フィレンツェだより番外篇
2015年1月3日



 




ベルニーニ作 「山羊アマルテアと戯れる幼いゼウス」
ボルゲーゼ美術館



§2014ローマの旅 - その6 ベルニーニの芸術

カラヴァッジョと並ぶバロックの巨匠ジャン=ロレンツォ・ベルニーニについて今更,新たに言うことはないが,それでも複数の作品を鑑賞でき,写真に収めることできたので,個人的な感想を述べて見たい.


 ベルニーニに関しては,日本語で読める有益な参考書が少なくとも3点ある.

 石鍋真澄『ベルニーニ』吉川弘文館,1985(新装版,2010)(以下,石鍋)
 マウリツィオ・ファジョーロ/アンジェラ・チプリアーニョ,上村清雄(訳)『ベルニーニ』東京書籍,1995(以下,ファジョーロ/チプリアーニョ)
 金山弘昌「《アポロンとダフネ》 ベルニーニとバロック」(諸川春樹(責任編集)『彫刻の解剖学 ドナテッロからカノーヴァへ』ありな書房,2010)(以下,金山)

 中でも石鍋は,碩学が30代の青年だった頃の渾身の力作で,まるでベルニーニ自身の偉大な人生が眼前に再現されたかのような錯覚を体感させられる.金山の新しい情報を踏まえた,鋭角的な視点からも学ぶべきことは多い.

 これらを参考にしながらも,あくまでも自分の感想を優先してまとめる.その際,いつものようにウェブ・ギャラリー・オヴ・アート,日本語,英語,伊語のウィキペディアその他のウェブ・ページも参照する.


これまで観たベルニーニ作品
 今回観ることができたボルゲーゼ美術館,サンタ・マリーア・デッラ・ヴィットーリア教会,ヴァティカン,ナヴォーナ広場以外で,どのくらいベルニーニ作品を今までに観ただろうか.足を運んだ場所にある作品をウェブ・ギャラリー・オヴ・アートなどを参考に年代順に列挙すると,

 「ジョヴァン=バッティスタ・サントーニ胸像」(ローマ,サンタ・プラッセーデ教会,c.1610)
 「洗礼者ヨハネ」(ローマ,サンタンドレーア・デッラ・ヴァッレ教会,1612-15)
 「聖ラウレンティウスの殉教」(フィレンツェ,ボナコッシ・コレクション,1614-15)
 「トリトンの泉」(ローマ,バルベリーニ広場,1624-43)
 「バルカッチャの泉」(ローマ,スペイン広場,1627-28)(父ピエトロとの共作)
 「メドゥーサ」(ローマ,カピトリーニ博物館,c. 1630)
 「教皇ウルバヌス8世像」(同,c.1635-40)(工房との共作)
 「コスタンツァ・ボナレッリ胸像」(フィレンツェ,バルジェッロ博物館,c.1635)
 「マリーア・ラッジ記念碑」(ローマ,サンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂,1643)
 「蜂の泉」(ローマ,バルベリーニ広場,1644)
 「教皇イノケンティウス10世胸像」(ドーリア・パンフィーリ美術館,1644)
 「枢機卿リシュリュー胸像」(ルーヴル美術館,1640-41年)
 「四大河の噴水の木製模型の部分」(ボローニャ国立絵画館,c.1648)
 「ダニエルとライオン」(ローマ,サンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂,1650)
 「ハバククと天使」(同)
 「聖ヒエロニュムス」(シエナ大聖堂キージ礼拝堂,1661-63)
 「マグダラのマリア」(同)
 「象とオベリスクの泉」(ローマ,サンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ広場,1667-69)(工房作品)
 「医師ガブリエーレ・フォスカ胸像」(ローマ,サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ教会,1668-75)
 「福者ルドヴィーカ・アルベルトーニ」(ローマ,サン・フランチェスコ・ア・リーパ教会,1671-74)

となる.

