フィレンツェだより番外篇
2016年12月29日



 




「コレッジョとパルミジャニーノ」展の広告
ローマ



§2016 ラツィオ・ウンブリアの旅 - その14 再びローマ

3月17日にローマを出発し,ウンブリアの都市をめぐった旅も終わりを迎え,ローマ近郊の町ティヴォリを経て,再びローマへと戻ってきた.


 まだ,日の高いうちにローマに着きそうだったので,夕方に開く教会を幾つ拝観できるだろうか,と考えながらバスの窓から外を眺めていると,何やら展覧会の広告らしきものが目に飛び込んできた.しばらくすると同じ広告(上の写真)が再び現れ,パルミジャニーノという文字が辛うじて読めた.

 宿にチェックインすると,すぐにインターネットで検索し,これがクィリナーレ宮殿の旧・厩舎で開催中の「コレッジョ※とパルミジャニーノ」という特別展であることを知った.少し遠いが,宿から歩いて行けなくもない距離だ.帰る道すがら,開いている教会を拝観するという計画を即座に立て,すぐに宿を出発した.

 (※時々,「コッレッジョ」と表記して,これはフィレンツェだよりの原則に叶っているが,ラッファエッロではなくラファエロで統一しているので,この画家はラファエロほど有名ではないが,日本語訳されたモノグラフは「コレッジョ」なのでそれに従う.)

 結局,教会については外観のみの見学が1つ,再訪が1つあったが,ともかく短時間で6つの教会を拝観した.ティヴォリの2つのヴィッラでも結構歩いたし,クイリナーレの丘へも歩いていったので,足は棒になっていたが,これでこの旅も最後だと思って頑張った.


最終日に拝観した教会
 トレヴィの泉のはす向かいにあるサンティ・ヴィンチェンツォ・エ・アナスタージオ・ア・トレーヴィ教会(英語版伊語版ウィキペディア)のファサードはバロック風で見事なものに思え,いつか拝観したいと思っていた.

 この教会は,1644年に建築が開始され,完成は1650年,設計した建築家はマルティーノ・ロンギ・イル・ジョーヴァネ(英語版伊語版ウィキペディア)である.

 この建築家の祖父マルティーノ・ロンギ・イル・ヴェッキオ(英語版伊語版ウィキペディア)はロンバルディア州ヴァレーゼ県ヴィッジュ(英語版伊語版ウィキペディア)の生まれで,アルテンプス宮殿,ボルゲーゼ宮殿,カンピドリオの丘のセナトリオ宮殿,サンタ・マリーア・デッラ・コンソラツィオーネ教会サン・ジローラモ・デイ・クロアーティ(スキアーヴォーニ)教会の建築に携わった.

 また父オノーリオ・ロンギ(英語版伊語版ウィキペディア)も建築家で,カラヴァッジョの悪友としても知られ(宮下規矩朗『カラヴァッジョ巡礼』新潮社,2010,p.81),ミラノ大聖堂の未完成部分の造営に関わり,またローマにおけるロンバルディア人のためのサン・カルロ・アル・コルソ教会を設計したが,その完成は息子とピエトロ・ダ・コルトーナに委ねることになった.

 オノーリオはヴィッジュで生まれ,ローマで亡くなったが,息子のマルティーノ・イル・ジョーヴァネはローマで生まれ,ヴィッジュで亡くなった.ヴィッジュに根のある一族だったと言えよう.

写真:
サンティ・ヴィンチェンツォ・エ・
アナスタージオ・ア・トレーヴィ教会
フランチェスコ・マンノ:
「天に迎えられるウィンケンティウス,
アナスタシウス,カミッルス」
1818年


 ファサード程に華やかな堂内ではなかったが,中央祭壇には,フランチェスコ・パスクッチの「聖ウィンケンティウスとアナスタシウスの殉教」,天井にはフランチェスコ・マンノ(英語版独語版ウィキペディア)の「天に迎えられるウィンケンティウス,アナスタシウス,カミッルス」が見られた.他にも絵画はあったが,写真もうまく写らず,情報もあまりなかった.

 パスクッチもマンノも伊語版ウィキペディアに立項されておらず,美術史的には群小画家に属するのかも知れない.幸いに前者は英語版,後者は英語版と独語版のウィキペディアに立項されているので,まずまずの情報が得られる.

 パスクッチは1748年の生まれ,1803年以降に亡くなったとある(英語版ウィキペディア)ので,基本的に18世紀の画家と言えよう.画風としては新古典主義に属するようだ.

 ローマ生まれで,リヴォルノ大聖堂に「イサクの犠牲」,「シナイ山に昇るモーセ」や,ピサの邸宅に「トロイアの陥落」を描いたとされるので,トスカーナにも活躍の場があったと言うことだろう.他にはローマを訪れた外国人の肖像画を描いたと言うことだが,それ以上の情報は今のところ得られていない.

