フィレンツェだより番外篇
2013年9月25日



 




フォンタンカ川に架かる ロモノーソフ橋
サンクトペテルブルク



§ロシアの旅 - その7 サンクトペテルブルクの建築

「サンクトペテルブルク」という名称は,「ドイツ語」とよく言われるが,もしドイツ語なら,ザンクト・ペータースブルクになるように思われ,疑問を感じていた.


 現地ガイドのアンナさんが仰っていた,ピョートル1世がオランダで多くのことを学び,それを手本に街づくりを考えたので,オランダ語から命名したのだと言う話は,説得力があった.

 しかし,オランダ語では,「聖なる」(英語のセイント,ドイツ語のザンクト,フランス語のサン,イタリア語のサン,スペイン語のサンは,全てラテン語サンクトゥスが語源で,ギリシア語ではヒエロスかハギオス)は,シントになる.

 サンタクロースの語源とされるシンタークラースは「聖ニコラウス」(シント・ニコラース)から来ていることは知識として知っていたので,オランダ語説も,よく考えると疑問に思える.

 しかし,今どきは便利なもので,日本語のウィキペディアで,「サンクトペテルブルク」を参照すると,おそらくロシア語力に自信がある人が書いたのであろうが,ロシア語の原音に近いカタカナ表記から,「ドイツ語風」名称の経緯(「オランダ語風」→「ドイツ語風」)まで,きちんと説明されていた.

 私は,オランダ語もロシア語も勉強したことがないので,納得しながら,参考にさせてもらうのみだ.インターネットの情報は,自己責任で取捨選択が必要であることは言うまでもないが,日進月歩で,あっという間に,日本語のウィキペディア等も,貴重な情報源となった.

 けれども,「サンクトペテルブルク」に関する日本語ウィキペディアは,建築に関しては十全ではなく,ここからだけの情報では,街並や建築様式について学ぶことは,今の所できない.これも時間の問題だとは思うが,今すぐ知りたいので,参考書と欧文のウェブページを参照する.

 リシャット・ムラギルディン,高橋純平(訳)『ロシア建築案内』TOTO出版,2002(以下,『建築案内』)
 小町文雄『サンクト・ペテルブルグ』中公新書,2006(以下,小町)
 大石雅彦『聖ぺテルベルク』水声社,1996(以下,大石)

は,サンクトペテルブルク(一応,日本語ウィキペディアの説明を参照すると,原音とは違うが,この表記で問題はないようなので,ずっとこれで通す)の文化とその街並に関して勉強する際の日本語文献としては必須だろう.


イサク大聖堂
 イサク大聖堂(「寺院」と言う呼称は慣例のようだが,ここでは使わないこととする.日本語ウィキペディアは「聖イサアク大聖堂」で,以下本稿では「イサク大聖堂」とする)は,サンクトペテルブルクの新古典主義を代表する建築とされる.

 基本的に建築に関しては,それが教会であればなお,より古いものを観たいと言う気持ちになるが,サンクトペテルブルクの場合は,何分,街そのものが新しいので,古代,ロマネスク,ゴシックの建築は求める術もない.

 それだけに,新しい建築様式に対して,全力を注ぎ,大金も投入し,才能のある建築家の発掘にも懸命だったであろう.皇帝アレクサンドル1世が,前時代の建築様式に対して,新たな潮流を求め,この聖堂の建築家として指名したのは,フランス出身のオギュスト・ド・モンフェランであった.

 1812年にナポレオンが率いるフランス軍は,ロシアに侵入したが,敗北して撤退し,彼は1814年に退位してエルバ島に移される.その後,ナポレオンは復位したが,1815年のワーテルローの戦いに敗れ,セント=ヘレナ島に流刑となって完全に失脚した.

 戦勝国の皇帝であったアレクサンドル1世が,イタリア人の建築家(アントーニオ・リナルディヴィンチェンツォ・ブレンナ)によって完成していた聖イサク聖堂を建て替えるのに,フランス人の建築家を起用したのがおもしろい.

写真:
イサク大聖堂


 1818年の着工時に,まだ32歳の若さで,モンフェランがその幸運をつかめたのは,ロシアで重んじられていたスペイン出身の傑出した土木技術者アグスティン・デ・ベタンクール(「ベタンクール」のみフランス語式の読み方だが,カナリア島出身のスペイン人だから,スペイン語式の読み方があるはずだが,ベタンコウルトと読むのかどうかは自信がないので,「ベタンクール」にしておく)の推薦があったようで,それまでにベタンクールと一緒に仕事をして,その才能を評価されていたのであろう.

 モンフェランは,この後,この聖イサク聖堂に一生を捧げたと言っても過言ではない働きをし,40年後の1858年に完成させた.彼の目立つ業績としては,他には,エルミタージュ美術館と旧・参謀本部の間の間に立つ巨大な「アレクサンドルの円柱」くらいだ.

