フィレンツェだより番外篇
2015年4月6日



 




サンタンジェロ城
ラファエロ・ダ・モンテルーポの大天使ミカエルのいる城壁内



§2014ローマの旅 - その10 サンタンジェロ城,教会篇

いつもほどは教会を回れなかったが,初めての教会も2つ拝観したので,それらを含め,今回拝観した教会について,やはり初めて入ったサンタンジェロ城とともに報告する.


 ツァーの見学に組み込まれていた教会は,

 初日:サン・クレメンテ教会(2回目)
 2日目:チヴィタ・ディ・バーニョレージョのサン・ドナート教会/オルヴィエート大聖堂(2回目)
 3日目:サンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂(5回目)/サンタ・マリーア・デッラ・ヴィットーリア教会(2回目)
 5日目:サン・ピエトロ大聖堂(2回目)

で,遠足で行ったチヴィタ・ディ・バーニョレージョの教会以外,新しい拝観はなかった.

 自由行動の4日目は,バスとトラムを乗り継いで,まずヴィラ・ジュリア・エトルスコ博物館に行き,その後,サンタンジェロ城を見学,バスで移動して,バルベリーニ宮殿の古典絵画館に向かったが,聖母被昇天の休日だが開館するとの確認を取った,という日本人ガイド氏のお墨付きにもかかわらず閉館だった(翌日,聞くと,ストライキではないかとの推測を開陳された).

 そのおかげで,バルベリーニ宮殿に代わって行くことにしたアルテンプス宮殿の国立考古学博物館に歩いて向かう途中,新しい2つの教会を拝観することができた.


サン・シルヴェストロ・イン・カピーテ教会
 まずは,サン・シルヴェストロ・イン・カピーテ教会(英語版伊語版ウィキペディア))(以下,シルヴェストロ教会)である.ともかく開いていたので,拝観させてもらったが,この教会に関する予備知識は全くなかった.

 バロック風の外壁ファサード(下の写真向かって右.1700年前後のドメニコ・デ・ロッシの設計で古代ローマの凱旋門を意識)から入ると,前庭(アトリウム)があった.

写真:
サン・シルヴェストロ・イン・
カピーテ教会


 アトリウムには古代石棺,古い浮彫パネルやその破片が置かれたり,壁に掛けられたりしていて,それらも興味深く思えた.古い物は1世紀に遡るとのことだが,もともとあったものではなく,20世紀初頭の司祭が他から入手して,そこに置いたものとのことだ(下記のケイン,p.72).

 受胎告知,キリスト,笞刑など,宗教画と同じテーマの浮彫も古色蒼然としているだけに目をひかれ,蓋以外の部分が残っている石棺は,通常なら,鳩や孔雀であると思われるが,グリフィンが向かい合っていて,カメラを向けないではいられなかった.

 さらに本堂のファサードがあって,まず拝廊があり,そこから堂内に入ると,バロックの空間で,有名な画家の作品としては,礼拝堂の一つにオラツィオ・ジェンティレスキの「聖痕を受けるフランチェスコ」があり,これにもよろこんでカメラを向けたが,暗くてピントが全く合っていない写真しか撮れなかった.

 この教会を紹介した英語版の本があることを教会内で知ったが,どのような形でそれを知らせていたのかは思い出せない(多分,堂内に見本があったが,売ってくれる人がいなかったではなかったか).この本は帰国後,アメリカのアマゾンで古書価が高かったが,ともかく入手できた.

 Eileen Kane, The Church of San Silvestro in Capite in Rome, Genova: Edizioni d' Arte Marconi, 2005(以下,ケイン)

である.

 ケインに拠れば,後陣のコンク(半穹窿)の絵(下の写真の下部中央)は,ルドヴィーコ・ジミニャーニの「コンスタンティヌスの洗礼」である.17世紀後半の画家が描いた絵とは言え,後陣に描かれているということは,この教会にとって重要な意味を持っていることが予想された.




 コンスタンティヌス1世は「大帝」と称される,キリスト教を公認したローマ皇帝で,その洗礼を行ったのは教皇シルウェステル1世(ラテン語綴りはSylvesterもしくはSilvesterで,前者であればエラスムス式ではシュルウェステルと読むことになるが,「森」シルウァと言うラテン語から派生した名前であろうから,後者を元々として考え,「シルウェステル」と表記する)であり,この教会の名称はそれに基づいていることが読み取れる.

 コンスタンティヌスはキリスト教を公認して,自身の勢力安定に利用したが,彼自身の入信は,あったとすれば,死の直前(エウセビオス,秦剛平訳『コンスタンティヌスの生涯』京都大学学術出版会,2004,.pp.316-20)とされる.