 マンノは1754年パレルモに生まれ,最初は金細工師だったが,画業に着き,1786年にローマに出て,サン・ルーカ美術学校にポジションを得,教皇ピウス6世に寵用されて,多くの仕事を成し遂げ,1831年にローマで亡くなった(英語版ウィキペディア).サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ教会,サンタンドレーア・デッラ・ヴァッレ教会に彼の作品があると言うことは,私たちも見ている可能性もある.

 教会名になっている聖人の一人はサラゴサの聖ウィンケンティウスで,ディオクレティアヌス帝治下の304年にスペインでは初めての殉教者となった人物だ.

 彼はサラゴサ近郊のオスカ(現在のウエスカ)で生まれ,サラゴサで教育を受け,同地の司教ウァレリウスのもと助祭となった.ウァレリウスに言語障害があったので,彼の代弁者となり,説教も代行した.

 ディオクレティアヌスの大迫害の時,属州ヒスパニア・タラコネンシスの総督ダキアヌスの前に引き出され,司教と共に投獄され,棄教(聖書を火に投ずる)を条件に釈放を約束されたが,言語障害のある司教に代わって,それを峻拒した.その結果,拷問台に縛り付けられ,鉄鉤で傷つけられ,傷口に塩を塗りこめられたリ,鉄網で焼かれたりしたが,信仰を捨てなかった.最終的に壊れた陶器の破片を敷き詰めた牢獄に入れられ,そこで亡くなり,遺体は袋詰めにされて海に捨てられた.

 この聖人のアトリビュートは助祭服と鉄網で,これだと同じくスペイン出身の殉教聖人ラウレンティウスと区別がつかない.実際にラヴェンナのガラ・プラキディア霊廟にあるモザイクに描かれた若者はラウレンティウスともウィンケンティウスともされている.ラウレンティウスもオスカの生まれで,殉教が258年とされるので,同郷の50年近い先人と言うことになる.

 ローマで殉教したこともあり,イタリアではラウレンティウスが圧倒的な人気だが,イベリア半島においては,ウィンケンティウスはリスボン,ヴァレンシア(殉教地)の守護聖人であり,リスボンの市章にカラスが描かれているのは,ウィンケンティウスが殉教した際にカラスが彼の遺体を猛禽から守ったという伝承に基づくのであろう.アトリビュートとしてカラスが描かれていれば,ラウレンティウスと区別がつくのだが,そうした作例があるかどうかわからない.

 X型の木製拷問具(これに縛り付けられたのであろう)も彼のアトリビュートとされ,これが描かれていても,ラウレンティウスと区別がつくことになる.残念ながら,カラスと拷問具の両方が描かれた図像を私は知らないし,そもそもこの聖人が描かれた絵を,可能性が指摘されているラヴェンナのモザイクを除けば見たことがない.

 もう一人の聖人アナスタシウスは,ササン朝ペルシアの兵士で,最初はゾロアスター教徒だったが,キリスト教に改宗し,628年に殉教した.

 ペルシア王ホスロー2世に仕え,聖十字架の略取の際にペルシア軍兵士であったが,キリスト教に改宗し,拷問の末に,絞首によって殉教し,斬首の上,遺体は犬に与えられたが,犬はそれ食べなかったとされる.後に遺体はパレスティナに運ばれ,さらにコンスタンティノープル,最終的にローマに運ばれたとされる.

 イタリアでは,ウィンケンティウスと共にトスカーナ州グロッセート県のセンプロニアーノの守護聖人とされている(伊語版ウィキペディア).

写真:
カルロ・マラッタ
「聖母子と大ヤコブ,聖フランチェスコ」
1687年
サンタ・マリーア・イン・モンテサント教会
モンティオーニ礼拝堂


 サンタ・マリーア・イン・モンテサント教会(伊語版ウィキペディア/英語版ウィキペディアはサンタ・マリーア・デイ・ミラーコリ教会と一緒に立項)は,ポポロ広場に面して建てられ,いわゆる「双子教会」の一つとして知られる.

 1662年から建設が開始され,1675年に完成した,カルロ・ライナルディが設計し,ジャン=ロレンツォ・ベルニーニが改変を加え,カルロ・フォンターナが完成させた.

 堂内の説明板に上の写真の作品がマラッタ作との情報があったので,写真に収めた.右端の人物は女性のようにも見えるが,巡礼の杖を持っているので,確かに説明版にあった通り大ヤコブであろう.この絵に関してはウェブ上にもあまり情報がなく,あるいはマラッタの作品としては傑作とは思われていないのかも知れない.

 最初,私もあまり魅力的な作品とは思わず,本当にマラッタの作品かどうか確信が持てなかったが,聖母の顔にやや不満が残る以外は,立派な絵だと思うに至った.

 他には今回特に目を惹かれた作品はなかったし,「双子教会」のもう一方のサンタ・マリーア・デイ・ミラーコリ教会(伊語版ウィキペディア)は修復中で入れなかった.

写真:
サン・ジュゼッペ・ア・
カーポ・レ・カーゼ教会
右の建物は旧修道院で
市立近現代美術館


 サン・ジュゼッペ・ア・カーポ・レ・カーゼ教会は何の予備知識もなく,その存在も知らなかったが,帰り道の途中にあり,扉が開いていたので拝観した.16世紀に創建された跣足カルメル会の教会で,堂内は簡素であり,祭壇画も磔刑像もあるが,今回は特に注目していない.

