フィレンツェだより番外篇
2016年8月20日



 




カメラ・ピンタのフレスコ画
スポレート



§2016 ラツィオ・ウンブリアの旅 - その10 スポレート その1

スポレート(英語版伊語版ウィキペディア)への憧れは,ほぼ100%,フィリッポ・リッピのフレスコ画の存在に拠っていた.2007年のイタリア滞在中から,これを観たいと言う気持ちがずっと心に有り続けた.


 例によって勝手な思い込みで,山間僻地の小さな聖堂にリッピの傑作が秘かに眠っているイメージを思い描いていたが,実際のスポレートは立派な都市で,リッピのフレスコ画のある大聖堂も近現代も含む歴史を背負いながら,現在も生きている教会だった.

 スポレートと聞いてリッピのフレスコ画とスポレート音楽祭くらいしか頭に浮かばなかったのは,もっぱら私の無知に起因することを痛感した.


スポレートの歴史
 広大なウンブラ渓谷の南端で周囲を山に囲まれたこの地域には先史時代から人が住み,古代の曙の時期にはウンブリア人が都市を形成した.ごく短い間ではあってもエトルリア人が住んだことで,スポレティウムと言うエトルリア語起源の地名を持つ古代都市として,ローマ支配下の時代にも存在し続けた.

写真:
要塞のある丘の上から
スポレートの町と
ウンブラ渓谷を望む


 紀元前241年に植民市が建設されたことを歴史家のリウィウスが記述し,紀元前95年時点では「有力でよく知られたラテン植民市」だったことをキケロが証言している(『バルブス弁護』48節).もちろん紀元前95年には,106年生まれ(カエサルは100年生まれ)のキケロはまだ11歳の少年なので,彼が50歳の時の56年に行われたこの弁論では過去の事例として言及している.

 以前ローマのクリプタ・バルビを訪れた報告の中でも述べたが,岩波書店刊行の「キケロー選集」第2巻に収められたこの作品を訳したのは私である.いささか驚いて,自分の訳文をドキドキきするような気持で確認すると,誤訳はあちこちにあるであろうが,文意が通らないと言う訳文ではないのでホッとした.

 ここでキケロはスペインのガデス(現在のカディス)出身のバルブスの市民権裁判に関連して,先例としてスポレティウム(スポーレーティウム)人ティトゥス・マトリウスの裁判に言及している.ここでは「スポレティウムの」と言う形容詞形が使われ,その際に「有力でよく知られたラテン植民市」と言う表現が使われた.

 訳注はあっさりしていて「ウンブリア地方の都市(現在のスポレート)」とあるだけである.この訳注は今は他社に移籍して重要な地位を得ておられるだけでなく,現代思想家としてもご活躍の,若い編集者が示唆してして下さったものかも知れない.

 当時40歳になるかならないかの「若手」(?)大学教員だった私が,移籍したばかりのワセダで学部役職者の一端を拝命し,週に10数コマの授業と校務に喘ぎながら,峻厳な恩師に叱咤され,自分よりも若い優秀な編集者に激励されながら,この弁論とローマ喜劇を青息吐息で訳していた時,私の頭に古代,中世,近現代のスポレートのイメージが思い描けていたとは思えない.

 喜劇作家のプラウトゥスも,現在はエミリア・ロマーニャに属しているが当時はウンブリアと言われていたサルシナ(現サルジーナ)の出身だ.ウンブリアがローマにとって,政治,経済,文化の面から重要な後背地であったことを今は理解しているが,当時はローマ以外のイタリア都市にまで思いが至らなかった.

 ともかく,間違いなくスポレートが繁栄した古代都市だったことをキケロが証言し,それを私自身の訳文で確認することができる.

 古代末期にはヴァンダル族,ゴート族の劫略を受け,その後,イタリアに侵入し広域支配したランゴバルド族の有力諸侯によってスポレート公国が形成(570年)された.スポレート公国は776年に,フランク王カール(800年に「ローマ皇帝」となるのでそれ以後は「カール大帝」)によって滅ぼされたが,フランク人諸侯によって復興し,1201年までは存続する.

 それ以後,地域の中心としての光輝は失われたが,教皇領に組み込まれて中世にも一定の繁栄が続いた.


