フィレンツェだより番外篇
2016年3月13日



 




天使ではなく悪魔 !?
「荒野でのキリストへの誘惑」
ノートルダム・デュ・ポール教会の柱頭彫刻



§2015 フランス中南部の旅 - その11 クレルモンフェラン(その1)

イソワールに寄り道した後,本来の目的地であったクレルモンフェランに到着し,2つの教会を拝観した.ともに由緒ある教会だが,この回では,前回のサントロストモワーヌ教会に続いて,オーベルニュ・ロマネスクの教会であるノートルダム・デュ・ポール教会について報告し,聖母被昇天大聖堂の報告は次の回とする.


 ロマネスク美術については初心者の域を一歩も出ていないので,参考書を読みながら,自分の目で見てきたものについて復習しているが,今回はオーヴェルニュ・ロマネスクについて,少し整理してみる.参考書として既に挙げた,エミール・マール,辻本&ダーリングの他に,

ジョージ・ザーネッキ,斉藤稔(訳)『ロマネスク美術』(西洋美術史6)グラフィック社,1979(以下,ザーネッキ)
ルイ・ブレイエ,辻佐保子(訳)『ロマネスク美術』(美術選書)美術出版社,1963(以下,ブレイエ)
アンリ・フォション,神沢栄三/他(訳)『ロマネスク』上/下(SD選書)鹿島出版会,1986(以下,フォション)
尾形希和子『教会の怪物たち ロマネスクの図像学』(選書メチエ)講談社,2013(以下,尾形)
金沢百枝『ロマネスク美術革命』(新潮選書)新潮社,2015(以下,金沢)

を読んだ.ほとんどが通勤電車での読書であったし,理解力不足で,あるいは正しく理解していない可能性も高いが,それでも元々は知らないことばかりなので,随分勉強になった.

 日本人研究者による最後の2冊は,独自な研究を基に,私たち一般読者が読むことも前提に著わされたもので,学ぶところが多かった.特に「グリーンマン」に関する知識と,私も従来感じていた,マールのフランス中心主義に対する批判を含む,イタリアやイングランドの地方教会の調査も踏まえた斬新な見解は,貴重だと思う.

 一方,マールとフォションと言う二大巨頭の著書は,スケールの大きさ,文化史,思想史,東西交流の中の位置づけを明確にする巨視的視点,何と言ってその該博な学識と先鋭な見解には圧倒される.今後とも,マールとフォションを読むことなくロマネスクを考えることはあり得ないだろう.

 フォションは,オーヴェルニュ派の建築構造に言及した上で,

 この地方に関する限り,様式上の流派という考え方や名称そのものをかなり正当化するような様式の均一性がみられることを想起したい(下,p.186)

とした上で,オーヴェルニュが,「ケルト族の抵抗を幇助した根拠地の一つ」,「蛮族侵入者がもたたらした文化的所産に混ってガリアの古い伝統が存続した地方の一つ」,「この地でローマ元老院議員を輩出させた諸名家からは,古代ローマ帝国やキリスト教界に優れて有能な人物を提供」,「古代ローマ帝国没落後数世紀を経ても,この地方では葡萄収穫神とか生贄をささげる神官など,諸芸術に表わされる図像に古代を想起させるものを持ち続けていた」と述べている.

 さらに「十一世紀中葉以来,エチエンヌ(ママ)二世が彼の建立になるクレルモン大聖堂に放射状祭室を配した周歩廊形式を採用し,聖遺物を胎内にさせる聖母マリア像を金で彫像させた」としている.エティエンヌ2世は10世紀の人物なので,この記述との整合性を読者が考える必要があるが,ロマネスク芸術の一つの傾向の起源をオーヴェルニュに求める重要な指摘であろう.

 オーヴェルニュで発生した諸特徴が近隣地域の一つであるコンクのサント・フォワ教会の建築や装飾に影響し,それを諸地方への伝播の一つと証拠とする立場はマールも共通している.マールの場合は,ブルゴーニュ地方のクリュニー修道院の重要性に,より力点があるとは言え,オーヴェルニュの個性と影響を重視していることに変わりはない.

