチーノは1591年の生まれで,1571年生まれのカラヴァッジョは,その時もう20歳,シモーネ・ペテルザーノの工房で画家の修業を始めて既に7年が過ぎようとしていた.

 この年にカラヴァッジョが何をしていたかはわからないが,翌年はローマに出る.世に知られる以前のことだが,天才の20歳だ.既に芸術家としての自己形成が相当できたいたはずだ.同じ年に,リベーラも生まれた.

 グエルチーノの最初期の作品(大鴉に養われるエリヤ/ペリシテ人に捕らわれるサムソン)は,カラヴァッジョ風だったとされる.にも関わらず,「グエルチーノからカラヴァッジョへ」とはどう言う意味なのだろうか.このタイトルの意味は,エルミタージュのHPを読んで理解した.

 エルミタージュHPにある,この特別展の紹介ページ(9月1日に会期が終了したので,いつまでアーカイヴに残っているかどうかわからないが,とりあえずリンクしておく)に拠れば,この特別展の副題は「サー・デニス・マホン※と17世紀イタリア芸術」とある.
(※Mahonの発音は,三省堂『固有名詞英語発音辞典』に拠ると,複数の可能性があり,日本語表記は難しいが,マーン,マフーン,メホウン,メイアン,マオンなどである.母音が日本語と違うので,「正しい」発音は表記できず,複数の可能性のうちどれかもわからないので,乱暴だが便宜的に「マホン」と表記する)

 マホンは裕福なアングロ・アイリッシュの家系にロンドンで生まれ,オックスフォード大学で修士となり,ケネス・クラークの部下としてアシュモーリアン博物館で働き,クラークの推薦で,美術史を専門の研究・教育機関,コートールド芸術学院を設立したニコラウス・ペヴスナーのもとで,その助言によってバロック美術を専門とするようになる.

 最初に彼が購入した作品がグエルチーノの「ヨセフを祝福するヤコブ」とのことだが,その後,イタリア美術の巨匠たちの作品を研究するため,スターリンが君臨していたロシアに旅行し,ロンドン・ナショナル・ギャラリーの無給の名誉館員となった.

 グエルチーノの「大鴉に養われるエリア」をバルベリーニ・コレクションから購入することをナショナル・ギャラリーに勧めたが,館長のクラークが評議員にバロック美術購入を説得できないとして,うまく行かず,自分のコレクションの一部として購入することにした.

 さらにナショナル・ギャラリーの評議員としてグイド・レーニの「牧人礼拝」,カラヴァッジョの「洗礼者ヨハネの首を受け取るサロメ」を購入させた.このように,彼の活動,研究はグエルチーノに始まり,カラヴァッジョなどイタリアのバロック芸術に中心を置き,そのためにロシアにも行っている.

 2001年に100歳で亡くなったマホンは1990年代に,彼のコレクション全作品を,ロンドン・ナショナル・ギャラリー他,連合王国内の美術館,博物館,ボローニャの国立絵画館,アイルランド・ナショナル・ギャラリーに無期限貸与した.今回の特別展のボローニャから来たグエルチーノの3作品は,マホンのコレクションにあったもののようだ.



 今,手許に,

 Ristampa del Catalogo Critico a Cura di Denis Mahon dei Depinti Esposti alla Mostra Guercino del Guercino a Bologna nel 1968, Bologna: Nuova Alfa Editoriale, 1991


と言う本がある.所属している学部の「論系」と言う名のコースの「論系室」の参考図書を借り出して来たものだ.イギリスのアマゾンに古書で出品されていたので,注文したが,まだ届いていないので,大学の本を参照させてもらっている.一部,画質の悪いカラー写真があるだけで,白黒写真が殆んどだが,参考に載せられている多くの写真を順番に見て行くと,グエルチーノの魅力に憑りつかれる.