 ところが,彼の死は337年,シルウェステルの死はその2年前とされるので,「洗礼」のエピソードは,コンスタンティヌスがその寄進状によってシルウェステルにローマを献じた(この寄進状の偽書性は,15世紀の人文学者ロレンツォ・ヴァラが証明した)とされることと並んで,ローマ・カトリック教会の権威を高めるために創作された伝説であろう.

 それ自体は史実ではないとしても,それを信じた人が多くおり,実際にローマ・カトリック教会の精神的支柱となったのであれば,史実性とは別に,尊重されねばならないだろう.ヴァティカン宮殿のコンスタンティヌスの間にも,ラファエロの下絵に基づいて,巨匠の死後,工房が仕上げた「コンスタンティヌスの洗礼」(フレスコ画)がある.

 半穹窿の上部にストゥッコの天使が2体見えるが,これはミシェル・マイユもしくはミケーレ・マーリアという彫刻家の作品で,この彫刻家は外壁ファサード上部4体の彫刻のうち1対も制作し,ローマの別の教会でも彫刻を担当しているようだが,本人についての情報は今のところほとんど得られていない.

 この手前がクーポラで,設計はフランチェスコ・ダ・ヴォルテッラ,装飾フレスコ画「栄光の父なる神」の作者はクリストファノ・ロンカッリ(英語版伊語版ウィキペディア)),通称イル・ポマランチョとのことだ.

 英語版ウィキペディアには,後陣にはオラツィオ・ボルジャンニの「教皇聖ステパヌス1世の殉教」,「コンスタンティヌスの使者たちのシルウェステル1世訪問」があり,これをフレスコ画としているが,ケインはこれを氏名不詳のカラヴァッジェスキの1人の作品でカンヴァス・油彩画としている.実物は見ることができていないが,ケインの写真を参照するとケインが正解のように思える.

 クーポラからファサード側に向かう身廊の天井装飾画はジアチント・ブランディ作「聖母被昇天とシルウェステル1世,洗礼者ヨハネ」で,破綻のないめでたい絵柄の華やかな作品だ.

 シルウェステルだけでなく洗礼者がいることには意味があるかも知れない.信じられていたかも知れない所伝の通り,シルウェステルがコンスタンティヌスに洗礼を施したのであれば,彼はキリストに洗礼を施したヨハネには及ぶべくもないとしても,キリスト教世界の最初の世俗的保護者となったコンスタンティヌスに洗礼を施したことになる.

 さらに,この教会の名称の「イン・カピーテ」の由来に関わる可能性がある.



 「カピーテ」は,ラテン語で「頭」カプトを意味する.カプトは「頭の」という所有や所属を意味する属格という格変化形はカピティスとなり,それを基本に12の格変化形(ただしそのうち6つと2つはそれぞれ同形)を形成し,カピテというのが単数の奪格という格変化形になり,奪格を支配する前置詞とともにイン・カピテという前置詞句が形成される.これをイタリア語式に発音すると多分イン・カピーテになるであろう.

 「頭に」という語は,「最初に」という成句となり,この場合,シルウェステルと言う教皇は後に2世も出るので,その1世の教会と言う意味に成り得るし,.また,もう一つのシルウェステルの名を冠したサン・シルヴェストロ・アル・クィリナーレ教会に対して,「最初の」と言う意味にも成り得るかも知れない.

 また,カプトは,英語の首都を意味するキャピタルcapitalがその形容詞形カピターリスcapitalisを語源としているように,カプト・ムンディー「世界の頭」caput mundiと言う組合せにした場合には世界帝国の首都ローマを意味し得るので,イン・カピテは「ローマに(ある)」を意味するであろう.

 さらに言えば,この教会に,12世紀の有名な教皇イノケンティウス2世が,洗礼者ヨハネの頭骨を聖遺物として置いたことも関係しているかも知れず,であれば,17世紀に描かれた天井画にシルウェステルと並んで洗礼者ヨハネが描き込まれても不思議はないことになる.

 ただ,その場合「頭に」と言う成句を,教会に洗礼者の「頭」があることと文法的,文脈的に整合させようとすると,例えば「(洗礼者の)頭において(神聖な意味を持つ)教会」のように何か補って考えなければならないかも知れない.

 12世紀には,デー・カピテ,もしくはイン・カピテと言うラテン語成句が付されいた記録があるようで(ケイン,p.16),前者であれば「頭骨に由来する」と言う意味に取れないこともなく,より聖遺物と結び付けやすい.名称すらも既に,中世の闇に中にその起源が埋没してしまっているくらい古い教会と理解しておけば良いのだろうか.

