フィレンツェだより番外篇
2014年1月25日



 






石棺パネル 「父王アガメムノンの死の復讐として
母クリュタイメストラとアイギストスを殺すオレステス」
エルミタージュ美術館



§ロシアの旅 - その18 石棺と彫刻

石棺に関しては,病膏肓に入った感がある.エルミタージュのコレクションには,はじめから期待していたが,想像以上の素晴らしいものだった.


 石棺の浮彫を見て,ギリシア神話が表現されていることが分かったとしても,即座にその内容を言い当てるのは難しい.多くの場合,解説等を見ながら,少しずつ絵解きしていき,そこで,新たな知見が得られれば,次にどこかで同種の浮彫を観た場合のヒントになる.

 ただ,若者が,成人女性に剣を振り上げている場合は,まず間違いなく,オレステスが自分の母クリュタイメストラを殺す,「母殺し」の場面である.


オレステスの「母殺し」
 「母殺し」を意味する語は,英語では,日本語と同じような造語法で,mother-killingと表現できるかも知れないが,わざわざラテン語由来のmatricideと言う語が用意されている.

 この語自体は特に難しい語ではないし,ラテン語ではごく簡単に構成要素を説明できるものだが,英語話者でも,ラテン語を少し勉強していなければ,すぐに語源を了解することはできないだろう.私たちが普段使っている漢語を,いちいち元の意味に遡って考えないのと一緒だ.

 -cideと言う要素は,殆んどラテン語の「殺す」と言う語から来ており,homicide「殺人」,patricide「父殺し」(オイディプスのライオス殺害),fratricide「兄弟殺し」(カインのアベル殺害,アトレウスとテュエステスのクリュシッポス殺害),filicide「実子殺害」(タンタロスのペロプス殺害),suicide「自殺」(アイアス,イオカステ),regicide「王殺し」(ペロプスのオイノマオス殺害),genocide「大量虐殺(民族皆殺し)」などの語がある.

 英語話者にとってラテン語は身近ではないだろうが,現象としての「母殺し」は,想像を絶するという程ではなく,どこかで起こり得ることなのだと思う.日本語には「母殺し」を意味する外来語の語彙があるかどうかわからないが,尊属殺人と言う語は,一般的ではないにせよ,ある程度大人になれば,おぼろげながら意味はわかり,殺人の中でも,特に区別される現象と理解できるであろう.

 オレステスは父の仇であるアイギストスと,母クリュタイメストラを殺した.

写真:
母クリュタイメストラを
殺害するオレステス
(上掲パネル部分)
2世紀後半 大理石


 この経緯を,アイスキュロスの「オレステイア三部作」と称されるギリシア悲劇で辿ると,『アガメムノン』で,クリュタイメストラと不義の愛人アイギストスが,トロイアから帰還したアガメムノンを殺し,『供養する女たち』で,成長した息子オレステスが,姉のエレクトラ,従兄弟のピュラデスと協力して父の仇を討ち,『慈愛の女神たち』では母殺しの贖いの血を求める復讐の女神たち(エリニュエス)と母の亡霊に悩まされるオレステスへの裁判が行われ,女神アテナの一票でオレステスは有罪を免れ,復讐の女神たちは「慈愛の女神たち」(エウメニデス)に変容してアテネのアレスの丘に鎮座する.

 『供養する女たち』と同じテーマを扱ったのが,ソポクレスの『エレクトラ』,エウリピデスの『エレクトラ』で,『慈愛の女神たち』同様,オレステスの苦悩と贖罪に言及した作品が,エウリピデスの『オレステス』と『タウリケのイピゲネイア』である.

 ことの発端の,クリュタイメストラが夫に怨みを持つに至ったイピゲネイアの犠牲を扱ったのが,エウリピデス『アウリスのイピゲネイア』で,さらに,これ以前に,アイギストスの父テュエステスに対して,その兄アトレウスがした,弟の子供を殺して弟に食べさせる蛮行があった.

 そもそもアトレウスとテュエステスの父ペロプスは,ヒッポダメイアと結婚するに際し,その父でピサの王オイノマオスと御者のミュルティロスを騙し討ちにし,さらにペロプスの父タンタロスは神々への不敬と我が子への非道故に,冥界で永遠の飢えと渇きの劫罰を蒙っている.

 タンタロスの亡霊がプロロゴスを語る悲劇『テュエステス』をセネカがラテン語で書き,私が日本語に訳した.先行作品はあまたあったが,全て失われ,現存する唯一の『テュエステス』である.

