フィレンツェだより番外篇
2016年7月14日



 




ブッケロ陶器 紀元前6世紀後半
国立考古学博物館 ペルージャ



§2016 ラツィオ・ウンブリアの旅 - その7 ペルージャ

これでペルージャ(英語版伊語版ウィキペディア)は2回目,最初の訪問は2007年10月末だから,9年ぶりだ.2007年の時はフィレンツェから日帰りの遠足だったが,今回は途中,アッシジの遠足を挟み,ペルージャの旧市街にある宿に2泊したので,少し腰を落ち着けた観光ができた.


 時間が限られていた前回は,ペルジーノにフォーカスして見どころを絞り,まず国立ウンブリア美術館(英語版伊語版ウィキペディア)で相当点数のペルジーノ作品を観て,両替商組合でも工房のおそらく総力を挙げた壁画群を鑑賞した.

 その際,ペルジーノの先人,弟子,後進が形成したウンブリア派山脈を形成する画家たちを知ったことは予想外の収穫だった.ベネデット・カポラーリ,ベネデット・ボンフィーリ,フィオレンツォ・ディ・ロレンツォ,ジョヴァンニ=バッティスタ・カポラーリらの作品は忘れ難い.

 今回も美術館では前回と同じような感想を抱いたが,不思議なのは,これらの画家たちは美術館で観た時は,傑作を量産した芸術家に思えたのに,ウェブ上の写真や画集で見ると,残念なことに一流になり切れなかった人々に思えてしまうことだ.

 こうした作品は,できるならば,もともと飾られていた教会や邸宅で見ること,それが無理なら,せめて美術館で実物を見ることが大事なのだと思う.

 今回,多くの美術館,博物館,教会で写真撮影可だったので,国立ウンブリア美術館も期待したのだが,残念ながら,ここは前回同様,撮影は厳禁だった.


大聖堂
 ペルージャに着くと,まず大聖堂(英語版伊語版ウィキペディア)に向かったが,葬儀が行われていたので,予定を変更して,先に国立美術館を見学してからの拝観となった.

 大聖堂は化粧漆喰やレンガ,もしくは化粧大理石などの外壁装飾のほとんど無い,そっけない外観をしている.下の写真では小さくて分かりにくいが,鐘楼の下方にある開廊(ロッジャ)の右の方に,シエナの聖ベルナルディーノが説教を行った説教壇がついていて,その周辺にかろうじて,白とピンクの大理石による菱形外壁装飾がなされているくらいだろう.

 町の中心である11月4日広場に面したこの側面を側面ファサードと言うようだ.入口の右側に説教壇,左側にはヴィンチェンツォ・ダンティ(英語版伊語版ウィキペディア)作の教皇ユリウス3世(英語版伊語版ウィキペディア)像があり,手前の長い階段にはいつも多くの若者たちが座っている.

 ダンティより,多分,遥かに偉大な彫刻家の作品がそのすぐ前にある.ゴシック期の巨匠,二コラ・とジョヴァンニのピザーノ親子の共作とされるフォンターナ・マッジョーレ(英語版伊語版ウィキペディア)である.今回はじっくり観る余裕がなかったので,コメントは控える.

写真:
ペルージャの大聖堂
側面ファサード
手前にピザーノ親子の
噴水


 ダンティの作品は,フィレンツェの洗礼堂,大聖堂博物館,バルジェッロ博物館で見られるので,私はずっとフィレンツェ出身の芸術家と思い込んでいたが,実はペルージャで生まれ,ペルージャで亡くなった「地元の芸術家」だった.

 貴金属細工師だった父の工房で修業し,ローマでミケランジェロとダニエーレ・ダ・ヴォルテッラの助手を務めた.ユリウス3世の像を制作したのが1555年なので,巨匠ミケランジェロの余命はまだ9年あった.1557年からフィレンツェで仕事をするようになり,71年には本拠地をフィレンツェに移したが,75年にペルージャに帰り,翌年死去した.

 チェッリーニ,バンディネッリ,アンマンーナーティ,ジャンボローニャなどの大彫刻家が綺羅,星の如くであったコジモ1世治下のフィレンツェに相当数の作品を遺したので,ダンティもまずまずの評価を得た芸術家と言って良いだろう.技術者,建築家としての仕事もあったようだが,具体的には調べていない.

