フィレンツェだより番外篇
2013年10月7日



 




ペテルゴーフ 大宮殿正面から
フィンランド湾に続く運河を見下ろす



§ロシアの旅 - その8 華麗なる宮殿建築

イサク大聖堂の外観は,ローマのトラステヴェレのジャニコロの丘のサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会の,通称テンピエット(小神殿)と言われる建造物を思い起こさせた.


 イサク大聖堂の黄金のクーポルを支える円筒部分の外側は柱列になっていて,構造的に意味があるのか,単なる装飾なのか,あるいはその中間なのか,遠目にはわからないけれども,これが,まだ写真でしか見たことがないテンピエットを連想させた.


ローマ,パリ,ロンドンの大伽藍
 J.サマーソン,鈴木博之(訳)『古典主義建築の系譜』中央公論美術出版,1989(以下,サマーソン)

と日本語ウィキペディアの「オーダー(建築)」の項目,欧文ウィキペディアの諸ページを参考にしながら,整理すると,ドーリス式イオニア式コリント式に,トスカーナ式コンポジット式(イオニア式とコリント式の折衷)を加えた5つのタイプの柱は,柱頭に最も特徴がでるが,全体の構成要素や大きさ,比例関係にそれぞれ固有の秩序がある,もしくはあると考えられている.

 これに関して,用語としても訳語としても他に表現の方法がなく,日本語では通常英語の「オーダー」をそのまま借用している.手元にある電子辞書の『ジーニアス英和大辞典』でorderを引くと,15番目に分類された項目に,「[建築][the~](通例古代ギリシア・ローマの柱式,オーダー,様式」とある.

 「柱式」はわかりやすいが,通常,使われない語であるので,訳語としても採用されている「オーダー」をここでも使うことにする.ただ,正直な所,自分の中でも,まだ当分は理解できていないままの用語として使い続けることになるので,なるべく「オーダー」には言及せず,もっぱら柱頭にその特徴を代表させて考えることにする.



 ブラマンテがテンピエットで使った柱の様式は,トスカーナ式の簡素で質朴なものであるのに対し,遠目でわかりにくいが,イサク大聖堂のクーポルを支えている柱列の柱の柱頭は,4面の切妻三角破風(ペディメント)を支えている柱と同じく,アカンサスの葉で装飾された華やかなコリント式である.

 サマーソンに掲載されている写真を見ると,ブラマンテのテンピエットを意識し,見た目にもイサク大聖堂に似ている建築は複数あるが,ロンドンのセイント・ポール大聖堂,パリのパンテオンなどは大きさから言っても,外観から言っても,サンクトペテルブルクのイサク大聖堂に影響を与えた可能性があるかも知れない.

 現存するセイント・ポール大聖堂は,イギリスを代表する建築家クリストファー・レンの設計で,後期バロックの作品とされている.着工は1675年,完成は1720年で,レンの死去は1723年であるから,建築家存命中にできあがった.以前あったロマネスクからゴシックの様式の大聖堂は1666年のロンドン大火で焼失し,現存の大聖堂は改築ではなく,再建されたもとのということになる.

 見た目にも,ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂を意識しているように思われるが,サン・ピエトロのクーポラも列柱が支える外観になっており,その柱はコリント式柱頭を持つ,2本一組の列柱である.

 サン・ピエトロのこの設計はミケランジェロの原案を活かしたジャーコモ・デッラ・ポルタによるものだが,それ以前のブラマンテ,ジュリアーノ・ダ・サンガッロの案を図案化したものも残っていて,それに拠れば,ブラマンテの案が,クーポラを2列の同心円柱列が支えるもので,それぞれの柱の柱頭はコリント式だったようだ.

 ヴァティカンのサン・ピエトロも,ロンドンのセイント・ポールもバロック建築と言って良いのであろうが,パリのパンテオンは,着工が1758年,完成が1790年で,初期の新古典主義建築とされる.

 サン・ピエトロ,セイント・ポールがラテン十字を基本とした形であるのに,パリのパンテオンはギリシア十字型であり,4つの正面に切妻三角破風があって,その下部がコリント式柱頭を持つ列柱が支え,丸屋根を支えるのも,コリント式柱頭を持つ柱で,これが最も,イサク大聖堂に似ている.

