フィレンツェだより番外篇
2016年6月3日



 




「最後の審判」(部分) 喇叭を吹く天使たち
システィーナ礼拝堂



§2016 ラツィオ・ウンブリアの旅 - その4 ローマ (その2 ヴァティカン特別見学)

システィーナ礼拝堂を貸切見学するとは何とも贅沢な話である.もっとも,これを目当てに今回のツァーを選んだわけではなかったが,結果,人生が変わるかもしれないと思えるほどの体験をした.


 ヴァティカン博物館,システィーナ礼拝堂ともに3度目の見学である.これまでは,これにサン・ピエトロ大聖堂をセットにして見学していたが,今回は閉館後の夜に特別に入場したので,サン・ピエトロ大聖堂は拝観していない.

 絵画館は照明がひどく暗いうえ,駆け足の鑑賞で,到底満足できるものではなかったが,前回は展示されていなかったヴィターレ・ダ・ボローニャの「聖母子」を辛うじて写真に収め,確認が不十分だったグエルチーノの全作品も確認できたので,自分としては良しとする.

 ラファエロとその工房のフレスコ画に関してはまずまずの光の中,落ち着いて鑑賞することができたが,こちらは前回もかなり満足の行く鑑賞を果たしているので,今回は特に報告しない.



 さて,これまでに2度報告したシスティーナ礼拝堂だが,今回は写真を撮ることができたので,初めて写真つきで感想を語ることができる.自分の目で見たものを反芻しながら消化する過程で,以下の本を通勤電車の中で読んだ.

 越川倫明/松浦弘明/甲斐教行/深田麻里亜『システィーナ礼拝堂を読む』河出書房新社,2013(以下,それぞれ担当に基づいて,「キリスト伝」と「モーセ伝」に関しては松浦,ミケランジェロの天井画に関しては越川,ラファエロのタペストリーに関しては深田,「最後の審判」に関しては甲斐)
 青木昭『システィーナのミケランジェロ』小学館,1995

 後者は,1981年から1994年まで行われたシスティーナ礼拝堂のミケランジェロ作品の洗浄,修復の際,資金を提供した日本TVの担当者によって書かれた本だ.写真も殆どカラーだし,持ち運びもしやすいうえ,ときに独創性が過ぎているように思われる部分もあるにせよ,ミケランジェロへの愛にあふれた好著だ.

 美術の研究者ではないので,ごく一般的に整理されており,わかりやすい一方,これでは物足りない人もいるだろう.そういう読者をターゲットに,啓蒙書や案内書と専門書の中間を狙って書かれたのが前者だ.しかし,専門的知識と独創的見解について行くにはそれなりの努力を要し,読みやすいというところまでは行かない.

 とは言え,イタリア・ルネサンス美術研究の日本におけるトップランナーたちの著書であるから,当然ながら多くのことを学ぶことができる.特に後で紹介する,天井画に関する3冊の日本語研究書を覗いた後では,この本はそれよりもずっと分かりやすく,説明も簡にして要を得ているように思われる.

 シャステル/ヴェッキ/ハースト/他,若桑みどり(日本語版監修)『甦るミケランジェロ システィーナ礼拝堂』日本テレビ放送網,1987(以下,シャステル他)

は,写真が豊富(煤けて見えるので洗浄前のものと思われる.それはそれで貴重だ)で,わかりやすいが,大型本なので参照しにくいのが難点だ.

 日本アート・センター(編著)/辻成史(解説)『ミケランジェロ』(新潮美術文庫5)新潮社,1975

も写真は洗浄前だが,コンパクトに持ち運べて便利だ.写真が煤けていても,なお十分に傑作であることが分かるし,変に綺麗なよりは,有り難く見える場合もある.


ミケランジェロ作品との出会い
 ミケランジェロとの出会いは,やはり彫刻家としてであった.日本の特別展に来たバルジェッロ博物館の「ブルトゥス胸像」を見た可能性はあるが,意識しての出会いは2007年のフィレンツェ滞在の予習のために行った2006年のローマ旅行だった.

 早朝,ボンコンパーニ通りの宿を出て,人影もまばらな街路を歩いてヴァティカンに向かい,まず開いたばかりのサン・ピエトロ大聖堂に行った.だだっ広い堂内を見て,付属の宝物館も見て,エレベーターでクーポラまでも見学した.ヴァティカン博物館に長蛇の列ができるなどとは予想もしていなかったからだ.知っていたら,もちろん先に博物館に行った.

 システィーナ礼拝堂は博物館の中から行くのだと知っていたが,博物館の入り口がどこにあるかは,行けば分かると思って確認していなかった.大聖堂を出て,しばらく入り口を探して歩き,漸く博物館の入り口が分かった時には信じがたい程の行列ができていた.自分で招いたことではあるが,入館するまで,土砂降りの雨の中,3時間以上も並んだ.

 しかし,負け惜しみで言うわけではないが,まず大聖堂で「ピエタ」を観てから,数時間後にシスティーナ礼拝堂のフレスコ画を観たので,若い彫刻家だった初期の作品の後に,中期,後期の大芸術家として依頼されたフレスコ画を観るという,ある意味「正しい順番」での鑑賞ができたことになる.

 翌年のフィレンツェ滞在時に,ミケランジェロ作品を鑑賞していった順番を整理すると,ヴェッキオ宮殿(4月3日),サン・ロレンツォ聖堂のメディチ家礼拝堂新聖具室(4月4日),アカデミア美術館(4月15日),大聖堂博物館(4月16日),ウフィッツィ美術館(4月21日),バルジェッロ博物館(4月22日)となる.

 さらに5月17日にバルジェッロ博物館,翌日メディチ家礼拝堂を再訪し,6月4日にカーザ・ブオナッローティを見学している.

 これらの箇所で見られるミケランジェロの作品は,素描を除けば絵画はウフィッツィ美術館のドーニ・トンドと通称される「聖家族と幼児の洗礼者ヨハネ」だけで,カーザ・ブオナッローティとバルジェッロ博物館で見られた浮彫を含め,他は全て彫刻作品だった.