 金色のクーポラ(「丸屋根」はロシア語ではクーポルと言うらしいので,以後はクーポルと称する)も人目を引くが,イサク大聖堂のファサードで印象に残るのは,何と言ってもギリシア神殿風の切妻三角破風(ペディメント)と,それを支える列柱のコリント式柱頭であろう.

 現在に残るサンクトペテルブルグの諸建築との関連からは,キリスト教会でありながら,あえてギリシア神殿風の外観を採用した新古典主義の流行だと思われる.

 東西南北,それぞれのファサードにペディメントがあり,上の写真は南面で,そこに施された浮彫彫刻は聖母子を中心としているように思われる.西面の三角破風には聖イサクが,ローマ皇帝テオドシウスとその妻アエリア・フラッキッラに洗礼を施すダルマティアの聖イサクの高浮彫の彫刻が施されている.



 ダルマティアの聖イサクは4世紀の修道士で,ダルマティア(現在のクロアティア南部のアドリア海沿岸地域)に修道院を創建したことにより「ダルマティアの」と称されるが,シリア出身とされることもあって,本当はどこで生まれたかは不明だ.迫害にあっても信仰を守り通した「証聖者」に分類される聖人である.

 すでにキリスト教が公認されている時代であるが,皇帝ウァレンスアリウス派を支持して,325年のニカイアの公会議で正統とされたアタナシウス派を迫害した時,これを批判したイサクを投獄し,処刑しようとした.しかし,ウァレンスは有名なアドリアノープルの戦いでゴート人に敗れて戦死し,その後継者であるテオドシウスはイサクを解放し,アリウス派を非合法化した.

 この経過が,イサクを「証聖者」とする根拠と思われる.同じキリスト教であっても,「異端」とされるアリウス派の迫害から,「正統」であるアタナシウス派の信仰を守った聖人ということになるだろう.

 テオドシウスとキリスト教聖人と言うと,ミラノの大聖堂(ドゥオーモ)で観たフェデリコ・バロッチの「テオドシウスに悔悛を強いるアンブロシウス」(大聖堂の扉に皇帝テオドシウスを迎える聖アンブロシウス)を想い起こす.テッサロニケで大虐殺を行った皇帝に,ダヴィデの故事を引いて,破門の可能性を示しながら,悔悛を迫るというものだ.

 ヴァン・ダイクも同様の絵を描いているようなので,ローマ皇帝に対して司教が優位に立つという,バロック時代に好まれた画題なのかも知れない.いずれにしても,西方教会の聖人アンブロシウスと聖イサクは同じ時代の宗教者と言うことになる.

 この聖人は,ピョートル1世によって,ロマノフ王朝の守護聖人とされ,したがって,大聖堂の建設もそこまで遡るが,現在の建物は,上述のように,アレクサンドル1世の命令でモンフェランによって設計,建造されたものである.



 今回の旅行で拝観した教会は,ニコライ大聖堂以外は,全て博物館になっていて,クレムリンの中のウスペンスキー聖堂の他は,写真撮影可だったが,そもそも拝観した教会の数が少ない.その中で,外観も堂内も新しいが,イサク大聖堂は目を魅くものも少なくなかった.

 日本語では「聖障」と訳され,ギリシア語でエイコノスタシオン,ロシア語ではイコノスタス,英語の発音をそれに最も近くカタカナ表記すればアイコノスタシスになるであろうが,慣例に従い,以下イコノスタシスと言うことにすると,下の写真は,聖イサク大聖堂の至聖所とその他の堂内を区切る障壁としてのイコノスタシスである.

写真:
イコノスタシス(イコノスタス)
イサク大聖堂


 絵は新しいモザイクだし,コリント式柱頭を持つ飾り柱が見られるので,近代のものであるのは見た目にも明らかだが,最下段の真ん中に至聖所に入る門があり,その向かって右には「全能のキリスト」(パントクラトル),左側には「神の母」(テオトコス)としてのマリアが描かれ,それぞれの両脇の聖人たちは,守護聖人,教会が献堂された日が記念日となる聖人,洗礼者ヨハネ,聖ニコラウスなどが描かれている.

 全能のキリストの向かって右隣りの聖人は,この聖堂の完成した姿が描かれた布を持っているので,この教会の名称のもとの聖人であり,同時に教会が献堂された日を記念日とする聖人であり,ロマノフ王朝の守護聖人である聖イサクと思われる.

 イサクは,東方正教会だけではなく,ローマ・カトリックでも聖人とされるが,イタリアでは,この聖人を表した絵画,彫刻などを観た記憶がない. 