 フォションはさらに,「建築的方言」とも言うべきオーヴェルニュの個性に言及し,

 それは,教会堂がまるで土地から生え出たように,その石積のうちにまで,オーヴェルニュの土質の特性を連続させる,あのヴォルヴィック岩やアルコーズ砂岩など火山性岩石の薄暗い色調である.またしばしば建築家は石材の多様性を生かして,クレルモンのノートル=ダム=デュ=ポール教会堂後陣やル=ピュイ大聖堂付属修道院中庭に見られるような石組の文様を組み合わせる.オーヴェルニュ風楣石と呼ばれ,上部稜線が中央から両側に傾斜した切妻形楣石を装飾する彫像の手法に,ロマネスク彫刻の建築への従属性を示す原初的な例の一つが見られるのである(下,p.187)

と総括している.ここに言われていないことも多いが,「オーヴェルニュのロマネスク」理解の端緒につくためには,フォションのこの一節を読む必要があるだろうと思われる.訳文は固いが,読みにくいというほどではない.


クレルモンフェラン
 ここで,クレルモンフェラン(英語版仏語版ウィキペディア)という都市について,少し整理しておく.

 クレルモンフェランは,クレル・モン(クレール・モン)とモン・フェラン(英語版仏語版ウィキペディア)が合併してできた町で,日本語表記としては「クレルモン=フェラン」が多いようだ.私も最初「クレルモン・フェラン」と書いていたが,モン(山)はどちらにもありながら,1つしか残っていないので,「クレルモンフェラン」と記すことし,特に支障が無い場合は,中世以来の有名な都市名である「クレルモン」とのみ言うことにする.

 随分古い時代から人が住んでいた地域で,その起源は歴史の闇の中にあるが,ケルト人アルウェルニー族の時代である紀元前1世紀にはネモッソスと言われていたとのことである.ギリシア語作家ストラボンの報告なので,語尾がギリシア語形になっており,しかもラテン語の「森」を意味するネムスを想起させる名前で,これがケルト語で説明できる純粋なケルト語かどうかは,ケルト語を勉強したことがないのでわからない.

 「ネモッソス」は仏語版ウィキペディアに立項されて説明されているが,それによれば,ネモスは古代ケルト語で「天,空」の意であり,ネモッソスは「天の都市」と言うような意味になるとのことだ.

 アウグストゥス時代以降は,アウグストネメトゥムと言う地名になった.アウグスト(アウグストー)は「アウグストゥスに」と言うラテン語(与格)であろうと思われ,ネメトゥムは「聖地」と言う意味のガリア語(古代ケルト語)とのことだ(仏語版ウィキペディア)から,混成語源だが,「アウグストゥスに捧げられた聖地」の意味になるだろうか.

 固有名詞の出典がわかるガフィオ『羅仏辞典』旧版(新版も研究室にあるが,学生時代に購入し,フィレンツェ滞在をともにした旧版の方が使いやすい)でAugustonemetumを引くと,発音はアウグストーネメトゥムではなく,アウグストネメトゥムとある.出典は1つで,N.-Tir..87, 7とされる.

 N.-Tir.がNotae Tironianeを指すのであれば,マルクス・トゥッリウス・ティローが創始したと言われる速記法にちなんだ速記文字や省略記号を意味するであろう.英語ではTronian Notesと言うようで,英和辞典等には今のところ見られないが,英語版ウィキペディアには立項されている.マルクス・トゥッリウス・ティローはキケロの有名な筆記者で,解放奴隷となり,自身も著作を残したとされる人物だ.

 ガフィオ旧版では箇所まで言及されているので,ティローの関係する著作であれば問題はないのだが,今のところ,ティローにどのような著作があって,そのうち何が現在も読めるのか,不明にしてわからない.

 アウルス・ゲッリウス『アッティカの夜』,プルタルコス『キケロ伝』,『カトー伝』にティローへの言及があり,アスコニウウス・ペディアヌスと言う歴史家のキケロの弁論への注解にもティローへの言及があるとのことだが,残念ながら,これらのうちのどれかにティローがアウグソトネメトゥムに言及しているという証言があるのか,あるいは別な作品が伝わっているのかわからない.ゲッリウスとプルタルコスはすぐに該当箇所を確かめられるが,そこにはなかったので,ペンディングとする.

