フィレンツェだより番外篇
2016年10月7日



 




ロマネスクの浮彫が遺るファサード
サン・ピエトロ教会
スポレート



§2016 ラツィオ・ウンブリアの旅 - その12 スポレート その3

個人的にはスポレート,パレストリーナが魅力で参加したツァーだが,本来の旅のテーマはエトルリアとロマネクスだった.前半,ラツィオ州でエトルリアの遺産に触れ,後半,ウンブリア州に入って,アッシジ,スポレートで続けてロマネスクの遺産に触れることができた.


 ロマネスクに関して勉強させてもらった本の一冊,

 尾形希和子,『教会の怪物たち ロマネスクの図像学』 講談社,2013(以下,尾形)

は,スポレート郊外のサン・ピエトロ教会(英語版伊語版ウィキペディア)のロマネスクのファサードを写真付きで紹介しており,世俗の動物譚のエピソードが大きな部分を占める浮彫彫刻は,「まるで『動物誌』の写本を見ているようだ」(p.14)としている.

 スポレート観光の最後の訪問予定が,郊外の丘の斜面にあるこのサン・ピエトロ教会だった.緩やかな坂道を少し上ったところでバスを降り,階段を上ると教会があった.着いたときには午後の日差しはもうだいぶ傾いていて,ロマネスクのファサードは柔らかい光に包まれていた.

 この教会の見学に先立って,市内で一つ,郊外でもう一つ,別のロマネスクの遺構を見学し,外観だけになってしまったが,ランゴバルドの遺産も見学しているので,訪問した順に従って感想を述べ,最後にサン・ピエトロ教会について報告する.


サンタンサーノ教会
 スポレートの第一回で報告したドゥルスス門の隣の傾斜地に,新古典主義様式の新しい外観の教会が建っている.サンタンサーノ教会(英語版伊語版ウィキペディア)と言い,18世紀にミラノ出身の建築家アントーニオ・ドッティが設計した教会で,コリント式柱頭を持つジャイアント・オーダーと,ギリシア神殿風の破風は,それなりに美しい.

 ポルターユの上の浮彫は,20世紀にアントーニオ・チンベッリによって作成された「聖母子とパドヴァのアントニウス,福者コッラツォーネのシモン」で,この教会が19世紀末にフランチェスコ会に移管されたことを示している.現在の正式名称はサンティ・アンサーノ・エ・アントーニオ教会と言うようだ.

写真:
サンタンサーノ教会


 堂内には油絵の祭壇画が数点あるが,それらを描いたのは,今となってはほとんど「無名」と同義の画家たちだ.中央祭壇の「聖アンサヌスの殉教」を描いたアルキータ・リッチは,伊語版ウィキペディアには立項されていないが(2016年8月28日参照),かろうじて英語版に情報があった.

 1560年にウルビーノで生まれた,同郷のラファエロより77歳,フェデリコ・バロッチより約25歳年下の画家で,シピオーネ・ボルゲーゼの依頼により,1613年に伊達政宗に派遣されて「慶長遣欧使節」としてヨーロッパにやって来た支倉常長の肖像を描いた画家と説明されている.

 「国立西洋美術館」の2014年の特別展「支倉常長と南蛮美術 400年前の日欧交流」の紹介ページでも,そのことは確認できる.

写真:
ロ・スパーニャ
「聖母子と聖人たち」断片


 話題になるような芸術作品は殆ど無いと言って良い堂内で少し目を惹いたのが,壁面に残るフレスコ画を祭壇枠で囲んで「聖母子」の祭壇画のようにした作品だった.フレスコ画だから,もともとこの教会のために描かれたのだろう.

 この「聖母子と聖人たち」を描いたのは,スペイン出身でペルジーノ工房にいたジョヴァンニ・ディ・ピエトロ(英語版伊語版ウィキペディア),通称ロ・スパーニャ(女性名詞である国名「スペイン」に男性の定冠詞)だ.

 断片とは言え,聖母子はほぼ完全に残っており,天使たちも少なくとも上半身は残っている.両側の聖人は,(向かって)左側は十字架と指差している手が見えるので,洗礼者ヨハネであろうが,右側の人物は払子のようなものを持っているので司教聖人と思うが,わからない(キー・トゥー・ウンブリアは「異端者を拒む笞」として,聖アンブロシウスとしている).

