フィレンツェだより番外篇
2015年8月3日



 




総督宮殿「巨人の階段」の大理石装飾
新総督の「コルノ」戴帽はこの階段を上ったところで



§2015 ヴェネツィアの旅 - その2 総督宮殿

3度目のヴェネツィアだが,総督宮殿(パラッツォ・ドゥカーレ※)見学は2度目だ.今回はツァーの一環で,「シークレット・ツァー」というおまけもついていた.


 (※「ドージェ」は「元首」の訳語を用いるが,元首宮殿は言いにくいので「パラッツォ・ドゥカーレ」は「総督宮殿」とする.ドージェと同じくラテン語のドゥクス(指導者,指揮官)が語源である「ドゥーカ」(公爵)が住む場合,単純に置き換えれば「パラッツォ・ドゥカーレ」は「公爵宮殿」と訳せなくもないが,これは当然のことながふさわしくないだろう)

 シークレット・ツァーでは,高官の執務室(ウッフィッチョ・デル・カンチェッリエール・グランデ)とか,拷問部屋(サーラ・デッラ・トルトゥーラ)とか,通常の入場料の範囲内では公開されていない部分を案内付きで見せてくれる.特に興味を魅かれていたわけではないが,確かにヴェネツィアの政治体制の一端を知ることができてまずまず面白かった.


伝説の男カサノヴァ
 通常公開コースのみを見学した前回も,溜息橋を渡って,獄舎の一部は見られたが,カサノヴァ(カーザノーヴァ)(英語版伊語版ウィキペディア)(日本語版ウィキペディア「ジャコモ・カサノヴァ」も詳細)が監禁されていた部屋は見ていないと思う.

 「カサノヴァ」は母の夫の姓だが,彼自身はヴェネツィアの名門貴族グリマーニ家の男性ミケーレの婚外子だったようだ.グリマーニ家の援助があったので,パドヴァ大学で学ぶという当時としては最高の教育を受けることができ,16歳で法学博士となった.

 現在のイタリアでは,「博士」(ドトーレ)が,日本の「学士」に相当する大学卒業学位であり,当時も同じかどうかはわからないが,この「博士」を過大評価するのは,おそらく間違いだと思う.とは言え,秀才であったことには異論がないだろう.

 教会法の専門家として,教会に職を得ることが求められていたのであろうが,本人はむしろ医学,薬学,化学などの自然科学に興味を持ち,ラテン語にも精通し,ホラティウスの作品を自在に暗唱し,イタリア文学ではアリオストを好んだという教養志向の人物である.

 カサノヴァの人生を語るのは本稿の趣旨ではないし,そもそも彼に関して詳しく知っているわけではないので,

ライヴズ・チャイルズ,飯塚信雄(訳)『カザノヴァ』理想社,1968(以下,チャイルズ)


という本もあり,ウィキペディアをはじめウェブページにも多くの情報があるので,興味があれば,そちらを参照されたい.チャイルズの訳書は,学生時代に,ニーチェ,ソクラテス,ヘルダーリン,ヤスパースについて学んだ写真入りの懐かしいロロロ・モノグラフィー所収の一冊である.新刊での入手は難しい(2015年7月22日朝参照のアマゾンでは,新刊の出品はないが,古書は思ったより廉価で入手可能なようだ)が,図書館では参照できる可能性が高いと思われる.

 法律上の父は,パルマ生まれの俳優ガエターノ=ジュゼッペ・カサノヴァ,実母ザンネッタ・ファルッシ(英語版伊語版ウィキペディア)は,大喜劇作家カルロ・ゴルドーニが回想録で言及し,一作品を彼女のために書いたと言っているほどの大物女優だ.ドイツのドレスデンに招かれて,最後はそこで亡くなっている.

 母と英国王ジョージ2世との間に生まれたとの噂もあった弟フランチェスコ=ジュゼッペ(英語版伊語版ウィキペディア)は高名な画家で,ガエターノとザネッタの実子とされる弟ジョヴァンニ=バッティスタも画家なので,両親は俳優,弟二人は画家という,ヴェネツィア生まれの母を中心とする芸術の才能に満ちた一家にカサノヴァは生まれたことになる.