 側面の窓は尖頭型で三つ葉装飾のあるゴシック風である.1300年に構想され.1345年に着工,完成(外観は未完)は1490年,英語版,伊語版ウィキペディアのデータが間違っていなければ,献堂は1587年とのことだ.構想から着工まで30年,着工から完成まで145年は納得が行くとしても,完成から献堂まで100年近い歳月を要したのはなぜだろうか.

写真:
フェデリコ・バロッチ
「キリスト降架」


 ペルージャ大聖堂について,案内書などで紹介されることが多いのが,大聖堂博物館にあるルーカ・シニョレッリの「聖母子と聖人たち」と,大聖堂の堂内にあるフェデリコ・バロッチの「キリスト降架」だ.ルーカの作品は前回観ることができ,傑作だと思ったが,バロッチの「キリスト降架」はあまり記憶に残っていない.

 というのも,この絵があるサン・ベルナルディーノ礼拝堂は鉄格子で囲まれているうえ,何しろ暗い.2007年当時も大聖堂は写真を撮らせてもらえたのに,この絵の撮影は断念せざるを得なかった.上の写真は今回,鉄格子の隙間から撮った.やはり相当暗かったが,コンデジの性能があがったおかげで,このくらいの写真は撮れた.

 この作品は伊語版ウィキペディアに単独で立項されており,1567年から69年に描かれたとされている.日本語ウィキペディア「1567年」に拠れば,松永弾正と三好三人衆が東大寺の大仏殿を焼いたとあり,徳川家康が松平から改姓し,伊達政宗が生まれたとある.日本の年号で言うと永禄10年にあたる.織田信長もようやく美濃の斎藤氏を倒す年で,まだ天下の覇者にはなっていない.69年も日本はまだまだ戦国時代である.

 そのような年にこの絵が描かれたということは,イタリアと日本では文化が全く異なっていたということを感じるのみである.

 バロッチにしては,少し筆致が固い感じがし,さらに,それぞれの人物の動きがぎこちないように思えるが,描いた時期の流行などの影響があるかも知れないし,何と言ってもこの大きな絵をバロッチの華やかに色彩で見られたのだから,満足した.

 バロッチの大きな油彩画は,ウフィッツィ美術館で通称「民衆の聖母」,ボローニャの市立芸術コレクションで「キリスト哀悼」を見ている.ミラノ大聖堂の「大聖堂の扉に皇帝テオドシウスを迎える聖アンブロシウス」も相当の大きさだったかも知れない.

 ペルージャ周辺ではアッシジのサンタ・マリーア・デリ・アンジェリ聖堂(英語版伊語版ウィキペディア)にバロッチの「受胎告知」があるようだ.この絵は,写真で見てよく知っているが,まさか自分が一度拝観した教会にあったとは,返す返すも見逃して残念だ.

 この作品はヴァティカン絵画館の「受胎告知」によく似た作品に思える.ヴァティカンの作品は10年程早い(1582-84年)時期に描かれ,もともとは画家の保護者だったウルビーノ公爵フランチェスコ・デッラ・ローヴェレの寄進でロレート大聖堂の礼拝堂を飾っていたが,フランス軍の略奪にありしばらくパリにあって,イタリアに返還され,現在はヴァティカン絵画館所蔵とのことだ.

 一方,アッシジの作品は, 描かれてからずっとサンタ・マリーア・デリ・アンジェリ聖堂のコーリ=ポンターニ礼拝堂にあるようだ.ローマでも多くの仕事をしたバロッチの作品が,教皇領だったペルージャ周辺に作品があるのは,ある意味で当然であろう.


国立ウンブリア美術館
 前述のように大聖堂では葬儀が行われていたので,先に美術館を皆さんと一緒に鑑賞したが,半券で再入場できると言うことなので,大聖堂拝観後の自由時間に,再び美術館に戻った.

 美術館では,やはりフラ・アンジェリコ「サン・ドメニコ祭壇画」(1438年),ピエロ・デッラ・フランチェスカ「サンタントーニオ祭壇画」(1460-70年頃)が素晴らしかったし,ゴッツォリの「サピエンツァ・ヌオーヴァ祭壇画」も,それら二者には遠く及ばないが,華やかな絵で,じっくり観ることができた.

 ヴァザーリには嫌われ,現代も必ずしも評価が高いとは言えないピントリッキオだが,彼の「サンタ・マリーア・デイ・フォッシ祭壇画」は,私は何度見ても(まだ,2度目だが)美しいと思う.やはり,ルネサンスの一流の画家と考えるべきだろう.