 マホンは貴族(「準男爵」バロネットなので,厳密には「男爵」バロン以上の「貴族」に入らないかも知れないが,世襲される爵位)の子として生まれ,財産があったので,美術館が購入をためらった作品を自らのコレクションとするなど,現在の日本では考えにくいが,古き良き英国の上流階級のインテリのメリットをいかんなく発揮して,グエルチーノに始まり,現在は最高の評価を得ているカラヴァッジョに至る17世紀イタリアのバロック芸術を世間に再評価させる原動力となった.

 美術史を専門にしている人は誰でも知っている偉大な研究者,批評家,コレクターなのであろうが,私は不明にもこの人に関して全く知らなかった.名前の発音すら,苦し紛れに「マホン」などと多分英語ではあり得ない表記にしてしまうほどだ.

 たまたま見ることができたこの特別展のおかげで,カラヴァッジョの未見の作品を観ることができただけではなく,グエルチーノが育ったボローニャ周辺の画家たちが17世紀のイタリアの芸術に果たした大きな貢献に思いを致すことができた.


カラヴァッジョの影響を受けたイタリアの画家
 今回,非常に残念なだったのは,エルミタージュが所蔵しているグエルチーノの作品を全く見ることができなかったことだ(プーシキンでは3点観た).

写真:
グエルチーノ作
「殉教者ペテロの殺害」
プーシキン美術館


 グイド・レーニに関しても,エルミタージュ所蔵作品5点のうち観られたのは,特別展に出品されていた2点のみだ.

 この内,「聖母の教育」(クロザ・コレクション)は女性たちの群像になっており,レーニに特徴的な「可愛い」女性たちが描かれているが,向かって右端の女性は,ドーリア・パンフィーリ宮殿のカラヴァッジョ作品「悔悟するマグダラのマリア」(「エジプト逃避途上の休息」の聖母も同じモデルだろう)に似ているように思える.

 制作年代で見るとカラヴァッジョの2作品は1596年から97年,レーニの「聖母の教育」は1640年以後の作品で,同じモデルはあり得ないが,1575年生まれのレーニは,カラヴァッジョよりも僅かだが年下で,一時はその影響も受けている.レーニの死は1642年なので,エルミタージュの「聖母の教育」は最晩年の作品と言うことになる.

 ウフィッツィとルーヴルにある「ゴリアテの首を持つダヴィデ」(1605年頃))にも明らかなように,レーニもまた背景の暗い,「カラヴァッジョ風」に見える絵を描いた時期があったようだ.

 プーシキン美術館で観た「ヨセフとポティファルの妻」は,『旧約聖書』に物語られた話(「創世記」39章)で,制作が1631年頃であれば,1610年のカラヴァッジョの死後20年が経過している.劇的で背景が暗いので,何かしら「カラヴァッジョ風」を思わせるが,明暗の対照が柔らかに思え,カラヴァッジョとは全く違う雰囲気を湛えている.

 プーシキン美術館では他に,「聖ヴェロニカ」,「三王礼拝」の2点のレーニの作品を観た.いずれも佳品だが,こちらはカラヴァッジョ風ではない.

写真:
グイド・レーニ作
「ヨセフとポティファルの妻」
(部分)
プーシキン美術館


 「ヨセフとポティファルの妻」は聖書に題材を取っていながら,女性の寝室で展開される物語という官能的な要素を持っていて,教会ではなく,個人の邸宅の一室に飾られたのではないかと思うが,それにしてはあちこちで,この主題の絵を観たような気がしていた.

 しかし,私の記憶にある作品で,ウェブ・ギャラリーオヴ・アートにあるのは,チーゴリの作品(ボルゲーゼ美術館,1610年)だけだ.ボルゲーゼのカラヴァッジョ作品が置かれた部屋に曝しもののように置かれていて,トスカーナでは実力者のチーゴリにしてはゆるい絵だが,背景は暗く,「カラヴァッジョ風」を意識したのかも知れない.