 いずれにしろ,創建は8世紀に遡り,12世紀のイノケンティウス2世の時代に大改築が施され,その際に現存するロマネスクの鐘楼が建てられ,13世紀には,フランチェスコ会の女性部会とも言うべきキアラ会の教会となり(外壁ファサードの4つ彫像のうち,両端がフランチェスコとキアラ),16世紀末にフランチェスコ・ダ・ヴォルテッラ,カルロ・マデルノの設計でバロック教会となった.

 19世紀からは,アイルランドの修道会の管理に委ねられ,ローマにおける,私たちが「イギリス」と言っている連合王国とアイルランド共和国の英語話者の人たちの「民族教会」として,ミサは英語で行なわれているとのことだ.

写真:
ジュゼッペ・キアーリ
「聖母子とパドヴァのアントニウス,
教皇聖人ステファヌス1世」


 上の絵で跪いているステファヌス1世は,257年の皇帝ウァレリアヌスの迫害で殉教したとされ,その聖遺物もこの教会にある.英語版ウィキペディアのリンクは,最初の殉教者ステパノになっているが,外壁ファサードの4体の彫刻の中2つは,シルウェステル1世と,この教皇ステファヌス1世であると思われる(教皇の姿をしている).

 オラツィオ・ジェンティレスキの絵もフランチェスコを描いたものだったが,上の絵に描かれたパドヴァのアントニウスもフランチェスコ会の聖人であり,この絵が描かれた頃,キアラ会の教会だったことが察せられる.

 ジュゼッペ・バルトロメオ・キアーリ(英語版伊語版ウィキペディア)は1654年ローマに生まれ,1727年同地で亡くなった.師匠筋にあたる人物の中にはカルロ・マラッタが挙げられており,バロックの画家ではあるが,ラファエロ作品を範として古典的な絵画を量産した芸術家の系譜に数えられるであろう.上の写真の絵も,まずまず美しい作品と言えるだろう.

 この画家の作品としては,2013年3月にローマに行った時,コロンナ宮殿で天井画「天界に迎えられるマルカントニオ・コロンナ」(1698-1700年)を見ている.レパント海戦の勝利を記念した壮大な絵だが,細かく鑑賞する対象とは言えず,華やかな天井装飾の一つと言う記憶しかない.

 これは古典絵画館として公開されている部屋であれば見た可能性もあるが,バルベリーニ宮殿にも天井画「暁の女神と戦車を駆るアポロ」(1693年)も描いている.いずれもフレスコ画とされるので,そのような訓練も受け,大きな絵を破綻なく描ける技術のしっかりとした画家と想像される.

 英語版ウィキペディアの作品リストを見ると,サンティニャーツィオ,サンタンドレーア・アル・クィリナーレ,サン・クレメンテ,サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ,サン・フランチェスコ・ア・リーパといったローマの諸教会に作品があるようなので,おそらくどこかで目にしていると思われる.

写真:
ルドヴィーコ・ジミニャーニ
「聖家族」


 上述のルドヴィーコ・ジミニャーニ作の祭壇画「無原罪の御宿り」(やはりフランチェスコ会系の画題),「聖家族」がサイド・チャペルにあり,ともに美しい絵だ.私たちが2007年にピストイアの市立博物館で出会った画家ジアチント・ジミニャーニと,ヴェローナで出会った画家アレッサンドロ・トゥルキの娘(英語版ウィキペディア「トゥルキ」に「姉妹」とあるが,アレッサンドロとジアチントの年齢差から推測すると娘であろう)との間にローマで生まれた.

 ルドヴィーコの作品は,サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ教会で,グイド・レーニのコピーとされる「受胎告知」を見ている.ルチーナ教会には,父ジアチントの作品も,祖父アレッサンドロ・トゥルキの作品もある.

 あまり系譜をたどる意味はないかも知れないが,ジアチントの父アレッシオはヤコポ・リゴッツィの弟子なので,17世紀のトスカーナ絵画の系譜に連なっている.また,リゴッツィはもともとヴェローナの出身であり,アレッサンドロ・トゥルキの師匠はフェリーチェ・ブルーザソルチで,リベラーレ・ダ・ヴェローナまで遡れるヴェローナの芸術家の系譜に属している.

 ルドヴィーコは1697年に亡くなるので,17世紀バロック最後の画家の1人と言って良いかも知れないが,父のジアチントもピエトロ・ダ・コルトーナの影響を受けており,カラヴァッジェスキのバロックとは異なる,端整な古典主義志向の絵画の伝統を支えた人々と言えよう.

 ローマから帰り,ピストイアの大物地元画家として活躍するジアチントとは異なり,有名芸術家が数多くいるローマでの活動に終始したルドヴィーコに関しては詳しい情報がないが,少なくともシルヴェストロ教会で観た3つの作品に関しては,「聖家族」が一番良いが,どれも佳作と言って良いのではなかろうか.