 ペルジーノの全報酬からかなりの割合で取り分をもらった助手だったとされるピントリッキオは,ラファエロの先輩でもある.むしろ若年のラファエロが構想その他を提供したことが指摘されているが,だとしても,それを実作に活かせるだけの画力があったからだろうと私は思う.

 この後に行ったスペッロ他で,ピントリッキオの複数の絵に出会うことができ,改めて彼の作品の特徴を確認することができた.確かに,緻密に描き込まれていても躍動感や感情表現には欠けるかも知れない.しかし,聖母やキリストの美しさは特筆に値すると思う.

写真:
ジョヴァンニ=バッティスタ
・カポラーリ「慈悲の聖母」

サンテルコラーノ通り
「慈悲の聖母の救済院」外壁


 いずれにしても,ウンブリア派の画家たちの作品も,それ以外の画家たちの作品も写真に収めることはできなかった.代わりに,翌日の午後,アッシジから戻って来た後の自由時間にサンテルコラーノ通りで偶然見たジョヴァンニ=バッティスタ・カポラーリ作とされるフレスコ画の写真を紹介しておく.


エトルリア門
 前回のペルージャ訪問で見逃したものは多かったが,エトルリアの遺産として知られる,通称エトルリア門(英語版伊語版ウィキペディア)こと「アウグストゥス門」(ポルタ・アウグスタ)を見なかったのは殊に残念だった.今回念願かなって,観ることができた.

写真:
エトルリア門


 建造は紀元前3世紀後半と言うことなので,エトルリアの最盛期は過ぎ,既にローマの支配下と言うのが言い過ぎであれば,少なくとも影響下に置かれていた時期であろう.

 エトルリアは第2次ポエニ戦争(ハンニバル戦争)(前218-201)年では,ローマを支援したが,紀元前41年から40年のペルシア(=ペルージャ)戦争で,後のアウグストゥスであるオクタウィアヌス・カエサルに敵対したルキウス・アントニウス(マルクス・アントニウスの弟)側につき,敗北した際に徹底的な破壊を蒙った.

 現在の門はオクタウィアヌスによる再建であり,写真左上の開廊(ロッジャ)は16世紀に付け加えられたものであるが,全体として原型をとどめており,エトルリア建築の貴重な作例とされている.思った以上に大きいので,「見た」という充足感を味わうことができた.

 残る課題は,ヴォルテッラで見損ねた(これはあることは知っていたが,バスの時間が迫っていた)エトルリア門を見ることだろう.


市内の教会
 ペルージャの2日目は午前中アッシジに行き,ペルージャに戻った後が自由時間だった.その主な使い道は国立ウンブリア考古学博物館の見学と決めていたが,その行き帰りに幾つかの教会を見ることができた.

 まず,最初にラファエロが描き始め,その没後にペルジーノが完成させたフレスコ画もあるサン・セヴェーロ教会に行った.

 教会自体は開いていなかったが,同名のサン・セヴェーロ礼拝堂の部分は拝観料を取って公開されているので,フレスコ画は観ることができた.両巨匠の最良の作品とは言えず,再見,三見の意欲は掻き立てないが,ともかく観ることができて良かった.

写真:
ジョヴァンニ・アンドレーア
・カルローネ
「聖パウロの生涯」
サンテルコラーノ教会


 ジョヴァンニ=バッティスタ・カポラーリのフレスコ画があるサンテルコラーノ通りの坂道を下ると,城砦の櫓のようなサンテルコラーノ教会にたどり着く.

 名前の由来となった聖人は聖ヘルクラヌス(英語版伊語版ウィキペディア)で,ペルージャの司教であったが,テオドリック大王から数えて7人目の東ゴート王トティラがペルージャを占領した際に殺された(549年)とされる.東ゴート族が同じキリスト教徒でも,アリウス派だからであろうか.殉教聖人ともされている.

 この聖人のアトリビュートは司教の服装,司教杖,殉教の棕櫚ということだが,これだけでこの聖人だけを識別するのはほとんど不可能だ.国立ウンブリア美術館とリヨン美術館が所蔵する,ペルジーノが描いた聖人の絵が伊語版ウィキペディアに載っているが,リヨンの絵では,ペルージャの市章であるランパンのグリフィンの旗を持っているので,ペルージャの司教聖人であろうと推測可能かも知れない.