 仏語版ウィキペディアは他に,アルウェルニス,アルウェルヌム,ウルプス・アルウェルナと言う都市名を挙げているが,ガフィオ旧版にはそれぞれ単体の登録はなく,形容詞(アルウェルヌムはその中性形,ウルプス「都市」が女性名詞なので,アルウェルナは女性形)で登録がある.シドニウス・アポッリナリス(英語版仏語版ウィキペディア)とトゥールのグレゴリウス(英語版仏語版)の著作に出てくるとしているが,箇所は示されていない.前者が5世紀,後者が6世紀の人物であるから,古代から中世に移行していく時代のラテン文献にようやく登場する(もちろん,それ以前にあった可能性はある)語ということになる.



 シドニウス・アポッリナリス(シードニウス・アポッリナーリス)は,古代祝婚歌の伝統に連なっていると言う点で,私には多少なじみのある名前だ.私の研究対象であるクラウディウス・クラウディアヌスが「最後の(異教的)古典詩人」とされるのに対し,クラウディアヌスの影響を受けた「祝婚歌」を書いた詩人でありながら,キリスト教の聖職者でもあったので,非キリスト教的古代を「超克」した最初の「キリスト教作家」たちの一人と言って良いだろう.

 現代のリヨン(古代にはルグドゥヌム)に430年頃生まれ,471年にクレルモン(当時はおそらくアルウェルニスもしくはアルウェルヌム)の司教となり,486年か489年にその地で亡くなった.

 彼の祖父も,父もローマ皇帝に任命されたガリア総督であり,彼自身も,後にローマ皇帝となるアウィトゥスの娘パピアニッラと結婚し,1男2女を儲け,滅亡寸前のローマ帝国の高官となった.この妻の存在とどう関係するか,つまり,その時点で独身であったかどうか不明だが,彼はクレルモンの司教となり,オーヴェルニュ地方のキリスト教会の最高指導者となった.

 476年に西ローマ帝国が滅亡する激動の時代であるから,彼は西ゴート族が474年にクレルモンを占領した際に捕虜となり投獄されたが,エウリック王によって釈放され,その死まで司教としての活動を続けたとされる.

 彼は,ラテン語による相当数の詩と書簡を遺しており,当時を代表する文人でもあった.私は祝婚歌以外の作品を読んだことがなく,それもクラウディアヌスとの関連であり,彼自身に関してはもちろん論文を書いたこともないが,おそらく今後,彼は自分の研究対象となるであろうと思っている.

 だからクレルモンに行ったわけではなく,偶然に過ぎないが,この旅を反芻することにより,今後の勉学への意欲を掻き立てられた.英語版ウィキペディアには,彼が「聖人」に列せられた示唆があるが,確認できないので,これもペンディングにする.


ノートルダム・デュ・ポール教会,外観
 クレルモンフェランという,より大きな町にあるのに,ノートルダム・デュ・ポールは,イソワールのサントストロモワーヌ教会よりも,小さい.


   写真: 左)ノートルダ・ムデュ・ポール教会  右)サントストロモワーヌ教会 


 両者を同じような位置から撮った上の写真は一見して似た印象を受ける.オーベルニュ派の教会の特徴として以下のことがあげられる.

身廊と翼廊の交差部の上から伸びる八角形の鐘楼
後陣を挟んで,両側に小後陣(仏語ではアプシディオール
後陣には内陣を囲むように周歩廊(仏語ではデアンビュラトワール
放射状祭室(仏語でシャペル・レヨナント)
多くの場合トリブーナ(階上廊)を持つ
周歩廊祭室屋根→内陣屋根→翼廊屋根→翼廊中央部の屋根→交差部塔と,しだいに高くなっていくピラミッド状の外観を形成(辻本&ダーリング,p.126の説明.ただし「トランセプト」を「翼廊」と言い換えた)

 鐘楼はコンクで学んだ「スキンチ」によって支えられている八角形屋根を土台にしており,小後陣は写真の左端に片方が写っている.