 同年,ローマのサンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂,サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会,ボローニャのサン・ドメニコ聖堂で彼の彫刻作品を観て,2009年にミラノのスフォルツァ城博物館,パリのルーヴル美術館でも彼の未完彫刻を観て感銘を受けている.

 私にとってのミケランジェロの傑作は,アカデミア美術館のダヴィデ,サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリのモーゼ,サン・ピエトロ大聖堂のピエタ,フィレンツェ大聖堂博物館とミラノのスフォルツァ城博物館それぞれの未完のピエタである.


「最後の審判」
 システィーナ礼拝堂に描かれたフレスコ画は,作者も複数で,同時期に完成したものではない.ミケランジェロが担当したのは天井画と正面壁画「最後の審判」で,反対側の壁面にある2つの後補フレスコ画を除けば,「最後の審判」が最も新しい芸術作品と言うことになる.

 この壁画の写真は中学校の歴史の教科書に始まって何度も見ている.それどころか多くの人は小学生の頃には既に何かで見ている可能性がある.モナ・リザがそうであるように,日本でも稀有の西洋絵画であろう.

 この,既に何度も見たという錯覚がそう思わせるのだろうか,この目で実物を観て,その都度感銘を受けながらも,少し時間が経つと何故か遠い存在になってしまう.2006年の時も,2014年の時も,首が痛くなるまで留まって見たが,一旦人込みの礼拝堂から出てしまうと,意識は次に見る芸術作品の方に移って行き,ミケランジェロのフレスコ画の残像はどんどん薄れて行った.

 と言うより,もしかしたら,本やウェブで見た立派な写真のイメージが先にインプットされていて,現実の作品の印象が脳裏に残りにくいというのが本当のところかもしれない.実物はあまりにも巨大で掴みどころがない.前回のヴァティカン見学報告を読み返して,システィーナ礼拝堂については殆ど触れていないの発見し,自分でも驚く.



 今回は,100人を超す日本人がまさに「一堂に会した」とは言え,この礼拝堂の大きさからすれば,いつもの混雑ぶりとは別世界のガラガラに近い空間で,この絵に向き合うことができた.

 ここで教皇選挙も行われ,教皇司式のミサも行われるわけだから,照明設備が整っているのは当然であろう,通常見学の時よりもむしろ明るく,天井も壁も近くに感じられて,一つ一つの絵柄がはっきり確認できた.これを稀有の体験と言わずして何と言おうか.

「天井が近くて良く見えた」,これが今回の貸し切り見学に際して,私が抱いた感想の集約だ.


 せっかくの解説付き見学だが,自分のペースで観ることに集中したかったので,イヤホンガイドはつけていたが,講師の解説にそれほど注意を払っていなかった.しかし,段々と熱がこもり,説得力を増して来たので,耳を傾けだした.その著書も拝読しており,お話したことは一度もないが,大学の先輩にもあたる方で,もちろん尊敬の念を抱いている.だが何と言っても,天下の名画だ.諸説あろうから,講師の先生のご説はここには記さない.

 しかし,現場では相当の迫力と説得力を持っていたことは確かだ.なにせ,本物が目の前にあるわけだから,これ以上の晴れ舞台はないであろう.ただ,残念なことに,仲介者と博物館側の担当者の確認が十分でなかったようで,講師の解説は最高潮の時に中断させられた.

 原則として,ヴァティカン博物館での免許を持たない者の案内,解説は許されていない.これ以上は大目には見られないと言う現場判断だったようだ.あるいは,東洋から来た異人たちが,思ったよりも熱心で,このままだと自分たちの帰宅が遅くなると思ったのかも知れない.

 面識はないけれども,大学の先輩にあたる学識深い講師が,解説を途中でやめさせられたのは残念に思ったが,鑑賞の時間は十分にあり,ゆうに30分は見ていたはずだ.

 普段は,ヴァティカン博物館の他の場所は公開されている限り全て写真OKだが,システィーナは撮影厳禁だ.しかし,今回は撮影を咎められなかった.撮影可と言うよりは,あるいは「おめこぼし」と言うことだったかも知れない.

 保険会社で広報関連の仕事をしたことのある妻はともかく,私の場合は写真を撮っても,たまに良く写ったという程度のものしか残らないが,今回は何と言っても光が良かった.それと周囲にあまり気を使わなくても良いので,落ち着いてシャッターを切ることができたので,思った以上に自分が撮った写真もよく写っていた.

 写真もたくさん撮ったが,なるべく自分の目で観ることを大切にした.今回のシスティーナ拝観は,その両方を可能にする時間的,空間的余裕が確保されていた.

写真:
死者が甦り,祝福され,
天使に導かれて天に昇る
写真:
審判を下すキリストを
ペテロ(鍵を持つ手),
パウロ(右端に顔半分)
バルトロマイ(右手に
刃物を持つ禿頭の人物)
福音史家ヨハネ(金髪の
若い人物:聖母に対応
する位置関係から)
等の聖人たちが囲む


 なるほどミケランジェロは偉大だ.今までもそれを寸毫も疑ったことはないが,このフレスコ画を描き上げた芸術家には「偉大」と言う形容以外は全く考えられない.

 古代末期から若いキリストには,ヘレニズム時代以降に太陽神と同一視されるようになったアポロンの姿が反映しているとよく言われる.「最後の審判」のキリストの顔も確かに,ピオ・クレメンティーノ博物館中庭の「ベルヴェデーレのアポロン」に似ているかも知れないし,背後の光は「ヨハネ伝」の思想だけではなく,太陽神への意識もあるかも知れない.

 しかし,私は学術論文を書くわけではないし,もちろんそのような勉強もしていないので,そうした類比よりも,今回,じっくり観ることができて,写真も撮ることができた,この出会いを大事に思いたい.分野は違うし,一応,学者のはしくれなので,こうした言い方はあまりにも素朴で適切ではないかも知れないが,天才の偉業の前に,学者の些末な独創性はそれほどの意味が無いように思われる.