 今回,ロシア美術館,プーシキン美術館,トレチャコフ美術館で,相当数のイコンを観たが,作品のプレートを撮影したり,メモに取ったりすることが十分できなかったのではっきりしたことは言えないものの,今の所,他にイサクとはっきり確認できるものはない.これが今回観られた唯一のイサクである可能性は高い.

 イコノスタシスに並べられたイコンの列をデイシスと言うようだ.古典ギリシア語で「祈り,嘆願」を意味するデエーシス(δέησις)が語源のようで,厳密には違うのだが,現代ギリシア語風のデイシスという呼称を使うことにする.

 ロシア美術館やトレチャコフ美術館で観ることができた多くのイコンのキリスト,聖母,聖人像もこのデイシスの一部として,かつては正教の教会を飾っていたものと思われる.

 通常,最下段の列の上の列の中央には,「玉座のキリスト」,向かって左に聖母(ロシア正教に正式な日本語訳は「生神女」),左には洗礼者ヨハネ,その両脇には大天使ミカエルとガブリエル,聖ペテロとパウロ,さらにスペースがあれば,その他の聖人イコンが置かれる.

 聖イサク大聖堂のイコノスタシスではイコンの代わりに門の上には,玉座のキリスト,聖母,洗礼者,天使たちの彩色木彫が飾られており,これは,古い正教の教会ではおそらく考えられなかったことだろう.

 これらの列の中間に,正教の十二大祝祭などの,典礼上重要な出来事(聖母の誕生,受胎告知,神殿奉献,キリスト昇天,聖母の死,など)が描かれ,下から第4列には,旧約聖書の預言者や族長たちのイコンが置かれ,その中心には,金色の輪の中の嬰児キリストが胸の位置にいる,オランス(祈り)の姿勢の聖母(「徴の聖母」と訳すべきか,英語ではOur Lady of Sign,ギリシア語では「全て聖なる」という意味のパナギアーと言うようだ).

 パナギアーの図像に関しては,英語版ウィキペディアに紹介されている美しいイコンをトレチャコフ美術館で観ている.正教独特の図像と思われる.

 さらに上の列に十二使徒が描かれ,中心には「再臨のキリスト」や「三位一体」のイコンが置かれ,場合によっては,「最後の晩餐」(神秘の食事)が描かれていることも珍しくないとされる.



 イサク大聖堂のイコノスタシスでは,「玉座のキリスト」の上部に「最後の晩餐」が描かれている.イコンの「最後の晩餐」が通常,どのように描かれるか整理しきれていないが,少なくともこの「最後の晩餐」は,通常私たちがイコンにイメージする絵柄より,ずっと西欧絵画に近いように思われる.

 そもそも,イサク大聖堂のイコノスタシスの描かれた絵は,全体的にイコンよりも西欧絵画にイメージに近い.それだけ時代的に新しく,西欧絵画の影響を受けているということなのだと思う.

 現在は博物館で,入場料を払って拝観したモスクワの「ワシリー寺院」(日本語版ウィキペディアは「聖ワシリイ大聖堂」なので,以後「ワシリー大聖堂」とする)では,複数のイコノスタシスを観ることができたし,写真が撮れない諸教会を拝観した際にもイコノスタシスを見ることができたので,可能なら,比較を試みたいが,今は話を先に進める.

写真:
クーポル
イサク大聖堂


 西欧の芸術の影響が最も顕著なのは,イサク大聖堂のクーポルの天井画であろう.これを担当した芸術家はカルル・パヴロヴィッチ・ブリュロフである.ロシア絵画の歴史に新時代を拓いた画家として知られ,私たちはロシア絵画館で,思いっ切り西欧新古典主義風の「ポンペイ最後の日」を観ている.

 ブリュロフは,本来ブリュローという家名のフランス系(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにはドイツ系とある)の芸術家一族に生まれた.父も木彫,版画で活躍し,兄は建築,絵画に秀でた芸術家アレクサンドル・パヴロヴィッチ・ブリュロフであった.バスの窓から垣間見ただけだが,アレクサンドル・ネフスキー大通りの,双塔形式で印象に残るルター派の,聖ペテロとパウロ教会は,アレクサンドルの設計とのことだ.

 1838年の作品である「キリスト磔刑」をロシア美術館で,1841年に描かれた「馬に乗る女性」をトレチャコフ美術館観ることができ,それぞれ印象に残る作品だが,ウェブ上の写真では肖像画が多い.

 イサク大聖堂の天井画は彼の晩年の作品で,この仕事で彼は健康を損ね,最後の3年間をローマ近郊の村マンツィアーナで過ごし,イタリアで亡くなった.