 ジョヴァンニ・ランフランコの「聖母と聖ヨセフから黄金の冠を授かるアビラの聖テレサ」と言う絵があったようだが,現在はこれは修道院の方にあるらしい.

 もう一つ,この教会の前からまっすぐ下がって行く通りにサンタンドレーア・デッレ・フラッテ聖堂(英語版伊語版ウィキペディア)があり,建築の一部がフランチェスコ・ボッロミーニの設計で,堂内には本来はサンタンジェロ橋を飾るはずだったジャン=ロレンツォ・ベルニーニの天使が2体置かれている.

 扉が開いていて入ることができたし,写真を撮っても良さそうだったが,夕方の教会なので儀式が行われていたので,拝観は遠慮した.


クイリナーレ宮の特別展
 クィリナーレ宮殿の旧・厩舎で特別展を見るのは2度目で,2013年のローマ旅行の際に,ここでティツィアーノ展を見ている.会場の広さは頭に入っていた.展示作品の内容から言っても満足感の高い特別展だったと思う.英訳版の図録

 David Ekserdjian, Correggio and Parmigianino: Art in Parma during the Sixteenth Century, Milano: Silvana Editoriale, 2016(以下,『図録』)

を購入した.

 今回宣伝に使われたポスター(1番上の写真)は,パルミジャニーノ(英語版伊語版ウィキペディア)の「トルコ人の奴隷の少女」(英語版伊語版ウィキペディア)で,写真で見る限り,印象に残る絵だ.『図録』に拠れば,「トルコ人」でも「奴隷」でもないとのことで,あくまでも通称ということだろう.

写真:
パルミジャニーノ
「サン・ザッカーリアの聖母子」
1533年
ウフィッツィ美術館


 今夏は,家族で計画した南イタリアへの旅行は成立しなかったが,今まで申請しなかった科学研究費補助金を,役職上の義務感もあって,学術振興会の特別研究員に採用してもらった二十数年前以来2度目の申請し,3年間いただけることになったので,8月に一人でフィレンツェに研究出張に行った.

 科学研究費補助金は国民の税金を出所とする公的研究費で,当然,日本の人文学研究に僅かずつでも貢献しなければならず,古代末期の詩人を中心とする文学の伝統を研究テーマとしていれば,それにフォーカスした使用実績が求められる.古代の文学作品に関連して,中世の写本と,古代の石棺や彫刻を見ることが今回の研究出張の主眼だった.

 酷暑で予想以上に体力を消耗し,アレッツォとフィエーゾレの博物館と考古学遺跡には足を運べなかったが,フィレンツェの考古学博物館とウフィッツィ美術館で,古代石棺,古代彫刻を相当数見ることができた.特に,後者は何度も行っているのに,古代コレクションが充実していることに今更ながら驚いた.

 とはいえ,折角行ったのだし,朝一番に2時間並んで入館したので,ウフィッツィの中世,ルネサンス,バロックの絵画コレクションも鑑賞した.ここにも古代文化の影響を読み取ることは容易だし,それを考察することはもちろん有意義である.それらに関しても別途報告したいと思っている.

 今回,今まで見られなかったもの,注目していなかったものもじっくり見ることができただけでなく,ウフィッツィ美術館,アカデミア美術館,サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂,サン・ロレンツォ聖堂,メディチ家礼拝堂など,以前は写真が撮れなかった幾つかのスポットで写真を撮ることができた.

 したがって,ローマの特別展では写真を撮れなかったが,特別展にウフィッツィ美術館から来ていた作品については今回,写真付きで紹介することができる.上の写真の「サン・ザッカーリアの聖母子」(伊語版ウィキペディア)もウフィッツィ所蔵の作品だ.

 左の美しい女性は香油壺を持っているのでマグダラのマリアであろう.キリストに接吻しようとしているように見えるのは,毛衣を着ているので,幼児期の洗礼者ヨハネであろう.とすれば,右端の人物は,ヨハネの父ザカリアであろうか.

 この絵がなぜ「サン・ザッカーリア」の名を冠しているのか,今のところ明解な説明はない.『図録』にもウフィッツィ美術館の説明板にもそれについては明解な情報がない.

 『図録』には,左の人物が右手に持つ本に,判読が難しいが(実際に写真を拡大しても確認できない),金文字で「すべて肉なる者よ,主の御前に黙せ」とラテン語で記されているとし,これは『旧約聖書』「ゼカリア書」の2章12節であるとしている(引用した訳文は新共同訳のもので,そこでは2章17節で7ある).

 紀元前6世紀の預言者ゼカリアもイタリア語ではザッカーリアになるようなので,本当に「ゼカリア書」の一節が読み取れるなら,ヨハネの父ザッカーリアより,旧約の預言者ザッカーリアの可能性が高いことになる.

