フィレンツェだより番外篇
2016年4月11日



 




クウェンティン・マセイス
「聖母子と天使たち」(部分)1509年頃



§2015 フランス中南部の旅 - その14 リヨン (その1 リヨン美術館)

今回は「美食の旅」とあって,リヨン訪問は旅のハイライトだった.もちろん「美食」もそれなりに堪能した.しかし,もっと堪能したのはリヨン美術館だった.


 リヨン美術館(英語版仏語版ウィキペディア)はツァーの旅程には入っていなかったが,午前中に自由時間があったので,その時間を全て鑑賞に充てるつもりで,旅に出る前から楽しみにしていた.

 その日は,時間を見計らって宿を出て,賑やかな通りを散策しながら美術館まで歩き,開館時間を待って入館し,バスで昼食会場まで移動するための集合時間に間に合うぎりぎりまで鑑賞した.

 リヨン美術館は,フランス語で「ミュゼ・デ・ボザール」なので,「フィレンツェだより」の原則にのっとれば「ミュゼ」は「博物館」とすべきだが,ボザール(英語ではfine arts)が付されることにより,ミュゼであっても十分「美術館」と言って良いであろう.



 話は変わるが,先週の金曜日(4月8日),上野の国立西洋美術館で開催されている「カラヴァッジョ展」を見に行った.世界初公開の作品も含む11点のカラヴァッジョの作品に加えて,複数のカラヴァッジェスキの作品を集めた充実の企画である

 感動とともに新しい知見を得たところで,改めて今回のリヨン美術館の報告用に選んであった写真を見ると,カラヴァッジョの影響を受けた作家の作品を何点か選んでいることに気付いた.そこで今回は,カラヴァッジョのもたらした革新に触れた同時代以降の作家たちが,どのように影響を受け,作品を描いたのか,そのことにも触れながら,作品を紹介していきたい.


絵画部門
 リヨン美術館は,彫刻,コイン,焼き物などの作品の他,古代の遺跡からの出土品の展示もあるが,見どころはやはり西洋絵画であろう.時間が限られていたので,私たちも主に絵画に絞って鑑賞した.

 入ったばかりのところに,ペルジーノの「永遠の父」と「キリスト昇天」を組み合わせた大きなパネル祭壇画がポツンと置かれていた.描かれた人物の多さといい,華やかさといい,十分に目を引く作品だが,ペルジーノの作品としては,最良のものとは思えない.

 ペルジーノの作品であれば,むしろ祭壇画の一部だったと思われる「ペルージャの司教聖ヘルクラヌスと大ヤコブ」が立派だ.ペルージャのサンタゴスティーノ教会にあったということなので,多分アウグスティヌスを描いたパネルもあったのだろう.

 絵画は2階(日本式に言うと3階)に,時代の古いものから順に,地域別,時代別にまとめられて展示されている.最初の方にトップのマセイスの作品に代表される北方絵画の立派なコレクションがあり,「~の親方(メートル)」と称され,名前の特定できない画家の作品でも立派なものが少なくなかった.

 その先には,ジョッテスキを代表するベルナルド・ダッディの「聖人たち」,国際ゴシックから初期ルネサンスのニッコロ・ディ・ピエトロの「聖アウグスティヌスとアリュピウスを訪問したポンティキアヌス」などがあり,アンドレア・デル・サルト工房の「イサクの犠牲」,ヴェロネーゼ「バテシバの入浴」,フェデリコ・バロッチ「男性の肖像」,ロレンツォ・コスタ「キリスト降誕」,パルマ・イル・ジョーヴァネの「キリスト笞刑」,ジョヴァンニ・ランフランコ「聖コンラード・コンファロニエーリ」と言ったお馴染みのイタリア絵画があった.


グイド・カニャッチ
 カニャッチ(英語版伊語版ウィキペディア)との出会いは,2006年9月,翌年の滞在の予習を兼ねて初めてフィレンツェに行った時のパラティーナ美術館だった.彼の「マグダラのマリアの被昇天」の,宗教画でありながらエロティシズムを隠さない大胆な画風は,近くにあったルーベンスの絵よりも印象に残った.

 フィレンツェ滞在中に,彼の特別展がフォルリであり,素晴らしい特別展であると勧めて下さる方もいたが,色々なことを調整しきれず,断念した.まだ私たちの中でカニャッチの重要性が十分に認識されていなかったとも言える.“万難を排して”とまでの気持ちはなかった.勿体ないことをしたと思う.

 17世紀の,イタリアが世界美術の中心であった最後の時代の画家たちの一人で,決してルネサンスやバロックの大天才たちのような有名芸術家ではないが,確かな技術に支えられた堅実な職人としての面を残しながら,湧き出るような官能性を湛えた人物表現に独創性を見せた画家だと思う.

