フィレンツェだより番外篇
2015年9月16日



 




教会傍の広場にヴェロッキオの「コッレオーニ騎馬像」
夕方のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂
(サン・ザニポロ聖堂)



§2015 ヴェネツィアの旅 - その5 サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂

今回は6連泊だったうえ,自由時間もまずまずあったので,幾つかの教会を拝観することができた.まず,再訪したサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂(英語版伊語版ウィキペディア)(以下,ザニポロ聖堂)について報告したい.


 教会で,参考図書として,

 P. Angelo / M. Caccin, Basilica of Saint John and Paul: History and Art, Genova:Marconi Arti Grafiche, 2005(以下,アンジェロ&カッチン)

という英訳版の案内書を購入した.前回は確か,この日本語版と思われる本を買い,その読みにくさに辟易したが,写真,題名,作者名が大事なので,それなりに参照でき,愛着を持った.しかし,それも津波で流され,ネット上では適当な本が見つからなかったので,今回は英訳版を買った.読みにくい日本語版でも良かった(モスクワのクレムリンの日本語訳案内書ほど信じがたい低水準のものはそうお目にかからない)が,売っていなかった.


写真撮影に関する状況
 ドメニコ会の教会であるザニポロ聖堂と並び称される,フランチェスコ会が創建したサンタ・マリーア・グローリオーサ・デイ・フラーリ聖堂(以下,フラーリ聖堂)は,最初の時は写真撮影可で,ティツィアーノの「聖母被昇天」,聖具室にあるジョヴァンニ・ベッリーニの祭壇画などの写真を撮ることができたが,昨年の2回目以降は管理体制が変わったようで,写真撮影厳禁となった.

 フラーリ聖堂は,自身を含む7つの教会と連携して,共通券も発売する管理体制になったらしく,その7つの教会は全て撮影禁止である.サン・マルコ大聖堂は「撮影禁止」の張り紙が依然あるまま,撮影可になっていた.

 最初にヴェネツィアに行ったとき,ヴェネツィアの教会は拝観料を徴収する代わりに,聖職者以外の管理者が常駐して管理するので,写真撮影には寛大という印象を持ったが,今回は,2008年と2014年の旅行の時に撮影厳禁だった美術館,総督宮殿,サン・マルコ大聖堂などが写真可になった代わりでもないだろうが,教会については,ザニポロ聖堂と,拝観料を取らない小さな教会の幾つかが撮影しても大丈夫だっただけで,多くの教会に撮影禁止の張り紙があった.

 拝観料を取らない教会でも,宿が近くで何度も行ったサン・ズリアン教会,サン・サルバドール教会は撮影不可で,特に後者には「受胎告知」を含むティツィアーノ作品が2点あるので残念だった.町中の小さな教会で,いつも開いている上に,ジョヴァンニ・ベッリーニの傑作祭壇画を蔵するサン・ジョヴァンニ・クリソストーモ教会も「撮影禁止」の表示があった.

 撮影禁止の張り紙があっても,小さな教会では監視する人もおらず,ツーリストが写真を撮っても,誰かが注意するという光景もめったに見ないが,撮影不可の場所ではもちろん撮影しないことが原則だ(張り紙に後で気づいて,それから遠慮することはままあったし,張り紙がないところでは,管理者がいれば撮影してよいか確認するが,人が代わると対応が違う場合も少なくなかった).今回は幾つか残念なケースがあったが,やむを得ない.

写真:
ムラーノ島の職人の手による
この見事なステンドグラスを
再び見ることができた


 ザニポロ聖堂は,拝観料を取って,管理者も置いているが,撮影禁止ではなく,複数の拝観者が堂々と写真を撮っている.私たちも心置きなく写真撮影をしながら,ゆったりと拝観したが,それでも見落とした作品がかなりあるし,予定の観光を終えた夕方の自由時間に行ったこともあり,他よりも比較的採光の良いザニポロ聖堂ではあるが,堂内が暗くて,うまく写真が写らなかった作品も少なくない.

 しかし,有名な作品はウェブ上にけっこう良い写真がある.2007年のフィレンツェ滞在から美術に興味を持つようになり,インターネットの写真も本格的に見るようになったが,当時はまだウィキペディアやウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの写真でも質の低いものがあったように思うが,今は専門家が研究に使うのでない限り,ほぼ満足の行く画質のものが多いと思う.もちろん,まず自分の目で見ることが最も大事なのは言うまでもない.


今回の注目作品,ピアッツェッタ
 前回は注目できず,今回しっかり観ることができたのが,ジョヴァンニ=バッティスタ・ピアッツェッタ(英語版伊語版ウィキペディア)の天井画「栄光の聖ドメニコ」(下の写真)である.

写真:
ピアツェッタの天井画
「栄光の聖ドメニコ」(部分)


 画面,向かって左側の中央やや下で,天使に支えられながら,両手を挙げている(「オランス」のポーズと言うべきか)のがドメニコであろう.ほぼ中央で,ギリシア神話の太陽神のようにいるのは天使で,その右側にいる白衣の人物がキリスト,天使の左情報にいるのが,キリストとは別に描かれた神ではないかと思う.宗教画の図像としてそれで良いかどうかは別にして,一見して視線はドメニコに行くように描かれているのではないかと思う.

 この主題を描いた絵としては,ボローニャのサン・ドメニコ聖堂で,グイド・レーニの傑作を観ている.時代が違うとは言え,この2作が双璧だろう.