 オレステスに至る男系の直系を整理すると,

タンタロス(子殺し,瀆神)→ペロプス(王殺し,裏切り殺人)→アトレウス(弟殺し,甥殺し,非道な饗宴)→アガメムノン(娘の犠牲,叔父と従兄弟の追放,トロイア劫略)→オレステス(母殺し)

 となり,「呪われた王家」と言うことになる.

 オレステスは父が殺害された時は幼児で,将来の禍根を断つために殺される所であったが,乳母,家僕,姉の誰かに助けられて,叔母(アガメムノンの姉妹)アナクシビエの嫁ぎ先であるポキス地方キラの王ストロピオスのもとに預けられ,そこで育った.叔母夫婦の息子がピュラデスである.

 ホメロスでは父の仇を討ったのは8年後とされていて,もし8歳であれば,16歳で立派な若者になっているので仇討も可能だが,しかし,それでは父殺害の時は幼児だったとは言えない.悲劇では時間設定に少し幅を持たせているかも知れない.


オレステスの復讐の浮彫の作例
 ウェブ検索で「Orestes matricide sarcophagus」で検索すると,石棺ではないが,オリュンピアの考古学博物館所蔵の紀元前6世紀のブロンズの浮彫がヒットし,写真で見ると,オレステスがクリュタイメストラを短剣で突き刺し,アイギストスはその場から逃げようとしている.

 この復讐譚は『オデュッセイア』に言及がある以上,紀元前8世紀以前に既に知られていたはずなので,不思議はないのだが,紀元前6世紀のものは,ギリシアでも図像表現としては圧倒的に古く,貴重な作例であろう.

 この考古学博物館の収蔵品を紹介したページには,神殿への奉納物だった3点の青銅パネル,「ケンタウロス族とラピテス族の争い」,「家族に別れを告げて戦車の乗る兵士」,「オレステスの復讐」の写真が掲載されていて,最後のものは3面のうち真ん中が,クリュタイメストラ殺害の場面になっている.

 石棺でオレステスの復讐の浮彫があるものは,ミュンヘンの彫刻美術館,マドリッドの国立考古学博物館クリーブランド美術館,ヴァティカンのグレゴリアーノ・プロファーノ博物館(プロファーノはこの場合「非キリスト教」の意味であろう)の作品の写真をウェブ上で見ることができる.

 自分自身が観たものとしては,フィレンツェの大聖堂博物館のオレステスの母殺しの浅浮彫の石棺パネルがある.

 残念ながら未見だが,ヴァティカンの博物館群の中のグレゴリアーノ・エトルリア博物館に,通称「詩人の石棺」と呼ばれる,タルクィニアにで発掘された紀元前3世紀の棺があり,4面に渡って「オレステスの物語」が浅浮彫があるようだ.

 エルミタージュにある石棺は全て紀元後ローマ帝政時代のものなので,このエトルリアの石棺は圧倒的に古い.

 現在はヴァティカン美術館(一応,博物館群をそのように総称しておく)のHPも充実しており,この石棺に関しても,比較的詳しい解説と,横たわる人物(女性であろう)の彫刻が施された蓋も含めて計5面の写真が掲載された紹介ページがある.

 この浮彫には,オレステス,エレクトラ,ピュラデスによるアイギストス,クリュタイメストラ殺害ばかりでなく,ポリュネイケスとエテオクレスの相討ち,その父母であるオイディプスとイオカステ,テレポスによる嬰児オレステスを人質にした脅迫,アキレウスの墓でのネオプトレモスによるポリュクセネ殺害などの場面が彫り込まれている.

 これらの作品を写真で見て,一概にどれが傑作ということは言えないが,実際にこの目で見たエルミタージュの作品は力感に溢れる高浮彫で,魅力的な作品であることは間違いがない.個人的には,ヴァティカンのアガメムノンの亡霊が彫り込まれている場面もおもしろいと思う.

 それにしても,フィレンツェやヴォルテッラで見た数多の骨灰棺がそうであったように,ポリュネイケスとエテオクレスの相討ちのような,不吉で残酷な殺害場面が好まれたのはなぜなのだろうか.これほど不幸が満ちている世の中を,当該の棺に葬られた人物は幸福に生きたことを強調しているのであろうか.


神話の死のモティーフ
 パエトンの神話はオウィディウス『変身物語』によって知られる,「イカロスの失墜」同様,「分をわきまえろ」と言う寓意であろう.