 何かしらロシア的な特徴もあるかも知れないし,美しい絵で魅力的だが,これについて何かを心に残すためには,「ポンペイ最後の日を」をロシア美術館で観た画家の晩年の労作であるという知識があることが必要だったかも知れない.逆に,「ポンペイ最後の日」を記憶に留め続けるためには,聖イサク聖堂の天井画の作者が描いた絵だと知っていることが必須であるかも知れない.


血の上の救世主教会
 「血の上の救世主教会」は,農奴解放を実現しながら,テロで爆殺された皇帝アレクサンドル2世の被災現場に建てられた.

 初見の印象は,モスクワのワシリー大聖堂の外観に似ているように思われ,西欧都市を意識したサンクトペテルブルクとしては異色の建造物と言えるが,ワシリー大聖堂とは全く異なる新しい建造物だ.

写真:
血の上の救世主教会
左手にクリボエドフ運河


 正式名称は「キリストの復活大聖堂」(日本語ウィキペディアは「ハリストス復活大聖堂」)で,設計した建築家はアルフレッド・アレクサンドロヴィチ・パルランド,日本語版ウィキペディアには「彼の名前はロシアにおいてもほとんど知られていない」とある.

 しかし,英語版ウィキペディアにまずまず詳細な説明があった.彼はサンクトペテルブルク生まれだが,パーランドと言う姓のイングランド出身の家系に生まれ,英国国教徒であるとのことだ.同じキリスト教とは言え,他宗派の信者である建築家が,思いっきりロシア正教を思わせる教会を設計した点は面白い.

 それにしても,ロシアの芸術についてごく初歩的な学習をしただけで,ロシア国外からの移住者の血を引いている芸術家がいかに多いかに驚かされる.ロシア芸術の歴史は要約すれば,ロシア的な要素と,西欧的な要素の葛藤であり,基本は西欧を志向しているが,まぎれもなくロシア的な特徴が根強く残る.

 英語版ウィキペディアで見る限り,パルランドは幾つかの大きな仕事を成し遂げ,名誉ある地位も得たが,革命後の1919年サンクトペテルブルクで亡くなり,ヴァシレフスキー島のスモレンスキー墓地に葬られた.「ロシアの」とまで言えるかどうかわからないが,間違いなく「サンクトぺテブルクの」芸術家である.何と言っても彼が設計したロシア正教の教会は,サンクトペテルブルク観光の大きな目玉の一つとなっているのだから.

 堂内は拝観していないが,小町は,教会の設計者の名前は挙げていないけれど,堂内も詳細に描写した上で,モザイクの下絵を担当した3人の芸術家ヴィクトル・ヴァスネツォーフ,アンドレイ・リャープシキン,ミハイル・ネーステロフを称賛しており,この教会を「稀有の文化財」(p.168),「ぜったいに見逃すわけにいかない名所」(p.162)と言っている.

 今回は,それほど魅力は感じなかったが,ともかく目を惹く.周辺にも,ロシアの伝統を唐突に思い出したように建てられたような新しい建物もあって,そちらも気になったが,情報は今の所無い.


ニコライ大聖堂
 基本的にサンクトペテルブルクで見られる教会は新しい建物が多い.町自体が18世紀になって,大帝の意思で人工的に建設されたので当然のことだが,外観が新しいだけに,遠目にも美しく,全体として新古典主義的街並と良く調和している.

 イタリアでは,わざわざ新しい教会を拝観してみようかという気にはならないが,ここには「新しい」教会しかないので,選択肢はない.今回,教会を拝観する予定は全く無かったのだが,現地ガイドさんが,余裕のできた時間を利用して,地元のロシア人がお祈りに行く「現役の」教会を是非案内したいと思われたらしく,ニコライ大聖堂を拝観することができた.

 男性は脱帽,女性はスカーフのような被り物をして入堂する必要があり,私語と撮影は厳禁であった.ロシア海軍に縁の深い教会で,日露戦争の日本海海戦の戦死者たちを追悼する記念柱としてオベリスクが堂外に建てられているということで,あるいは日本人が拝観するのはあまり歓迎されることではなかったかも知れない.

写真:
ニコライ大聖堂


 この教会を紹介した日本語参考書は,今のところ見当たらないが,英語版ウィキペディアに立項されており,簡潔にまとめられている.掲載写真の選択も良いウィキメディア・コモンズへのリンクによって,相当数の写真が見られる.

 果たして,カタカナ表記して原音に近いかどうか自信がないが,サッヴァ・イヴァノヴィッチ・チェヴァキンスキーという建築家の設計による,バロック様式の正教会建築を代表するものとのことだ.

 もちろん,この建築家のことは何も知らないが,英語版ウィキペディアによると,ツァールスコエセローでも仕事をし,クンストカーメラの再建に関わり,現在も残っている複数の貴族の邸宅を設計した時代を代表する建築家のようだ.その最大の業績はこのニコライ大聖堂とされている.



