フィレンツェだより番外篇
2014年10月7日



 




7万本の松林があった高田松原
日本百景のひとつに数えられていた



§2014ローマの旅 - その3 (特別編 帰郷)

自分の故郷に,旅行会社の企画した2泊3日の旅(以下,ツァー)に申し込んで,連れて行ってもらうのは,自虐的な感じがしないでもなかった.


 逡巡を越えて申し込んだのは,宿となるべき実家は跡形も無く,鉄道が失われてからの交通手段もきちんと調べる気力が無いまま帰郷が遠くなってしまったことに危機感があったのと,どのような形であっても地元の経済に貢献できればという思いもあった.

 という訳で,“2014ローマの旅”の連載が始まったばかりであるが,挿入特別篇として「陸前高田の今と気仙(けせん)の黄金街道」のツァーの報告をする.


「黄金街道」ツァー
 ツァーに参加した9月7,8,9日,大学はまだ夏休み中だったが,新宿の朝日カルチャーセンターの授業は通常どおりで,ソポクレスの『オイディプス王』(ギリシア語),アウグスティヌスの『告白』(ラテン語)の講読に,いつも万全の予習をして出席して下さっている皆さんには休講でご迷惑をお掛けすることとなった

 休講をお願いしてまで帰郷した背景には,上述のように,自分はこのまま故郷の町と疎遠になってしまうのではないかという危機感があった.家族,親族の支えで,両親の3回忌を無事執り行ない,津波で亡くなった6人の中学(震災当時,俄かに有名になった高田一中)同級生の追悼会で帰郷してから既に1年半が経っていた.

 縁あって岩手の自治体から仕事を依頼された同僚(年齢差はそれほどはないが,若くして衆望を担っておられたので,思い入れて学部の4年間ずっと授業に出させていただいた恩師でもある)が,岩手に仕事で行くたびに,高田の様子を見て来て下さり,様子を教えていただいていた.その,日々様変わりしている町をこの目で見たいと言う思いもあった.

 そうした故郷への思いとは別の意味でそれと不可分ではあるが,「陸前高田の今と気仙(けせん)の黄金街道」と言うツァー名にも魅かれた.

 ツァーのポイントは3つに集約される.
 1.大震災と大津波の被害と,そこからの復興
 2.産金遺跡と,その歴史
 3.「気仙大工」の建築と技能

 このツァーを取材した地元新聞の記事をウェブページで読むと,企画側の意図は,地元のことを何も知らない皆さんに歴史と現状を知ってもらうことにあって,地元出身で訳知りの大学教員など,本当は招かれざる客だったかも知れない.それでも私にとっては知らないこと,学ぶことが多く,それ以上に様々な意味を持つ旅であった.


陸奥国の黄金

奈良の大仏が創られた時,渡来人の子孫である百済王(くだらのこにきし)敬福(きょうふく)と言う人物(日本語版ウィキペディアに「百済王敬福」が立項)が陸奥守(むつのかみ)となり,任地から金が発見されたと報告の上,金を天皇に献じた.


 高校時代,在学した学校のシステムの関係で「日本史」は履修できなかったが,大学受験に必要だったので,山川出版の教科書を書店で入手し,友人にも助けられて独習した.驚くほど細かい事まで覚えなければならず,「世界史」ほどなじめかったが,もともと日本の歴史自体には興味があり,比較的熱心に勉強した.

 「六国史」(りっこくし)という用語も覚えた,主として漢文で書かれた「正史」で,日本書紀,続(しょく)日本紀,日本後紀,続日本後紀,日本文徳天皇実録,日本三代実録(日本語版ウィキペディアに「六国史」で立項)からなるが,古事記と並んで記紀と称され,神話伝承を考える上で重要な日本書紀はともかく,その他は普段は私にとってはただ名前だけの存在だ.

 それでも書架に,講談社学術文庫の3巻本『続日本紀』(宇治谷孟による現代語訳)がある.その中巻に,聖武天皇が左大臣,橘諸兄にさせた大仏への報告が掲載されている.

 三宝の奴としてお仕えしている天皇の大命として,盧舎那仏像の御前に申しあげよう,と仰せられます.この大倭国では天地の開闢以来,黄金は他国より献上することはあっても,この国にはないものと思っていたところ,統治している国内の東方の陸奥国の国守である,従五位上の百済王敬福が,管内の小田郡に黄金が出ましたと申し献上してきました.これを聞いて天皇は驚き喜び貴んで思われるに,これは盧舎那仏がお恵み下さり,祝福して頂いた物であると思い,受け賜り恐(かしこ)まっていただき,百官の役人たちを率いて礼拝してお仕えすることを,口に出すのも恐れ多い三宝の御前に,かしこまりかしこまって申し上げますと申します.(中巻,pp.73-74)

と訳されているが,原文は,ウェブページにある.

三宝〈 乃 〉奴〈 止 〉仕奉〈 流 〉天皇〈 羅我 〉命盧舍那仏像〈 能 〉大前〈 仁 〉奏賜〈 部止 〉奏〈 久 〉。此大倭国者、天地開闢以来〈 爾 〉黄金〈 波 〉人国〈 用理 〉献言〈 波 〉有〈 登毛 〉。斯地者無物〈 止 〉念〈 部流仁 〉。聞看食国中〈 能 〉東方陸奥国守従五位上百済王敬福〈 伊 〉、部内少田郡〈 仁 〉黄金出在奏〈 弖 〉献。此〈 遠 〉聞食、驚〈 岐 〉悦〈 備 〉貴〈 備 〉念〈 久波 〉。盧舍那仏〈 乃 〉慈賜〈 比 〉福〈 波陪 〉賜物〈 爾 〉有〈 止 〉念〈 閉 〉、受賜〈 里 〉恐〈 理 〉、戴持、百官〈 乃 〉人等率〈 天 〉礼拝仕奉事〈 遠 〉、挂畏三宝〈 乃 〉大前〈 爾 〉、恐〈 無 〉恐〈 無毛 〉奏賜〈 波久止 〉奏。

 昭和15年(1940年)刊行の朝日新聞社版の『増補 六国史』に拠っているようだが,テクストについては特に説明は無いので,確信は無いけれど,漢文の地の文の中に引用された和文体のもの(「宣命」)なので,<>内の漢字は,今で言うと,助詞や送り仮名の類であろうと推察される.宇治谷訳と対照しながら読むと,殆んど理解できる.なるほど,日本語と言うのは文語レヴェルでは,明確な連続性があることがわかる.

 同時代のヨーロッパでは,たとえ稚拙であってもラテン語で書いてあれば,現在でも(ラテン語を学習すれば)相当程度理解できるが,そもそも西欧言語ではラテン語以外に「文語」が存在していないに等しかったことを考えると,漢文(文語中国語)と言う圧倒的に高水準の文化言語に依存するところ大であるとは言え,かなりの独自性を確立していた,この時代の日本の文化と,日本語の状況は非常に興味深いと言える.

 この記事は,天平21年(749年)の4月1日のものだが,同年2月22日の記事に「陸奥国からはじめて黄金を貢進した」(p.72)とあり,また4月1日の記事では敬福(宇治谷訳では「けいふく」とルビ)は,従五位下から従三位と7階級特進(各位に,「正」と「従」があり,五位以下にはそれぞれに,上,下があるのは,高校の古文で,少なくとも私たちが高校生の頃には習った)し,さらに4月22日の記事に「陸奥守・従三位の百済王敬福が黄金九百両を貢進した」とある.

 一連の経緯は,

中西進『聖武天皇 巨大な夢を生きる』(PHP新書)PHP研究所,1998(以下,中西)

に分かりやすく整理されているが,その際に,言及した史料が以下のもので,原文はウェブページで見られる.

廿一年(天平感寶元)己丑正月四日,陸奧國守從五位上百濟敬福進少田(ヲダ)郡所,出黃金九百兩。本朝始出黃金時也。仍敬福授從三位矣。或記云:「東大寺大佛料,為買黃金,企遣唐使。然宇佐神宮託宣云:『可出此土。』者。」世傳云:「天皇差使於金峯山,令祈黃金之時出矣。」託宣,【一云,入夢。】云:「我山之金,慈尊出世時,取可用。但近江國志賀郡瀨田江邊,有一老翁石座,其上作觀音像,敬致祈請,黃金自出焉。」仍訪求其處,安置如意輪觀音像。【今石山寺是也。】沙門良弁法師祈誓件事,其後不歷幾日,從陸奧國獻金。件金先分百廿兩,奉宇佐神宮。

 こちらは,多分,日本的なのではあろうが,基本的に漢文なので,むしろ分かり易い.『扶桑略記』(日本語版ウィキペディア「扶桑略記」参照)という書物である.

 『続日本紀』にはない「少田郡」への言及があり,参照したウェブページのテクストでは「ヲダ」と言うルビがふられ,多くの参考書その他で「小田郡」とされていて,現在の宮城県遠田郡涌谷町であると推定されている.