 バルジェッロ博物館の「コスタンツァ・ボナレッリ胸像」,シエナ大聖堂の「聖ヒエロニュムス」と「マグダラのマリア」,サンタンドレーア・デッラ・ヴァッレ教会の「洗礼者ヨハネ」,サンタ・プラッセーデ教会の「ジョヴァン=バッティスタ・サントーニ胸像」,カピトリーニ博物館の「メドゥーサ」は観た確信がないが,その他の作品は,目にやきついている.もちろん,多くの場合,事前に予習し,そうと知って写真を撮ったことが記憶と結びついていることは否定できない.

 「福者ルドヴィーカ・ベルトーニ」,「ダニエルとライオン」,「ハバククと天使」,「トリトンの泉」を除いて,上記の作品を観て,ベルニーニの偉大さを感じることは,少なくとも私にはできなかった.ベルニーニと言うビッグネームを前以て知っていて,ようやくじっくり鑑賞しようかという気持ちになったものが殆んどである.

 ベルニーニの彫刻の真価を知るためには,やはりボルゲーゼ美術館に行かなければならないだろう.同美術館収蔵作品をウェブ・ギャラリー・オヴ・アートを参考に制作順に並べると,

 「山羊アマルテアと戯れる幼いゼウス」(1615)(石鍋は1609年,ファジョーロ/チプリアーニョは1615年頃とし,個人的には先行研究を踏まえた石鍋説に与したい.とすれば,ベルニーニ11歳頃の作品と言うことになる)
 「教皇パウルス5世胸像」(1617-18)
 「アエネアスの亡命」(1618-19)
 「プロセルピナの誘拐」(1621-22)
 「ダヴィデ」(1623-24)
 「アポロンとダフネ(ダプネ)」(1622-25)
 「枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼ胸像」(1632)
 「真実」(1645-52)
 「テラコッタ製ルイ14世騎馬像」(1669-70)
(絵画)
 (帰属)「少年の頃の自画像」(c.1638)
 「青年期の自画像」(c.1623)
 「壮年期の自画像」(c.1635)

 これだけの数の作品の中でも,真に傑作と思われるのは,「アエネアスの亡命」,「プロセルピナの誘拐」,「ダヴィデ」,「アポロンとダフネ」の4つの大作であろう.

写真:「アポロンとダフネ」
ボルゲーゼ美術館 
写真:「プロセルピナの誘拐」
ボルゲーゼ美術館


 この4作が,「教皇パウルス5世胸像」と「枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼ胸像」の間に制作されたことには意味があるだろう.


ベルニーニとシピオーネ・ボルゲーゼ
 ベルニーニは,1598年に生まれて,1680年に年に亡くなった.まもなく満82歳(12月7日の誕生で11月28日の逝去)になろうとする長い生涯だったので,彼の存命中に多くの教皇が交代した.存命中の教皇を整理すると以下のようになる(教皇名はラテン語読み,本名はイタリア語読み).

 クレメンス8世(イッポリート・アルドブランディーニ)(1592/1/30-1603/3/5)
 レオ11世(アレッサンドロ・オッタヴィアーノ・デ・メディチ)(1605/4/1-4/27)
 パウルス5世(カミッロ・ボルゲーゼ)(1605/3/16-1621/1/28)
 グレゴリウス15世(アレッサンドロ・ルドヴィージ)(1621/2/9-1623/7/8)
 ウルバヌス8世(マッフェーオ・バルベリーニ)(1623/8/6-1644/7/29)
 イノケンティウス10世(ジョヴァンニ=バッティスタ・パンフィーリ)(1644/9/15-1655/1/7)
 アレクサンデル7世(ファビオ・キージ)(1655/4/7-1667/3/22)
 クレメンス9世(ジュリオ・ロスピリオージ)(1667/6/20-1669/12/9)
 クレメンス10世(エミリオ・ボナヴェントゥーラ・アルティエーリ)(1670/4/29-1676/7/22)
 イノケンティウス11世(ベネデット・オデスカルキ)(1676/9/21-1689/8/12)
 (生没年月日は全て英語版ウィキペディアに拠る)

 驚くのは,アレクサンデル7世までの教皇が,全て名の知られた名門の出身で,多くは現在のローマで博物館,美術館になっている宮殿にその家の名が冠されている.