 『建築案内』では,同じくバロック様式の宗教建築として,スモーリヌィ修道院を取り上げていて,こちらは,比較的多くの案内書でも紹介されている.

 コリント式の柱頭を持つ列柱と楕円型の採光窓に特徴があるようで,ニコライ大聖堂もその点は共通している.「エリザヴェータ・バロック様式」という用語があるようだ.写真で見ると,青い壁面の使用など,全体の印象も似ている.

 スモーリヌィ(「松脂」という意味だそうだが,固有名詞として使わせてもらう)の中心となる聖堂を設計したのは,フランチェスコ・ラストレッリとのことだが,スモーリヌィの聖堂の建設が1748年から64年(『建築案内』),聖ニコライは1753年から62年ということで,完成は後者が早いが,開始は前者が早いので,後者が影響を受けていると考えるのが妥当だろう.

 高く聳え,天を目指しているように見えるスモーリヌィに対して,しっかりと大地に根を張っているようなニコライ聖堂は,似ているようで,それぞれに対照的な特徴があるように思える.

 フランチェスコ・バルトロメオ・ラストレッリは,フィレンツェ出身の彫刻家カルロ・バルトロメオ・ラストレッリの子としてパリで生まれ,父がロシアに仕事を得たので,それに従ってサンクトペテルブルクにやって来て,アンナ女帝が即位した1730年から,エリザベータ女帝逝去の1762年まで宮廷建築家として,ロシアの後期バロック建築を現出した.

 エルミタージュ美術館になっている冬宮殿,ツァールスコエセローのエカテリーナ宮殿(このエカテリーナはエリザヴェータの母エカテリーナ1世の名を冠したものである),そして,スモーリヌィ修道院は彼の作品だ.

 バロック,ロココを嫌ったエカテリーナ2世に解雇されたが,サンクトペテルブルクで亡くなった.立派にロシアの芸術家と言えよう.


アールヌーヴォー風の建築
 あまりにも新古典主義的建築が多いので,そればかりが目に入って,もしかしたら単に気が付かなかっただけかも知れないが,私の印象では,サンクトペテルブルクで,あまりアールヌーヴォー風の建築は見ないような気がしていた.一方,これも,あくまでも印象だが,モスクワには洒落たアールヌーヴォー風建築が意外に多いように思えた.

 しかし,ネフスキー大通りで見たエリセーエフ商店の建物には目を見張った.

写真:
旧「エリセーエフ商店」
ネフスキー大通り


 設計者はガヴリイー・ヴァシリエヴィッチ・バラノフスキー,1860年にウクライナのオデッサで弁護士の子として生まれ,サンクトペテルブルクの技術学院で教育を受け,有名な建築家の助手としての修業を経て,建築家として多くの仕事を成し遂げた.

 ロシア有数の商業資本家エリセーエフ兄弟のグリゴリーの娘と結婚し,ネフスキー大通りのエリセーエフ商店の建築を任され,モスクワにもエリセーエフ商会の店舗を建てた.ロシア革命後,窮乏の内に死亡したが,息子のワシリーはスウェーデンに亡命しピアニスト,作曲家として活躍した(英語版ウィキペディア).

 ロシア革命は,エリセーエフ一族にも影響した.セルゲイ・グリゴリエヴィッチ・エリセーエフは名前から察すると,バラノフスキーの義弟にあたる可能性がある(未確認)が,29歳年下なので,一世代下かも知れない.いずれにせよ,エリセーエフ家の一族だ.

 日本語版ウィキペディア「セルゲイ・エリセーエフ」に拠れば,11歳の時に見たパリ万博で東洋に関心を抱き,留学先のベルリン大学で日本の言語学者,新村出と出会って,東京帝国大学に留学し,優秀な成績で卒業,夏目漱石門下の一人となり,当時ペトログラードと改名していたサンクトペテルブルクの大学で教職を得たが,ロシア革命でパリに亡命し,パリ大学で日本文学を紹介,1932年からハーヴァード大学の教授となり,有名なイェンチン研究所の所長にもなった.

 偶然,注目した建築物が意外に,日本との関連を後に持つことになる一族が建てさせたものだった.サンクトペテルブルクは奥が深い.直接の関係はなくても,このような歴史があって,サンクトペテルブルクから日本語に堪能なガイドさんや研究者が輩出していることを知っている.直接知っている人ではないが,藤沢周平のロシア語訳を出版した方もおられると聞いている.大国の大都市には様々な可能性が秘められている.



 今回は,自分の足で街を歩くことが全くと言って良い程無かったから,建物の写真は殆んどがバスの中から撮ったもので,建造物の名称,設計者は未確認のものが多い.