 涌谷町には「黄金山神社」が現存し,鎮座の地は「日本で初めて金を産出した場所」(日本語版ウィキペディア「涌谷町」,「黄金山神社」参照)とされている.

写真:
鹿折金山の採掘坑道
(宮城県気仙沼市鹿折町)


 『続日本紀』にはない情報として他に,当時,日本では金が産出しないと思われ,遣唐使を派遣して金を買い求めようとしたところ,宇佐八幡の託宣に,「必ず日本で見つかる」とあり,天皇が吉野の金峰山(きんぷせん)に使いを出して,金(きん)を求めると,「近江の国志賀郡の瀬田に,老人が一人座っている石があるが,これに観音像安置して祈れば金が出る」と言う託宣があり,良弁法師がその通りにすると,まもなく陸奥で金が出た(基本的に中西の引用を参照)と言うものがある.


「史書」の中の「史実」
 大学時代から,専門とは全く別に愛読していた本に,

坂本太郎『史書を読む』(中公文庫)中央公論社,1987(以下,坂本)


がある.どちらかと言えば,日本の歴史より中国の歴史が好きで,小学校高学年から,親が買ってくれた「世界名作文庫」で,繰り返し繰り返し『水滸伝』と『三国志』を読んだ.

 『水滸伝』と『三国志』は,厳密には「歴史」ではないが,これらを導入として,中国の古典に興味を持ち,それらを啓蒙的に解説し,訓点無しの漢文と漢字かな交じりの訓読に訳解を施した,徳間書店から出ていたシリーズ(中国を専門とする人は絶対に読まない,「俗書」の類かも知れないが,私は好きだった)を実家から3軒東隣の本屋,菅勝書店で売っていたので,中学に進んでから揃いで買って貰って読んだ.

 NHKで放送していた「日本史探訪」を活字化して角川書店が出版したものも,親が揃いで,この本屋から買ってくれた.今は,高田馬場などのブックオフで文庫本になった端本を1冊ずつ集めているが,まだ揃わない.

 何度も同じ言い方になるが,少年時代に自我を形成したこれらの書物も,全て津波で流された.ウェブ上の古本屋で購入し,再入手したが,今後,これらを熱心に読むかどうかはわからない.

 それに比べれば坂本の本は,少し高級で,大学に入ってから買ったものだ.「横文字」の勉強をしていると,時々無性に「縦文字」が読みたくなる.日本史よりも中国史の方が好きだったけれども,坂本のこの本は,「縦文字」を読みたいという私の渇を充分に癒してくれた.帰省して,実家の自室のベッドでゴロゴロしている時に,読む頻度が最も高かった本の1つだ.

 もちろん,これも津波で流され,最近,ワセダの古本屋で再入手した.要領の悪いのがいけないのか,最近は縦文字を読みたくなるような心の余裕すらなく,本棚の重しになっている,と言いたいところだが,文庫本なので,大して重くない.

 この本で,一時代前には日本を代表する歴史家(日本語版ウィキペディアに「坂本太郎」で立項)であった坂本が『続日本紀』も『扶桑略記』も取り上げて解説している.どちらに対しても史書としての評価は厳しい.

 前者に関しては,桓武天皇の時代に編集された,当時の「現代史」であるところが,まず「正史」としては異例であり,実弟の早良親王を憤死せしめた事件をめぐって天皇みずから史稿への削除を行ったことに,坂本は史書としての欠陥を指摘する.

 桓武の父,光仁は天智の子孫であり,光仁以前の諸帝が,壬申の乱で,天智の子である大友皇子を倒して権力を確立した天武の子孫たちだったことを考えると,正統性の主張のためにも,前代の政権に否定的評価を下す必要があったかも知れないと素人でも思う.

 あらゆる歴史に完全に公平な視点はあり得ないが,その中でも,一定の公平性を保持するためには,帝王が同時代の歴史記述に対して,口をはさまないと言うのが「正史」が最低限守るべき建前と言うことも理解できる.

 坂本は歴史家として『続日本紀』の編集姿勢を批判している.編者が前半と後半で交代し,編集方針が一貫していないことも批判の対象となっている.ただし,聖武天皇が娘(孝謙天皇)に譲位する寸前に,大仏鍍金が必要なタイミングで,産金が実現した記事に関しては,坂本の批評は,少なくとも上記の本にはない.

 日本仏教史の研究や田沼意次の再評価で知られる辻善之助(日本語版ウィキペディアに「辻善之助」で立項)は,「黄金産出による富裕を宣伝して,困難な鋳造事業を鼓舞したのであって,実際は奥羽からは黄金は出なかった」としたらしい(杉山二郎『大仏建立』学生社,1968年,p.218).

 しかし,現在手近に読むことができる参考書類で,産金の事実そのものを否定する記述は見られないように思える.

 宮城県涌谷町に始まるかどうかは措くとして,その後,現在の宮城県北,岩手県南地方で産金が行われ,直接の関係を証明することはできないかもしれないが,後世,平泉中尊寺の金色堂に象徴される黄金文化が栄え,最近まで多くの金山で採掘が行なわれていたことは紛れもない事実だ.突然,黄金が出てきたわけではないだろうから,西暦749年の時点で,東北地方で産金の事実があったことは確かだろう.



 『扶桑略記』に対する坂本の説明は,興味深い.

 今日でも,史学者の書いたむずかしい史書よりも,作家や評論家が自由な立場で書いた史論や伝記が,人びとに歓迎される.国家の風教に関する事実を取り上げるのが主眼だといっているような六国史には,大衆はどうも近よりがたい.不思議な神仏の霊験の物語や卑俗な街談巷説の類に,多くの人びとの興味の集まることは今も昔も変わりはない.
 『扶桑略記』はそうした卑俗の物語を多く載せた史書である.よほど世の中にもてはやされたとみえて,中世以来の人びとの歴史知識は,もっぱらこの書に由来するいっても過言ではない.その意味で史学史上無視できないものがる.
(p.83)

 たとえば,文学作品であれば,神話を背景として,超自然的な出来事が前提とされても,それは神話であり,寓意であり,比喩であると思えば,受け容れることはそれほど困難ではない.今,最も時間をかけて講読を進めている『オイディプス王』もその典型と言える.

 しかし,それが「史書」となると,神話や伝説は,「史実」として受け取り難いのは,当然のことだろう.

 同じく文化勲章受章者でも,坂本は史料に基づく史実を重んじ,中西は文学研究を基盤とする学者である.『扶桑略記』の記述を引用した上で,中西の想像力は海を越えて,大陸の黄金文化に想いを馳せる.

 中西は,中国の文化を「玉(ぎょく)の文化」とした上で,黄金を尊重するのは「ユーラシア文明」として,その中の「スキタイ文明」の影響を強調している.これが,新羅に影響して,さらに海を渡って日本に伝わったと推定している.

 信頼のおける記録があるか,考古学的資料が出土しない限り,証拠の無いことに関しては,全て推定になる.ある程度の推定を含まなければ古代史の出来事の再構成は難しいが,いかに大家と言えども,推定を伴う歴史像に関しては,どうしても説得力が減ずる.

 中西の推定は,壮大なものなので,確証は全く無いが,魅力的に思える.聖武天皇治下における金鉱(とは断定できないが)の発見者が朝鮮半島からの渡来者の子孫であることは,やはり,その周辺に金を採掘する技術者がいたのであろうとの推測を産む.


「産金」とはどういうことか
 金山,金鉱と言うが,現代のように機械を使った採掘技術はなかった戦国時代以前の産金は主として砂金である.鉱石を砕いて精練する方法は,安価な労力が確保できて,技術が進歩していないと,採算が取れない.

 砂金にも,川砂金と浜砂金があり,さらに土中に混じた金を選別する土金(どきん/つちがね)も金採集の重要な方法の一つである.これらのことは全て,今回学んだ.

天平の金鉱発見に際して,

すめろぎの御世栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲く
須賣呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知(乃)久夜麻尓 金花佐久 - 『萬葉集』巻18 4097

(日本語版ウィキペディア「百済王敬福」から引用)

と,大詩人,大伴家持が詠じたことが知られている.現代風漢字かな交じりの中の「東」が「あづま」と読むことは,万葉仮名の引用によって分かる.作品そのものは平凡以下の水準だと思うが,「黄金花咲く」と言う隠喩表現と,「みちのく山」と言う鉱山を思わせる措辞が印象に残る.

 家持が「みちのく山」と言った時,本人が何をイメージしていたかはわかならいが,この歌を最初に聞いた時,私たちは「金山」(きんざん)と言う言葉に象徴される鉱山を思い浮かべるだろう.その際に,砂金よりも,やはり鉱石の塊を砕いて,その中から金を抽出する手法を思い浮かべる.

 しかし,実際には古代,中世は少なくとも日本では「砂金」が主流であったようだ.

 たまたま,ウェブ上の「日本の古本屋」で貴重な冊子を入手していた.

