フィレンツェだより
2007年5月18日


 




未完のクーポラをいただく
メディチ家礼拝堂



§文化週間 第6弾 −メディチ家礼拝堂再訪−

昨日のことになったが,「文化週間」便乗第6弾は,メディチ家礼拝堂再訪だった.


 前回は,寒くて体調が悪かったところに,雨が降り出してきて,干してきた洗濯物が気になってしまい,鑑賞に集中することができなかった.今回は,そのミケランジェロの作品をしっかり見るのが最大の目的だった.

 この建物は遠くから見たとき,よくドゥオーモと間違えるほど似ているが,ドゥオーモのクーポラよりもかなり小さいし,頂上部分が未完成のままである.未完成であることは,堂内にある完成予想模型を見てもわかる.17世紀の着工から,1743年に大公家の最後の継承者アンナ・マリーア・ルイーザが死ぬまで完成への努力は続けられたが,実現には至らなかった.

写真:
礼拝堂の入口
時には長い列があることも


 入場してすぐの,日本式に言うと1階にあたるところには,聖遺物を納める工芸品が展示されている.しかし床に目をやると,そこかしこに多くの墓碑があり,メディチ家礼拝堂自体がトスカーナ大公メディチ家の墓所であることがわかる.

 墓碑には,そこに眠っているのが誰であるかを示すために,名前と,どの大公のどういう縁者であるかがラテン語で刻まれている.トスカーナ大公は「ドゥックス・マグヌス・エトルーリアエ」となっていて,やはりラテン語でトスカーナはエトルリアであることがわかる.

 その中に,「これを読むものは,私の名を問うなかれ」と書かれている墓碑があった.フェルディナンド2世の,生まれてすぐ,名づけられることもなく亡くなった娘の墓碑だった.1639年の「1月1日の前日」と学校で習うラテン語の習慣通りの書き方になっているので,1638年の12月31日に天に召されたのであろう.

 今回は2回目で気持ちに余裕があったので,メディチ大公家の系図を確認しながら,衣装博物館でその遺品を見たコジモ1世,大公妃エレオノーラ,ジョヴァンニ,ドン・ガルツィアの墓碑が並んでいる一角にも参った.


「君主の礼拝堂」
 2階部分は「君主の礼拝堂」と「新聖具室」に分れている.「君主の礼拝堂」にはコジモ1世,フランチェスコ1世,フェルディナンド1世,コジモ2世,フェルディナンド2世,コジモ3世の大きな石棺と墓碑があったが,最後の大公ジャン・ガストーネの墓碑は確認していない.

 フェルディナンド1世とコジモ2世に関しては彫像があり,前者はピエトロ・タッカ,後者はピエトロと息子のフェルディナンドの作で,大変巨大な立像である.

 祭壇の脇から入っていく小さな部屋には,聖遺物を納めた工芸品(聖遺物箱レリクィアーリオ)が幾つもあった.洗礼者ヨハネという名のついた聖遺物もあったが,どういう根拠があって,どういう入手経路を経たものなのだろう.

 聖遺物といっても骨であることが多いが,手間と金のかかった美しい工芸品は必ず聖遺物が見える構造になっていて,保管する目的ももちろんあるのだろうが,見るため,もしくは見せるためのものあることは明らかだ.


「新聖具室」
 礼拝堂の聖具室は,サン・ロレンツォ教会にある「旧聖具室」と対照して,「新聖具室」と呼ばれているが,実際にはトスカーナ大公家以前のメディチ家の墓所の役割を果たしている.

 ここには,旧聖具室から移されたというロレンツォ豪華王(無冠・無爵の権力者だった彼を「王」と言うのは誤解を招くが,定訳なので使わせてもらう)とパッツィ事件で暗殺された弟のジュリアーノの遺体が眠っている.

パッツィ事件は旧勢力の名門閥族がメディチ家に対して起こしたクーデターだが,失敗して凄惨な結末を招いた.1478年のことである.


 若きロレンツォは,この危機を乗り切ってフィレンツェの舵取りをし,フィレンツェとメディチ家に繁栄をもたらし,1492年に43歳で亡くなる.コロンブスの「新大陸発見」と同じ年のことだ.

 ロレンツォの息子ピエロが権力を継承したが,1494年にメディチ家は追放され,フィレンツェにはサヴォナローラの宗教政治,その崩壊後はソデリーニの政権が続いた.マキアヴェッリが公務員として活躍したのは後者においてである.