 この時代に一族から教皇が出るということは,もともと名門であった家が,さらに経済的に繁栄し,ネポティズモ(親族優遇)によって,甥などが枢機卿となって権力を握り,教皇と枢機卿が建築や美術の愛好者だと,立派な教会,宮殿,モニュメントが造営され,他人が羨む気力も無くなるほどのコレクションができる.

 これらの教皇の中で,ベルニーニを起用,保護したのが,ウルバヌス8世,アレクサンデル7世である.パウルス5世の場合は,主導権は甥の枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼにあった.それが端的に現れているのが.ボルゲーゼ美術館の彫刻群である.

 パウルス5世の本名はカミッロ・ボルゲーゼで,シピオーネはパウルス5世の甥である.シピオーネはカミッロの姉妹オルテンシアとフランチェスコ・カッファレッリの間に生まれた.カッファレッリ家もローマの名門家系だったが,父が経済的に困窮して,叔父の援助で教育を受けたシピオーネはボルゲーゼ姓を名乗り,叔父の教皇就位とともに,28歳の若さで枢機卿に選任された.

写真:
シピオーネ・ボルゲーゼの肖像
ボルゲーゼ美術館


 ボルゲーゼ一族の全てがそうではないが,シピオーネという名はローマの将軍,政治家を出したスキピオ一族の家名,叔父のパウルス5世の個人名カミッロは,ローマの将軍マルクス・フリウス・カミッルスの家名,パウルス5世の父でシエナから一族の拠点をローマに遷したマルカントーニオはマルクス・アントニウスの個人名と氏族名に基づいており,キリスト教の聖人名の多い,イタリア人の中にあって,ある意志を感じさせる.

「人文主義」であろう.古代のギリシア,ローマ,とりわけイタリア人にとっては,事実関係はともかく,自分たちの直接の祖先と思われていた古代ローマ人への憧憬が,こうした名をつけさせたかと考えられる.


 生まれたのはカッファレッリ家ではあったが,そこもローマの名門であり,名乗りとした母系の姓であるボルゲーゼも,ローマに関係する起源伝説を持つシエナから,ローマに移った家門であって,しかも「人文主義」を濃厚に漂わせる雰囲気の中で育ったシピオーネは,聖職にありながら,異教趣味を隠すことなく,ベルニーニの作品群には明らかにシピオーネの嗜好が反映している.





写真:左「アエネアスの亡命」
   右「ダヴィデ」ボルゲーゼ美術館


 「アエネアスの亡命」は,シピオーネが叔父である教皇の保護下で権力の絶頂にあった時に依頼した作品で,完成した1619年頃,ベルニーニはようやく20歳になったばかり位の若者だった.

 ジャンボローニャの通称「サビーニーの女の略奪」(フィレンツェ,ランツィの開廊,1581-83)などのマニエリスム彫刻の影響下にあり,真にベッリーニの独創的作品とは言えないにせよ,20歳の若者がこの作品を完成した時,これに瞠目しなかった人がいたはずがない.

 シピオーネは次いで「プロセルピナの誘拐」を注文したが,それが1621年,この年の初めには叔父のパウルス5世が薨去し,権力は,新教皇グレゴリウス15世の一族に移ろうとしていた.シピオーネは1633年まで生きたので,約12年間は「教皇の甥」ではない枢機卿であったことになる.