 産金遺跡研究会『祝気仙郡建郡千二百年 黄金の在処と行方 気仙地方とその周辺の産金遺跡』大船渡,産金遺跡研究会,2012(以下,『黄金の在処と行方』)


 この会の会長が,今回のツァーで講師を務めて下さったH先生であった.

 私は「先生」と呼び合う業界に身を置いているので,基本的に「先生」と言う呼称をあまり使わないようにしている.同僚には「~さん」と言い,「~先生」と呼ぶ場合は本当に尊敬しているか,年長者なので他に言いようがない場合だけだ.しかし,H先生には「先生」としか呼びようのない,求道者の風格があった.

 ちなみに副会長は,名簿(名前と住所)と写真で確認すると,私が中学生の時,「技術・家庭」その他を担当されたS先生であることが分かった.もう40年近くお会いしていないが,ご自宅のある大船渡市盛町から,峠を越えて高田一中まで毎日50ccのバイク(「カブ」と言っていた)で通勤されていたことを思い出す.個人的に特に親しいわけではなかったが,ご自宅は母の実家「佐清本店」の近所なので,多少の情報があった.まじめで誠実な先生であったと記憶する.

 私は「産金」には全く興味がなかったが,上記の冊子を買ったのは,ともかく何でも良いから,喪ってしまった郷土の本が欲しかったと言うのが,主たる理由だった.しかし,今回のツァーに参加して,この冊子を入手しておいて本当に良かったと思った.

 いかに産金に関心のない私でも「砂金」と言う用語には聞き覚えがあり,正確ではないであろうが,ある程度,それを採集する様子も古いアメリカ映画などをヒントにイメージできる.しかし,「土金」(どきん/つちがね)と言われても何のことか全くわからなかった.

 「土金」でウェブ検索しても,なかなか産金関係のページはヒットしないが,「土金 産金」で検索すると,宮城県南三陸町の産金遺跡の紹介ページがヒットする.「砂金」ほど知られた用語でないことは明らかだ.

 原理的には砂金と同じく,金鉱石から何らかの作用で分離した金が相当量,土中に交じっており,砂金の場合は,一旦さらってしまうと,採集のチャンスは当分めぐってこないが,それに対して土中の金は,金鉱脈の近くにはかなりの量が存在していて,土を掘り,石をどけ,掘った土を洗って,土中の金を採集することになるらしい.

 鉱石を破砕して精練する手法※が中国から伝わる16世紀前半(天文年間)以前に,金採集の手法が主として砂金であったことは認識されていても,「土金」が少なくとも気仙地方周辺では重要な役割を果たしてきたことへの認知は十分でない.ウェブ検索しても明らかで,これに関しては私自身も理解が足りていない.

 ※(「灰吹法」で日本語版ウィキペディアに立項.それに拠れば7世紀後半に飛鳥地方でこの手法による銀の精練が行われていたとあるが,本格的な流行は日本では16世紀の石見銀山から)

 H先生を中心とする産金遺跡研究会は,以前から「土金」に注目し,指摘を続けていたが,古い参考書から,既に死語となっていた「土金」と言う用語がかつては使われていたことを確認したと言う(『黄金の在処と行方』p.85.).

 砂金の存在から,金鉱脈の在処が知られ,砂金では採集量に限界があるので,露天掘りの土金採集が行われ,安土桃山時代以降には,灰吹法の普及により坑道を掘って,鉱石を採集し,破砕,精練による採集法が主流となると理解して良いだろうか.有名な佐渡の相川金山などは勿論,気仙の玉山金山でも江戸期はこの坑道を掘って,鉱石を採掘する方法が主流となる.

 明治期以降は,機械が導入されて,近代的な鉱山経営が行われ,その痕跡が見られるのが,鹿折金山の坑道と言うことになるだろう.

写真:
玉山金山
和右衛門鉱の採掘坑道
(岩手県陸前高田市竹駒町)


 玉山金山遺跡へは,竹駒町でも高田町に近い側から登って,「方八丁」と称して,そこから先は親殺し,主人殺し以外の罪であれば,それを犯した人も,罪を問われず,金鉱労働者として受け入れられるという結界標があった場所,「玉千軒」と言われた集落跡,金山名主の松坂家の屋敷跡を車窓から見学しながら,「金堀どもの夢の跡」の感慨に浸った.



 和右衛門坑の入口を見た後,殆んど唯一の有形遺産と言える,玉山神社,通称「玉御前」に参った.石段,鳥居,小さな祠,石碑などがあり,それなりの雰囲気がある.

 山道を歩いて行くと,石英がごろごろ転がっていて,「玉山」の地名の由来を実感するとともに,こうした石がある近くには,金鉱脈がある場合が多いと言うことも知った.

 H先生が使う地元の言葉では「がくま」と総称されるシダ類の植物の群生も金鉱脈の存在を知る目安であることを鹿折と玉山,重倉金山跡で学んだ.

 「金山シダ」でネット検索すると「ヘビノネゴザ」と言うシダ類を説明したページがヒットする.『産金の在処と行方』に「がくま」を説明した箇所(p.86,p.114)があり,写真付きで一定以上の情報が得られるが,複数のシダ類がこれにあたる可能性があるようだ.『産金の在処と行方』には「砂金から流出する微量な硫酸分が,他の植物の発芽を妨げているのではないか」と疑問形で群生の理由を推測しているので,あくまでも経験上の知識のようだが,確かに,産金遺跡のシダ類の群生を実見すると,説得力を感じる.

 「ヘビノネゴザ」でネット検索すると「富山大学 理学部 生物圏環境科学科 環境植物生理学研究室 」のページがヒットし,「重金属毒性に耐性があるだけでなく,高濃度の重金属を蓄積する性質がある」という簡潔な説明とともに写真も掲載されている.「がくま」がこれにあたるかどうかは,なお検討が必要であろうが,同じシダ類に属するものであることは間違いないだろう.


産金の集落
 山を下りる時は,竹駒町でも高田町とは反対側の横田町に近い,壺沢(つぼのさわ)側を通った.H先生のご先祖は,ここに他地方からやってきた金山関係者で,さらに大船渡市猪川町に分家し,そこも産金遺跡のある土地であったとのことだった.

 猪川町は母の実家にも縁のある土地(ここに畑があったので,戦後の食糧難が乗り切れたと母はよく言っていた)で,私も無縁ではない.この竹駒町の壺沢も,現在仮設住宅に住む叔母の連れ合いの実家がある集落で,こちらも自分と無縁ではない.

 壺沢の「壺」(坪)と言う名称も産金に由来するもので,この集落には,産金の関係者で,西の方から移住して来た人の子孫が多く住むとのことだ.

 入学した中学,高田一中は,自分が通っていた高田小学校の他に,竹駒小学校,矢作町の下矢作小学校の卒業生も入学した.高田町ではめずらしい大坂,松坂と言う姓の同級生,先輩,後輩が中学になって複数できたが,西日本から移住してきた産金関係者の子孫が帰農,土着した家系と,H先生はおっしゃっておられた.

 中学時代のサッカー部の先輩で,壺沢出身の「実吉」(實吉)さんと言う方がおられたが,この姓は「みよし」と読んで,土金による産金の際の露天掘り,「みよし掘り」に拠る「みよし金」の見事なものを,領主の伊達氏に献上して,見返りに与えられた姓とのことだ.

 今回,その姓を名乗る産金研究者にツァーの立ち寄り先でお会いするすることができて,産金に関する短いレクチャーをしていただいたが,年恰好から言うと,私の先輩より少し年配の方のように思えた.

 妻の旧姓も「みよし」だが,四国の地名に由来するものなので「三好」と表記し,こちらの方が一般的で,次に多いのは「三善」という表記であろう.地名としては「三次」も比較的有名だ.「實吉」と言う表記の場合は「さねよし」と読むのが一般的で,陋屋の書架にも,ドイツ文学の翻訳者とアラビアンナイトの紹介者で,この姓の方々の著作がある.「實吉」と書いて「みよし」と読むのは,かつて産金集落であった壺沢の特姓と言えよう.

 「みよし掘り」をウェブ検索すると「常陸産金研究会」のページに解説があり,「信州のつるし掘り」と対比されて,「奥州のみよし掘り」と言われている.このページを見る限り,「土金」への認識も郷土史のレヴェルでは浸透しているように思われる.



 私たちの世代では,NHKの大河ドラマ「源義経」(1966年)の影響で,奥州の産金と言えば,加東大介が演じた「金売り吉次(きちじ)」が思い起こされる.日本語版ウィキペディアに「金売り吉次」で立項されており,伝説上の人物ではあるが,軍記物などの文学作品には複数言及があり,奥州で産出した金を京都で商った商人もしくは,その集団がいたのは間違いないだろう.

 吉次が住んでいたと言う伝説は各地にあるようだが,玉山にも吉次の屋敷跡と称される場所がある.