 実父とされるミケーレ・グリマーニは,ザンネッタが女優としてデュビューしたサン・サムエーレ劇場のオーナー一族の出身で,同家は3人のヴェネツィア共和国の元首である総督(ドージェ)(英語版伊語版ウィキペディア),2人のアクイレイア総大司教,1人の枢機卿を出している.

写真:
家紋のついた棚が並ぶ
「高等書記局の間」


 3人の元首(総督)を出したグリマーニ家の血筋を引くカサノヴァが,総督宮殿に付随する牢獄に監禁されたのは皮肉な話だが,それがなぜ有名かは,彼がそこから脱獄を敢行し,その後ヨーロッパ各国を渡り歩き,有名人として知られていた上に,フランス語で,華麗な女性遍歴を含んだ回想録を書き,それが長年に渡って読まれ続けているからだろう.

 日本語訳も複数あるが,それが必ずしも読まれていないことは,売れても不思議のない廉価の文庫本が売れなくて,絶対数が少ないからだと思うが,品切れで古書価が高いことでもわかる.それでも,「カサノヴァ」と言う名に,多くの日本人が一定のイメージを持っているだろう.

 本人が書いた回想録のせいもあり,女性遍歴だけが独り歩きし,その中に18世紀的教養人像を見る人は少ないかも知れないが,彼が啓蒙主義の西欧世界を生き,ヴォルテールなど多くの思想家と交際し,人間的葛藤を展開した教養人だったことは,銘記されて良いだろう.



 罪状も刑期(5年だったようだ)もカサノヴァ本人には通告されないまま,総督宮殿の牢獄に収監され,3年の在獄の後,そこから脱獄し,その後ヨーロッパ各地で活動し,有名人となった.

 フランス語で書いた回想録はヴェネツィア人にも読まれたのだろう.脱獄時31歳だった彼が,ヴェネツィアに帰ったのは49歳の1974年だが,その際に,ヴェネツィア人の有力者も,彼の脱獄話を聞きたがったとのことである(チャイルズ,p.154).

 最初に収監されたのは「鉛の牢獄」(イ・ピオンビ)(英語版伊語版ウィキペディア)と呼ばれる天井の低い部屋で,2メートル近い大男だったらしい彼には苦痛だったろう.一日に半時間運動を許されていた場所で鉄の棒を入手した彼は,それを使って独房の床に穴をあけたが,期せずして,少しましな別の独房に移されたため,これは失敗に終わった.

 この穴は牢番に発見され,詰問されたが,逆に脅迫してまるめこみ,鉄の棒の存在をうやむやにし,別の独房にいた修道士を共犯者にして,彼に鉄の棒を渡した.修道士が自房の天井を穿ち,カサノヴァの房の天井にも穴を開けた.2人は苦労しながら,運にも恵まれ,総督宮殿の元首(総督)の部屋の窓から宮殿に入り,居残っていた役人と勘違いしたのかも知れない門番に門を開けさせて,宮殿の門から運河に向かい,ゴンドラで本土に逃走した.付随して様々なエピソードが語られているようで,俄かには信じがたいが,チャイルズはヴェネツィアの公式記録でも確認できると言っている(p.51).

 前述のように,長い遍歴を経て彼はヴェネツィアに帰り,当初は歓迎されたが,人間関係がうまくいかず,1783年故郷の町に永遠の別れを告げ,紆余曲折の後,ドイツ人貴族の図書館司書となり,不遇のうちに1798年満73歳で波乱の生涯を閉じた.

 晩年,オペラの台本作家ロレンツォ・ダ・ポンテと交流があり,モーツァルトとも直接会い,彼のオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の台本をダ・ポンテと共作しているという説もある(チャイルズ,p.167).

 プレイボーイが地獄に落ちる話を,稀代のプレイボーイが有名台本作家と共作し,それを世紀の天才作曲家が不滅の傑作にまとめあげるというのは,話としては面白すぎるが,それを否定するだけの根拠も持ち合わせない.18世紀後半の西欧世界の知識人や芸術家の活動に想いを馳せるのみだ.