 切妻三角破風をコリント式列柱が支えるファサードの形式は,ローマのパンテオンを意識したものとのことだが,ローマのパンテオンは非キリスト教建築なので,ギリシア十字架型ではなく,ファサードも一面のみだ.

 パリのパンテオンの設計者はジャック=ジェルマン・スフロという建築家で,ルイ15世の愛妾ポンパドゥール侯爵夫人ジャンヌ=アントワネット・ポワソンの弟アベル・フランソワ・ポワソン(マリニー侯爵)の指名によるものだった.

 ポンパドゥール侯爵夫人は,エカテリーナ2世に重用された彫刻家ファルコネの保護者でもあり,この姉弟は,フランスの初期新古典主義とその国外への影響を保護,推進したことになる.

 スフロはパンテオン完成の10年前の1780年に亡くなっており,イサク大聖堂の設計者モンフェランは1787年の生まれなので,そもそも同時代を全く生きていないから,直接の影響は受けていない.しかし,パンテオンが完成した時10歳だったモンフェランはパリの生まれなので,おそらくこの建造物を自分の目で見ていただろう.

 モンフェランの建築家としての師は,フランスの盛期新古典主義のアンピール様式を支えたシャルル・ペルシエピエール・フランソワ・レオナール・フォンテーヌであるが,この2人はそれぞれ,1764年と62年の生まれで,スフロと直接の影響関係は今の所わからない.

スフロ,ペルシエ,フォンテーヌ,モンフェランに共通しているのは,いずれも若い頃にイタリアに行き,そこで影響を受けていることだろう.


 ペルシエは1786年,有名なローマ賞を受賞して,イタリアに留学するが,そこでフォンテーヌと出会い,彼らの相互影響はそこから始まった.前年の受賞者がフォンテーヌであった.

 イサク大聖堂は新古典主義の建築理念によって,フランス人モンフェランが設計したが,それ以前に,イタリア人建築家が手がけた聖堂があったことは,以前にも述べた.この2人(リナルディとブレンナ)を始め,一体名のある建築家だけでもどれだけのイタリア人がサンクトペテルブルクとその周辺の建築に関わったのだろうか.


 ドメニコ・トレッツィーニ(1670頃-1734)
 ニコラ・ミケッティ(1675-1758)
 ピエトロ・アントーニオ・トレッツィーニ(1692-1760年以後)
 フランチェスコ・バルトロメオ・ラストレッリ(1700-1771)
 アントーニオ・リナルディ(1710頃-1794)
 ジャーコモ・クァレンギ(1744-1817)
 ヴィンチェンツォ・ブレンナ(1747-1820)
 カルロ・ロッシ(1775-1849)

 親戚関係のある2人のトレッツィーニは,スイス領の出身だが,そもそも「イタリア」と言う統一国家が存在しなかった時代の人なので,「国民」ではなく,イタリア語話者である「民族」としての「イタリア人」である.

 ラストレッリはフランス生まれ,ロシア育ちでロシアで亡くなったが,彫刻家の父はイタリア人なので,一応「イタリア人」と言って良いであろう.建築家としての自己形成期を,イタリアで過ごしている.


ピョートル1世の建都
 ピョートル1世はロマノフ朝の皇帝としては第5代目だが,サンクトペテルブルクを首都として建築したのは彼なので,彼以前の皇帝はここでは関係が無い.一覧にしてみる.(建築などの芸術との関係で重要な人物に★,失脚,横死した皇帝に×)

 ★  ピョートル1世  1682-1725  実権は1694年からで,サンクトペテルブルクへの遷都は1712年
   エカテリーナ1世  1725-27  ピョートル1世の皇后
 ×  ピョートル2世  1727-30  ピョートル1世と先妻の孫
   アンナ  1730-40  ピョートル1世の異母兄イワン5世の娘
 ×  イワン6世  1740-41  イワン5世のひ孫
 ★  エリザヴェータ  1741-61  ピョートル1世とエカテリーナ1世の娘
 ×  ピョートル3世  1761-62  ピョートル1世の娘の子
 ★  エカテリーナ2世  1762-96  ピョートル3世の妻
 ×  パーヴェル  1796-1801  ピョートル3世とエカテリーナ2世の子
 ★  アレクサンドル1世  1801-25  パーヴェルの子
   ニコライ1世  1825-55  パーヴェルの子,アレクサンドル1世の弟
 ×  アレクサンドル2世  1855-81  ニコライ1世の子
   アレクサンドル3世  1881-94  アレクサンドル2世の子
 ×  ニコライ2世  1894-1917  アレクサンドル3世の子


 こうして見ると,ロシアの皇帝になる人生も相当しんどい(×が多い)ものであり,ピョートル1世,エカテリーナ2世など,運に恵まれ,特別な能力を持った者だけが,治世を全うし,国力を高めたことがおぼろげながらわかる.