 2つ上のマラッタの絵にも古代建築が背景に書かれているが,パルミジャニーノのこの絵にも古代建築と思われるモニュメントが描き込まれている.マラッタの時代には既に平凡な背景だった古代建築も,パルミジャニーノの時代には,まだそれほど一般的ではなかったのではないだろうか.

 右上方の建築物は,ローマに滞在していた画家が実際に観たであろうコンスタンティヌスの凱旋門と思われる.

 パルミジャニーノが1503年1月の生まれであれば,フィレンツェの画家ではアーニョロ・ブロンズィーノと同年である.ブロンズィーノは11月の生まれなので,パルミジャニーノの方が先に生まれたわけだが,この時,既にフィレンツェ周辺から出たポントルモは9歳,ロッソ・フィオレンティーノは8歳,この2人の師匠かも知れないアンドレアデル・サルトは17歳になる年であったが,当然まだ画匠とはなっていないので,マニエリスムは時代の主流ではない.

 ウフィッツィ美術館所蔵のパルミジャニーノの絵では「首の長い聖母」(1534-40年)が有名だが,この作品は特別展には出展されていなかった.ウフィッツィにはもう一つ「聖母子」(1525年頃)がある.言われなければパルミジャニーノ作品と即断するのが難しい小品で,立派な作品だが,これも特別展には来ていなかった.「男性の肖像」(1530年頃)もこの天才画家の個性を超えて,肖像画の傑作と言うべき作品だが,これも出展されていなかった.

 代わりと言うわけではないが,ボルゲーゼ美術館所蔵の「男の肖像」(1531年頃),ヨーク市立美術館の「本を持つ男の肖像」(1524年頃),コペンハーゲン国立美術館の「ロレンツォ・チーボの肖像」(1524年頃)が出展されていた.いかに個性的な作風の芸術家の作品と言えども,実在の人物の肖像である以上,エクセントリックな要素は影を潜める.見ることができた限りでは,パルミジャニーノの肖像画は立派な作品だと思う.

 日本にも来たカポディモンテ美術館所蔵の女性全身肖像,通称「アンテア」(1535年頃)も出展されていた.

 『図録』に拠れば,1671年にジャーコモ・バッリと言う人物がその著書で,この作品を「恋人 アンテア」として言及したのが,そのように称した最古の例であるらしいが,作品が描かれてから130年以上後の話で,アンテアという女性は,ベンヴェヌート・チェッリーニの『自伝』とピエトロ・アレティーノの著作に登場する,当時有名だったローマの高級娼婦の名前ということで,パルミジャニーノと結びつける根拠に乏しく,あくまでも通称と言うことだ.

 同じくカポディモンテ所蔵の「ルクレティア」(1540年)も見ることができた.主題的には神話に近い歴史画なので肖像性は希薄かも知れないが,モデルがいたのは間違いないだろう.特に極端に個性的な絵でもなく肌の質感に画力を感じさせる美しい絵だ.

 1540年は画家が亡くなった年なので,最晩年の作品ということになる.何かの境地に達したという感じはせず,まだまだこれから自分の芸術を創り上げていこうという野心を感じさせる作品に思えるが,果たしてどうだろうか.

 他には,ボローニャのサン・ペトロニオ聖堂の「聖ロクスと寄進者」,ウィーン美術史博物館の「パウロの回心」(1527年)が見事な絵で,後者に登場する馬には力強さと幻想性が共存していて.パルミジャニーノの個性が発揮されているかも知れない.

 ボローニャの国立絵画館で観た「サンタ・マルゲリータの聖母子」(1529-30年)は来ていなかったが,最初期の「バルディ祭壇画」(1521年)を観ることができた.エミリア=ローマニャ州パルマ県バルディサンタ・マリーア・アッドロラータ教会(「嘆きの聖母」教会)に飾られている作品で,後に名を成した画家の若い頃(18歳)の作品としては,あまり上手とは言えず,本当にパルミジャニーノ作品かと目を疑うが,現地まで行って観ることは無いだろうと思うと,特別展で実物を観ることができて良かったと思う.

 もし,私が絵画を専門に勉強しているなら,この特別展に出展されていた多くの素描,下書きは垂涎の展示であっただろう.素人目にもその重要性は認識されたが,残念ながら感想を述べるほど熱心には見ていない.

 幾つか注目すべき素描のうち「妊娠した牝犬を抱えた自画像」(大英博物館)は最終的に完成した絵になったのかどうかわからないが,素描自体の完成度が高く,なるほど画家の画力というのは凄いなと思わされる.

 『図録』によれば素描の下部に「自らの手に拠るパルミジャニーノ肖像」とあり,長い間そのように考えられてきたが,現在は「自画像」ということに関しては支持を得られていないとのことで,「妊娠した牝犬を抱えて椅子に腰かける男」とされている.

 自画像であれば,エクセントリックな人物と言う先入観を持ってしまうパルミジャニーノのイメージが変わるが,そうではないと言う専門家の意見なので,この期待は諦める.