 下の写真もネット検索の結果,ようやく「グランド・ホテル・ヨーロッパ」の長い建物のうちの一部であるらしいことがわかった.英語版ウィキペディアの写真には違う部分が出ているが,リンクされているウィキメディア・コモンズには,下の写真と同じ外観の建物の写真も掲載されている.

写真:
グランド・ホテル・ヨーロッパ
ネフスキー大通り


 アールヌーヴォーの建築と言うと,エリセーエフ商店のように「ガラスと鉄骨」に特徴があるようにも思われるが,グランド・ホテル・ヨーロッパのように,バロックとはまた違う装飾性の高いものもアールヌーヴォー風とされるようだ.

 1875年創業だが,1910年代にアールヌーヴォー調にリモデルしたとのことで,その設計を担当したのは,フョードル・イヴァノヴィッチ・リドヴァルとレオン・ブノワ(レオンティー・ニコラエヴィッチ・ベヌア)で,後者は「ブノワの聖母子」をエルミタージュに譲った人物であることは以前に言及した.

 リドヴァルは「ロシア化」されたスウェーデン人の家系に,サンクトペテルブルクで生まれ,サンクトペテルブルク芸術学院で学び,レオン・ブノワの工房で修業し,有名な作家とは別人の名にちなむ高級アパート「トルストイ・ハウス」,ホテル・アストリア(英語版ウィキペディアの説明では新古典主義の影響を受けたアールヌーヴォー建築),ブノワとの共作のグランド・ホテル・ヨーロッパの設計で活躍したが,ロシア革命後の1918年にストックホルムに亡命,移住した.

 同地でも幾つかの建物の設計をして活躍したが,1945年に貧窮のうちに亡くなったとのことだ.ノーベル賞で有名なアルフレッド・ノーベルの家も設計したようだが,それは亡命前らしい(英語版ウィキペディア).

 こうして見て来ると,サンクトぺテルブルクでも,西欧での流行を受けて,アールヌーヴォー建築も結構建てられたようだ.それを見分けるほど,こちらに鑑賞眼がなく,新古典主義建築と区別がついていなかったということらしい.

 ホテル・アストリアはイサク大聖堂のすぐ近くなので,結構じっくり見ているが,トルストイ・ハウスは見ていない.機会があれば,サンクトペテルブルクのアールヌーヴォー建築を探す散歩もいつかして見たいように思う.

 なお,『地球の歩き方』には「ネフスキー大通り・建築ウォッチング」というコラム(p.219)があり,その写真で見ると,「シンガー社」と「メルテンス毛皮店」がアールヌーヴォー風のモダン建築と思われる.エリセーエフ商店の写真も紹介されている.

 「シンガー社」はロシア人建築家パーヴェル・ユーリエヴィッチ・スーゾル(と読むのだろうか)の,「メルテンス毛皮店」(英語版ウィキペディアに立項されていないが,建築家のページにF.L.Mertens Departoment Storeとあり,そこに写真も紹介されている)は,現リトアニア生まれで,ポーランドで活躍したマリアン・ラレヴィッチ(と読むかどうか自信がない)の設計によるもので,前者に関しては,エクレクティシズム(「折衷主義」と訳すべきだろうか)とアールヌーヴォーの実践者と説明されている(英語版ウィキペディア).

 さらに,小町は,「モダン様式の展覧会 カメノ・オストローフスキー通り」という小見出しのついた文から始まって,モダニズム(アールヌーヴォー)建築の建造物を紹介している(pp.189-194).


フォンタンカ川に沿って
 ネフスキー大通りを通って,フォンタンカ川を越える時に必ず渡るのがアニチコフ橋だが,この橋は大きさもさることながら,四隅の馬と人の彫刻が目を惹く.

 最初にこの橋をかけさせたのはピョートル1世で,その時の設計者は,「ピョートルのバロック」を現出したスイス領出身のイタリア人ドメニコ・トレッツィーニであった.その際に建設を担当した技術者ミハイル・アニチコフにちなむ命名である.

写真:
アニチコフ橋を渡る
ネフスキー大通り


 近くに「アニチコフ宮殿」という歴史的建造物があるが,これはアニチコフという貴族の館ではなく,アニチコフ橋の近くにあるので,そう呼ばれるようになったらしい.それだけ,存在感を持った橋ということであろう.

 木造だったオリジナルは当然残っていない.石造の橋になったのが,1840年代,「馬を馴らす男」の彫刻が作られたのが,1850年くらいのことのようだ.作者はバルト海沿岸在住ドイツ人(民族的にはドイツ系で,現在のラトヴィア,エストニアにあたる地域に居住)で,ニコライ1世の寵遇を受けたペーター・クロート・フォン・ユルゲンスブルク(ロシア名ピョートル・カルロヴィッチ・クロート)で,彼はイサク大聖堂の前の聖イサク広場に立つ,ニコライ1世の騎馬像の作者でもある.