写真:
石棺パネル
「パエトンの墜落」
2世紀後半 大理石
エルミタージュ美術館


「Phaeton sarcophagus」でグーグルの画像検索を試行してみると,エルミタージュの作品の写真が圧倒的にヒットするが,「マッフェイ石碑博物館」(ムゼーオ・ラピダーリオ・マッフェイアーノ)の石棺パネルの写真も見られる.

 2007年にヴェローナのこの博物館には行っているので,展示されていたら見たはずなのだが,思い出せない.私たちはこの博物館では写真を撮っていないが,若い友人のF氏が撮って来て下さった写真があるので,あとで確認してみることにする.

 ウフィッツィ美術館にもパエトンの浮彫のある石棺があるらしいが,ウフィッツィでは古代の芸術作品は目立たないので,記憶にないし,同美術館の「古代彫刻」に関する英訳版公式案内書(Giovanni di Pasquale / Fabrizio Paolucci, Uffizi: The Ancient Sculptures the Official Guide, Firenze: Giunti, 2001)を見ても,言及はない.

 ウェブ上に写真があるので,間違いなく存在するのだと思うが,印刷写真を販売するサイトのようなので,リンクはしない.しかし,貴重な情報だ.



 パイドラとヒッポリュトスの物語も,しばしば石棺のモティーフになっている.この物語を彫り込んだ石棺を最初に見たのは,ピサのカンポ・サントで紀元後2世紀の作品を見たときではないだろうか.

 向かって左半分では,玉座のパイドラに有翼の幼児エロスが働きかけ,乳母が彼女のためにヒッポリュトスを口説き,彼はそれ嫌って馬で逃げようとしている.右半分は,右端にいるのが猪であれば通常の獲物なので,狩の場面だが,これが海神の放った怪物であれば,ヒッポリュトスがこれから死ぬ場面ということになる.いずれにしても騎馬のヒッポリュトスの後ろにいる女性は,兜を被っているとは言え,アテナではなく彼の守護者であるアルテミスであろう.

 ルーヴルでも1点見ている.

 ルーヴルの作品に関しては,ラツィオ州からトスカーナ州のマレンマ地方に至り,ティレニア海に注ぐ20キロほどの短いキアローネ川の沿岸で発見され,「キアローネの石棺」と言う通称があるようで,リンクした伊語版ウィキペディアの川の紹介ページに言及がある.

 別途展示されている反対側のパネルは,アポロとマルシュアスの物語になっている.いずれにしても,悲劇的な結末を迎える人間の話だ.紀元後300年の少し前くらいの作品とされ,1853年に発見された.

 ルーヴルの作品は,向かって左から,不倫の恋に苦悩するパイドラ,仲を取り持とうとする乳母と,その説得を嫌って馬に乗ろうとするヒッポリュトスで,中央下部に,狩りを象徴する猟犬などがいる.右端は父テセウスに弁明するヒッポリュトスだと思うが,そのすぐ左の女性に話しかける禿頭の老人が誰なのか,思い浮かばない.それぞれ玉座に座るパイドラとテセウスが物語の枠を作っている.

写真:
石棺「ヒッポリュトスの物語」
2世紀後半 大理石
エルミタージュ美術館


 エルミタージュの作品は,全体的に馬と猟犬が複数出てきて,狩を好んだヒッポリュトスとその仲間たちを描いているのだと思うが,中央部分の向かってやや左側に乳母がヒッポリュトスを女主人に代わって口説こうとする場面があるように見える.

 カンポ・サントとルーヴルで見た石棺の場合と違って,今回エルミタージュでは,4面をじっくり見ることがきた.向かって右側面は,恋に悩むパイドラを侍女たちが囲み,有翼の幼児エロスが傍にいて,老婆が何かを差し出している,エウリピデスの『ヒッポリュトス』に従えば,これはヒッポリュトスを籠絡するための媚薬かも知れない.

 裏面は猪狩をするヒッポリュトスと若者たちであろう.であれば,やはりカンポ・サントの石棺の正面右側も狩の場面と推測される.左側面では,複数の馬が混乱を来たし,落馬している若者もいるので,ヒッポリュトスが怪物に襲われた場面と想像される.

 義母とは言え,パイドラは若く美しく描かれ,狩をするヒッポリュトスはたくましく力感に溢れており,石棺彫刻の作者が,当時理想とされていた男性美,女性美を意識して制作したのであろうと思われる.


ホメロス作品に関係するモティーフ
 壺絵と同様,『イリアス』,『オデュッセイア』の周辺のエピソードをモティーフにした作品も少なくない.

