フィレンツェだより番外篇
2014年9月4日



 




ビルディングの前に並ぶ石棺
ごく当たり前といった佇まい
グラード


§北イタリアの旅 - その14 石棺

2007年の秋,初めてラヴェンナに行った時にキリスト教の石棺(サルコファグス)を見て,何かしら魅かれるものを感じた.しかし,意識して石棺に興味を抱くようになったのは,繰り返しになるが,マントヴァの公爵宮殿の古代石棺コレクションを観た時からだったろう.


 コレクションと言っても数はそれほどはなかったように思うが,何と言ってもギリシア悲劇の題材となる神話などが見事な高浮彫で彫り込まれていて,瞠目した.

 「mantova sarcofago」でウェブ検索すると,ヘラクレスの物語メデイアの悲劇をそれぞれ題材にした石棺パネルの写真に行き当たる.しかし,情けないことに,これがまさに自分の興味をかきたてた石棺なのかどうか確信が持てない.それどころか,その後,多くの高水準の作品を観たせいで,この作品が特に優れた作例かどうかすら判断がつかない.ただ,今(写真で)見ても,メデイアの浮彫は見事だと思う.

 リンクしたページから,データをまとめたpdfがダウンロードできるが,それに拠れば,そもそもこれはルネサンスの開明君主が輩出したマントヴァ公爵家のコレクションではなく,20世紀にマントヴァ付近で発見されたもののようだ.

 私の頭の中では,歴代のマントヴァ侯爵,公爵の誰かが各地で発見された上質の石棺を買い求め,それが,マントヴァのルネサンスが形成される過程で,芸術や人文主義に大きく影響を与えたと言うストーリーができあがっていたのだが,全くのハズレだったようだ.

 とは言え,誤解が正され,常々あらためてじっくり観たいと思っていた石棺パネルの写真をダウンロードすることができた.きっと,石棺に関する俄か勉強に役立つであろうと期待している.


グラードで見た石棺
 今回の旅は,初日のグラードから,複数の石棺に出会うことができた.

 サンテウフェミア聖堂の拝観を終え,一旦外に出てから,ファサード左隣り奥にある洗礼堂に向かう時,手前の小さな庭のような空間に3つの大きな石棺が並んでいた.下の写真はその真ん中のもので,有翼の幼児が,見える範囲だけで4人いるが,裸体なのでキリスト教の天使ではなく,プット―であろう.

 特にキリスト教の印もないので,ローマ帝国支配下の一都市だった時代のものと思われる.

写真:
トップの写真の石棺もそうだが,
この形の蓋はしばしば見られた


 相当の大きさであり,彫刻にも手がかかっているので,有力者もしくは富裕層に属する人の墓であろう.正面から撮った写真を拡大すると,両端のプット―の間に,碑銘があり,よく読めないが,バブリウスと言う人物が,自分とともに46年暮らした妻ペトロニアの死に際して造らせたものと思われる.

 字が読みにくいところもあるが,碑文に使われる省略のルールがまだわかっていないので,その場ではもちろん,撮って来た写真でも全文を即座に読解するには至らない.倦まず弛まず根気よく,努力を継続することが大事だろう.

 蓋の三角屋根と四隅の張り出し装飾が特徴的で,本体も蓋も相当の重量と思われる.造るのも,遺体を収めるのも,墓所に安置もしくは埋葬するのも,手間も暇も金もかかるであろう.

 蓋は瓦葺の屋根に見えるような工夫がなされていて,張り出し部分の装飾は残っていないが,破風には魔除けのゴルゴンの浮彫が見られる.

 棺の正面の両端のプット―はそれぞれ,ドーリス式柱頭の柱に支えられたアーチの中にいて,豊饒の角の尖端部分がないようなもの(「豊饒の籠」?)を持っている.死後の豊かな暮らしを願ってのものだろう.プット―の近くには,それぞれDという文字とMと言う文字が彫られている.「ディース・マニブス」(「地下の(祖霊なる)神々に」と言うラテン語墓碑の決まり文句だ.

 ほぼ正方形の側面には,ドーリス式の柱頭を持つ神殿の浮彫の中に,2人のプット―が花綱を持っている.

 この石棺の左側の石棺にも碑銘があり,それによればティトゥス・カニウスとメンミア夫妻のために息子たちが造らせたものとわかる.石版型の碑銘を両側から有翼の少年が支えている.2世紀末のもの考えられている(グラードの案内書,p.30).

 破風にも,屋根型蓋の4隅の張り出し部分にも装飾は残っていないが,張り出し部分を正面から見ると,両端にそれぞれDとMが刻まれている.本体の4隅にはドーリス式柱頭を持つ柱の浮彫がある.