 1512年にメディチ家が復帰したときの家長はピエロの弟で,フランス王からヌムール公の爵位をもらっていたジュリアーノだ.この人の墓がやはり新聖具室にある.もう一人新聖具室に墓のあるのが,追放されたピエロの息子ウルビーノ公ロレンツォである.

 ヌムール公ジュリアーノとウルビーノ公ロレンツォが,商人だったメディチ家から出た最初の貴族たちであろうが,軍人としては有能だったらしいこの2人がどれほどの人物であったかはともかくとして,37歳と27歳で死んだ彼らが,2人ともミケンランジェロに彫像をつくってもらったのは果報者というべきだろう.

 ウルビーノ公ロレンツォはマキアヴェッリが『君主論』を献呈した人物でもある.

 入って右手の壁に,未完の作品のように見えるミケランジェロの聖母子像がある.両脇にあるのは弟子たちの作品である「聖コスマス」と「聖ダミアヌス」の像で,これらの像の下に,ロレンツォ豪華王と,弟のジュリアーノが眠っている.

ミケランジェロの聖母子の,憂いをたたえたピエタのような表情のマドンナが印象的だ.


 さらに右側に(向かって左側にヌムール公ジュリアーノの墓があり,若く凛々しい彼の彫像の下には,有名な「」の女性像と「」の男性像がある.筋肉に満ちた,いかにもミケランジェロという作品だが,「夜」の顔が安らかに見える.

 その向かい側にあるのがウルビーノ公ロレンツォの墓で,彼の彫像は,兜をかぶって頬杖をついた思慮深げな姿は知性と教養に満ちた若き指揮官という姿で惚れ惚れする.その下にやはり有名な「」の女性像と「黄昏」の男性像がある.前者の額には皺が見え,後者は髪も薄く,どうみても若々しい姿ではない.「黄昏」の顔はミケランジェロ自身を反映していないのだろうか,憂鬱な無力感に満ちた作品に思えるが,私の思い込みであろう.

 前日ヴェッキオ宮殿のブックショップで入手した解説書(アントニオ・パオルッチ,光本明子訳『メディチ家礼拝堂美術館とサン・ロレンツォ聖堂』リヴォルノ,1999)によれば,この新聖具室の彫像と配置はアレゴリカルな意味に満ちているようだが,そこまでは私には思い至らない.

 いずれにせよ,前回「写真集で見ても良いかも」と,また罰当たりなことを言ってしまったが,その認識不足を解消するだけの鑑賞はできたと思う.

狭い部屋に7体ものミケランジェロ作の彫像があり,弟子の作とは言え,彼の信頼が厚かった人々の作品が2体ある.この部屋は何度か訪れてみたい場所であるのは間違いないが,できれば寒くなくて明るい日の方が良い.


 礼拝堂を出た後,「あわよくば」ミケランジェロのダヴィデ像をもう一度見ようと,アカデミア美術館の方に歩き出した.サン・ロレンツォ教会に沿って歩き,ファサード前の広場に出る.ここには,バンディネッリ作の「黒隊長ジョヴァンニ」の記念碑がある.

 「黒隊長ジョヴァンニ」の息子が初代のトスカーナ大公コジモ1世なので,彼は言うなれば大公家の始祖である.

写真:
バンディネッリ作
「黒隊長ジョヴァンニ」


 フィレンツェ公アレッサンドロが暗殺された後,コジモ1世が傍系から入って大公家の祖となるが,黒隊長ジョヴァンニは老コジモの弟である老ロレンツォのひ孫にあたり,妻はロレンツォ豪華王の外孫なので,コジモ1世は母系からロレンツォ豪華王のひ孫にあたることになる.

 複雑でややこしいが,大公国の成立は1569年のシエナ征服を待つとしても,コジモ1世が政権の座に着くのがアレッサンドロが暗殺された1537年とすれば,そのときからロレンツォ豪華王の死の1492年以来の安定をフィレンツェは得たことになる.

 黒隊長の記念碑の左手向こうに見えるのが,老コジモの時代に建設されたメディチ・リッカルディ宮殿の裏側である.大通りに面した表は簡素な中にも豪華な「宮殿」を思わせるのに,裏に回ると,絢爛豪華のイメージからはさらに遠い.

 アカデミア美術館の入り口があるリカーゾリ通りには長蛇の列ができていたので,この日はあきらめて帰宅した.

 妻も私も連日の外出で少し疲れがたまっているようなので,今日は家で,たまった仕事を片付けながら,体力の回復を図ることにした.昼食は日本そばだった.





リカーゾリ通り
アカデミア美術館前の混雑