 私たちにとってはより有名なジョヴァンニ=バッティスタ(ジャンバッティスタ)・ティエポロを思わせる画風だが,ピアッツェッタは1682年生まれなので,1696年生まれのティエポロの方が後進にあたり,師匠は別人だが,ピアッツェッタの影響を受けたらしい.素人考えでは,両者を比べ,ピアッツェッタの方が14年年長という情報を得ると,ピアッツェッタ無くして,ティエポロの傑作群も無かったのではないかと思える.

 ジョヴァンニ=バッティスタ・ピアッツェッタは,アカデミア美術館の基礎となった美術学校(アカデミア)の創設者としても知られる.彼の父ジャーコモは,一流の彫刻家で,同じサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂のロザリオの聖母礼拝堂に,「受胎告知」,「エジプト退避」の浮彫や,聖人の丸彫りのある木彫祭壇を残している.今回,これも見たことは見たが,特に注意を払わず仕舞いで,残念だった.

 今回,息子である巨匠ジャン=バッティスタの作品は,複数の教会で観ることができたので,次は是非,父ジャーコモの作品も注目したい.


「聖ヴィンチェンツォ・フェッレルの祭壇画」
  サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂は,三廊式のラテン十字型の大きな教会だが,サイド・チャペルと言うべき礼拝堂は,後陣に向かって,右側廊に3つ,左右の翼廊に2つずつあるだけで,左翼廊の奥には後陣と並行する形の大きな部屋の「ロザリオの聖母礼拝堂」があり,左側廊には聖具室がある.

 「栄光の聖ドメニコ」は右側廊の3つの礼拝堂のうち,1番後陣に近い聖ドメニコの礼拝堂の天井装飾フレスコ画だが,多くの芸術作品は,壁面を利用した墓碑や祭壇に見られる.ジョヴァンニ・ベッリーニの「聖ヴィンチェンツォ・フェッレルの祭壇画」は,そうした壁面を利用した祭壇を飾っている.

写真:
ジョバンニ・ベッリーニ作「聖ヴィンチェンツォ・フェッレルの多翼祭壇画」
左) 祭壇画部分 聖クリストフォロスに背負われる幼子キリスト


 フェッレルはユダヤ人や異端をカトリックに改宗させる功績を果たしたスペインの聖人である.

 ウンベルト・エーコ原作で,ジャン=ジャック・アノー監督の映画「薔薇の名前」を見れば,多少見当がつくように,ドメニコ会は,スペインや南フランス,北イタリアのまじめなキリスト教徒が,そのまじめさのあまり,カトリック教会と考えを異にする「異端」となることを防ぐことを使命の一つとして,教皇に設立を認可された修道会で,通称「宗教裁判」と言われることもある「異端審問」に深く関わった.

 フィレンツェでは,ドメニコ会の修道院長が,厳格な思想を持ちすぎて,宗教政治を行い,自身が異端として絞首刑となった.サヴォナローラである.

 絞首,焚刑に処せられた後も,サヴォナローラを支持する知識人が少なくなかったように,カトリック教会には常に堕落して批判にさらされる体質があり,教皇庁はそれに対処するために,カトリック教会の教義を厳格に人々に守らせようとする体質を保持するドメニコ会を利用することもあったし,ドメニコ会はその行き過ぎを押さえつけられることもあった,というのが,浅薄かも知れないが,私のドメニコ会に対する印象である.

 一方でトマス・アクイナスのような大思想家や,フラ・アンジェリコのような天才芸術家も生んだので,決して悪い印象ばかりではないが,ヴィンチェンツォ・フェッレルという「聖人」に対しては,映画「薔薇の名前」の憎々しいベルナール・ギーのような印象を抱いてしまう.

 映画では,壮年の異端審問官が民衆の憎しみを買って,馬車の車軸に刺し貫かれて死ぬが,実在のベルナール・ギー(ベルナルド・グィドーニ)は,南仏のロルーの城で,70歳くらいでおそらく天寿を全うして亡くなった(英語版ウィキペディア)らしい.

 そうした異端審問官に対して,いたずらに嫌悪感を持つのは間違いかも知れないが,好き嫌いで言うと,イギリス系スペイン人のこの聖人は,非キリスト教徒である私にとって,出会いたくない人物の筆頭に位する.

 それにも関わらず,ベッリーニのこの絵は美しい.ベッリーニに関しては,常に「美しい」と言う言葉以外に,その絵を見ることができた時の感想の言葉はない.賛嘆の念あるのみだ.


ロザリオの聖母の礼拝堂
 ジローラモ・ピアッツェッタの木彫のあるロザリオの聖母の礼拝堂には,ヴェロネーゼの「聖母被昇天」,「牧人礼拝」,「三王礼拝」,「受胎告知」(下の写真)がある.いずれも天井画であるが,壁に飾られた「牧人礼拝」もある.

 ヴェロネーゼの作品は,出来不出来の差が少ないので,ある意味つまらないと思われる可能性もあるわけだが,「受胎告知」は,聖母,天使,聖霊を神殿の床から見上げる感じがうまく出ていて,天井画として成功しているように思われる.

写真:
ヴェロネーゼ
天井画「受胎告知」
ロザリオの礼拝堂


 この礼拝堂には,総督宮殿でヴェロネーゼと一緒に仕事をした同門のジョヴァンニ=バッティスタ・ゼロッティの「キリスト哀悼」,ベネデット・カリアーリの「最後の晩餐」,カルロ・カリアーリの「イエスとヴェロニカ」もある.