 私たちはこの2枚の絵をそれぞれ現地の美術館で観ているが,もちろん説明を読むまで分からなかったし,そもそもペルージャとその周辺以外の人で,ペルージャの市章の見分けがつく人がいるかどうかも疑問だ.

 ペルージャの守護聖人として,ミラノの聖アンブロシウスのような位置づけかと思ったが,最初のペルージャ司教でやはり殉教聖人の聖コンスタンティウス(サン・コスタンツォ)もペルージャの守護聖人であり,また,職階は助祭に過ぎないとは言え,聖人としてはより大物である聖ラウレンティウスもペルージャの守護聖人とされているので,“ミラノと言えばアンブロシウス”,“パドヴァと言えばアントニウス”というのと同じほど,地名と結びついた存在感はないかも知れない.

 教会の建築は13世紀末から始まったようだが,本格的な改築が17世紀になされ,堂内の装飾は新しい.町の守護聖人ヘルクラヌスの教会なので,天井画は「聖ヘルクラヌスの栄光」と言うような絵柄かと思ったが,ジェノヴァ出身の画家ジョヴァンニ・アンドレーア・カルローネが描いた「聖パウロの生涯」とのことだ.上の写真のリュネット部分には,確かに落馬する人物が見えるので「パウロの回心」の絵であろう.

 私はこの画家のことは知らなかったが,17世紀に活躍した画家で,そもそも父のジョヴァンニ=バッティスタを始め,多くの芸術家が輩出したスイスのイタリア語圏ティチーノ州を本貫とする一族の出身のようだ.興味深いが,先に進まないので,これに関しては他日を期す.


サン・ドメニコ聖堂
 前回,この教会を拝観しているが,秋の夕方で暗かったのと,マリオット・ディ・ナルドが下絵を描いたステンド・グラスが修復中だったこともあり,好意的な感想を述べていない.「この教会のがらんとした堂内を見ていると,教会自体が大きく往時の繁栄を思わせるだけに,何か寂しいものがある」とまで言っている.

 確かに,大きな建物の中は「がらんとした」感じはあるが,今回は同じ夕方でも春で,まだ日も高かったし,前回帰りの電車に間に合うためのバスの時間が迫っていて気が急いていたのに比べると,宿に歩いて帰れば良いだけなので,気持ちにも余裕があったせいか,壁に相当残っているフレスコ画を始め,思ったよりも見るべきものがあるのに気づいた.

 今回は前回修復中だったステンド・グラスもしっかり見て,写真も比較的良く写った.

 堂内は確かに新しく改築されているが,設計はバロックの巨匠の一人カルロ・マデルノ(英語版伊語版ウィキペディア)なので,実は良くできているのだと思う.外観はジョヴァンニ・ピザーノ(英語版伊語版ウィキペディア)の設計とも伝えられており,それがまずまず説得力を持って受け取られるようにゴシック期の堂々たる姿を保っている.

 堂内の形式はハッレンキルヒェ(伊語版独語版ウィキペディア)という型であるらしい.これはドイツ語で,ハッレは英語のホールで広間,キルヒェは英語のチャーチで教会という意味だ.伊語版ウィキペディアではHallenkircheと言うドイツ語の形のまま立項されている(イタリア語ではキエーザ・ア・サーラと言うらしい)が,英語版はhall churchで立項している.驚くべきことに日本語版でも「ハレンキルヘ」で立項されている.翻訳調で少し読みにくい(2016年7月10日参照)がもちろん参考にはなる.

 伊語版,独語版,英語版の全てに同じ図が掲載されており,同じく広間型でも,バジリカ式の場合は身廊と側廊の高さが違うのに,ハッレンキルヒェでは同じ高さになるようだ.独語版ウィキペディアにこのタイプの教会のリストがあるが,イタリアの教会は少なくて,そのうちで私たちが見たのは,アッシジのサン・ルフィーノ教会とサン・ピエトロ教会,ペルージャ大聖堂,ウーディネ大聖堂のみで,ペルージャのサン・ドメニコは挙げられていない.

写真:
教皇ベネディクトゥス11世の
墓碑(14世紀初頭)


 この写真の墓に葬られている教皇ベネディクトゥス11世(英語版伊語版ウィキペディア)は,トレヴィーゾもしくは現在トレヴィーゾ県に属しているヴァルドッビアデーネの生まれなので,ヴェネト地方出身だ.ドメニコ会に入り,その総長にもなり,1303年に教皇に選出され,1304年にペルージャで亡くなった.