 見たことはないが,オラツィオ・ジェンティレスキの「ヨセフとポティファルの妻」(ウィンザー,王室コレクション,1626-30年頃)は,迫力のある絵で,ポティファルの妻の怨念を湛えた表情が見事だ.ヨセフは洗練された宮廷人のように描かれ,対照的だ.カラヴァッジョほどの明暗の対照は見られないが,やはり背景は暗い.

写真:
オラツィオ・ジェンティレスキ
「アモルとプシュケ」
エルミタージュ美術館


 それに比べれば,エルミタージュの「アモルとプシュケ」は,「ヨセフとポティファルの妻」と同じ頃描かれた作品のようだが,はっきりとして明暗の対照があり,より「カラヴァッジョ風」だろう.上手な絵だが,カラヴァッジョに見られるような緊迫感に乏しい.

 画家としては,娘のアルテミジアの方が偉大かも知れないが,オラツィオも間違いなく実力者だ.彼の絵は,「カラヴァッジョ風」だけではなく,色鮮やかな作品も少なくない.「カラヴァッジェスキ」の1人かも知れないが,彼はそれに終始する画家ではなかった.1563年の生まれなので,カラヴァッジョより8歳年長だ.


カラヴァッジョの影響を受けたスペインの画家
 スペイン出身の画家たちもカラヴァッジョの影響を受けた.伊語版ウィキペディア「カラヴァッジェスキ」は,スペインでカラヴァッジョの影響を受けた画家として,スルバラン,ムリーリョ,ベラスケスの名前を挙げている.これでは,当時のスペインの偉大な画家の名前を挙げただけに見えるが,それだけ,カラヴァッジョの影響は大きかったということだろう.

 一方,フセペ(ホセ)・リベーラの名前は,ナポリでカラヴァッジョの影響を受けた画家として,バッティステッロ・カラッチョーロと一緒に挙げられている.

 彼は,現在はスペイン王国に属するバレンシア近郊の町ハティバ(バレンシア語では,ヴァレンシア近郊のシャティヴァ)で生まれた.ナポリに君臨していたのが,スペイン国王(カスティージャ,アラゴン,バレンシアなどの同君連合の王)から派遣された副王で,言って見れば,イタリア最大の領域国家ナポリ王国はスペインの支配を受けていた.

 1591年生まれの彼の最初の師匠フランシスコ・リバルタは,カラヴァッジョより年長だったが,マニエリスト的画風からカラヴァッジョ風の絵を描くようになった人物であり,リベーラには最初からカラヴァッジョの影響があったであろう.

 イタリアに渡り,1611年にはパルマ,翌年にはローマにいて,ローマでは,ユトレヒト出身でカラヴァッジョの影響を受けた,ヘリット(ヘラルト)・ファン・ホントホルストヘンドリック・テル・ブルッヘンなどと親交があったとされる.

 後者はカラヴァッジョ在世中にローマにいた唯一のオランダ人画家とされており,前者はゲラルド・デッラ・ノッテ(夜のゲラルド)というイタリア語の通称があるほど,イタリアでも活躍したので,あるいは,その影響は大きかったかも知れない.

写真:
フセペ(ホセ)・リベーラ作
「聖ヒエロニュモス」
エルミタージュ美術館


 3月にローマのドーリア・パンフィーリ宮殿で彼の「聖ヒエロニュモス」を観て,印象に残ったが,こちらが1637年の作品であれば,エルミタージュの作品は1626年とされているので,より古い作品だ.ナポリのカポディモンテ美術館にやはりヒエロニュモスのがあり,彼の好きな画題だったか,注文主が彼の描くヒエロニュモスを観たいと思わせるような題材だったと思われる.

 3作とも,天使が聖人にインスピレーションを与えるラッパが描かれているが,聖書の翻訳原稿,髑髏,ライオンと言うこの聖人のアトリビュートが3つとも描かれているのはエルミタージュの作品だけだ.それでも,枢機卿の赤いつば広帽子は描かれていない.

 プーシキン美術館でグエルチーノの同主題作品を観ているが,ライオンはいないように見える.

