フィレンツェだより番外篇
2016年6月20日



 




国立タルクィニア博物館
ヴィテッレスキ宮殿



§2016 ラツィオ・ウンブリアの旅 - その5 エトルリアのネクロポリス

全貌どころか,その一端をも理解するに至っていないが,エトルリアの遺産に魅せられ続けてしばらくになる.


 ヴァティカン美術館の貸切見学というビッグ・イヴェントが組み込まれていたとはいえ,今回のツァーの主題のひとつは「エトルリアの遺産」であることは間違いない.これに関する最大の見どころが観光2日目に用意されていた.チェルヴェテリ(チェルヴェーテリ)とタルクィニア(タルクィーニア)の観光だ.

 これまでも諸方でエトルリアの遺産を観てきたが,繋がりを意識して考えたことがあまりなかったように思うので,感銘深い作品についてクロノロジカルに整理しておく.

 ブッケロ陶器  前7世紀から前4世紀
 キージのオルぺ  前640年頃
 フランソワの壺(英語版伊語版ウィキペディア)  前570-560年頃
 ヴェイオのアポロン(英語版伊語版ウィキペディア)とヘラクレス  前510-490年頃
 カエレの夫婦の棺  前6世紀後半
 ピルジの薄板(英語版伊語版ウィキペディア)  前6世紀末
 ピルジの「テバイ攻めの七将  前470-460年頃
 フィレンツェ大聖堂博物館の墓碑石柱の浅浮彫  前5世紀
 パレルモ州立博物館の石棺と墓碑石柱の浅浮彫  前5世紀
 バッラッコ博物館の墓碑石柱の浅浮彫  前5世紀
 アレッツォのキマイラ(英語版伊語版ウィキペディア)  前5世紀
 カピトリーノの牝狼(英語版伊語版ウィキペディア)  前5世紀?※
 フィコローニの青銅製祭具入れ容器  紀元前4世紀
 ヴォルテッラの「夕陽の影」(英語版伊語版ウィキペディア)  前3世紀
 フィレンツェとヴォルテッラの骨灰棺  前2世紀頃
 ヴォルテッラの夫婦の骨灰棺  前2-1世紀

※英語版ウィキペディアは,紀元後11-12世紀の作と典拠を示して断定している(2016年6月19日参照).伊語版にはそれは反映されていない.日本語版「カピトリーノ美術館」も「エトルリア,前5世紀」としている.

 こうして見ると,エトルリアの遺産と言っても随分長い時期に渡っていることがわかる.しかも既にローマの影響下,支配下に入っていたであろう時代のものも少なくないことがわかり,ますます「エトルリア」が遠い存在に感じられる.

 それでも,チェルヴェテリとタルクィニアではネクロポリスを見学し,国立タルクィニア博物館で様々なエトルリアの遺産を見た後,ペルージャでも城門,考古学博物館を見学できたので,今回は非専門家が観光で見るものとしては,かなり充実した鑑賞ができたと思う.

 今回の経験を,自分の勉強に活かすために,以下の本を参照した.

 三輪福松『エトルリアの芸術』中央公論美術出版,1968(以下,三輪)
 池田正三『エトルリア芸術の逍遥』大阪芸術大学出版局,1980(以下,池田)
 ジャン=ポール・テュイリエ,松田廸子(訳)『エトルリア文明』大阪,創元社,1994(以下,テュイリエ)
 アネッテ・ラッチェ,大森寿美子(訳)『エトルリア文明 700年の歴史と文化』東大阪,遊タイム社,2001(以下,ラッチェ)
 M・パロッティーノ/S.シュタイングレーバー/F.ロンカッリ/C.ヴェーバー・レーマン/青柳正規/L・ヴラッド・ボレッリ,青柳正規/大槻泉/新喜久子(訳)『エトルリアの壁画』岩波書店,1985(以下,『壁画』)

 今回は歴史を詳述した本と欧文の参考書は基本的に参照していない(下記の案内書など一部参考にしているが,煩瑣なので言及しないことにする).