 ギリシア一の勇者アキレウスは,トロイア戦争に出陣すれば死の運命を避けられないことになっており,母である女神テティスがスキュロス島の王リュコメデスのもとに預け,女装させて王の娘たちの中に隠した.

 しかし,アキレウスの参加がトロイア陥落には必須であったので,オデュッセウスが探しに来る.彼が娘たちの持ち物を調べた時,アキレウスは武器を手にしていたので素姓が明らかになり,アキレウスは参戦を余儀なくされる.

 王に匿われている間に,アキレウスはリュコメデスの娘デイダメイアとの間にネオプトレモスと言う息子を儲けていた.ネオプトレモスは後に,父の死後,トロイア戦争に出陣し,トロイア陥落の際にプリアモス王を討ち取る.

写真:
石棺
「リュコメデスの娘たちの
中にいるアキレウス」
3世紀
エルミタージュ美術館


 エルミタージュの作品では,女性の中で中央右側の人物が楯を持っており,アキレウスであろう.ルーヴルにもこの主題の石棺パネルが2点あるが,いずれもアキレウスが中央にいて楯を持っている.

 ルーヴルの紀元後240年頃の作とされる石棺パネルは,人物の配置やポーズに関して左右の対称性が強調された作品だが,左側にのみ,ただ一人アキレウスから目を背けてうつむいている,先のとがった帽子を被った男性がいる.これは帽子の形からオデュッセウスであろう.中央で,嫋やかな女性たちの中から,すっくと立ち上がるアキレウスが,キリストの変容のように神々しく見える.

 ルーヴルのHPと説明板の解説は同じで,発掘されたのはローマだが,アテネで制作された可能性を示唆している.紀元後も3世紀になって,まだアテネにこれだけの浮彫を造れる工房があったのだろうか.

 エルミタージュの作品は,かなり摩耗していてわかりにくいが,多分向かって左から2人目の人物がオデュッセウスと思われる.


石棺の装飾パターン
 昨年3月にローマに行って,石棺の浮彫を相当数見て,初めてこのS字カーヴをパターン化したストリジラトゥーラに気付いた.過去に撮った写真を見ると,それまでも複数例を見ていたのに,殆んど意識していなかったが,今後は,常に注意を引くと思う.

 エルミタージュで観たこの石棺は,中央に三角破風(ペディメント)のある神殿風の建物があり,その両側がストリジラトゥーラになっている.

写真:
中央に扉のある石棺
扉の上部に,秋と冬を擬人化
した子供の浮彫
3世紀初頭 大理石


 屋根の上に一対の蛇のような彫刻(脚があるように見えるので,海獣のようなものか),破風には向かい合った鳩,破風のしたの扉には季節の擬人化である子供たち,その下にはライオンの顔のノッカーがあって,扉は半開きになっている.扉の両側はイオニア式柱頭の柱があって,さらに両端にイオニア式柱頭の柱で装飾されている..

 中央に扉のあるタイプは,エルミタージュで他にもう1点観られた.さらに,3月のローマ旅行の際に学んで整理した,中央の丸楯型のクリペウスを有翼の少年たちが両側から支えるタイプのものも複数見られた.

写真:
「結婚の儀式」の浮彫の
ある石棺
3世紀


 上の写真の浮彫では,花嫁が薬指に鉄の指輪した左手を示し,花婿はおそらくパンであろう丸い物体を火で炙っているように見える.ラテン語でコンファッレアティオ(コーンファッレアーティオー)という,新婚の夫婦がファル(ファール)と言う小麦でできたパンを分け合うとい儀式の場面ではないかと想像する.

 中央の人物は片方の乳房を露出しており,女性であることを示しているが,上流階級の一般人がこの恰好をするとは思えないので,仲立(プロヌバ)の女神であろう.結婚の守護神ユノーだろうか.

 花嫁の後ろ(向かって左側)の女性は,仲立役を務める上流階級の既婚女性(マトロナ)のようにも見えるが,有翼で箙を持っている幼児はクピドであろうから,ウェヌス(ヴィーナス)ではないかと想像される.その後ろの男性は,もし神であれば松明を持っているので結婚の神タラシウス(ギリシアではヒュメン)かも知れない.

 さらにその左側の3人の女性は,もし女神であれば,優美の3人の女神グラティアエ(ギリシアではカリテス)かとも思う.

 新郎の後ろの女性は有翼で,棕櫚の枝を持っているのでウィクトリア(ギリシアではニケ)で間違いないと思うが,その右の贈り物を持った幼児と少女,牛を連れた牧人,短衣,長髪の若者は神ではなく人間と思われる.新郎側の家の家族と使用人で,家が栄えていることを表しているのかも知れない.