 ロ・スパーニャは,伊語版ウィキペディアによれば1450年頃の生まれで,1528年が没年,英語版は生年を示さず,1529年頃に亡くなったとしている.例によってキー・トゥー・ウンブリアの情報が詳しく,1492年にフィレンツェのペルジーノの工房にいたこと,1502年にスペッロでピントリッキオの助手を務めていたことは記録上確認できるようである.

 彼がペルジーノ工房にいた1492年は,フィレンツェではロレンツォ・イル・マニフィコが亡くなり,スペインではレコンキスタが完成し,コロンブスが西インド諸島に到達した年だ.日本では,後に若い頃の織田信長を諫めて自刃したと言う美談の伝わる平手政秀が生まれた年とされる.まだ戦国時代で,信長も生まれていない.

 通称が示すように,スペイン生まれだが,何らかの事情でイタリアに来て,ペルジーノの工房で修業し,ピントリッキオの助手も務めたこともあるように,主としてウンブリアで活躍し,スポレートで亡くなった.スポレートの地元の画家と言っても良いだろう.

 ウィキメディア・コモンズにたくさんの写真があり,若い頃の作品を確認すると,こちらが恥ずかしくなるくらいペルジーノ風の絵を描いているが,スポレートのサン・ジャーコモ教会の後陣フレスコ画「聖母戴冠」は写真で見る限り,大聖堂のフィリッポ・リッピの同作品を参考にしたのはほぼ間違いない.

 リッピはペルジーノ以前に活躍した巨匠だから,ロ・スパーニャが,見られる限り,作風の異なる先人の作品を学び,それらを取り入れた多くの作品を描いたことが推測される.ローカル・ぺインターとしてウンブリアのルネサンスを支えた画家と考えて良いだろう.

写真:
11世紀のフレスコ画
「聖イサクの物語」


 ところで,このサンタンサーノ教会の最大の見ものは,新古典様式の建物でも,堂内の祭壇画でもなく,「聖イサクのクリプタ」(ラ・クリプタ・ディ・サンティサッコ)と呼ばれる,古代神殿の遺構を利用して建てられた地下祭室(クリプタ)である.

 前々回でも簡単に触れたが,このイサクは旧約聖書に登場する「イサクの犠牲」で知られる族長ではなく,6世紀初頭に,単性論寄りの思想的背景を持つ東ローマ皇帝(既に西ローマは滅亡)アナスタシウス1世の迫害を逃れ,シリアからモンテルーコに修道の場を求めた隠修士聖人である.

 出典は,ほぼ同時代の大教皇グレゴリウス1世の著作『対話』にあると言うので,少なくともその時代には伝説の人物と言うより,実際にキリスト教の布教に役立つ経歴の人物だったことになる.

 上の写真はクリプタの壁面に遺るフレスコ画のうち,イサクにまつわるエピソードを描いた部分で,左は椅子に腰かけたイサクが前に跪く若者を祝福している場面,右はグレゴリウスの『対話』に出てくる有名な挿話だ.

 篤信者がイサクたちに寄進すべく,従者の少年に食料の入った2つの籠を預けたが,少年は後で自分が貰おうと思って1つを茂みに隠してしまう.これを察知した聖人が,籠の中には毒蛇が入り込んでいるかも知れないので気を付けるように助言し,実際にその通りだったので,少年が恥じ入ったと言う話らしい.

 もともとあった民話が聖人のエピソードに混入したような物語だが,とことん悪人と言う人間が出てこない良い話だと思う.他には,狼に襲われてパニックに陥った羊をイサクが落ち着かせる場面などがある.

写真:
アーチのカーヴを活かして
表現している「最後の晩餐」


 フレスコ画の題材となっているのは,イサクの物語の他に,聖書に基づくものもあり,今となっては何を描いたのかわからない場面や,聖人や聖職者を特定できない場面もある.

 特定が容易なのは,「聖母子」(1番下の写真),「ペテロの足を洗うキリスト」,「最後の晩餐」(上の写真)などで,光輪のないユダがキリストからパンを貰っているが,キリストが描かれていた場所は,窓を開けるためであろうか,破却されてしまっている.

 古拙な感じのするロマネスクのフレスコ画は,巧拙を超えて独特の魅力がある.失われた部分が多く,不完全とは言え,相当な分量の絵が残っていて,中には読み解きのできる絵柄,特定できる聖人がいるこのクリプタのフレスコ画には,特にも心魅かれた.