 リヨン美術館の作品も,黒い闇の中に恍惚の表情をしたルクレティアの裸身が妖しく輝く作品だ.

写真:
グイド・カニャッチ
「ルクレティアの自殺」
1657年頃


 カニャッチはリミニ近郊のサンタルカンジェロ・ディ・ロマーニャ(英語版伊語版ウィキペディア)に1601年に生まれ,1663年ウィーンで客死した.生地は同じエミリア・ロマーニャでも,内陸のボローニャより相当アドリア海に近い.ボローニャ派の最後の巨匠グエルチーノより10歳若く,3年早く亡くなったので,グエルチーノの年少の同時代人と言えるだろう.

 記憶が曖昧だが,ボローニャの駅で見た,この画家の特別展の宣伝ポスターには,「もう一人のグイド(グイード)」とあったように思う.もちろん,巨匠グイド・レーニを意識したキャッチ・コピーだろう.

 最初リミニを活躍の場として,フォルリに移り,そこでメロッツォ・ダ・フォルリの絵を見る機会があった.それに先立って1621年にローマで,グエルチーノ,レーニ,シモン・ヴーエを知り(英語版ウィキペディア),さらにそれ以前に,1618年から4年近くボローニャに滞在し,ルドヴィーコ・カッラッチに学んだ可能性があるとされる(伊語版ウィキペディア).

 この経歴からすると,間違いなくボローニャ派の巨匠たちの影響を受けながら,芸術家として成長していったのであろう.ヴェネツィアに拠点を移した際は,グイド・カンラッシ・ダ・ボローニャと名乗っていた(伊語版ウィキペディア)ということなので,その方が仕事を得やすいということもあったのかも知れないが,栄光のボローニャ派に属しているという意識はあったであろう.

 ヴェネツィアではフランドルの画家ニコラ・レニエ(ニッコロ・レニエール)の影響も受け,当時フィレンツェのフランチェスコ・フリーニなどが典型であった,個人の邸宅の広間などを飾る絵に力を注ぐことになっていったようだ.そのせいもあってか,1658年には,神聖ローマ皇帝レオポルド1世の保護を受けることになり,ウィーンに移住し,5年後そこで亡くなった.

 帰国後インターネット書店ウニリブロで,行かなかった特別展の図録,

 Danniele Benati e Antonio Paolucci, eds., Guido Cagnacci: Protagonista dei Seicento tra Caravaggio e Reni, Cinisello Balsamo, Milano: Silvana Editoriale, 2008

を購入して,書架に置いていた.美術展の図録というのは,企画が充実していればいるほど厚なって重たいのに,完全に開くことができない糊綴じで,うっかりすると背が割れてしまいそうになることが多い.カニャッチの図録もそのタイプだったので,開いていなかったが,今回,カニャッチの絵を見ることができたので,思い切って書架から取り出して見た.

 リヨン美術館の「ルクレティアの自殺」はなかったが,クレオパトラやマグダラのマリアなど,乳房を露わに蠱惑的な姿に描かれることの多い女性像が複数出展されており,ルクレティアを描いた作品も,ボローニャ国立絵画館所蔵作品とロンドンの個人像作品が展示されていたようだ.

 カニャッチ展なので,彼の作品が充実していたのは当然としても,カラヴァッジョの「蜥蜴に噛まれる少年」,「悔悟するマグダラのマリア」,「瞑想の聖フランチェスコ」,「眠るクピド」,レーニの「未亡人(もしくは母)の肖像」,「洗礼者ヨハネの首を載せた盆を持つサロメ」,「クレオパトラ」,「マグダラのマリアと天使たち」,グエルチーノの「マグダラのマリアと天使たち」,「雀の聖母子」,「キンメリアのシビュラ」なども出展されて,同時代の後進として,それらのバロックの巨匠たちにカニャッチがどれほど影響を受けたかを示す意図が感じられる内容だった.

 その中でも,アルテミジア・ジェンティレスキの「アレクサンドリアの聖カタリナ」が繊細な美女ではなく,大地母神のような大人の女性に描かれていて,惹かれた.この作品はウフィッツィ美術館所蔵とあるが,見た記憶がない.

 開催中の「カラヴァッジョ展」で展示されている,上半身露わの「悔悟するマグダラのマリア」は,従来はカニャッチ説が有力で,カニャッチ展でも彼の作品として展示されたようだ(図録で確認)が,現在はアルテミジアの作品とされており,その根拠は「カラヴァッジョ展」の図録に簡潔に説明されている.