 本体部分の左側面は牧歌的風景,右側面は狩の場面である.

 蓋部分の正面にも,神々が彫り込まれ,左から3頭立ての馬車に乗る若者はアポロ(もしくは太陽神ソル),松明を持つタラシウス(もしくはクピド),3美神,その右側がローマ宗教で最も重要なミネルウァ(ギリシアのアテナに対応して武装),ユピテル,ユノーであろう.右端の馬車に乗る女性はディアナであろうか.上部の空飛ぶ少年がクピドなら,ウェヌスも考えられるが,ウェヌスが馬車に乗ることは考えにくい.

 以上,自分の知識を動員して,大胆な読み取りを試みた.当たるも八卦,当たらぬも八卦だ.

 この石棺は支える脚がスフィンクスになっており,蓋部分の両側面にもそれぞれ一対の向かい合うスフィンクスの浮彫があって面白い.蓋部分の四隅にはローマの石棺によく見られるタイプの人面像があったと思わるが,正面から見られる2つだけが残っている.裏面の写真は撮っていないが,記憶では裏面には浮彫が無いか,失われたかどちらかだったと思う.


写真:
浮彫「ヘルメス,アテナと
アルテミスの行進」
紀元前1世紀
エルミタージュ美術館


 上の写真の浮彫は,石棺のパネルではないが,今回観られた浮彫の中では,紀元前の古い作品で,なかなか見事なものだったので紹介する.

 エルミタージュの解説版は,ギリシア名で書いてあったので,ヘルメス,アテナ,アルテミスとしたが,紀元前1世紀のものなので,出土の場所によっては,メルクリウス,ミネルウァ,ディアナの可能性もあるが,一応,ギリシアの神々と考える.

 先頭の男性は,持っている杖の形が,他の図像との類推ではそのものずばりではないが,ヘルメスを考えさせ,中央の女性は左手に兜,右手に槍なのでアテナ,右端の女性は箙を背負っているのでアルテミスであろうというのは,まず納得が行く.

 アルテミスが右手に持っているのが松明とすれば,前5世紀の白地レキュトスにアルテミスが献酒儀式を行いながら,左手に松明を持っている絵が描かれているものがあり,関係あるかも知れない.死者の魂を冥界に導くヘルメスが先頭にいるので,何かしら葬列を思わせるが,その場合,アテナがどういう意味を持つのか分からない.


エルミタージュの彫刻作品
 目玉作品のひとつ「タウリスのヴィーナス」は見られなかったが,古代彫刻のコレクションも見事だった.殆んどがローマ時代のコピーであり,人によっては模刻からは感銘を受けないようだ(『壺絵が語る古代ギリシア』,p.13)が,私はそうは思わない.

 写真からも,模刻からも,その造形に思い入れた人の感動は伝わり,多くの場合,心打たれる.だからこそ,オリジナルが残っていて,それが見られるのであれば,一層深い感銘を得られるように思う.

写真:
デモステネス

ポリュエウクトス作(紀元前3世紀)
のローマ時代(紀元後2世紀)の模刻


 デモステネスは民主制の黄昏を生きたアテネ人で,弁論家として知られる.彼は増大するマケドニアの脅威を跳ね返して,アテネの自由と独立を守ろうとしたが,志空しく,自死によって生涯を閉じた.彼の肖像については,プルタルコスが『対比列伝』のキケロと対比された「デモステネス伝」で,

 その後,間もなく,アテネの民会はデモステネスに然るべき名誉を与えた.銅像を建て,なおかつ,彼の一家の最年長の男子がプリュタネイオンでの食事に与るべき旨の決議を行なった.人口に膾炙している次の銘を像の台座に刻むことも決めた.

 「デモステネスよ,もし汝がその知見にふさわしい力をもっていたならば,
 マケドニアのアレースがギリシア人を支配することは決してなかったであろう.」

(『プルタルコス英雄伝』(ちくま文庫)上,p.433.伊藤貞夫訳)

 このように,プルタルコスは彼の銅像が建てられたことに言及して,「間もなく」と言っているので,彼の死が紀元前322年であれば,彼の実像を反映している可能性がある.

 一方,プルタルコスの名前で伝わる(「偽プルタルコス」と総称される)偽作群の中に『10人の弁論家』と言う一篇があり,そこには,デモステネスの甥デモカレスの注文で,弁論家の死後42年後(紀元前280年)に,彫刻家のポリュエウクトス作の彫像がアテネのアゴラ(中央広場)に建てられたと記されている.