 ピョートル1世(日本語ウィキペディア「ピョートル1世」も詳細)は,兄の夭折により僅か5歳の時に即位したが,複雑な親族関係と,権力闘争に巻き込まれながら,22歳の時,実権を握り,西欧化を強力な意志で推進し,ヨーロッパを訪問し,特に海洋国家オランダの強い影響を受けた.

 帰国後の1699年から「大北方戦争」と称される戦いを敢行し,バルト海に強い影響力を持っていた大国スウェーデンを破った.

写真:
宮殿橋近くから船にのり,
ペテルゴーフへ
船着き場はフィンランド湾に
面している


 現在の感覚では,スウェーデンがロシアよりも精強であったとは信じ難いが,ロシアが歴史上,大国となるのは,ピョートル1世以後,18世紀からであり,それ以前にはモンゴルの支配は言うに及ばず,リトアニアやポーランドの干渉を受けたこともあった.

 「ロシア帝国」と言う名称もピョートル1世からである.ビザンツ皇帝の後継を称し,首長がツァーリを名乗ってから,ピョートル1世以前の国は,「ロシア・ツァーリ国」と称する(日本語ウィキペディア)こともあるようだが,まだ日本語では一般的ではないだろう.

軍事力の拡大,産業の振興,社会体制の改革,暦法の改変,娘たちとドイツ領邦君主との婚姻政策などの多くの西欧化政策の中,彼が最も力を注いだのが新都建設であった.


 1703年からサンクトペテルブルクの造営が始められ,突貫工事で多くの犠牲を出しながら,1712年には遷都を敢行した.バルト海につながるフィンランド湾にネヴァ川が注ぐ湿地帯で,小村が点在するに過ぎなった地域に,現在は500万の人口を擁する大都会の基礎を築いた.

 ここから,多くのロシア芸術が生まれ,瀟洒な建築文化が栄えたことを思えば,ロシア的,スラヴ的な文化を衰退させて,西欧文化を受け容れたことへの毀誉褒貶は相対化されるであろう.本当はどちらが良かったのかは,神でないとわからないが,少なくとも一観光客として見た現代のサンクトペテルブルクは美しく,街そのものが芸術作品のように思えた.


ペテルゴーフの建築家たち
 ピョートル1世がサンクトペテルブルクを建設した時代には,イタリアとフランスでは,すでにバロックの流行は終わっていたが,ドイツ,オーストリア,東欧,北欧にその余波が広がっていた.多くの場合,権力を極めた君主たちの憧憬の対象となったのは,ルイ14世のヴェルサイユ宮殿であったようだ.

 ルイ14世は1638年に生まれ,1643年に即位,1715年の死去まで在位したので,ピョートル1世がサンクトペテルブルクに遷都した時にはまだ存命中だったことになる.

 スウェーデンから,湾内のコトリン島を奪取したピョートル1世は,そこに前線都市クロンシュタットを建設し,そこに行き来する途中の上陸地として1705年の日記に言及,1714年からモン・プレズィール(「私の楽しみ」と言うフランス語)と言う名の宮殿の建設を始めたのがペテルゴーフである.「ピョートルの宮廷」を意味するであろうドイツ語風のペーターホーフが訛った言い方と思われる(独語版ウィキペディアには「ペーターホーフ宮殿」として立項).

 モン・プレズィール宮殿と大宮殿設計者はドイツ人のアンドレアス・シュリューターとその弟子のヨハン・フリードリッヒ・ブラウンシュタインであった.

 現存する大宮殿はエリザベータの時代に,ラストレッリによってロココ風に改築されたものだが,シュリューターは「ピョートル時代のバロック」を現出した芸術家たちの一人で,その中にはドメニコ・トレッツィーニもいる.

 ドメニコの代表作で,現存するのが,ペトロパヴロフスク要塞の中のペテロとパウロ大聖堂で,歴代のロシア皇帝たちの墓所になっている.この聖堂は,今回,鐘楼を遠くから見ただけだが,写真で見る限り,立派なものだ.