 モデルは,ローマのクィリナーレの丘に建つ「ディオスクーロイ」(カストルとポリュデウケス,後に双子座となるギリシア神話神話の英雄)とも言われていて,様々な伝説に満ちているらしい(小町,p.65)が,伝説無しでも十分に魅力的である.



 下の写真は,ロシアで初めての常設サーカスの石造建築とされる建物である.「サーカス」と言うと,テントをイメージする私の語感と,一見芸術的なファサードを持ったこの建築物が結びつかないが,英語版ウィキペディアにも簡潔な情報と写真がある.

 1877年の建築で,設計者はヴァシリー・アレクサンドロヴィッチ・ケネルというロシア人で,サンクトペテルブルク芸術学院で,コンスタンティン・アンドレヴィッチ・トンに学び,奨学金を得て海外に派遣され,帰国後,多くの邸宅を設計し,晩年は共作だがウラディーミル宮殿の建設に関わった.

写真:
チニゼッリ・サーカス


 ウラディーミル宮殿は,フィレンツェのストロッツィ宮殿に似ているように思えた.英語版ウィキペディアでは,レオン・バッティスタ・アルベルティの建築を意識したものと説明されているが,ストロッツィ宮殿の設計者はベネデット・ダ・マイアーノイル・クロナカなので,フィレンツェでアルベルティが設計した現存の宮殿を探すとすれば,ルチェッライ宮殿であろうか.

 ルチェッライ宮殿は,フィレンツェ滞在中の後半,街の中心に出る時によく通ったヴィーニャ・ヌオーヴァ通りにあり,ストロッツィ宮殿とともに懐かしい建物だ.

 サンクトペテルブルクの街中を眺めて,何かしらフィレンツェのルネサンス建築を思わせる邸宅が散在しているように思われるのも,こうした背景があったからだと納得した.

 しかし,チニゼッリ・サーカスはフィレンツェ・ルネサンス風ではない.強いて言えば,三つの窓に使われている飾り柱がドーリス式柱頭を模した装飾を持っているあたりが,ルネサンス的だろうか.フォンタンカ川のほとりに,あまり自己主張することなく,ひっそりと建っている感じが好感が持てた.

 イタリアから,サーカス芸人のガエターノ・チニゼッリが最初にサンクトペテルブルクにやってきたのが1847年と古く,相性が良かったのか,再度やってきたチニゼッリはロシアに定住し,その一族が1921年までサーカスを経営し,舞台芸術の公演にも使われたらしく,マックス・ライインハルト演出,アレクサンデル・モイッスィ主演の「オイディプス王」の上演も1911年に行われたとのことだ.



 市内に「エジプト橋」と言う橋があり,フォンタンカ川にかかっている.19世紀にエジプト趣味が高じた時に建設され,様々な「エジプト風」と当時思われた趣向が施されたらしい.オリジナルは1905年に壊れ,現在のものは1955年に再建されたものとのことで,その際にウェブ上でも写真が見られるスフィンクス像とオベリスクが付加された.

写真:
「エジプト趣味」の
人柱(じんちゅう)のある建物


 ネヴァ川対岸のワシリー島にある芸術アカデミーの前には,1832年にエジプトから持ってこられた本物のスフィンクスが一対置かれている(小町,p.176)とのことだ.



 フォンタンカ川とモイカ川が交差する地点に立つ,ミハイロフ城(ミハイーラフスキー・ザーマク)は,市内唯一の「城」(ザーマク)との説明があったが,「城」と「宮殿」(ドヴァリェーツ)がロシア語でどれほどの語感の違いを持っているかわからないので,「宮殿」と言われても,そのまま納得してしまう.

 エカテリーナ2世を継いだパーヴェルが,父ピョートル3世が暗殺されたことに対する恐怖から,万全の守りを意識して建てた「城」で,実際に彼は居住したが,結局,クーデタで暗殺された.在位5年のうち,「城」の居住したのは僅か40日ほどだった.

写真:
ミハイロフ城
フォンタンカ川の対岸
からの眺め


 パーヴェルの息子たちは,アレクサンドル1世もニコライ1世もここには住まず,工兵学校に寄付され,エンジニア城(インジェニエールヌィ・ザーマク)とも呼ばれるようになった(『地球の歩き方』,p.231).その学校で学んだ有名人に,作家ドストエフスキー(慣例に従い,この表記で通す)がいたことは良く知られている.

 宇多文雄『皇帝たちのサンクト・ペテルブルグ ロマノフ家名跡案内』(ユーラシア・ブックレット)東洋書店,2011(以下,宇多)

に拠れば,エリザベータ女帝が緑地の中に建てさせた木造の夏の宮殿を,祖母に育てられ,幼少期をここで過ごしたこともあるパーヴェルが,大天使ミカエルの名を取って石造に改築させたとのことだ.