チェルヴェテリ
 チェルヴェテリ(英語版伊語版ウィキペディア)は,古代にはラテン語でカエレという町(英語版ウィキペディア/伊語版は「チェルヴェテリ」の項目で言及,2016年6月11日参照)だった.カエレはエトルリア語ではカイスラで,別名のキスラをイタリア語式にチスラと言うことも少なくない.

 中世に集団移住があり,そちらをカエレ・ノウス(新カエレ)と称し,それに対しても元のカエレはカエレ・ウェトゥス(古いカエレ)と称され,それが今のチェルヴェテリの名の元となった.

 カエレはCaereという綴りなので,古代末期以後二重母音が従来通り発音されずカエがケになればイタリア語風のチェになるのは歴史的経緯として予想される範囲内であり,ウェトゥス(古い)vetusは,対格言う前置詞に支配される格がウェテレムveteremであり,一定の音韻変化を経てヴェテリになるのも,容易に推測される.

 新カエレは現在はチェーリ(英語版伊語版ウィキペディア)と言う名で,コムーネ(基礎自治体)であるチェルヴェテリに属する集落(フラツィオーネ)となっている.

写真:
墳墓の周りを掘り下げて
通路が造られている

バンディタッチャの
ネクロポリス


 私たちが見学したネクロポリス(死者の町)のある地域をバンディタッチャ(英語版は「Cerveteri」の項で言及/伊語版ウィキペディア)と言う.禁猟区(バンディタ)に由来すると伊語版ウィキペディアの説明にはあるが,現地ガイドさん(エトルリア考古学を学ばれたイタリア在住の日本人女性)の説明は違うもので,説得力があったが,記憶が曖昧なのでここには記さない.

 日本語で「土饅頭」と言えば,やはりある種の墓を意味するが,バンディタッチャの墳墓群は,まさに土饅頭と言うような塚が数えきれない程(実際は数えられてはいると思うが)ある.

 カエレはエトルリアを代表するほど繁栄した都市であったが,この後に見学したタルクィニアのネクロポリスと比較すると,バンディタッチャのネクロポリスはフレスコ画も残っておらず,地味な感じは免れない.しかし,この異界感に満ちた雰囲気は捨て難いものがある.

 現地ガイドさんの案内で,実際に幾つかの墓室に入った.撮ってきた説明板の名前で確認すると,内部も見学した墓は,「柱頭の墓」,「浮彫の墓」,「カパンナ(小屋)の墓」,「ドーリ(甕)の墓」,「ヴァーズィ・グレーチ(ギリシア壺)の墓」,「寝台(レッティ)と石棺(サルコーファギ)の墓」,「カゼッタ(小さな家)の墓」,「メンガレッリの塚」である.

 規模は様々だが,どの墓も家族墓なので,遺体を横たえる石棺を置いたのであろう石造の寝台が一つの塚に複数あり,部屋のような区切りもある.ローマのヴィラ・ジュリア博物館に展示されている「夫婦の棺」(英語版伊語版ウィキペディア)も19世紀にチェルヴェテリで発掘された.

 伊語版ウィキペディア「バンディタッチャのネクロポリス」に幾つかの墓の名前が挙げられており,個別に立項されているのは「浮彫の墓」(トンバ・デイ・リリエーヴィ)のみだが,この表には年代が示され,脚注が外部ページにリンクされており,イタリア語のみだが,そこで入り口と墓室の写真と平面図,簡略な解説が見られる.

写真:
「浮彫の墓」
浅い仕切りの間に
1体ずつ置かれる
前4世紀末~前3世紀


 上の写真は「浮彫の墓」の内部を入り口のガラス越しに撮ったものだ.今回見られた墓の中で最も新しいこの墓は,特に稀少性が高いので入室できない.狭い階段を並んで地下に降り,2,3枚写真を撮るとすぐに後ろの人と交代したので,ピントが合ったものは1枚も無かったが,様子が伝わればと思い,載せておく.