ラヴェンナで見た石棺
 ラヴェンナで見た石棺の幾つかは,形はグラードで見たものとほぼ同じだが,十字架や孔雀などの浮彫によって,キリスト教徒のものとわかる.

 下の写真の石棺は,それに加え,側面の十字架の両脇にアルファとオメガがギリシア文字で書かれ,やはりギリシア文字のキーとローを組合わせたクリスモン(クリスム)と言う記号も見られる.

写真:
上のグラードの石棺の写真と
同じ形の蓋の石棺
いっそう瓦葺の屋根のようだ
サン・フランチェスコ聖堂
ラヴェンナ


 同じサン・フランチェスコ聖堂にあった,こちらはかまぼこ型の蓋の石棺(下の写真)の向かって右側面は「受胎告知」だと思うが,いつ頃の石棺で本当に受胎告知なのかは確認できていない.天使と思われる有翼の人物と聖母に見える腰かけた女性の間に,籠のようなものがあり,女性が手で抱え上げているものがわからない.もし,これが嬰児であれば,受胎告知ではないか,あるいは,よく知られる受胎告知とは別の表現と言うことになるだろう.

 Annunciation, London: Phaidon Press, 2000

を参照すると,そこに挙げられている「受胎告知」は,ローマのサンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂のモザイクで,後世によくある図像と違い,なかなか「受胎告知」と認識しにくいが,5世紀前半の作品とされ,相当古いのは間違いない.もしかしたら,現存最古かも知れない.

 女王の姿で玉座に腰かけ,足許の籠から糸を繰っているように見える.とすれば,下の写真の場合も,天使と女性の間にあるのは糸籠で,女性が手にしているのは糸巻き棒と考えられ,サンタ・マリーア・マッジョーレの「受胎告知」とは,ずいぶん違って見えるとは言え,「受胎告知」と考えて良いことになるであろうか,

 実は,しばらく前に読んだ日本語の著書でこの浮彫のことを知り,最初にラヴェンナに行った時の写真のデータを探して,自分も撮影していたことは確認済みだったが,今回また,改めて撮影してきた.しかし,何ということか,その書名も著者名も今は思い出せない.

 正面の「玉座のキリスト」は,右足でライオン,左足で蛇を踏みつけているのは分かるが,両脇の人物は特定できない.さらにその両脇の樹木は棕櫚であろうか,オリエンタルな感じがする.

 「受胎告知」の反対側の側面には,男性と女性が向かい合う様子が彫られているが,どういう図柄なのはわからない.最初見た時,「エリザベト訪問」かと思ったが,片方は明らかに男性なのでそうではない.

写真:
かまぼこ型の蓋の石棺
側面は「受胎告知」,正面には
「玉座のキリストと聖人たち」の浮彫
サン・フランチェスコ聖堂
ラヴェンナ


 ラヴェンナに関して参考にした,ラウデン『初期キリスト教美術・ビザンティン美術』には,

 313年以前も以後も,石棺の市場は非常に大きく,地元の消費にしても輸出にしても,いくつかの類型が確立するほどであった.美術作品は特定の注文に応じて制作されるのがふつうであるのに,石棺に関しては大工房が既製品を店頭に並べる余裕をもっていたことがわかっている(全面にドリルを使用したとはいえ,精緻な彫刻が要求される場合,制作には長い工程が必要であった).購入者はだから,注文制作の石棺を求めることができたし,死から埋葬までの短期間に追加の彫刻を加えることもできた(そうしなくてもかまわない),ほとんどの石棺はおそらく死者の身内によって,「店頭から」購入されたものであったらしい.(p.48)

とある.石棺の類型化と大量生産に関しては,ラウデンの所説によって理解できる.

 では,象徴的な印だけでなく,上の写真のような,聖母子,受胎告知,イエスの誕生,牧人礼拝,最後の晩餐,ゲッセマネの祈り,キリスト磔刑,イエスの復活,我に触れるな,エマオの饗宴,といった,後の時代の宗教画で知られるような浮彫のある石棺は,いつ頃からあったのだろうか.

 そもそも,どのような絵柄が存在したのだろうか,また現存しているとすれば,どこで見られるのだろうか.



 ラヴェンナに「三王礼拝」の浮彫のある石棺が少なくとも2つ(サン・ヴィターレ聖堂,大司教博物館)あることは確認しているが,実物には注意を払わずに過ぎてしまった.