 2008年の「カニャッチ展」と2016年の「カラヴァッジョ展」に共通する展示作品がいくつかある.カラヴァッジョ「蜥蜴に噛まれる少年」,オラツィオ・ジェンティレスキ「スピネットを弾く聖カエキリア」,ジョヴァンニ・ランフランコ「牢獄で聖アガタを癒す聖ペテロ」,ジョヴァンニ・フランチェスコ・グエッリエーリ悔悟するマグダラのマリア」(リンクページはイタリア語の解説中心だが顔の写真をクリックすると全体写真が見られる),そして作品は共通ではないがどちらにシモン・ヴーエの力作が複数出展されている.「カラヴァッジョの影響」と言うキーワードは明らかだろう.

 カニャッチ展の副題は,「カラヴァッジョとレーニの間の17世紀のプロタゴニスタ」である.ボローニャ派に属し,ボローニャ派の巨匠レーニとグエルチーノがカラヴァッジョの影響を受けていたので,当然ながら「カラヴァッジョの影響」はあって,なおかつ,フォルリでメロッツォの影響を受けた時期があることで,他のボローニャ派の画家たちと一線を画しているということが,特別展の図録から読み取れるだろうか.

 いずれにしても見られなくて残念だった「カニャッチ展」,見ることができて信じられないほどの感銘を受けた日本の「カラヴァッジョ展」がいずれも,企画者,会場,後援者の全てに賛辞を呈したいくらいの気持ちさせる特別展であったことを,図録を見ながら嚙み締めた.


ジュゼッペ=マリア・クレスピ
 カニャッチよりもさらに後の世代の画家であるジュゼッペ=マリア・クレスピ(英語版伊語版ウィキペディア)は,英語版ウィキペディアには「バロックの画家」とあるが,1665年生まれで,1747年に亡くなったクレスピは,「バロック」と言うには随分遅い時代の人に思える.

 カニャッチもそこに分類されている英語版ウィキペディアの「ボローニャ派」のリストを見ると,アミーコ・アスペルティーニに始まり,フォンターナ父娘,カッラッチ一族,グイド・レーニ,ドメニキーノと綺羅,星の如く続くが,カニャッチが1663年に,グエルチーノが1666年に亡くなった後は,名の知られた(と私が認識できる)画家はクレスピぐらいしかいない.

 クレスピはグエルチーノの死の前年に生まれている.ボローニャ派「最後の巨匠」はやはりグエルチーノであろうから,クレスピは,ボローニャ派「最後の有名画家」と言って良いかも知れない.

 上記のリストの最後はウバルド・ガンドルフィで,この画家は1728年生まれで1781年に亡くなっているので,クレスピの58年後に生まれ,34年後に亡くなった随分後の世代の画家だ.それでも英語版ウィキペディアには「後期バロック」の画家としている.ボローニャのバロック絵画は随分息が長かったようだ.

 ガンドルフィの絵は,ボローニャの市立芸術コレクション博物館(と言うような訳で良いかどうか)で,「聖ルキア」,「聖フランチェスコ」,「聖ヨハネ」,「マグダラのマリア」,弟のガエターノ・ガンドルフィの「聖家族」,「聖ヨハネと嬰児イエス」(サン・ジュゼッペ・コル・バンビーノ),「自画像」,「妻の肖像」,「聖家族と幼児の洗礼者ヨハネ」を見ている.撮影可だったので写真を撮っており,それで確認できる.

 ウバルド,ガエターノのガンドルフィ兄弟よりも前の世代で,クレスピよりも年下のボローニャ派の画家,ドナート・クレーティの作品もこの博物館で複数見られた.当たり前のことだが,やはりクレスピは「ボローニャ派の最後の画家」ではなく,「ボローニャ派最後の有名画家」ということになる.

写真:
ジュゼッペ=マリア・クレスピ
「マグダラのマリア」
1735-40年頃


 クレスピとの最初の出会いもこの博物館だった.「大修道院長アントニウスとアルカンタラの聖ペトロ」と「プロスペーロ・ランベルティーニ(後の教皇ベネディクト14世)の肖像」を観て,絵と紹介のプレートを写真に収めたが,記憶に残るほどの印象は受けなかった.

 次いで訪ねた国立絵画館(英語版伊語版ウィキペディア)でも「マグダラのマリア」,息子ルイージとの共作とされる「聖ヨセフの夢」も観て,写真に収めたが,最も印象に残ったのは「侮辱されるキリスト」だった.この絵はウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにもウィキペディアにも紹介はないが,ボローニャ国立絵画館のHPに紹介されており,私たちも最初のボローニャ訪問記で写真を載せている.

 それ以来,ルーヴル美術館で「のみをとる女性」,エルミタージュ美術館で「ヨセフの死」,ボローニャのサント・ステファノ教会群でフレスコ画「聖ステファノ」を観たので,それぞれの報告ページで写真付きで紹介している.世紀の大芸術家とは思わないが,私たちの感性をえぐる画家で,今後も注目し続けるつもりだ.

