フィレンツェだより番外篇
2016年9月5日



 




フィリッポ・リッピ作「聖母戴冠」
スポレートのドゥオーモ



§2016 ラツィオ・ウンブリアの旅 - その11 スポレート その2

念願のフィリッポ・リッピのフレスコ画を,ついに観た.


 フィリッポ・リッピに関しては,2007年のフィレンツェ滞在前から少し知識があった.どこの局だったか忘れたが,民放の地上波で檀ふみが案内役となったリッピの特集番組があり,コジモ・デ・メディチがリッピの放埓に対して,天才は平凡な人たち(ヴァザーリ「フラ・フィリッポ・リッピ伝」邦訳には「車曳き用の驢馬」とある)と違うのだからと言って寛容であったこと,修道士の身で修道女との間に子をなしたことなどのエピソードが紹介され,印象に残っていた.

 フィレンツェに着いたばかりで,まだ右も左もわからない4月,メディチ・リッカルディ宮殿の礼拝堂に描かれたゴッツォリのフレスコ画を観に行った.先にサン・マルコ旧修道院博物館に行き,ゴッツォリの名を知った後だったが,ゴッツォリに関してはフィリッポ・リッピと違って,イタリアに行ってからその名を知ったのだと思う.

 現在のメディチ・リッカルディ宮殿は,フィレンツェ県の県庁で,県議会が開かれる.タペストリーが見事な議事会場の隣の部屋に,リッピの「聖母子」がぽつんと置かれていた.美しい絵だとは思ったが,惹きつけられるような感動はなかった.これが意識して観たと実感する最初の作品だ.

 翌5月,パラティーナ美術館に行き,今度はトンド(丸型)の「聖母子と聖アンナの物語」を観た.前年に予習のつもりで1日だけフィレンツェに来て,ウフィッツィ美術館の大行列に恐れをなして,代わりにパラティーナ美術館を見たので,厳密にはこの作品がリッピとの出会いということになる.しかし,このトンドの作品のことを覚えてなかった.

 この予習旅行ではローマのバルベリーニ宮殿の国立古典絵画館にも行き,「リッピの絵があるはずだ」と思って探したことは覚えているし,ヴァティカン絵画館にもリッピの立派な祭壇画があるので,多分見たのだと思うが,これらも全て記憶にない.

 雨中,3時間も並んで入館したヴァティカン絵画館では,なんでこんなに古臭い絵ばかりあるんだと思い,辛うじて印象に残ったのはラファエロとカラヴァッジョの絵くらいで,レオナルドの未完の絵も,今なら随喜の涙と共に見るが,当時は興味すら持てなかった.そのような段階で,リッピの祭壇画を凝視して,記憶に残すことなど有り得なかった.

 転回点は7月にやってきた.タウン誌や観光パンフレットで,プラートの大聖堂の中央礼拝堂のフレスコ画「聖ステパノの物語」と「洗礼者ヨハネの物語」の修復が成ったことを知り,行く気になった.冒頭に触れた民放の特別番組は,おそらく,このリッピのフレスコ画の修復を日本が資金援助したからではないかと想像する.

 フィレンツェからプラートまで電車で2,30分とは言え,ちょっとした遠出もまだハードルが高い時期に,わざわざ出かけたのだから,もちろんリッピに興味を持っていた.

 そうなるまでには,パラティーナ美術館に2回行き,ウフィッツィ美術館で「聖母戴冠」をはじめとする彼の複数の作品を鑑賞し,アレッツォの特別展で,ミラノのスフォルツァ城美術館から来ていた「謙遜の聖母」を観ていた.フィレンツェのあちこちとサン・ジミニャーノで,息子のフィリピーノ・リッピの作品を相当数観たことも大きかったと思う.


工房の弟子たち
 プラートの大聖堂のフレスコ画は,全体としてはリッピの作品と言うより,リッピ工房の作品と言うべきであろう.

 リッピの工房には,優秀な助手たちがいたはずだ.リッピと同じくカルメル会修道士であったフラ・ディアマンテ(英語版伊語版ウィキペディア)が有名だが,サンドロ・ボッティチェリ,ヤコポ・デル・セッライオの名を,ヴァザーリは「フラ・フィリッポ・リッピ伝」の中で弟子として挙げている.

 リッピ工房がプラートの仕事を終えて,次に取り掛かったフレスコ画大作が,スポレート大聖堂の「聖母の生涯」だ.

 スポレートの仕事を依頼されたとき,リッピは,1406年頃の生まれとすれば(フォッシ),60歳くらいだったことになるが,ヴァザーリは,リッピがスポレートで亡くなった時(1469年),享年57歳としているので,そちらが正しければ54歳だったことになる(邦訳が正しければ,「1438年に57歳で亡くなった」としているので,ヴァザーリは正確な年代を多分把握していなかっただろう.英訳版もウェブ上の伊語原文も1438年とある).

 ボッティチェリやセッライオがこの仕事に従事したかどうかは,全く言及がないので分からないが,フラ・ディアマンテは,ヴァザーリに拠れば,

 遺言で,自分の息子フィリッポの監督をフラ・ディアマンテに託した.息子のフィリッポは当時十歳の少年だったが,フラ・ディアマンテから絵を習い,彼と一緒にフィレンツェへ戻った.その時,スポレートの町から仕上げた作品の代金としてまだ受け取るはずになっていた三百ドゥカートを,フラ・ディアマンテが預かって持ち帰った.フラ・ディアマンテはその金で自分の資産をいくつか購入したが,少年の方へはほとんど渡さなかった.息子のフィリッポは,当時非常にすぐれた大家と目されたいたサンドロ・ボッティチェルリ(「ル」は小さい)のもとへ弟子入りした(邦訳,p.101)

としているので,この文脈であれば,フラ・ディアマンテはスポレートでもリッピの助手を務め,その時点でボッティチェリは独立して名声を得ていた(45年生まれのボッティチェリは69年では24歳)ので,スポレートには行っていなかったのであろう.