 ルーヴル美術館でも,明らかに「三王礼拝」と思われる石棺パネルを見ている.ルーヴルでは随分たくさんの石棺を見たと思っていたが,撮って来た写真を確認しても,キリスト教主題のものは,「キリストによる律法の授与」(4世紀末,ローマ)など,幾つかあるのみで,意外に少ない.

 自分が撮って来た写真でも,解説プレートなどが無かったり,その写真やメモが無ければ,どういう図柄なのか容易に判定し難い場合が少なくない.ルーヴルのHPには幸いに写真付きのデータベースがあるし,たとえば,

 アンドレ・グラバール,辻佐保子(訳)『キリスト教美術の誕生』新潮社,1967(以下,グラバール)

には,「宇宙の擬人像の上に坐し,新しき律法をペテロに授けるキリスト」(ローマ,ラテラノ美術館とあるが,資料が古いので現在はどこか未確認※),「新しき律法を授けるキリスト,その他の諸場面」(ヴェローナ,サン・ジョヴァンニ・イン・ヴァッレ教会)などの写真と,それに対する簡単な説明がなされており,ここまで見て,ようやくこうした図柄が流行した時代があったことに気付く.4世紀のキリスト教芸術であり,帝国内での公認を得,国教になって行こうとする時代のものであることがわかる.

 (※「sarcophagus christ universe」でウェブ検索すると,あるページに写真があり,4世紀の作品で,ヴァティカンにあるとなっている.ラテン語でトラーディティオー・レーギスtraditio legis「律法伝授」と言うこともわかった.さらに「traditio legis」で画像検索すると,全体を写した写真があるページがあり,そこにもヴァティカン博物館所蔵とある.この図像自体もよくあるもののようで,今まで見た作例では,ミラノのサン・ロレンツォ聖堂のアクィリーノ礼拝堂のモザイクがこれにあたるようだ.)

 グラバールには他に,「新しい律法を授けるキリスト,足許に死者夫妻」(エクサンプロヴァンス,サン・ソヴール大聖堂),「使徒たちに教えを授けるキリスト」(ミラノ,サンタンブロージョ聖堂の説教壇の下)の写真が掲載されている.特に後者に関しては,複数の面から撮った数枚の写真があって詳しい.実は,2度行ったサンタンブロージョでこの石棺に心魅かれ,写真にも収めていたが,迂闊にも石棺であることすら気づかなかった.

 前者に関しても,たった一度行ったサン・ソヴールで,かなりじっくり見て,写真も撮り,しかも「聖ミトルの石棺」として報告ページ(上から4つめの写真)で写真を紹介しているのに,その時は図柄までは思いが至らなかった.

 サン・ソヴールの石棺の正面では,またサンタンブロージョの石棺でも4面の中の1面でも,キリストの足許に死者の夫妻が跪いているのが小さく彫り込まれており,中世の宗教画で寄進者が小さく描き込まれる伝統の先蹤になっているかも知れない.今なら見逃さないのに,残念だ.

 ルーヴル美術館の写真付きデータベースに拠れば,上記の「三王礼拝」が彫り込まれた石棺パネルは「三王礼拝と燃えさかる炉の中の3人のユダヤ人」(後者は『旧約聖書』の「ダニエル書」3章から)であり,4世紀後半のもので,アルジェリアで出土したもののようだ.

 「良き羊飼い」(3世紀半ば)の他に,新約,旧約の場面を彫り込んだ石棺(4世紀)もあるようだが,データベースも網羅的ではないのか,思ったよりも見つからない.

写真:
かまぼこ型の蓋の側面に
獣面の装飾がある石棺
サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂
ラヴェンナ


 サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂には,堂内に多くの石棺が置かれているが,多くは,上の写真のような,かまぼこ型の蓋の石棺で,浮彫も多くは,十字架,植物文様,向かい合う鳩,孔雀,羊など,象徴的なものが多い.クリスモンも少なくない.キーとイオータの組合せもある.

 神秘の小羊の他に,玉座の少年に両側から大人たちが捧げ物をしているように見えるものあって,人物表現がまったくないわけではないが,概ね象徴物が多いように思える.

 数は少ないが,グラードで見たような,三角屋根の四隅に張り出し装飾のついた蓋の石棺もある.サンタポリナーレ・イン・クラッセでは地味なものが一つだけだったが,ガラ・プラキディア霊廟では,3つある石棺のうちの2つがこのタイプで,霊廟とサン・ヴィターレ聖堂の間にある空き地には野ざらしの石棺が複数あったが,このタイプのものもあった.

 かまぼこ型の蓋の石棺の中でも,下の写真のものは,数本の柱によって区切られた壁龕が連なったような装飾が施されている.この石棺では,向かい合う孔雀,十字架,樹木がそれぞれの壁龕に収まる形になっている.