 この画家がカラヴァッジェスキの一人と思ったことはないし,時代的にも無理があるが,紹介ページにある写真を見ていると,背景が黒く明暗対照画法を多用しているように思われ,すでに時代遅れとなっていたであろうカラヴァッジョの作品を彼は意識していたのかも知れない,と改めて思わされた.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートによれば.コルトーナの司教区博物館に「コルトーナの聖女マルガリータの法悦」という絵があるようだ.ボローニャを訪ねる1か月前に,この博物館を一度訪ねており,訪問の順番が逆だったら,記憶に残ったと思うが,コルトーナに行った時は,この画家を意識していなかったので,見逃したかもしれない.

 この作品もやはりカラヴァッジェスキのような絵だ.不思議な画家だ.リヨンで観た「マグダラのマリア」も同じ傾向を示している.


フランチェスコ・フリーニ
 フランチェスコ・フリーニ(英語版伊語版ウィキペディア)をカラヴァッジェスキの一人だと思ったことは一度もなかったが,下の写真の「福音史家ヨハネ」は明暗対照画法で描かれており,制作年代からもカラヴァッジェスキ風の絵を描いても全く不思議はない.

 英語版,伊語版,仏語版のウィキペディアのどれも,彼は1619年にローマに行って,カラヴァッジョの影響を受けたとしている.カラヴァッジョの死後9年経っているが,なおローマではカラヴァッジョの遺風が力を失っていなかったのだろう.

 仏語版ウィキペディアにはジャン=ロレンツォ・ベルニーニの知遇を得たとも書かれており,フリーニの絵が好きだと言いながら,フィレンツェ・ローカルな画家だと思いこんでいた私は驚いた.最早フィレンツェがイタリア芸術の中心ではなくなっていたこの時代,トスカーナ以外の多くの芸術家の影響をフリーニは取り入れていたのだ.

 フリーニとの出会いもカニャッチ同様,2006年9月のパラティーナ美術館見学であった.彼の「ヒュラスとニンフたち」はルネサンスからバロックのトスカーナ絵画の傑作を集めた部屋に向かう途中にあった.

 この作品を印象づけるのは,暗く青みがかった曇天の中に陰影も柔らかに浮かびあがる白い肉体だ.ギリシア風ではないルネサンス伊達男風の美少年ヒュラスの衣装の赤が目を射る.カラヴァッジョ風と思って見たことがなかったが,リンクしたウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの暗めの写真で見ると,やはりカラヴァッジョ風に見える.

 リヨン美術館の作品も同じように,美少年に描かれた福音史家ヨハネの赤いマントが暗い背景に浮き上がる.フリーニの作品は肉体の魅力を最大に発揮するためなのか,色彩を非常にコントロールしているよう思われる.

写真:
フランチェスコ・フリーニ
「福音史家ヨハネ」
1635-36年頃


 2008年3月の,まもなく帰国という頃に,ピッティ宮殿の銀器博物館で行われたフリーニの特別展を見に行ったことは,「フィレンツェだより」のフィレンツェ滞在篇の最終回で言及し,多少感想も述べている.その時,迷った末に,荷物になるので図録,

 Mina Gregori e Rodolfo Maffeis, eds., Un' altera bellezza: Francesco Furini, Firenze: Mandoragora, 2007

を買わなかったが,帰国後,インターネット書店ウニリブロで注文して,結局入手した.その編者の一人がミーナ・グレゴーリであることを今確認して,少し驚いている.

 と言うのは,見てきたばかりの「カラヴァッジョ展」の目玉作品のひとつは,これまで写しと思われる多くのヴァージョンが知られながら,本物は行方不明とされていた「法悦のマグダラのマリア」で,これが今回の特別展で世界初公開されることになった経緯は,権威とされる研究者が個人蔵の作品を真作と断定したことによる.その「権威」がグレゴーリだった.

 リンクした英語版ウィキペディアでは,ジョン・ガッシュがカラヴァッジョのオリジナルであることを提唱(2016年4月9日参照.ただし,「典拠が十分ではないので,改良されなければ削除の可能性もある」とご注意がなされている)とあり,グレゴーリへの言及は無いが,同じ項目に関する伊語版ウィキペディア(同日参照)にはグレゴーリへの言及があって,英語版で最初の提唱者とされているジョン・ガッシュの名とその著書にも言及している.

 ガッシュの提唱が2003年,グレゴーリの認定が2014年で少し間が開いているので,決して即断ということではなかったのだと思う.

 美術史研究において「権威」にどれほどの意味があり,その説に万人を納得させる力があるかどうか私には分からないし,フリーニの特別展の図録のグレゴーリの論文は,主に彫刻との関連について書かれているだけだが,それでも,カラヴァッジョの「権威」と認められているグレゴーリがフリーニの特別展に関わったことで,フリーニにカラヴァッジョの影響は明らかにあるのだろうと考えてしまう.