 とは言え,何がしかの疑問を持たない訳ではない.なぜミケランジェロは筋骨隆々の男女の裸体を多数描いたのだろうか.このうち,「男女」と「多数」はある意味で「最後の審判」の図像の伝統であり,それに関しては,世紀の天才と言えど,特に異を唱えるつもりはなかったと思うが,「筋骨隆々の裸体」には根拠や意図があったのだろうか.

 ヴァザーリの言う通り,オルヴィエート大聖堂のサン・ブリツィオ礼拝堂のルーカ・シニョレッリのフレスコ画の影響を受けたのであれば,そこには筋骨隆々の男女の裸体が描かれているので,まず,それが発想の源であることは考えられる.

 今回,2日後にオルヴィエートに行ったので,僅かな間を置いて両者を見比べることができた.ルーカの絵は個々の人物から細部まで丹念に描けており,醜悪な顔の悪魔まで含めて,均衡のとれた肉体の美しさを保っているのに,ミケランジェロの「最後の審判」では,全体としては圧倒的だが,個々の人物は果たして美しく描かれているだろうか.

 キリストに近いところにいる人物の何人かは,誰であるか特定されている.金銀の鍵を持っているので間違いなくペテロと思われる人物は,審判者キリストと同じくらいか,もしかすると少し大きいのではないかと思われるほどの大きさを与えられている.通常,有髪で描かれる彼が,前頭部にの後頭部に白髪が残るとは言え,禿頭の人物として描かれている.

 おそらく非公開で,少なくとも私は見たことがない,ヴァティカンのパオリーナ礼拝堂のフレスコ画「ペテロの殉教」(1545-50年)の逆さ磔のペテロは,前頭部と後頭部に白髪は残っているが,全体としては禿頭の人物だ.これは「最後の審判」の数年後の作品であり,ミケランジェロのペテロのイメージがかなり固定したものだったことがわかる.

 ペテロの上部にいるパウロとされる人物は,通常は殉教の道具である剣を持った禿頭の人物として描かれるが,ここでは有髪で特にアトリビュートはない.パウロと言うのは,位置と大きさからの推測であろう.キリストを挟んで,ペテロの反対側にいる男性も,大きさから言って重要な人物であろうから,アトリビュートである杖状の十字架はないが,毛皮を身に着けていることもあって洗礼者ヨハネと考えられている.

 ペテロの下方にいる禿頭の男性は顔のモデルはピエトロ・アレティーノと考える人もいるようだが,刃物を持って,明らかに画家自身の自画像を含むと思われる剥がれた皮を持っているので生きたまま皮を剥がれて殉教したバルトロマイと特定できる.

 また紙漉きの道具を持っているのは,ブラシウス,そのすぐ下の女性は壊れた棘付き車輪が足元にあるので,アレクサンドリアの聖カタリナであろうし,その反対側にいるのは格子状の焼き網を持っているのはもちろんラウレンティウスとわかる.

 ブラシウスの顔の向きとか,裸体だったカタリナに後補で衣服が着せられているとか,作者が描いたままでない箇所があるのは,どの参考書にも書いてあることだが,そうした細部の問題を超越して迫ってくる何かがこの作品にはある.こうした効果は筋骨隆々の男女の群像が描かれていることによるものなのだろうか.

 私はルネサンスのフレスコ画ならば,ギルランダイオの完成度の高い美が自分の好みだとはっきり自覚しているし,さらに言えば,フレスコ画ならばルネサンス期の作品よりも,ジョッテスキの作品を見たい.ジョットは別格にしても,最も好きなのはスピネッロ・アレティーノだ.

 しかし,ミケランジェロは次元が違う.彫刻家を天職と考えたこの偉大な芸術家の作品が大画面(今まで観たのと同じ大きさなのだが,特別な環境で観た実感としてそう思う)で迫ってくるのを感じた時,言葉を失った.

 これまでのシスティーナ拝観は,しっかり観ることを放棄していたのかも知れないと思う.3時間以上も雨中の大行列に並んで,古代彫刻やルネサンス,バロックの傑作絵画やラファエロのフレスコ画,現代芸術まで観た後に拝観したり,立錐の余地もないという比喩がそのまま現実という環境での拝観だったりして,とにかく細部にも全体にも心を向ける余裕がなかった.

 細部にもちろん作者の戦略はあるのであろうが,正面に立って,全体を観る幸運に浴した時,ただただ圧倒され,凝視することができるのみだ.革新的であることが天才の条件であるなら,フレスコ画に関して言うなら,スクロヴェーニのジョット,ブランカッチのマザッチョ,システィーナのミケランジェロこそ真に天才の名に値するのであろう.

 古代彫刻の影響については,ベルヴェデーレのアポロン,ベルヴェデーレのトルソ,現在はウフィッツィ美術館にある「娘をかばうニオベ」からインスピレーションを得ているだろう.しかし,古代彫刻の持つ繊細さ,精密さをミケランジェロは,筋骨隆々の肉体に還元してしまう.凡百の画家がやったのであれば,笑止の限りであろうが,世紀の天才の一世一代の偉業ではそれが超克されてしまう.おそらく,人類史上,ミケランジェロだけができたことであろう.

 一体「美」とは何なのか,観る者に根源的な問いを発する作品だ.その非凡さについていけないと思う一方で,こうした鋭角的な作品の持つ力に多くの人は魅かれ続けるだろうとも思う.


「天井画」
 システィーナ礼拝堂の天井画の完成は1512年で,ミケランジェロ37歳,「最後の審判」の完成が1541年で,巨匠は66歳だった.当時としては青年期から中年期に移行する時期に彼は神を老人の姿で描き,自身が老境にあって,彼はキリストをアポロンのように若々しく描いた.

 もちろん,図像プログラムに関しては画家一人では決められないであろうが,この二つのフレスコ画の間に,宗教改革(1517年),ローマ劫略(1524年)があり,時代は大きく動いていた.