ロッカの博物館とカメラ・ピンタ
 中世が極まってルネサンスへと向かう14世紀に,現在はラ・ロッカと称される要塞が町から見上げる丘の頂上に築かれた.

 この要塞はロッカ・アルボルツィアーナとも呼ばれているが,由来は,教皇の代官であるスペイン出身の枢機卿ヒル・アルバレス・カリージョ・デ・アルボルノス(イタリア名エジーディオ・アルボルノツ)(英語版伊語版ウィキペディア)によって築かれたことにある.

 この時代(1309-77年),教皇庁は南仏のアヴィニョンにあり,イタリアの教皇領の混乱を鎮静化させるために教皇イノケンティウス6世が派遣したのがアルボルノツ枢機卿で,最初のイタリア遠征が1353年,2回目が1359年で,スポレートのアルボルノツ城砦の建設が1363年から67年(伊語版ウィキペディア)とされる.

 この城砦の歴史を考えることから,実は,14世紀のイタリアの歴史を学ぶことができそうだし,今まで何度もその名前に接してきたアルボルノツの人物像を知ることができそうだが,これも後日の課題とする.

写真:
ロッカの中庭
壁面にはフレスコ画の
装飾が残っている


 この要塞には,漆喰の下からフレスコ画が発見され,それによってカメラ・ピンタ(絵が描かれた部屋)と称される区画がある.ナポリ出身のトマチェッリ家の家紋が見られるところから,マリーノ・トマチェッリが教皇ボニファティウス9世の代官としてスポレートを治めた時期(1392-1416年)に描かれた作品と考えられている.

 部屋(下の写真)はアーチ型の開口部のある壁で2つに区切られており,おそらく寝室と小書斎である.後者(写真手前)の画題は宮廷風恋愛とそれにまつわる娯楽である釣り,狩り,果物採集,入浴,競技などの場面が描かれ,前者(写真奥)には騎士道ロマンスの物語が描かれているものと思われる.

 作者に関しては全くわからないが,物語の主題から考えて北イタリアの画家,注文主から考えてナポリの宮廷文化に関わる画家の可能性が指摘されているが,プロの画家でももっと古拙な感じのする絵を描くこともあったこの時代に,これだけ洗練された絵を描いた画家だから,当時としては名の有る画家だったのではないかと想像したい.

 時代はだいぶ離れているがが,構図や表情から,素人の無謀な意見としては,ジョットやその流れをくむ画家たちのフレスコ画を実見して,自作の中に活かした画家だと思いたい.

写真:
カメラ・ピンタ
14世紀末~15世紀初頭


 アルボルノツ要塞と言えば,個人旅行とツァーで2回訪問したウルビーノにもあった.要塞自体は廃墟のような外観が見られるだけだが,丘からの眺望は素晴らしく,城壁に沿って歩いて丘に上り,要塞を見てから町の中心に向かって坂を降りていくコース自体が楽しかった.

 今回,ツァーの日程にないロッカを観光することになったのは,有能な現地ガイドのパトリツィアさんの臨機応変の対応によるものだった.当初の予定では,モンテファルコの次にクリトゥンノでランゴバルド時代の神殿を見に行くことになっていたが,神殿が閉まっているとのことで,翌日に回し,空いた時間に,ロッカの観光をご提案いただいた.

 もし自分でスポレートの旅程を組むとしたら,ウルビーノの時と違って,優先的にここを観光ポイントとして選ぶことはなかったかもしれない.

 丘の麓から城のある頂きまでは,屋根のかかった長いエスカレーターを乗り継ぎ,最後はエレベーターに乗る.足で登るのに比べれば遥かに楽だが,興味が薄ければかなりの精神的距離を感じる.この設備が完成するまでに大変な時間を要したという説明があったが,投入される資金も相当なものだったと思う.そこまでして梃入れするような観光ポイントなのか疑問に思いながら昇って行ったが,城につくと,そうした消極的評価は雲散霧消した.

 城砦の丘から見えるスポレートの町,城砦の麓から渓谷を越える大きな「塔の橋」の眺めは絶景と言って良いだろう.しかし,それ以上に,このフレスコ画を観ることができたことは大きかった.ここで観たフレスコ画は,この時代にしては遺っていることが珍しい世俗主題の作品であるだけに,貴重な体験だったと思う.