 遺物の多くは博物館に運ばれたのであろう,残っているものはないが,入り口には風化したライオンの石像が一体あり,内部には彩色の残る浮彫装飾がある.鍋釜の類や農具など日常生活に使われる道具の浮彫であるところが,かえって稀少な感じがする.しかも,よくできている.

 『壁画』にはそれぞれの浮彫が何であるかが詳細に説明されているが,これだけ見事に彫り込まれたものでも,不明なものが少なくないようだ.上の写真では見ることはできないが,柱の写真に写っていない面に,「鵞鳥」,「蜥蜴を咥えた山猫」,「鼠を咥えた貂」な動物の浮彫もある.

 上の写真の左側のズームで撮影した浮彫は,左側が「台風」の語源になったかも知れないテュフォン(テューポーン),右側が地獄の番犬ケルベロスと三輪は述べており(p.69),『壁画』でも後者は同様であるが,前者に関しては,「手に蛇と櫂を持ち下半身が蛇の有鬚の魔人」(p.270)としている.『壁画』が「櫂」としている持ち物を三輪は「刀」としている.また現地にあった入り口の説明板は前者をギリシア神話の怪物スキュレとしている.

 上の写真では朧げにしかわからないが,それぞれの柱の柱頭が「アイオリス式」と言う形になっている.両側に渦巻き模様があるのはよく知られているイオニア式と同じだが,間にパルメット(椰子もしくは棕櫚の葉の図案)文様があるのが特徴とされる.

 「柱頭の墓」(トンバ・デリ・カピテッリ)については,伊語版ウィキペディア「バンディタッチャのネクロポリス」に,「軒蛇腹の墓」(トンバ・デッラ・コルニーチェ),「カパンナの墓」,「ヴァーズィ・グレーチの墓」とともに写真が掲載されており,同じ写真は英語版ウィキペディアの「チェルヴェテリ」にも掲載されている.

 現地の説明板(伊英併記)に拠れば,「柱頭の墓」はドロモス(ギリシア語で「通路」)と言う墓室内通路と,2つの小さな脇部屋と大きな主室から成っていて,さらに奥には3つの部屋があるのが特徴で,主室にある多角形の柱2本の柱頭がやはり「アイオリス式」であるとされている.

 撮ってきた写真で見る限り,確かに間に植物文様があるが,両脇の渦巻きは小ぶりなものが二重もしくは三重になっていて,そう言われなければ「アイオリス式」と認知するのは難しい.

 エトルリア建築と言えば,ローマに影響を与えたアーチ工法が知られるが,「柱頭の墓」でそれぞれの墓室の入り口は真っ直ぐな楣石を頂いている.現地では気づかなかったが,撮ってきた写真でみると,この墓の入り口の説明板の下にも,風化した石造のライオンのようなものが置かれていたようだ.

 以下,実際に入室した墓について簡単に紹介する.

 「カパンナの墓」はチェルヴェテリ最古の大型集合墓で,当時の藁屋根の家を模した形になっていることからこの名がついたとのことである.出土した副葬品の陶器の形などから前7世紀の第1四半世紀に遡る.

 「ドーリの墓」は11個の赤い甕が出土したことにその名が由来するが,ラテン語で「甕」を意味する中性名詞ドーリウムがイタリア語式にドーリオと言う男性名詞になり,その複数形であろうと想像する.伊和辞典には登録がない.前7世紀後半の墓とのことだ.

 「ヴァーズィ・グレーチの墓」は,前室の奥に3つの墓室があり,そこに至る通路の両脇にも小部屋がある.説明板に拠れば,チェルヴェテリのネクロポリスで最も典型的な構造とのことだ.この墓の通称は,ここで主としてギリシアから輸入された何百もの壺が発見されたことに由来し,,さらに近東やエジプトからの品物も副葬品とされていたようだ.

 ここで発掘されたギリシア陶器はローマのヴィラ・ジュリア博物館で見ることができる.その中にはアテネの有名な陶器作者ニコステネスに関係づけられるものもあるようだ.ニコステネスは前6世紀後半に活躍した黒絵式陶器の作家なので,この墓もその時代のものであろうか.