 やはり,ウェブ上の日本の古本屋で入手した本で,吉次伝にも一章を割いているのが,

片山正和『黄金の道』岩手出版,1990


である.ここでは若い頃のH先生も取材されているが,産金のロマンに取りつかれ,全生活をそれに投入された方も紹介されていて,その方の姓が「金」(きん)である.実は,気仙地方では「金」姓はめずらしくない.私の曾祖父の妹の嫁ぎ先も「金」で,その曾孫も含めて小学校の同級生には「金」姓が2人いた.

 この家系の最も有名な人物で,「前九年の役」に関わった「金為時」が日本語版ウィキペディアに立項されている.私の理解では,気仙郡司となって,畿内から下向した,安倍(阿部)為雄(ためかつ)が,朝廷に金を献上し,その功績によって「金」姓を与えられたというものだった.

 事実とすれば,郡司着任が貞観元年(859年),金姓下賜が貞観13年(872年)のこととされる(『黄金の在処と行方』,p.8)ので,9世紀のことだ.

 カール大帝の帝国が3分割され,現在のドイツ,フランス,イタリアのもとができたとされるヴェルダン条約が843年で,その前年の「ストラスブールの誓い」の本文がラテン語の他に,ドイツ語,フランス語でも残っており,ラテン語から派生したロマンス語(フランス語,イタリア語など)が文語として機能したほぼ最古の例とされる.

 日本では貞観8年に,有名な「応天門の変」があり,これによって他氏族を追い落とした藤原良房が人臣として最初に「摂政」となり,藤原北家の支配が確立した時代である.

 日本語ウィキペディア「貞観」を参照すると,貞観6年に富士山が,貞観13年に鳥海山が,貞観16年に開聞岳が噴火した記録があるとのことで,貞観11年に「貞観地震」(日本語版ウィキペディアに「貞観地震」で立項)とそれに伴う大津波があり,この年は西暦869年なので,東日本大震災の大津波が,「千年に一度」と言われる根拠はここにあるのだろう.

 これらのことは,「六国史」の一つである「(日本)三代実録」の記録によって知られるようだが.為雄の郡司着任と金姓下賜の典拠史料は,私は把握していない.

 金為雄の家系の人たちは気仙人として,千年に一度の大津波を二度経験したことになる.

 「金」は気仙では「きん」と読むが,日本語版ウィキペディアは「こん(の)」と訓じており,ここから派生した金野という姓は「きんの」と読む場合も,「こんの」と読む場合もあり,小学校の同級生にはどちらもいた.

 さらに,今(こん),昆(こん),今野(こんの),紺野(こんの)と言う姓の人たちも,気仙郡司だった「金」氏の子孫とされる.同級生に今野姓もいたし,友人関係では思い当たらないが,紺野姓の人も気仙には多い.

 私の従姉の嫁ぎ先も紺野姓で,彼女の夫は市内の横田町の出身だった.気仙沼の会社に勤め,若くして事故で亡くなったが,従姉はその会社に勤めて,子どもを育て,家も建てて鹿折で暮らしていた.しかし,その家は津波で失われ,今は仙台で職を得た子どもの所にいる.

 震災の前年の高田の五年祭に参加した時,行列の裃姿でその従姉と一緒に写真に納まったが,その時,今は一関市に編入された大東町大原に嫁いでいた別の従姉も一緒だった.大原は内陸部なので津波の被害はなかったから,震災後,家族を探しに帰郷した私たちに宿を提供してくれたが,その時既に癌と戦っていて,まもなく亡くなった.祭りの時に3人で撮った写真を家に飾ってくれていた.彼女の娘もワセダで学んだ.

 今回の旅行を企画し,ガイドを務めて下さったKさんも紺野姓である.



 気仙には今でも金鉱脈があるわけだが,採算が採れるほどものは恐らく既に無く,産金遺跡はまさに「遺跡」であって,「夢の跡」に過ぎない.可能性としては,観光資源になるかも知れないが,将来性は未知数であろう.

 今回のツァーは,催行人数に足りなかったが,旅行会社の英断で催行された.ただ,今回のツァーの参加者の皆さんは私たち以外は,もともと気仙とは縁の無い方々ばかりであったのに,地味な展示の金山資料館でも,江戸期,明治期の坑道跡でも熱心に見学され,山道も厭わず歩き,講師の話に熱心に耳を傾けておられた.

 産金遺跡だけでは観光資源としては少し弱いかもしれないが,後述する「気仙大工」などの独自文化と海の幸,山の幸の豊富さ(今回の宿だった,津波被害から復興した「キャピタルホテル1000」は,新支配人の目利きによるものであろうか,食事がうまかった.私の場合は地元出身のひいき目もあるかも知れないが,旅をご一緒した皆さん全員も同じ意見だった)とのセットで活路は開けるかも知れない.

 金掘りの人たちは,僥倖を願うにせよ,苛酷な労働に従事するにせよ,宗教心と無縁ではいられない.産金遺跡の多い気仙には,人口規模に比して,神社,寺院,小祠などが多いように思える.また,その所在地も金鉱の栄枯盛衰とともに移転している.

 そのような寺社を建立,再建,移転するにあたり,職人集団の活躍は不可欠であり,後述する気仙大工も産金遺跡の存在と有機的な関連があるだろうと思われる.


我が家の歴史
 順調にツァーの予定がこなされ,初日,2日目ともに,夕方,フリーな時間ができた.以前で言うと,町はずれに宿があるので,タクシーを呼んでもらい,初日は墓参をし,2日目は仮設住宅に住む叔母を訪ねた.

 叔母のところから宿に戻ってから,夕食までまだ時間があったので,少し距離があったが,歩いて実家のあった場所に行ってみた.



夏草の野はかつて町だった
宮城陶器店はここにあった

前年の祭りを2階の自室から
眺めた時,甍の続く先に,海は
おろか松原さえ見えなかった

私たちには海は遠い所にあった


 生まれたのは母の実家のある盛町の産院だが,ここで育ち,十五歳で出郷以降も,博士論文を書いていた年と,在外研究でフィレンツェにいた時以外は,盆と正月はここで過ごした.

 曾祖父が町内の荒町から居を移して以来,曾祖父の長女の婿になった家系上の曾祖父も住み,子どもが生まれなかったので,家系上の曾祖母が妹である私の祖母を養女とし,祖父を婿養子に迎え,宮城家の本拠は常にここにあった.

 その家を三男だった父が継いで,母が嫁いできた.母の実家は盛町,祖父の実家は矢作(やはぎ)町生出(おいで),家系上の曾祖父の実家は気仙町今泉,血縁上の曾祖母で,家系上は高祖母の実家は横田町,といずれも気仙の町や村である.

 『黄金の在処と行方』で,上述の気仙郡司「金氏」の館跡に触れ,最初に金姓を名乗った為雄が住んだとされる「赤前館」のあった場所を説明しながら,

 ここ横田町に「関根」という旧家があった.今は無人であるが,広大な屋敷だったらしい(p.8)

と述べている.この「関根」は,時代が違い,為雄の子孫でもないので,「金」姓ではなく松田姓であるが,私の血縁上の曾祖母の実家である.最後の当主は親しかった親戚のおじさんで,「よごだのおんつぁん」と言われていたが,高齢の人たちの中には「せぎねのだなさま」と言う人もいた.私はこのおじさんと50歳近い年齢差を越えて友達のように仲が良かったが,その頃は既に大地主ではなかった.

 確かにだいぶ前に亡くなったが,その長男は東京の大学を出て,関東で職を得,そこに私の叔母が嫁いでいる.3人の子供たちは,私のいとこになるわけだが,埼玉で生まれ育って,叔母夫婦もいとこたちも埼玉で暮らしている.義理の叔父は時々,帰っているようだが,多分,いとこの誰かが「関根」の家を継承するということはないのであろう.

 宮城家も高田に十数代続き,跡継ぎの配偶者がどこから嫁いできたか,あるいはどこから婿入りして来たか,記録があったわけだが,文書類は全て流され,私の記憶でたどれるのは血縁上の曾祖母の実家までである.そこはたまたま叔母の嫁ぎ先だったので,記憶にとどまったが,今回,産金遺跡をまわり,参考書として『黄金の在処と行方』を読まなければ,思い出すこともなかったかも知れない.

 母の実家のある盛も,家系上の曽祖父の実家があった今泉もそうだが,高田は近郷近在の村々を商圏として,街道筋に栄えた町だった.小なりと言えども「都市」であるから,他地域から商機を求めて,移住してくる人たちも多い.私の祖先も,直接は仙台から来たと言われているが,最古の産金遺跡とされる場所のある涌谷町の近くの登米市佐沼が,さらに祖先である人たちの居住地で,その周辺に,初代の留右衛門昌基の姓だった「米谷」(まいや)という地名もある.



 震災から半年後,スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラに行き,その報告として「巡礼」について考えた.