 リヨン美術館のフリーニの作品(ちなみに,これは銀器博物館の特別展にも来ていた)を見て,特に傑作だと思った訳ではないが,フィレンツェの画家である彼の作品を思わぬところで見られて嬉しかったのと,それと関係するが,彼が決してフィレンツェ・ローカルな画家ではないこと,そして,今までの思い込みを越えて,実はカラヴァッジョの影響を濃厚に受けていたことに思いが至り,取り上げてみた.


ピエトロ・ダ・コルトーナ
 ピエトロ・ダ・コルトーナは建築や意匠をも得意分野とする総合芸術家なので,一枚の絵で,彼の力量をどうのこうのということはできないが,今回はボルドー美術館でも見たし,もちろんルーヴル美術館にも複数の作品があり,リヨンにも作品があったことは,十分に彼がイタリアと言う枠を超えて愛好された画家であることを示している.

 他のイタリアの画家と同じく,ギリシア神話やローマ史を扱った作品より,宗教画の方が良いと思うが,ルーヴルの「女狩人の姿でアエネアスの前に現れたウェヌス」同様,古代ローマを扱った作品なので,バロックの時代に咲いた古典主義の花のように思え,紹介した.

写真:
ピエトロ・ダ・コルトーナ作
「クレオパトラにエジプトの
王座を与えるカエサル」
1637年頃


 画面(向かって)左上の円形の建物はコロッセオのようにも見えるが,場所はローマではなくアレクサンドリアであろうし,そもそもカエサルの時代にはまだコロッセオは存在しないので,違うであろう.古代に関する相当な知識を持っていたようではあるが,とてもエジプトの風景に見えないところが,時代の限界と言うことだろうか.

 同じ美術館で観た1点ずつの作品を並べてみると,カニャッチ,クレスピ,フリーニに比べ,間違いなくピエトロ・ダ・コルトーナは大物画家なのだが,こうして見ると,個性と言う点では他の3人よりも魅力に乏しく思えてしまうのは不思議だ.


神話,文学作品を題材にした絵
 「ダナエと黄金の雨」の図像化が古代陶器画に遡ることは,エルミタージュ美術館の訪問記で報告しているが,その時もティツィアーノ,レンブラントの「ダナエ」を紹介したように,ルネサンス,バロックの画家が好んで描いた,と言うよりは注文者が好んで画家に描かせた題材だ.

 ティントレットのこの絵を単独の項目としてウィキペディアが立項しているのは,リヨン美術館が所蔵しているからだろうか,仏語版のみと思い込んで読んでいたら,なんと西語版だった.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにも写真は掲載されているが,解説は無いに等しい.

 同じヴェネツィア派のティツィアーノも「ダナエと黄金の雨」を複数描いているが,そのうちエルミタージュとプラドの作品が,同じように乳母が金貨のように見える黄金の雨を前垂れに集めている.ティツィアーノの死が1577年で,ティントレットの作品はそれと同時期か以後の作品なので,ティツィアーノの作品が発想源であろうか.

 ティントレット以降で黄金を集める乳母を描き込んだのは,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートで写真が掲載されている限りではあるが,アルテミジア・ジェンティレスキ,ダニエル・マイテンス2世,ジャン=バッティスタ・ティエポロくらいで,思ったより少ない.

写真:
ティントレット
「ダナエと黄金の雨」
1577-78年頃

写真:
ジャック・ブランシャール
「ダナエと黄金の雨」


 ジャック・ブランシャール(英語版仏語版ウィキペディア)は1600年にパリで画家一族に生まれ,母方の叔父(伯父)二コラ・ボルリを師匠として画業を始め,1624年から4年間ボローニャ,ヴェネツィアに学び,北西イタリア,トリノのサヴォイア公爵カルロ・エッマヌエーレ1世に雇われ,フランスに帰国後,パリに活躍の場を定めた(英語版ウィキペディア).

 ティツィアーノ,ティントレット,ヴェロネーゼの影響が見られ(英語版ウィキペディア),1636年に「王の画家」に指名された(仏語版ウィキペディア)とされる.39歳になるかならないかで亡くなっているが,当時としては成功を収めた画家と言って良いだろう.

 仏語版ウィキペディアは7点の写真を掲載し,そこにリンクされているウィキメディア・コモンズには重複するものを除くと19点,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには7点の写真が掲載されている(それぞれ2016年4月10日参照).

 ウィキメディア・コモンズとウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに掲載されている「父の盲目を癒すトビアス」は,はっきりカラヴァッジョ風に見える.この作品を今回ボルドー美術館で観て,写真にも収めているが,印象には残っていなかった.周辺にあった複数のカラヴァッジョ風作品の一つにしか見えなかったのだろう.