巨匠とともに腕を揮った画家たち
 サン・マルコ大聖堂のファサードの前に広がるサン・マルコ広場はヴェネツィアで唯一,通常のイタリア都市で広場を意味するピアッツァを称している.広場の角にある鐘楼を南に曲がると海に面した「小広場」(ピアッツェッタ)があり,そこには,福音史家マルコの象徴物である有翼の獅子と,聖マルコ以前からヴェネツィアの守護聖人だった聖テオドロス(サン・テオドーロ)が,それぞれ頂に立つ2本の柱があり,海に向かって右側はマルチャーナ図書館,左側が総督宮殿である.

左写真:
サン・マルコ運河に面した
南側正面

中央バルコニーの窓は
下の写真の向かって右の窓
右写真:
「大評議の間」
正面にティントレットの
大作「天国」


 シークレットツァーであちこち案内されながら,宮殿内の中庭,様々な部屋の位置関係などを意識しようとしたが,正直なところ把握しきれなかった.どの部屋に行っても,どうしてもヴェネツィア派の絵画を中心とする諸作品が関心の対象となってしまう.

 今回のヴェネツィア訪問で,何が驚いたと言って,アカデミア美術館に関しては事前の情報と,ローマでの体験の類推から,多少予想していたが,コッレル博物館,サン・マルコ大聖堂,総督宮殿全てで,写真撮影可となっていたことだ.

 例によって,私が撮った写真はピントが合っていないことが多いので,妻の撮影した写真をあてにするつもりでいたら,彼女のコンデジのwi-fi対応の新型SDカードが3日目にして突然使用不能になり,それまで撮ったデータが復元できなくなった.帰国してから製造会社に相談すると,結果は約束できないが,できるだけのことはすると約束してくれて,時間と費用は多少かかかったが,データはすべて回復した.

 以前は,写真撮影可の美術館でも,まず自分で観ることが大事だと思い,ストイックに撮影は控えたが,美術作品も観る点数が多くなると,記憶が追い付かない.有名な作品は,今どきはウェブページでもそこそこ良質な写真が見られるが,ウェブページにも写真がないような非有名作品にも記憶の中で反芻したいものもあり,その意味では下手でも自分が撮った写真は貴重である.

写真は2枚とも
「トレ・カーピ(十人委員会の
3長官)の間」

天井画はジョヴァンニ・
バッティスタ・ゼロッティ
「悪徳を打ち負かす徳」
この部屋は階段で
牢獄と拷問室に通じている


 上の写真のジョヴァンニ=バティスタ・ゼロッティ(英語版伊語版ウィキペディア)はヴェネツィア生まれ(1526年)だが,ヴェロネーゼの師匠で義父のアントニオ・バディーレ(英語版伊語版ウィキペディア)とブルーザソルチ(もしくはブルーザソルツィ)の別名を持つドメニコ・リッチョ(英語版伊語版ウィキペディア)のもとで修業した.師匠はともにヴェローナの画家だ.ゼロッティはヴェロネーゼよりも2歳年長だから,日本風に言えば兄弟子にあたるのかも知れない.

 ヴェロネーゼとともに,ヴェネト州ヴィチェンツァ県のクィント・ヴィチェンティーノのヴィッラ・ティエーネ,ヴェネツィアの総督宮殿,マルチャーナ図書館で仕事をしているが,ヴィッラ・ティエーネはパッラーディオの設計なので,パッラーディオとヴェロネーゼの人間関係を考えると,仕事をとったのはヴェロネーゼで,ゼロッティは協力者だったろうと想像される.

 マルチャーナ図書館(後日報告予定)には,ティントレット,ヴェロネーゼの素晴らしい作品があって,写真も撮ったが,どれがゼロッティの作品だったかは,確認が面倒に思えるほど絵が多かった.しかし,同図書館の作品群を整理,紹介したページ(同図書館のHPの一部)があり,特にヴェロネーゼの3作を含む,天井のトンド画を紹介したページを参照すると,ゼロッティも「数学」と「良き習慣,徳」と言う2点の寓意画を描いていることがわかる.

 天井画の画家のうち超一流はヴェロネーゼだけとしても,名の通った画家ばかりなので,ゼロッティもそうした優れた画家の中の1人と考えて良いのだろう.