 これまた,撮影に挑戦して,ピントの合ってない写真しか撮れていなくて残念なのが,フランチェスコ・トレヴィザーニ「キリスト磔刑」(英語版ウィキペディアには「受難」)である.

 今まで,特に印象に残った画家ではないし,今回ヴァティカン絵画館で観た「キリストとサマリア人の女」も平凡な作品に思えた.しかし,この磔刑の絵は,ケイン掲載の写真で反芻しても,夕暮れを意味しているのであろうか,全体として茶色い画面に,失神している聖母とキリストに光が当たっているのに,キリストは幻のように,かすんで少し大きめに,通常の磔刑図よりも低い位置に描かれていて,斬新な構図に思われ,印象に残った.

 写真で見ると,キリストの顔には不満が残るが,暗い堂内(何せまともな写真が撮れなかった)で見れば,キリストの幻視感にインパクトがある作品のように思われた.気のせいかも知れないが.



 今までに名前を聞いたのある芸術家の作品としては,ピエール・フランチェスコ・マッツッケッリ(通称イル・モラッツォーネ)(英語版伊語版ウィキペディア)のフレスコ画「三王」礼拝があったようだが,これは観た記憶がない.

 この「三王礼拝」は華やかな色彩のフレスコ画なので,全く異なるが,多くの場合,カラヴァッジェスキ的作風の絵を描いた画家との印象がある.カラヴァッジョより2歳下で,同郷のロンバルディア出身,どのような形でカラヴァッジョと関係したのかはわからない.

 彼がこの作品を描いたのは1596年とされ,であればまだ23歳の若者だ.この年にカラヴァッジョはカジーノ・ルドヴィージ(当時はデル・モンテ枢機卿の別荘)の天井画を描いているが,明暗のはっきりしたカラヴァッジョ風はまだ草創期で,「病めるバッカス」が94年頃,エルミタージュの「リュートを弾く少年」が95年頃とされる(宮下規久朗『もっと知りたいカラヴァッジョ』)ので,カラヴァッジョの作品を見ることができれば,影響を受ける可能性もあったかも知れないが,考えにくい.

 カラヴァッジョが一躍流行画家となる,サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会の「聖マタイの召命」と「聖マタイの殉教」が1600年の作品で,モラッツォーネは1597年にロンバルディアに帰っている(英語版ウィキペディア).

 以後の活躍の場は,ヴァレーゼ,ミラノ,コモなどロンバルディアで,最後に,現在はエミリア=ロマーニャ州に属しているピアチェンツァ大聖堂のクーポラの内側にフレスコ画を描く仕事に取り掛かり,完成を見ずに1626年に亡くなった.

 その仕事を引き継いで完成させたのは,ローマからエミリア=ロマーニャに帰っていたグエルチーノであった.

 カラヴァッジョが亡くなるのが1610年だが,生前にはカラヴァッジョ風の絵の流行が始まるので,モラッツォーネもカラヴァッジョと直接の関係がなくても,カラヴァッジョ風の絵を描いたということだろう.シルヴェストロ教会の「三王礼拝」はそれ以前の時期の作品ということになる.


サンタ・マリーア・イン・アクィーロ教会
 それに比べると,次に行ったサンタ・マリーア・イン・アクィーロ教会(以下,アクィーロ教会)では,はっきりとカラヴァッジョ風の絵を観ることができた.

 数点の祭壇画がはっきりした明暗法の作品で,以前はホントホルスト作品とされていたが,現在はフランスの画家トロフィーム・ビゴに帰属されている(英語版ウィキペディア)ようだ.しかし,どの作品も,ホントホルストは言うまでもなく,ビゴの現存する作品のウェブ上の写真と比べても,とてもそれらの水準には達しておらず,単に背景を暗くしただけで,カラヴァッジョ「風」に思えるだけだ.おそらく,当時多くいた有象無象のカラヴァッジェスキの一人の作品であろう.

 しかし,この教会には,カラヴァッジェスキの中でも,まずは一流の内に数えても良いと思われるカルロ・サラチェーニ(英語版伊語版ウィキペディア)の作品が5点ある.

 サラチェーニの作品は,「受胎告知」礼拝堂の祭壇画「聖母の誕生」,「聖母の神殿奉献」,天井とアーチ下にある「聖母被昇天,奏楽の天使たち,聖人たちと諸徳の寓意」(下の写真)である.

写真:
カルロ・サラチェーニ
「聖母戴冠」
1614-17年


 2014年3月の北イタリア旅行で,ヴェネツィアに2泊し,再び訪れたアカデミア美術館で,カルロ・サラチェーニの特別展が開催されており,そこで,彼がローマのサンタ・マリーア・デッラ・スカーラ教会のために描いた「聖母の永眠」を観ることができた.