写真:
浮彫彫刻
9世紀


 城館の中には「国立スポレート公国博物館」があり,カメラ・ピンタもこの博物館の一部を構成しているが,他に古代石棺やその断片,ランゴバルド期やカロリング朝期の遺産があるとされている.

 上の写真の浮彫は,北イタリアのチヴィダーレ・デル・フリウリで見たランゴバルド芸術の作品を思わせる.スポレートは公国時代の最初はランゴバルド人の支配を受けており,可能性はあると思う.ランゴバルド芸術であれば,8世紀までと言うことになるであろうが,影響を受けた作品かも知れない.

 資料はもともと少ししか情報のないプレートの写真だけだが,ピンボケで,石灰岩が材料であること,もともとはスポレートのサンティ・アポストリ教会にあったこと,9世紀の作品であることしかわからない.材料が石灰岩であること,人物造形や浮彫の中の柱の装飾パターンがランゴバルド芸術風であると思わせるのだろう.

 興味深い石棺が少なくとも4つあった.

 一つは4世紀半ばの白大理石製の石棺プレートで,「ポンティアの石棺」と言う名称が付されている.テルニ県アックァスパルタマチェリーノ地域のサン・ジョヴェナーレ教会(博物館のプレートは祈祷堂)にあったもののようだ.

 両端に女性像があり,中央は植物文様に囲まれたクリペウム(丸盾型の枠)があったと思われるが,クリペウムはほぼ欠損しているので何が彫り込まれていたのかはわからない.僅かに残る部分の(向かって)右下には本のようなものと,それを下から支える指のようなものが見えるので,本を持った人物が彫られていたと推測できる.

 さらによく見ると,左上に小さな喇叭のようなものが見えるので,何かを知らせる天使が彫られていたかも知れないと思って写真を拡大すると,A(アルファ)の飾り文字のようだ.そう思って反対側を見ると小文字のω(オメガ)を大文字として使ったもののように見える.とすれば,「私はアルファでありオメガである」と言ったキリストであろう.

 クリペウムと両端の女性像の間にはどちらにもラテン語碑銘があり,きれいに写った拡大写真があれば,容易に読み取れると思うが,深入りしないことにする.既にキリスト教が公認された時代なので,キリスト教徒の立派な石棺が地方でもめずらしくなかったのであろう.

 別の石棺には,中央に多分,オランスの姿勢の若者の浮彫があり,その両側にストリジラトゥーラ文様,両端に「善き羊飼い」の浮彫がある.4世紀の大理石の石棺で「善き羊飼いの石棺」(サルコーファゴ・デル・ブゥオン・パストーレ)と言う名称が付されていることしか情報がない.

 オランスの人物の両側の柱に注連縄のような装飾があり,蛇が巻いているようにも見える.キリスト教徒の石棺に思われるので,この柱の装飾は誰かに明解に説明してほしいような気もするが,わからないことはわからないままにしておく.

写真:
「福者グレゴリウスの石棺」
15世紀


 隠棲している聖人のもとに天使がお告げに現れたような浮彫のある「福者グレゴリウスの石棺」(サルコーファゴ・デル・ベアート・グレゴーリオ)と言う名称の石棺があった.15世紀末の大理石の石棺で,以前は大聖堂に置かれていたようだ.

 浮彫の右にラテン語の碑銘があり,大体「モンテルーコで単身隠修生活を送り,尽きざる奇跡に輝いていたスポレート人,神の僕グレゴリウス」と言うように読める.

 3世紀にスポレート司教だった殉教聖人グレゴリウス(英語版伊語版ウィキペディア)の情報がウェブから得られ,市内にはサン・グレゴリアーノ・マッジョーレ聖堂と言うロマネスク教区教会があることから,この殉教聖人が地元で崇敬されていたことは容易に想像される.

 しかし,浮彫に描かれた,天使のお告げのような場面に相当するエピソードは見つからないので,殉教聖人グレゴリウスが石棺のグレゴリウスと同一人物かどうかはわかない.

 そもそも,サンクトゥス(聖なる)の代わりにベアートゥス(祝福された)と言う語はあり得るとしても,なぜ15世紀なのかと言う問題がある.残っていた,もしくは他地域から移譲された聖遺体のために,15世紀に新たに制作したということであれば説明がつくのだが,今回はやはりペンディングとする.