 これまでにオビエドのサン・イシドロ教会,アクイレイアの大聖堂でロマネスクのフレスコ画を見て,美しいとも巧いとも断言できない,教科書的な鑑賞に当てはまらない世界を体験している.

 ロマネスクの教会堂建築や柱頭彫刻の魅力は,多くの現代人にとって既に自明になっていると思うが,フレスコ画についても,見る機会を重ねるごとに,やはり古代やルネサンスとは違う風趣にますます魅せられていくだろう.


サン・サルヴァトーレ教会
 サン・サルヴァトーレ教会(英語版伊語版ウィキペディア/キー・トゥー・ウンブリア)はスポレートの郊外にある.広い墓地の傍でバスを降り,墓地の中をしばらく歩いた先に現れた短い階段を上ると教会があった.

 この教会は,尋常でない蒼古感に満ちており,起源も,建物も相当古いのは確実だが,歴史的には不明な点が多く,実は19世紀後半まではサン・サルヴァトーレと言う名前ではなかった.

 ここに宗教施設が建てられた時期は,古ければおそらく4世紀から5世紀まで遡り,建物はランゴバルド族支配の時代に建てられたのであれば,7世紀か8世紀であろう.記録上確認できるのは,11世紀に修道女たちがここに集い,聖コンコルディウス(コンコルディオ)の名を冠した修道院ができたことだ.

 サン・コンコルディオ女子修道院はやがて男性修道士たちに移管されて,サン・コンコルディオ教会(11世紀)となり,さらに,5世紀に聖センティウス(センツィオ)が埋葬された場所に建てられた教会を起源とするという説に基づき,聖センティウスの名が付加されてサンティ・コンコルディオ・エ・センツィオ教会(12世紀)となった.

写真:
サン・サルヴァトーレ教会


 その後,サンティッシモ・クローチフィッソ教会などの名称を経て,19世紀になって初めてサン・サルヴァトーレ教会という名称になるが,それも,この教会の創建が古く,そして不明であることが招いたことと言える.

 1860年にボナヴェントゥーラ・ヴィアーニと言う神父が,この教会は,815年にカール大帝の息子であるルイ(ルートヴィヒ)敬虔王がベネディクト会のサンタ・マリーア・ディ・ファルファ大修道院に所有を認めたと言う記録のあるサン・サルヴァトーレ修道院であると推定し,以来,サン・サルヴァトーレ教会(英語版ウィキペディアは「聖堂」)と称されるようになったということだ.

 現在は,ヴィアーニ神父の推定が正しいとは思われていないようだが,サン・サルヴァトーレと言う名称は残り,私たちもそのように呼んでいる.いずれにせよ,この教会の起源はおそらく,古代末期の聖人たちの墳墓の地であり,その記憶は記録に残る教会の名称に反映し,その痕跡は堂内のフレスコ画に遺っている.

写真:
三身廊式教会の
右脇後陣のフレスコ画

中央:「父なる神,聖母子と聖人たち」
1478年
左下:「コンコルディウスとセンティウス」
14世紀


 上の写真の左下の2人が,かつて教会の名称となった聖人たちだ.左が聖コンコルディウス,右が聖センティウスで,このフレスコ画は右側の脇後陣に描かれている.

 古くても14世紀くらいの作品でありながら,ゴシック後期からの技法的進歩の反映を全く感じさせない絵である.しかし,地方の小さな教会にはこのような古拙なフレスコ画が良く似合う.観て写真に収めることができたのは,まったく幸福な体験だった.

 コンコルディウスはアントニヌス・ピウス帝(キー・トゥー・ウンブリアはマルクス・アウレリウス帝)治下の2世紀のスポレートで司教となって布教に務めたが,禁教の時代であったので,迫害によって殉教したとされ,センティウスは諸説あって殉教聖人とされることもあるが,スポレート近郊で修道し,司祭の役目も果たし,龍を退治したともされる6世紀の人物である.

 センティウスは上の写真の右側のフレスコ画にも現れる.このフレスコ画は半穹窿部分が「父なる神」で,その下は「聖母子と聖人たち」が描かれている.聖人のうち,右側は裸体の若者が矢を浴びているのでセバスティアヌスとわかるが,左側の人物は聖職者の姿で,足元に龍がおり,これを退治したセンティウスであろうと思われる.ゴッツォリの追随者の作品で,記録が残っているのであろうか,制作年代も1478年とキー・トゥー・ウンブリアには書かれている.