写真:
かまぼこ型の蓋一面に
丸瓦のような模様がある石棺
サンタポリナーレ・イン・
クラッセ聖堂


 サン・フランチェスコ聖堂の堂内で見た石棺(下の写真)は,三角屋根型で,複数の壁龕装飾画あり,それぞれに人物が配されている.

 このタイプの装飾は非キリスト教の古代石棺にもあり,ヘラクレスの難業などが一場面ずつ,壁龕に彫り込まれている場合が多いように思う.もちろん下の写真の場合は,キリスト教の聖人であろうと思われる.

 この石棺はさらに,獣足の土台が目を惹いた.堂内が暗く,写真がよく写っていないので,確認が難しいが,三角破風の部分は,円環に囲まれたクリスモンの脇に一対の鳩が彫り込まれているように見える.

 サン・フランチェスコのでは他に,石棺の本体部分を利用した説教壇を後陣で見ることができた.

写真:
獣足の土台に乗った石棺
サン・フランチェスコ聖堂


 獣足の石棺は,大聖堂にもあった.今回,幾つか見た石棺の中では,めずらしく説明があるのが,下の写真の石棺で,「聖バルバティアヌスの石棺」(サルコーファゴ・ディ・サン・バルバツィアーノ)と言う通称を持つ.17世紀までは,ラヴェンナとクラッセの間にあったサン・ロレンツォ・イン・チェザレーア教会にあったもので,サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会の創建に関わった,ガラ・プラキディアの聴罪司祭だったバルバティアヌスの聖遺物が納められていて,この通称があるようだ.

 正面中央の人物は聖書を持って祝福を与えるキリスト,その向かって左側の人物は書物を持っているパウロ,右側は十字架を持っているペテロとされる.

写真:
「聖バルバティアヌスの石棺」
獣足のデザインの土台
ラヴェンナ大聖堂


 この石棺が置かれている礼拝堂が,「汗の聖母の礼拝堂」(カッペッラ・デッラ・マドンナ・デル・スドーレ)で,バルバティアヌスの石棺に向かい合って置かれているのが「福者リナルドの石棺」(サルコーファゴ・ディ・ベアート・リナルド)と名付けられている石棺である.

 福者リナルドとは,14世紀のラヴェンナ大司教リナルド・コンコレッツォにちなむようだが,石棺自体は,バルバティアヌスの石棺と同じく5世紀のものである.

 中央に坐るキリストの玉座の下から,創世記(2章10-14章)に出てくる,エデンの園から流れ出す4つの川が表されていて,向かって左からキリストに王冠を捧げているのが,額が後退しているパウロ,右から十字架を担いで,王冠を捧げているのがペテロとされる.

 ラヴェンナで見た他の石棺に比べ,素材も高価(後者はギリシアの石)なもので,彫刻も確かに見事に見えるが,堂内に何気なく置かれていたり,野ざらしになっていたりする石棺の方が,個人的には魅力的に思えた.


ボローニャで見た石棺
 ボローニャで,サン・ペトロニオ聖堂に向かう途中に傍を通ったサン・フランチェスコ聖堂は,柵越しに後陣を見ただけだが,ゴシックの重厚な建築が魅力的で,ボローニャを再び訪れる機会があれば,是非拝観したいと思った.

 しかし,最初に目に入ったのは後陣や鐘楼ではなく,9本の柱に支えられた床の上の,四方を3連アーチによって囲まれた空間に,石棺のようなものが置かれていて,その上に緑色の三角屋根がかけられている構築物が3つ並んでいるという,少なくとも初めて見る者にとっては,奇異に感じられる光景だった(下の写真).

写真:
サン・フランチェスコ聖堂
ボローニャ


 しいて言えば,ヴェローナのサンタ・マリーア・アンティーカ教会に付随するカングランデ1世,マルティーノ2世といったスカーラ家の君主たちの墓廟,サンタナスタージア聖堂の堂外にあったグリエルモ・ダ・カステルバルコの墓,パドヴァの通称「アンテーノールの墓」などが思い浮かぶ.

 そういえば,乗り換え,通過以外でボローニャを初めて訪れた時,サン・ドメニコ聖堂の堂外でも同じような墓廟を見たことがあった.伊語版ウィキペディアで,その写真を確認すると,今回,サン・フランチェスコの裏側で見た3つの墓廟と良く似ている.

 これらを総称して,「ボローニャ学派の教会法注解者たちの墓」(トンベ・デイ・グロッサトーリ・デッラ・スクオーラ・ボロニェーゼ)と言うようだ.