 グレゴリウス15世の甥で枢機卿となったのが,ルドヴィーコ・ルドヴィージであり,シピオーネは「プロセルピナの誘拐」をこの新しい権力者に贈与した(金山,p.195).英語版ウィキペディアに拠れば,この彫刻がヴィッラ・ボルゲーゼに戻ったのは,1908年で,イタリア政府が購入したことによる.

 「不本意な贈与の穴埋めとして」(金山)シピオーネは「アポロンとダフネ」をベルニーニに注文した.1622年のことである.

 しかし,この作品の制作中に,新たに「ダヴィデ」の制作依頼がやはりシピオーネから成され,まず1624年に後者が完成し,前者の完成はその翌年であった.「アポロンとダフネ」が完成した1625年にベルニーニは27歳であった.この時点で,彼は誰もが「天才」と認める若き巨匠となっていた.

 この間に若き巨匠は,成長を遂げている.「アエネアス」の亡命に見られる螺旋型に絡み合う群像は,マニエリスム彫刻の特徴を残しているが,「プロセルピナの誘拐」から,「ダヴィデ」を経て,「アポロンとダフネ」で彼が完成した特徴は,マニエリスム的な「多視点性」から脱却した「単一視点性」の獲得(金山,p.204,石鍋,p.26)であった.

若き天才と美術愛好家の権力者の間にどのような葛藤があったのか,私にわかるはずもないが,間違いなくベルニーニはシピオーネの保護下で巨匠となった.


 シピオーネのための最後の仕事である彼の胸像(2つあって,2つあることにはエピソードがあるが,ここでは触れない,石鍋のp.72を参照されたい)を,時の教皇ウルバヌス8世の依頼で制作するが,「アポロンとダフネ」とこれらの胸像の間に,石鍋に拠れば2つの仕事をシピオーネのためにしている.

 一つはパウルス5世の一周忌のためのカタファルコ(石鍋:「元来は棺をのせる台のことだが,この場合は葬式や法事の際に用いられた,棺を納める舞台装置全体を指す言葉」)の制作で,もう一つは古代彫刻の修復である(石鍋,p.38).

 現在では,古代の発掘品に関しては,できるだけオリジナルな形が尊重され,私もそれに賛成だが,そうした考えが定着するまでには様々な考えがあり,17世紀には,彫刻家によって,当時「完全」と考えられた姿に修復されるのが当たり前とされた.

 ベルニーニが,シピオーネに依頼された修復の仕事の一つとして,現在ルーヴル美術館にある「ヘルマフロディトス」(英語版ウィキペディアに拠れば敷布団の部分)が知られる.そうした,一連の古代彫刻の修復の仕事の中で,彼は現在アルテンプス宮殿の国立考古学博物館にある「ルドヴィージのアレス」にエロス(クピド)の頭部を加えたとされる(石鍋,p.39).

 後者はルドヴィーコ・ルドヴィージの依頼だっただろうか.パウルス5世から,グレゴリウス15世に教皇が代わった時,新たな「教皇の甥」枢機卿(カルディナール・ニポーテ)として権力の座についたルドヴィーコは,シピオーネとは緊張関係にあったが,実はベルニーニとは良好な関係であったらしい.

 グレゴリウス15世就位に伴い,ベルニーニには教皇の胸像の制作が依頼され,「騎士」に叙任された(石鍋,p.22).

 しかし,グレゴリウス15世も,美術的関心はむしろ古代彫刻にあったルドヴィーコ・ルドヴィージもベルニーニの保護者足りえず,グレゴリウス15世は1623年に在位2年半を満たすことなく亡くなったので,この間もベルニーニの保護者はシピオーネ・ボルゲーゼであった.


「サン・ピエトロの建築家」
 グレゴリウス15世に代わって教皇となったのは,ベルニーニが「ダヴィデ」を制作中,自身の顔をモデルにするための鏡を支えてくれたと言うエピソードを持つ(石鍋,p.32)枢機卿マッフェーオ・バルベリーニで,彼は教皇としてはウルバヌス8世を名乗った.