 中央後陣に16世紀のベルナルディーノ・メッツァストリス(英語版伊語版ウィキペディア/キー・トゥー・ウンブリア)に帰せられる「磔刑と聖人たち」のフレスコ画があり,そこでも磔刑の左右の聖母と福音史家ヨハネのそれぞれの隣に,洗礼者ヨハネとセンティウスが描かれている.センティウスは龍を槍で突き刺している.


写真:サン・サルヴァトーレ教会の堂内


 不確かな由来はともかく,この教会の堂内は,魅力に満ち溢れている.実際に,ランゴバルド時代の建築として2011年に世界遺産に登録されたとのことであるから,この建物の建設が8世紀以前に遡ることを,全員ではないとしても多くの専門家が認めたと言うことであろう.

 この教会を上から見ていないので詳しくはわからないが,ウィメディア・コモンズの写真から推測すると,この教会の内陣(ラテン十字型教会なら身廊と翼廊の交差部だが,この教会には交差部は無いので,中央後陣の前の部分を一応,内陣と称しておく)の上部はクーポラ(丸屋根)ではなく,四角い屋根が二層になっていて,その上に尖塔のように八角形の小さな構築物が多分やはり八角形の屋根を頂いている.この構築物は明かり取りで,18世紀に付加されたものとのことだ.

 しかし,内側から見ると(上の写真の左上),アーチとスキンチで八角形の屋根を支えているように見える.外観の八角形の構築物はかなり小さいので,内側から見える八角形の天井は,実際には四角い屋根の裏側と想像される.

 ともかくこの屋根の外観は見ていないので,あくまでも内側しかわからないが,スキンチとともに屋根を支えるアーチの下には,様々な形の柱頭を頂く柱がある.

 このアーチが構造的に機能しているのであれば,弧の内側に壁はいらない訳だが,何故かそこに古代神殿のようなフリーズのある梁(アーキトレイヴ)に支えられた壁があり,このアーキトレイヴはコリント式などの柱頭を頂く,古代神殿風の柱に支えられている.

 一見すると古代神殿の建築材の再利用に見えるが,それを確信させてくれる説明には,今のところ出会っていない.

写真:
サン・サルヴァトーレ教会
身廊と側廊を隔てる壁


 堂内にはストゥッコによる装飾やフレスコ画があったようだが,今は失われている.前者が遺っていれば,チヴィダーレで見たランゴバルドの遺産のような素晴らしい芸術が見られたかも知れないが,無いものねだりとなってしまった.

 14世紀から16世紀の新しいフレスコ画が幾つか遺っていて,これとて,中世からルネサンスの文化を伝える貴重な遺産だが,ランゴバルド建築の教会の堂内では,浮いているように思われる.

 身廊と左右の側廊(もしくは3つの身廊)を分かつ壁には上の写真のようにアーチを頂く出入り口の痕跡が見られ,場所によってはそのアーチを支える柱も見られるが,現在は,その出入り口の殆どが壁の一部となっており,柱も壁に埋め込まれて,構造とは無関係の飾り柱のようになっている.身廊と左右の側廊もしくは3身廊が注列ではなく,壁で区切られている堂内の景観を見たのは,多分初めてではないかと思う.

 この教会のファサードとその装飾も独特で興味深いが,どこまでがオリジナルもしくはそれを反映したもので,どの部分が後世の付加,改変なのか,私が理解するには相当の時間を要するように思う.要するにペンディングだが,仕方がない.


クリトゥンノ小神殿
 クリトゥンノ(英語版伊語版ウィキペディア)は古代にはクリトゥムヌスと言うラテン語名を持つウンブリアを流れる川で,この川の源泉近くの川岸にランゴバルド族の建てた小神殿(テンピエット)(英語版伊語版ウィキペディア)がある.

 小神殿は川の名を冠してクリトゥンノ小神殿と呼ばれ,これが存する自治体(コムーネ)はペルージャ県に属するカンペッロ・スル・クリトゥンノ(英語版伊語版ウィキペディア)と言うようだ.