 伊語版ウィキペディアの作品リストに拠れば,ゼロッティの殆んどの作品は,ヴィッラ(別荘)の装飾画であったと思われる.総督宮殿にも少なくとあと2点の寓意画を描いている.

 装飾作品以外はというと,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートで検索すると,サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂に「死せるキリスト」(後ろに聖母と思われる女性がいるが,両脇で天使が支えているエンジェル・ピエタ型)があるようだが,撮って来た写真では確認できない.

 上野の国立西洋美術館の「聖カタリナの神秘の結婚」については,西洋美術館の常設展示作品の殆んどは写真撮影可なので,撮って来た写真で,確かにこの作品を少なくとも2度は観たことが確認できる.平凡な絵だが,手堅い技量を発揮した作品だし,このテーマはトスカーナでは良く見たが,ヴェネツィア派には珍しい※のではないだろうか.

 (※「ヴェネツィア派には珍しい」と一旦書いたが,今回の総督宮殿見学でティントレットの「聖カタリナの神秘の結婚」を観ているのに気付いた.この絵は1576年の作品とされるが,1545年から53年まで元首だったフランチェスコ・ドナが向かって右下に描かれている.跪いて祈る元首を「神秘の結婚」の場面の聖母子に紹介しているのは,聖マルコであろう.手に書物を持っていて,福音書と思われるからでもあるが,ウィキペディアやウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの写真がカットした下部は,コリント式柱頭の柱支えられた破風型の大理石の構造物で,隣室への出入り口になっているが,この構造物のために破却された部分にライオンが描かれていたものと思われる.下半身だけが残っているのは撮って来た写真で確認できる)

 ゼロッティは,マントヴァの公爵宮殿(パラッツォ・ドゥカーレ)に芸術監督として招かれ,そこで亡くなった(1578年).マントヴァに作品を遺したかどうかは今の所,情報は得られていない.

 16世紀のヴェネツィア派絵画と言えば,ティツィアーノ,ティントレット,ヴェロネーゼと思いがちだが,周辺でヴェネツィアの芸術環境を支えた多くの能才たちがいたことを忘れてはならないだろう.


ティツィアーノ作 「聖マルコ立ち合いのもと「信仰」に拝跪する元首アントニオ・グリマーニ」
 「4つの扉の間」(両側の絵は巨匠の甥,マルコ・ヴェチェッリオの作品)


 カサノヴァの祖先の一人かどうかはわからないが,グリマーニ家出身で,同家で最初に元首(総督)となったアントニオ(英語版伊語版ウィキペディア)を描いた絵が総督宮殿にある(上の写真).真ん中で十字架抱えている女性は「信仰」の寓意とされる.中央のパネルの画面向かって左にいる人物は,足許にライオンがいるので聖マルコであろう.

 両側の絵は何を意味しているのか,案内書や図録に載っているのは中央の絵だけなので,情報が得られていない.描いたのは,おそらくティツィアーノ(・ヴェチェッリオ)の甥にあたるマルコ(英語版伊語版ウィキペディア)と思われる.

 彼は巨匠と同じピエーヴェ・ディ・カドーレの出身で,総督宮殿で複数の作品を描き,ヴェネツィア,ヴェネト州およびその周辺で仕事をしたようだ.息子にティツィアーノと言う名をつけ,息子は画家となりティツィアネッロ(小ティツィアーノ)と呼ばれたとのことだ(伊語版ウィキペディア).

 リアルト橋の袂にあるサン・ジャーコモ・ディ・リアルト教会(英語版伊語版ウィキペディア)は3回のヴェネツィア訪問で,何回もその前を通っており,その特徴ある姿(ファサード上部に文字盤が24時間で針が1本の大時計)が目をひく教会だが,観光案内書などでは名前とファサードの写真以外に詳しい紹介はなかったように思う.1503年にこの地域を襲った火災でも焼け残り,1601年に修復を命じたのは元首(総督)マリーノ・グリマーニ(英語版伊語版ウィキペディア)であったとのことで,ここでも「グリマーニ」と言う家名と出会う.