 「寝台と石棺の墓」には,確かに大きな石棺が少なくとも二つはあったことが撮ってきた写真で確認できる.ただし,この墓は説明板の写真を撮っていないので,ブックショップで買った案内書,

 Rita Papi, Cerveteri: Necropoli della Banditacci Sito UNESCO, n.p, n.d.

の写真と照らし合わせて,この墓であろうと推測しているだけである.

 「カゼッタの墓」は,短い通路から玄関広間に至り,そこから三方に墓室が一つずつあり,通路の正面の墓室はさらに奥の墓室に繋がっている.説明板の平面図で見ると玄関広間を中心に3つの墓室と入り口からの通路が十字型に交差する形になっており,ユニークなもののようだ.

 それぞれの部屋を隔てる壁の出入り口は方形だが,その上部に半円形の装飾があり,アーチを意識しているように思われ,さらにその両脇に長方形の窓が付されている.この壁の出入り口の形は,「寝台と石棺の墓」にも見られる.

 「メンガレッリの塚」は発掘者ラニエーロ・メンガレッリの名にちなんでいる.一旦,塚の上部まで上り,そこにある冥界の入り口のような石積みの入り口から階段を降りて,地下墓室に向かう.通路の両側に脇部屋があり,円形の玄関広間の左右に墓室があり,奥に2つ連なった墓室がある.その1つ目の墓室に,緩やかな屋根型天井を支えるかのような破風型の石の梁の下に方形の太い2本の柱があって,当時もしくは前時代の住居の構造を想像させる.

 これらの墓は,凝灰岩を刳り抜いた構築物であり,実際の住居とは違うわけだが,幾つかの居室を備えた「家」を思わせる構造に,チェルヴェテリの墓の特徴があるのだろう.「浮彫の墓」以外に,特に目を見張るような装飾が残っていた訳ではないが,随分,熱心に観たように思う.エトルリア人の来世の存在と死後の安息を希求する執念に私たちも取り込まれたのかも知れない.


タルクィニア
 下の写真の石は墓標に見えるが,中に骨壺を保管する納骨容器のようだ.男性の納骨容器は男性器を表現した形になっており,女性の納骨容器は女性器もしくは子宮を意味する家型になっているとされる.手前の柵に近い2番目の容器が家型に見える.

写真:
モンテロッツィのネクロポリス
柵に囲まれた納骨容器

中央の屋根付きの建物は
フレスコ画のある墓の入り口


 この納骨容器が緑の丘に並んでいる風景から,タルクィニアにあるモンテロッツィ(英語版伊語版ウィキペディア)のネクロポリス見学は始まった.イタリア語ではウルナ(urna),英語ではアーン(urn)と言う名称になる.火葬の習慣の産物である.この種の納骨容器は,チェルヴェテリにあるバンディタッチャのネクロポリスでも蓋は無かったが幾つか見かけた.

 私たちがたくさん見てきた骨灰棺と称している,蓋に人物像のある納骨箱(やはりイタリア語ではurna,英語ではurn)も,その大きさから考えると,火葬後の骨(と場合によっては残った灰)を収めたものと思われるので,エトルリアは遺体を火葬にするのだと思っていた.

 その一方,ローマのヴィラ・ジュリア博物館にあるテラコッタの「夫婦の棺」が本当に棺であるとすれば,その大きさから考えて,土葬もあったのだろうとは予想していた.

 今回,チェルヴェテリとタルクィニアでネクロポリスを見ることができ,これらの墓は土葬のための墓であることを確信した.おそらく石棺を乗せたであろう,石の寝台状の構築物をチェルヴェテリで多数見た.「寝台と石棺の墓」では,そこに残る石棺も見た.

 このモンテロッツィのネクロポリス見学に先立って,古代都市とは場所を異にするとは言え,中世から現在まで続くタルクィニアの町に行き,ヴィテッレスキ宮殿の国立タルクィニア博物館で多くの石棺を見たが,それらは,この墓室群にあったものと思われる.