 (後日,スポレート大聖堂に関して,キー・トゥー・ウンブリアを検索していて関連情報に行き当たり,この人物は15世紀の修道士「福者グレゴリウス」であろうと思われる.スポレート大聖堂に聖母子,聖クレメンスとともに彼が描かれた祭壇画があった)(2018年8月27日)

 聖グレゴリウスはスポレートにとって重要な聖人のようだが,この町の守護聖人は聖ポンティアヌスで,彼を記念するサン・ポンツィアーノ教会が郊外にある.またこの聖人の美しい絵を私たちはエルミタージュ美術館で観ている.スピネッロ・アレティーノの絵だ.

写真:
「聖イサクの石棺」
12世紀


 最後の一つは,「聖イサクの石棺」と呼ばれる12世紀の石棺である.

 スポレート近傍のモンテルーコは中世の隠修活動で知られていたようだが,その先駆けとなったのが,6世紀にシリアから逃れてきたモンテルーコのイサクだ.彼を記念した9世紀に遡る旧・聖イサク教会の跡がサンタンサーノ教会の地下祭室(クリプタ)に遺っている.

 サンタンサーノ教会は翌日に拝観したので,詳しくは次々回に報告するが,クリプタにあった石棺を興味深く鑑賞し,暗い中で懸命に写真を撮ったが,実は精巧な模刻で,現物はロッカの博物館にあって,前日に写真に収めていた.

 聖人は6世紀の人だが,石棺は12世紀の作なので,聖遺体を収めるために後世に造られたことになる.石灰岩が材料で両端に怪物の姿のテラモン(柱を支える巨人)があり,中央のクリペウスは光輪の中に十字架があるのでキリスト,クリペウスの周辺は一見怪物のようにも見えるが,おそらく福音史家の有翼の象徴動物であろう.

 クリペウスの両側に3人ずつの聖人が彫り込まれ,上下は精巧な組紐文様で装飾されている.6人のうち,どの聖人が隠修士イサクかわからないが,向かって左の,クリペウスに一番近い人物のみ光輪があって,正面を向かず,キリストの方に手を差し伸べているので,イサクではないかと思われる.

 説明板には古代の石棺様式を熟知したロマネスクの彫刻家の作とある.制作年代が正しければ,この説明の通りであろう.モンテルーコのサン・ジュリアーノ修道院の同名教会にあったが,旧聖イサク教会に移され,現在は博物館に置かれていると言う経緯をたどったようだ.

 日をまたいで,それぞれの現場でオリジナルとコピーをじっくり観たが,同じものだとは気づかなかった.そもそも古代の石棺だと思った

写真:
ロッカ・アルボルツィアーナ
(アルボルノツ要塞)と
ポンテ・デッレ・トッリ
(塔の橋)


 「塔の橋」をロッカから見下ろすと迫力がある.特に橋上の細い道を歩いている人の小さな姿を見ると,橋の高さ,長さ,そしてロッカとの位置関係がはっきりする.上の写真でも長くて立派な橋であることがわかるが,その高い橋よりも,さらに高いところにロッカがあり,大きな建造物であるこに驚く.

 「塔の橋」は後世に何度もの修復を経ているだろうが,いつ造られたかは記録上確かめることはできない.14世紀には存在した記録があるので,13世紀以前に遡る中世の建造物である.ロッカの麓から向かう先はモンテルーコだ.


ローマ時代の遺跡
 スポレートには2泊したが,宿はローマ劇場(一番下の写真)のあるリベルタ広場近くにあって,朝食会場からガラス越しに,この遺跡が見えた.この遺跡を見学したのはスポレートの二日目だったが,その前に別のローマ時代の遺跡を見学した.

 朝,宿を出て,リベルタ広場を東に向かい,サンタンサーノ教会の所で左(北)に曲がったところにもう一つローマ時代の遺跡はあった.ドゥルスス門だ.帝政時代のものではあるが,紀元後1世紀と,ローマ時代の遺産としては古い方である.

 紀元後23年(伊語版ウィキペディア)に,この地方都市の議会がドゥルススとゲルマニクスに敬意を表して建造したとされる.よって,門の名称は「ドゥルススとゲルマニクスの門」であるが,ドゥルスス門と通称される.