 「最後の審判」を最初に依頼したクレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ),パウルス3世(アレッサンドロ・ファルネーゼ)はルネサンスの人文主義を重んじる教皇であったが,完成した後の教皇はパウルス4世(ジョヴァンニ=ピエトロ・カラーファ),ピウス4世(ジョヴァンニ・アンジェロ・メディチ)で,前者はフィリッポ・ネーリの同志,後者はフィレンツェのメディチ家とは別の家系の出身で,カルロ・ボッロメーオの叔父であることからもある程度推測できるように,対抗宗教改革を推進した教皇たちである.

 ピウス4世は1565年まで教皇であり,ミケランジェロの死が1564年であるから,彼はまさに対抗宗教改革の大波を被ったことになる.

 ミケランジェロ存命中に既に,「最後の審判」が裸体群像であり,多くの男性は生殖器を隠していないことに非難が高まっていた.それに対して,天井画はどうだったのだろうか.

 神から生命を授けられるアダム(下の写真)は,男性器が見えているが,これは言ってみれば誕生のシーンだから問題とは考えられなかったのだろう.この場面の神は着衣の姿であり,裸体で尊厳が損なわれる理屈は成立しない.アダムは誕生の場面が一番美しく,その他の場面では美は損なわれていくように思われる.

 アダムの肋骨からのイヴの誕生,蛇の誘惑,楽園追放の場面でもアダムは全裸である.しかし,禁断の木の実を食べて,アダムとイヴは神の前で全裸であることを初めて恥じたのであるから,彼らが追放まで全裸であることにテクスト的な根拠があり,これは非難の対象になる言われは無いだろう.



写真:『創世記』から「アダムの創造」(上),「原罪」(下) 腕を伸ばした大きなポーズ


 「ノアの泥酔」の場面では,ノアも3人の息子たちも性器を隠していない.泥酔したノアは服をはだけて裸になってしまったということだろうが,3人の息子たちまで布を肩にかけただけのほぼ裸体で,性器を露出している.この場面の向かって左側には,遠景として耕作に励む着衣のノアが描かれているので,「最後の審判」の30年近く前から,重要な場面において画家は人間のありのままの姿として全裸の男性像を描きたかったのであろう.

 彫刻でも,さらに若い頃に制作したダヴィデ像は全裸だ.ミケランジェロが見た古代彫刻の範囲は私には分からないが,彼にとって理想に思われたかも知れない「ヴェルヴェデーレのアポロン」は衣を肩に掛けているので全裸ではないが,性器は隠していない.

 ミケランジェロが見ていないアルテミシオンのゼウス(ポセイドンとされることもある)は全裸で,ギリシア彫刻には全裸の男性像は少なくないので,古代的な美の理想から言えば,少なくとも男性に関しては,全裸は恥ずべき姿ではなかったはずだ.

 もちろん,古代でも全裸であるのは,競技会の時とか,体育場(ギリシア語ではギュムナシオンとなるが,語源のギュムノスは「裸の」の意である)で鍛錬に励む時とか,あるいは彫刻で表現される時であるとか,特殊な場合に限られる.



 書架には,未読のまま置いていた,

 若桑みどり『光彩の絵画 ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画の図像解釈学的研究』哲学書房,1993(以下,若桑)
 若山映子『システィーナ礼拝堂天井画』東北大学出版会,2005(以下,若山)

があったので,この報告をまとめるために参照しようと思ったけれども,素人がフォローするには少し上級すぎ,なるほど,学問と言うのは深く,崇高なものだと言う感想を抱く.もう1冊,

 田中英道『ミケランジェロの世界像 システィナ礼拝堂天井画の研究』東北大学出版会,1999(以下,田中)

と言う本をアマゾンの古書で入手した.最近,学風が変わってしまったようにも思えたが,この本は本当に勉強されたことだけを政治的主張などはまじえずに書かれた本なので,ある意味安心して読める.とは言え,大家になってからの気力充実の博士論文なので,私のレヴェルでは通読は,相当時間を要する.上記二書とともに,少しずつ勉強させてもらうと言う感じだ.

 それにしても,若桑の田中説批判に対する田中の反論(pp.116-119)は,特に後半部分が激烈で,そこまで言わなくてもと思ってしまう.頭の良い人たちが良くお勉強しても意見は分かれてしまうほど難しい問題が内包されていると一応,理解しておく.

 しかしながら,若桑も田中も「便宜をはかっていただいた」(若桑,p.402),「宿舎に訪れ歓談したのも今は良き思い出」(田中,p.3)と言いながら,日本テレビ(若桑は「日本テレヴィ」,田中は「NTV」)の担当者だった「青木昭」氏の名前を,二人とも「青木明」としているのは一体どうしたことだろう.


北壁の「モーセ伝」
 ミケランジェロに先立って,フィレンツェ・ルネサンスを代表する画家たちが,この礼拝堂にフレスコ画を描いた.

 ボッティチェリ,ギルランダイオ,コジモ・ロッセッリ,フィレンツェ出身ではないが,コルトーナ出身のルーカ・シニョレッリ,トスカーナの出身でもないが,フィレンツェのヴェロッキオ工房でも活動し,自分でもフィレンツェにも工房を持ったペルジーノ,さらにコジモ・ロッセッリの助手としてピエロ・ディ・コジモ,ペルジーノの助手としてピントリッキオがこの空間で仕事をしたであろう.

 ビアージョ・ダントーニオ・トゥッチ(英語版伊語版ウィキペディア)だけは,よそで作品を見たことがないように思えたが,それ以外は私が好きな画家ばっかりだ.

 最初に拝観した2006年は,ジョットとフラ・アンジェリコの区別すらついていない頃だったので,さすがにボッティチェリは知っていたが,この礼拝堂にフィレンツェの画家たちが作品を描いていたことも知らず,知っていたとしてもさほどの興味も抱かなかった.罰当たりな話だ.