 カリアーリは,ヴェローナ出身の,通称ヴェロネーゼと呼ばれる巨匠の家名でもあるが,ベネデットはヴェロネーゼの10歳下の弟,カルロはヴェロネーゼの息子とのことだ.「チーム・ヴェロネーゼ」とも言うべきグループがここで仕事をしたことになる.

 さらに,この礼拝堂にはボニファチオ・デ・ピターティの「堕天使ルキフェルを打ち倒す大天使ミカエル」,サンテ・ペランダの「聖クリスティナの殉教」,アレッサンドロ・ヴァロッターリの「聖ドメニコの奇跡」がある.

 デ・ピターティは別名をボニファチオ・ヴェロネーゼといい,ヴェローナ出身だが,巨匠ヴェロネーゼの縁者という訳ではなく,巨匠よりも31年早く生まれた先人である.

 彼の作品は,アカデミア,ルーヴル,エルミタージュ,ブレラ,フィレンツェのパラティーナで見られるようだ(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートでbonifacio veroneseで検索)が,これらの作品には記憶がなく,むしろ別の場所で観たような記憶があるのだが,今のところ,ウェブ情報でも確認できない.

 パオロではないこのヴェロネーゼは,巨匠の周辺の画家だと思って,特に関心を持たずにきたが,ヴェローナに生まれ,ヴェネツィアで活躍した先人として,今後は注目したい.

 ヴェロッターリは,tが1文字少ないヴェロターリとされることもあるが,通称のパドヴァニーノの方が有名だろう.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに複数の作品が掲載(padovaninoで検索)され,伊語版ウィキペディアにはさらに詳細な作品リストがある.1588年生まれなので,すでにルネサンスの画家と言うよりは,遅いマニエリスムかバロックの画家と言えよう.

 パドヴァ生まれで,パドヴァの教会にも作品が残っているようだ,亡くなったのはヴェネツィアなので,活躍の場はヴェネツィアであったようだ.父ダリオも画家で,ヴェロネーゼの弟子ということなので,パドヴァニーノはヴェロネーゼの遠い弟子筋と言えるかも知れない.

 ヴェネツィア・ルネサンス最後の巨匠パルマ・イル・ジョーヴァネは,パドヴァニーノより40歳ほど年長だが,亡くなったのは1629年で,その後20年くらいパドヴァニーノは生きるので,彼が活躍した時代が,あまり注目されないヴェネツィアのバロックと考えて良いのだろうか.

 2007年にパドヴァに行ったときに,ティツィアーノにフレスコ画のあるサンタントーニオ同信会をはさんで,アルティキエーロのフレスコ画のあるサン・ジョルジョ祈祷堂の反対側にある祈祷堂で,「聖ベネディクトとヒエロニュムスの間の聖母子」を観た,と当時の報告に書いてあった.その時にヴェロターリという姓も記しており,けっこう自分の記憶は頼りないことをあらためて確認した.

 ヴェネツィア出身だがローマで活躍したカルロ・サラチェーニ(1579年生まれ)より9歳年下なので,マニエリスム的な画風は確かにあると思うが,立派にバロックの画家と言えよう.ヴェネツィア派の画家をフォローしていて,サラチェーニを除いて,初めて意識したヴェネツィア派のバロックの画家と言って良いのであろうか.

 サンテ(もしくはサント)・ペランダは,1566年生まれなので,パドヴァニーノより22歳年長だが,1649年まで生き,83歳まで生きたことになり,当時としては長命で,やはりマニエリスムからバロックの画家と言って良いだろう.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートでは,perandaで検索すると2点写真が掲載されており,そのうち1点はザニポロのロザリオの聖母礼拝堂の「聖クリスティナの殉教」,あと1点は,総督宮殿「投票の間」(サーラ・デッロ・スクルティーニオ)にある「ヤッファ海戦におけるヴェネツィア海軍の勝利」がある.第3回十字軍におけるサラディン率いるイスラム軍に対する勝利にヴェネツィアが貢献したという歴史画と思わる.

 ムラーノ出身の画家レオナルド・コローナの弟子で,パルマ・イル・ジョーヴァネの影響下で仕事をしたらしいが,伊語版ウィキペディアの少ない作品リストを見ると,マントヴァの公爵宮殿に作品が多く,さらに15世紀に有名な思想家を出したミランドラのピコ家に関係する仕事が複数挙げられている.

 ロンバルディア,エミリア・ロマーニャの有名な貴族から仕事を依頼され,ヴェネツィア以外の地方での活躍が目立つが,ヴェネツィア生まれで,ヴェネツィアで亡くなったようなので,ヴェネツィアの画家と言って良いだろう.



 ちなみに,英語版ウィキペディアがサンテ・ペランダの「弟子」としている,ヴィチェンツァ出身のフランチェスコ・マッフェイは,ヴェローナのカステルヴェッキオ美術館でその「最後の晩餐」を観た画家だ.この「最後の晩餐」は印象に残る作品だったが,ウェブ検索ではなかなかヒットせず,ほとんどが白黒写真の画家別検索ページで写真が見られるだけだ.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートでは5作品の写真が掲載され,うち2点はアカデミア美術館(「オデュッセウスとキルケ」,「メドゥーサの首を切るペルセウス」),2点がカ・レッツォニコの17世紀ヴェネツィア博物館(「アンドロメダを解放するペルセウス」,「視覚の寓意」)の作品だ.アカデミアで見るチャンスがあったことになるが,見た記憶はない.カ・レッツォニコは次にヴェネツィアに来たときに行きたいと思っている.