写真:
ドゥルスス(とゲルマニクスの)門
ポルタ・ディ・ドゥルーゾ(・エ・
ジェルマニコ)北側
アーチの上の四つの大きな石に
ラテン語碑銘


 ドゥルススと言えば,第2代皇帝ティベリウスの弟で,ゲルマン人との戦いに功績をあげたが,遠征先で47歳で亡くなった通称「大ドゥルスス」が有名だ.

 ティベリウス帝と大ドゥルススの父はローマ貴族ティベリウス・クラウディウス・ネロで,母はリウィア・ドゥルシッラだが,母が後に初代皇帝アウグストゥスとなるカエサル・オクタウィアヌスと再婚して,オクタウィアヌス,後には皇帝アウグストゥスの養子となった.

 ドゥルススの名は,母の父マルクス・リウィウス・ドゥルススの家名に由来する.

 しかし,この門の名前の由来となっているドゥルススは大ドゥルススとは別の人物だ.ティベリウス帝と,アウグストゥスの股肱の臣マルクス・ウィプサニウス・アグリッパの娘ウィプサニアの間に生まれた子で,小ドゥルススと称される.

 小ドゥルススは父の後継者に指名されていたが,権力者であったセイヤヌスと反目して毒殺された(23年)とされている.

 小ドゥルススと並んで門の名前になっているゲルマニクスは大ドゥルススの息子で,軍事的功績も秀でており,アウグストゥスの孫娘大アグリッピナと結婚して,ティベリウスの有力な後継者候補であったが,若くして任地のアンティオキアで亡くなった(19年).

 彼の死で従兄弟の小ドゥルススの帝位継承が確固としたものになったが,上述のように小ドゥルススも皇帝になるくことなく亡くなったので,ティベリウス帝の後継の地位は,小ドゥルススの子ティベリウス・ゲメッルス,ゲルマニクスの3人の子,ネロ・カエサル,ドゥルスス・カエサル,ガイウス(カリグラ)に移る.

 ゲルマニクスの上の男子2人は,疑心暗鬼の独裁者となったティベリウス帝に殺され,ティベリウスの死後カリグラが皇帝になり,ティベリウス帝の孫であるティベリウス・ゲメッルスはカリグラに殺される.

 稀代の暴君となったカリグラが暗殺されたとき,皇帝の地位に推戴されたのは彼の叔父のクラウディウスで,クラウディウス帝はゲルマニクスの弟だった.この皇帝の後妻となったのがゲルマニクスの娘でカリグラの妹である小アグリッピナで,その連れ子が後の暴君ネロである.

 アウグストゥス自身が母系からカエサル家の血筋をひいて養子となっているので,おそらく父系であれ,母系であれ何らかの形で血統に連なることが重要であったと思われる.

 上記の人物のうちアウグストゥスと血縁関係がないのはティベリウスと大ドゥルスス兄弟,ティベリウスと先妻ウィプサニアの間の子小ドゥルススのみだが,小ドゥルススの妻リウィッラはゲルマニクスの同母妹なので,ティベリウス・ゲメッルスはアウグストゥスの血を引いていることになる.

 ゲルマニクスの母は,アウグストゥスの姉オクタウィアとマルクス・アントニウスの娘小アントニアなので,ゲルマニクスはアウグストゥスの姉の孫ということになり,ゲルマニクスの妻の大アグリッピナはアウグストゥスの娘大ユリアとアグリッパの娘なので,ゲルマニクスの子は全員,父方からも母方からもアウグストゥスの血縁・子孫ということになる.

 ネロ帝のもともとの名前はルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスで,ネロ家の人ではないが,母の小アグリッピナ(ゲルマニクスの娘)からアウグストゥスの血もネロ家の血も引いていることになる.さらに,大アントニア(小アントニアの姉)がネロ帝と同名の祖父ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスと結婚して生まれた子,グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスがネロの父なので,ネロ帝は父方からはアウグストゥスの姉の子孫ということになる.

 さらに言えば,彼の先祖にはアウグストゥスのライヴァルだったマルクス・アントニウス,アウグストゥスの右腕だったマルクス・アグリッパもいて,彼は英雄の家系の近親婚から生まれたことになる.