 いずれにしても,原作は残っていないが,ポリュエウクトス作のデモステネス像が紀元前3世紀には作られ,キケロの『トゥスクルム荘対談集』に,マルクス・ブルトゥスの別荘にデモステネスの青銅像があったと記されているので,ローマで彼の像のコピーが有力政治家によって所有されていたことが推測される.

 G.M.A.Richter, The Portraits of the Greeks, London: Phaidon Press,1984(以下,リヒター)

では,コペンハーゲンの彫刻美術館の彼の大理石の立像が取りあげられているが,私たちはヴァティカン美術館で,彼の立像を見ている.

 リヒターは胸像としては,ナポリの国立博物館のブロンズ像(ヘルクラネウム出土),オックスフォードのアシュモーリアン博物館の大理石像(小アジア出土)を取り上げているが,私たちは,ローマのカピトリーニ美術館で大理石胸像を見ているし,これは見た覚えがないが,ルーヴル美術館所蔵の大理石胸像が英語版ウィキペディアに掲載されていて,そこではミュンヘン彫刻博物館所蔵のヘルマ柱像の写真も見られる.

 おそらく,あちらこちらにデモステネス胸像のコピーがあるのではないかと想像されるが,その殆んどを,私たちはデモステネスと認識できるように思う.

 しかし,エルミタージュの作品はといえば,禿げあがった額,深く刻まれた皺,大きな鼻などは共通しているが,プレートにデモステネスと書いていなければ,もしかしたらと思う程度で,確信は持てない.それでも,色々な角度からの鑑賞に堪え,デモステネスの気骨をいかんなく現した立派な彫刻だ,と私は思う.

 この作品はカンパーナ侯爵のコレクションだったようだ.

 アテネの弁論家としては,他に,円盤に浮彫で刻まれたアイスキネスの横顔像が観られた.紀元前4世紀の原作の紀元後2世紀の模刻とされる.ジョン・ライド=ブラウンのコレクションを1787年にエカテリーナ2世が購入したとされている.

写真:
ストア哲学者の像(クレアンテス?)

紀元前280年のギリシア時代の
ローマ時代の模刻
エルミタージュ美術館


 この彫像に関しては,近代に彫り込まれたヘロドトスと言う記名があり,クレアンテスというのはあくまでも推定であり,さらに説明板は,ロシア文字ではクレアンファ,ラテン文字ではクレアントスと読め,どちらにも疑問符が付されている.しかし,ストア哲学者であればクレアンテスであろう.

 彼の伝記はディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』(岩波文庫の邦訳版の中巻)に収録されている.そこには彼の著作目録があり,多くの著述をしたことがそこから知られるが,完全に現存する作品は一つもない.厳密に言えば,ストバイオスに引用がある「ゼウス讃歌」は完全に現存する作品と言えるかも知れないが,40行に満たない詩である.

 「ゼウス讃歌」を含めて,彼の著作断片は,中川純男(訳)『ゼノン他 初期ストア派断片集1』(京都大学学術出版会,2000)に全て邦訳されている.

 クレアンテスの後継者であるクリュシッポスに関しては,ディオゲネス・ラエルティオスが伝記を書いているだけでなく,少なくともナポリの国立博物館,大英博物館に胸像が,ルーヴル美術館に全身座像があり,リヒターにも写真が掲載されているが,クレアンテスの肖像は,ウェブ上で検索しても,コペンハーゲンの彫刻博物館所蔵のものがヒットするだけで,上の写真とはあまり似ていない.

 あくまでも,私の根拠薄弱な願望に過ぎないが,エルミタージュの彫刻の方が「ゼウス讃歌」の作者だと思いたい.

写真:
喜劇作家メナンドロスの像

プラクシテレスの息子たちの
紀元前4世紀の作品の
ローマ時代の模刻
エルミタージュ美術館


 アテネの劇場には多くの劇作家の彫像が置かれていたが,有名な作家は,喜劇作家としてはただメナンドロス1人,悲劇作家としてはソポクレス,エウリピデスのみであった,とパウサニアスが報告している(飯尾都人(訳)『ギリシア記』龍渓書舎,1991,p.41).

 この台座と思われるものが1862年に発掘され,そこには「メナンドロス」の名と共に,小さな字で作者と思われるケピソドトスとティマルコスの名が刻まれていた.プリニウス『博物誌』34巻51章に拠れば,彼らはプラクシテレスの息子たちであることがわかる(リヒター,pp.159-161).