 ウルバヌス8世の教皇就位に伴って,彼の弟アントニオ・マルチェッロ・バルベリーニ,甥フランチェスコ・バルベリーニが枢機卿に任ぜられ,1627年にはフランチェスコの弟アントニオも枢機卿に任命された.教皇の兄であり,フランチェスコ,アントニオの父であるカルロはモンテロトンド公爵となり,その3男のタッデーオはパレストリーナの領主となって,その地位は世襲された.

 現在,国立古典絵画館となっているバルベリーニ宮殿は,1627年にカルロ・マデルノが着工し,その甥にあたるフランチェスコ・ボッロミーニが手伝っていたが,29年にマデルノが死んだ後,33年にベルニーニが完成した.

 彼は,マデルノが死去した1629年に,マデルノに代わって「サン・ピエトロの建築家」(石鍋,p.56)となっていた.

 ウルバヌス8世は,枢機卿時代に,「アポロンとダフネ」の台座に刻むラテン語の詩を作り,「ダヴィデ」作成に際しては鏡を支えたと言うエピソードが伝えられる人物なので,当然,ベルニーニの才能を高く評価していた.

ウルバヌス8世が教皇になったことで,ベルニーニの保護者は枢機卿から教皇に代わり,天才はよりスケールの大きな仕事を依頼されるようになったと言えるであろう.


 ウルバヌス8世は,まだ20代のベルニーニに,「もう一人のミケランジェロ」(石鍋,p.46)になるべく,絵画と建築を学ぶように命じたと言われる.1623年には早くも,最初の建築作品であるサンタ・ビビアーナ教会のファサードを設計し,同教会の名のもとになっている女性聖人の彫刻を造った.後者は彼にとって「最初の本格的宗教彫刻」(石鍋,p.47)であった.

 サン・ピエトロ大聖堂での最初の仕事,ラテン十字型の聖堂の交差部に巨大なブロンズの天蓋バルダッキーノの制作も並行して行われ,1633年にこれを完成させた.この巨大構築物を作成することによって,ベルニーニは大工房を率いる「親方」としての性格を強めて行った.

 バルダッキーノの真上が,聖堂の丸屋根(クーポラ)になるが,この巨大な屋根を支える四面の支壁の下部壁龕ににそれぞれ,聖遺物にちなむ大理石の巨大な聖人像を設置することにしたが,他の3体は別の彫刻家に任せ,彼自身は聖ロンギヌスの像を作成した.この像に7年の歳月を費やし1638年に完成させた.

写真:
バルダッキーノと
カテドラ・ペトリ(ペテロの司教座)
サン・ピエトロ大聖堂
写真:
サン・ピエトロ大聖堂の
「ペテロの司教座」周辺の
天使と教会博士たちの
制作のためのモデル
ヴァティカン絵画館


 その間に多くの肖像彫刻も作ったが,保護者である教皇ウルバヌス8世の墓碑の制作にも着手した.1628年から始まり,完成は教皇の死後3年経った1647年(石鍋,p.82)とのことなので,これは壮大な事業だったことになる.

 今回,サン・ピエトロに入堂した時点で,夕方になっており,もう後陣の方には人が入れないようになっていたので,この墓碑は残念ながら見ていない.



 ウルバヌス2世が亡くなった時,彼の一族は,何とか自分たちの不利にならないように図ったが,結果は思わしくなく,新しく選ばれたイノケンティウス10世は,前教皇の一族に辛くあたったので,バルベリーニ家の主だった者たちはフランスへの亡命を余儀なくされた.この時,前教皇に寵用されていたベルニーニも試練の時が訪れた.

 文化・芸術に対して冷淡だっただけでなく,ベルニーニのライヴァルだった者たち,建築ではボッロミーニ,彫刻ではアレッサンドロ・アルガルディが起用され,ベルニーニの教皇からの仕事は激減した.