 ボローニャと言えば,最古の大学,ボローニャ大学と言えば法学,であろう.イタリア最高の詩人たちであるダンテもペトラルカも学んだが,イタリア中世の教会組織や君主国,共和国を支えたのは,ボローニャでローマ法と教会法を学び,それらに精通した法律家たちだった.

 私たちがサン・ドメニコの堂外で見たのは,ロランディーノ・デ・パッサージェーリの墓だったようで,これはサン・フランチェスコの3つの墓と同じように緑色の三角屋根で,9本の列柱の上の床に,4面が3連アーチがあり,そこに棺が置かれているタイプだ.

 しかし,写真を比べると,上の写真の墓は半円アーチだが,ロランディーノの墓は,尖頭アーチでよりゴシックの雰囲気を感じさせる.よく覚えていないが,ロランディーノの墓の近くには,茶色の三角屋根のエジーディオ・フォルケラーリの墓もあったようだ.

 サン・フランチェスコの3つの墓廟は,後陣に向かって右から,ロナルディーノ・デイ・ロマンツィ,オドフレードアックルシオ(アッコルソ・ダ・ボローニャ)の墓とのことだ.上の写真は棺の形と,後陣との位置関係から考えると,オドフレードの墓のようだ.1265年に亡くなった人物で,サン・ドメニコのロランディーノ・デ・パッサッジェーリは1300年が没年なので,それぞれの墓のアーチがロマネスク風の半円アーチ,ゴシック風の尖頭アーチであるのは,あるいは根拠のあることかも知れない.

 サン・フランチェスコでもロランディーノ・デイ・ロマンツィの墓は尖頭アーチが使われている.人物についての情報はないが,墓は1285年以後ということで,ようやくゴシック様式が定着し始めた時代を表しているかも知れない.

 アックルシオの3人の息子も有名な法律家になり,その中の1人がフランチェスコ・ダッコルソで,オドフレードはフランチェスコの弟子ということなので,やはり世代差があるだろうが,どちらの墓も半円アーチなので,北イタリアでもまだゴシックの流行に対して保守的だったと言うことだろうか.

 場合によっては中世のヨーロッパ史に大きな影響を与えた法学者たちも,今の私にはまだ,ただの名前でしかないので,これ以上は踏み込まないが,これらの墓廟は興味深く思えた.



 これを書きながら北イタリアの旅を整理していて,なるほど今回は,古代末期とロマネスクのキリスト教文化に集約される旅であったのかと思うに至った.

 もちろん,ゴシック,ルネサンス,バロック,近現代の文化,芸術にも多く触れたわけだが,古代末期から中世にかけて総大司教座であったアクイレイア,グラード,チヴィダーレ,ウーディネをまわって,やはり古代末期の初期キリスト教時代とランゴバルドのイタリア支配を意識せずにはいられなかった.

 また,ラヴェンナを再訪して,西ローマ帝国末期,東ゴートのイタリア支配,ビザンティン帝国のイタリア回復の時代を改めて考え直した.

 ヴェネツィア,ポンポーザ,パドヴァ,ボローニャ,モデナと言った,北イタリアの諸地域をめぐって,ロマネスクからゴシックの時代の諸都市とそれらを結ぶ街道の発展にも思いが至った.

 古代,中世,ルネサンスを考えるにあたって,イタリアそしてヨーロッパの歴史を振り返ってみると,古代末期にキリスト教が優勢になって,衰退する古典文化とのせめぎ合いの中で,新しいヨーロッパができる.教科書的には長い衰退と沈黙の時代と片づけられることもありがちだが,キリスト教,東ゴート,ランゴバルド,フランクの栄枯盛衰がヨーロッパを作ったのだと言う思いを新たにした.

 今年は,授業の担当時間が多く,1学年170人の学生が3学年分在籍する「論系」と言う名のコースの主任の仕事が継続したので,3月に行った旅行の報告を9月まで引きずってしまい,書き終わらないうちに,夏期休暇を利用して,1週間,ローマに行って来たので,次回から6度目のローマでの見聞をまとめる.

 非常事態対応で引き受けた論系主任の任期は9月半ばまでだが,義理と人情の大学に勤めているので,9月下旬から新しい校務を背負うことになった.来年3月までは授業担当も減らず,翻訳の仕事もあるので,またしても難航が予想されるが,少しずつ新たな知見を報告し続けたい.イタリアとその周辺の旅行報告を書いている時が,一番楽しい.自分にとって勉強にもなっているだろう.






風雨の日もあれば のどかな日もあり
北イタリアの春の旅
マゼールにて