 ビアージョ・ダントーニオの作品は,昨年8月にリヨン美術館で「聖母子と洗礼者ヨハネ」と言うテンペラの祭壇画を観ている.なるほど,フィレンツェ・ルネサンスの画家だ.

 二度目の拝観は2014年,フィレンツェ滞在が終わって,既に丸6年以上が過ぎ,それなりに知識も増え,ミケランジェロよりもむしろ,これらの画家たちの作品を確認したいと思っていた.そう思っていたのだが,いざシスティーナに入れば,主役は圧倒的にミケランジェロである.

 この時は,事前に現地ガイドの方が,中庭にある案内板の大きな絵を使いながら,一つ一つの作品を解説してくれたのに,結局,天井画と「最後の審判」以外は,どうしても意識に入ってこなかった.自分が好きな画家たちのフレスコ画であるにもかかわらず,ミケランジェロの傑作を凝視する時間を削って,これらの作品の鑑賞に充てる有意の理由が見つからなかった.

 三度目となる今回はどうだったろうか.時間がたっぷりあることは分かっていた.私はこれらのフレスコ画の写真を誰もいない環境で観て,写真を撮りたいと思って,講師の解説をよそに,まっすぐ「最後の審判」の反対側の壁面の方に急いだ.その壁面にギルランダイオの「キリストの復活と昇天」があると思っていたからだ.

 とても巨匠ギルランダイオの作品とは思えない,その絵にまずがっかりすることから,今回のシスティーナ体験は始まった.

 現存の「キリストの復活と昇天」はギルランダイオの作品ではない.15世紀末に描かれたギルランダイオの同主題作品とルーカ・シニョレッリ「モーセの亡骸を奪い合う天使と悪魔」は1522年に壁が崩落して失われ,1570年代初頭に前者はヘンドリック・ファン・デン・ブルック,後者はマッテーオ・ダ・レッチェによって新たに同主題で描かれたものとされる(松浦,p.34).

 マッテーオは現在のプーリア州レッチェ県のアレツィオで生まれ,ペルーのリマで亡くなった.ローマにいた時にミケランジェロの助手となり,「最後の審判」を手伝ったようだ.その縁で,ルーカの喪われた絵と同主題のフレスコ画を描くことになったのだろう.私たちはセビリアの大聖堂で,コロンブスの棺の傍に描かれた「聖クリストフォルス」を見ている.

 と言った訳で,出だしは少し躓いたが,壁面のフレスコ画は全てじっくり観ることができ,写真も撮れたので,ともかく幾つかの作品についてコメントする.以下,各壁画全体の名称は松浦の訳語に拠るが,画中の諸場面の名称は参考書を参照しながら,自分で名付けた.

 「最後の審判」に向かって右手(北壁)は「モーセ伝」の連作,左手は「キリスト伝」の連作が並ぶ.もともとは8つずつ壁画があったようだが,現存しているのは,それぞれ6つである.この12のフレスコ画の中から,6人の作者について1作品ずつ紹介する.

写真:
ボッティチェリ
「モーセの試練」(部分)


 「モーセの試練」と向かい側にある「キリストの誘惑」は,ともにボッティチェリの作品で,それぞれ付されているラテン語の銘文に拠れば,「試練」も「誘惑」もどちらも,テンプターティオー(英語のtemptation)とされている.

 語順は少しずつ違えているが,モーセもキリストも「法の伝達者」(ラートル・レーギス)とされ,「法」にはモーセの場合「書かれた」(スクリープトゥス),キリストの場合は「福音の」(エウアンゲリクス)がそれぞれ女性形の格変化した形で付されている.「法」は常に「伝達者」にかかる属格形であるから,修飾語もそれぞれ女性・単数・属格でスクリープタエ,エウアンゲリカエとなっている.

 「モーセの試練」には,「エジプト人を殺すモーセ」,「モーセの逃亡」,「祭司エトロの娘たちのために羊飼いを追い払うモーセ」,「娘たちの羊に水を飲ませるモーセ」,「(エトロの娘ツィポラとの結婚後に)羊の世話をするモーセ」,「燃える柴の中から神の声を聞くモーセ」,「(神の命従い)妻子を連れてエジプトに戻るモーセ」の7つの場面が描かれており,上の写真には,3番目,4番目,5番目と,7番目の一部が写っている.

 最重要なのは「燃える柴」の場面のはずだが,壁画の向かって左上端に描かれ,中央は3番目の場面が描かれている.エトロの7人の娘たちのうち2人しか描かれていないが,美しい絵だ.娘たちの衣と,羊と井戸に用いられた白が目を惹く.

 対になっている「キリストの誘惑」においても,中心主題は上方の遠景に描かれ,中央に描かれた別の場面の祭司の豪華な上着から垣間見える白い衣,美少年の助祭の全身を覆う白い祭服,彼らの奥に見える祭壇は白が目を惹き,他のポイントでも輝く白色が効果的に用いられている.

 図像プログラムの全体的な意図などは,松浦から学ばねばならないが,松浦が言うように「キリストの誘惑」の真の主題が,彼の重要なパトロンであったメディチ家とシスティーナ礼拝堂装飾の注文主シクストゥス4世と,後に教皇ユリウス2世となるが当時は枢機卿ジュリアーノが属するデッラ・ローヴェレ家,それぞれが代表しているフィレンツェと教皇庁の和解であれば(pp.77-102),それと対になっている「モーセの試練」にも重要な意味が付されていて,これは全く私の個人的見解だが,白色の効果にも意味はあるように思われる.

 ボッティチェリの力作と言えよう.彼はこの2壁画の他に,「モーセへの反逆」,「シクストゥス2世」を描いている.前者は中央の凱旋門が印象に残る.おそらく現在まで残っているコンスタンティヌスの凱旋門を実際に見て,それをモデルにしたのであろう.動的で力強い絵だ.

 多分ミケランジェロ以外で,この礼拝堂で最もその実力を発揮したのはボッティチェリであろう.ボッティチェリよりギルランダイオが好きな私もそれを認めざるを得ないように思う.