 この画家には,ヴィチェンツァのキエーリカーティ美術館に行った時の報告でも言及しており,私にとっては印象に残る画家と言える.1605年ヴィチェンツァで生まれ,1660年パドヴァで亡くなったヴェネト州のバロック芸術を支えた画家と言えよう.

 彼がサンテ・ペランダの弟子筋にあたるかどうかは,ペランダの英語版ウィキペディアしか言及が無いが,ヴェネツィア芸術の第1期黄金期の長い黄昏を支えたパルマ・イル・ジョーヴァネの死後も,複数の能才たちが活躍したことは間違いない.


ヴィヴァリーニ工房
 15世紀のヴェネツィア芸術を支えたベッリーニ工房にはヴィヴァリーニ工房という好敵手がいた.アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニ(英語版伊語版ウィキペディア)は,その3代目というべき存在で,父アントニオ,叔父バルトロメオ,そしてアントニオの協力者で義理の叔父(叔母の夫.英語版ウィキペディアは「母方の伯叔父」としているが,他では言及が無い)ジョヴァンニ・ダレマーニャが支えた工房の繁栄を守った.

 下の写真は聖具室にある彼の作品だが,これを観ても,素人目にも,マンテーニャやジョヴァンニ・ベッリーニに影響を自己の作品に活かした画家と言えよう.

 アルヴィーゼ(イタリアの他の地域ではルイージ,フランス語ではルイになる名前)の生年は英語版,伊語版のウィキペディアでは1445年から53年の間,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートでは45年か46年とされており,いずれにせよ,ジョヴァンニ・ベッリーニが1433年頃,マンテーニャが31年の生まれなので,年齢的にも,両巨匠より十数年若く,当時の状況を考えれば,芸術的才能と環境に恵まれた画家がその影響を受けるのは当然と思われる.

写真:
アルヴィーセ・ヴィヴァリーニ
「十字架を担うキリスト」


 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにもこの作品の写真が掲載されているが,解説はない.アンジェロ&カッチンは,聖具室の作品について紹介する項で,パルマ・イル・ジョーヴァネ「磔刑のキリストと聖人たち」(1番下の写真)の向かって左側には,この絵ではなく,オドアルド・フィアレッティ(英語版伊語版ウィキペディア)の「キリストの傷に接吻するドメニコ会士たち」があると言っている.

 ヴィットリオ・セーラ,池島英美(訳)『完全版 ヴェネツィア』,1996

では,この作品は右翼廊にあると言っているので,以前は翼廊にあったのであろう.しかし,それもオリジナルの場所ではなく,もしかしたら,どこか別の場所のために描かれたのかも知れない.教会の紹介パネル(作者,題名,制作年のみ)に拠れば,1470年頃の作品とされる.

 同じヴィヴァリーニ工房でも,アントニオは国際ゴシック,バルトロメオは力強い初期ルネサンス,アルヴィーゼは繊細な盛期ルネサンスと言う印象を受け,この工房の画家たちの作品もヴェネツィアでは見逃せないだろう.

 聖具室の側廊側の壁面には,バルトロメオ・ヴィヴァリーニ(英語版伊語版ウィキペディア)の三翼祭壇画に見えるパネルが3枚飾られている(下の写真).中央がアウグスティヌス,向かって左がドメニコ,右がラウレンティウスで,アンジェロ&カッチンに拠れば,もともと9枚のパネルからなる多翼祭壇画だったようで,制作年は1473年とのことだ.

 探せばもともと描かれた事情や,どこにあったものかもわかるのだろうが,これ以上の情報を今のところ得ていない.オリジナルにここにあったものでないことは,容易に想像がつく.

写真:
バルトロメオ・ヴィヴァリーニ
多翼祭壇画の残存パネル


 バルトロメオの多翼祭壇画はアカデミアで2点見ている.聖母子を中心とする祭壇画と,聖アンブロシウスを中心とする祭壇画で,いずれもパネルは5枚だが,木枠を喪失しており,もともとこの形だったかどうかは,見ただけではわからない.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに拠れば,前者は1463年,後者は1477年の制作で,後者の中央パネルのアンブロシウスが立派だ.

 ザニポロ聖堂のアルヴィーゼとバルトロメオの作品を制作年で比べると,甥と叔父ではあるが,同じような時期で,むしろアルヴィーゼの方が早かったかも知れない.



 ところで,アルヴィーゼは,テンペラの金地板絵の祭壇画を描いただろうか.

 アカデミアで,おそらく多翼祭壇画のパネルであったと思われる「洗礼者ヨハネ」と「福音史家マルコ」を観ているが,形は多翼祭壇画のパネルであっても,背景は金地ではなかったであろう.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートとアンジェロ&カッチンに拠れば,もともとはヴィヴァリーニ一族の本貫地ムラーノ島のサン・ピエトロ・マルティーレ教会にあり,制作年は1480年頃のようだ.

 1499年まで生きたバルトロメオには,1485年制作の金地板絵の多翼祭壇画が残っている(ボストン美術館).この祭壇画を見たことはないが,写真を見ると,中央下部にパネルはなく,彩色木彫のピエタが置かれており,キリストの遺体を聖母が膝に抱えており,これもミケランジェロ以前の制作という意味で興味深い.

 バルトロメオもしくはその工房が協力した金地板絵の多翼祭壇画はアカデミアにもあり,制作年は1475年とのことだ.