写真:
「聖母の死」(部分)

中央の白いマントの人物は
フィリッポ・リッピ自画像
赤い帽子の人物は
息子のフィリピーノ・リッピ
左端はフラ・ディアマンテ
その右にピエルマッテーオ・ダメーリア


 もう一人,名の知られた助手としてピエルマッテーオ・ダメーリア(英語版伊語版ウィキペディアがいる.1445年テルニ県アメーリアの生まれとされるのでウンブリアの人である.

 69年に師匠が亡くなった段階でピエルマッテーオは24歳,師匠の息子が12歳である.上の写真の絵で見ると,両者に12歳の開きがあるように見えないが,いずれにせよ,スポレートで仕事をした時はまだ若者だった.

 彼はフラ・ディアマンテ以上に多くの作品を遺しているが,かなりの作品がイタリアよりもアメリカなど国外の美術館にあるようだ.

 何と言っても彼は,ミケランジェロが「天地創造」他のフレスコ画を描く以前のシスティーナ礼拝堂の天井に星の煌く空を描いたことで知られている.スポレート大聖堂の仕事の約10年後だ.最終的にはルーカ・シニョレッリに委嘱されたオルヴィエート大聖堂のサン・ブリツィオ礼拝堂装飾のオファーもあったようなので,それなりには評価された画家だっただろう.1508年頃まで存命した.



 上記のヴァザーリの記述から,フラ・ディアマンテは最後までリッピの助手を務め,遺児の教育を任されるほどの信頼を得ていたことがわかる.

 ヴァザーリの言いたいことは,もちろん,フラ・ディアマンテがスポレートのフレスコ画の報酬をほとんど自分の懐におさめたこと,フィリピーノが自分の意志としてはボッティチェリを師に選んだことで,フラ・ディアマンテが師の委託に誠実には応えなかったことにあるのであろうが,少なくともリッピが彼を信頼するだけの人間関係が有ったと考えて良いであろう.

 フラ・ディアマンテは1430年頃の生まれ※で1495年まで存命する(伊語版ウィキペディア)が,巨匠の筆頭助手として自身の作品もあるのに,思ったよりも現存作品が少ない.スポレートからフィレンツェに戻った後,どのような人生を生きたのかは今のところ情報がない.

(※2016年8月25日参照の時点で英語版ウィキペディアはプラートの生まれとしているが,伊語版ウィキペディアのアレッツォ県テッラヌォーヴァ・ブラッチョリーニが正しいのであろう.高名な人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニの出身地だ.)

 伊語版ウィキペディアは,現在はジョヴァンニ・ダントーニオ・トゥッチ(とコジモ・ロッセッリ)の作品ということで多くの研究者の意見が一致しているシスティーナ礼拝堂の「紅海の渡渉」(1481-82年)が彼の作品であるとの推測を述べているが,根拠は示されていない.

 それだけの大作を任される程の画家ではなかったかも知れないが,彼の名前で伝わる作品を写真で見る限りは,プロジェクト・チームの一員としてシスティーナで活動した可能性はあるだろう.少なくとも年齢的には可能だったはずだ.

写真:
後陣のフレスコ画
「聖母の生涯」


 そうした評価を得た助手も含め,工房の総力を結集したスポレート大聖堂のフレスコ画「聖母の生涯」は,巨匠の白鳥の歌となって,ウンブリアの町の大聖堂を飾っている.やはり,感動を禁じ得ない.リッピの絵は美しい.


写真:後陣フレスコ画より (左上)「受胎告知」の聖母 (左下)「聖母の死」の聖母
(中央)「聖母戴冠」の聖母 (右)戴冠する聖母を取り囲む天使たち


 堂内には,成人後(1488年頃)),スポレートを再訪した息子のフィリピーノのデザインによる墓碑(制作はアンブロージョ・バロッチとされる)があり,そこにはロレンツォ・デ・メディチの意を受けた人文主義者アーニョロ・ポリツィアーノが作成したラテン詩が刻まれている.長短短六歩格と五歩格を組み合わせた二行を繰り返すエレギーア詩形だ.

 ヴァザーリの「フラ・フィリッポ・リッピ伝」にも収録されたこのラテン詩は,ウェブ上の原文,英訳版には訳がついていないが,平川祐弘による邦訳版に誠実に訳されている.比較文学の巨星の上手な意訳があれば,生硬な直訳も意味があるだろうから,訳して見る.

Conditus hic ego sum picturae fama Philippus,
 Nulli ignota meae est gratia mira manus.
Artifices potui digitis animare colores,
 Sperataque animos fallere voce diu.
Ipsa meis stupuit natura expressa figuris,
 Meque suis fassa est artibus esse parem.
Marmoreo tumulo Medices Laurentius hic me
 Condidit, ante humili pulvere tectus eram.

 絵画の名声そのものである私フィリップスはここに葬られたが,
  わが手の驚くべき恩恵は知らぬ者が無い.
 私は,指によって技を発揮する色彩に生命を与え,
  長く希望を託された声で人々の心を欺くことができた.
 自然(の女神)自身が,私が描く姿に表現されて,驚いて,
  技芸においては私が彼女自身に等しい存在であると認めた.
 ロレンツォ・デ・メディチがここで私を大理石の墓に
  埋葬したが,それ以前は私は卑しい塵に被われていたのだ.