 その際,震災直後,盛町の母の実家で世話になり,叔父が運転してくれて遺体安置所をまわっていた時,川向うの猪川町にある書店で買った,

佐々木克孝『気仙三十三観音霊場巡礼 祈りの道』東海新報社,2010


に言及した.この本は震災後,

 『改訂版 気仙三十三観音霊場巡礼 祈りの道 被災地巡礼』東海新報社,2013(以下,佐々木)

として,あらためて出版された.ネット上では入手できず,出版元も遠隔地への直接販売をしないらしく,地元の書店でしか入手できなかったので,盛町在住の従弟に買ってもらった.この本には,三十三観音のある宗教施設だけではなく,津波で流されたり,大きな被害を蒙った寺社や祠の写真とそれに関する取材報告も掲載されている.

 そこに写真付きで,「商業の神 市神宮 陸前高田市高田町大町」と言うページがある.地元では「市神様(いちがみさま)」と言われていた祠だが,小さいけれど石造の中々立派なものだった.佐々木には言及がないが,古くからあった祠を元の場所から移し,有志から資金を募って石造の祠を建てたのは,私の祖先,小野寺屋仲兵衛(宮城亨)であることは,津波で流れる前にそこに置かれていた説明板にもあり,ネット上に残っている,震災前からのウェブページにも再掲されている.

 江戸に出て,荻生徂徠門下の服部南廓の学塾で学んだので,仲兵衛は立派な漢文を書いた.

 彼の文章としては,初代の祖先を顕彰し宮城家の来歴を語る碑文,長崎に旅行した際の紀行文(江戸の画家に依頼した肖像が描かれた掛け軸に書かれていた),式内社としの由緒を持つ氷上神社の由来と,京都に上って「正一位」の神階を貰ってきた時の経緯を述べた『社記』が有り,最後のものは,『神道大系』の「神社編26 陸奥国(上)」,もしくは「神社編27 陸奥国(下)」に収録されている.

 高校時代に桐箱に入った原本を,やはり親族だった宮司さんに見せて貰ったことがあり,大学院在学中には京都大学の附属図書館で上記『神道体系』の該当巻を見ていて偶然に祖先が書いた文章をみつけ,借り出してコピーしたが,このコピーも津波で流されたので,今は上記のどちらの巻だったか確認できない.

 勤務先の図書館にも蔵書があることは検索システムで確認済みだが,見に行く気力がない.私の記憶ではこれは漢文ではなく和文で,長いがどちらかと言えば,事務的な報告に思えた.

 もし仲兵衛に文才があったすれば,碑文と紀行文の,少なくとも私には見事なものに思えた漢文の方に発揮されたと思う.碑文の写しは失われたけれど,オリジナルの墓碑は山中の墓所にあるので残ったが,紀行文は原本も写しも失われた.

 私の記憶が正しければ,彼の自己規定としても「亭長の微職を拝す」とあり,高田村の検断の仕事が天職とは思っていなかったかも知れない.

 封建制度の中で,百姓身分なので,目に見える立身の道があるわけではない.ただ,上記のページで見られる,漢文を後代の人が読み下した,仲兵衛の文章を見ていると,少し読みにくいが,故郷(新参の宮城家も文政8年の1825年の段階で,既に高田で6代目であった)の村で,検断として商業を盛んにし,市場の合理的運営を図ろうとする気概を感じる.それを支える敬神の念にも小さな共同体の長としての責任感が溢れている.

写真:
防波堤も松原もない
海岸線の奥に,
消滅する愛宕山から
ベルトコンベアが
延びる


 墓石の多い宮城家の墓所の中でも,仲兵衛自身が建てた家祖の顕彰碑と並んで,彼の墓は江戸期のものとしては非常に立派だ.

 随分前に父が墓を掃除していて,「施主門弟」と言う刻文を発見した.記録がないので,詳細は不明だが,おそらく学塾を開いて,この地方の教育に貢献したものと推定される.彼の墓碑には,江戸期の庶民としては珍しいと思われる院号が付与され,「居士」ではなく「處士」となっている「戒名」は仏典ではなく,明らかに『論語』を典拠として選ばれている.

 明治以後の近代化を支えたのは,江戸期に達成された地方や都市の庶民の高い識字率と向学心であったように思われる.

 漢文で書かれた古典の読解力では,日本の地方文人たちは中国や朝鮮半島のエリート官僚の足元にも及ばなかったことは容易に察せられるが,盛んだった江戸儒学からは合理主義の精神を学び,教条にとらわれない柔軟な思考で,実学を重んじる姿勢は,おそらく農業経営や産業育成に深く関わった下級武士や,郷士,百姓身分の地方インテリたちが涵養したのではないかと想像する.

 今は親族からもらったPCファイルの写真しか残っていないが,仲兵衛(亨は雅名で,諱は尚基か尚保か昌尚であったように記憶するが思い出せない)の肖像は,私の父に似ているように思えた.

 祖先と言っても何代も前の人なので気のせいではあろうが,様々な思いを抱きながらも,誠実を旨として故郷である小さな町の庶民として,時代を懸命に生き抜いた父は,子孫たちの中でも最も仲兵衛に似ていたと思う.



 どなたが建てて下さったのかわからない(ウェブ検索すると行き当たるページによって,どなた様方のご後援かは分かった)が,かつて町内であった場所を歩いていると,自宅のあった,まさにその場所に「宮城陶器店」の名と,父の名を書いたプレートがあった.

 父の名は「巖」(いわお)であった.写真で見ると幸い気がつかないが,「厳」という間違った字が記されている.無位無官の商店主であり,それを誇りに思って生きていた父と,家族にとって,こうした書き間違いが生じたのは,いかにも父に起こりそうなことに思える.実際に親しい庶民同士では,名前の漢字表記など普段は全く意識していない.私も叔父や,叔母の名前をちゃんと漢字で書けるかどうか自信がない.

 この土地はかさ上げされて,地中に埋もれることになっている.それまでの僅かな間ではあっても,このようのプレートを立てて下さって,父と,彼とともに生きた母と,彼らが築き上げた宮城陶器店を想い起こして下さった方がいたことには,たとえ誤字が記されていてもそれは瑕瑾に過ぎず,有り難いことと思われた.

 新沼米店も,ライヴァルの後藤陶器・漆器店も,夏にはかき氷も商った八百屋の佐々木商店も,お茶の小谷園も,息子さんがワセダを出て東京で弁護士になった黄川田麹屋も,佐々木新聞店も,やはり息子さんがワセダを出た菅勝書店も,高砂商店も,昔は「横丁」と言う屋号の駄菓子屋で,都会で修業した息子さんの力で評判のケーキ屋になった清風堂も,母の親友がいた柴田屋も,角のタバコ屋も,柴田菓子店も,行きつけの床屋,理容米沢も,全て影も形もない.

 廃業したり,移転したりしてしばらくになるが,かつては自転車屋も,電器店,靴屋,酒屋,肉屋,文房具屋,牛乳屋,呉服屋,医院,産院(ここで弟が生まれた),歯科医院,警察官派出所もあって,私が育った西川原地区と荒町東端は,高田町内では比較的はずれに属していたが,小なりと言えども確かに「都市」だったのだ.

 ここに住んでいた多くの人たちが亡くなった.父だけではなく,ガキ大将だった新聞屋のマサフミちゃんも,母と仲が良かった菅勝書店の奥さんも,私が知る限り行方不明のままだ.

写真:
どれだけの土があって
かさ上げが実現するのか


 宮城陶器店のあった西川原地区から,道を南下してまっすぐ海の方に向かって歩き,川を渡った所に,父が商品を在庫していた倉庫があり,道を挟んでその東隣には,近所のコンビニに貸していた駐車場と,財産分けで貰った土地に建てた叔母の家があった.

 上の写真の左端がその川であり,この辺りも子供の頃から自分にとって遊び場であった.店で忙しい両親に代わって,まだ独身だった叔母が私の子守りをしてくれたので,父の兄弟姉妹の中でも,特に親しかった.

 叔母が結婚した相手は,小柄だが,凛々しく,若々しい大工で,彼は「気仙大工」であることを誇りに思っていた.

 気仙地方は海沿いで,山が迫っており,耕地が限られていたので,戦後でも義務教育を終えると,大工か左官の親方のもとで修業の後,他郷に働きに行く人が多かった.叔母の夫も,若い頃は北海道に仕事を求め,叔母もそれについて行った.気仙では一家の稼ぎ頭が他郷に出稼ぎに行くのはごく当たり前のことだった.

 義理の叔父は,高い技術の気仙大工の中にあって,傑出した職人ではなかったようだが,それでも確かな技術と,それに対する矜持があるのは,子どもの目から見ても分かった.


気仙大工
 その「気仙大工」が今回のツァーのテーマの一つでもあった.H先生は,高校を卒業された後,一旦企業に勤めたが,尊父の後を継いで,長い間,大工をされていたとのことで,このテーマに関しても,実体験に裏づけられた博識を披露して下さった.