 フィレンツェ周辺で15世紀後半に制作された金地板絵の多翼祭壇画があるだろうかと,ふと気になった.

 可能性があるのはネーリ・ディ・ビッチ(英語版伊語版ウィキペディア)ではないかと見当をつけて,伊語版ウィキペディアを参照すると,概ね制作年順になっている作品一覧があり,ウィキメディア・コモンズに驚くほどの点数の写真が掲載されている.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートは5点しか紹介していないので,この際は参考にならない.

 フィレンツェでルネサンスの革新の時代に,上手とは思えない,古臭いゴシック風の祭壇画を描いていたというイメージのあるネーリだが,少なくともウィキメディア・コモンズの多数の写真を見ても,金地板絵の祭壇画を数多制作し,中には四角い板の画面の中に,三翼祭壇画風の枠を描きこんだものが幾つかあるにせよ,金地の多翼祭壇画は見られない.

 ネーリはバルトロメオより十数歳年長と思われるが,1492年まで生き,伊語版ウィキペディアの一覧に示されたネーリの最も新しい作品は1485年とあるので,バルトロメオとほぼ同じ時代まで描き続けている.金地板絵の多翼祭壇画も描いたと言う点で,バルトロメオはフィレンツェで言えばネーリ・ディ・ビッチ以上に古臭い絵を描いていた,時代遅れの画家と言えるだろうか.



 別の観点から,バルトロメオの時代性について考えてみる.たとえばサンタ・マリーア・グローリオーサ・デイ・フラーリ教会の「聖マルコ三翼祭壇画」は,金色の木枠に囲まれているとは言え,3枚のパネルの背景は金地ではなく,中央パネルの「玉座の聖マルコ」の足元には,ジョヴァンニ・ベッリーニ風の奏楽の天使たちがいる.

 ジョヴァンニ・ベッリーニ風と言ったが,奏楽の天使が見られるジョヴァンニの祭壇画で,フラーリ聖堂の聖具室の三翼祭壇画が1488年,アカデミアのサン・ジョッベ祭壇画が1487年頃の作品とされ,1474年制作のバルトロメオの「聖マルコ三翼祭壇画」の方が先行している.

 奏楽の天使がいないタイプの祭壇画では,ペーザロ市立博物館の「聖母戴冠」の祭壇画が1470年代,ザニポロ聖堂の「聖ヴィンチェンツォ・フェッレルの多翼祭壇画」(上から4番目の写真)が460年代半ばの作品で,これらはバルトロメオに先行している.

 ジョヴァンニに影響を与えたとされるアンドレーア・マンテーニャ(英語版伊語版ウィキペディア)の「サン・ゼーノ多翼祭壇画」(英語版伊語版ウィキペディア)の中央パネル「玉座の聖母子」の足元には,バルトロメオの「聖マルコ三翼祭壇画」のそれを思わせる奏楽の天使たちがいる.この作品は参考資料によって制作年代の情報が微妙に違うが,1470年より前には完成していたようだ.

 スクァルチョネスキ,「スクァルチョーネ工房の画家たち」という用語があり,パドヴァにフィレンツェ風のルネサンス芸術をもたらしたドナテッロの影響を受けたフランチェスコ・スクァルチョーネの工房出身の画家たちを指し,その中には,マンテーニャの他に,マルコ・ゾッポ,カルロ・クリヴェッリ,ヴィンチェンツォ・フォッパ,場合によってはコスメ・トゥーラも数えられる.

 マンテーニャと,その影響を受けたジョヴァンニ・ベッリーニを通じて,もしくはパドヴァで直接,バルトロメオがスクァルチョーネの影響を受けたことを,伊語版ウィキペディアが示唆しており,それ以上の情報源を私は持っていないが,バルトロメオの作品を見て,それは十分に可能性があるのではないかと思われる.



 金地板絵の多翼祭壇画の話に戻ると,マンテーニャの「サン・ゼーノ祭壇画」は既に金地板絵ではないが,ミラノのブレラ絵画館所蔵の「聖ルカ祭壇画」(英語版伊語版ウィキペディア)は全体として大きな長方形の枠に収められているとは言え,多翼祭壇画のように見える工夫がなされており,金地板絵の多翼祭壇画と言っても良いであろう.

 1453年から54年にパドヴァの修道院教会のために描かれた作品で,注文主の意向もあったであろうが,北イタリアのルネサンス最大の巨匠であるマンテーニャにして,一見古風に見える祭壇画を描いていたことに驚く.

 サンタ・マリーア・フォルモーザ教会(以下,フォルモーザ教会)にあるバルトロメオの「慈悲の聖母」を中心とする三翼祭壇画は印象深い作品で,2008年に写真可だったこの教会は,今回撮影不可だったので,写真はウェブ・ギャラリー・オヴ・アート等で見てもらえば良いが,テンペラ画ではあるが金地でない上,白い石の枠に嵌められ,全体としてゴシック風からは全く脱却しているように見える.

 この作品の制作年も1473年だったようで,どちらが先かは情報が無いが,ザニポロ聖堂の壁面に飾られた多翼祭壇画の残存パネルと同じ時期の絵と言うことになる.

 フォルモーザ教会の作品もマンテーニャの影響が色濃いと思われるが,ザニポロの祭壇画パネルはブレラ絵画館の「聖ルカ祭壇画」,フォルモーザ教会の慈悲の聖母の三翼祭壇画はヴェローナの「サン・ゼーノ祭壇画」との類似を感じさせ,マンテーニャの作風の変化を自己の作品に活かして行こうとする,ルネサンスの芸術家としての精神的葛藤を想像させる.

 アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニが金色の木枠にパネルを嵌めた多翼祭壇画を描いたことは,英語版ウィキペディア掲載の写真で確認できる.ベルリンのボーデ博物館所蔵だが,パネルに描かれた絵の背景は金地ではなく,印象としても新しい時代を感じさせる.特に中央の「聖霊降臨」は新しい時代の雰囲気をたたえ,ゴシックの「聖霊降臨」(ジョットドゥッチョタッデーオ・ガッディ)と,今回,サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ教会で見ることができたティツィアーノの「聖霊降臨」(1545年頃)の中間より,ティツィアーノにずっと近い時代を確信させる.

 アルヴィーゼに関する伊語版ウィキペディアの作品一覧は,数が少なく頼りないが,ウィキメディア・コモンズの方に豊富な写真が掲載されており,それを見るとやはり,金地板絵の多翼祭壇画を描いたようだ.「聖母子と聖人たち」(ウルビーノ,マルケ国立絵画館),「聖母子とフランチェスコとシエナのベルナルディーノ」(ナポリ,カポディモンテ博物館)で,後者には木枠は残っておらず,1485年の作品とされる.

 これで,インターネット(※)で検索する限り,バルトロメオも甥のアルヴィーゼも1485年に金地板絵の多翼祭壇画を描いたことになる.

 (※後者はカポディモンテの図録では確認できなかった.前者はマルケ国立絵画館の図録に写真と情報があり,マルケ州ペーザロ県フロンティーノ近郊のモンテフィオレンティーノ修道院のために描かれ,「1476年にムラーノ島のルドウィクス・ウィウァリヌスが描いた」とのラテン語記銘があるとのことだ.2度見ているはずだが,記憶にはない.2007年11月の訪問報告に「アルヴィーゼの多翼祭壇画「聖母子と聖人たち」が立派だったと書いてあるので,見たのは間違いない.)

 マンテーニャ,ジョヴァンニ・ベッリーニの影響を受けたルネサンスの画家となっている彼らが,ゴシック風の金地板絵の多翼(もしくは三翼)祭壇画を描いたのは,得意としていたからなのか,熱心な注文があったからなのかは分からないが,1480年代半ばまで金地板絵の多翼祭壇画を制作したことは,ヴィヴァリーニ工房の個性でもあり,あるいはルネサンス的芸術性を自家薬籠中の物としながら,自己を主張しきれない弱点であったかも知れない.

 ボローニャの国立絵画館でもアントニオとバルトロメオ共作の多翼祭壇画を観ている.ボローニャのサン・ジローラモ・アッラ・チェルトーザ教会のために描かれたもので,1450年の作品だそうだ.サン・ザッカーリアのアントニオとジョヴァンニ・ダレマーニャ共作の多翼祭壇画が1440年代前半で,画匠としてのアントニオの活動もそのくらいからで,1480年代半ばまで,この工房は,ヴェネト地方だけでなく,エミリア・ロマーニャやマルケにまで及ぶ各地の教会や修道院の注文に応えて,場合によっては時代遅れとも思われる金地板絵の多翼祭壇画を制作し続けた.

 これは,ベッリーニ工房とは異なるヴィヴァリーニ工房の特徴と言って良いのではないかと思う.

 アカデミア美術館の,ティツィアーノの「聖母の神殿奉献」があるサーラ・デッラルベルゴという部屋に,アントニオとジョヴァンニ共作の三翼祭壇画「聖母子と聖人たち」がある.もともとここを飾っていて,途中,多少の紆余曲折はあったらしいが,現在もそこに置かれている.ヴェネツィアの伝統と国際ゴシックの特性を凝縮した絢爛たる板絵だ.

 シレ&ヴァルカノヴェルに拠れば,「ヨハネス・アレマヌスとムラーノ島のアントニウス」と言うラテン語記銘があるようだが,制作年の情報はない.伊語版ウィキペディアは1440年としており,であれば,ヴィヴァリーニ工房の出発点ともいうべき作品と言えるのではなかろうか.


ロレンツォ・ロット
 今回,ヴェネツィアについて勉強するために,塩野七生『ヴェネツィア 海の都の物語』と,

 F.ブローデル,岩崎力(訳)『歴史紀行 都市ヴェネツィア』(同時代ライブラリー),1996(単行本は1986,仏語版は1984年)

を読んだ.様々印象に残る記述があり,20世紀を代表する歴史家のヴェネツィア観には,学ぶところがあったように思う.廉価版の小型サイズなので,もともとの写真の効果は減じているであろうが,フェリコ・クィリーチと言う写真家の写真も堪能すべきだろう.

 一通り,ヴェネツィアの栄枯盛衰を歴史の中に位置づけた上で,ブローデルが決め台詞のように言った次の一節がとりわけ,私の脳裏に焼き付いた.

 しかし人生の美味は,艦隊や軍隊や政府の栄光によってのみ産み出されるのではない.その快い味を,今日私は,イギリス,スペイン,イタリア,ヴェネツィア,フランスに見出して,食欲をそそられる.レパントの勝利のあと,衰えはじめたとはいえ,それでもヴェネツィアはティツィアーノの,ティントレットの,そして忘れ難いロレンツォ・ロットの町なのだ.(p.92)

 この後,サン・マルコの楽師長だったモンテヴェルディへの絶賛があり,1919年から20年間のフランス文化との類比を述べ,衰退期を「戦士の休息」と形容しているが,私が最も目を見張ったのは,ここで,ティツィアーノ,ティントレットと並べて,ヴェロネーゼではなくロレンツォ・ロット(英語版伊語版ウィキペディア・・・英語版に主要作品一覧)の名を挙げたことだった.