 哲学者ディオゲネスを描いたとされる素描も見事だ.あるいは版画作家に供した下絵だったのかも知れないが,ミケランジェロが描いたような立派な人物だ.家にしていたと言う樽,「本当の人を探し回るため」とされる手持ち燭台,プラトンを揶揄するために毛を毟った鶏など,ディオゲネスのエピソードにまつわるアトリビュートが複数描き込まれている.

 「トルコ人の奴隷の少女」でターバンを正面で止めているブローチにはペガサスの浮彫があるように見えるが,特別展にはもう1作,有翼の白馬が描かれた絵が展示されていた.「クロノス(サトゥルヌス)とフィリュラ(ピリュラ)」(個人蔵)と言う画題で,大地を取り囲む大きな河オケアノスの娘たちの一人フィリュラと愛を交わし,妻レアの目をごまかすために馬の姿になったクロノスとのことだ.

 この物語の典拠としては,古い順に,アポロニオス・ロディオス『アルゴナウティカ』第二巻1230-41行(講談社文芸文庫の岡道男訳のpp.160-161),アポロドロス『ギリシア神話』1.2.4(岩波文庫の高津春繁訳のp.31),ヒュギヌス『ギリシャ神話集』138(講談社学術文庫の松田治/青山照男訳,pp.201-202)がある.

 アポロドロスはごく簡単にしか触れていないが,3者に共通しているのは,この2人からケンタウロス(半人半馬)のケイロンが生まれたということである.クロノスが馬に変身した話は,アポロニオスにもヒュギヌスにもあるが,その馬が有翼であるとはどちらにも書かれていない.また最も詳しいヒュギヌスには,フィリュラが異形の子を産んだのを恥じ,ゼウスに願って菩提樹に変身したとしている.

 比較的マイナーな神話をなぜ,パルミジャニーノが描いたのかわからないが,彼の保護者だったフランチェスコ・バイアルドのコレクション・リストにこの作品と思われる作品がリスト・アップされているとのことで,彼の作品と考えて良いのだろう.フィリュラの姿が,ウフィッツィの首の長い聖母に似ているようにも思える.

 それよりも,「パウロの回心」にも力強い姿の白馬が描かれており,特別展には来ていないが,パルマのサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会に描かれたフレスコ画「聖ウィタリスと馬」(1523年頃)にも躍動感に満ちた白馬が描かれていて,パルミジャニーノと白馬と言うテーマはフォローする価値があるかも知れない.

 このフレスコ画のあるサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会では,コレッジョも大きな仕事をしており,パルマというエミリア=ロマーニャ州の都会を通して,年齢差14歳くらいの先人であるコレッジョと後進にあたるパルミジャニーノの接点が見られるかも知れない.

写真:
コレッジョ
「エジプト退避の際の
休息の聖家族と
聖フランチェスコ」
1517年頃
ウフィッツィ美術館


 コレッジョ(英語版伊語版ウィキペディア)は1489年頃,モデナ近郊の,現在はレッジョ・エミーリア県に属している町コレッジョ(英語版伊語版ウィキペディア)で生まれた.アントーニオ・アッレーグリと言う本名があるが,アントーニオ・ダ・コッレッジョと呼ばれ,生地が通称となって一般にコレッジョ(コッレッジョ)と称されている.

 仮に1489年の生まれとするとデル・サルトより3歳,ラファエロより6歳,ミケランジェロより14歳年下で,生まれた時には,まだルネサンス三大巨匠のうちの少なくとも2人は芸術家としての名声は確立していない.フィレンツェの初期マニエリスムを代表するポントルモとロッソ・フィオレンティーノよりもコレッジョの方が5歳以上年長である.

 上の写真の絵は,

 ルチア・フォルナーリ・スキアンキ,森田義之(訳)『コレッジョ』東京書籍,1995(以下,スキアンキ)

に拠れば,出身地コレッジョのサン・フランチェスコ教会ムナーリ礼拝堂のために描かれた祭壇画である.

 今までに観たことがあるコレッジョ作品で,この特別展に展示されていたのは,「女性の肖像」(エルミタージュ美術館,1520年頃),「本を読む男性の肖像」(スフォルツェスコ絵画館,1522年頃),「我に触れるな」(プラド美術館,1523-24年頃),「ダナエ」(ボルゲーゼ美術館,1531-32年頃),「栄光のキリストと天使たち」(ヴァティカン絵画館,1525年頃)である.

 他に,ロンドン,ナショナル・ギャラリーの「クピドの教育」(1527-28年頃)が来ていたが,これに関してはほぼ同じ絵柄の別ヴァージョンをシュノンソー城で観ている.

 初期の小品と素描を観ることできたのは貴重な体験だと思う.「授乳の聖母子」(バリモアの聖母子)(ワシントン・ナショナル・ギャラリー,1508-10年頃),「ホロフェルヌスの首を持つユディットと侍女」(ストラスブール美術館,1510年頃),「聖カタリナの神秘の結婚と聖人たち」(ワシントン・ナショナル・ギャラリー,クレス・コレクション,1510-11年頃),「キリストの聖母への暇乞い」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー,1513年頃),「契約の聖櫃の前のダヴィデ」(トリノ,個人蔵,1515年頃),「ピエタ」(コレッジョ市立博物館,1512年頃),「聖母子」(カンポーリの聖母子)(モデナ,エステンセ美術館,1517-18年頃)は制作年代の推定が正しければ,これらは全て20代の作品である.