 ボッロミーニのベルニーニへの対抗心については,石鍋(pp.103-105)などで言及されているし,私たちは今回,ミケランジェロの特別展を観ることができたカピトリーニ美術館の「ホラティウス兄弟とクリアティウス兄弟の間」で,部屋の両端に置かれた大理石のベルニーニ工房作の「ウルバヌス8世像」と,アルガルディ作のブロンズの「イノケンティウス10世像」を観ている.

写真:「聖テレサの法悦」
サンタ・マリーア・デッラ・ヴィットーリア教会
写真:「真実」
ボルゲーゼ美術館


 この挫折の時に,その心境を表して,注文ではなく個人的に制作したのが未完の「真実」であり,教皇以外の注文に応じて誠実に創った傑作が「聖テレサの法悦」である.後者が完成した1647年にこれを見たイノケンティウス10世が,ベルニーニの偉大さを再認識して,第一線に復帰させたとされる(石鍋,p.115)

 ナヴォーナ広場の噴水装飾もボッロミーニの案が採用されるはずであったが,ベルニーニが作成したモデルを観た教皇が,この仕事で彼を第一線に復帰させることにした.

 「四大河」の噴水の彫刻が驚いているように見える(下の写真)のは,その正面にあるボッロミーニ設計のサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会のファサードが崩れ落ちて来るのを危惧しているからだと言う伝説ができるほど,彼らのライヴァル関係は有名だったが,ベルニーニはそんな俗説を信じさせないほどの構想力を見せている.

 オベリスクの台座となっている岩山を空洞にすることで,実際には相当の重量のオベリスクの浮遊感を演出し,四隅に配置した四大河を動きに満ちた寓意像で表すことで,祝祭的劇場都市の雰囲気を創出をするという仕掛けは,もともと多くの行事や,喜劇の舞台装置や演出を得意としたベルニーニの天才性をいかんなく発揮しているもののようだ.

 なかなか思い至らないが,石鍋の熱のこもった解説(pp.116-119)から学びながら,私たちはバロック芸術のそうした側面にも思いを馳せるべきであろう.

 イノケンティウス10世は,ベルニーニの芸術性にほれ込み,芸術家は教皇の胸像(ローマ,ドーリア・パンフィーリ美術館)を作成してその好意に応えた.こうして彼の挫折は克服された.



 ベルニーニは再び教皇の交代に直面するが,キージ家出身のアレクサンデル7世は,ベルニーニとは旧知の仲で,彼を高く評価していた.サンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂のキージ礼拝堂の彫刻装飾「ダニエルとライオン」,「ハバククと天使」は彼に依頼されたものである.

 その後,キージ家のためにシエナ大聖堂のためにも2体の彫刻を作成した.

 この時代に,建築家としてベルニーニの実力が発揮され,ボッロミーニのサン・カルロ・アッレ・クァットロ・フォンターネ教会に比較される楕円型プランのサンタンドレーア・アル・クイリナーレ教会,やはり「楕円」(石鍋に拠れば,幾何学的に正確な「楕円」はまだこの時代の美術家には知られておらず,彼らは「卵形」と言っていたとのことだ.p.152)を活かしたサンピエトロ大聖堂前の柱廊が構想された.

 石鍋は,後者は完成を見ず,その後ベルニーニの真意も理解されたなかったとしている(p.155)が,前者に関しては「最も優れ,最も重要な建築であることは,疑う余地がない」(p.144)と絶賛している.

 サン・ピエトロの堂内でも,この時代にカテドラ・ペトリ(ペテロの司教座)(1657-66)が制作された.このように見てくると,アレクサンデル7世の時代には,教皇のためには,天才彫刻家としての仕事もしながら,多くの場合,建築家,工房の親方,大事業の指揮監督者としての能力が顕現したようだ.

 カテドラ・ペトリ完成の翌年,最後の保護者アレクサンデル7世が亡くなる.