 タルクィニアとチェルヴェテリのネクロポリスの大きな違いは,前者には色鮮やかなフレスコ画が描かれていることであろう.

 下記で,それぞれのフレスコ画の年代を確認しているが,概ね紀元前6世紀から前5世紀の作品で,「浮彫の墓」を除くチェルヴェテリの墓室群に比べると,少し新しい.それでも,壁画で有名な高松塚古墳は7世紀末から8世紀初頭,キトラ古墳もほぼ同時代であることを考えると,それよりほぼ1000年以上古い.

写真:
「豹の墓」
(壁面上部に向かい合う豹)
紀元前470年頃


 「豹の墓」(英語版伊語版ウィキペディア)のフレスコ画は,最も有名なエトルリア芸術の一つであろう.多くの案内書に写真が掲載されているので,目にしたことがある人も多いだろうし,実物を見た人も少なからずいるだろう.

 もちろん,私は今回初めて観た.ガラス越しに遠くから見るし,複数の人が狭い階段で待機しているので,自分だけ心行くまで鑑賞すると言うわけには行かないが,仮に,自分一人だったとしても,心行くまでの鑑賞は難しいだろう.

写真:
内部を見学するには
かなりの深さまで
降りていく


 「狩りと漁の墓」(伊語版ウィキペディアは立項がない.2116年6月19日参照)も「豹の墓」と並ぶ有名な墓だ.こちらの方が推定年代が古い.下の写真のフレスコ画は前室の奥にある部屋の壁面に描かれたもので,階段下の鉄扉に嵌め込まれたガラス越しに,前室の出入り口の向こうに見える部分だけを鑑賞するので,現場で一定の感想を持つことは難しい.

 かろうじて写った写真を拡大したり,『壁画』その他に掲載された写真を見,解説を読んで,ようやく絵柄を理解し,感想を持つに至る.

 船の左端には,ギリシアでもよく知られている魔除けの目玉が描かれ,その上にいる人物は糸を海に垂らしているように見える.「釣り」かと思ったが,『壁画』に拠れば,垂らしているのは網とのことだ.船上の右端の人物は櫂を操って(『壁画』は「舵をとる」)おり,画面右端の岩の人物は紐を両手で伸ばしており,これはおそらく投石紐で,鳥めがけて石の飛ばしていると思われる.

 鳥を狙っている人物もいるので,あるいはそれで海に落ちた鳥を集めているのかも知れないが,基本的には,鳥が集まるところに必ずやいるであろう魚を獲ろうとする漁師が船に乗っているのであろう.上の写真に写っていないが,右の壁面には銛を投げ込む男,左壁面には岸壁から海に飛び込む男が描かれている.

写真:
「狩りと漁の墓」
紀元前6世紀後半


 正面の天井真下の三角破風の部分には,中央に華美な服装の女性と杯を手にした男性が向かい合う姿が描かれ,主人と向かい合う女性は,雰囲気から行ってもギリシアのような遊女ではなく,女主人であり,したがって中央の男女は夫婦であろうと思われる.

 両脇には召使たちがいて,アウロス(二管笛)を吹く人物(『壁画』では女性)や,女主人も手にしている環飾りを編んでいる女性もいる.召使や奴隷がいるわけだから,現代が理想とする平等な社会ではないが,宴席に家族の女性が男性と対等に連なっている様子は,エトルリアにおける女性の地位の高さを示すであろう.

 それにしても,墓の壁画とは言え,多く描かれている宴席の様子は,明るく享楽的で,エトルリアの経済的繁栄を偲ばせる.死後もそのように暮らしたいと言う率直な願望の表れであろう.

写真:
「カロンたちの墓」
紀元前275-250年頃


 「カロンたちの墓」(英語版ウィキペディアは立項がない.2116年6月19日参照)には,華やかな色彩の服装をしたカロンたちが描かれている.エトルリア語ではカルンと言うようだが,明らかに冥界の河の渡し守であるギリシア神話のカロン(カローン)から来ているだろう.