 メナンドロスが喜劇の仮面を持った浮彫は2007年にコロッセオの特別展で見ているが,この浮彫も,プラクシテレスの息子たちの胸像も,多くのコピーが存在し,ローマ時代にギリシアの喜劇作家の人気が高かったことが察せられる.

 メナンドロスは,ローマの偉大な喜劇作家プラウトゥスとテレンティウスの有力な手本としても尊敬されたとは思うが,プラウトゥス,テレンティウスは現存するローマ文学では例外的に古い作家で,活躍したのは紀元前3世紀後半から2世紀前半にかけてなので,紀元後の帝政期に多くの胸像コピーが作られたことの理由はそれだけではないだろう.

 ギリシア語の原文でメナンドロスの作品を読むファンが多く存在したのではないかと想像する.

写真:
オンパレ
紀元前3-2世紀のギリシア彫刻の
ローマ時代の模刻
エルミタージュ美術館


 オンパレ(オンファレ)は,罪の穢れを浄めるためにヘルメスによって奴隷に売られたヘラクレスが仕えた,リュディアの女王だ.彼の活躍と素姓を知った女王は,彼と結婚して2子を儲けた.ヘラクレスが女装して糸紡ぎなどの仕事をし,女王が獅子の毛皮を着て,棍棒を持つ図像がヘレニズム時代に好まれた.

 この彫刻も,首から獅子の前足が見え,右肩に棍棒を担いでいるので,オンパレであることは間違いないだろう.ついでに左手に糸巻き棒も持っているように見えるのは,駄目押しなのか蛇足なのかわからないが,ともかく,オスティアで発掘され,その地の考古学調査に貢献したカンパーナ侯爵のコレクションに加えられていたとのことだ.

写真:
ヴィーナス

カリマコス或いはポリュクレイトス派
の紀元前5世紀後半の作品の
ローマ時代の模刻
エルミタージュ美術館


 泡(アプロス)から生まれたという民間語源説が神話にも浸透していたアプロディテ(アプロディーテー)は,生殖に深く関係する愛と美の女神とされ,現存最古のギリシア文学『イリアス』においても,戦争の原因となったパリスとヘレネの仲を取り持ち,ヘクトルに次ぐトロイアの英雄アイネイアスの母として,大きな存在感を持っている.

 アイネイアスが生き残って,トロイア王家の子孫を後世に残すという伝説は,既に『イリアス』の中で海の神ポセイドンによって語られているが,これを自国の建国伝説に活かしたのが後世のローマであり,紀元前1世紀後半の大詩人ウェルギリウスは,その伝説を集大成して,ラテン語読みでアエネアス(アエネーアース)となる,英雄が小アジアからイタリアに来て,ローマ人の祖先となる物語を叙事詩『アエネイス』(アエネーイス)として結実させた.

 小さな都市国家から軍事力によって巨大化したローマが,先進文化のヘレニズムを受容する過程で,ローマ固有の神であったウェヌスがアプロディテと同一視されるようになる.特にユリウス・カエサルが権力を握った後は,ユリウス氏族の祖先が,アエネアスの子ユルス・アスカニウスに遡り,アプロディテはその祖母にあたるので,建国の英雄の母であり,最高権力者の祖先神として一層の信仰を集めるようになった.

 おそらくカエサルが最高権力者となる少し以前に,エピクロス派の哲学をホメロスの叙事詩と同じ韻律で,しかもラテン語で『事物の本性について』としてまとめあげたルクレティウスは,叙事詩に伝統的な詩神への呼びかけに代えて,「母なる神ウェヌス」(ウェヌス・ゲネトリクス)に祈念している.

 C.M.ハヴロック,佐近司彩子(訳)『衣を脱ぐヴィーナス』アルヒーフ,2002(以下,ハヴロック)