 エルミタージュには,激動期のスペインの首相として有名なマヌエル・デ・ゴドイのコレクションから購入されたとある.1820年であれば,1851年まで生きるゴドイは失脚,亡命して財政的困難を蒙っていたのであろう.所有者のドラマも,この地味な聖人の絵の背後にはある.

 リベーラの作品は,エルミタージュには6点あるが,このうち4点は確実に観ている.



 貧窮のうちに亡くなったらしいが,最後までナポリで活躍したリベーラではなく,「スペインのカラヴァッジョ」と称されることもあるのは,フランシスコ・デ・スルバランである.

 エルミタージュにはスルバランの作品が3点あり,「子供時代の聖母」はマリアが可愛くて,心打たれる小品であり,美少年ではない「聖ラウレンティウス」も傑作だ.プーシキンでも彼の作品を観ることができた.しかしカラヴァッジョ風の作品はなかった.

 ムリーリョの作品はエルミタージュHPの作者検索で17点ヒットするが,全部は観ていない,多少ともカラヴァッジョ風なのは「牧人礼拝」と「聖ペテロの後悔」であろうか.しかし,どちらも観た覚えがない上に,写真で見る限り,どちらもムリーリョの作品とは思えない.写真で見て,良い作品と思われるのは「キリスト磔刑」と「無原罪の御宿り」で,どちらもウォールポール・コレクションにあったようだ.いずれも観た記憶がないし,もう1点の「無原罪の御宿り」も観ていない.

 観ることができて,なおかつ印象に残ったものとしては「パドヴァの聖アントニウスの幻視」,「犬と一緒の少年」,「聖ヤコブの梯子の夢」(「創世記」28章12節)であろうか.前2者は,それぞれセビリアの大聖堂,ルーヴル美術館で観た作品を連想させる.最後の作品は,この題材の絵を初めて見たし,美しい絵だと思う.「天使に解放される聖ペテロ」も遠目には美しく,印象に残る作品だった.「イサクを祝福するヤコブ」もまずまずかなと思った.



 アロンソ・カーノをカラヴァッジェスキに分類するのを聞いたことがなかった.西語版ウィキペディアに若干の言及があり,そこから推測するに,パチェーコ門下の先輩ベラスケスの影響も受けつつ,カラヴァッジョ風から別の展開を模索した若い時代があったということだろうか.下の写真は見るからに,カラヴァッジョ風であり,エルミタージュHPに拠れば1640年,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに拠れば,1630年代の後半の作品で,彼がマドリッドに出て,転機を迎えるのが1638年と言うことなので,まだカラヴァッジョ風のテネブリズム(暗闇を用いた明暗法)から脱皮して行く境目の時期の作品ということになろうか.

写真:
アロンソ・カーノ作
「キリスト磔刑」
エルミタージュ美術館


 カーノの作品はあまり見ていないが,ルーブルで観た聖人たち(大ヤコブ福音史家ヨハネ)は傑作だと思ったし,今後も作品をできるだけ見て行きたい.この磔刑と雰囲気の似た作品を以前観ている.オビエドのアストゥリアス美術館のスルバラン「十字架の上の死せるキリスト」だ.

 しかし,オビエドのスルバラン作品は両足別々釘2本型,エルミタージュのカーノ作品は両足交差釘1本型だ.



 マッティア・プレーティもカラヴァッジェスキの1人として評価されながら,後にはその影響を脱して行く.

 カラヴァッジョがたどりついて,念願の騎士身分となりながら,問題を起こして去って行かざるを得なかったマルタ島のヴァレッタで,カラヴァッジョの死から51年後に成功を収め,「カラブリアの騎士」と称された画家だ.

写真:
マッティア・プレーティ作
「合奏」(部分)
エルミタージュ美術館
クロザ・コレクションから


 上の写真の作品は1630年の作品とのことで,カラヴァッジョの死後20年,まだカラヴァッジョ風の絵には需要があったのだろう.1613年に生まれたプレーティは,この時17歳だったことになる.17歳の少年が描いた絵とは信じ難いが,エルミタージュHPもウェブ・ギャラリー・オヴ・アートも1630年の作品としている.