 今,写真を確認すると,きちんと描かれたそこそこの水準の絵だが,リヨン美術館の「ダナエと黄金の雨」の作者と同じ画家が描いたとは,俄かには了解できない.

 1638年に亡くなったが,9歳年長のグエルチーノは68年まで,1歳年少のカニャッチは66年まで生きるので,ブランシャールは立派にバロックの画家であり,すでに時代遅れだったヴェネツィア派の影響が見られる絵も描き,時代の子としてカラヴァッジョ風の作品も仕上げたということであろう.

 それとは意識せずに,ボルドーとリヨンで作風の異なる絵をそれぞれ1点ずつ,この画家に関して観ることができ,新たに勉強したことになる.「ダナエと黄金の雨」はティントレットの先行作品と比較すると,影響はどこかにはあるのであろうが,やはりバロック絵画に見える.

 エルミタージュ美術館所蔵の「天使のリュート伴奏でスピネットを弾く聖カエキリア」がウェブ上の写真で見る限り美しい絵だが,この作品はエルミタージュで撮ってきた写真の中にはなく,多分観ていないと思う.

写真:
ヤコブ・ヨルダーンス
「メルクリウスとアルゴス」
1620年頃


 ボルドーのサンタンドレ大聖堂で「キリスト磔刑」を見ることができたヨルダーンスは,17世紀フランドル絵画の大物で,宗教画や風俗画の他に神話画も相当数描いたらしい.

 最高神ユピテル(ゼウス)に愛されたニンフのイオは,密会を糊塗するために白い牝牛の姿に変えられるが,不倫を疑った神々の女王ユノー(ヘラ)は,百の目を持つ巨人アルゴスに牝牛を監視させる.アルゴスを殺すようにユピテルの指示を受けたメルクリウス(ヘルメス)は,羊飼いに扮してアルゴスに物語をして注意をそらし,彼を殺してしまう.ホメロスの『イリアス』に使われるヘルメスの別称アルゲイポンテスは「アルゴス殺し」と言う意味だとされる.

 上記のストーリーはローマ帝政初期の詩人オウィディウスの物語詩『変身物語』に詳述されていて,他の神話画作者と同様に,ヨルダーンスも,オウィディウスに従ってこの絵を描いたのだと思われる.

 私たちはヨルダーンスの神話画「羊の下に隠れてポリュペモスの洞窟を逃れるオデュッセウスたち」をモスクワのプーシキン美術館で観ている.エルミタージュ美術館にも「クレオパトラの饗宴」と「豆の王」があるが,前者は観ていない.

 同時代の先輩で,同じアントワープ(アントウェルペン)で活躍したルーベンス(16歳年長)とは異なり,諸方に出向くことはなかったが,裕福な商人の家に生まれて,ルーベンスほどでではないにしてもしっかりとした教育を受け,古典に関する教養もしっかりと身に着けて,イタリア絵画を版画や実物で研究しながらもフランドルの伝統に根差した作品を描いた(英語版ウィキペディア.おそらくそれをもとにしている日本語版ウィキペディアも詳細).

 師匠はアダム・ファン・ノールトとされ,師の女婿ともなった.ノールトにはルーベンスも師事しており,もちろんヨルダーンスはルーベンスの影響を受けた.神話画から宗教画のような感銘を受けることは今のところないが,ヨルダーンスの神話画をモスクワとリヨンで観られたことは,貴重な体験だったと思う.

 ヨルダーンスの死は1678年で,グエルチーノの死後10年,クレスピが11歳の時ということになる.思ったよりも新しい画家だ.

 ルーベンスの作品をリヨンでも2点(「キリストの怒りから世界を守る聖ドメニコと聖フランチェスコ」,「三王礼拝」)観ることができ,それなりの水準の作品だったが,フランドル絵画であれば,イタリアの影響が濃いルーベンスよりも,フランドルの伝統であるゴシックへの志向が根強いように思われるヨルダーンスは魅力的だ.しかし,まだまだこれについて考察するには勉強が足りないので,今回はここまでとする.

 なおリヨン美術館には,ヨルダーンスの作品としてさらに「エリザベト訪問」と「牧人礼拝」と言う宗教画があり,それぞれ立派な作品で,フランドルよりさらに北方のオランダの画家レンブラントの「聖ステパノの殉教」も観ることができた.

写真:
ジャン=オギュスト=ドミニク
・アングル
「オデュッセウス」
1850年頃


 プーシキン美術館が所蔵するヨルダーンスの作品にオデュッセウスを描いたものがあるが,今回はリヨン美術館で,新古典主義の巨匠アングル(英語版仏語版ウィキペディア)が描いたオデュッセウスを観ることができた.