 「気仙大工」に関しては,今回,気仙大工・左官・伝承館で入手した,

 平山憲治『「気仙大工」概説』「(仮称)気仙職人学校」解説準備室,2013(以下,『概説』)
 気仙大工展示会実行委員会『気仙大工の秀作 寺社建築と民家』箱根振興会,2012(以下,『気仙大工の秀作』)


の他に,以前アマゾンで入手していた(実家に置いていたので津波で流され,再入手),

高橋恒夫『気仙大工 東北の大工集団』INAX出版,1992(以下,高橋)


を参照した.この本にもH先生は郷土史家として言及されている.さらに「日本の古本屋」で,

 岩手県立博物館(編)『第46回企画展 気仙大工展』岩手県文化振興事業団,1998(以下,『気仙大工展』)


を,高知県の古書店から入手した.

 この図録の参考文献表にもH先生の複数の御著書があり,協力者の中には,ともに津波の被害を免れたが,父の弟は釜石在住なので,地元の宮城一族としては長老となった遠縁の親族の名もある.

 高橋に拠れば,塩飽大工(香川県塩飽諸島),邑久大工(岡山県邑久郡),木津大工(兵庫県赤穂市木津),三木大工(兵庫県三木市),井波大工(富山県東砺波郡井波町),出雲崎大工(新潟県三島郡出雲崎町)など,多くの大工集団名称があるようだ.

 さらに高橋が気仙大工の仕事範囲をまとめた箇所に,「越後大工」と言う名称も見られる.「気仙」は郡に過ぎず,上記の大工集団でも,郡にあたる地域名は「塩飽」,「邑久」,「三木」と少なくないけれど,越後のように国名を冠した例が,他にもあったのだろうか.或いは出雲崎大工の別称が越後大工と言われたのだろうか.

 気仙郡は広大な陸奥国の一部であるが,「陸奥大工」とか,「奥州大工」とか,あるいは明治以降の名称を冠した「陸前大工」などの呼称が一般的に使われることは,全くとい言って良いほど無いようだ.

 江戸期に他の地域よりも,耕地が少なく,農業生産が振るわなかった地方は気仙だけではなく,それらの地域からも大工や左官が多く輩出したと思われるが,なぜ「気仙大工」だけが,ひときわ注目されるようになったのだろうか.

 他の地域の人からすると,自分たちが言っているだけだろうと思われるかも知れないが,宮城県北,岩手県南の諸地域からも多くの大工,左官が出たであろうに,これらの地域に「磐井大工」とか,「桃生大工」といった呼称はなく,気仙大工に拠る建築の作例が見られることからも,「気仙大工」のブランドには一定以上の意味があったものと思われる.

 地元で育ち,小学校の課外授業では「気仙大工」と言う用語も習っていたのに,具体的にどのような建物が「気仙大工」の作品なのか,全く意識したことがなかった.

写真:
普門寺 本堂の向拝
「正面に唐破風の向拝がつく.破風下飾りがすばらしく,束を松に見立て,妻板全体に彫刻が入る.」
(『気仙大工展』p.33)


 まだ昭和30年代だった1960年代の後半に,実家が大改築をして,大勢の大工さんが仕事をしているのを毎日のように見た経験がある.まだ幼稚園に行く前だったが,「とうりょうさん」という人がいて,その人が大工さんたちを指揮監督していることは理解できた.

 「棟梁」という漢字が書けるようになったのはずっと後のことだが,普段は見ない,他所の大人たちが年端もいかない幼児の私を,仕事や休憩の邪魔であったろうに,邪険に扱わず,含蓄のある話を聞かせてくれたような気がする.具体的な内容は覚えていないし,もしかしたら後で拵えた記憶かも知れないが,少なくとも大工という職業の人たちへの敬意はこの時に養われた.

 今回のツァーは,自身も元は大工で,気仙大工の研究家でもあるH先生が講師なので,産金遺跡に劣らぬほど,実り多い勉強ができた.ただ実際に観ることができた作例は米崎町の普門寺(日本語版ウィキペディアに「普門寺(陸前高田市)」で立項.またこのお寺のHPもある)のみと言って良いだろう.



 この寺の墓地には母の妹である叔母が眠っている.

 母と最も仲が良かった姉妹で,盛町で小学校教員に嫁ぎ,実家の菓子屋の経理と配達の仕事をしていた.息子たちは大学を出て他郷に仕事を得たが,叔母の死後,長男は帰郷して盛町で暮らしている.佐々木の改訂版を買ってくれたのはこの従弟だ.母親同士が仲が良かったので,子供の頃から良く一緒に遊び,東京でも立教大学在学中の彼の下宿にも行ったことがある.ただ,叔父は米崎町の出身なので,墓所は普門寺にある.

 叔母はもともとあまり体が丈夫ではなかったが,働き者で,実家から分与された土地に家も建て,子どもたちを大学に行かせ,叔父も後顧の憂いなく定年まで教師を務めることができた.

 60代の時に難病を患ったが,退職した叔父が車椅子を押して,京都旅行を敢行した.当時,私は京都に住んでいたので,宿を訪ねたが,車椅子の叔母は健気だが痛々しく見えた.その後,奇蹟的にまた自分で歩けるようになり,幸福な晩年を過ごしたが,病には勝てず,姉である母よりも数年も早く亡くなった.

 その時も私は所属学部の役職を務めていたが,ボスの許可を得て,教授会を休み,葬儀に参列した.叔母の死は早過ぎるように思え,悲しかったが,彼女は震災と津波で多くの親族,知人が亡くなるのには遭遇せずに済んだ.

 叔母が亡くなってしばらくして,妻と帰省した折に,父が既に運転免許を返上していたので母がタクシーを呼んで,4人で叔母の墓参に普門寺を訪れた.それ以前に,私がこの寺に参ったのは幼稚園の遠足の時だったと記憶する.地元では有名な寺で,山中ではないが,海から離れた高い場所にあるので,震災の被害もほとんどなかったけれど,訪れたのは今度で僅かに3度目だ.帰省した折に,遠出の散歩では何度も門前を通っている.

 この寺はかつて,今よりも海に近い場所にあったので,「海岸山」と言う撞着語法のような山号を持つが,気仙では,母の実家の菩提寺である日頃市(ひころいち)町の長安寺と並び称せられる古刹で,三重塔が岩手県の指定有形文化財になっている.

 代門(享保10年,1725年),本堂(明治10年,1877年),気仙三十三観音の二十九番札所である観音堂,三重塔(文化6年,1809年)の他に,住職と家族の住居である庫裏(明治5年,1872年),さらに檀家の集まりなどに使うと思われる建物(『気仙大工展』では「衆寮」※)があり,池を中心とした庭と,曹洞宗なので釈迦如来であろう,青銅造りの大仏坐像(文政元年,1818年),青銅の灯籠も目を惹く.本堂の前庭には,県指定天然記念物の百日紅(サルスベリ)が咲き,鐘楼(昭和38年,1963年)もある.

 ※禅寺で,僧堂のほかに、衆僧のために設けられた寮舎.僧が看経(かんきん)したり,説法を聞いたり、あるいは喫茶などを行う場所.看読寮(ウェブ上のgoo辞書)

 おそらく三重塔が気仙大工の作品として最も注目されるであろうが,1番新しい鐘楼も地元米崎町出身の気仙大工の作品で,八戸出身の専門家が彫刻を施している(『気仙大工展』前掲箇所).もちろん,三重塔に関しては,多くの参考書に言及があるが,

若林純(撮影・構成)『寺社の装飾彫刻 北海道・東北・北陸編』日貿出版社,2014年


に,高橋恒夫「気仙大工の彫り物と出羽の力士像」と言う一文が掲載されており,そこには,普門寺三重塔に関して,

 高さ十三メートル足らずの小塔ではあるが,初層の軒は二軒の平行繁垂木,二層の軒は垂木を設けず,全面に彫刻を施し,三層の軒は二軒の扇垂木として各層に変化をつけている.文化六年(一八〇九)の棟札があるが,風蝕が進んでいて,大工などの職人名まで判読できなかった.総体に繊細優美な意匠で統一された小規模な三重塔といえる.旧気仙郡地方はもちろん,岩手県内においても唯一の塔婆建築で,岩手県の有形文化財に指定されている(p.88)

と説明されている.私たち一般人は日常的には使わないので,用語の理解が必要だ.「垂木」(たるき)に関しては,日本語版ウィキペディアに「垂木」で立項されているが,少しわかりにくい.「屋根を支えるため、棟から軒先に渡す長い木材」(ウェブ上のgoo辞書)と言うような説明が私たちには必要だろう.これを頭に置いて,日本語版ウィキペディア「垂木」を読むと,理解しやすい.

写真:
普門寺 三重塔の軒
初層 平行繁垂木
二層目 垂木なしの彫刻


 「繁垂木」(しげだるき)は,垂木の配置をする際に,その配置法を「垂木割り」と言い,その間隔が狭く,垂木の本数が多くなる「本繁割り」(ほんしげわり)から,間隔が広く,垂木の本数が少ない「疎割り」(まだらわり)まで複数の配置法があるようだが,ここから類推すると「本繁割り」」で配置された垂木が,「繁垂木」であろうと思われる.