 宇多に拠れば「この建物はヨーロッパ中世の城のように四方を水で囲まれ,跳ね橋がかけられていた」とのことで,時代錯誤の騎士道に熱中し,「城好き」だったパーヴェルが「城」と言う呼称にこだわったことも,陰謀や暗殺の恐怖に囚われていた彼の心境を反映しているだろ.

 現在,この建物の端麗な外観と周囲の美しい環境を見る限り,狂帝(宇多,p.39)をめぐる陰鬱な歴史を想像することは難しい.

 四面のファサードがそれぞれ特徴を持っていることは,英語版ウィキペディアとそこにリンクされているウィキメディア・コモンズの写真から知ることできるが,私たちが遠目で見たのは,北面と東面ということになる.

 新古典主義が流行した時代の建築らしく,玄関部分の柱廊にはドーリス式の柱頭を持つ柱が使われているように見えた.設計した建築家はイタリア人のヴィンチェンツォ・ブレンナとロシア人のワシリー・イヴァノヴィッチ・バゼーノフで,建築の特徴としては,フランス風の古典主義,イタリア・ルネサンス,ゴシック様式の影響を受けているとされる(英語版ウィキペディア).



 ギリシア神殿では,ドーリス式,イオニア式,コリント式,柱頭がいずれの様式であろうと,当然,柱は構造上,重要な意味を持ち,これが無くては,神殿そのものを支えることができない.もちろん,柱頭は装飾的意味合いが強いが,ローマ建築になると,柱そのものが単なる装飾として使われる場合も出て来る.

 新古典主義建築の場合,ギリシア式の柱頭を持つ柱は,それを設計した建築家,あるいは注文主の志向が,古典古代の文化,芸術にあるということを示す,一種の記号のようなもので,装飾的意味合い以外に建築上の必然性は無いように思われる.

写真:
左:イオニア式
右:コリント式
の柱頭を持つ
装飾柱


 上の写真は,建物の名称や建築家の確認ができていないが,バスの中から撮ったもので,同じ建物の違う部分に,それぞれイオニア式とコリント式の柱頭を持つ装飾列柱が用いられている.特にそればかり見ていたつもりはないが,これに地味で装飾性に乏しいが重厚なドーリス式柱頭の柱を持つ建築を加えると,サンクトペテルブルクの建造物の顕著な特徴を形成していると言っても過言ではないように思える.

 厳密にこうした特徴を,「新古典主義」と言い切ってしまうことはできないかも知れないが,サンクトペテルブルクの古典主義的建築文化を支えたのが,やはりイタリアに出自を持つカルロ・ロッシである(小町,p.87.小町は建築家をロシア語式に「カルル・ロッシ」,建築様式を「クラシック様式」としている).

 ロッシはナポリで生まれたが,高名なバレリーナだった母がロシアに招かれたので,サンクトペテルブルクに移住し,少年期からロシアで育った.実父の名がジョヴァンニだったので,ロシア式の名前はカルル・イヴァノヴィッチ・ロッシとなる.皇帝パーヴェルの時代にサンクトペテルブルク活躍したブレンナの門下で修業し,ミハイロフ城の建設にも関わった.

 イタリアに遊学し,モスクワなどで活躍した後,1815年からサンクトペテルブルクに戻り.参謀本部ロシア国立図書館などのサンクトペテルブルクの新古典主義建築を代表する建造物の設計をした.

 ロッシの建築様式は,ナポレオンの時代にフランスで流行した「アンピール様式」(「アンピール」は英語のエンパイア―にあたる「帝国」を意味するフランス語)で,壮麗と簡素を旨とするとされる.



 私たちが観ることができたロッシの代表作は,パーヴェル皇帝の4番目の息子で,アレクサンドル1世,ニコライ1世の皇弟であるミハイル大公のために建てられたミハイロフスキー宮殿である.現在は,中世のイコンから現代作品まで,ロシアの芸術作品を集めた「ロシア美術館」となっており,初めてロシアに来た私たちが,最初に訪れた場所だ.

 この建物が芸術的に優れているかどうかを判断することは私にはできないが,切妻三角破風とコリント式柱頭を持つ装飾列柱が,本物のギリシア神殿ではなく,新古典主義の流行の中で建てられた,良くも悪くもサンクトペテルブルクの一時代を物語ってくれるものに思われる.

 この中で見た諸芸術の方が,私の心には訴えかけるが,今後,「サンクトペテルブルク」と言う地名から,この建物の外観が思い浮かぶことは間違いないだろう.

 サンクトペテルブルクは,魅力あふれる,美しい街だ.





新古典主義様式のミハイロフ宮殿
現在はロシア美術館の前で