 イソワールとクレルモンでは放射状祭室は4つだが3つの場合もあるらしい.コンクのサント・フォワ教会はルエルグ地方にあるので,オーヴェルニュのロマネスク教会ではないが,小アプシスがあり,放射状祭室は3つ,交差部には鐘楼ではなく,八角形のドラム(仏語ではタンブール)を持った屋根がかかっていて,双塔形式のフランス型鐘楼が正面にある.

 サント・フォワは側廊を持つ三廊式の大きな教会だが,サントストロモワーヌとノートルダム・デュ・ポールは単廊式である.しかし,両脇上部にアーケードを持ち,この点も両者は共通している.

 オーヴェルニュ・ロマネスクの特徴としては他に,

 鐘楼の屋根は尖塔(仏語ではフレーシュ
 周歩廊に囲まれた内陣(仏語ではクールとケールの中間と言うような表現で良いだろうか)
 「かんなくずモディリオン」,「八芒星模様」(前回写真で紹介)

などがあげられるだろうか.ただし,現存の尖塔の多くは近世の修復もしくは後補と思われる.

 この教会は,オリジナルには,フランスでよく見られる正面に双塔があるタイプの建築(オーヴェルニュの5大ロマネスク教会ではサン・ネクテール教会現状がその形式)だったようだが,その双塔は今はなく,代わりに,この教会全体のトーンを創っている黄金色の石アルコーズ(花崗質砂岩)ではなく,クレルモンの建築によく見られる黒い石を使った,代替の単塔が正面真ん中に控えめに聳えている.さらにオーヴェルニュ派の特徴でもある交差部の上の八角形鐘楼も16世紀の地震で失われ,19世紀に再建されたものとのことだ.

写真:
南側翼廊の屋根の切妻破風
(英語ではペディメント
(仏語ではフロントン
(伊語はフロントーネ
白色と黒色の石を組み合わせるモザイクの技法による装飾


 ノートルダム・デュ・ポール教会のタンパンは正面ではなく,南側面にある(一番下の写真参照).アーチのすぐ下の中央には,玉座のキリストがおり,左右は熾天使であろう.

 楣石は破風型(ただし三角形ではなく,辻本&ダーリングp.128が言うように「山形五角形」)になっている.楣石の浮彫は,向かって左から「イザヤの幻視」,「三王礼拝」(マギの礼拝),「神殿奉献」,「イエスの洗礼」である(マール,上巻,pp. 49-50)

 破風型と言って良いかどうか,このタイプの楣石(ラントー/リンテル/アルキトラーヴェ/アーキトレイヴ)の類例としては,実は,コンクのサント・フォワ教会のタンパン下部が挙げられるだろう.コンクでは,二つの山形が並んでいる形だ.辻本&ダーリングはこの形をオーヴェルニュ地方特有と言っており,マールもフォションもそれゆえにこそ,コンクのタンパン彫刻にオーヴェルニュ派の影響を指摘している.

 しかし,今回この形は,コンクのサント・フォワとクレルモンのノートルダム・デュ・ポールでしか見られていない.強いて言うなら,クレルモン大聖堂正面に向かう途中の坂道沿いの建物の壁に残る「弟子たちの足を洗うイエス」の浮彫(次回に写真を紹介する)は,もしかしたらこの形の楣石だったかも知れない.グラヴリーヌ掲載の写真を見ても,オート・ロワール地方のポリニャックにあるサン・マルタン・ド・ポリニャック教会の浮彫が無い楣石が,かろうじて山形に見えるだけである.

 マール(下巻,p.293)には,この形をした「最後の晩餐」の楣石の写真が掲載されているが,「アルデッシュ県シャンパーニュの教会」の扉口としか説明されていない.一応,可能な綴りを検索にかけると最初に独語版ウィキペディアがヒットし,それによって綴りが分かり,教会正面の写真が掲載された仏語版ウィキペディアに行きつく.

 この教会はサン・ピエール・ド・シャンパーニュ教会と言うようだ.「シャンパーニュ」と言っても,発泡ワインで知られる有名な地域ではなく,オーヴェルニュ・ローヌ・アルプ地域圏に属する基礎自治体だ.