 韻律上一行目のfama「名声」は主格なので,主語のフィリップスの説明的同格と考える.4行目はわかりにくいが,「迫真の絵を見た人々が絵画中の人物が声を発するのではないかと長く思い込み続けるほど見事な技量を発揮した」と言う意味なのだと思う.その他は特に難しいラテン語ではなく,さすがにルネサンスを代表する人文主義者なので,そつなくまとめた墓碑銘だと思う.

 伊語版ウィキペディアの引用(2018年8月27日参照)は,3行目の digitis を digilis としていて,これは間違いだろう.

 なお,伊語版ウィキペディアには「フィリッポ・リッピ」と言う項目とは別に,「フィリッポ・リッピの諸作品」と言うページがあり,ほとんどの作品が独立の項目として立項されたページにリンクされており,イタリア語を勉強したことがなくても写真を見ているだけで幸福感に浸れる.

 リッピの作品の特徴はこの「幸福感」に集約されるのではないかと思う.息子のフィリピーノも絵は上手だし,魅力的だが,何か薄幸な感じがするのと対照的である.


巨匠たちの作品
 スポレート大聖堂にはアンニーバレ・カッラッチの「聖母子と聖人たち」(1599年)が飾られているが,英語版ウィキペディアにあるこの画家の作品リストに,この作品は挙げられていない.

 ウェブで,ボローニャ派一の巨匠の作品リストと作品の写真を見ると,この画家の偉大さと,それに比してスポレートの作品の平凡さを痛感する.本気ではなかったのか,真作ではないのかわからないが,巨匠が描いた水準以下の絵ということだと思う.巨匠の自筆部分もあるかも知れないが,素人目にも工房作品と思われる.

写真:
ベルニーニ作
「ウルバヌス8世」
1644年(模刻)


 バロックの巨匠としては,ジャン=ロレンツォ・ベルニーニの「ウルバヌス8世」胸像がファサード裏に飾られている(上の写真).ただし,これはコピーで,本物は司教区博物館にあるようだ.

 司教区博物館は,ドゥオーモに行く前に見学したが,アレッサンドロ・アルガルディに帰せられる「聖フィリッポ・ネーリ」胸像とともに,「ウルバヌス8世」胸像が置かれている第7室には行かないでしまったようだ.後述するように,司教区博物館は特別に開けてもらって見学できたので,その幸運に感謝し,見られなかったものがあることは,またスポレートに行く動機を残したのだ,と考えたい.

 ウルバヌス8世マッフェーオ・バルベリーニ(教皇在位1623-44年)はベルニーニの重要な後援者だった.これについては以前ベルニーニの作品をまとまって見た感想を述べたページでまとめたので,ここではこれ以上触れないが,そういった理由で,ベルニーニの手による彼の胸像はブロンズ(ヴァティカン博物館),大理石(サン・ピエトロ大聖堂),油絵(バルベリーニ宮殿古典絵画館)がある.

 なぜ,スポレートにもあるか言えば,彼は1608年(40歳)から9年間スポレートの司教を務めていたからだろう.

写真:
ピントリッキオのフレスコ画
エローリ司教礼拝堂
1497年


 今回の旅行でピントリッキオの絵を複数観ることができたが,写真をとることができたのは,スポレート大聖堂だけだった.状態も悪いし,ピントリッキオの作品として最良のものではないだろうが,それでも観ることができ,写真に収めることができて嬉しかった.近くで凝視すると,やはり聖母子の顔は美しい.

 このフレスコ画は,スポレート司教だったコスタンティーノ・エローリの名を冠したエローリ司教礼拝堂と言う名の空間にあった.半穹窿天井は「父なる神」,その下は「聖母子と洗礼者ヨハネ,聖ステパノ」,最下部は「ピエタのキリスト」である.

 天井のフレスコ画も一部残っていて,はっきり絵柄のわかるのは,赤い背景にグリザーユで描かれた「コンスタンティヌス大帝の凱旋」と思われる場面だ.キリスト教を公認した皇帝であり,この礼拝堂を作らせた司教と同名だからこの場面が描かれたのであろう.エローリ家の家紋もそれと識別できる程度には残っている.

 礼拝堂自体の設計はポルティコの設計者でもあるアンブロージョ・バロッチとされる(キー・トゥー・ウンブリア).

 近くに,やはりコスタンティーノ・エローリが発注し,後継者である一族のフランチェスコ・エローリ司教が引き継いだ「被昇天の聖母礼拝堂」(カッペッラ・デッラッスンタ)があり,そこにも「聖母被昇天」の祭壇画と,「キリスト磔刑」,「聖母被昇天の証人である使徒たち」,「聖ヒエロニュムス」などの華やかなフレスコ画が遺っている.

 作者はヤコポ(ジャーコモ)・シクロ(伊語版ウィキペディアキー・トゥー・ウンブリア)とされる.現在はシチリア州パレルモ県に属するジュリアーナで生まれたので,「シクロ」(シチリア人)と通称され,ローマ,ラツィオ,ウンブリアに活躍の場を求めた画家だった.スペイン生まれでウンブリアで活躍した画家ロ・スパーニャの娘と結婚したと言う情報もある(キー・トゥー.ウンブリア).この礼拝堂のフレスコ画を見る限り,まずまず以上の水準の画家だと思う.