 16世紀から17世紀のヴェネツィアの歴史を芸術や文化を視野に入れながら鳥瞰した時に,ティツィアーノ,ティントレット,モンテヴェルディの存在感を否定する人はいないだろう.ブローデルは名前を挙げなかったが,ヴェロネーゼの卓越性にも誰も異を唱えないだろう.

 しかし,イタリア美術に特に関心と知識がない人で,ロレンツォ・ロットがヴェネツィアの画家だと言うことを知っている人は,多くはないのではないか.その人が日本人であれば,そもそもロレンツォ・ロットの名前を知っている人は少ないのではないかと思う.

 私は,この画家とフィレンツェのウフィッツィ美術館で初めて出会った.旧約聖書外典に取材した「スザンナと長老たち」(英語版ウィキペディアにこの作品単独で立項)だった.外典とは言え,聖書に取材しながら,エロティシズムを前面に押し出せる題材として「バテシバの入浴」と双璧で,多くの画家がこの主題で作品を制作している.

 ロットの「スザンナと長老たち」は小品であり,ウフィッツィでも目立たない場所にあり,ルネサンスからバロックにかけて描かれた多くの「スザンナと長老たち」の中でも,また数多くの絵を遺したロットの作品群の中にあって,今考えても,決して一級の作品とは思われない.にもかかわらず,この作品は印象に残り,作者の名も心に刻まれ,ウェブページや参考書の写真で,ロットの作品を幾つか知る契機となった.

 ロットの作品ですぐ思い出されるのは,アカデミア美術館にある「書斎の若者の肖像」(伊語版ウィキペディアでは「病んだ青年」として単独で立項)だろう.今回も含め,3度じっくり鑑賞しているが,この絵のシャープな印象がロットの作品の象徴的なイメージとなっているような状況で,ザニポロ聖堂の「聖アントニヌスの施し」を観て,そのギャップに驚いた.

写真:
ロレンツォ・ロット
「聖アントニヌスの施し」


 「スザンナと長老たち」は小品だが,華やかな感じのする絵だし,「書斎の若者の肖像」は才能にあふれた画家の自己主張を感じさせる芸術性の高い作品だ.それに比べると,「聖アントニヌスの施し」は,これがなぜロットの作品としてフォーカスされる(教会には,料金も喜捨も無しで,明かりがつくシステムがこの絵のためにある)のか,なかなか理解できなかったし,今も理解できていない.

 伊語版ウィキペディアには,この作品を単独で立項したページがある.制作年代は,「スザンナと長老たち」が1517年,「書斎の若者の肖像」が1530年頃,「聖アントニヌスの施し」は1540年から42年の作品とされる.決して制作年代が古いから,古臭い作品になったわけではないようだ.

 聖アントニヌス(アントニーノ・ピエロッツィ)は15世紀のフィレンツェの聖人である.フラ・アンジェリコもいたサン・マルコ修道院の修道院長で,フィレンツェ大司教となり,1459年に亡くなり,1523年に列聖された.

 この人の遺体を収めた礼拝堂をフィレンツェのサン・マルコ聖堂で拝観しているし,この人の胸像が収められたスカルツォ修道会の回廊ブオノーミニ・ディ・サン・マルティーノ祈祷堂で見ている.後者の胸像はヴェロッキオ作と伝えられ,祈祷堂の入り口のリュネットには,聖アントニヌスのフレスコ画もあった.

 フィレンツェで崇敬されている司教聖人の絵がなぜザニポロにあるのか,深い事情はわからないが,フィレンツェのサン・マルコも,ヴェネツィアのザニポロもドメニコ会の教会で,アントニヌスが同時代に同修道会から生まれた聖人であったからだろうと推測する.



 ロットは1480年にヴェネツィアで生まれた.ティツィアーノの生年は正確にはわからないようだが,ロットとほぼ同世代であっただろう.長く続いたティツィアーノ全盛の時代に,ロットがヴェネツィアで一級の仕事を得るのは容易ではなかったろうと想像される.

 彼は23歳の1503年から3年間ヴェネト州のトレヴィーゾで活動する.1506年から2年間,現在はマルケ州マチェラータ県に属するレカナーティで仕事をし,その後,1509年にローマに出た.

 ジョヴァンニ・ベッリーニの工房から始まり,ジョルジョーネに師事したとする人もおり,アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニの弟子だったとする人もいるようだが,いずれにせよ,ヴェネツィアの遅い初期ルネサンスの環境から出た画家で,故郷を出てヴェネト州やマルケ州に仕事を求めた.

 需要を発掘できるだけの力量もすでにあったが,晩年のベッリーニが支配的だった時代に,ジョルジョーネも活躍し,その後継者となったのはティツィアーノだったので,より良い仕事を求めて,地方に出ていくのは,当時の芸術家として決して恥ではなかったはずだ.

 ローマでは,ソドマやブラマンティーノともにヴァティカン宮殿で仕事したらしいが,その時の作品は残っていない.