 良い時代になったもので,大学者の名著を偉い先生方が渾身の力で訳した本でも,おぼろげな写真と曖昧な情報しか得られないのに,ウェブ検索でたちまちにして,まずまずの写真と詳細な情報にたどりつく.サン・ピエール・ド・シャンパーニュ教会のファサードには扉が3つあり,それぞれにタンパンがあって,各々の楣石は全て破風型というべきか山形五角形というべきか,その全てを写真で確認することができる.貴重な作例と言うべきであろう.

 しかし,この教会の私が実際に見ることは,まずないだろうと思われる.残念だが人生には限りがあるので仕方がない.

写真:
山形の楣石がある
ノートルダム・デュ・ポール
教会のタンパン

人物の顔は破壊されている


 楣石を初めて意識したのは,おそらく2011年にアルルに行った時であろう.サン・トロフィーム教会のポルターユとタンパンの彫刻を見て,タンパン下部の一列に並んだ十二使徒の浮彫彫刻があるのが,まさに楣石で,それ以前にはこの語を意識したことはない.

 しかし,昔撮った写真を見ると,ヴェローナ大聖堂のポルターユには,立派な浮彫のある楣石があったようだ.同地のサン・ゼーノ・マッジョーレ聖堂のポルターユの楣石も独特で魅力的だ.サン・フェルモ教会のポルターユには楣石があるが,特に浮彫はないようだが,サンタナスタージア教会のポルターユは,タンパンはフレスコ画だが,その下の楣石には立派な6つの浮彫があり,向かって左から,「受胎告知」,「牧人礼拝」,「三王礼拝」,「ゴルゴタへの道」,「磔刑」,「復活」に見える.

 ヴェローナには2回行き,2回とも十分満足の行く拝観,見学をし,しかも,既にポルターユやタンパン,楣石,その周辺のロマネスク浮彫彫刻の魅力をおぼろげながら感じていたはずなのに,改めて,観ること,出会うことの難しさを感じずにはいられらない.

 「ポルターユ」の立派さを初めて実感したのはペーザロの3つの教会と旧教会だった.この時も特に楣石に注意を払うことはなかったが,今確認してみると,サンタゴスティーノ教会はタンパンの浮彫は欠けているが,楣石は立派だ.旧サン・フランチェスコ教会であるマドンナ・デッレ・グラーツィエ至聖所の場合は,玉座の聖母子のタンパンが立派だが,楣石にも浮彫はあるようだ.旧サン・ドメニコ教会のポルターユに関してはウィキペディアの立項もないし,他のウェブ情報にも浮彫彫刻の詳しい情報も無いが,おそらくタンパンには「神と聖人たち」の浮彫があり,楣石は,前面に3か所が張り出しているめずらしいタイプで,中央には,おそらく当地を支配していたマラテスタ家の家紋と思われる浮彫がある.

 オリジナルにどのような色だったのか知識がないのでわからないが,上の写真には薄い青色が広範囲に見られる.ヴェローナの大聖堂,サン・ゼーノ・マッジョーレ聖堂のポルターユのタンパンでも青い色が随分残っていた.

写真:
タンパンの向かって右下
制作年代不詳の石板彫刻
「洗礼者ヨハネ」



ノートルダム・デュ・ポール教会,堂内
 ノートルダム・デュ・ポールの「ポール」は「港」と同語源のポルトゥスと言うラテン語から派生しているが,本来はなかった「市場」と言うような意味で使われ,地区名となり,そこに教会が建てられたので,この通称となったようだ.

 6世紀末にクレルモンの司教となったアウィトゥスが創建し,11世紀もしくは12世紀に川を遡って来たノルマン人の略奪で焼け落ち,歴代司教中でも重要な人物エティエンヌ2世の尽力によって現在の教会の原型ができたかのように言われる,エティエンヌ2世は10世紀のロマネスク以前の人物なので,この説明には矛盾を感じるが,次世代の教会建築の構想に関わり,資金の調達とか,意見の集約に貢献したことと理解しておくことにする.