写真:
クリトゥンノ「小神殿」
ペディメント(破風)
アーキトレイヴ
コリント式柱頭をいただく柱


 先に紹介したスポレート近郊の教会と紛らわしいが,この建物は1810年までは,サン・サルヴァトーレと言う名の教会として使われていたとのことで,堂内にはキリストやペテロ,パウロを描いたフレスコ画も残っている.

 何のために造られた建物かも記録上は確かめられず,異教の神殿と思われていた時代も長かったが,現在は,7世紀にランゴバルド人のスポレート公爵によって,キリスト教の教会として建てられたと言う説が有力なようで,2011年に,ランゴバルド族が遺した芸術として世界遺産に登録されている.

 古代神殿だと考えられていた根拠としては,小プリニウスの『書簡集』第7巻の第8書簡に,川の神クリトゥムヌスに捧げられた古い神殿がフラミニア街道沿いにあって,神託で崇敬を受けていたという記述があること,川の名前も大詩人ウェルギリウスの『農耕詩』第2巻に出てくることなどが挙げられる.

 堂内を見学する予定だったので,現地ガイドのパトリツィアさんが何度も足を運んで,開いているどうか確認してくださったが,鍵を預かる管理人が不在なのか,しばらく前からずっと閉まっているとのことで,ついに入堂できなかった.

 したがって,内陣の彫刻も,ウンブリア最古と言われるフレスコ画も見られず,道路側の鉄柵の外から背面のペディメントを眺め,前にまわってクリトゥンノ川のほとりに降りて,斜め下からファサードを写真に収めるだけの見学となった.


サン・ピエトロ教会
 冒頭述べたように,今回のツァーの主要テーマの一つである「ロマネスク」に関する最大の見ものは,スポレート郊外サン・ピエトロ教会(英語版伊語版ウィキペディア/キー・トゥー・ウンブリア)のファサードに遺る浮彫装飾だった.

 この教会の創建について記した5世紀の碑文があったようだが,既にオリジナルはなく,9世紀か10世紀に作成された写しが現存しているらしい.

 一つは32行のラテン詩の形で,419年に司教だったアキレウスがペテロに捧げる教会を創建したことを記したもの,2つ目は4行のラテン詩で,悪の連鎖をも溶かすペテロの権能を語ったもの,3つ目はアキレウスがローマで得たペテロの聖遺物である「鎖」の一部(鑢をかけた後の屑らしい)を収めた教会を建てたとするもので,これが「鎖」に関する最古の言及のようだ.

 この教会は創建された5世紀からずっとサン・ピエトロ教会である訳だが,建物は創建当時のものではない.最初に建てられた教会のアーキトレイヴが1960年代に発見され,ロッカの博物館に展示されており,私たちも見て,写真に収めた.それには神の加護のもとに創建のプロジェクトが遂行されたと彫られている.




 ファサードのロマネスクの浮彫は,現在の教会の基となる建物と同時に制作されたと思われ,12世紀から13世紀初頭のことと推測されている.1329年にスポレートの皇帝党(ギベッリーニ)の焼き討ちに遭い,建物は焼失したが,ファサードの浮彫は残った.

 1393年から再建が始まり,17世紀に完成した.外観は,ルネサンス建築なのであろうが,もう少し新しく感じられ,堂内は簡素だが,バロック建築を思わせる.いずれにせよ,浮彫は遅くとも13世紀のロマネスク芸術で,3つ扉口の両側にそれぞれ一対ずつ配されたライオンがやはりロマネスク感を増幅している.

 ロマネスクの浮彫彫刻と言えば,身体のプロポーションが頭でっかちという印象(私だけかも知れないが)がある.ロマネスクの浮彫彫刻を網羅的に勉強しているわけではないので,類例があるのかどうかわからないが,サン・ピエトロ教会の浮彫彫刻は頭でっかちな感じが全くなく,古典的均整を感じさせ,良くも悪くも洗練度が高いように思われる.

 強いて言えば,モデナ大聖堂ファサードの浮彫がこれに近いだろうか.「ロマネスク」に期待するプリミティヴ感と言う点からは,フランスで見た柱頭の浮彫彫刻が,より魅力的に思える.

 ファサードは,最上部のルネサンス風三角破風の部分を除くと,三層になっており,最下層に3つの扉がある.中央の扉の周りには,ロンバルディア風なのか,イスラム風なのか,植物文様の装飾が施されている.