 ローマ時代の作品が「悔悟するヒエロニュムス」(伊語版ウィキペディアに単独で立項)で,これを私たちは昨夏,サンタンジェロ城で観ている.小品で感銘を呼びにくいが,よく見ると,細かく描き込まれた立派な絵だ.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには5点の同主題作品の写真が掲載されており,現存作品で見る限り,サンタンジェロの絵が出発点のように思われたが,ルーヴル美術館所蔵の作品(この絵もウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにも写真があり,伊語版ウィキペディアに単独で立項)が1506年制作で,そちらの方が古かった.いずれにせよ,得意とした画題で,注文も複数受けたことは容易に想像される.

 ローマから,ペルージャやフィレンツェも訪れたようだが,その後マルケ州アンコーナ県のジェージ,レカナーティで仕事をし,1513年から25年までロンバルディア州のベルガモを本拠地として,多くの作品を制作した.

 この時期のほとんど最後の方に,ベルガモ近郊のトレスコーレ・バルネアーリオで,その地の有力者スアルディ家の私的祈祷堂のために,聖バルバラと聖ブリギダを主題とするフレスコ画を制作している.ロットの最高傑作とは言えないかも知れないが,最大規模の仕事と言って間違いないだろう.

 ジョルジョーネもティツィアーノもフレスコ画を描いたし,意外に早い時期から油彩画が優勢だったヴェネツィアでもフレスコ画が見られるので,彼が修業時代にフレスコ画を学んだことは,想像に難くない.そもそもローマでは,装飾フレスコ画のチームにいたのではないかと思う.

 スアルディ祈祷堂(もしくは礼拝堂)のフレスコ画は1524年の制作とされる.1520年にラファエロが亡くなり,ミケランジェロが「最後の審判」を描き始めるのが1535年,完成が41年,この時期に他にも多くのフレスコ画が描かれたではあろうが,有名な画家のフレスコ画の大作として貴重な作例と思われる.写真で見ることしかできないが,見事な絵だと思う.

 カスティリオーネ・オローナのマゾリーノのフレスコ画を,念じていたら観ることができたので,いつの日か,ロットのフレスコ画を観にトレスコーレに行ける日が来ることを念じよう.きっと,美術館での鑑賞だけではわからないロットの天才を堪能することができるだろう.

 彼は1525年に故郷のヴェネツィアに拠点を移し,32年までそこで活動するが,32年にトレヴィーゾに始まり,マルケ州のアンコーナ,マチェラータ,ジェージで仕事をし,40年にヴェネツィアに戻り,42年に再びトレヴィーゾに移り,45年にヴェネツィアに帰るが,45年にアンコーナに移って,二度とヴェネツィアで活動することはなかった.

 1552年に聖母の巡礼地として有名なロレートで,それがどういうものか今一つ理解できないが,在俗のまま修道院に財産を寄進し,献身する助修士(英語版伊語版ウィキペディア)となり,56年か57年にロレートで亡くなった.

 忘れられた芸術家となったロットを再評価したのは,19世紀末から20世紀半ばまで活動した美術史家のバーナード・ベレンソンとのことだ.

 移動を重ねた画家生活は満足のいくもので,自己実現を果たすことができたと思ったか,それとも挫折感に満ちたものだったのか,軽々には判断できない.

 世紀の巨匠,ティツィアーノと同世代であったことが大きな理由であろうが,彼はヴェネツィアで良い仕事を得られず,故郷以外の地方で多くの仕事をした.しかし,それは彼の画才を評価した人が間違いなくいたということであり,多くの芸術家と同様,流行が変われば忘却の淵に沈んでしまう運命に遭遇したが,300年以上経って,優れた批評家によって高い評価が復活した.決して,不幸な芸術家とは言えない,と少なくとも私は思う.今後もロットの作品に注目して行きたい.


次回に期す
 本来なら,グローリオーサ聖堂と並んで,ヴェネツィアのパンテオンと称されるザニポロ聖堂に複数ある見事な墓碑とその芸術家についても感想を述べたいが,2泊3日のゼミ合宿で河口湖に行かねばならない.今回は,写真を紹介するにとどめて,また別の機会に,墓碑と彫刻家について考察したい.

 下の写真はモチェニーゴ家の墓碑の一つで,総督を務めたピエトロ・モチェニーゴのものだ.兄弟で,やはり総督になったジョヴァンニの墓碑も堂内にある.

写真:
ピエトロ・ロンバルド作
ピエトロ・モチェニーゴの墓碑


 ザニポロ聖堂の向かって左側には,サンマルコ大同信会(英語版伊語版ウィキペディア)の見事な建物がある.これに関しても,今回は写真の紹介にとどめる.ほれぼれするほど見事なファサードだ.ヴェネツィアのルネサンスをその姿で物語ってくれていると言って過言ではないだろう.

 ピエトロ・ロンバルド,ジョヴァンニ・ブオーラが着手し,1492年にマウロ・コドゥッシが完成させた.

写真:
スクオーラ・ディ・サン・マルコ
(サン・マルコ大同信会館)
優雅な大理石のファサード


 ピエトロは,モチェニーゴの墓碑でもわかるように,彫刻にもすぐれ,宝石箱のようだと言われるサンタ・マリーア・デイ・ミラコリ教会の建築にもかかわり,後者の2人もサン・ザッカーリア教会の建設でも重要な役割を果たした.いずれも15世紀後半のヴェネツィアのルネサンスを代表する芸術家たちであろう.直線と曲線の絶妙な組み合わせが,ヴェネツィアのルネサンスらしい.






正面にパルマ・イル・ジョーヴァネ
右にアンドレア・ヴィチェンティーノ