写真:
ビアージョ・ダアントーニオ・
トゥッチ(とコジモ・ロッセッリ)
「紅海の渡渉」(部分)


 モーセがユダヤ人を率いて紅海を渡る場面と言えば,映画「十戒」(1956年)の特撮シーンを思い出す人も少なくないだろう.チャールトン・ヘストン演ずるモーセが杖を上げると,紅海が二つに分かれて道ができ,ユダヤ人たちはそこを渡って行く.追手のエジプト軍が続こうとすると大波が襲い掛かり,もとの海に戻るというクライマックスだ.

 デミル監督による制作年には私はまだ生まれていないが,中学生の時に,今は無き高田公友館で見たし,TVでは何度もこのシーンを見ている.現在はDVDも持っているが,持っているという安心感からか,十年くらい前に授業で一度そのシーンを見せただけで,大人になってからは全篇を見ていない.

 夢に見そうな迫力を持った映画のシーンに比べ,上の写真の絵は緊迫感に欠けるように思えるが,渡渉後のモーセたちが,エジプト軍兵士たちが溺れる様を見ているのはよくわかり,何の場面かは容易に理解できる.

 松浦(p.51)に拠れば,上の写真の(向かって)右下の白馬に跨って天に叫んでいる人物がファラオとのことだ.ファラオはエジプト王を指す普通名詞であり,「出エジプト記」にもファラオとあるだけで固有名詞はないように思う.

 映画「十戒」ではファラオはユル・ブリンナー演ずるラムセス2世であったが,この人物が紅海で溺死してしまっては歴史が変わってしまう.映画ではラムセスは死ななかったと思うが,紅海で大波を被ったかどうかは記憶にない.

 ファラオの全軍を水が覆い(14章28節),「エジプト人が海辺で死んでいる」のをイスラエル人たちは見た(30節)と「出エジプト記」にはあるが,ファラオが死んだかどうかまでは書いていない.水谷は後注(p.238)で,この絵の手本としてサンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂の初期キリスト教時代のモザイクと14世紀後半の彩色写本を挙げている.

写真:
ルーカ・シニョレッリ
「モーセの遺言」(部分)


 ルーカ・シニョレッリは,ヴァザーリの大叔父にあたる親族で,ヴァザーリの「ルーカ・シニョレッリ伝」(邦訳『続ルネサンス画人伝』,pp.191-197)は,画家としての力量に関しても,人格,見識に関しても称賛の言葉に満ちていて,少し気恥ずかしい.

 「ピントリッキオ伝」や「コジモ・ロッセッリ伝」を読むと,ヴァザーリには好き嫌いがあり,好意を持てない画家に関しては,厳しい批評をしていることがわかるので,ルーカは偉大な画家であり,自分にとっても好きな芸術家だと思いながらも,多少の違和感を覚える.

 システィーナで2面を担当したことはヴァザーリも報告しているが,もう一面の「モーセの亡骸を奪い合う天使と悪魔」は壁面の崩落によって,マッテーオ・ダ・レッチェの絵に置き換えらている.したがって,現存するルーカの絵は「モーセの遺言」のみである.

 オルヴィエート大聖堂のサン・ブリツィオ礼拝堂のフレスコ画の制作年代は1499年から1502年だが,上の写真のフレスコ画は他の画家たちの作品と同じく1482年に完成しているので,システィーナのフレスコ画の方が先だ.

 この絵の中の裸体の成人は上の写真の左下の人物だけだが,筋骨たくましい男性で,サン・ブリツィオのフレスコ画よりも20年くらい前の作品だが,やはり筋骨たくましい男性像は彼の若い頃からの特徴であったことがわかる.

 それにしてもシスティーナに唯一残るルーカの絵は思った以上に美しい作品で,特にその華やかな色彩は,皮肉にもヴァザーリがどうやら嫌いだったらしいピントリッキオの作品かと思うほどだが,裸体男性のすぐ右の着衣の人物の腰から脚の造形は,ルーカが他の作品で描いた男性の後ろ姿に共通する特徴があるように思え,じっくり観ればルーカの作品と納得が行くだろう.

 ルーカが描いたシスティーナのフレスコ画を初めて意識して観ることができたが,これはルネサンス絵画を体現した作品で,ヴァザーリには怒られるかも知れないが,私にはやはりピントリッキオとの類似性も感じられる.ともかく美しい絵だ.


キリスト伝(南壁)
 松浦に拠れば,下の写真の壁画は,「キリスト伝」の第4番目にあたり,2つ上の写真の「モーセ伝」の第4壁画「紅海の渡渉」に対応している.

 「予型論」(タイポロジー)と言う考え方がある.「旧約聖書」で述べられたことは,「新約聖書」に語られていることに対応している,あるいは,それは予示していると言う考え方だ.例えば,システィーナの天井画に描かれている,旧約聖書の中の預言者の一人ヨナは魚の腹中から生還するが,それは埋葬されたキリストが復活することを予示しているとされる.

 もちろん,それは新約を奉ずるキリスト教徒の立場からの考えで,キリスト教の旧約に相当する文書群のみを聖典としていた人々には与り知らぬ後付けの考えであろう.

写真:
ギルランダイオ
「使徒の召命」(部分)


 通常の予型論では「紅海の渡渉」は「キリストの洗礼」と対応するものとされる(松浦,p.66)が,システィーナ礼拝堂において,「紅海の渡渉」と「使徒の召命」が対応関係にあるとされるのは,向かい側の壁に描かれているからだけではなく,ラテン語で描き込まれた「題名」にも拠るであろう.