 「ピョートル時代のバロック」を支えた建築家の一人に,ミハイル・グリゴリエヴィチ・ゼムツォフもおり,彼は「ロシア人初の職業建築家」と言われたとのことだ.

写真:
37体の金箔の銅像
神話の神々と英雄たち


 ピョートルの死後も,歴代の皇帝たちが,ペテルゴーフの宮殿と庭園を拡張した.基本的に海側から見ると,「下の庭園」(下の写真),「大滝」(上の写真),「大宮殿」(トップの写真),「上の庭園」を中心とした構成で,「ロシアのヴェルサイユ」と呼ばれ,現在は世界遺産にも登録されている.

 大滝に配置された金箔の彫像,庭園に配された噴水は,確かに大国の国威を示すものであろう.「大滝」の諸像の中で,中心となっているのが「ライオンを倒すサムソン」だが,当時ライオンが国章に描かれていたスウェーデンを象徴する(『地球の歩き方』pp.249-250,宇多,p.23)ものであることは良く知られているようだ.

 なお,「大滝」の建設にもイタリア人が中心的役割を果たした.ローマのコロンナ宮殿とその近くのサンティ・アポストリ聖堂などの建築に関わったニコラ・ミケッティである.

 ヴェネツィアで生まれ,ローマで亡くなったが,1718年から5年間,ピョートル1世の宮廷建築家として雇われ,ペテルゴーフの庭園や噴水の建設を指揮し,サンクトペテルブルクとペテルゴーフの間にあり,やはりフィンランド湾に面したストレーリナ(宇多,p.6の地図の表記)のコンスタンティン宮殿を設計した.

 これらの仕事には,フランス人建築家ジャン=バティスト・アレクサンドル・ル・ブロン仏語版ウィキペディア)も指導的役割を果たしている.彼は,ピョートル1世に高額の報酬で招かれ,新都建設の総監督的立場にあった.ル・ブロンがロシアに招かれたのは1716年,彼の逝去は1719年で,どこで亡くなったかは,英語版,仏語版のウィキペディアにははっきり書かれていないが,仏語版にピョートル1世がその葬儀に立ち会ったとあるので,サンクトペテルブルクで亡くなったのであろう.

 ピョートル1世がル・ブロンを招いたのは,彼が「大滝」(グランド・カスカード)で有名なサン・クルー城の造園に関わったらしいことが一つの要因になっているかも知れないが,これは情報が今の所曖昧である.

 英語版ウィキペディアの「サン・クルー城」に拠れば,ここの「大滝」の設計者はアントワーヌ・ル・ポートルとなっている.しかし,おおもとの設計は,ヴェルサイユ宮殿の造園でも大きな役割を果たした有名なアンドレ・ル・ノートル仏語版ウィキペディア)であり,ル・ブロンはル・ノートルの教えを受けたということなので,あるいは何らかの関係があるのかも知れない.

写真:
イタリアの噴水
反対側に「フランスの噴水」


 これらのフランス人建築家へのイタリアの影響は,はっきりしない.87歳の1700年まで生きたル・ノートルは66歳の時にイタリアに行ったが,特に影響は受けなかったらしい(仏語版ウィキペディア).強いて言えば,芸術家としてに自己形成期に,画家シモン・ヴーエの工房にいたことがあるらしく,17世紀前半に活躍したヴーエはパリで生まれ,パリで亡くなったが,若い頃14年間ローマで過ごし,ボローニャ派を中心とするイタリア・バロック絵画の影響を受けた.特にグイド・レーニの影響は顕著であり,バロックでもレーニの優雅な画風はフランスの宮廷文化に受け入れられやすかったかも知れない.

 いずれにせよ,1649年に亡くなったヴーエまで遡らないと,イタリアの直接の影響が見いだせないのであれば,ル・ブロンの時代には,すでにフランスはフランス,イタリアはイタリアの独自の芸術環境の中にあったということだろう.それぞれの背景をもって,ル・ブロンはフランスから,ミケッティはイタリアからピョートル1世の宮廷に招かれ,新都サンクトペテルブルクの街と,近郊の離宮の建設に大きな役割を果たした.