 エティエンヌのラテン語形がステパヌス(イタリア語ではステーファノ,スペイン語ではエステバン,英語ではスティーヴン)で,ギリシア語で「花冠」を意味するステパノスに由来する.

 エティエンヌ2世の場合,『使徒行伝』に言及されている最初の殉教者の名前にちなんでいるであろうが,もちろん別の人物で,歴代司教の中にも同名の人物がいたので「2世」なのであろう.クレルモン子爵のロベール2世の兄弟で,942年から984年まで,実に42年も司教職にあったことになる.

 彼はノートルダム・デュ・ポール聖堂の聖堂参事会の基礎を築き,当時横行していた騎士たちの暴力を押さえて,オーヴェルニュ地方に「神の平和」と通称された平穏な時代の実現者たちの先駆けとなったとされる(仏語版ウィキペディア).

写真:
天使に献呈する
エティエンヌ2世の
柱頭彫刻


 エティエンヌ2世と思われる人物が,アカンサス文様の柱頭を天使に献呈している柱頭浮彫が堂内にある.天使が開いた本にラテン語が書かれていて,かろうじて「ステファヌス」(古典語のPHではなくイタリア語のようにFが使われているが,語尾はラテン語形)書いてあるように見える.

 幸い,クラプレに大きな写真があり,「IN ONORES MARIAE STEFANVS ME FIERI IVSSIT」とほぼ読み取れる.直訳すると「マリアの名誉へとステファヌスが私(=教会)が建造されるようにと命じた」になる.MARIAEと属格もしくは与格に読みたい箇所がMARIAと主格もしくは奪格に見えるが,セミコロンのように見える記号をEと読めば,上記のようになり,文脈的にも問題ないように思える.古典語であればHONORESになるが,当時は既に語頭の有気母音は発音されなかったので,表記もしなかったのであろう.



 このエティエンヌ2世の柱頭彫刻の残り3面にはプルデンティウスの『霊魂をめぐる戦い』を基にした寓意が彫られている.

 プルデンティウス(プルーデンティウス)(英語版仏語版ウィキペディア)はキリスト教詩人なので,もちろん紀元後だが,4世紀末に生まれ,5世紀前半まで活躍した.私の目下の研究対象である「最後の異教詩人」クラウディアヌスの同時代人だ.

 プルデンティウスの出生地に関しては諸説あるが,現在のスペイン北部から東部にあたる,現在のタラゴナ(古代名タッラコー)を中心とする属州ヒスパニア・タッラコネンシス(ヒスパーーニア・タッラコーネンシス)の出身であることは概ね認められている.驚くべきことに,この詩人の代表作を訳した日本語訳が存在する.

 プルデンティウス,家入敏光(訳)『日々の讃歌・霊魂をめぐる戦い』(キリスト教古典叢書7)創文社,1967

である.またしても,私が小学生の時の出版だ.

 この訳者の著書『初期キリスト教ラテン詩史研究』(創文社,1970)と言う本を,学生時代に高円寺の都丸書店支店(現在は本店から分かれて藍書店)で買ったので,そのような篤学の士がいるということは知っていたが,上記の訳書は梅田の阪急東書房(院生や講師にはファンが多かった古書店)のシールが貼ってあるので,大阪の大学の非常勤講師をしていた1990年代前半から半ば頃の購入だったと思う.

 『霊魂をめぐる戦い』(英語版仏語版ウィキペディア)(プシュコマキア)(マールの訳書も,尾形も金澤も「プシコマキア」としているが,エラスムス式では元のギリシア語なら「プシュコマキアー」と読み,「キ」に鋭アクセント,ラテン語読みは,「マ」にアクセントがある.ただし,プルデンティウスの時代には「プシコマキア」に近かったかも知れない)は,古代末期のキリスト教文学としては古典中の古典とされる,アレゴリー(寓意)による中世やルネサンスの文学の先駆けとなっている.