 ネロの最初の妻オクタウィアは,彼の養父であり,母の夫であった先帝クラウディウスの先妻メッサリナ(メッサリーナ)の娘だが,メッサリナの母ドミティア・レピダもやはり大アントニアの娘で,ネロの父とは兄妹で,ネロにとっては叔母であり,母の又従姉妹だったことになる.さらに,メッサリナの父方の曾祖母がアウグストゥスの姉オクタウィアなので,その血縁は一層濃い.

 ユリウス=クラウディウス朝の血縁の話に逸れたが,ドゥルスス門の話に戻ると,ティベリウス帝の子ドゥルススと甥で養子のゲルマニクスに敬意を表し,地方議会の決議で建設されたことは碑銘からも明らかだが,建造年はこの碑銘には記されていない.

 伊語版ウィキペディアが建造を23年としているが,根拠は不明だ.23年は小ドゥルススの死の年であり,もし彼の死後であれば,小ドゥルススと既に亡くなっていたゲルマニクスを追悼したのかも知れないが,そのことも碑銘からは読み取れない.

写真:
ローマ時代の市場で商品を
並べた石造の棚

メルカート広場から続く
パラッツォ・デイ・ドゥーキ通り


 ドゥルスス門を通った先にメルカート広場があり,ローマ時代に「市場」があった名残が広場から続くパラッツォ・デイ・ドゥーキ(2人の公爵宮殿)通りに遺っている.上の写真の通りに突き出た石棚は,ローマ時代に市場で商品を並べた棚ということだ.

 広場には建物中央の壁龕にメルカート広場の泉と呼ばれる泉を組み込み,その上に時計がついているバロックの建物があり,掻き絵装飾やフレスコ画の遺る住居などが見られるが,フレスコ画などは注意してみないと気付きにくい.

写真:
「ローマ時代の家」
(カーサ・ロマーナ)

ウェスパシア・ポラの住居か?
紀元後1世紀


 ユリウス=クラウディウス朝の最後の皇帝ネロ帝が失脚,自殺(68年)した後,4人の皇帝が立ち,その中からウェスパシアヌスが勝ち残った.ウェスパシアヌス,その子ティトゥス,その弟ドミティアヌスの3代を「フラウィウス朝」(69-96年)と称する.

 ウェスパシアヌスの父方の家系は祖父の名までたどることができ,スエトニウス『ローマ皇帝伝』の「ウェスパシアヌス伝」はティトゥス・フラウィウス・ペトロとしている.

 さらにティトゥス・フラウィウス・ペトロの父に関しては,不確かな伝承としながら,トランスパダナ(ポー川北岸)地方出身で,ウンブリアからサビニ地方に耕作のために移動する季節労働者の手配師で,サビニ地方のレアテに定住したとする説を紹介している.ウェスパシアヌスの個人名は挙げられていないが,「個人名+氏族名+家名」と言うローマ人が通常3つ持っている組み合わせのうち,家名をサビヌス(サビーヌス)としたことは言及されており,その妻はウェスパシア・ポラ(英語版伊語版ウィキペディア)であったことも述べられている.

 そのウェスパシア・ポラ所有の家だったかも知れない住居跡がスポレートに残っており,カーサ・ロマーナという観光スポットになっている.

写真:
カーサ・ロマーナの床モザイク
紀元後1世紀
裕福な人物の住居で
あったことが伺える


 スエトニウス「ウェスパシアヌス伝」には,

 ポラはヌルシアの名家に生まれ,彼女の父はウェスパシウス・ポリオと言い,三度軍団副官をつとめ,屯営隊長となり,彼女の兄弟は法務官級の元老院議員であった.
 ヌルシアからスポレティウムに向かって第六里程標まで来たとき,その近くの丘のてっぺんに,ウェスパシアエと呼ばれる場所があり,そこにはウェスパシウス一族のたくさんの墓石が残っていて,この家の高い格式と由緒ある血統を明らかに証明している.(スエトニウス,国原吉之助(訳)『ローマ皇帝伝』
(下)岩波文庫,1986,p.265)

とあり,ヌルシア出身の家系に関して,わざわざスポレティウムの名を挙げていることから,何らかの関係が想起される.