 この教会に,マルコ・ヴェチェッリオが描いた「受胎告知」があるようで,写真はマルコを紹介した英語版,伊語版両方のウィキペディアに掲載されている.一度も堂内に入ったことがないので,見たことはないが,写真で見る限り,ティツィアーノ風の受胎告知で,平凡かもしれないが手堅い作品に思える.今度,ヴェネツィアに行く機会があれば,是非,堂内を拝観し,マルコの「受胎告知」を見て見たい.

 マルコの作品を総督宮殿以外では見ていないわけだが,彼の「受胎告知」のリュネットのフレスコ画が,チヴィダーレ・デル・フリウリのサンティ・ピエトロ・エビアージョ教会にあることは,以前,チヴィダーレに関して報告したページで言及している.

 チヴィダーレに行くことはもうないと思うので,こちらの「受胎告知」を見ることはないでろうが,サン・ジャーコモ・ディ・リアルトの「受胎告知」は,次にヴェネツィアに行った際には是非観たい.


総督宮殿の中の巨匠たち
 大評議の間の「天国」を始めとして,ティントレットの作品は総督宮殿に相当数あるが,キリスト教国家であるヴェネツィア共和国の総督(元首)宮殿に,単なる寓意画(上のゼロッティの絵や,下のヴェロネーゼの絵)ではなく,はっきりギリシア神話を題材にしているとわかる絵が相当数あるのは,やはりルネサンスという時代を経たイタリアならではだろう.

 謁見控えの間には,彼の神話題材の4作品がある.「ウェヌスが立ち会うアリアドネとバックスの結婚」,「平和と繁栄の女神たち,および軍神マルスを退けるミネルウァ」,「ウルカヌスの鍛冶場」と下の写真の「三美神のもとを訪れるメルクリウス」(以上,神名はラテン語形で統一した)だ.

写真:
テイントレット
「三美神のもとを訪れる
メルクリウス」」
「謁見控えの間」


 「三美神のもとを訪れるメルクリウス」は,弟のロレンツォから元首職を引き継いだジローラモ・プリウリ(英語版伊語版ウィキペディア)の善政を讃える構想のもとに,1576年から77年にかけて制作され,もともとは別の場所にあったが,現在は「謁見控えの間」にある.ジローラモの元首在位は1559年から67年までなので,死後(元首は終身の任期が原則)10年ほどして描かれた作品ということになる.

 ティントレットはこの元首の肖像画を描いており,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート掲載の写真は個人蔵,ウィキペディアで見られる写真はウクライナのオデッサ東西美術博物館に所蔵されているものようだが,少なくとも前者は1559年の作とあり,ティントレットは就任したばかりの元首の肖像を描いたことになる.

写真:
ヴェロネーゼ作
「老いと若さ」(部分)
「十人委員会の間」の天井画
1554-56年


 総督宮殿はヴェロネーゼの神話画,寓意画,歴史画の傑作の森で,時間と体力と知識と鑑賞眼と,作者,作品への愛を携えて鑑賞に臨まなければとても把握し切れない.

 最大の作品はティントレットの「天国」と同じ部屋にある天井画「女神となるヴェネツィア」であろうが,巨大さに圧倒されるばかりで今回は感銘を受けるに至ったいない.しかし,どの絵を観ても美しいことは間違いない.

写真:
ジョヴァンニ・ベッリーニ
キリスト哀悼(「ピエタ」)
1472年


 「ひたすら美しい」という印象のあるベッリーニの絵だが,総督宮殿の「ピエタ」の登場人物たちは,まるでコスメ・トゥーラの絵のように個性的な顔をしている.このタイプの作品は,コッレル美術館の「磔刑」など複数あって,ベッリーニは間違いなくこのタイプの作品を相当数描いている.

 コスメ・トゥーラのような個性的な顔の人物が登場する絵を描いた画家として,思いつくのが,カルロ・クリヴェッリ,マルコ・ゾッポ,ヴィンチェンツォ・フォッパだが,これらの画家たちの修業の場として,パドヴァのスクァルチョーネ工房があったとしたら,その工房出身の最も大物画家は言うまでもなくアンドレーア・マンテーニャだろう.