 上部には,馬蹄形アーチのような装飾があり,両側に一対の孔雀のように見える鳥が正面を向いた浮彫彫刻があり,コズマーティ装飾のような3連渦巻きがそれぞれの孔雀の下にある.

 アーチと孔雀,その下の中央扉のブロックの両側は,6つの長方形に区切られていて,その中に様々な浮彫があるが,最下段には浮彫は無い.

写真:
上段「善人の死後」
中段「罪人の死後」
下段「ライオンと戦う人間」


 上の写真は向かって左側のブロックの上の3つの浮彫だ.上段は「善人の死後」で,大天使ミカエルが善人と思われる人物の臨終の寝台に腰かけている.面前にある天秤は釣り合っており,善人が天国に行くことが分かる.

 両サイドに,光輪があり鍵を持っている聖人がいる.天国の鍵はペテロのアトリビュートとして知られるが,ここでは2人の人物が鍵を持っており,三角破風の下のブロックの両端にいる聖人がペテロとアンデレとされること,2人が兄弟であることから,この場面の両サイドの人物もペテロとアンデレではないかと思われる.

 中段では(向かって右端で)ミカエルと思われる有翼の人物が死者に背を向け,その場を去ろうとしており,背後の天秤は地獄側に傾いている.寝台に横たわる悪人と思わる死者の髪を悪魔が引っ張って,地獄に通ずるのであろう甕の中に引きずり込もうとしている.

 下段の浮彫と,さらに下の2つの浮彫の3つは全て,ライオンと人間が彫られており,何かまとまったテーマがありそうだが,分からない.一番上は人間が斧を持ってライオンと戦っているように見える.真ん中はライオンと対峙する人間,下はライオンに食われる人間が彫られている.

写真:
上「弟子の足を洗うキリスト」
下「ペテロとアンデレの召命」


 扉を挟んで上記の浮彫と反対側にあるのが,上から「弟子の足を洗うキリスト」,「ペテロとアンデレの召命」(上の写真)で,その下には,上から,多分「二羽のカラスの間で死んだふりをする狐」,「背を向け合う狼と羊」,「グリフィンにも見える有翼の動物に追いすがって噛みつくライオン」と思われる.

 左右ともに,上2枚が宗教的な題材,下3枚が動物寓話的な題材ということになる.動物モチーフの浮彫は「狐物語」やその他の民話的典拠のようなものがあるかどうか分からないが,何かしらの寓意を感じさせる.

 中央扉の両側の装飾の中にも孔雀,草を食む牛,軛に繋いだ牛に耕作をさせる人の浮彫もある.また両側の小さめの扉のアーチの上にも浮彫があり,(向かって)左側上部の浮彫は「龍を退治する大天使ミカエル」,右側は聖職者と思われる人物で,キー・トゥー・ウンブリアは「司教アキレウス」と推測している.

 中層に5つのバラ窓があるのは,見れば明らかだが,中央のバラ窓の周辺に福音史家の象徴物は自分が撮って来た写真を拡大したり,ウェブページの資料を読んで分かった.

 芸術として優れたものなのかどうかは私には判断がつかないが,「ロマネスク芸術を見たい」と思っている者にとって,堂内と外観全体に不満を感じるのは避けられないとしても,ファサードに遺る浮彫に関しては,時間をかけて,じっくり鑑賞したうえで,何を表現し,何を意味し,場合によっては何の寓意になっているかを考えてみたいと思わせる魅力に満ちている.



 今回はスポレートに2泊したので,比較的多くの見どころを回ることができたと思う.それでも拝観が叶わなかったサン・ポンツィアーノ,体力が残っていたら是非拝観したかったサン・グレゴリオ・マッジョーレなど,次に残した課題は多い.

 ロマネスクやゴシックの遺産は無くても,ルネサンスやバロックの時代の絵画,彫刻などがある諸教会を拝観したいと言う気持ちは抑えきれない.サン・ピエトロやサン・サン・サルヴァトーレはもう一度見学したい.

 スポレートはフィレンツェやヴェネツィアとは全く違うが,魅力に満ちた町だ.いつの日か,また訪ね,できれば数日滞在して,教会や古代遺跡を心行くまで観てみたい.

 もちろん,フィリッポ・リッピのフレスコ画には何度でも再会したい.






「聖イサクのクリプタ」で
フレスコ画は「聖母子と2人の天使」