 はっきりと師匠はバッティステッロ・カラッチョーロだとする人もいる(英語版ウィキペディア「カラッチョーロ」)ようだが,その場合,カラブリアの片田舎タヴェルナで生まれたマッティアは,どこで,バッティステッロの教えを受けたのだろうか.

 ナポリ生まれで,地元でカラヴァッジョの影響を受けたバッティステッロは,ジェノヴァ,フィレンツェ,ローマに出て,1622年頃から再びナポリで活躍する.22年にはマッティアは9歳,1635年にバッティステッロが亡くなった時点でマッティアは22歳,9歳から22歳までの間にナポリにいた時期があるならば,バッティステッロの教えを受けている可能性はあったことになる.

 一方で,マッティアは1630年からローマで活躍したとされる.まだ十代の彼が,ここでカラヴァッジェスキの先人たちの影響を受けたと言うなら,まだしも,エルミタージュ所蔵の「合奏」を描いたということは,その時点で既に立派なカラヴァジェッスコ(単数形.英語ではカラヴァッジストと言う語が造語されているようだ)だったことになる.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにはもう1点「合奏」(マドリッド,ティッセン・ボルネミサ美術館)が紹介されていて,1630年代の作品と推定されている.エルミタージュの作品の方がよりカラヴァッジョ風だが,よく似ている.

 ティッセンの作品は,1999年にナポリで行われた特別展の図録,

 Silivia Cassani / Maria Sapio, eds., Mattia Preti tra Roma, Napoli e Malta, Napoli: Electa, 2003


にも収録されている.多分,推定制作年代順に並んでいるのだと思うが,この作品は最初に掲載されている.30年代にローマで描かれた初期作品とされているだけで,具体的に何年に描かれたかは説明されていない.

 驚くべきことに,どの作品に関しても,具体的な制作年代は示されておらず,と言うことは,これだけ多くの作品が現存し,カラブリアで生まれ,ローマ,ナポリ,マルタで活躍したことがわかっている画家の個々の作品が,いつどこで描かれた実は,不明であると言う,「謎の画家」であるということになる.

 ただ,伊語版ウィキペディアには,制作年代を大体推測した,年代別作品一覧がある.1630年以後のローマ時代,1653年以降のナポリ時代,1661年以後のマルタ時代を目安にしたものであろう.

 ローマのサンタンドレーア・デッラ・ヴァッレ聖堂で見られる,マッティアの「聖アンデレの殉教」その他の大きな祭壇画は,全く「カラヴァッジョ風」ではない.マッティアの長い経歴の中で,徐々にカラヴァッジョの影響を脱して,独自の画風を確立して以後の作品とずっと思っていたが,彼のローマ在住時代は,40歳でナポリに活躍の場を移すまでのことで,彼はそれ以後もテネブリズムの絵も描いている.

 彼のように,多くの注文を受けた画家には,固定した世評もあり,それを念頭に注文主の要求もあるのであろうから,芸術家の自己主張だけで,絵が描かれたわけではないだろう.マッティアはレオナルドでもミケランジェロでもカラヴァッジョでもなかったのだ.

 彼の地元には,フィレンツェ出身のジョヴァンニ・バルドゥッチ(私たちは短期間,この人のフレスコ画のあるジェズ・ペッレグリーノ祈祷堂の近くに住んでいたことがあった)など,マニエリスムの芸術家たちの影響があったとする考えもある(伊語版ウィキペディア).

 他にジョヴァン・ベルナルディーノ・アッツォリーノファブリツィオ・サンタフェーデの名も挙がるが,これらについては,何か根拠があるのであろうが,判断する材料が足りない.何の理由もなく,一見関係のない画家たちの名が挙がることはないだろうから,記憶のどこかにとどめて置きたい.いずれもナポリで亡くなっているので,やはり,ポイントはナポリであろうと想像する.