 それに対して,棟から放射状になっているのが「扇垂木」とされるので,それに対して「平行」と言っているのだろうと思われる.これで「平行繁垂木」に関しては,ほぼ理解できたと思う.「二軒」というのは,「軒」(のき)が二重になっているということだろうか.

 この本には,向拝や代門の彫刻への言及はないが,高田の浄土寺,住田町の浄福寺,日頃市の長安寺,矢作町の閑董院,大船渡市三陸町越喜来(おきらい)の正源寺の向拝の彫刻が取りあげられている.さらに,高橋はこの文で,

 岩手県旧気仙郡地方(藩政期は仙台藩領)において,棟札や文献資料などから,江戸期および明治期の主要な寺社建築とその職人を整理すると,同郡内に居住する大工の居住地は郡内のほぼ全域におよび,特に小友村や高田村に大工が集住していた.また,大工職以外の職種として,木挽職や鍛冶職・そぎ職・葺き職・彫り物職・石工職があったことが知られる.これらの職種の中で,木挽職と鍛冶職は江戸中期から明治期の棟札をはじめとする多くの作事記録に見られるので,寺社普請において,これらは大工職とともに重要な職種であったことが窺える.これに対して優れた彫刻を施していながら,彫りもの(ママ)を担当した名前の記録があるものはきわめて少ない.この地方では現在でも大工のなかで彫刻の得意な者がそれを担当し,専門の彫刻師ほとんど輩出していない.このような状況から見て,旧気仙郡地方の寺社建築の彫刻は藩政期や明治期においても,主として大工職人の仕事であった可能性が高いと判断される(p.85)

と述べており,このことは専門の彫刻師を雇う余力がなかったとも,大工たちの造形能力が高かったとも,他地域出身の職人が協力するケースが少なかったとも,幾つかの可能性が考えられる.

 地元出身の人間としては,大工たちの造形能力が高く,芸術センスが優れていたと考えたい.H先生のご説明もそれに近いものであったように思う.

 『概説』は,「気仙の寺は50カ寺もあり,向拝に彫刻した神社も数多くあるが,大概は大工彫刻である.彫り賃が高く,彫師に頼めないのだ.かつては,彫師の手間賃は大工の3倍と言ったそうだ」(p.68)と述べた上で,気仙出身の彫師,中村青雲を紹介し,さらに気仙郡内の社寺建築の彫師を列挙しているが,多くは他郷の人のようだ.

 ちなみに,「中村青雲」でウェブ検索すると,大学時代に住んでいた杉並区高円寺の地名の由来となった寺院を立項したウィキペディアがヒットし,「現在の本堂は1953年,宮大工・中村青雲により再建された」と説明されている.

 『概説』でも「東京に出て「中村社寺工務店」を起こし,活躍していた」とあるので,私は寺院である高円寺を一度しか見たことがないが,それでも近くに住んでいたので,同郷の人が現存する本堂を造ったことに驚いたし,彫師でもある青雲もやはり大工であったと言う認識を新たにした.祖父も気仙大工の名工であったと『概説』にある.ウィキペディア以外にも「高円寺」の本堂の写真付きで,「中村青雲」に言及したウェブページもある.

 別の章で気仙大工の名工たちをまとめ,その劈頭に「松山の五郎吉」(1753-1843)を挙げているが,気仙大工の最高傑作である長安寺山門の棟梁を務めた名工でありながら,高田の浄土寺建立に際しては彫師を務めているとしている(p.57).

写真:
普門寺 代門
(『概説』は「山門」)
蟇股の鳳凰


 普門寺の代門(山門)の蟇股※に関しても,「蟇又(ママ)の奇抜さに驚かされる.巨大な鳳凰なのだ.明らかに既存の木割りへの挑戦である」とした上で,本堂の向拝に関しても,「大工彫刻ながら力強い.鳳凰の「懸魚」.蟇又(ママ)の松に鷹のデザインは見る者になみなみならぬ努力の痕をうかがわせる.天には雲,松の葉一枚一枚を丁寧に彫り込み,松の根方には笹をあしらう.空(くう)を埋めるのが紗綾(さや)型である.松ぼっくりまで彫り込んでいるのが微笑ましい」と詳細に描写している.

※1(二つの横材の間におく束(つか)の一種で,上方の荷重をささえるとともに装飾ともなる.カエルが脚を広げた姿に似ているところからこの名がある.厚板の左右に曲線の繰形を施した板蟇股は奈良時代からあるが,内部をくりぬいた形の本蟇股は平安末期に始まり,のち彫刻装飾が加わるようになり,桃山時代以降その装飾性はますます重視された.)(ウェブ上の百科事典マイペディア)

※2(鳳凰の蟇股は類例がないと言うH先生のご説明があった.「蟇股 鳳凰」で画像検索すると,幾つか例はあるようだ.しかし,蟇股全体をこれほど見事な鳳凰で表したものは,他には見られないように思えた)

 彫師を雇う金を節約したものだとしても,大工たちの中に,彫刻に関しても高い技術があったことが窺える.普門寺本堂や,衆寮で見た一枚板の長押(なげし),「ねずみ潜り」などの細かい工夫なども印象に残る.欄間の透かし彫りなども見事だ.

 気仙大工の起源の一つとして船大工を挙げる説もあるそうだが,『概説』は否定的で,気仙大工が好んだ工法で,唯一船を想起させるのが,「船枻(せがい)造り」としている.これも,今回初めて知った用語だ.

 「船枻造り」に関しては彰国社『建築大辞典』,「船枻」に関しては三省堂『広辞林』と『建築大辞典』の説明を転載したウェブページがあり,それを参照すると,「船枻」とは「船の左右両絃に渡した板で,船頭が船をこいだり,さおをさしたりする場所」で,「船枻造り」は「近世の民家において側柱上部から腕木を突出して小板を張った棚をもつもの」と言うことになる.

 『概説』には「桁から鴨居鼻をはね出しにして,鼻桁を乗せると屋根軒の出が多くなり,夏の日差しをさえぎり雨露をしのぐのに都合が良い」(p.4)と説明されている.これに関しては,玉山金山跡に行く際に,関連の不動堂を拝観するために立ち寄った,竹駒神社社務所(本殿は拝観していない)の建物を指して,そのような説明がH先生からなされた.

 H先生は,普門寺を例として説明しながら,気仙大工の本領は宮大工と言うよりも,家大工という意味もこもっているのであろうか,御著書へのサインを求めた私に,「気仙大工民家も見ていただきたい」と書き添えられた.



 「気仙大工」は他郷で活躍した時の通称であり,みんなが高名な職人ではないし,私の実家は,気仙大工の傑作に数えられる作品には成り得ない家ではあったが,気仙大工の起源は不明としても,気仙出身の大工に言及した現存する最古の記録が元和5年(1619年)のものとすれば(『概説』p.5),享保年間に高田に土着したわが祖先たちは,おそらく全員が何らかの形で,その時他郷には稼ぎに行かなかった気仙大工が関わった家に住んでいたであろう.

 私の父方の祖母は,私が生まれる前に亡くなったので,会ったことがないが,祖母の従姉妹にあたる方々は高齢になるまで存命で,他姓の人たちであったが,「宮城マキ」と言う語を用い,親族関係を幼い私にして下さった.その際,川原地区に引っ越す前の荒町の家の様子なども教えて下さった.荒町も川原も津波で全ての家が流されたので,今となっては想像に過ぎないが,間違いなく気仙大工が関わった建築であったろうと思われる.

 『概説』に拠れば,気仙の民家が立派である条件として,「入母屋,箕甲(みのこう)返し,船枻造り」の3つを挙げている(p.84).

 「箕甲」に関しては,ウェブ上でも「切妻(きりづま)屋根や入母屋(いりもや)屋根で、破風ぎわの曲面をなす部分」(デジタル大辞泉)と説明されており,『概説』にもほぼ同趣旨の解説が付されているが,上記の三条件を満たす民家というのは,私が記憶する限り,高田や盛のような町場にはなく,主として「ジャゴ」(在郷)と言われる,農漁村部にあったように思う.

 自転車に乗れるようになって,農村部に遠出したり,父や繁忙期の助っ人に来た「よごだのおんつぁん」が運転する車に同乗して,配達の手伝いで漁村部に行くと,入母屋造りの豪勢な平屋が多いことに驚いた.

 自分の一戸建ての家を建てる時に,もちろん私には手が届かないが,ハウスメーカーの営業の人が「贅沢平屋」と言う用語を使い,なるほど「平屋」というのは「贅沢」なものであることを初めて知ったが,それを知らなかった子供の頃でも,「ジャゴ」には立派な瓦屋根の城郭か寺院のように見える平屋が数多くあると思った.それらは高田町内の私の実家も含む一般家庭の家屋に比して,「お屋敷」と認識された.