 あるいは,冥界に通じているかも知れない扉の両側にいるカロンたちの頭上に文字が見えるが,何と書かれているのかは,もちろん私にはわからないし,『壁画』はそれぞれのカロンの名前が記してあるとするのみである.

 伊語版ウィキペディアは前275年から250年頃の作品としているが,『壁画』は前3世紀末から前2世紀初頭としている.

 モンテロッツィのネクロポリスで,実際に階段を降り,ガラス越しに観ることでき,ピントはあっていなくても写真を撮ることができた墓室としては,他に「5326番の墓」,「バッコス信者たちの墓」(独語版のみ)(前510-500年頃)),「鹿狩りの墓」(前450年頃),「カルダレッリの墓」(前510-500年頃)がある.「バッコス信者たちの墓」の入り口には,「1990年に住友金属が修復資金を援助した」と言う金属プレートがあった.

 有名な墓室では「オルクス(冥神)の墓」(英語版伊語版ウィキペディア)(前4世紀),「雌獅子の墓」(英語版に立項無し)(前520年),「牡牛の墓」(英語版伊語版ウィキペディア)(前530年),「鳥占師の墓」(英語版伊語版ウィキペディア)(前540-530年頃),「クラウディオ・ベッティーニの墓」(英語版に立項無し)(前5世紀),「鞭打ちの墓」(英語版独語版ウィキペディア)(伊語版には立項無し)(前490年頃)),「蓮の花の墓」(独語版のみ)(前520年頃),「軽業師の墓」(独語版のみ)(前510年頃)),「狩人の墓」(独語版のみ)(前510-500年頃),「ゴルゴネイオンの墓」( 前4世紀,第1四半期)は観ていない.

 このうち,「雌獅子の墓」,「鞭打ちの墓」,「蓮の花の墓」,「軽業師の墓」,「猟師の墓」,「ゴルゴネイオンの墓」は入り口までは行き,説明板の写真は撮った.日によって開いている墓とそうでない墓があるのは,管理,保存上やむを得ないであろう.私たちも時間の限られた中で,鑑賞する範囲には限界があった.

 他に,タルクィニア考古学博物館で「二頭立て馬車の墓」(前490年頃),「オリュンピア競技の墓」(前510年頃),「横臥食卓(トリクリニウム)の墓」(英語版独語版ウィキペディア)(伊語版に立項無し)(前470年頃),「船の墓」(前5世紀末)のオリジナルのフレスコ画を剥離,移転した再現墓を観ることができた.


国立タルクィニア博物館
 かつて墓室にあった石棺については,タルクィニア博物館で相当数見ることができた.フィレンツェやヴォルテッラで観ることができた骨灰棺は火葬した骨を収めていたが,こちらは土葬の遺体を納めた大きな棺で,正面に浮彫が施され,蓋の部分には横たわった人物の丸彫りに近い彫刻が施されている.

 その彫刻が女性である場合には類型化された理想的容姿に思われ,個性を感じさせないが,数少ない男性の場合には,具体的な名前まで分かり,美しいとは思えない要素も隠さず,個性が写実性を伴って表現されているように思われる.

写真:
石棺に囲まれて

国立タルクィニア博物館


 博物館で観ることができた石棺には,浮彫の部分に彩色が残っているものもあり,そもそも石棺に直接絵が描かれているものもあった.案内書を確認すると,フィレンツェの考古学博物館にもあったようだが,撮ってきた写真にも記憶にもなく,私としては絵の描かれた,あるいは浮彫に鮮やかな彩色の残っている石棺を初めて見たような気がしている.

 上の写真にも一部写っているが,エトルリア文字が刻まれているのも興味深い.ただ,これについては,他にも積み残しの課題が多くあるので,今のところ,これを学んでまで解読しようと言う意欲は湧いてこない.