 ミケッティがロシアに来たのは1718年だが,ドメニコ・トレッツィーニ(日本語ウィキペディアには「ドメニコ・トレジーニ」の表記で立項されている.そこには「スウェーデン系イタリア人」とあるが,根拠はあるのだろうか.英語版,独語版伊語版にはその情報はない)は,1703年からロシアで活躍している.

 ドメニコは,1734年にサンクトペテルブルクで亡くなる.独語版ウィキペディアには「トレッツィーニ一族」と言う整理がなされており,それに拠れば,彼の一族はその後もロシアと関わっていたようだ.そこに挙げられた最も若いジュゼッペ・トレッツィーニが亡くなったのは1885年(亡くなったのはイタリア系スイスのルガーノ)で,20世紀もすぐそこだが,彼もサンクトペテルブルクで活動した建築家であったようだ(探すと英語版に「トレッツィーニ一族」のより詳しい情報があった).

 ミケッティの師匠がカルロ・フォンターナで,フォンターナもブルザートというスイスのティチーノ州(カントン)の出身で,トレッツィーニ一族の本貫アスターノも同州に属している.

 この州からはドメニコ・フォンターナ,カルロ・マデルナ,巨匠フランチェスコ・ボッロミーニが輩出しており,ローマで活躍したバロックの建築家を産み出す伝統があった.ドメニコ・トレッツィーニもローマで修業したと考えられているので,ミケッティはティチーノ州の出身ではないが,あるいは先行してロシアで活躍したトレッツィーニとフォンターナが広い意味で同郷であった縁もあったかも知れない.


エカテリーナ宮殿の建築家たち
 ロシア語で「皇帝(ツァーリ)の村」を意味すると言うツァールスコエセローも,観光客に人気のスポットで,『地球の歩き方』(p.248)に拠れば,ここのエカテリーナ宮殿はペテルゴーフの大宮殿とともにグループ客優先で,観光シーズンには個人での見学は難しいそうである.

 ペテルゴーフには,エルミタージュ美術館の裏にあるネヴァ川の船着き場から観光船で行き,帰りはバスだったが,鉄道も通っているようだ.ツァールスコエセローは現在は大詩人の名に因んだプーシキンと言う町になっているが,ここにも鉄道は通っているけれど,私たちはバスで連れて行ってもらった.

 ロシアのバロック建築において,最大の存在と言えるラストレッリは,ペテルゴーフの大宮殿を改築しただけではなく,その隣の大きなロシア教会風の礼拝堂,現在はエルミタージュ美術館になっている冬宮殿,そして,ツァールスコエセローのエカテリーナ宮殿を設計した.

写真:
エカテリーナ宮殿


 別の回で述べたように,エカテリーナ宮殿の「エカテリーナ」は2世ではなく,現存する宮殿の建築を命じたエリザベータの母である1世である.もともとはエカテリーナ1世が,ドイツ人建築家のブラウンシュタインに夏の宮殿を建築させ,アンナ帝がゼムツォフとアンドレイ・ヴァシリエヴィチ・クヴァソフに増築を命じていたが,エリザヴェータは,この宮殿を時代遅れと感じて解体し,ラストレッリにロココ風の新宮殿建設を依頼した.

 「エリザヴェータのロココ」と言われる,その時代を反映した趣味である.

 ロココ様式は,後期バロックの時代にあって,フランスの宮廷中心に流行したもので,前時代までのバロックがプロテスタントへの対抗を意識した宗教的で真面目な精神を反映しているのに対し,軽快な優美さを信条として,曲線を多用し,淡色の装飾を好むのを特徴としている(英語版ウィキペディア「ロココ」).

 サンクトペテルブルクとその周辺は,第2次世界大戦でドイツ軍の猛攻撃を受けており,ペテルゴーフもツァールスコエセローも相当な被害を蒙っている.現在見られる華やかな外観も時間をかけた新しい時代の修復を経た上でのことだ.



 この宮殿で有名な「琥珀の間」は,ドイツ軍の占領下で略奪,破壊され,琥珀も持ち去られた.現在は,新たに復元されているが,もちろん,同じ琥珀ではない.

 ペテルゴーフの大宮殿は,内部の撮影は厳禁だが,エカテリーナ宮殿は内部も撮影が許可される.しかし,琥珀の間だけは,撮影が禁止されており,ロープが張ってあって,より近くで壁面を見られる側はロシア人ガイドが案内しないと入れない.私たちは,ロシア人ガイドのセルゲイさんに先導されていたので,近い方で見ることができた.