 この題材の作品を最初に受注したのはカラヴァッジョだったが,彼の聖母の描き方に不満を覚えたためか,注文主が受け取りを拒否したので,代わりにサラチェーニが描くことになった.カラヴァッジョの「聖母の永眠」は,マントヴァのゴンザーガ家に購入され,後にフランス王室の所有となり,現在はルーヴル美術館が所蔵している.

 帰りの飛行機の荷物の重量制限があるので,アカデミア美術館では小さな解説書を買っただけで,特別展の図録は帰国後,イギリス・アマゾンで入手した.

 Maria Giulia Aurigemma, ed., Carlo Saraceni: Un Pittore Veneziano tra Roma e l' Europa, Roma: De Luca Editori d' Arte, 2013

である.

 この図録を再確認して,驚いたのは,今回初めて観ると思った,アクィーロ教会の「聖母の誕生」,「聖母の神殿奉献」(下の写真)が,この特別展に出展されていたことだ.私たちは,アクィーロ教会は初めて拝観したが,サラチェーニの2点の祭壇画とは再会だったことになる.

写真:
カルロ・サラチェーニ
「聖母の神殿奉献」(部分)
1614-17年


 特別展は,ツァーがアカデミア美術館で現地解散となった後,短い時間でさらっと観ただけだし,その後の自由時間を利用して,それまで拝観していなかったサン・ロッコ同信会と幾つかの教会を拝観する予定で気が急いていたとはいえ,全く記憶に無いくらいだから,現地ではあまり印象に残らなかったことになる.

 さらに,図録で確認できたのは,この礼拝堂の祭壇画上部に,それぞれリュネットに嵌め込まれた,「聖母永眠」と「聖母被昇天」があったことだ.特別展では見たはずだが,教会の礼拝堂では多分,見ていないか,注目していなかったかどちらかだ.ピントの合っていない写真も含めてリュネット画は写っていない.


カルロ・サラチェーニ
 サラチェーニはヴェネツィアの生まれだが,画家としては,ローマのサン・ルーカ美術学院で学んで,ローマで活躍したので,ヴェネツィア派の影響はないとされている.しかし,ローマに出た時彼は既に21歳だったことを考えると,完全にローマ的画風だったのかどうか疑問に思う.

 あまり,根拠のないことを言っても仕方がないが,アクィーロ教会の「聖母の誕生」は明暗のはっきりしたカラヴァッジョ風の絵だとしても,「聖母の神殿奉献」は同じ時期の作品なのに,カラヴァッジョ風ではない.今春のヴェネツィア旅行で,複数の優れた「聖母の神殿奉献」を観る機会があったが,心なしかサラチェーニの作品も,それらに似ているようにも思える.

 彼は,パラッツォ・ドゥカーレの大評議会の間に12世紀に十字軍の遠征に参加したエンリコ・ダンドーロを題材にした絵を描く仕事を請け負って,ヴェネツィアに帰ったが,間もなく亡くなり,作品はフランス出身の助手ジャン・ルクレルクが完成した.

 彼にはどうしても「カラヴァッジョ様式を取り入れた第一世代」(『もっと知りたいカラヴァッジョ』,p.90)と言う冠がつくので,見落とされがちだが,ヴェネツィアで生まれ,ヴェネツィアで亡くなった画家である.

 サラチェーニ展の図録には,

Michel Hoffmann e Chiara Marin, Carlo Saraceni a Venezia


という論文が掲載されており,そこでフォーカスされているのは,ヴェネツィア,ローマで活動した当時のドイツ人画家たちである.ハンス(ヨハン)・ロッテンハンマーアダム・エルスハイマーと言う画家たちの名前を初めて知った.前者は1564年ミュンヘン生まれで,ドイツで学んだ後,ローマに行き(1593年頃),さらにヴェネツィアで約十年間(1595/6-1606年)活動し,ドイツに帰って1625年アウクスブルクで亡くなった.

 後者は1578年フランクフルト=アム=マインで生まれ,その地で学び,20歳くらいで,ミュンヘン経由でイタリアに行った.ヴェネツィアでロッテンハンッマーの助手となり,師匠だけではなく,ティントレットやヴェロネーゼなどヴェネツィア派の画家たちの影響を受けながら,自らの作品も残した.

 彼は1600年にローマに出て,ロッテンハンマーの紹介で,教皇の侍医であり,植物学者だった,バイエルンのバンベルク出身のジョヴァンニ・ファーベル(ヨハン・ファーバー),フランドル出身の風景画家パウル・ブリルと知り合う.