写真:
アルベルト・ソーツィオ
彩色板絵「磔刑像」
1187年

右の部分拡大写真は
司教区博物館の
説明パネルより


 堂内にはロマネスクの遺産もある.コズマーティ様式の床装飾にも,部分的にはロマネスクの時代のオリジナルも遺っていると思うが,わかりやすい遺産としては「磔刑像の礼拝堂」(カッペッラ・デル・クローチフィッソ)に飾られているアルベルト・ソーツィオ(ソーティオ)(英語版伊語版ウィキペディア)作とされる彩色板絵の磔刑像が挙げられる.

 いわゆる「勝利のキリスト」(クリストゥス・トリウンパンス)と呼ばれる型で,目を見開いて,受難をものともせず生きているキリストが描かれており,横木の下(もしくは縦木の両脇)にあるエプロンには聖母と福音史家ヨハネがいる.

 2本の釘で足を十字架に固定する古いタイプの磔刑像で,そこから流れる血がゴルゴタの丘を表わすアダムの骸骨の口にながれ,その下に,ラテン語で「1187年」さらにその下に「アルベルトゥス・ソティウスの作品」とある.

 また,キリストの頭上には,4人の天使が支えるマンドルラの中に昇天するキリストが描かれ,その下にラテン語で通常「I.N.R.I」と略記される「ナザレのイエス,ユダヤ人の王」がほぼそのまま(「イエス」と「ユダヤ人」は一部略記)書かれている.

 赤と青の対照がはっきりした装飾的な磔刑像で,キリストが巻いている腰布の透明感も特徴的で,彩色板絵の磔刑像を数多く観てきて,今回も司教区博物館で様々な磔刑像観たが,際立って印象に残る作例と言えよう.

 廃絶したサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会にあったが,1887年に大聖堂に移管された.この旧教会の壁面に遺るフレスコ画をはじめ,ソーツィオ作とされる作品は他にもあるようで,この画家は注目に値する.

写真:
フランチェスコの自筆の
手紙(レオーネ修道士宛)
1225年頃


 ソーツィオの磔刑像が1187年に制作されたものなら,この時,1182年生まれのアッシジのフランチェスコは5歳だったことになる.彼の自筆とされる手紙がスポレート大聖堂の「聖遺物の礼拝堂」(カッペッラ・デッレ・レリクィエ)に所蔵されている.

 キー・トゥー・ウンブリアに詳しい情報があるが,手紙の存在に関する同時代の証拠は無く,1604年にサンティ・シモーネ・エ・ジューダ教会で発見され,1863年にこの教会が廃絶して行方不明になり,30年後に再発見され,教皇レオ13世の認定を経て,スポレート大聖堂に移管された.

 本当に1225年頃にフランチェスコが書いたとすれば,26年にフランチェスコは亡くなるので,44歳で亡くなった聖人の最晩年の手紙と言うことになる.この頃の彼は,目がほとんど見えなくなり,聖痕とされた傷の痛みに酷く苦しんでいた.

 手紙は羊皮紙にラテン語で書かれており,レオーネ修道士に,もし必要なら自分の元に来るようにと呼びかけている.この羊皮紙の写真からそれを読み解くのは,精神的ハードルが高いが,原文を分かりやすく転写したり,場合によってはイタリア語や英語の訳を付したりしたページがウェブ上に複数あり,それを参考にして読んでみると,当事者間にあった問題を理解していなければ,文字面だけでは,さして深い内容とも思えないことが,文法的誤りを多く含む,拙い表現に思われるラテン語で書かれている.

 フランチェスコはイタリア文学史の教科書に必ず登場する「被造物の歌」を作った詩的霊感に恵まれた人物でもあり,どうして達者なウンブリア方言のイタリア語ではなく,得意だったとは思えないラテン語で書いたのか疑問に思う.あるいは,ラテン語で書くことがこの二人の間では意味を持つような状況だったのだろうか.

 フランチェスコの手紙は,複数伝わっており,ウェブページにある原文を見る限り,他にもラテン語の著作もあり,そもそもこの時代にはラテン語で聖書を読んでいたわけだから,レオーネ修道士への手紙のラテン語が拙く見えるのは,聖人のラテン語力の問題ではなく,激しく起伏する感情の問題や最晩年の体調など,何か事情があったのではないかと思われる.


大聖堂の建築
 スポレート大聖堂は,堂内はバロックの改築が施され,コズマーティ装飾とソーツィオの磔刑像はロマネスク,13世紀の鐘楼とフランチェスコの手紙はゴシック初期,リッピ,ピントリッキオのフレスコ画はルネサンス,アンニーバレ・カッラッチの絵画とベルニーニの彫刻はバロックと,後世に多くの付加的要素が加わり,それがまた貴重な遺産ともなっているが,ファサードはイタリアを代表するロマネスク芸術の至宝と言えよう.

写真:
ドゥオーモのファサード
左は旧サンタ・マリーア・
デッラ・マンナ・ドーロ教会


 下層部分のポルティコ(開廊)はルネサンス建築で,ミラノ出身のアントーニオ・バロッチとフィレンツェ出身のピッポ・ディ・アントーニオが1491年から1501年に設計,建設したとされるが,建築家に関しては情報が乏しい.伊語版ウィキペディアはアントーニオ・バロッチの企画としているが,この人物についてはまだ立項されていない(2016年8月26日参照).

 スポレート大聖堂を紹介した別のウェブページでは,ポルティコを付け加えた人物としてピッポの名と共に,アンブロージョ・ディ・アントーニオ・バロッチとあり,これが正しければ,アントニーオの息子であるアンブロージョが設計者の一人と言うことになる.

 ミラノ出身のアンブロージョ・バロッチと聞いて,思い当たる人物がいる.イタリア絵画のマニエリスムからバロックに移行する時代の巨匠フェデリコ・バロッチの曾祖父である.