写真:
エカテリーナ宮殿 大広間
大黒屋光太夫がここで
女帝に謁見した


 宮殿の建築や,室内装飾に関して,勉強したことがなく,今は関心が無いわけではないが,優先順位としては低いので,あとは,こういうものが見られたというだけの,写真の紹介程度になるが,それにしても,さすがに大国となったロシアの皇帝が金に糸目をつけず,造らせたものだけに,その豪華さには目を見張る.

 大きさを実感することが,この場合は大事だと思うが,寸法のデータがあって,写真で見ることができても,あらゆる芸術は,確かにこの目で見ることが重要なのだと思う.正直な所,私は,宮殿や離宮の見学を楽しみにしていたとは言い難いが,貴重な体験だったのは間違いない.

写真:
絵画の間


 このような「絵画の間」はペテルゴーフの大宮殿にもあったが,セルゲイさんの解説に拠れば,超一流の画家に直接依頼できないので,「数で勝負」したと言うことだが,よく見れば,実は立派に描かれているのではないかと思う.

 しかし,それよりも,デルフト焼の陶磁器の暖炉が壮観だった.多くの部屋に置かれていたが,さぞかし,多大な出費を要したことだろう.「宮城陶器店」の「家督息子」(「かどぐむすこ」は全体的に平板だが,最終音節に弱いアクセントがある感じ)としては大いに目を見張った.

写真:
緑の食堂


 エカテリーナ宮殿の外観はロココ風のままだが,内装その他は,ラストレッリを解雇したエカテリーナ2世の趣味に合わせて,装飾過剰を排した改装が行われた.

 「緑の食堂」の壁面装飾は,新古典主義と言うよりは,アールヌーヴォーのようにも思えるが,ローマ時代の装飾画を模したラファエロなどのグロテスク装飾に似ている点が,古典主義的なのかも知れない.

 わび,さびを重んじる美観の中で育った(多分?)ので,ヨーロッパの宮廷文化の「これでもか」と言うような豪華さは,はっきりと苦手だが,それでも,何かしらの趣味の良さは感じさせる.歴代のロシア皇帝が育み,特にエカテリーナ2世の時に,重視された洗練の精神はしっかりとロシアの宮廷文化に根付いたということなのだろう.

写真:
デザートの間


 ラストレッリを解雇して,エカテリーナ2世が雇ったのがチャールズ・キャメロンだった.彼は家系上スコットランド人と称されているが,彼自身はロンドンの生まれで,建築士であった父ウォルターと,16世紀イタリアの建築家アンドレーア・パッラーディオの『建築四書』を英訳したアイザック・ウェアに学び,ローマで遺跡発掘にも従事し,帰国後『ローマ人の浴場』を出版した.

 1779年にロシアに到来したキャメロンが最初に従事した仕事は,ツァールスコエセローの「中国の村」であった.エカテリーナが西欧における「中国趣味」(シノワズリー)の影響を受けて,作らせたものだが,この後,キャメロンはエカテリーナ宮殿の内装をロココ様式から新古典主義様式に改装し,「キャメロンの柱廊」と称される建造物を増築した.屋根が架かった開放空間から庭園を見ることができ,エカテリーナ2世のお気に入りの散歩コースとなったとのことだ.

写真:
エルミタージュ
冬の宮殿
「アレクサンドルの間」


 エカテリーナ2世の死後,次の皇帝パーヴェルはキャメロンを解雇したが,クーデタで即位したアレクサンドル1世はロシア海軍省の主任建築家に任命した.1805年に引退し,1812年にサンクトペテルブルクで亡くなった.

 皮肉にも,彼の晩年の住まいは,皇帝パーヴェルが暗殺されたミハイロフ城であった.彼の死後,11年後の1823年にこの城は工兵学校となり,1838年から43年までドストエフスキーが学ぶことになる.

 具体的な彼の作品としては,遠目にキャメロン・ギャラリーを見ただけなので,実感はないが,建築史家のハワード・コルヴィンは,「彼は単なる模倣者ではなく,独創的な建築家であり,パッラーディオの影響が濃厚であったとは言え,ロシアにおけるギリシア志向復興の先駆者であった」と評しているとのことだ(英語版ウィキペディア).