 発掘の際に,ポラと言う人物から皇帝カリグラへの献辞のある碑文の断片が見つかったと説明板にあり,その碑文の模写を含むメモの拡大写真が掲載されていた.「カエサル」(CAESAR)(「カエサルに」ならCAESARI)の一部と,ポラ(ポッラ)(POLLA)と言う文字が読み取れる.

 この発見によって,この家の持ち主がウェウパシアヌスの母ポラという仮説が立ったが,最近の研究によって,これには疑問が呈されていると説明板は続けている.時代的には矛盾しないかもしれないが,この一族出身の女性の多くがウェスパシア・ポラと言う公式名になる可能性が高いので,断定はしきれないだろう.

 しかし,ローマ史に少しでも関心を持つ者の一人として,皇帝になる前(登極は69年,カリグラの在位は37年から41年)のウェスパシアヌスの母が本貫地近隣の重要都市スポレートに滞在する際に使用した住居と思いたい.

 9年生まれのウェスパシアヌスは36年にトラキアで軍団副官となり,翌年には高級官職の出発点である財務官に当選している.スエトニウスに拠れば,カリグラ在位中に,一度落選したものの造営官,法務官に就任しているので,この時代にはウェスパシア・ポラは高官の母だったことになる.

 ウェスパシアヌスの兄で父と同名と思われるティトゥス・フラウィウス・サビヌスに関する記録上の最初の言及は,クラウディウス帝治下の45年に執政官になったことだが,45年の執政官であれば,当然,前代のカリグラ時代には相当に出世していたであろう.この人物が弟より早く元老院議員となっていたことは「ウェスパシアヌス伝」からもわかる.

 平民階級出身で,属州アシアで徴税請負人となり,スエトニウスは「ヘルウェティ族のところで」と言っているので,おそらく現在のスイスで金融業を営み,その地で亡くなった夫に比して,自身の兄弟は元老院議員だったので,ポラは息子たちの出世を願っていたのだろう.もし,このスポレートの家が彼女の所有であったとしても,その時代に自分の実家の名を引き継いだ次男が皇帝になるとは思っていなかったことだろう.

 また,仮にウェスパシア・ポラの家でなかったとしても,部屋割りが明確に残り,見事な床モザイクが見られるこの「家」は貴重な遺産であろう.ウィキメディア・コモンズに多くの写真が掲載されているのもそれを物語っていると思う.

 この「家」の観光もツァーのコースには入っていなかった.2日にわたって予定されていたスポレート観光を全て終了し,夕方,バスで宿に戻ってきたとき,パトリツィアさんから,もし行きたい人がいたらカーサ・ロマーナまで一緒に行きます,という申し出があった.疲れた体に鞭打って,全員が行ったことは言うまでもない.



 もともと授業,校務の合間に書いているので,3月の旅行の報告が思うように進まなかったが,それでも夏の旅行までには何とか書き終えたいと思っていた.最近,次の旅行が終わったのに,まだ前の旅行記を書き終えていないパターンが増えている.最初の頃のように,単純にどこに行った,何を見た,という報告では済まなくなっていることに原因があるので,致し方のないことではあるが,何とかしてスピード・アップを図る必要を感じていた.

 家族で行く夏のツァー旅行は今年はプーリア州を予定していて,例によって,こんなマニアックなツァーが成立するのかなあと思いながら申し込み,成立の知らせに欣喜雀躍していたのに,テロの影響で,キャンセルが相次ぎ,結局不成立になった.懐かしいレッチェ,オートラント,行ったことのないトラーニ,さらにプーリア州だけではなく未訪のカラブリア州まで連れて行ってくれるので楽しみにしていたので,残念だ.

 今夏の旅行はなくなったので,この旅行報告も完成を急がないことにする.

 還暦まで秒読みとなり,遠い先だと思った定年も見えて来たので,今まで少しおろそかになりがちだった研究に力を注いで行こうと思い,科学研究費補助金を申請したところ,幸運にも向こう3年間いただけることになった.その一環として,まずフィレンツェに一週間行ってくる.公費なので,一人で行ってくる.ラウレンツィアーナ図書館で写本の閲覧をし,フィレンツェとその周辺の考古学博物館で古代遺産を見てくる.

 したがって,次回は少し間が空く.完成は急がないものの,時間に余裕のある夏期休暇の間に,残り4回のうち2回くらいを報告できればと思う.






ローマ劇場 所々に大理石の装飾が残る
スポレート