 この人物は伊語版ウィキペディアに立項されており,そこには,彼は彫刻家,建築家,装飾家であり,1470年頃にヴェネツィアに赴き,サン・ミケーレ・イン・イゾーラ教会の装飾,サン・ジョッベ教会,サン・サルヴァトーレ教会の窓の設計をした後,ウルビーノに移って,1472年にその地の公爵宮殿の帯状装飾,側柱,門,窓をラウラーナの設計に基づいて施工し,1480年から84年までヴィテルボのサンタ・マリーア・デッラ・クェルチャ教会の鐘楼を建設した後,スポレートで大聖堂の装飾の設計者となったとある.

 この人の人生について詳しいことはわからないが,伊語版ウィキペディアの彼の項目には死没地をウルビーノとしている.ウルビーノに生活の基盤があったのであろう.だからこそ,ミラノ出身の家系と言われながら,曾孫である巨匠は「ウルビーノの人」と本人も思い,周囲もそう遇したのであろう.

 どういう根拠でアンブロージョの死没地をウルビーノとし,でありながら没年は不明になっているのかわからないけれども,スポレートのドゥオーモのポルティコが1501年に完成したのであれば,設計者であるから途中で亡くなっても大丈夫なわけだが,その前後であったと推測される.

 ウルビーノで1483年に生まれたラファエロがどの時点で故郷を離れたのかは諸説あるようだが,もしかしたら幼児,少年のラファエロがどこかでフェデリコ・バロッチの曾祖父と接近遭遇していたかも知れないとつい考えてしまう.芸術の本質には無関係なことではあるが.

 フェデリコはラファエロの没後6年目の1526年にウルビーノで生まれた.もちろん,曾祖父のアンブロージョにも,ラファエロにも会ったことはない.しかし,巨匠の出身地で生まれたこと,自身も芸術家の家系に生まれたことは,彼の人格形成に一定以上の意味は持ったであろう.

 ちなみに,フェデリコに最初に芸術の手ほどきをしたのは,祖父(フェデリコには曾祖父)と同名の父アンブロージョだったとされている.その地方で一定の評価を得た彫刻家だったとのことなので,やはり,フェデリコは芸術家の家系に生まれたことになる.


司教区博物館
 司教区博物館はツァーの予定にはなかったが,やはり現地ガイドのパトリツィアさんの計らいで,本来は開館日ではない月曜日に特別に開けてもらって見学できることになった.

写真:
フィリピーノ・リッピ
「聖母子と聖モンターノ
と聖バルトロマイ」(部分)

司教区博物館


 フィリッポ・リッピの息子フィリピーノ・リッピの没年は1504年,まだ47歳で,父の弟子ピエルマッテーオよりも早く亡くなった.当時の47歳は早逝とは言えないかも知れないが,最初に写真を載せたリッピ親子と弟子たちの肖像の中で最も才能を開花させたのは,父フィリッポを除けば,その息子なので,やはり惜しまれた死だと思われる.

 そのことはヴァザーリの「フィリピーノ・リッピ伝」からも察せられる.父と子は同名なので,息子はフィリピーノと呼ばれていたが,ヴァザーリは父の伝記を「フラ・フィリッポ・リッピ伝」,息子の伝記を「フィリッポ・リッピ伝」としている.

 フィリピーノはプラートで生まれたが,おそらくフィレンツェで幼年期を過ごし,父の仕事について行ってスポレートに2年間住み,父の死亡時には12歳,父の筆頭助手だったフラ・ディアマンテに連れられてフィレンツェに帰り,フラ・ディアマンテから基礎を学んで,ボッティチェリの門下で修業した.

 彼の作品に世紀の傑作と呼べるものはないかもしれないが,実際に見た限りで低水準の作品は一つもなく,47歳で亡くなったのに,多くの作品を遺した.ヴァザーリは彼の才能と人格を絶賛している.

 と言いながら,スポレートにある上の写真の絵は,フィリピーノの真作であれば,気力の充実が少し足りなかったかも知れない.彼の作品にしては珍しく金地の板絵だ.

 フィリピーノのテンペラ画,もしくは油彩の板絵では,サント・スピリト聖堂の「聖母子と聖人たち」(1493-96年)),バディア・フィオレンティーナ教会の「聖ベルナルドゥスの幻視」(1482-86年),ボローニャのサン・ドメニコ教会の「アレクサンドリアの聖カタリナの神秘の結婚」(1501年)は似た傾向のある傑作で,それよりは少し落ちる印象があるが,ルッカのサン・ミケーレ・イン・フォーロ教会の「4人の聖人たち」(1483年)は,彼の作品の印象を形作っている.

 さらに,サンタ・マリーア・デル・カルミネ教会ブランカッチ礼拝堂のマゾリーノ,マザッチョが未完のまま残したフレスコ画を完成させ,ローマのサンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂のカラーファ礼拝堂,フィレンツェのサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂のストロッツィ礼拝堂でも見事なフレスコ画を描いた.礼拝堂のフレスコ画装飾は一人ではできないので,やはり助手や弟子を抱えた工房を統率していた親方だったはずだ.

 ヴァザーリは彼の弟子として,ラファエッリーノ・デル・ガルボとニッコロ・ツォッコロの名を挙げて,師には遠く及ばなかったとしているが,少なくとも前者が多くの作品を遺したことに関しては,その伝記で述べると言っているので,それなりの評価は得たであろう.フィレンツェで幾つかの作品を観ることができるので,ラファエッリーノはトスカーナでは決して群小画家ではないし,私は好きな芸術家だ.