 ファーベルは顕微鏡の命名者であり,解剖学を推進し,美術コレクターとしても知られ,この時代のローマの科学と文化にとって重要な人物だった.ブリルは1621年にはサン・ルーカ美術学院の院長となり,多くの画家に影響を与えた人物なので,このサークルにエルスハイマーがいたことは,絵画史にとっても大きな意味があるようだ.

 ファーベルとブリルの周辺にはルーベンスもおり,エルスハイマーとも親交を結び,ルーベンスも彼を高く評価したようだ.エルスハイマーの影響がサラチェーニに見られるとされる.

 ナポリのカポディモンテ美術館が所蔵している,古代ローマの詩人『変身物語』に題材を取った神話連作のうち,イカロスやアリアドネを主題とした6点がアカデミア美術館の特別展に出展されていた.

 全て40×52.5cmの小さな絵で,銅板に油彩で描かれている.このタイプの絵を英語でキャビネット・ペインティングと言うようだ.この分野の流行を促進したのが,ロッテンハンマーとエルスハイマーとされる.

 サラチェーニの作品も神話主題ではあるが,風景がより重要な要素に思われ,素人目にも多分,エルスハイマーの影響が見られるように思う(英語版ウィキペディア「エルスハイマー」など).ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの写真では,バーゼルにある「マノアにサムソン懐胎を告げる天使」(1610年頃)が,銅板油彩という形式とサイズがほぼ同じで,ここからどのような絵か推測してもらえるだろう.

 特別展の図録には,

 Adriano Amendola, Carlo Saraceni a Santa Maria in Aquilo: La Decorazione della Cappella Ferrari


という論文も掲載されている.「フェッラーリ礼拝堂」とは,上述の「受胎告知礼拝堂」のことで,仕事を依頼したのがオラツィオ・フェッラーリで,そこは彼の家の礼拝堂であったので,そのようにも称されるようだ.

 アクィーロ教会には,全くの偶然で通り道にあって,扉が開いていたから拝観させてもらっただけだが,これほど様々な学習項目が出てくることになるとは思わなかった.

 写真に撮って来た説明板によると,「フェッラーリ礼拝堂」の正面の祭壇画「受胎告知」はフランチェスコ・ナッピの作品とされる.この画家に関しては,ウェブ検索でも一つのページしかヒットしない.1565年にミラノで生まれ,モラッツァーネの弟子となり,画業によってローマで活躍し,1630年の5月30日にローマで亡くなったことがわかる.サラチェーニより14歳年長でありながら,死は10年後だったことになる.

 しかし,この論文に拠れば,この祭壇画「受胎告知」の作者は,教会の説明板にあったフランチェスコ・ナッピではなく,パオロ・ピアッツァ,通称イル・カップッチーノである.もし伊語版ウィキペディアの情報に対応している画家であれば,1560年頃,ジョルジョーネと同じカステルフランコ・ヴェネトで生まれ,1620年頃亡くなった人物のようで,サラチェーニより19年くらい年長で,同年に同じヴェネツィア亡くなったことになる.



 庭園美術館のカラヴァッジョ展にも来た有名な作品「聖チェチーリアと天使」(バルベリーニ宮殿古典絵画館,1610年頃)を含め,図録の写真でサラチェーニの作品を反芻してみても,この画家が大芸術家とは到底思えない.

 しかし,現実に,すぐれた画家が数多いたはずのローマで多くの作品を受注し,カラヴァッジョの影響,エルスハイマーの影響を,ある場合には別個に,ある場合には融合して自作に活かしつつ,ヴェネツィア派,ローマ派,北方絵画の伝統をたくみに取り込んだ彼の作品が,現在まで教会や美術館に伝わっている.やはり,イタリアの職人的芸術家の典型とも言うべき人物で,レオナルドやカラヴァッジョのような天才とは別の存在意義のあった画家と言えるだろう.

 特別展に展示されていた作品に,彼の故郷ヴェネツィアのレデントーレ教会に飾られている祭壇画「聖フランチェスコの法悦」(1620年)がある.前のページで紹介したグエルチーノの作品と同一主題である.

 サラチェーニ作品の向かって左側の人物はフランチェスコの教えに最初から付き従っていたクィンタヴァッレのベルナルドと思われる(特別展図録,p.320).ボローニャ大学で教会法とローマ法を二つながら収めて博士となったほどのエリートでありながら,フランチェスコの清貧の思想に共鳴して行動を共にした人物を書物とともに描き込んで,サラチェーニは非現実的な幻視の物語に説得力を持たせようとしている.