写真:
有翼の魔神のいる石板


 有翼の人物が浮彫されている石棺があり,これが人々を死者の国に導く魔神のような存在であるらしいことは非常に興味深い.これについては今後勉強してみたい.三輪も紹介している「ラリス・プレナスの石棺」にもその魔神は彫り込まれている.また,この石棺は実在の人物のほぼ丸彫りの写実的な彫刻を蓋の部分に置いているのも興味深い.

 取り敢えず,今回は石棺ではなく,用途不明の石灰火山岩の石板を紹介するにとどめる.パターン化された帯状装飾で区切られた場面に,左の列の上段は木を担ぐケンタウロス,下段は犠牲に供される捕虜,中列上段は豹のようなネコ科の猛獣,下段は有翼の魔神,右の列上段はヤギのような角の生えた動物,下段は左上段と同じケンタウロス,最下部は左右対称で,向かいあうスフィンクスの左右に騎馬の人物,有翼の猛獣,左端は欠けているが,右端には人間の女性の立ち姿があるので,左端にもあったのであろう.

 捕虜が彫り込まれているのは,ギリシアの『イリアス』,ローマの『アエネイス』でも味方の戦死者を弔うのに,捕虜を犠牲にする習慣が語られており,エトルリアにもあったようなので,死者の冥福を祈る一方で,まだまだ野蛮な風習も当然のことと考えられた時代のものと想像される.

 三輪は「オリエント風のモティーフの低浮彫り」とし,様式的にはギリシアのペロポネソス地方のアルカイック時代の青銅装飾を受け継いでいるとしている(pp. 78-79).

写真:
有翼の馬
「女王の祭壇」の装飾
前4世紀末


 テラコッタの高浮彫(テラコッタだから「彫る」訳ではないと思うが)の有翼馬はタルクィニア博物館の展示の目玉であろう.これは,感動した.見られたかどうかが人生に大きな意味を持つような芸術作品は確かに存在し,この馬は多分,そうした芸術作品の一つだと思う.ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂博物館の馬に匹敵する.

 私たちのエトルリア体験は,2007年にフィレンツェ歌劇場(テアトロ・コムナーレ)のロビーで骨灰棺(池田は「納骨櫃」)の浮彫「ポリュネイケスとエテオクレスの相打ち」を観たことに始まる.マッジョの70周年を記念し,「神話と現代」というテーマで実施された一連の企画のひとつとして考古学博物館から貸し出しを受けて展示されたもので,この企画で,私たちは「オルフェーオとエウリディーチェ」,「アンティゴネ」,「ラ・ダフネ」,「リング」といった神話をモチーフにしたオペラを見ている.

 この石棺を見たすぐ後にフィレンツェ考古学博物館に行き,複数の骨灰棺を観て,たちまちその魅力の虜になったが,エトルリアなのになぜギリシア神話なのか考えても見なかった.

 考古学博物館にはエジプトの遺産も少なくなかったので,ギリシア陶器がたくさんあっても,近代のコレクションくらいにしか思わなかった.実際,エジプトの遺産は近代のコレクションだが,ギリシア陶器はトスカナ地方で発見されたもので,輸入品も現地生産品もあろうが,ギリシア陶器を好んだエトルリア人の遺産である.

 エトルリア人は政治的には対立したギリシア人の文化を好み,彼らが遺した芸術の多くにはその好みが反映している.

 そして,確かにギリシアの影響は深いように思われるが,エトルリアの遺産は間違いなくギリシアの遺産とは異なる強い個性を持っている.それが何なのかは今後の課題だが,ギリシアやオリエントの文化的影響無くしては,エトルリア芸術が存在しなかった以上に,エトルリアの文化,文明無くして,ローマの文化や文明も無かったであろう.

 残りの人生でどれだけエトルリアの遺産を見て,なおかつそれを理解するための知識を積み重ねられるかどうかわからないが,ともかくエトルリアは魅力的であり,今後も興味を持ち続けることは間違いないだろう.






やがて集合住宅のような墓も造られた
バンディタッチャのネクロポリス
前6世紀末