 いずれにしても,天才,大家が輩出したルネサンス期にあってこそ地味に思える存在だが,現存作品を見る限り,フィリピーノがすぐれた画家だったことに誰も異論はないだろう.上の写真の絵は,参考文献やウィキペディアの作品リストには挙げられていないし,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにも取り上げられていない.

 この博物館の作品群を紹介したページに拠れば,フィリピーノ作とされるこの祭壇画は1485年の作とことだ.博物館の説明プレートではペルージャ県プレーチのサン・モンターノ教会にもともとあったものとのことだ.年代は1485年頃とあるが,特にフィリピーノ作品とされる根拠は挙げていない.嬰児イエスの顔は確かにフィリピーノ風なので,一応これは彼の作品だと信じたい.

 情報がきちんと整理されているキー・トゥー・ウンブリアの「スポレート司教区博物館」紹介ページに拠れば,サン・モンターノ教会はプレーチの中でもトディアーノという地区にあり,ここは伊語版ウィキペディアに拠れば2001年の統計で人口35人であり,特に鄙びた所であるようだ.なぜこのような小村に,洗練された作品があったのか,事情は不明とされている.

 フレスコ画ではないので,画家本人が直接その場にいなくても,拠点とする工房で仕上げて,運んでもらえば良いのだが,1485年前後はフィリピーノはローマにも呼ばれて仕事をする人気画家で,若き巨匠になりつつあったから,決して安い値段では描いてもらえなかっただろう.

 時代遅れな感じの金地背景は,注文主の趣味を反映しているであろうから,新進のルネサンス芸術家にそれをさせるということは,かなりの有力者が仲介したと考えて良いのだろうか.

 描かれている2人の聖人のうち,バルトロマイはおなじみの聖人だが,もう一人の聖人モンターノに関しては全く知らなかった.

 おそらくラテン語でモンタヌス(モンターヌス)になるであろう人物の情報は伊語版仏語版のウィキペディアにあった.仏語版に拠れば,モンタヌスと言う人物は「カルタゴのモンタヌス」と「プリュギアのモンタヌス」がいて,前者は殉教聖人だが,後者は異端の疑いを持たれた宗教運動の唱道者のようなので,歴史的には重要だが,聖人ではない.伊語版のモンターノは「プリュギアのモンタヌス」ついて書かれているので,この絵の人物ではない.

 今のところ(2016年8月26日参照),ウィキペディアの範囲内では情報は得られないが,キー・トゥー・ウンブリアがリンクしている,もともと絵があったサン・モンターノ教会の紹介ページには,パンノニアで,ディオクレティアヌス帝の迫害で殉教したと説明されており,それをヒントに検索を絞り込むと,カトリックの聖人,福者の紹介ページがヒットし,ここにほぼ十全の情報があった.

 属州パンノニアの首邑シルミウム(英語版伊語版ウィキペディア)で,304年に妻マクシマとともに川に投げ込まれ溺死して殉教したということだが,古代には助祭であれば聖職者でも結婚が認められた(現代も,典礼をラテン語から各国語で行うことを認めた1960年代の第2ヴァティカン公会議で一部復活)こともあってか,彼は同時に聖職者でもあった.上の写真も彼は本を持ってダルマティカと称される,助祭に特徴的な衣装を纏っている.

 写真には写っていないが,聖母子を挟んで聖モンターノの反対側にいる聖バルトロマイについては,伊語版ウィキペディア「トディアーノ」に,その地の守護聖人はバルトロマイと書いてあり,トディアーノにはサン・モンターノ教会の他に,サン・バルトロメオ教会があるようなので,教会の名の元になった聖人と,地域の守護聖人を聖母子の脇に配置したのであろう.

 フィリピーノにしては弛緩した印象を受け,真作かどうか疑問を持っていたが,調べているうちに愛らしい絵に思えてきた.嬰児キリストの顔がフィリピーノの作品を思わせる以上,真作かどうかはともかく,少なくとも彼の作品を意識した画家の作品ではあったろう.

写真:
ベッカフーミ
「イエスの誕生」
司教区博物館


 フィリピーノ・リッピよりも,もっと個性が顕著なドメニコ・ベッカフーミ(英語版伊語版ウィキペディア)の作品もこの博物館にあった.スポレートの近くの,現在はペルージャ県セッラーノという自治体所属の地域となっているモンテサントのサンタ・マリーア・アッスンタ教会の祭壇画だったとのことだ.

 これも真作なのかどうかは私にはわからないが,フィリピーノの場合と異なり,いかにもベッカフーミ風の佳品である以上,真作ではないと断ずる根拠もないように思える.観た人を幸福にする美しい作品だと思う.書架にある,

 Pascale Dubus, tr., Michael Taylor, Domenico Beccafumi, Paris: Sosiété Nouvelle Adam Biro, 1999

を参照すると,巻末に「新たに帰属された作品群」と言う白黒写真を使ったリストがあるこの本で,初めから本人の作品として,カラー写真掲載の上,3分の1ページ(写真ページを挿んでpp.93-96)を説明に費やしてる.

 このデュビュと言う著者がベッカフーミ研究においてどれほどの位置を得ている人なのか分からないが,有名画家のモノグラフを書いた著者が真作としているのだから,私たちとしては真作性を疑う理由はないだろう.

 この博物館では中世の祭壇画を多くみることができ,巧拙はともかく興味深かった.

 「サン・マルティーノの祭壇掛け布」と称される(キー・トゥー・ウンブリア)聖母子を中心として周辺の4場面のコマ絵がある絵が特に面白かった.13世紀の作品でペルージャ県トレーヴィのサン・マルティーノ教会にあったものらしく,4つの場面のキリストとマルティヌスの生涯の物語から構成されている.「祭壇掛け布」(dossal)と言う名称だが,板にテンペラで描かれた絵にしか見えない(博物館の説明プレートには「板にテンペラ」とある).