 41歳で亡くなったサラチェーニが,死の直前に故郷ヴェネツィアの教会のために描いた渾身の力作と言いたいところだが,ほぼ同じ絵柄の作品がミュンヘンのアルテ・ピナコテークにあり,これも特別展に出展されていた.後者の方が色がやや鮮やかで,フランチェスコに短い髯が加えられ,聖痕がくっきりしていると言う違いはあるが,並べて見なければ,普通の人は別の絵とは思わないだろう.明暗のくっきりしたカラヴァッジョ風の絵だが,暗さはだいぶ薄まっている.

 アカデミア美術館の特別展では,サラチェーニの相互類似作品が何組か展示されていた.それによって当時の画家の制作態度を想起させるという意図があったのだろう.これはサラチェーニだけではなく,カラヴァッジョやグエルチーノにも程度の差こそあれ,見られる現象なのだと思う.

 アクィーロ教会の「聖母の誕生」と,ほぼ同じ絵柄の,銅板に油絵の作品がルーヴル美術館にある(同美術館の英語,仏語による検索システム,アトラスでも写真が見られる).同じく「聖母の神殿奉献」の絵も,工房作品とされているが,ミュンヘンの国立博物館にあり,これも特別展に展示され,図録にもある.写真で見る限り,工房作品の方が,色彩が鮮やかでヴェネツィア派を感じさせる.

 サラチェーニの作品に,パルマ・イル・ジョーヴァネ,バッサーノ一族,ロレンツォ・ロットなどヴェネツィアの画家たちの影響を読み取るのは,専門家には容易なことなのであろうが,私はこの「聖母の神殿奉献」を特別展と教会で2度観て,撮った写真(ピントはあっていない)を眺め,図録で工房作品も併せて反芻して,誤解や早とちりかも知れないが,ようやくサラチェーニのヴェネツィア性を感じた.

 庭園美術館のカラヴァッジョ展とバルベリーニ宮殿国立古典絵画館(今回は休館していて行けなかったがが,それ以前に2回)は自分の意志で見に行ったが,アカデミア美術館のサラチェーニ展とローマのアクィーロ教会は全くの偶然で観ることができた.

 図録の写真を眺めていると,幾つかの作品は,やはりこの画家の才能を感じさせるが,概ね,カラヴァッジョやグエルチーノには遠く及ばない画家に思われる.特に,周辺は良く描けているのに,大事な人物の顔にどうしても不満が残る場合がほとんどである.

 しかし,このアクィーロ教会で彼の複数の作品を観ることできて,サラチェーニは私が好きな画家の一人になった.今後ともフォローして行きたい.特に,カラヴァッジェスキの1人である彼の中に,ヴェネツィア派的特徴があるかどうか少しずつ理解して行きたい.

写真:
サンタ・マリーア・イン・
アクィーロ教会


 アクィーロ教会に関しては,伊語版ウィキペディアよりも英語版が少し詳しく,驚いたことに独語版ウィキペディアが最も詳しかった.英語版,独語版になく,伊語版にある情報としては,ファサード(上の写真)は18世紀の建築家ピエトロ・カンポレーゼの設計に拠るとのことである.

 この情報は独語版にはないが,仏語版にはあり,ここには堂内の再装飾(おそらくフレスコ画)をチェーザレ・マリアーニ(英語版伊語版仏語版ウィキペディア)が1866年に行ったとある.


サンタンジェロ城
 カステル・サンタンジェロ(聖天使城)は,初めてローマに行った2006年9月,夏時間の早朝でまだ薄暗いローマの町をボンコンパーニ通りを振出に,人気(ひとけ)の全くないスペイン階段を下りて川沿いに歩き,ヴァティカンに向かう途中,サンタンジェロ橋を渡ってテヴェレ川を越えた時,間近に見た.いつの日か見学したいと思っていた.

 どこまで原形をとどめているかは不勉強でわからないが,五賢帝の1人ハドリアヌスの霊廟で,中世以降教皇国家の城砦となり,1527年の「ローマ劫略」の時,恐怖に怯えたメディチ家出身の教皇クレメンス7世が立て籠もり,カラヴァッジョが何度か投獄され,フィクションだがプッチーニのオペラ「トスカ」では主人公がここから身を投げた.

 大げさに言えば,古代,中世,ルネサンス,バロック,近現代のローマをずっと見守って来た建物である.




 随分以前に,イタリア・アマゾンで,

 Nunzio Giustozzi, ed., Jeremy Scott, tr., Castel Sant' Angelo: Guide, Milano: Mondadori Electa, 2003


を入手し,ここに有名画家の絵画作品が複数あることを知ってからはなおさら見たい気持ちがつのった.

 炎天下,長い行列になっていた.1時間ほどで入場でき,ほぼ見落としたものはないと思うが,なにせ大きな建物なので,あるいはどこか見逃した所があるかも知れない.