 この作品は叙事詩に用いられる長短短六歩格(序歌は詩劇の台詞に用いられる短長三歩格)で書かれ,書架のロウブ古典叢書版で確認すると,原作には特に章立てはないが,概ね家入訳でも仏語版ウィキペディアでも七部構成が想定されている,


写真:『霊魂をめぐる戦い』からの寓意彫刻 
 左)「美徳と悪徳の闘い」  右)「理性と施しの貪欲への勝利」
(甲冑の人物は,美徳,理性,施しの寓意であれば全て女性名詞なので女性と思われる)


 上の写真の左の彫刻は,クラプレには「慈善と貪欲の闘い」とある.彫刻に書かれているラテン語はクラプレの比較的大きな写真でも全ては読み取れないので推測が混じるが,甲冑をまとっていない人物は髭のある男性なので,「貪欲」がラテン語では女性名詞であることを考えると,少し疑問に思う.

 剣を持った甲冑の人物の楯に,撮ってきた写真ではかろうじてウィルトゥースと言うラテン語が読み取れるように思え,対抗する「悪徳」はラテン語では中性名詞,ロマンス語では男性名詞になるので,『霊魂をめぐる戦い』では個々の美徳だけではなく,個々の悪徳も女性名詞だが,「悪徳」という語自体は女性ではないことを考え,一応「美徳と悪徳の闘い」とした.

 右の彫刻は,おそらく第6部にあたる部分に出てくる「理性」(ラティオー),「施し」(オペラーティオー)の2つの女性名詞の寓意が甲冑の人物で,彼女たちが踏みつけているのが,「貪欲」(アウァーリティア)に率いられた諸悪徳と考えた.もちろん,参考書を参照した上での考察だが,結論は少し変更した.クラプレは「貪欲に対する慈善(シャリテ)と気前の良さ(ラルジェス)の闘い」としている.

 堂内でいただいたパンフレット(以下,「パンフレット」)には,柱頭彫刻の主題を簡潔に記されているが,該当すると思われるのは,前者が「貪欲(アヴァリス)に対抗する(コントル)慈善(シャリテ)」,後者は「美徳(ヴェルテュ・・複数形)の勝利(ヴィクトワール)」とあるので,私の解釈とは反対になっている.


写真: 左)「聖母被昇天」   右)「ヨセフの夢」


 上の写真の左の柱頭は,棺から,嬰児のようにぐるぐる巻きになった聖母をキリストもしくは神が抱き上げ,両側には書板と香炉を持った天使がいる.書板の文字はシンプル過ぎて,省略に関する知識がないとわからないが,「マリア」だけはかろうじて読み取れるように思える.クラプレが「被昇天」としていので,それに従った.「パンフレット」は「マリア被昇天」としている.

 右の彫刻には,ラテン文字がたくさん書かれているが,写真ではほとんど読み取れない.クラプレは「聖ヨセフの夢(ソンジュ)」,「パンフレット」は「ヨセフの夢」としており,結婚前に妊娠したマリアとの婚約を解消しようとしたヨセフに天使が,マリアが身ごもったのは神の子であることを告げている場面(「マタイ伝」1.18-24)と思われる.

 下の写真に見られるように,内陣・後陣と周歩廊が柱頭付きの列柱で区切られており,それぞれの柱頭の4面に浮彫彫刻が施されている.植物文様のものもあるが,「パンフレット」を参照しながら整理すると,左から,「植物文様」,「寄進者の心の葛藤」(貪欲に対抗する慈善/「怒り」の自殺/諸得の勝利/寄進者エティエンヌ),「植物文様」,「御言葉の受容」(受胎告知/ご訪問/ザカリアへのお告げ/ヨセフの夢),「御言葉の拒否と赦し」(アダムとイヴの誘惑/アダムとイヴの不和/キリストの赦し/聖別された人),「天上のイェルサレム」(象牙の角笛を吹く天使/天国の門の開扉/生命の書/マリア被昇天」となる.

 確認できない図柄もあるが,概ね撮ってきた写真とクラプレで確認できる.

写真:
後陣と
放射状祭室付き周歩廊


 堂内は革命以後に荒れ果てていたのを修復,補修している.上の写真でも,壁の漆喰は新しいし,どう考えてもロマネスクの蒼古感を裏切っている.クラプレには漆喰が塗られていない堂内の写真があるが,素人目には以前のものが圧倒的に良い.