 金地板絵の祭壇画も複数あり,その中に「モンテファルコのサンタ・キアーラ教会の第一の親方」とバルトロメオ・ミランダに作者の帰属が明示されている作品がそれぞれ2つずつあった.

 これらの他にも作者帰属を明示した(チェージの親方の周辺作家とか,ガリアンヴェッキオの親方とか,フィレンツェでおなじみのマドンナ・ストラウスの親方など)祭壇画もあり,中央部の聖母子のパネルが彫刻(木彫に見えるが解説プレートでは「張り子」カルタペスタとある)に置き換えられているものもあった(絵の部分の作者はジョヴァンニ・スパラパーネとされる).

 残念だったのは,ネーリ・ディ・ビッチ「雪の聖母と聖セバスティアヌス,教皇リベリウス」と言う金地板絵半円アーチ型一枚パネルの祭壇画が見られなかったことだ.プレーチ所属のアベート地区の教区教会にあったものとのことだ.1465年の作品と言うことで,たとえ現代の視点からは下手な画家であっても当時はフィレンツェの繁盛している工房主だったネーリが片田舎まで直接来て描いたのではなく,やはりフィレンツェで描いて,誰かが運んできたものと推測する.

 新しい絵ではセバスティアーノ・コンカの作品が2点,カヴァリエール・ダルピーノの絵が1点あったようだが,写真に収めることができたのは,コンカの「聖母の誕生」のみだ.



 自由時間にこの博物館を見学できないものかと,インターネットで開館時間を調べたら,月曜日は閉館と分かり,すっかり諦めていたのに,思いがけず見学できた.ウンブリアの地方教会にあった金地板絵などの祭壇画,フィリピーノ・リッピの「聖母子と聖モンターノ,聖バルトロマイ」,ベッカフーミの「イエスの誕生」を観られたのは大変幸運だった.

 ウンブリアの地方都市の博物館にトスカーナの有名画家たちの絵が所蔵され,それらがもともと,トディアーノ,モンテサント,アベートと言った,現在では自治体(コムーネ)のさらに下位区分の地域(フラツィオーネ)となっている小村の教会にあったことから,私たちはこの時代におけるルネサンスの地方への浸透と言う現象を見ることができるのではないだろうか.

 もちろん,ウンブリアにはトスカーナとは相互影響を経ながらも独自に展開した芸術の伝統があり,地元の画家も多くいたはずだし,その一端にも今回は触れることができた.

 しかし,時代の先端だったトスカーナのルネサンスの息吹を,この時代のウンブリアの人々も求めたのであろうと思われる.そうした雰囲気の中で,ウンブリアのルネサンスも醸成され,その中からペルジーノが出てきたと考えれば良いのであろうか.


サンテウフェミア聖堂
 司教区博物館の展示室を進むと,サンテウフェミア(サンテウフェーミア)聖堂(英語版伊語版ウィキペディア)のトリブーナ(階上廊)に出る.

 現在は教会としては機能しておらず,「聖堂」(バジリカ)と言う称号は付されているが,教会としての非神聖化手続きがとられたのも既にいつのことかは不明な状態で,大司教宮殿の中庭に組み込まれているため,博物館に入館すると拝観できる(共通券)ことになっているようだ.

写真:
サンテウフェミア聖堂の堂内
階上廊と身廊,奥は後陣


 博物館に入る前にファサードは見たし,もちろん事前にロマネスクの教会と言うことは知っていたが,実際に足を踏み入れると,半円アーチと厚い壁,太い柱で支えられ,窓が小さくて少ないロマネスク感に満ち満ちた堂内は,絵画や彫刻とはまた別種の感動を呼び起こす.

 ラテン十字型ではなく,長方形の箱型の三廊式で,翼廊と交差部はない.側廊の上に階上廊があり,身廊と2つの側廊のそれぞれが後陣を持っている(「三身廊」とする考え方もある).

 階上廊は両方とも後陣まで続き,脇後陣も上下に区切られている.所々にイオニア式,コリント式の柱頭も見られるので,古代建築の再利用部分があるのかも知れない.

 中央の後陣上部の半穹窿に残るフレスコ画は「永遠の神」と熾天使たちで,14世紀に描かれ,16世紀に描き直されたものとのことだ.柱の一部に聖人のフレスコ画(15世紀)も遺っている.

 柱,壁などの構造物以外で古いのは,テーブル型中央祭壇の正面を飾る装飾で,コズマーティ様式の2列の縦帯の間に,やはりコズマーティの渦巻き文様が作る5つのメダイオンがあって,中央には「神の仔羊」,周囲には4人の福音史家の象徴物の見事な浅浮彫が施されている.これは12世紀に遡るロマネスクの遺産だ.

 中央後陣後陣壁面の手前には,英語版ウィキペディアでは板絵の彩色磔刑像,伊語版ウィキペディアでは,ある写真では同じ磔刑像,別の写真では「聖母の死」,現地で買った英訳案内書,

 Loretta Santini / Cinzia Valligi, eds., tr., Antia Kroll, Spoleto: Art and History, Sesto Fiorentino: Perseus, n.d.

の掲載写真では三翼祭壇画が置かれているが,私たちが拝観した時は何も飾られていなかった.