 これらの絵を観た時に,美しく端正であると思い込んでいたコレッジョの絵の印象とは異なるものに思えた.特に「ピエタ」は,超絶技巧で観るものを魅了するコレッジョの絵と言うよりは,まるでコスメ・トゥーラのピエタを観ているような錯覚に捕らわれる.コスメ・トゥーラは言い過ぎにしても,マンテーニャの影響は広く認められているようだ(スキアンキ,pp.4-9).

 若いコレッジョの芸術家としての成長の背景を正確に知る術は私には無いが,今まで観てきたコレッジョの美しい諸作品を思い浮かべて,最も共通性を感じたのはラファエロだった.もちろん,この時代の画家だから,レオナルドの影響もあったかも知れない.

 ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画を完成させるのが1512年であれば,1534年まで生きるコレッジョが彼の影響を受けなかったとは言えないが,コレッジョがローマへ行ったと言う伝記的事実は今のところ確認できない.

 天井画のイリュージョニズムと言う意味では,コレッジョとミケランジェロの関係は考えてみたい誘惑に駆られる.ミケランジェロの天井画とコレッジョの丸天井画の違いについてはスキアンキの指摘(p.57)があり,むしろコレッジョがマニエリスムを超えてバロックの画家たちに与えた影響に関しては,多くの人が思い至るようだ.

 フェッラーラ派,ヴェネツィア派,レオナルデスキ,ラファエロの影響を受けながら暗中模索の自己形成をしていた初期と,晩年(と言っても,1534年に45歳くらいで亡くなっているので,まだまだ若かったわけだが)の構図,色彩,質感ともにひたすら美しい作品群の間にあるのが,サン・パオロ女子修道院(女子大修道院長居室装飾画),サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会(丸天井画),パルマ大聖堂(聖母被昇天)のフレスコ画で,パルマで制作したこれらのフレスコ画が,彼を偉大な芸術家にしたことは議論の余地が無いだろう.

 まだ,コレッジョのフレスコ画を観たことがない.パルマに行かなければ,多分コレッジョの真価はわからない.しかし,コレッジョ理解の出発点として,今回特別展で,初期の作品と素描を観られたのは大きかった.

 パルミジャニーノのいかにもマニエリスム的な個性に比べて,コレッジョの絵が端整で美しいだけに物足りなく思う人も少なくないかも知れないが,このルネサンスの最後の巨匠に,バロックの先取りよりも,ミケランジェロとは全く異なる個性のルネサンスの完成を見たい.

 ラファエロも,ミケランジェロも,ロッソ・フィオレンティーノも,パルミジャニーノもローマに行き,その前に夭折したラファエロを除いて「ローマ劫略」を経験し,自己崩壊の危機を味わった.それを乗り越えたのは,マニエリスムとは一線を画したミケランジェロだけだ.

 彼らに比してコレッジョは,小邑コレッジョに生まれ,小都会のパルマで活躍し,故郷コレッジョに土地を購入してコレッジョで亡くなった.

 未見だが,晩年の神話画のみならず,「サン・ジローラモの聖母子」(パルマ国立絵画館,1528年頃),「牧人礼拝」(ドレスデン絵画館,1525-30年頃),「サン・ジョルジョの聖母子」(ドレスデン絵画館,1530年頃)には,ルネサンスの古典的調和を超えた華やかさやエロティシズムを感じさせる.

 綺麗でわかりやすい絵が好きだと言うだけでは,おそらくコレッジョの真価は理解できないだろう.凡百の画家であれば,理解などできないなら,できなくても良いわけだが,コレッジョに関しては,少しでもこの画家の本質を理解したいと思わせるだけの魅力がある.これからも可能な限り,フォローして行きたい.

 コレッジョ,パルミジャニーノという,パルマがその活躍の場を提供した天才たちだけではなく,この特別展では,ミケランジェロ・アンセルミ(「井戸の傍のキリストとサマリアの女」イリノイ州ピオリア,レイクヴュー博物館,1550年頃),ジョルジョ・ガンディーニ・デル・グラーノジローラモ・マッツォーラ・ベドーリ(「アレッサンドロ・ファルネーゼを抱擁するパルマ」パルマ国立絵画館,1550-60年頃)といった画家たちの作品と素描も出展されていた.

 いずれも1490年代から1500年くらいに生まれ,パルマで活躍した画家たちで,決して上手な絵描きではないかも知れないが,アンセルミはルッカの生まれでトスカーナ出身でシエナでソドマの教えを受けたり,ベッカフーミの明らかな影響が見られるので,エミリア・ロマーニャにトスカーナのマニエリスムをもたらしたのなら,そのこと自体も興味深い.