 自分が撮って来た写真でも確認したが,松浦を読むまで気づいていなかった,その「題目」は,

 紅海の渡渉:CONGREGATIO・POPVLI・A・MOISE・LEGEM・SCRIPTAM・ACCEPTVRI
 使徒の召命:CONGREGATIO・POPVLI・LEGEM・EVANGELICAM・ACCEPTVRI

で,明らかに対応関係にある.松浦はそれぞれ,「契約の法を受け入れた人々のモーセへの集い」,「福音の法を受け入れた人々の(キリストへの)集い」と解釈して,「法を受け入れた人々の集い」が,2つの壁画の共通テーマとしている.基本的に,これは有益な示唆であるが,ラテン語の解釈に関しては若干の異議がある.

 ACCEPTVRI(アッケプトゥーリー)は未来分詞なので,「~を受け入れるであろう(人々の)」と解釈されるべきである.特に「紅海の渡渉」では,まだ「契約の法(書かれた法・・SCRIPTAEは完了分詞なので「書かれた」)」は,まだ人々だけではなくモーセにも提示されていないので,この時点で「受け入れた」と言う事実はあり得ない.

 また,A・MOISEは「モーセから」は意味しうるが,「モーセへの」と言う場合には,AD・MOISEMもしくはIN・MOISEMとなるはずで,ここでは「(後に)モーセから(示された)(神によって)書かれた(刻まれた)法(掟)を受け入れるであろう人々の集い」と解釈されるべきである.

 「受け入れるであろう」は「使徒の召命」も同じだが,こちらの場合は,もしルネサンスのラテン語の用法に,未来分詞を完了の意味に取る習慣があるのであれば,「受け入れた」と言う解釈も可能かもしれない.それでも未来分詞は能動,完了分詞は受動(自動詞の場合は完了の能動)と言う文法上の壁はある.

 この雑文にもし読者がいるのであれば,第一線の研究者の卓見に対して,瑕瑾を見つけて揚げ足を取っているように思われるかも知れないが,ラテン語と言う言語はルネサンス時代にまだ,諸民族の共通言語の役割を果たしており,特に当時はカトリック教会では公用語の扱いであった.ラテン語を正確に読むことは,私たちにはもともと無理なことであっても,初等文法のレヴェルで不可能な解釈は,おそらくルネサンス・ラテン語の用法としても不可能であろう.この場合,図像解釈の点でも「受け入れた」と「受け入れるであろう」では根本的な違いがあるように思われる.

 この解釈をした人はラテン語読解力が必須であろうルネサンス美術研究のトップランナーであるから,古典ラテン語を学び続けている人間としては納得し難い解釈だが,それでもなお,私の方が間違っている可能性もあるだろうし,美術史と西洋古典学では日本では社会的影響力に圧倒的な差があるので,相対的なことであるが松浦の解釈の方が,受け入れられるであろう.

 私が好きなギルランダイオの作品に関して,絵以外のことを語ってしまったが,この絵の端整さには見惚れる.しかし,システィーナ礼拝堂では,残念ながら,ミケランジェロのインパクトの方が圧倒的だ.個人的な好みとしては,ギルランダイオの方が好きな私も,システィーナ礼拝堂では,少年の頃ギルランダイオ工房にいて,そこを飛び出たミケランジェロの作品に心を奪われ,ギルランダイオたちの作品をじっくり見つめることはできない.

写真:
ペルジーノ
「聖ペテロへの天国の
鍵の授与」(部分)


 ペルジーノの絵が現代的視点から見て傑作かどうかは議論があるだろう.しかし,私たちはミラノのブレラ美術館にあるラファエロの「聖母の婚約」とこの絵の構図がよく似ていることを知っている.ラファエロがペルジーノ弟子だったのか,協力者だったのかはわからないにしても,若い頃のラファエロがペルジーノの影響を受けた作品を描いていたことは間違いない.

 ペルジーノの影響を脱して,レオナルド,ミケランジェロの影響を取り込みながら,ラファエロは巨匠になって行った.

 この絵はペルジーノの作品としては相当に上質な作品であると思われる.システィーナ礼拝堂の仕事ではイニシアチブを取っていたのはボッティチェリだったとヴァザーリは言っている(邦訳『ルネサンス画人伝』白水社,1982,p.122)が,ペルジーノも上の写真の絵の他に「キリストの誕生」,「キリストの洗礼」,「モーセの発見」,「聖母被昇天」を描いたことが述べられている.

 ところが,「聖ペテロへの天国の鍵の授与」に関しては,バルトロメオ・デッラ・ガッタが協力したとしている(邦訳『続ルネサンス画人伝』白水社,1995,p.176).この情報は松浦等,他の参考書には見られない.

 また,「聖母被昇天」はミケランジェロが「最後の審判」を描くときに破壊されたと語られているが,「キリスト誕生」,「モーセの発見」もその際に破却されて,現存しない.システィーナに残るペルジーノの作品は,「聖ペテロへの天国の鍵の授与」,「キリストの洗礼」,それとヴァザーリに言及のない「モーセの息子の割礼」の3作と言うことになる.

 「キリストの洗礼」と「モーセの息子の割礼」が対応する作品(松浦,pp.60-62)で,「聖ペテロへの天国の鍵の授与」に対応するのは,ボッティチェリ「モーセへの反逆」ということになる(松浦,pp.69-72).

写真:
コジモ・ロッセッリ
「最後の晩餐」(部分)


 ロッセッリはフィレンツェで出会って好きになった画家の一人だが,作品の出来不出来の差が激しく,決して上手な画家とは思えない.ネーリ・ディ・ビッチの工房の出身とされるので,そのせいで,あるいは才能に比して十分な技量や独創性が育たなかったのかも知れない.

 しかし,この時代にフィレンツェを代表する画家としてシスティーナ礼拝堂の壁画装飾に呼ばれたのだ.当時は一流の画家と考えられていたのであろう.コジモの作品を10点以上は見ているが,どれが最高傑作かはわからない.暫定的にフィレンツェのサンタンブロージョ教会のフレスコ画「秘跡の奇跡」であろうと思っている.

 背後の3場面に,向かって左から「ゲッセマネの祈り」,「キリストの捕縛」,「キリスト磔刑」が描かれている.フィレンツェのフォリーニョ旧修道院食堂のペルジーノ工房作品とされるフレスコ画の「最後の晩餐」の背景は「ゲッセマネの祈り」だが,ペルジーノ工房作品は1493年から96年の作品とされる(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート)なので,コジモの作品の方が十年以上古い.