 「聖母の死」以外は博物館の所蔵作品であることは見当がつく.少なくとも三翼祭壇画は1450年頃,この教会の中央祭壇のために描かれた「サンテウフェミア三翼祭壇画」であろう.バルトロメオ・ダ・ミランダもしくはサンテウフェミア三翼祭壇画の親方が作者で,主題は「被昇天の聖母と聖人たち」(聖人はスポレートの聖ヨハネと聖ルキア)とされる.

 「スポレートの聖ヨハネ」(サン・ジョヴァンニ・ダ・スポレート)に関してはあまり情報が無いが,それでも検索するとウンブリアのフランチェスコ会のHPがヒット(聖モンターノの情報を得た聖人・福者の紹介ページにもほぼ同じ文面の情報)した.

 それに拠れば,聖人は9世紀の公国治下のスポレート大司教だった人物で,公爵が不在の間にイスラム教徒が攻めてきて,そうした危機的状況の中でも信者を訪ね,宗教儀式を行い,祭服姿でイスラム教徒に槍で突かれ,斬首された人物らしい.司教聖人と殉教聖人の両方に該当するのだろう.

 キー・トゥー・ウンブリアではゴート人に殺された6世紀の司教としているので,「スポレートの聖ヨハネ」は少なくとも2人いることになる.

 サンテウフェミア教会の起源は,7世紀初頭にスポレート公爵テオデラップ(と言う表記で良いかどうか,世界史では習わなかった人名である)(英語版伊語版ウィキペディア)治下の時代に建造された礼拝堂に遡る.

 それから随分間が開いた980年頃,ベネディクト会の女子修道院が開かれ,その際に教会もできた.初代修道院長となったグンデラダと言う女性が,上述の「スポレートの聖ヨハネ」の聖遺物(ご遺体であろう)を発見して,この教会に移し,サンティ・ジョヴァンニ・エ・エウフェミア教会ができた.

 12世紀に既に廃院となっていた女子修道院を司教館に改築した際,当時の司教が「スポレートの聖ヨハネ」の聖遺物を郊外のサン・ピエトロ教会に移し,教会堂もロマネスク様式に全面改築され,現在の姿になったわけだが,これも,実は20世紀にもとの姿に戻したもののようだ.

 800年の歳月の間に,様々な姿になったようだが,今は,ロマネスクの原型に戻ったことを素直に喜ぶにとどめる.

写真:
サンテウフェミア聖堂に残る
ランゴバルド風の装飾柱
8-9世紀(柱自体は4世紀)


 身廊と側廊を分かつ列柱の中に一本だけ,他は円柱なのに,階上廊の下の部分が四角い柱があった.

 植物文様のパターン装飾は多分,北イタリアの見られるようなランゴバルド風の浮彫なのではないかと思う.8世紀末から9世紀初頭まで遡るとすれば,おそらくロマネスク建築である現在の教会以前の建造物からの転用であろうと思われる.



 この教会を拝観して,ヴェローナのサン・ロレンツォ教会(英語版伊語版ウィキペディア)を思い出した.

 私の記憶では,ヴェローナのサン・ロレンツォも,射し込む陽光のせいかもしれないが,白い印象があったが,今,ウェブ上の写真を参照すると,実際には煉瓦とを石が交互に使われた柱や壁面は,サンテウフェミアとはだいぶ違う.

 しかし,サン・ロレンツォも,イタリア語ではマトロネーオとも呼ばれ,『伊和中辞典』には「≪建≫マトロネオ(ビザンチン様式の教会の,内壁から張り出した婦人用の歩廊)」と説明されているトリブーナ(階上廊)が立派で,印象に残っていた.

 これは私だけの感想ではないらしく,サン・ロレンツォの建築に携わったヴェローナの職人集団がサンテウフェミアの建設に関わったと推測して,サンテウフェミアの現存する建物の建設に関するはっきりした記録はないものの,サン・ロレンツォに1110年の記録が残っていることから,それ以降の12世紀と推測する説がサンテウフェミア教会の伊語版ウィキペディアに紹介されている.

 サン・ロレンツォは階上廊の下の側廊では交差ヴォールトが使われているが,身廊はバレル(トンネル)・ヴォールトを支えるような大きなアーチが実際には木組み天井を支えていて,イタリア的に思える.

 一方,サンテウフェミアは身廊も交差ヴォールトが使われている.幾つか聞きかじった用語を並べて,様々推測を重ねることはできるが,いずれにしても素人判断なので,部分的には古代末期,中世初期の建築要素も転用されているが,基本的にはロマネスク中期以降の建造と考えておくことにする.



 今回,スポレート近郊のロマネスク教会を拝観することは,リッピのフレスコ画とともに,このツァーに参加申し込みをする大きな要素の一つになっていたが,司教区博物館見学とその一部になっているサンテウフェミアの堂内拝観は,パトリツィアさんのお力と,添乗員Tさんのご判断によるもので,これを観られたかどうかは,私にとっては大変大きなことだったように思う.

 ロマネスク教会と言っても,後の時代に様々な要素が付加されていることが多く,それはそれで魅力的で,そちらに目を奪われたりしながら,なかなか「ロマネスク」に集中できない.

 アッシジ,スポレートの大聖堂も外観は立派なロマネスク教会だが,内装はバロックの改築がほどこされている.現役の教会であれば,それもやむを得ないことだろう.サンテウフェミアも新しい時代の付加が全くないわけではないけれども,教会の基本構造をしっかり鑑賞することができて,満足の行く拝観となった.

 次回は,スポレート近郊の2つのロマネスク教会,ランゴバルドの小神殿,スポレート最古のフレスコ画が残る聖イサクのクリプタについて報告する.






スポレート音楽祭のフィナーレの会場
ドゥオーモ広場に続く階段にて
右手奥はサンテウフェミア教会の後陣