 ルーヴル美術館所蔵のアングルの「神に祀られるホメロス」で,ホメロスの玉座の下の台座の前には赤い衣の人物と,緑色の衣の人物が腰を下ろしている.緑色の衣人物の部分を拡大するとΟΔΥΣとギリシア文字が見えるように思われる.後半は人物で隠れているが,おそらくオデュッセウスもしくはオデュッセイアと書いてあるのだと思う.

 なぜ作品名の可能性もあると思うかと言えば,緑の衣の人物も,赤い衣の人物も女性に見えるからだ.前者は船の櫂を持っており,後者の傍らには鞘に納められた剣が置かれている.前者がオデュッセウスだとそれば後者はアキレウス,前者が作品名オデュッセイアの寓意だとすれば,後者はイリアスと思われる.赤い衣の人物の(向かって)右側にΣの文字が見え,アキレウスでもイリアスでもΣが最後の文字なので,どちらでも可能だ.

 人物であればすっきりするのだが,英雄叙事詩の戦士にしては,女性としか思えない姿なので,人物と断言しきれない.そう言えば,リヨン美術館のオデュッセウスもふくよかで,線が柔らかであり,乳房もあるように見えないことはない.

 櫂を持ち,ピロス(ピーロス)と言う名の円錐形帽子を被っているのでオデュッセウスと言い切ってしまいたいが,髭が無い若い姿で,全体としてふくよかな感じが,「堅忍不抜の」,「城市の攻略者」オデュッセウスであると納得しきれない.しかし,この絵は好きか嫌いかで言うと,好きだ.知者オデュッセウスの憂鬱な心性を表現しているように思われるからだ.

 アングルの作品としては「皇帝カール五世の使者を迎えるピエトロ・アレティーノ」もあった.


フランス絵画
 以下のフランス絵画に関しては「観ることができた」と言うだけのことだが,さすがにフランスの有力美術館だけに,フランス絵画の巨匠たちの作品が数多あり,特に印象深かったものだけを取り上げる.

写真:
ジェリコー
「老女の肖像」もしくは「狂気」
1819-22年頃


 特に人文的知識を必要としないように思われる絵だが,肖像画としては,表情に少し独特の雰囲気を持っている.病院で働く友人のために10人の偏執病患者を描いたものの一つとされる.ドラクロワに先駆けて新古典主義からロマン主義の時代を切り開き,32歳で亡くなったジェリコーの画力をいかんなく発揮している作品だと思う.

 ジェリコー作とされる絵として,ペルージャの教会から接収され,現在はローマのボルゲーゼ美術館にあるラファエロの「キリスト埋葬」の模写があり,ペルージャの国立絵画館のカヴァリエール・ダルピーノの写しとともに,注目すべき作品であろう.

 ドラクロワの作品も2点(「皇帝マルクス・アウレリウスの臨終の言葉」,「鸚鵡に話しかける女性」)見られたが,特に優れた作品との印象はなかった.

写真:
アンリ・
ファンタン=ラトゥール
「読書」
1877年


 静謐な感じのする見事な作品で,感想といってはそれが全てになるが,古典的規範や,絵画のヒエラルキーの意識から脱却していく時代の作品と言うことができるのだろうか.

 ドラクロワもジェリコーも,シャセリオーも歴史画を最高とする先入観にまだとらわれていたかも知れないが,ファンタン=ラトゥールの作品は,そうした新しい絵画観とともに,貴族ではない人々が豊かな生活を送れるようになった時代と感じさせる.

写真:
カミーユ・コロー
「アトリエ」


 コローは風景を描いた絵が多いような印象があり,彼の描いた風景画が好きだが,ルーブルには有名な「真珠の女」もあるし,人物を中心に据えた絵もどこかでは見たかも知れない.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにも女性を描いた複数の絵の写真が掲載され,そのうち2点は画家のアトリエを描いたものとされる.それぞれルーヴル美術館とオルセー美術館に所蔵されているようだが,前者は昨年日本の特別展に出展されていたように記憶する.

 コローはオルペウスとエウリュディケを描いた神話画も描いており,観たことはないが,寓意画も描いたようなので,決して古典的教養を無意味と思っていたわけではないだろう.リヨン美術館でも小さな作品だが,誰が見ても「聖セバスティアヌスの殉教」と思われる(プレートにもそうあった)絵があった.ただ1875年に亡くなっているので,上のファンタン=ラトゥールの絵が描かれた時,コローは生きていなかったことになる.

写真:
ルノワール
「ギターを弾く女性」
1897年


 19世紀後半以降の画家として,ミレー,ドーミエ,モネ,ピサロ,シスレー,セザンヌ,ゴッホ,ルドン,モローなど,1点か2点の小品がほとんどだが,作家の名前に恥じない佳品を観ることができた.その中で,特にわかりやすいルノワールの絵を紹介しておく.

 個人的には初めて名前を知った画家たちの風景画が良かった.その中には,リヨンの「地元の画家」たちもいた.