 「気仙大工」の学習整理も尻切れトンボのままだが,随分長くなったので,この駄文を何とか終わらせようと思う.もともと故郷に思い入れがあり,引退後の住処と定めていながら,育った町が完全に無くなったので,自分の気持ちにどう整理をつけて良いかわからない.

 埼玉の集合住宅に住んでいたが,妻が買った土地に,ローンで家を建てた.気に入っている.大学教員は定職を得るのが一般より遅くなるので,そのバランスではあるが,会社員や公務員の皆さんに比べて定年が少し遅い.それを考えると,定住を前提にした帰郷があり得るのかどうか,自分でもわからない.

 高度成長期にがむしゃらに働き,墓や祖先には関心が薄かった父が,五十代になって,墓を整備し,家系に関する文書を整理,分類した.漢文などは父の世代の人は,むしろ読めないので,郷土史家の方にお礼を差し上げて,解読してもらっていた.

 父よりも私の方が,もともと昔のことを知りたいと言う気持ちが強く,子どもの頃からのその性向ははっきりしていて,西洋を冠するとは言え,古典学を専攻したことにも現れているだろう.しかし,父が整理した文書類は,現物も,解読を施した写しも全て津波で流され,父自身も自分が整備した墓に入ることができていない.

 青臭い事を言うようだが,今更のように人生の無常を思い知らされ,故郷への愛着も,故山への思慕も揺れ動いている.土建工事の標本のようになってしまった故郷の姿に愕然とする.

 日本政府はなぜ,わが故郷にこれほどの大金を投入してくれるのか,その有り難さにとまどうこともあったが,今は,なるほど,参入企業が利益をあげる仕組みは確かにできており,現在の政府は言って見れば,それらの利益代弁者でもあるわけだから,愛する故郷に政府が大金を投じてくれても,それが税金であることを忘れてはならないが,私が心の負担を感じることはないのだと納得することにしている.

 様変わりしてしまう父祖の地に,自分が終の棲家を求めるかどうか,もう少し生きて見ないとわからない.東京に職場があり,関東で遠距離通勤をしていると,目の前に常に解決すべき課題があり,故郷のことも,そこに住んでいる親族や友人のことも,亡くなった両親のこともつい忘れがちになる.


Kさん
 今回,畏敬すべき先達に出会うことができた.このツァーを企画・立案し,地元の語り部ガイドとして3日間,ツァーに同行されたKさんだ.彼はウェブ上の情報とご本人の言に拠れば,市内今泉に生まれ育ち,東京の大学を出て,長く海外でお仕事をされた.故郷に帰っておられた時に,被災され,その後,仮設住宅に住まって,再び,故郷を生活の場とされた.

 Kさんが生まれ育った今泉の,Kさんのご実家があった地域は,藩政時代の気仙の中心地で,金山名主の松坂家も江戸初期にここに移住し,私の祖先がそうだった村々の肝入や検断を統括する「大庄屋」の通称を持つ大肝入の吉田家もあったところである.

 吉田邸が気仙大工の傑作と教わって,小学生の時,今泉に自転車で見に行ったことがある.子供には,その真価(『気仙大工の秀作』p.9)がわからず,有名な城郭や寺社のような建造物でなかったことに失望して,以後一度も近くに行ったことがなかった.

 復興関連で話題になることがあり,地元で酔仙酒造と並んで,全国的にも知られている味噌・醤油の八木澤商店(この建物も気仙大工の名建築であったらしい)があった街路は何度も通っているので,実は近くまでは何度も行ったことはある.

 長く郵便局に勤めていた従兄の連れ合いのセイコさんは,母とも仲が良く,きさくな人なので,私にとっても血縁の従兄以上に話しやすい人だ.この地域に彼女の実家があったことは知っていたので,Kさんに案内してもらった話を電話ですると,即座に「長い間,外国にいた人でしょう」という反応があった.

写真:
諏訪神社への石段
手前の野原には歴史的に
栄えた今泉地区の古い
集落があった


 佐々木の改訂版(p.12)にKさんの写真が大きく出ている.諏訪神社の被災した鳥居の跡に立て掛けられた扁額の前に立っておられる.社殿は上の写真の丘の上にあるので,無事だったし,Kさんを初め,多くの方々がここに逃げて,命だけは助かった.麓にあった諏訪神社の社務所は流され,宮司さんも落命されたそうである.

 Kさんが,彼の安否をたずねる全国の知人に向けて発信した映像を今も,ウェブ上で見ることができる.故郷の町も,実家も,両親もその大波で流された私は,何度も繰り返してその映像を見ることはできないが,たった一度見ただけでも,Kさんや周囲の人びとがいかに緊迫した状況に置かれていたかがわかる.

 私自身も,帰宅難民となり,勤務先のTVで,大波に飲まれる酔仙酒造の映像を見,翌日からは帰宅難民に開放された東京文化会館から始まって,何度も「陸前高田は壊滅」と言う放送を聞かされた.

 既に震災から10日以上過ぎていたが,従兄がガソリンを確保して,1台の車で親族とともに帰郷して,毎日のように遺体安置所をまわって,自分の人生にこんなことが起こるとは考えても見なかった体験をしたが,目の前に津波が迫ってくる状況は経験していない.

写真:
泉増寺観音堂
(宝永2年,1705年)
支倉常長の船の帆柱は
ここの気仙杉だった
可能性がある


 今はもうJR東日本が,まるで渡りに船のように,確かに不採算路線であった気仙沼から先の大船渡線を切り捨てたことは明白で,大変残念なことだ.鹿折の資料館と坑道跡を訪ねた時も,錆びた鉄路と草ぼうぼうの,「廃線」感に満ちた様子もこの目で見た.

 もう二度と目にすることのない光景になりそうだが,帰省した故郷から関西や東京にもどるとき,その都度,車窓から岡の上のお堂が見えて,故郷の美しさへの陶酔と,故郷を離れる寂寥感を味わった.

 それが何という建物か知ったのは,震災以降,佐々木の著書を読んでからだが,その泉増寺を今回,初めて訪ねることができた.風雨に曝されて,古色蒼然となった,何ということもないお堂だが,それでも僅かでも気仙大工について学んだ後なので,諏訪神社本殿とともに,少しは念入りに観た.

 観音であるから,仏教信仰の現れだが,奥には赤い鳥居があり,そこからさらに石段を登る祠もあった.何を祀っているか,佐々木にも言及はないが,鳥居がある以上,神仏習合を思わせる,いかにも日本的な宗教空間だ.

 高台の石碑などはもちろん残っており,中腹の由緒書きも流出を免れたようだが,今泉の名のもととなって霊泉や,以前は,観音堂の黒い屋根とコントラストをなす赤い屋根が遠景として目に入った子安堂は被災した.佐々木が言及していたので,私も気になっていた「鬼灯」像も消失したらしい.

 泉増寺観音堂は「気仙三十三観音」の一番札所であるが,かつて高台からの眺望には遠くに,町として栄えている今泉や,気仙川をはさんだ高田の町が見え,川沿いには沃野が広がる絶景であったようだ.現在は,町の風景は見られないが,それでも緑色の稲が夏の光を浴びて,輝くように生育していることには感動を覚えた.

写真:
高台の眺望
気仙川と稲穂


 叔父が運転してくれて,車で被災地を回っていた時,このあたりで,やはり三十三観音の二番札所である金剛寺の美しい大屋根が,瓦礫の中に横たわっているの見た.その時は,故郷の町に復興の日は来るのか,暗澹たる思いだったが,こうして水田が復活しているのを見ると,この地に根ざして生きていく人たちの活力を感じ,震災以来,めげて,めげて,下ばかり見て生きている私の心にも,希望の灯がともる.

 天道は是でも,非でもない.自然の驚異に翻弄される現実と,それでもたくましく生きる人々の姿があるだけだ.



 今回,故郷の,かつて町だった場所を旅行者として訪ね,知らなかった多くのことを学んだ.以前架蔵していて失ったものも,新たに知った本も,古書価が高く,通常なら買わない本も含めて,郷土史本をまとまった冊数購入し,実際に読んでも見た.引用も,言及も,考察もしたい本はあまたあり,家郷の地への想いは尽きないが,本来はローマ旅行の報告なので,特別編はここまでとして,次回はバーニョレージョとオルヴィエート訪問の感想から,報告を再開する.

 授業も始まり,新しい役職も引き受け,翻訳の仕事もあり,論文の投稿も求められている.難航が予想されるが,倦まず弛まず,少しずつ,美しい物を観,歴史的背景について考えたことを報告して行く.

 私的な,しかも,ため息の連続に過ぎない,長いだけの文章を,根気強く読んで下さった人がいるとすれば,心から感謝したい.少なくとも,今回,私を故郷に連れて行ってくれた妻は,これから,この長い文章を読んで,校正しなければならない.「みよし金」の「みよし」ではないが,「みよし」姓だった妻に深く感謝する.






広田湾に中秋の名月
キャピタルホテル1000のテラスから