 その2年前の1665年に彼はルイ14世の招きに応じ,フランスに赴いている.ウルバヌス8世の保護下にあった頃,高額の報酬でフランスに招かれた時,教皇が「おまえはローマのために生まれ,ローマはおまえのためにある」と言う有名な言葉で説得して,彼は思いとどまったとされる(石鍋,p.171).

 フランスではルイ14世の寵遇を得,ルイ14世胸像,ルイ14世騎馬像の作成,ルーヴル宮殿の設計など様々な仕事に取り掛かったが,周辺の嫉妬や中傷もあって,芸術家の意図と王の満足が両方達成されたのは,ルイ14世胸像(ヴェルサイユ宮殿,1665)だけだったようだ.それでも石鍋に拠れば(p.185),ルーヴル宮殿の設計案も,フランス建築に影響を与えており,フランス訪問は,意味があったと言えるだろう.

 いずれにせよ,世紀の巨匠となった天才芸術家も,フランスでは満足の行く結果が得られず,帰国後,最後の保護者であった教皇も亡くなった.それでも新教皇のクレメンス9世は,オペラの台本も書く文人で,しかも,ベルニーニを保護したボルゲーゼ家(シエナ),バルベリーニ家(フィレンツェ),キージ家(シエナ)がその出自としたトスカーナの出身(ピストイア)だったので,ナポリ生まれではあるが,父がフィレンツェ近郊のセスト・フィオレンティーノ出身の,広い意味でのトスカーナ人であるベルニーニに好意的で,サンタンジェロ橋の整備と装飾を委ねられた.

 ベルニーニ自身が作成したのは,10体のうち2体であり,しかも教皇の要望で,ベルニーニのオリジナルを保護するために(教皇の実家ロスピリオージ家の宮殿に飾られることになっていたらしいが,それは実現しなかった),橋に飾られたのはコピー(ただし1体のコピーはベルニーニ自身の手になる)であった.

 2体のオリジナル(荊の冠を持つ天使キリスト磔刑の書き板を持つ天使)は,ベルニーニの家に保管され,1729年に,子孫によって自宅近くのサンタンドレーア・デッレ・フラッテ教会に寄贈された.現在もその教会の祭壇に飾られているそれらの天使像の写真を見ると,憧憬の気持ちを抱かせられる.是非,いつの日か観たい.

写真:
アレクサンデル7世の墓碑
サン・ピエトロ大聖堂


 時代も変わり,教皇国家の財政逼迫もあって,老巨匠には,残された大きな仕事はアレクサンデル7世の墓碑だけであった.この墓碑が完成したのは1678年で,その4年後に彼は亡くなる.

 しかし,墓碑完成以前にも,「医師ガブリエーレ・フォンセカ胸像」,「福者ルドヴィーカ・アルベルトーニ」の制作をし,先に着手された前者は1675年,後者は1674年に完成した.どちらの彫刻もモデルとなった人物の精神性を感じさせる傑作である.

 地味で小さな作品である前者に比して,後者はサン・フランチェスコ・ア・リーパ教会の礼拝堂に置かれ,バチッチャ(バチッチョ)の「聖母子と聖アンナ」が飾られた礼拝堂は自然の採光を活かした美しい空間となっている.規模においては,サンタ・マリーア・デッラ・ヴィットーリア教会のコルナーロ礼拝堂には及ばないが,自作の傑作彫刻を劇的に見せる技法の点では共通している.

写真:
医師ガブリエーレ・
フォンセカ胸像
サン・ロレンツォ・イン・
ルチーナ教会


 それに比べると,サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ教会の片隅で,フォンセカ胸像を観た時は,それほど作品とも思えなかった.しかし,ファジョーロ/チプリアーニの比較的な大きなカラー写真(p.38)を見ると,どうしてこの角度でじっくり観なかったのかと悔やまれる.