 前任者のボニファティウス8世が,高校の世界史の教科書にも登場する「アナーニ事件」(1303年)で,フランス国王フィリップ4世の影響を受けた者たちに幽閉され「憤死」※したため,枢機卿二コラ(ニッコロ)・ボッカッシオ(ボッカッシーノ/ボッカッシーニ)が教皇に選出され,ベネディクトゥス11世となった.(※これについて,常々疑問に思っていたが,日本語版ウィキペディア「ボニファティウス8世」の説明が合理的である.このサイトは読みやすく,詳細で,勉強になる.)

 後任のクレメンス5世は現在の国名で言えばフランス人で,彼によって教皇庁がアヴィニョンに移され,フランス国王の強い影響を受けるようになった.

 こうした激動の時代に教皇となり,わずか8か月で用務先のペルージャで亡くなったので,毒殺説もあるそうだ.現在,福者に列せられているが,列福は1736年,当時の教皇クレメンス12世に拠るもので,ずっと後世のことだ.

 墓碑の制作者の情報はないが,上の写真でもわかるように中々見事なものだ.英語版ウィキペディアには制作はアルノルフォ・ディ・カンビオの弟子かも知れないとあるが,それを信じたくなる.アルノルフォはローマでも活躍したので,ペルージャが教皇領に属していたことを考えれば可能性が無いと言えない.

 これらのことからもわかるように,ペルージャのサン・ドメニコ聖堂は私が最初の拝観で「新しい教会」と感じたにも関わらず,中世に起源を持つ教会であり,堂内は確かにバロック期の改築が施されているが,よく見ると,中世,ルネサンスの遺産も少なくない.

 ドメニコ会の教会だけに,殉教者ペテロが襲われる場面のフレスコ画もあり,古拙だが鮮明な状態で残っている.フレスコ画は断片も含め興味深かったが,高い天井や,遠い壁にあって,写真はうまく撮れておらず,全体を把握するに至っていない.残念だが,これも今後の課題だ.

 この教会にはかつてジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの「聖母子」,フラ・アンジェリコの「サン・ドメニコ祭壇画」があったが,両者とも現在は国立ウンブリア美術館にある.バロックの巨匠ジョヴァンニ・ランフランコの「聖ドメニコとシエナの聖カタリナの間の聖母子」があったので写真に収めたが,ランフランコの作品としては傑作とは言えない.

 堂内に残る,フレスコ画,祭壇画の写真は残念ながらウィキメディア・コモンズでも見られない(2016年7月11日参照)が,ウンブリア州の見どころを紹介したウェブ・ページの中に,サン・ドメニコ聖堂の簡潔だが網羅的な情報があり,小さいけれどもかなりの点数の写真が載せられている.この聖堂の堂内の紹介ページに一応リンクしておく.


国立考古学博物館
 国立ウンブリア考古学博物はサン・ドメニコ聖堂の横手にあるドメニコ会の旧修道院の建物を利用している.基本的に原始時代からローマ時代までの発掘品が揃っているが,場所柄,エトルリアの遺産の宝庫と言える収蔵,展示が特徴と言えよう.

 旧修道院の回廊に並べられている骨灰棺(ウルナ)群の浮彫を見ることから見学は始まったが,フィレンツェやヴォルテッラの考古学博物館で見られなかった(見落としただけかもしれない)「イピゲネイアの犠牲」から始まり,「海獣の背に乗る有翼の女精霊」,「復讐の女神たちに悩まされるオレステス」,「ミノタウロスの誕生の際に妃パシパエ剣を振り上げて怒るミノス王」,「アタマス王の狂乱」,「舵棒を振り上げてオデュッセウス一行と争う女怪スキュラ」,「ケンタウロスたちとの戦い」,「オイノマオスの死」,「アマゾン族との戦い」,「巨人族との戦い」など,主としてギリシア神話を題材にしたものが目白押しで,いきなり我を失って,時間を忘れて写真に収めた(一番下の写真).

 「ポリュネイケスとエテオクレスの相討ち」,「カリュドンの怒り」など他でも見た図柄もあったが,ヴォルテッラで印象に残った「帆柱の縛り付けらてセイレンたちの誘惑に耐えるオデュッセウス」は見なかったように思う.

 回廊には他にもラテン語碑文も少なからず置かれていて,エトルリアの遺産だけがあったわけではないし,骨灰棺の殆どは前2世紀のものとされるので,ペルージャ周辺が既にローマの支配下に入っていた時代のものだ.