 ステンドグラスの能天気なくらいの新しさ(19世紀の作品)に驚く.上の写真の中でロマネスクを感じさせるのは柱頭のみと言い切っても良いくらいだが,実は,基本構造はロマネスクである.

 ただ,この教会は,現在は教区教会として機能していている.生きた現役の教会としては信者のために,祈りと場として過ごしやすい空間を現出しなければならないだろう.あらゆる参考書に,オーヴェルニュ・ロマネスクを代表する教会として紹介されるノートルダム・デュ・ポールではあるが,正しく継承されたロマネスクの遺産の部分は,基本構造,外壁装飾,浮彫,柱頭,と言い切って良いであろう.

写真:
クリプタ


 堂内の地上階部分は,柱頭以外にロマネスクを感じるのは難しいが,地下祭室(クリプタ)(仏語ではクリプト,綴りは少し違うが英語でもクリプト)は蒼古感満載である.内陣の下に地下祭室があるのも,オーヴェルニュ・ロマネスクの顕著な特徴とされる.イソワールでも地下祭室を拝観している.

 私たちの教会建築体験は,2007年のフィレンツェ滞在から始まっているが,フィレンツェの教会で地下祭室があったのは,サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂,サンタ・クローチェ聖堂くらいしか思いつかない.他にもあったかも知れないが,地下まで降りていけたのは,この2つだけだったと思う.

 夏休みに,大家さんの故郷プーリア州に行った時に,オトラント大聖堂,カストロ(「カストロの伊語版ウィキペディアのページに教会に関しても情報)のアヌンツィアータ教会で地下祭室に降りることができた.また,ヴェローナのサン・ゼーノ・マッジョーレ聖堂,サン・フェルモ教会で地下祭室に詣でている.ヴェローナ大聖堂では地下祭室と言うよりも,今は大聖堂の建っている場所に元々あった古い2つの教会(サンテレーナ教会サン・ジョヴァンニ・ア・フォンテ教会)と言う理解で良いのかと思っている.フィレンツェ大聖堂地下の旧サンタ・レパラータ教会もそうであろう.

 ミラノ大聖堂,サンタンブロージョ聖堂にも,地下祭室にあたる部分はあり,拝観しているが,前者の前身であるサンタ・テクラ教会も地下に遺構があるが,修復中で拝観できなかった.ローマでは,ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂に地下祭室と言うべきかどうかはわからないが,地下部分があり,拝観している.

写真:
クリプタの「黒い聖母」
13世紀の彫刻の
18世紀のコピー


 オーヴェルニュ地方は,「黒い聖母」崇敬でも知られるが,中世のオリジナルもしくは古い模刻は思ったほど残っていない.戦禍,天災,人災と,古い遺産が消えてしまう要素は世に満ちている.オリジナルが失われても,コピーを遺そうとする営為は,決して審美的観点や,学問的関心だけからではできない.自分の力を越えたものを敬う気持ち,それを宗教心や信仰と言っても良いが,それが独特の文化を生む.

 宗教には偏狭で非寛容な側面もあり,そこから様々な人類の不幸も生まれるので,一概には言えないが,日本の野辺の石仏や,オーヴェルニュの木彫の聖母子は,信仰の美しい結晶と思いたい.

 現地でも複数の観光ポイントで売っていたが,荷物になるので,帰国後フランス・アマゾンで買った,

 Hélène Leroy / Francis Debaisieux, Vireges romanes: Portraits croisés, Beaumont: Éditions Debaisieux, 2009(『ロマネスクの聖母』と訳しておく)

に拠れば,「黒い聖母」よりも,彩色された木彫聖母子像の数と,それぞれの個性に驚く.懸絶した天才が想像する芸術作品も魅力的だが,民衆の崇敬に支えられた地方に根付いた美しさにも魅かれる.

 『ロマネスクの聖母』に掲載された諸地方の小さなロマネスク教会堂の写真も素晴らしい.ロマネスクも,オーヴェルニュも,これからずっと私の心を魅了し続けるだろう.できるだけ,たくさんの教会を見られるようでありたい.






日差しから守るように屋根の架けられた
タンパンのある南側面
ノートルダム・デュ・ポール教会