2人の巨匠
 自分が観たものを中心に,主として石鍋を参考にしながら,駆け足で,ベルニーニの作品について整理してみた.

 ファジョーロ/チプリアーニは,このシリーズ(イタリア・ルネサンスの巨匠たち)の中でも独自の構成で,最初は読みにくいように思われたが,石鍋によって巨匠の偉大な人生に感銘を受けた後で読むと,その冷静な整理(「変容」,「光の秘密」,「水の意味」,「炎の祭典」などの章は特に興味深い)によって,バロック芸術を支えたというよりは,むしろ「創造」したとさえ思われる巨人の様々な特性に想いが至る.

 今までに幾つかの作品を見ていながら,単に有名な彫刻家という印象に留まり,深く感銘を受けて来なかったベルニーニに関して,今回,特にボルゲーゼの作品をじっくり見たことにより,ルネサンスの人文主義の遺風を受けて成長した天才が,バロックの宗教芸術に祝祭性,劇場性を巧みに織り込みながら,さまざまな分野に作品を残した偉大な芸術家であると思うに至った.

 同時代に,ボッロミーニ(建築),アルガルディ(彫刻)のようなライヴァルもおり,ピエトロ・ダ・コルトーナような趣を異にする天才(絵画,建築,装飾)もいたが,その長い栄光の人生も考え合せると,彼との比較に耐えられるのはミケランジェロしかいないと思ってしまう.

 ボルゲーゼ美術館の「アエネアスの亡命」の英雄には,サンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂のミケランジェロ作「十字架を担うキリスト」の影響が指摘されているし,両者とも古代彫刻から多くを学んだという共通点もある.

 何よりも「ローマ」と言う古代都市を,16,17世紀と言うそれぞれの時代の要請に合致する形で再生させていくことに誰よりも貢献した芸術家という意味では,この2人を超える芸術家は皆無であろう.

 全く違う個性を持ち,全く違う時代に生きながら,その天才によって都市芸術を開花させた2人の巨人を意識することなく,イタリア文化を考えることは最早できないであろうし,今後はベルニーニの名を冠した作品を瞠目せずに観ることはないであろう.

 今まで,複数回観ることができていながら,随分もったいないことをして来たような気もするが,これも無理をして納得することではないので,今回初めて心からベルニーニの偉大さに開眼できたことは,やはり文脈があってのことだと思う.

 今回も何気なく見てしまった作品,まだ見ることができていない作品を,今後少しずつでも再見,初見していければと思う.

 蛇足だが,付言すると,私は,石鍋やウェブページを参照して巨匠の人生について知ることができたが,石鍋はじめ研究者たちは,ベルニーニの伝記を参照している.ミケランジェロの場合,ヴァザーリの芸術家列伝があり,コンディーヴィの伝記がある.前者にはもちろん,後者にも邦訳がある.

 アスカニオ・コンディヴィ(ママ),高田博厚(訳)『ミケランジェロ伝』岩崎美術社,1978

 ベルニーニの伝記としては,息子のドメニコが書いたものと,フィリッポ・バルディヌッチのものがある.前者は1713年,後者は1682年の公刊と言うことなので,バルディヌッチの伝記は巨匠の没後2年で出されたことになる.さらにベルニーニがフランスに滞在した際に案内役を務め,ニコラ・プサンとも親しかったポール・フレアール・シャントルーの『騎士ベルニーニのフランス滞在記』も貴重な資料のようだ.

 私は専門に勉強するわけではないので,特に読む必要はないが,心魅かれるし,シャントルーのテクストはフランス語原文のものがフランス・アマゾン経由でフランスの古書店から,ドメニコとバルディヌッチ作の伝記は,それぞれ英訳が日本のアマゾン経由でイギリスの古書店から入手できるので注文した.楽しみだ.






前回は修復中だった「四大河の噴水」
こんなユーモラスな造形だったとは