 文脈上,関係無いが,ジョヴァンニ・バルドゥッチの作品は,「洗礼者ヨハネの誕生」と「三王礼拝」をプーシキン美術館で観ることができた.いずれも小品だが,美しい作品だ.

 2度目かも知れない1653年以降のナポリ時代には,20歳以上年下の,ルーカ・ジョルダーノの影響も指摘されている.孤高不羈の天才カラヴァッジョと違い,マッティアは柔軟な能才画家として,長い人生を生き抜いたことになる.

 彼が86歳で,マルタ島ヴァレッタでその生涯を終えた1699年は,既にカラヴァッジョの死後89年が過ぎ,大天才も既に遠い過去の人となっていたであろう.


カラヴァッジョの影響を受けたオランダの画家
 冒頭に写真を掲げたホントホルストの作品はエルミタージュHP作家別検索では4点ヒットする.このうち2点はしっかり観て,写真も撮ったが,他の2点は観ていない(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには「ゲッセマネの祈り」以外の3点が掲載).

 ホントホルストの絵は,実はウフィッツィで見られるが,記憶にない.

 NHKのBSで,カラヴァッジョの「キリスト捕縛」がダブリンで発見された番組を見た時,その作品は途中からホントホルストの作品とされていたと説明されており,そこで彼の名を知った.カラヴァッジョの真作として伝わった作品が,ある時代により評価が高かったかも知れないホントホルストの名に差し替えられていた.現在では考えられないことだが,ホントホルストの名は記憶に残った.

 3月にローマに行ったとき,サンタ・マリーア・インマコラータ・コンチェツィオーネ教会(通称「骸骨寺」)で,グイド・レーニの「大天使ミカエル」を観ることができたが.同じ堂内にはホントホルストの「キリスト嘲弄」があることを,事前に知った.工事中で,他のランフランコ,ドメニキーノは観られなかったが,ホントホルストは観ることができた.

 今回プーシキンでも,「男女の羊飼い」を観ているが,エルミタージュの「大工のヨセフと少年イエス」,「ゲッセマネの祈り」が優れた作品に思われた.入手の経緯については,それぞれ1925年と1859年にエルミタージュに入った以上の情報はない.制作年代はどちらも1620年前後であり,カラヴァッジョの死後10年くらいで描かれた.

 ホントホルスト,テル・ブルッヘンはオランダに帰って,カラヴァッジョの影響を北方に伝えたが,同じくオランダ出身のカラヴァッジェスコ(カラヴァッジスト)マティアス・ストーメルはイタリアで活躍して,おそらくシチリア島で亡くなったと推測されている.この人の作品も1点エルミタージュで観ることができた.旧約聖書に題材を取った,この「エサウとヤコブ」は,私は傑作だと思う.

 エルミタージュHPによれば,ペトログラード(当時,ドイツと戦争していたので,名前がゲルマン語風を廃して,ロシア語風になっているがサンクトペテルブルクのこと)の別のコレクションから1915年にエルミタージュに入ったものらしい.革命直前の,第1次世界大戦中のことだ.

 オランダを手本に,ヨーロッパの一員となる国造りを目指し,この都市を築いたピョートル1世以来,オランダへの志向はこの町にあったということかも知れない.同ページで,ストーメルの作品があと2点ヒットするが,観た記憶がない.

 カラヴァッジェスキは奥が深いが,グエルチーノ,ランフランコ,レーニなどのボローニャ派も,ローマ,ナポリに大きな足跡を残しており,今回,偶然見ることができたエルミタージュの特別展は勉強になった.何よりも,20世紀のイギリス人が,それらの研究をしっかりして,再評価の契機をつくったことは感動的だ.

 今週は,ゼミ合宿で河口湖に行くし,次回は,ちょっと間を置くかも知れないが,少し勉強して,サンクトペテルブルクの街中とその周辺の建築を中心に整理して,考えをまとめてみたい.






ピョートル大帝の夏の宮殿
ペテルゴーフにて