 サンクトペテルブルクで,新古典主義風の建築が多数見られる背景には,自称スコットランド家系出身のイギリス人建築家の活躍も大きな意味を持っていたと言えよう.



 ラストレッリを解雇したエカテリーナ2世に起用されたキャメロンだが,彼の存在を脅かす新古典主義建築のライヴァルもイタリア人であった.皇太子時代から相性の悪かった彼を解雇し,パーヴェルと皇后マリア・フョードロヴナが雇ったのは,ヴィンチェンツォ・ブレンナであった.

 彼はフィレンツェの生まれで,スイス領のティチーノ州出身の,石工,画家,彫刻家を輩出した家系に属していとされるが,父もローマ生まれで,本当にその家系の出身かどうかは確証はない.ローマで,ステファノ・ポッツィの工房で修業したが,クァレンギと同門であった.

 ポーランド貴族に雇われ,ワルシャワ仕事をしている時,ヨーロッパ訪問中のロシア皇太子パーヴェル夫妻が彼の作品を見て,雇うことを決めた.当初,キャメロンの助手であったが,キャメロンの影響力が薄れ,パーヴェルが即位して,ロシア宮廷の建築家の中心的存在となり,ミハイロフ城などの設計をした.

 パーヴェルの死後,アレクサンドル1世に雇われることはなく,ドレスデンに居を移したが,大きな仕事を成し遂げることなく,1820年その地で亡くなった.しかし,カルロ・ロッシは彼の弟子なので,立派な後継者を遺したことになる.



 クァレンギは,ベルガモ近郊の町で生まれ,北イタリアで画家の修業をしながら,諸方を旅し,パエストゥムの古代神殿のスケッチをするなどした後,新古典主義が流行し始めていたローマで建築家の門を叩いた.パッラーディオの『建築四書』を読み,ヴェネツィアでパッラーディオの建築を研究しながら,そこで出会ったイギリス貴族を通じて,イングランドで建築家としての小さな仕事を受注し,イタリアでも仕事が舞い込むようになった.

 その評判によって,イタリア建築家を探していたエカテリーナ2世に推薦され,1779年サンクトペテルブルクに赴いた.最初の仕事は,ペテルゴーフにコリント式列柱の回廊を持った英国風宮殿であったが,これは第2次世界大戦で爆撃を受けて,ソビエト政府によって破壊され,現存しない.

 現存する彼の,最大の作品はツァールスコエセローのアレクサンドル宮殿であろう.今回の旅行で私たちは,この建築を見ていないが,この宮殿は,皇太子パーヴェルの長子として,祖母エカテリーナ2世のもとで育てられていた,後のアレクサンドル1世のために建てられ(1796年完成),その即位後は,弟で後に皇帝となるニコライ1世,その孫アレクサンドル3世が住み,1905年の「血の日曜日」事件以後,最後の皇帝ニコライ2世の家族の居館となった.

 現在,修復が十分なされていないようだが,行けば見学もでき,写真撮影も可のようだ(『地球の歩き方』,p.255).写真で見ると,コリント式の柱頭を持つ装飾列柱とクリーム色の外観は,ロシア美術館のあるミハイロフ宮殿と似ているように思える.

写真:
ミハイロフ宮殿
「白柱の間」


 このようにエカテリーナ2世の仕事をこなしたクァレンギは,母の好んだものを全て嫌ったパーヴェルの時代には不遇であったが,この時期にイタリアを訪れたり,充電期間としての意味があったようではある.アレクサンドル1世即位後,再び重用され,幾つかの仕事を成し遂げ,引退後は栄爵を得て,1817年72歳でサンクトペテルブルクで亡くなった.

 クァレンギの後,ブレンナの弟子だったロッシがなお活躍し,ミハイロフ宮殿(1825年完成)など多くの建築を遺してサンクトペテルブルクで亡くなるのが1849年,ニコライ1世の治世下で,イサク大聖堂が完成し,その設計者モンフェランが亡くなるのが,1858年,イタリア人がロシアの西欧化を建築によって支えた長い歴史は,ロッシの死とともに終わったと言えよう.

 今日は,55歳の誕生日だった.日々は過ぎ去って行き,当たり前だが,止める術はない.






見学を終えて,記念撮影を楽しむ人たち
内外問わず人気のあるエカテリーナ宮殿