 マンテーニャの絵の登場人物は全てが個性的というわけではないが,端整から遠い所にあるような人物も少なくない.マンテーニャが描いた「ピエタ」で実際に観ることができたのは,ブレラ絵画館の「サン・ルーカ多翼祭壇画」の上部に描かれたものだけだ.

 ジョヴァンニ・ベッリーニの「ピエタ」を今までどのくらい観ただろうか.

ミラノ ポルディ・ペッツォーリ博物館 1460年頃  墓から上半身を出すキリスト単体 
ミラノ ブレラ絵画館 1460年 死せるキリストを聖母と福音史家
ヨハネが支える
ヴェネツィア コッレル博物館 1460年頃 2人の天使がキリストを支える
「エンジェル・ピエタ」
ヴェネツィア サンティ・パウロ・エ・ジョヴァンニ聖堂 1464-68年 「ヴィンチェンツォ・フェッレル祭壇画」の上部の「受胎告知」の間の絵(2人の天使がキリストを支える「エンジェル・ピエタ」
ローマ ヴァティカン博物館の絵画館 1471-74年 キリストの遺体を支えている男性がニコデモなら,もう一人の禿頭の男性はアリマタヤのヨセフ,画面右の女性はマグダラのマリア
ヴェネツィア アカデミア美術館 1505年 聖母が膝にキリストの遺体を抱いている


は,確実に観た.

 ウフィッツィにあるグリザーユの「ピエタ」は見たかどうか記憶がないが,地味でもこんな立派な作品を,何度も行ったウフィッツィで見逃すとは思えないので,多分見ていない.イエスを支える聖母と福音史家ヨハネの後ろに,4人の男性と2人の女性がいて,向かって左端はマグダラのマリア,その左のターバンの人物は,イエスの遺体引き取りを申し出たアリマタヤのヨセフであろう.他の男性2人のうち1人はニコデモであろうと思われる,

 上の写真ではカットしたが,緩やかに孤を描いた板の両端部分には,向かって左に福音史家マルコ,右に聖ニコラウスが拝跪しており,石棺にはジョヴァンニ・ベッリーニ(ヨハンネス・ベッリヌス)の名が記されている.もともとどのような機会に描かれたものかの情報は得ていないが,ともかくインパクトのある作品で,再会できて本当に嬉しい.

写真:
ジャン=バッティスタ
・ティエポロ
海神の敬意を受ける
ヴェネツィアの寓意像


 絵画におけるヴェネツィア派の最後の巨匠がジャン=バッティスタ・ティエポロであることを否定する人は殆んどいないだろう.

 正直,その巨匠性を完全に理解しているとは言い難いが,見ることができて感動した作品も複数ある.その中でも,上の写真の絵は傑作の名に恥じない.今回も相当数のティエポロ作品を観たが,この絵が,私としては最も良かった.

写真:
グアリエントの剥離フレスコ
「聖母戴冠」に再会
(向かって右側上部が「戴冠」)


 総督宮殿で,前回も今回も見られなかったのが,ティツィアーノの「聖クリストフォロス」,前回は観られたのに,今回見られなくて残念だったのが,カルパッチョの「聖マルコのライオン」,ヒエロニムス・ボッシュの祭壇画「聖リベラータの殉教」だ.私の記憶ではボッシュのあった部屋の近くで観たと思われたのが,グアリエントの「聖母戴冠」だが,これは見逃さなくて良かった.

 パドヴァの画家グアリエント・ディ・アルポ(英語版伊語版ウィキペディア)との最初の出会いは,彼の主たる活躍の場であったパドヴァだった.今回のツァーでもパドヴァのエレミターニ教会,市立博物館で,彼の作品に再会することができた.

 総督宮殿で,ヴェネツィア派の巨匠たちが,どの時期に仕事をしたのかは,別途考察しなければならないだろう.その際,1577年の火災で多くの作品が失われたことも念頭に置かなければならないと思う.ヴェロネーゼはティントレットよりも9歳若いのに,随分早くに総督宮殿でも仕事を手掛けていることも,背景を整理して考える意味があるだろう.






溜息橋の下をゴンドラがゆく
月日は流れ また私はここにいる