 回廊に面した部屋にも展示があって,「アマゾン族との戦い」などの見事な浮彫が施された,紀元後ローマ時代の石棺などが見られた.

 写真を撮りながら回廊を一周し,2階(イタリア式では1階)に上がる階段の前にあった券売所で入場料を払って2階に上がり,係員に入場券を見せて,回廊の2階部分に進んだ.ここにも無数にも思える骨灰棺と墓標(ラテン語でキップス,イタリア語でチッポ)を見た.

 墓標にはエトルリア文字が刻まれたものもあり,骨灰棺の蓋は屋根型のものも,おなじみの寝そべって杯を持つ女性や男性の姿の彫刻になっているものもあった.浮彫の中には「化粧するペネロペイアを見つめるオデュッセウス」(円錐形のピロス帽でオデュッセウスと分かる)と言う,めずらしく平和な図柄を観ることできた.

 室内に入ると,今までもフィレンツェ,パレルモ,ローマでキウージ出土の同種のものを観てきたが,前6世紀に遡る,いかにもエトルリア風(人物の手が盆踊りのような動き)の浅浮彫が施された石棺や墓碑や,エトルリア文字が刻まれた有名な石碑,コリント式,黒絵式,赤絵式のギリシア陶器,青銅製の彫刻や器具,テラコッタの建物装飾,など多種多様な展示が待っていた.

 これほど展示の幅が広いとは予想していなかったので,心の準備が足りなかったし,点数も多かったので,写真撮影にかなりのエネルギーを使ってしまったが,しっかり心づもりさえしていれば,多くのものが得られる場所ではないかと思う.

 時間は,3時間,せめて1時間半は欲しいし,次の予定に余裕を持って見学したい.古代に興味のある人は,一度は訪れるべき博物館であろう.


写真:「イピゲネイアの犠牲」の浮彫のある骨灰棺2点
    カクニの墳墓(ペルージャ市内エルチェ地区)出土 (前3世紀から前2世紀)


 展示の最後の方に,壁に複数のバナーや説明パネルがあって目をひく部屋があった.中に展示されていたのは,カクニの墳墓と言う2003年に発見された古代遺跡から出土した遺物の数々だった.

 その中には,回廊で複数観ることができた「イピゲネイアの犠牲」も2つあった(上の写真).他にも「オイノマオスの死」,「海馬に乗る海神ネレウスの娘」などの浮彫のある骨灰棺が展示されていた.

 とりわけ,「オイノマオスの死」と下の写真の「エテオクレスとポリュネイケスの相討ち」の骨灰棺は,高浮彫が見事で印象に残る.トラバーチン(石灰華)と言う石でできており,紀元前2世紀のものとのことで,やはりこの地域がローマの支配下に入った時代のものである.

写真:
「エテオクレスとポリュネイケスの
相討ち」の骨灰棺

下部の浮彫は
左:トロイロスを殺すアキレウス
右:アタマスの狂乱


 フィレンツェで初めて観た時から「骨灰棺」と言う,他では見ない訳語を使い続けてきたが,「骨壺」ではないので,「骨箱」くらいに訳し直しても良いかも知れない.ただ,屋根型や,横臥する人物像の蓋がついていると,「箱」には違和感があって,使うには抵抗がある.

 試しに「骨灰棺」でウェブ検索すると,上位に出てくるのは,「フィレンツェだより」以外は,中国語のページばかりだ.日本語としては定着してはいない語だが,中国語では同じものでは有り得ないとしても,用語としては定着しているものであれば,当面このままで行こうかと思い直した.

 同じく骨灰棺といっても,フィレンツェ,ヴォルテッラ,ペルージャに共通して見られるモチーフはあるにせよ,それぞれ好まれたらしい図柄には違いがあるということを実感した.フィレンツェでは「相討ち」をたくさん観たし,今回は「イピゲネイアの犠牲」をたくさん観たように思う.

 やはりエトルリアの文化は,フィルヘレニズム(ギリシア愛好)と言う共通点を越えて,それぞれ地方的個性を持っていたのだということを再確認できたように思う.

 機会があれば,ペルージャの国立ウンブリア考古学博物館に何度でも行きたい.同様に,やはりウンブリア的個性に満ちた,国立ウンブリア美術館にも何度でも行きたい.ペルージャは掛け値なしに魅力的な街だ.






午後の陽が影を落とす回廊で
国立ウンブリア考古学博物館