 この特別展の副題が「16世紀のパルマの芸術」であることを忘れてはならないだろう.いまさらではあるが,ルネサンスからマニエリスムという時代的な流れと,パルマを中心とするエミリア=ロマーニャ,トスカーナ,ローマの地域的な特性について考えさせられる有意義な機会だったように思える.



(後日:未練がましいようだが,書架に,2007年の5月29日から8月26日まで,上野の国立西洋美術館で開催された特別展,

 『パルマ イタリア美術,もう一つの都』読売新聞東京本社,2007

の図録があった.私たちがフィレンツェに滞在している間のことなので,もちろん見ていないが,イタリアから帰国し,日本で買えるイタリア関係の美術展の図録なら,ブックオフ等で何でも買っていた時に,神田の源喜堂で入手し,読まないまま,書架の重しになっていたものだ.

 今回,思い出したように手に取ってみると,パルマのルネサンスとマニエリスムについて学ぶことが多いばかりでなく,ローマの特別展のコンセプトの範疇を超えた,パルマのバロック芸術に関しても,素晴らしい作品が来ていて,解説も立派だ.

 コレッジョの作品が4点(「三王礼拝」ブレラ絵画館,1516-17年頃,剥離フレスコ画「階段の聖母子」パルマ国立美術館,1522-24年頃,「キリスト哀悼」パルマ国立美術館,1524-25年,「幼児キリストを礼拝する聖母」ウフィッツィ美術館,1525-26年頃),パルミジャニーノの作品が3点(「聖カエキリア」パルマ,サンタ・マリーア・デッラ・ステッカータ聖堂,1522年頃,「聖カタリナの神秘の結婚」パルマ国立美術館,1524年頃,「ルクレツィア」カポディモンテ美術館)が展示されていたようだ.

 いずれもそれぞれの画家の成長や変化を感じ取ることができ,一つとして天才の名に恥じるものはない.ローマの特別展で知った,ミケランジェロ・アンセルミ,ジョルジョ・ガンディーニ・デル・グラーノ,ジローラモ・マッツォーラ・ベドーリ(西洋美術館の特別展図録ではベドーリ・マッツォーラ)の高水準の諸作品も展示されていたようだ.

 この特別展のすごいところは,クレモナに本貫地があって,後にミラノで活躍する,カンピ一族出身のベルナルディーノ,ジュリオ,ヴィンチェンツォのそれぞれ立派な絵が3点来ていたこと,さらに,ボローニャのカッラッチ一族のアゴスティーノ(「聖母子と聖人たち」パルマ国立美術館,1586年),アンニーバレ(「キリストとカナンの女」パルマ市庁舎,1594-95年頃,「音楽家(クラウディオ・メールロ?)の肖像」カポディモンテ美術館,1587年),ルドヴィーコ(「カルヴァリオへの道行」パルマ近郊,ペドーニア司教座付属神学校,1608-09年頃)の傑作が展示されていたこともさることながら,ボローニャのバロックを世界一の水準にしたこれらの一族以外にフォーカスがあることだろう.

 バルトロメオ・スケドーニ(英語版伊語版ウィキペディア),シスト・バダロッキオ(英語版/伊語版ウィキペディア),ジョヴァンニ・ランフランコへと焦点は移っていく.スケドーニがモデナ生まれでパルマで亡くなったのを除けば,バダロッキオとランフランコはパルマの生まれで,ランフランコが亡くなったのはローマだが,バダロッキオはパルマで亡くなっている.

 これらの画家に共通しているのはエミリア=ロマーニャのモデナ,パルマという宮廷都市に生まれ,ボローニャとローマでカッラッチ一族の影響下に芸術家として自己形成し,おそらく時代の風潮としてカラヴァッジョの影響を自分たちの画風に取り込みながら,一家を成していったことだろう.

 パルマ,エミリア=ロマーニャという枠を大きく超えたランフランコを除けば,彼らの活躍の場は,教皇パウルス3世を出し,パルマ公爵の地位を得たファルネーゼ家の宮廷を中心とするパルマという都市だった.

 コレッジョが亡くなったのは1534年,パルミジャニーノの死は1540年で,パウルス3世の息子ピエルルイージ・ファルネーゼが初代パルマ公爵になるのが1545年なので,コレッジョ,パルミジャニーノの時代にはパルマには公爵の宮廷はなかった.

 ローマの特別展にも出展されていた,ジローラモ・マッツォーラ・ベドーリの作品は,ローマの特別展図録でも,西洋美術館の特別展の図録でも「アレッサンドロ・ファルネーゼを抱擁するパルマ」という画題だったが,伊語版ウィキペディアのこの画家の項目では「アレッサンドロ・ファルネーゼとオーストリアのマルゲリータ」(ただし伊語版ウィキペディアのこの絵の項目では,やはり「アレッサンドロ・ファルネーゼを抱擁するパルマ」となってる)とされている.

 まだ少年のアレサンドロを女神アテナの姿の都市パルマが保護している絵だが,伊語版ウィキペディアが,「オーストリアのマルゲリータ」としているのは,アレッサンドロの母マルゲリータが神聖ローマ皇帝カール5世,スペイン王カルロス1世の庶子なので,寓意的女神都市パルマにマルゲリータを反映させていると推測されるが,これに関しては他に情報は無いので,判断は保留する.