写真:
ルイ・ジャンモ
「野の花」
1845年


 複数いる「地元の画家」の中で,最もフォーカスされているのが,ジャンモ(英語版仏語版ウィキペディア)で,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには取り上げられていないが,上の写真の「野の花」(英語版仏語版ウィキペディア)は英語版,仏語版のウィキペディアで,ともに単独に立項されている.

 ジャンモは,リヨンで生まれ,リヨンで亡くなった画家で詩人とされる.彼が詩人としてどれほどの人であったかはわからないが,この詩想に満ちた作品や,リヨン美術館の連作絵画を観ていると,この人が詩人であったことに説得力があるように思える.

 この作品は,江戸幕府など日本の諸機関が初めて参加した1867年のパリ万博に先立つ1855年のナポレオン3世治下のパリ万博にも出展された作品とのことである.日本の歴史を合わせて考えると,それなりに古い作品である.

 ルネサンス風の女性は女神フローラを思わせ(英語版ウィキペディア),「野の花」と言う題名は『旧約聖書』の「ソロモンの雅歌」のラテン語訳「我は野の花,谷の百合」(エゴー・フロース・カンピー・エト・リーリウム・コンウァッリウム)を連想させる(仏語版ウィキペディア).新しい時代にもまだ人文主義の痕跡を残していたと言えよう.仏語版ウィキペディアは「神秘の薔薇」(英語版ウィキペディア「薔薇の奇跡」)という宗教的テーマへの連想も示唆している.

 彼の連作絵画は「魂の詩」と題され,18の絵画と16の素描からなっているが,素描もあったのかも知れないが,私たちが観ることができたのは,絵画の方だけで一つの部屋をそのために使い,そこに並べて展示してあった(英語版では絵画,仏語版では絵画と素描の両方の写真を見ることができる).

 仏語版ウィキペディアには「リヨン派」への言及もあり,そこかにリンクされている説明ページには分野別に分類された画家たちの名前が列挙されていて,ジャンモは「宗教画」に分類されている.

 画家たちのリストの中で,イポリット・フランドランヴィクトル・オルセルアドルフ・アピアンピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌの作品は印象に残る.ロマン主義から象徴主義の文学運動との連携が見られた時代の画家たちと言えようが,深入りするほどの材料を持っていない.

 リヨン美術館にあり,私たちも観て写真にも収めたジャンモの「自画像」は,繊細だが,時として奇矯な振る舞いを辞さないようなそんな人物像を思わせる.機会があれば,ジャンモについても「リヨン派」についても勉強してみたい.


絵画以外の作品
 古代のエジプト,メソポタミア,代シリア,ギリシア,ローマの遺品を最後に駆け足で観て,彫刻も一部絵画のコーナーに合わせて展示されていたものは観ることができたが,ミーノ・ダ・フィエーゾレの「洗礼者ヨハネ胸像」などの作品があったであろう彫刻展示コーナーは見ていない.

写真:
アンフォラの黒絵式壺絵
ロンドンの画家
「パリスの審判」
紀元前575-50年頃


 絵壺は複数観ることができた.アトリビュートからヘルメスと思われる神が,羊飼いの杖を持った男性のところに3人の女神を連れて行くこの絵柄は,間違いなく「パリスの審判」であろう.黒絵式なので,紀元前6世紀のアッティカ地方で作られた古い作品と思われる.英語版ウィキペディアに「ギリシア壺の画家たち」と言うリストがあるが,今のところ「ロンドンの画家」についての情報は得られていない.


写真:紀元後5世紀の石棺パネル「キリストと使徒たち」(イタリア,ジェンツァーノ出土)


 石棺パネルもあった.若いキリストの(向かって)右にいる人物は持っているのが鍵であればペテロであろうが.その他の人物は書物持っているようなので,であれば,キリスト以外の4人の人物は福音史家であろうかとか様々考えるが,美術館のパネルにあった主題,制作年代,出土地以外の情報はないので,今のところわからない.

 古代のオリエント地方の出土品も見る価値は十分以上にある.リヨン美術館は一週間毎日通い続けても,日々あたらしいことが学べるほどの豊富な収蔵品を持っている.世紀の大傑作は見当たらないかも知れないが,味わい深い作品は多い.

 この美術館で観ることができて,最も良かった作品は何かと聞かれたら,迷った末にスルバランの「聖フランチェスコ」(下の写真)と答えるだろう.スペイン絵画はあまりなかったが,これ1点でもスペイン・バロック絵画ファンを満足させてくれるだろう.

 リヨンでは残念ながらロマネスクの遺産には出会っていないし,古代遺跡や考古学博物館は見ていないが,美術館を比較的ゆっくり見られて,満足した.






スルバラン
聖フランチェスコ