 この「最後の晩餐」は修復のせいか,とても鮮明に見えるが,フィレンツェで観られる一連の修道院食堂「最後の晩餐」に比べると,やや劣るように思われる.しかし,念願かなってこの作品をじっくり鑑賞することができたのは,相当に嬉しい.

 フィレンツェ滞在以来,「最後の晩餐」を相当数見たが,ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂のモザイク,システィーナ礼拝堂のコジモ・ロッセッリのフレスコ画はいつか見たいと思い続けていた作品で,この2年間に続けて実見することができて,満足している.もちろん最高傑作はレオナルドの「最後の晩餐」であることに異論はないが,それでも,やはり一人一人の作者の個性には今後も魅力感じ続けるだろう.

 「最後の晩餐」と「受胎告知」は生きている間に少しでも多くの作品を見たいと思わせる主題だ.

 日本語訳が無いので,エヴリマンズ・ライブラリー版の英訳でヴァザーリの「コジモ・ロッセッリ伝」を読んでみた.コジモはシスティーナで三面の壁画を担当したとしている.「紅海でのファラオの溺死」,「ティベリアス湖畔でのキリストの説教」,「最後の晩餐」としている.

 2番目の作品は松浦では「山上の垂訓」となっており,ティベリアスは第2代皇帝ティベリウスを記念して命名されたガリラヤ湖畔の都市名なので,ティベリアス湖はガリラヤ湖と同じで,この絵は松浦の言う「山上の垂訓」を指すものと考えて良いだろう.

 「紅海でのファラオの溺死」は当然,「紅海の渡渉」を指すであろうが,松浦では作者とされるビアージョ・ダントーニオへの言及は無い.また,現在では「モーセ伝」の中の「石板の授与」はコジモの作品とされているが,これに関してはヴァザーリは少なくともコジモ伝では言及していない.

 ヴァザーリはシスティナ礼拝堂の「最後の晩餐」に関しては,テーブルが天井の八角形型に対応する形になっていることを指摘し,冷静に分析する一方で,コジモにも注文主の教皇にも名誉になるとは思えない逸話を紹介している.

 教皇がシスティーナで共作する画家たちに,最も優れた作品に褒美を出すと言った時に,コジモは自分の作品の創造性や構図上の弱点を意識していたので,ウルトラマリンや金などの贅沢な顔料をたくさん使うことで,芸術に疎い教皇の目を惹き,褒美を勝ち得たというものである.その際の,他の画家たちのコジモへの失笑や教皇への失望にも言及している.

 この「哀れな画家たち」がギルランダイオやボッティチェリ,ペルジーノを指すのかどうかは,ヴァザーリはこの件に関しては明言していないのでわからない.ただ,コジモがシスティーナに呼ばれた時,一緒に呼ばれたのは,サンドロ・ボッティチェリ,ドメニコ・ギルランダイオ,サン・クレメンテ修道院長,ルーカ・ダ・コルトーナ,ピエロ・ペルジーノであると言っている.

 この最後の2人はルーカ・シニョレッリ,ピエトロ・ペルジーノであることはすぐにわかるが,サン・クレメンテ修道院長が,私たちがバルトロメオ・デッラ・ガッタと言っている人物であることに気付くまでは少し時間がかかる.

 現在,バルトロメオがシスティーナでどこを担当したのかの情報はない.ヴァザーリに「サン・クレメンテ修道院長ドン・バルトロメオ伝」があり,日本語訳はないので英訳を参照したが,そもそも,ここにもシスティーナで仕事をしたと言う情報は無かったように思う.

写真:
撮影できると分かって
解説に耳を傾けながら
カメラを向ける


 こんなことがあるとは全く思っていなかったが,システィーナ礼拝堂を100人超とは言え,普段に比べれば,信じられないくらいの少人数の環境で見ることができ,おそらく「黙認」ではあろうが,写真も撮らせてもらえた.

 若桑は最初のイタリア留学の1961年,数十分,この礼拝堂の床に寝転んで天井を眺めたが,その日,礼拝堂にいたのは彼女一人だったと言っている.現在57歳の私が3歳の時の神話の時代の話だ.

 これほどの体験は一生のうちに何度もないであろう.これだけじっくり観ることがことができると,今後,天井画の「アダムの創造」か,祭壇壁面の「審判のキリスト」が夢に現れるかも知れない.

 自分の好みで言わせてもらえば,システィーナ礼拝堂に作品を遺した画家では,ギルランダイオ,コジモ・ロッセッリ,ルーカ・シニョレッリ,ペルジーノ,ボッティチェリで,その次にミケランジェロは来る.それにも関わらず,この礼拝堂の主役は,議論の余地もなくミケランジェロである.

 私如きが今更言うまでもないが,ミケランジェロは古今に冠絶する偉大な芸術家である.しかし,ミケランジェロのような世紀の天才の大作だけを観ていては人生はしんどい.

 ヴィターレ・ダ・ボローニャは,その時代には評価された画家だったし,現在もゴシック後期のボローニャを代表する巨匠と考えられている.この小品をミケランジェロの天井画や「最後の審判」と比べる必要はないし,「聖母子」が主題とあって,彼独特の荒々しいエネルギーは影を潜め,綺麗にまとまりすぎているようにも思うが,金地板絵のこの絵(下の写真)を観て幸せを感じる気持ちを今後も大事にしたい.



 さすがにシスティーナ礼拝堂について何か書くには多少の勉強が必要だと思ったのと,論文の締め切りがあったので,しばらく時間が開いてしまった.参考書を理解するのもなかなか難しく,結局日本語で書いてあっても,上で言及できたものは少ない.忸怩たるものはあるが,先に進みたいので,今回はここまでとする.






ヴィターレ・ダ・ボローニャ
目力のある「聖母子」