 この作品に関するローマの特別展の図録解説をたどっていくと,ヴァザーリの「パルミジャニーノ伝」に辿り着く.そこには「パルマ公の奥方であるオーストリアのマルゲリータ夫人のためにはご子息のドン・アレッサンドロ公の肖像画を描いた.これは全身武装した公が地球儀の上に剣をかざし,その前にパルマの町が軍備してひざまづいている,という図である」(邦訳『続ルネサンス画人伝』p.338)という言及がある.

 これだとパルマの寓意像がマルゲリータを反映しているかどうかはわからないが,この「パルミジャニーノ伝」は,この画家に関して「パルミジャニーノの従兄」(邦訳,p.337)として,パルミジャニーノの死後の彼の活躍を高く評価している.

 「マッツォーラ」はパルミジャニーノの本姓なので,少し気になったが,ジローラモはベドーリと言うのが本姓だが,パルミジャニーノの伯父の娘と結婚し,「マッツォーラ」を名乗ったとのことだ(邦訳の訳注,p.524と英語版ウィキペディア「ジローラモ・マッツォーラ・ベドーリ」).ジローラモは,パルミジャニーノの工房におり,パルミジャニーノの死後,その遺作を完成させ,画風を引き継いだと,少なくともヴァザーリは言っているので,パルマの芸術の伝統に足跡を遺した画家と言って良いだろう.

 第3代パルマ公爵となるアレッサンドロ・ファルネーゼは後に,叔父(母の異母弟)であるスペイン王フェリペ2世に重用され,当時のスペイン領ネーデルラント総督に任ぜられ,功績をあげたが,フランスのユグノー戦争に参戦して,1592年に負傷して,戦病死した.レパントの海戦にも従軍しており,母もネーデルラント総督に任命されているので,マッツォーラ・ベドーリの絵は,まるで彼の運命を暗示しているかのようである.

 イスラムとキリスト教,カトリックとプロテスタントの宗教対立に,様々な王室,市民階級の利害対立が交錯した激動の時代に,皇帝や王の血統に属し(アレサンドロの曾祖父は教皇でもあった),中小の封建君主であるということが,相当に大変な時代だったと言うことだろう.

 アレッサンドロがヨーロッパ全体の歴史に関わる戦争に従軍している間,息子のラヌッチョ1世が,パルマで摂政として政治を行い,父の死後は,パルマにバロック芸術の花を咲かせた.

 歴史,政治,芸術の密接な相関関係は,西洋美術館の特別展の図録の説明が詳細なので,興味があれば,そちらを参照されたい.

 私個人ではとてもまとめきれないが,この図録を読んで,大変勉強になった.イタリアの小貴族が,教皇を出すことによって,時代遅れの封建領主となり,西欧世界の大きな歴史に飲み込まれ,最後はスペイン王室に吸収され,芸術作品もパルマ,ナポリ,スペインに分散する.

 優れた芸術は天才が生み出すものだが,その天才たちに仕事を与える環境は必要だ.その背景となる政治や歴史は必ずしも美しいものではないが,事実は事実として受け止めなければ,芸術を生み出した背景を知ることはできない.

 パルマという北イタリアの小都市が生み出した芸術は,イタリアの,さらにヨーロッパ全体の歴史との関わりに思いを致さずに鑑賞することはできないのだと思わずにはいられない.

 日本で開催された「パルマ イタリア美術,もう一つの都」展は,展示作品の水準も高く,しっかりとしたコンセプトを持った特別展であったことに,深く敬意を表したい.2017年1月1日記)



 3月に行った旅行の報告をまとめるのに9か月もかかってしまった.9月に予定していた旅行が成立せず,「早くまとめなければ,次の旅行が」と言うプレッシャーが無かったことが大きいかも知れない,

 8月に一人でフィレンツェに研究出張に行き,来年4月からは,特別研究期間を認められ,フィレンツェ大学から招聘状をいただき,イタリア政府からもヴィザを貰って1年間の在外研究に出る予定だ.

 前回一緒に行ってくれた家族は,昨年以降,新たに加わった2名の家族(茶トラの太郎と三毛の百合)の面倒を見るために今回は留守部隊にまわり,私一人で行くことになる.

 よって,当面,家族での海外旅行はないが,来年の秋頃,家族が日本で申し込んで参加するツァーに,私もフィレンツェから合流したいと思っている.できればテーマはロマネスクが良い.

 いずれにせよ,「フィレンツェだより」に関しては,夏の研究出張で観ることができた,考古学資料と中世,ルネサンス,バロックの遺産について数回まとめ,4月からは,また初心に帰って,フィレンツェからの見分報告をまとめていこうと思っている.1年だけだが,羊頭狗肉の「フィレンツェだより」から,本来の「フィレンツェだより」に戻ることになる.






石の文化の歴史を旅して
2016年3月,春のオルヴィエートにて