 宗教絵画の特別展が開催されていた.ネット上の情報(サンタンジェロ城のHP内の告知ページなので,いつまで残っているかわからないがとりあえずリンクしておく)によると「希望の教皇たち:600年代のローマの芸術と宗教」と言うような名称の特別展だったようだ(今,検索したら図録があり,複数のアマゾンで入手できるようだが,イタリア・アマゾンが1番安かったので,注文した).さらにネット検索すると一部だが,出展作品のフォトギャラリーもある.

 特別展は撮影禁止で,図録も絵葉書も売っていなかったので,殴り書きのメモだけが頼りだが,ピエトロ・ダ・コルトーナ「聖アレッシオの死」(ナポリ,ジローラミ教会),「「聖マルティヌス」(アスコリ・ピチェーノ市立博物館),「聖ダフローザ」(ローマ,サンタ・ビビアーナ教会),「偶像崇拝を拒む聖マルティヌス」(フィレンツェ,パラティーナ美術館),ヴォルテッラーノ「聖カタリナの神秘の結婚」(ヴィチェンツァ人民銀行),オラツィオ・ジェンティレスキ「聖チェチーリアと天使」(ワシントン・ナショナル・ギャラリー?),カヴァリエール・ダルピーノ「ラザロの蘇生」(コルシーニ宮殿国立絵画館),ジョヴァンニ・ランフランコ「聖母子と聖カルロ・ボッロメーオ,聖バルトロマイ」,フランチェスコ・アルバーニ「ポルトガルの聖エリサベト」(カポディモンテ美術館),ジアチント・ジミニャーニ「ヴィッラノーヴァの聖トマスの栄光」(ボルゲーゼ美術館),ルドヴィーコ・ジミニャーニ「聖マッダレーナ・デイ・パッツィの悪魔祓い」(ボローニャ,フェデリコ・ゼーリ財団),シモーネ・カンタリーニ「脚萎えの男を癒す聖ペテロ」(マルケ州ファーノ市立博物館),ニコラ・プサン「聖エラスムスの殉教」(バルベリーニ宮殿古典絵画館)

などが,かろうじて読み取れた.いずれ,図録が入手できる見込みになったので,列挙する意味はないかも知れないが,自分で臨場感を蘇らすよすがにはなるだろう.

写真:
ロレンツォ・ロット
「荒野の聖ヒエロニュムス」
1509年


 この博物館(現在はもと「城」の博物館)には,ルーカ・シニョレッリ(「聖母子と天使たち,聖人たち」カルロ・クリヴェッリ(「祝福するキリスト」と「聖オノフリオ」)とロレンツォ・ロット(上の写真)があることは,もともと上記の案内書で知っていたが,それぞれ確認することができた.

 博物館HPに拠ればドッソ・ドッシ「水浴」もあるはずだが,見ていない.存在を知らなかった作品としては,16世紀ラヴェンナの画家ルーカ・ロンギの「若い女性と一角獣」が見られて良かった.

 アンブロージョ・ツァヴァッターリ工房の金地板絵多翼祭壇画は,特にすぐれた作品とは思えなかったが,やはり,ゴシックの祭壇画を見てこそイタリア美術と満足した.実際は15世紀半ばのものということなので,ゴシックは既に遠く,初期ルネサンスの絵ということになる.

 なかなかじっくり観て感銘を受けるのは難しいが,大きな部屋の壁と天井を装飾していたフレスコ画はラファエロ工房出身のペリン・デル・ヴァーガ,マニエリスム期の芸術家ペッレグリーノ・ティバルディ(英語版伊語版ウィキペディア・・写真だけでなく両者で情報も少し異なる)の作品だ.

 前者の「ホメロス作品を一つの箱に収めさせるアレクサンドロス大王」などは本来は,もう少し注目すべきだったかも知れない.一応,写真には収めてきた.前者の「大天使ミカエル」もなかなかの出来だ.ティバルディは建築家でもあり,私たちが見た作品としてはミラノのサン・セバスティアーノ教会サン・フェデーレ教会(外観のみ)がある.

 サンタンジェロ(聖天使)のアンジェロ(天使)は大天使ミカエルを指す.下の写真のブロンズの天使像は,この城を仰ぎ見る者には遠くからでも良く見える彫像だが,フランドル出身でヘント生まれだが,ドイツのマンハイムで亡くなったからだろうか,ドイツ語名の彫刻家ペーター・アントン・フォン・フェアシャッフェルトが1753年に制作したものらしい.

 ラファエロ・ダ・モンテルーポ(大理石,1544年),ペッレグリーノ・ティバルディ(フレスコ画,1545年)の作品と並んで,聖天使城の三大傑作かも知れないが,間違いなく最も目立っている.






大天使がいるからか 空が近い
サンタンジェロ城の屋上で