を参考にして,ヴィーナスの図像を簡単に整理(用語は他を参照して一部改変)し,今までに観ることができた作品を挙げると,

クニドスのアプロディテ型(全裸,片足重心,左手に掛け布,その下に壺)
 :ローマ,ヴァティカン美術館のローマ時代の模刻(コロンナ・タイプとベルヴェデーレ・タイプ)
 :ローマ,アルテンプス宮殿のローマ時代の模刻
 羞恥のヴィーナス(ウェヌス・プディカ)(全裸,前かがみ,左手腰部前方,右手胸)
 :カピトリーニのヴィーナス(ローマ,カピトリーニ美術館)
 :メディチのヴィーナス(フィレンツェ,ウフィッツィ美術館)
 :エルミタージュ美術館の模刻(左下に海豚と戯れるエロス)
 :「トロアスのアプロディテ」の前1世紀の模刻(腰を隠す左手に掛け布)(ローマ,マッシモ宮殿)(ヴェルサイユ宮殿の鏡の間の壁龕に同タイプの模刻があるようだ)
 うずくまるヴィーナス(クラウチング・ヴィーナス)(全裸,入浴前後の姿)
 :ローマのマッシモ宮殿,アルテンプス宮殿の考古学博物館でローマ時代の模刻
 :エルミタージュ美術館の3世紀の模刻(左下に海豚,背後に有翼のエロス)
 :ルーヴル美術館,大英博物館の作品が有名だが,見た記憶がない
 サンダルを履く(脱ぐ)ヴィーナス(未見)
 海から上がるヴィーナス(アプロディテ・アナデュオメネ)(長い髪を両手でかき揚げ)
 :ローマのコロンナ宮殿の大広間でローマ時代の模刻(全裸型で,向かって右下方に海豚)
 :ヴァティカン美術館(半裸型)(観たかも知れないが記憶が無い)
 :モスクワ,プーシキン美術館(全裸で膝をついている)(未見)

その他があり,海から上がるヴィーナスでも全裸の場合と半裸の場合があるようだ.プリニウス『博物誌』にギリシアの有名な画家アペレスが描いた「海から上がるアプロディテ」への言及があり,アテナイオスはプリュネがモデルだったと言っており,そのことはロシア美術館のシェミラツキの絵について報告した時に触れた.

 これが,ヘシオドスが伝えた女神の誕生と結び付けられれば,ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」,アルテンプス宮殿のルドヴィージの玉座の浮彫もこの類型に入れられる.

 有名なミロのヴィーナス(半裸)はこれらとはまた違う型で,特に何か類型としてまとめられてはいないようだ.失われた部分の多いことが,分類を難しくしているかも知れない.これに関しては,ハヴロック(pp.109-114)を参照されたい.また,ナポリの国立考古学博物館に,有名な「美しい尻のヴィーナス」(アプロディテ・カッリピュゴス)があり,これも上記の分類には当てはまらない.

 エルミタージュの作品は着衣の姿だが,体の線が強調されているので,あるいはアプロディテ・アナデュオメネの一類型であろうかとも思えたが,違うようだ.

 『イリアス』,エウリピデス『ヒッポリュトス』に見られるように,時に峻厳な神の姿を見せる女神だが,エルミタージュのヴィーナスは表情がやさしく,峻厳というほどでない.上品で優美な姿は,ヴィーナスではなく,他の女神でも良いかも知れないが,左手に持っている何か丸い物は,ルーヴル美術館所蔵のアルルのヴィーナスと同様,「パリスの審判」で獲得した黄金のリンゴであろうか.であれば,この像は間違いなくヴィーナスであり,海から上がったアナデュオメネ型ではなく,パリスの審判に臨み,美の判定に勝利したアプロディテであることになる.

 ローマのコルシーニ宮殿のエントランスで,全裸で立つヴィーナスが向かって右側に球体の上に坐しているエロスを従えている彫像を見た(2013年3月28日のページに写真).左手に丸い物を持っているので,やはり「パリスの審判」の際の姿だろうか.

 エルミタージュには,他に衛生の女神ヒュギエイア,様々な宗教的要素が混淆したセラピス神,複数のミューズ(詩神)たち,など興味深い彫像が多かった.



 大先生の音頭で,勤務先の東西の古典を専攻する教員が動員され,大型予算獲得に向かって,共同作業に参画を求められ,さらに不測の事態への対処や,研究発表があったので,「フィレンツェだより」番外編「ロシアの旅」は完結が大幅に遅れた.

 まだまだ書き足りないが,これで終わりにする.

 大型予算は採択されるかどうかわからないが,その準備段階で,日本文学の人たちの研究発表を聞き,大いに刺激されたので,語学的なハンディがあるとは言え,小さなことでも良いから,自分も何か研究上の独自性を模索したいと思っている.

 それに資するかどうか全くわからないが,かつてセネカの悲劇の最良の写本が所蔵されていた(現在はフィレンツェ,ラウレンツィアーナ図書館)ポンポーザの修道院を拝観できる旅に3月に行ける見込みがたった.次は,またイタリアに行って来る.






ここが「赤の広場」(後方は国立歴史博物館)
再びここに来る日はあらんや
2013 夏 ロシアの旅